2014年10月31日金曜日

『魔法にかけられて』『フィッシャー・キング』

 リアルタイムで書けなかった。今週火曜日に、録画されていた「魔法にかけられて」を娘と観た。大ヒットした、あれね、とか思って侮っていたので、最初の方だけ観てやめようと思っていたのだが、いや、ディズニー、侮れない。娘と一緒に観てるというシチュエーションがまた曲者だ。こういう脳天気にハッピーなミュージカルは、一人では観る気にならないかもしれないが、誰か、しかも無邪気に面白がることに貪欲な彼女と観ると、どうにもハマってしまうのだ。いやあ、満足した。
 あとでネットでみると、低評価の人の感想はまるで共感できないわけではなく、私とてもシチュエーション次第では同じような感想を抱かないとも限らない。
 ただ個人的には、現代に迷い込んだ異邦人、というモチーフには奇妙に心惹かれるものがある。前半部に引き込まれたのにはそういう理由も確かにある。これが何を意味しているかは俄には判じがたいが、「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」で書いた「センス・オブ・ワンダー」ということかもしれない。

 もうひとつ、1991年の公開当時から気になり続けていた「フィッシャー・キング」(監督:テリー・ギリアム)を何回かに分けてようやく見終わった。ロビン・ウィリアムズの追悼特集のような放送だったんだろうが、確かに良い役者だったよなあ。映画は、PDSTの表象であるところの赤騎士に辟易した他は、細部までよく作り込まれた良質な作品だった。横から覗き込んでいた息子が「音楽の使い方で引き込まれる映画だ」と評していた。
 たぶん、悲惨なことになりそうな不安を常に感じさせておいて、それに対する希望や救いをそれよりほんの少々多めに用意しておくところが絶妙な映画なのだと思う。
 ところでロビン・ウィリアムズは「グッドウィル・ハンティング」に次いでブログに二度目の登場。そしてヒロインのアマンダ・プラマーはなんと「新しい靴を買わなくちゃ」などという日本映画に続けて二度目の登場なのだった。

2014年10月27日月曜日

「敵はリングの外にいた」

 フジテレビの「ザ・ノンフィクション」の10月26日放送「敵はリングの外にいた」をテレビ欄で見つけて、なんか気になると録画した。どうも観たい。夕飯の後に部屋に戻る前の息子とちょっとさわりだけ、とか思いつつ見始めたら結局最後まで一緒に見てしまった。面白かった。後で息子も「やっぱ、面白いドキュメンタリーって面白いんだね」と言っていた。
 女子プロレスに興味はないし、ファンだったこともない。だが同い年(だと今回初めて知った)の長与千種とダンプ松本の現在には興味があった。一世を風靡して、濃密な時間を生きていた人が、世間から忘れられたように生きる現在がどんなものか、気になった。社会問題を真剣に考えさせるようなタイプのドキュメンタリーの持っている重さってのあるのだろうが、そうではなく、ここにあるのは有り体に言ってやはり「人間ドラマ」なのだ。それを、恐らくは長い時間をかけて丁寧に取材して、その何気なくも貴重な瞬間の数々を映像に残してきたディレクターは、良い仕事をしたと思う。

 そういえば、昨日一日がかりで編集した、こっちは歴史の一断面について心に刻むべきドキュメンタリーである「Japanデビュー アジアの”一等国”」は、やはりそれだけの鋭さで生徒たちの心に跡を残したような気がするし、苦労した編集も、全編を観ている同僚に絶賛されて、昨日の苦労が報われた。ま、番組そのものはNHK(外部の制作会社?)の労作なんだけど。

「Japanデビュー アジアの”一等国”」他2題

 明日、1時限で見せるためにNHKスペシャルの「Japanデビュー アジアの”一等国”」を40分程度に編集するのに、一日がかり。戦前の台湾統治の歴史を辿ったドキュメンタリーだが、番組の方向は確かにネトウヨの餌食になることを避けられない、今や懐かしいにおいすらする左翼的なバイアスがかかっている。一面的に日本統治の負の面が描かれる。それでもこうした歴史を口頭で語ってもとうてい浸透していくとは思えないので、せめて映像とともに生徒に提示したい。視聴記録プリントまで作って、1時限のために一体、何時間費やす?

