2015年4月11日土曜日

「読み比べ」というメソッド 10 ~「グローバリズムの『遠近感』」と「『映像体験』の現在」

 上田紀行「グローバリズムの『遠近感』」は、この教科書に載っている最後の評論である。ここでは、授業の様子をいささか実況中継的に記述してみよう。

 一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
 さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
グローバリズムは遠近感を喪失させる
近いことは心に響くが遠いことは心に響かない
恐らく生徒にとってこれはそれほど簡単な問いではない。生徒の解答は、いくらかの言い換えがあるものの、結局片方の趣旨しか言えていないか、二文の趣旨が単に直列されてしまうか、というものが多い。「つなげろ」ではなく「混ぜろ」だ、「代入するんだ」などと誘導しながら時間をかけて考えさせると次第に力のある者が次のような表現にたどりつく。
グローバリズムは、心に響くとか響かないとかいった感覚を喪失させる
  これはこの文章の趣旨として、きわめて的確な把握である。だがくりかえすが、こうした把握を生徒に理解させることが授業の目的ではない。生徒自身が、本文をこうして把握するようになることが授業の目的なのである。把握しようとする思考過程そのものが授業の目的を実現する手段なのである。

 続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
 最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
 「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。

   遠近感あり/なし                                          
      日本/アメリカ                                      
    工業化社会/ポスト工業化社会                              
   生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義    
      モノ/カネと情報                                    
   タイムラグ/瞬時                                          
                /メディア・IT技術、金融自由化

 ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
 二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
 これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
 対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。

「グローバリズムの『遠近感』」
   遠近感あり/なし
  生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
      モノ/カネと情報
                  /メディア・IT技術、金融自由化
   交換不可能/交換可能
  かけがえない/
       本物/複製

「『映像体験』の現在」
  実体験・現実/映像体験
   反復不可能/反復可能
   再現不可能/再現可能

  「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
 だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
 時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
「映像文化」の時代に「アウラ」が消失した。
グローバル化の時代に「遠近感」を喪失した。
  文型を揃えてみれば一目瞭然、両者が似ていることは印象として生徒にも感得される。
 さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
 同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
 コンピューター・ゲームで遊ぶ今日の子供たちは、原っぱで転げ回って風を額に受けたり、木々の香りを胸いっぱい吸い込んだりといった体験なしに、二次元のテレビ画面の中の映像とだけコミュニケーションを交わすといった子供時代を過ごしている。友達と喧嘩して体と体がぶつかり合うといった手応えある体験を知らずに大人になってゆく。「『映像体験』の現在」
 勝ち続けていたときの日本と同じく、アメリカの戦争もこれまで常に自国の外部で行われてきた。だからアメリカ人は、ゲリラを一掃しようと枯れ葉剤をまいてジャングルを破壊し、村々を焼き払うという行為がベトナムの人々にどんな喪失感をもたらすかを、想像することはできなかった。空爆で都市を破壊し尽くすことが、そこに生きる人々にとってどんな苦痛をもたらすことなのかも、自分の身に同じことが起こったらどのような状態になるのかというレベルでは感じることができなかった。「グローバリズムの『遠近感』」
 前者における、風の感触や木々の香り、友達との体と体のぶつかりあいが経験されないことは、後者における、土地や命が失われてしまう人々の喪失感に気づかないことに対応している。「複製・映像技術」は「メディア」に対応し、「二次元のテレビ画面の中の映像」には「遠近感」がない。「映像―対―現実という対立関係」はまだ人々の認識が「遠近感」のうちにあるということであり、「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく」というのは「遠近感」を喪失した現代人の認識を表現しているのである。

 もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
 さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
 シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
 結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。

  このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
 だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
  「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
 だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。

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