 月曜日に学校の図書室で、開架に並んでいた窪島誠一郎の「絵をみるヒントを」ぱらぱらとめくり、面白そうではないと思ってやめた、この本の後書きに水上勉の息子である由が書かれていた。
 今日、随分前から断続的に読み進めていた「生きるかなしみ」(山田太一:編)の末尾に収録されている水上勉の文章を読んだら、この窪島誠一郎のことが「生き別れになっていた息子」として登場していて、窪島誠一郎も水上勉を全く縁のない読書生活の中でこんな偶然の符合が起こったのを不思議に思った。

 録画した「東京JAZZ」のアーマッド・ジャマルのカルテットの演奏を、今日で3回目に(最初に一人で、次に娘と、今日は息子と)聴いていたら、突然腑に落ちる感覚がおとずれた。最初の時は曲の構成がわからないので、インプロビゼーションがどんどん逸脱していくと、もう何が何だかわからなくなっていた。2回目の時に、これは13分もの演奏の間、ただ4小節のテーマがひたすら繰り返されているだけなのだと気付いた。
 そして3回目の今日は、インプロビゼーションで演奏がどれほど逸脱しようとも、背後でその4小節が流れつづけているのだと思いながら聴いてみた。すると、最初の時にはわけがわからない(コード感も調性感も小節の区切りの位置も、すぐについていけなくなる)と思っていた演奏が、俄かに「わかる」ように感じられた。テーマのメロディーやコード進行をスキーマとして、逸脱していく音の距離感がつかめるようになったのだった。
 情報を枠組みに捉えることこそ「理解」という現象なのだ、という話。

2014年10月24日金曜日

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』『すべてがFになる』

 何の予備知識もなしで見始めたすーちゃん まいちゃん さわ子さん(監督:)は大いに満足。気力がなくてレビューはしないが、たぶん間違いなく原作(益田ミリの4コマ漫画)の力であるとともに、監督もキャストもこの映画の空気感を作るのに、良い仕事をしたと思う。同じレストランものといえば、前に書いた『幸せのレシピ』が連想されるが、なるほど、どちらもストーリーはどうでもよくて、細部の描き方のうまさで見せる映画だ。
 それにしても、真木よう子や寺島しのぶがうまくても今更驚かないが、柴咲コウのキャラクターがなんとも上手い造型で良いなあと思ったら、原作ではこれが主役なんだな。
 これは原作も読んでみねば。

 そういえば『すべてがFになる』のテレビドラマ版も、朝刊で突然知って第一話を予録して観たが、とりあえず原作に対する思い入れに落とし前をつけなきゃなるまい、という動機だけで期待などできるはずもあるまいという予想通り、安っぽいドラマだった。あの薄っぺらいテレビ特有の画面は、テレビマンの矜持だとどこかで読んだことがあるが、いったいそんな矜持をどうしたいというのだろう。あんな物語を日常(だがテレビドラマという作り物じみた非日常)的な画面で見せて何をねらうつもりか。とりあえず、であれ、映画的な異空間を作ってこそはじめて、あの外連味けれんみたっぷりの「ミステリー」の異空間に視聴者をもっていけるんじゃないのか。でなければ、原作の絵解きに過ぎないあんな緊張感のないお芝居を見せてどうしたいというのか。

2014年10月21日火曜日

「議会占拠24日間の記録」「台湾アイデンティティー」

 中間考査も明日で終わって、明後日からはまた授業が始まってしまう。授業自体は楽しみで、いくらでも時間がほしいのだが、この猶予に追いつこうと思っていた授業記録は結局書けないまま、授業の方が先へ進めばまた書きたいネタは生まれ出るんだろうし。もどかしい。
 歯医者の予約を入れていたんで早くに帰って、治療が済んで家に戻ると、修学旅行の事前学習用の企画を考える。台湾の学習に「台湾アイデンティティー」(監督:酒井充子)と、NHKの「Japanデビュー」と、同じくNHK・BSのドキュメンタリー「議会占拠24日間の記録」のどれをどの順で見せるか検討。「Japanデビュー」はこの週末にようやく見終わって、日本と台湾の関係を考える上では是非見せたいと思いつつ、1時限で見せることの可能な長さにどう編集するか、容易な作業ではないと保留。今日は「台湾アイデンティティー」を、これもまたようやく見終えて、しごく好意的な印象をもったのだが、編集に関する時間の見当に二の足を踏んで、とりあえず明後日向けに「議会占拠24日間の記録」で行こうと決めた。
 録画した5月に観て以来、二度目だが、やはりものすごく面白いドキュメンタリーだ。時間的にも小規模なカットでいける。テーマは台湾と中国の関係やら現在の台湾の情勢についての学習だが、何より、台湾の人々が実に素朴な「民主主義」を現実に生きていることを見せたいと思った。そこここで、学生が、市井の人たちが政治について車座になって熱く議論を交わす。こういう素朴さは今の日本では実現することが難しい。どうしたって頭でっかちの観念的「民主主義」擁護になってしまう気がする。
 だが私の感ずる「面白さ」は、そうした理念より、学生による立法院(議会)立て籠もりを、具体的に体験するように想像できたことによる。行政府への要求をどこまで貫けたら撤退するかといったリーダーの決断や駆け引き、立て籠もりにあたってのチームの役割分担など、その顛末はまるで映画のような「面白さ」だった。とりわけ、撤退を宣言してから二日間でバリケート封鎖を解いて議会場を掃除して外へ出るという学生たちの振る舞いには拍手喝采だ。それぞれが日常生活に戻っても、この24日間の経験を生かしていこうとする「成長物語」まで、どこまでも良くできた映画のようだった。
 だが「台湾アイデンティティー」も諦めてはいない。「議会占拠24日間の記録」が、ある事件の顛末を追った「映画」のようなドキュメンタリーだとすると、「台湾アイデンティティー」はさまざまな人生の断片が、さまざまな思いの強度によって語られることに引き込まれる、ドラマのようなドキュメンタリーだ。結局感動的なところは台湾という特殊な状況によるものというより、普遍的な夫婦愛や親子愛だったりもして、台湾の学習になるか? というためらいもないではないが。

2014年10月19日日曜日

「ごめんね青春!」「昨日のカレー、明日のパン」、ビッケブランカ

 このクールのアニメは「寄生獣」も2話でやめてしまったし、「四月は僕の嘘」も絵が綺麗なのは特筆すべきだが、見続けるかどうかはまだなんとも。
 それより宮藤官九郎の「ごめんね青春!」恐るべし、だ。なんなんだこのハズレのなさは。多くのドラマは、新聞のテレビ欄でいくら広告しようとも主演俳優の名前しか書いていないというのにクドカンは満島ひかりより錦戸亮よりも先に名前が掲げられる。それもむべなるかな。
 ところでこのドラマに個人的に受けた点。
 舞台が我がふるさと(の隣の隣の市の)三島市だ。どういうわけでこんな地方都市が選ばれたのか謎だ。舞台のモデルになっているのは私も併願した日大三島なんだろうなあ。三島での高校生活は結局実現しなかったが。昨日買ったばかりの「うなぎパイ」が話題に出た時には、娘と顔を見合わせてしまった。
 もうひとつ。授業のシーンでトリンドル玲奈が持っていたのは、私の関わっているあの書籍だった。エンドクレジットには協力として出版社名が出ていたから、編集部が知らないはずはないのだが、この間の会議では話題に出なかったなぁ。ところで高校3年という設定で「国語総合」はなかろう、などとは学校関係者しか思わないだろうが。

 もうひとつ、木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」は、一話の後半を録り損ねて観られなかったのだが、2話まで観たところ、すこぶる良い感じ。この良さも「ごめんね青春!」同様、まだ言葉にならない。願わくはテレビ的な中途半端なコメディっぽさや感動ものっぽさを狙った演出などせず、淡々と脚本をリアルなお芝居で見せて欲しい。それでも木皿泉的ユーモアはにじみ出るだろうし、それでこそ、この奇妙な不穏さや悲しみを背後に隠した穏やかな空気はいっそう生きるだろうに。

 You-Tubeで見つけた新人。
ビッケブランカ『秋の香り』
ビッケブランカ『追うBOY』
あまりの完成度にびっくりしたのだが、なんとなく清竜人を「Morning Sun」(Youtubeにはカバーしかないみたい)で知ったときのような予感もある。その後、興味をなくして、今は聞いていない、という。

2014年10月18日土曜日

浜松

 ハママツ・ジャズ・ウィークに一日がかり。往復9時間ほどのバスの車中の寝られること。
 日録にさえなっていない。
 

2014年10月17日金曜日

『Xファイル ザ・ムービー』『新しい靴を買わなくちゃ』

 連日の「こころ」報告がなかなかハードなのだが、実は前回までの「曜日を推定する」の後にもう3時限くらい進んでいて、その間だってまとめておきたい、残しておきたい要素はいろいろあり、去年あれだけ考え、書いたにもかかわらず、やっぱり授業をやるということはそうした机上の想定内にはおさまらない様々な思考を強いるのだった。いや、これまでも、それぞれの生徒を相手に、その時々で精一杯のものを開陳して見せていたつもりだが、いつだって次の授業は、前回の「精一杯」を超える。
 だが、中間考査をはさむので、今後の展開には猶予があるから、今日の所はお休み。

 ポリシーとしての映画視聴記録。
 「Xファイル ザ・ムービー」は、こういうジャンルが好物な私の嗜好に敬意を払って録画したが、いやあ、見終わるまでに長いことかかった。よくできている。ちゃちな感じはない。が、いかんせんTVシリーズを観ていない者が観るもんじゃないよなあ。
 「新しい靴を買わなくちゃ」は、なんだか懐かしいような切ないような気分になった。そういう気分になるのを目的とした嗜好品としてのお伽噺ということで納得しないと、ネットのレビューの低評価の人たちのように「ふざけるな」という感想になってしまうんだろうな。やっぱり。一方でAmazonのカスタマー・レビューの意外なほどの高評価もどうしたことか(ネットでは、けっこうな割合で監督を岩井俊二と勘違いしている人が多かった。岩井俊二:プロデュースに坂本龍一:音楽ってのは豪華だ。肝心の脚本・監督の北川悦吏子は、有名な有名なトレンディ・ドラマの諸作品を一つも観ていなくて、なんの思い入れもないが)。
 でも、「お伽噺」としては良かった。それと、ヒールの折れた靴、折れたヒールというのが、主人公たちの隠喩になっているという、わかりやすい構図に、とりあえず気づけたのは嬉しかった。

 ああそれにしてもレビューも面倒でできない。
 このクールで見始めた木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」と、宮藤官九郎の「ごめんね青春!」についても書き留めておきたいが、時間がとれず。だがこのままにはすまい。

2014年10月12日日曜日

別役実、佐原の大祭

 今日は「随筆」ではなく「日録」
 三連休。まず午前中から出かける。英語スピーチコンテストだという娘2を心の中で応援しつつ、娘1の関わる公演を観に東京まで。劇研10月公演。もう4回目の観劇だが、娘は今回も演出も出演もせずに照明オペレーター。
 ここまでも、文句なしと言い切れる公演はなかったが、今回も満足のいく舞台にはならなかった。別役実ってのは期待したいような不安なような、と思っていたが、結局なんだかなあ、という感想に終わった。もちろん(というしかないような)、わけのわからんお話だが、まあそれはすっきりとわかるような話を期待しているわけではない。それでも、辻褄がわからないまでも伝わるべき感情や不条理感がちゃんと伝わればいいんだが、それよりも必然のわからない激情が全面に出て、それで観客を徒に脅しているような絶叫系の演技に出演者が中毒(「依存症」という意味で)しているんじゃないかという疑いを消せなかった。30年くらい前の脚本だそうだが、どうしてまたこれを選んだのやら。次回に期待。
 一旦水道橋まで戻って会議だが、時間が早すぎるから新宿で時間をつぶそうとしてしばらくウロウロしたが、結局どこに居場所を見つけられるでもなく、とりあえず向こうに行ってからドトールででも時間を潰そうと電車に乗ったドアの正面に会議の出席者が座っていてびっくり。新宿駅でこんな偶然ってある?
 夜の会議と飲み会の後でもう一度、娘のアパートまで行って泊めてもらう。舞台の感想やらその他もろもろをお喋りしているうち深夜が更ける。

 朝は、公演最終日に出かける娘に邪魔にならないくらいに先んじて出て帰る。が、約束があったのでそのまま佐原まで。佐原の秋の大祭の三日目、最終日。
 東大の大学院に在籍中の前任校の卒業生、卓が、佐原高の生徒との合同プロジェクト「さわら まちづくりプロジェクト(SMP)」の活動拠点である「さわらぼ(さわら&ラボラトリ)」を見に来いと言うので、一度は佐原高の文化祭の時に行きそびれたが、今度こそは実行。
 東大のサイト
 佐原高のサイト
 facebook
 評価は保留。感想も微妙。私などがちょっと見てどう思おうがどう言おうが、これから現実に起こる事だけがその成果なのだから、今の段階で門外漢が期待も失望の予感も語るまい。ただ、人の繋がりができていく不思議さに感じ入るところはあった。たとえば私がこの先この活動にどんなふうに関わらないとも限らない。それを拒否するものでもないし。そうなったときにまた、いくらか感じたことがあればあらためてそれを言おう。
 偶然居合わせた私に長いことつきあって、祭やら佐原の歴史やらについていろいろと興味深いお話をして下さった、ほぼ私の父親世代の小高さんに感謝。卓が相変わらず飄々としながらもエネルギッシュで凄いなあと感嘆させられたのも嬉しかったし、もっとじっくりと研究のことなど話したかったが、それはまた後日。
 「さわらぼ」にいるあいだに、前任校の卒業生が通りがかって、気付いてくれた向こうが話しかけてくれた偶然にも(学校と佐原の距離はそうとうなもんだから)驚くとともに嬉しかった。
 大祭の盛り上がりは外部の者には近寄りがたいものがあって、以前は当事者たちの「ヤンキー」っぽさに眉をひそめたくなってしまったものだが、やはりこんなふうに外部から安易な感想を言うのは無責任というものだと思う。それより今日は、こんなふうに子供たち、少年、青年、壮年、老年と各世代が一緒に大掛かりなイベントに関わるなかで、それぞれに上の世代の振る舞いから「世間」とか「社会」とかいったものへの参加の仕方を学んでいく共同体のありようが、そういう関係性を持たない新興住宅地でしか暮らしたことのない私などにはとても貴重でうらやむべきものに感じられたのだった。


 

2014年10月9日木曜日

続 アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 予告した「ハイキュー!!」讃の続きを書く。

 前回分析したように、まずは相手方の高度なプレーを描いて敵の「凄さ」を感じさせておいて、次は、その実力差をひっくり返す可能性のあるこちら側、主人公のプレーをどう描くか。
 先述の通り、主人公の一人、日向の武器は爆発的な瞬発力を生かしたワイド・ブロード(広範囲な移動攻撃)なのだが、これも、毎度同じようにアニメ技術だけでそのスピード感や力感を描くだけでは「凄さ」のインフレを起こしてしまう。どうするか。
 まずは後衛にいるとほとんど戦力にならない日向が前衛に回ってくる期待感を、敵のキーマン・及川の「不安」として描く。ローテンションによる日向の前衛交代を「ああ、いやだ」と迎える及川の目からは日向が「ウォームアップ・ゾーンでフラストレーションを溜めた小さな獣」と表現される。そうしたナレーションに被る日向の表情は静止画で描かれ、コートに入る喜びに、憑かれたような白目がちだ。
 こうして期待を高めた上でのお約束のブロードなのだが、これも、単に決めたのではそれこそ「お約束」になってしまうだけだ。だから、ここぞというときには特別な見せ方をしなければならない。今回のアタックでは、例によってスローモーションを交えた緩急のある描写でダイナミックスを感じさせた上で、そのあまりのスピードにブロックが付いて来られないばかりか、相手コートに突き刺さって大きくバウンドした後に、登場人物の何人かのバストショットに息を飲む音声を被せるだけの静止状態を描いて、たっぷり間を取ってから体育館内が一気に歓声に包まれる、という演出で見せるのである。
 もちろんこれとても、そう何度も使える演出ではない。今回限りの使い捨ての覚悟で描かれた演出かもしれない。ともあれ、この「神回」ともいえる23話では、このようにして敵のプレーと主人公側のプレーのそれぞれが、高いレベルで拮抗する「凄さ」を、観る者に感じさせて始まるのだった。

 「ハイキュー!!」はまた、何というか「文学的」なマンガだ。優れたスポーツマンガが文学的になる例は、先述の「ピンポン」も、ひぐちアサの「おおきく振りかぶって」も、新井英樹の「SUGER」も、坂本眞一の「孤高の人」(登山がスポーツかどうかは微妙だが)も、決して類例がないわけではないが、「少年ジャンプ」に載って少年少女に広く読まれているこの作品が、このレベルで「文学」なのは喜ばしいことだと思う。
 スポーツマンガが「文学」であるかどうかは、つまりそれがどれほどスポーツという行為や戦いの意味について、その競技の本質について考察しているかにかかっている。そしてそれを語る言葉が、何というか「文学的」なのだ。
 例えば、この23話でいうと、ラリーの続くシーソーゲームに被せて、応援に来ているOBが次のように語る。
 バレーは、さ、とにかくジャンプ連発のスポーツだから、重力との戦いでもあると思うんだ。囮で跳び、ブロックで跳び、スパイクで跳ぶ。さらにラリーが続いて、苦しくなるにつれて思考は鈍っていく。ぶっちゃけ、囮とかブロックはサボりたくなるし、スパイクも誰か他のやつ打ってくれって思ったこともある。長いラリーが続いたときは酸欠になった頭で思ったよ。ボールよ、早く落ちろ。願わくは相手のコートに。
こうして、観る者(あるいは原作の読者)は、そのラリーを体験する選手の内面に心を重ねていく。こうした心理描写と、なおかつその客観的な考察が、プレーを観る者の思考のレベルを引き上げてくれる。

 それでもやはり厳然と実力差はある。マッチポイントに向けて、じりじりと引き離されていく。むしろ観る者の期待を高めた上で、ここぞというときに主人公のアタックもブロックされる。
 ここで「流れを変える」ためにコーチのとった作戦はピンチサーバーの投入である。コートインするのは試合には初出場の控えの一年生。もちろん彼が個人的に練習時間後にサーブを習いにOBを訪れるエピソードが、以前の回で描いてあってこれが伏線となっている。だがそのサーブはまだまだ決定率も低く、習得過程に過ぎない。はたして物語はこの交代をどう決着させるか。
 まず交代するサーバー本人は意気揚々とコートインするわけではない。それどころか、重要な場面での突然の抜擢にすっかり萎縮している。コートに入る瞬間も、たっぷり間を取って描かれる。白線をまたぐ逡巡を「この線の向こうは違う世界だ」というナレーションとともに描いてから、コートに入った瞬間、熱気が彼の顔を襲い、髪が後ろに流れる「心象描写」が続く。コートに立つ味方も敵も、揺れる炎を背景にして険しい顔をしている。
 だが一方で彼の緊張を描くばかりではない。実はコートに立つチームメイトもまた、初出場の彼の緊張を痛いほどわかっていて、その緊張に感染してしまっていて、だがそれを表には出すまいとしているのである。前述の「険しい顔」は、視点を変えてみるとまったく違った意味合いであったことが明らかになる。
 だがその緊張を彼に伝えまいとみんな必死に平静を保っている。彼の緊張を和らげようとするベンチの控え選手の気遣いや、それでも緊張の余りサーブゾーンでボールをバウンドするうちに自分の足に当てて、コート外にボールが転がってしまう痛々しさを描いてから、またしても先述のようなナレーションによって、この場面でサーバーとして立つことの重みを分析してみせ、観る者の感情移入を促す。
 さて、このサーブは成功するか否か。果たして本当にサービスエースが描かれるのか。
 もちろんこれが反撃のきっかけとなるべく、劇的な決定をさせるという展開もあるだろう。やはりここでもやっぷり間を取って、スローモーションを交えた描写でボールトスからジャンプ、そしてフローターサーブのボールが無回転で飛ぶ様子が描かれる。
 だがこのサーブは、ここまでの期待をまったく無視してネットにかかるのである。ここでも先ほどと同じ、コート内に静止した一瞬をつくって、この結末に呆気にとられる観る者の心情を掬い上げる。
 現実的には可能性の高い展開ながら、これは物語的には、アリなのだろうか? もちろんこの場面で期待に応えられなかった一年生の情けなさと悔しさと、そこから前に踏み出す心理的なドラマを描いてはいる。「すみません!」と謝る彼に、キャプテンの三年生が「次、決めろよ」と声をかけ、彼が泣き顔で「はい!」と答える。観客の女の子が「ピンチに突然出されて、失敗すると引っ込められちゃうんだ」「なんか可哀想…」と呟くのに答えて、くだんのOBが語る。
「ピンチサーバーはそういう仕事なんだ。その1本に試合の流れと自分のプライドを全部乗っけて…、そんで、タダシは失敗した。でも、今ここで自分の無力さと悔しさを知るチャンスがあることが、絶対にあいつを強くする。」
いささか通俗的ながら、やはりきわめて「文学的」である。
 だが、ゲームの展開としてこれでいいのだろうか? ピンチサーバーの投入の失敗で、さらに事態は悪化したのではないか?
 そうではない。彼の緊張にシンクロしていた選手が、この失敗によって緊張から解き放たれて、もう一度集中力と闘志を新たにするのである。「流れを変える」という当初の目論見はこうして逆説的に果たされたのである。

 緊迫した点の取り合いが、テンションの高い描写で続く。こぼれ球を足で拾ったり、レシーブに必死で顔からコートに突っ込んだり、快哉を叫んだり、歯ぎしりしたり。
 それでも相手の総合力の高いことが、遠ざかる及川の背中に手を伸ばす心象描写で描かれる。得点するとすぐ届きそうになるが、相手のアタックが決まってマッチポイントになった瞬間、届かずに宙を掴む。万事休すか?
 相手の速攻を肩口で弾いたボールがふわりと相手方コートに上がる。相手のチャンスだ。ネット際で待ち構える及川が、ダイレクトで押し込もうとジャンプしてくる。コースをコントロールされては、防ぐ手立てはない。スローモーションで及川の手にボールが近づく。
 だがこのシーンは前に観たことがないか?
 そう、及川の手と、そこに近づくボールの間に、下から差し込まれるのは、主人公の一人、セッターの影山の必死に伸ばした片手である。相手方コートに入るボールをワンハンドトスで自陣に引き戻す瞬間、及川の背中に再び手が伸びるイメージが挿入される。
 そしてかろうじて上がったボールに、影山の背後からせり上がってくるのはもう一人の主人公、日向の姿である。コートに落ちていく及川と影山のアップを挟んで、日向の体が画面手前に膨れていく。そしてもう一度、及川のユニフォームの背中を、今度こそ鷲摑みにするイメージが力強く挿入され、そこからはスピードを戻して日向のスパイクが相手コートに突き刺さる。
 ここで、冒頭のプレーが攻守を入れ替えて反復されるのであった。
 そうくるか!
 画面の中の会場の人々とともに、リビングの私と娘も歓声を上げている。
 なんともはや、見事な物語であり、それを高いレベルの演出と作画で見せる見事なアニメーションである。

 こうして長々と書いてきたが、これでも、正味18分ほどのこの回の物語の興趣の全てを掬い上げているとはとても言えない。まだまだ語り足りぬ面白さを横溢させているのである。これを観ている体験を再現しようと思ったら、たぶんまるまる「小説」として書いてしまうしかないような気もする。
 もちろん一方で小説として読むことはこのアニメを観るという体験とは別の体験を読者にさせるに過ぎないのだが。だからブログとしてはその体験を分析し、考察を加えてその面白さを伝えようとしているのだが、果たしてその目的は達せられたのだろうか。

 とまれ、とりあえずこの2本の記事を、「ハイキュー!!」鑑賞における同志である娘に捧げる。

2014年10月7日火曜日

ものんくる

 ものんくるのメジャー第一弾『南へ』が、発売前から予約をしていたAmazonから届いた。実は前作の『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のAmazonのカスタマー・レビューは私が第一号で、長らくレビューはその1本しかなかったのだが、さっき見たら2本になっていた。『南へ』も第一号になってやろうと狙ってはいるが、その前にとりあえず聴かねば。とりあえずざっと流して、「良い」とは思うものの、そこそこ読めるだけの感想を言おうとなるとちょっと時間がいるなあ。
 発売されたばかりで、Windows Media Playerで聴こうとすると、まだデータベースにCD情報がアップされていないから曲名が表示されない。そこまで発売ほやほや。

2014年10月6日月曜日

発見(マゼラン的な意味で) Polaris,Predawn,strandbeest

 本屋や図書館は情報が整理されていないから偶然の出会いがあるが、ネットは関心のある情報しか提示されないから、新しい情報に出会わない、といった類の言説を耳にすることがある。昨日、息子の小論文のネタになっていた朝日新聞論説委員の清水克雄の文章もそういう趣旨だったし、今日読んだ黒瀬陽平の文章もそうだった。
 どうだか。
 紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
 確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
 新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?

 ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。

 昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
 たとえばこういうの。

 Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
 さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。

 これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
 北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
 こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
 こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?

 今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
 Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。

 台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?

2014年10月5日日曜日

アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 この9月までの1クールで見ていたアニメは「残響のテロル」と「ばらかもん」だが、それだけでなく、その前のクールからの引き続きで見ていたのが「ハイキュー!!」である。
 4月に新番組が次々と自動的に録画されていくうちに(ハードディスクレコーダーをそういう設定にしてある)、その一つとして録画されていたのが「ハイキュー!!」だった。
 そういう新番組は、片っ端から冒頭の所を見て、特筆すべき特徴のないもの(美少女やイケメンがわらわら出るような学園物やファンタジー)を、ばさばさと消していくのだが、「ハイキュー!!」も、それが「配給」でも「High-Q」でもなく「排球」のことだとわかって、特にスポーツ物を見る動機もないから、即座に消そうとした。
 だがその瞬間、一緒に新番組チェックをしていた娘が「待った」をかけた。彼女はその、「少年ジャンプ」連載のマンガであるところの原作を知っており、予め見る気でいたのだった。一瞬の遅滞でもあれば、ボタンを押して消してしまうところだった。すんでのところで消去を免れた第一話を娘と見ているうち、これは悪くないと、当面様子をみることにしてから半年、結局近年、最も面白いアニメであるという評価で最近放送を終えたのだった。

 原作はちょっとしか読んでないので評価できないのだが、もちろんこういうのは基本的に原作が良いのだろう。原作を超えるアニメはほとんど存在しない。あれほど素晴らしかった「ピンポン」も、その出来に感心して原作を読み返してみると、決して原作を「超えて」はいないのだった(もちろん松本大洋のあの原作のレベルに匹敵するようなアニメを作ったということ自体、湯浅政明をいくら賞賛してもしすぎることはない)。
 だがアニメ版「ハイキュー!!」が素晴らしいことも間違いない。ほとんど毎回、娘と見ていて歓声を上げてしまう場面があり、その回の放送を見終わると「いやあ、面白かった」と言わない回がほぼなかった。アニメーションとしての作画や演出がきちんとあるレベルを保っていないと、こうはいかない。
 たとえば、しばしば感心するのはボールの動き。手前に飛んでくるボールの大きくなるスピードと画面上を移動するスピードで、ボールが飛んでくるスピード感が表現されるんだろうが、これがリアルなのである。また、ボールの回転によって軌道が変わる様子もリアルだ。フローターサーブの、回転が止まって軌道が揺れるところなんかも実にうまい。ボールの表面の凹凸も丁寧に(たぶんCGで)描き込まれている。
 あるいは主人公、日向の特長である瞬発力が観る者にきちんと感じ取れるのも優れたアニメ技術ゆえだ。たぶん、単純な画面に対する横移動だけでスピードを表現しようとしたのではあのダイナミズムは出てこない。画面の奥行きに対する移動、基本的にはカメラに接近する動き、つまり対象物(日向の体)の膨張スピードと、決めポーズで静止するタイミングが適正にコントロールされているから、そのスピード感を実感して観る者の意識が一瞬で引きつけられてしまうのだろう。
 だがこうしたアクションのレベルの高さは、SFでもバトルものでも、感心するようなものが少なくない。先日批判した「残響のテロル」も、アニメーションとしてはよくできていた。だからやはり「ハイキュー!!」の素晴らしさは基本的には物語の持っている強さに拠るのだろう。娘と二人、最も熱狂して見終えた第23話「流れを変える一本」(9月7日放送)を例に考えてみる(すぐにでも書こうと思って、もう一ヶ月も経ったのだが)。

 物語は県大会の三回戦、練習試合の経験のある因縁の相手との試合は1セットずつ取ってのファイナルセット終盤を迎えている。結局は準優勝することになる相手校は強豪といっていい。ラリーが続くとじりじりと実力差が表れる。
 この、「実力差」や「強さ」をどう描くか。現実には「強さ」は総合力の差だろうから、単にこちらがミスするか相手のスパイクが決まるかだ。だがそうして相手が得点するというだけでは何ら劇的な要素はない。だから、何らかの形でその強さが「特別」であることを示さなくてはならない。そこで、冒頭から次のようなプレーが描かれる。
 味方サーブを、後衛に回った敵方のキーマンであるところのセッター・及川がレシーブする。このボールをリベロが上げ、それを及川がバックアタックで決める。
 このプレーが強い印象を与えるのはなぜか。まず及川がレシーブをしたということは及川自身がトスを上げることはできないから、このプレーでは相手方には強い攻撃ができず、こちらのチャンスであるという観る者の期待を、直後に及川自身のスパイクが打ち砕く、という、観る者の感情を上げて下げる力学が効果的に働くことに拠るのである。
 さらに、トスを上げるのがリベロである点にも仕掛けがある。ここでコーチが、素人である顧問教師に向かって解説する(この設定も巧みだ)。リベロはアタックラインの前でオーバーハンドのトスを上げてはいけないというルールがあるのだが、このプレーでは、リベロはラインより後ろで踏み切って空中でトスを上げているのである。「咄嗟にハイレベルな攻撃ができる」「これが強豪…」。
 次のプレーの描写も見事だ。
 味方のスパイクに対する相手のレシーブが、ふわりと味方コートに戻ってくる。レシーブボールが敵側にまで返ってしまうのはむろんミスだから、レシーバーの「しまった」という表情が写され、ボールが上がったところからはスローモーションになる。チャンスである。ダイレクト・アタックを決めるべく、主人公・日向がネット際に跳ぶ。日向のジャンプに「押し込め!」という味方の声が被さる。ネット真上の天井からのカメラワークでボールへ向かう日向の手がボールに近づくのにつれて高まる期待に、ボールに届く直前に、画面下から浮上して、日向とボールの間に挿し挟まれる及川の手が影を射す。及川の手がボールを自陣へ戻すと同時に再生スピードを戻して、後ろから跳んだアタッカーがスパイクを決める。及川の手がボールを自陣に引き戻す時には、スローモーションであるという以上に「ため」のある描写によって、直前の期待を裏切るその一瞬を最大限(しかし間延びしないタイミングで)見せておいて、決着は一瞬で見せる。この緩急の切り替え。
 二つのプレーのどちらも、実際の試合の中では起こる頻度の低い、だが不可能ではないプレーである。いわゆる「必殺技」的な物理法則無視のスーパープレイではない(「リンかけ」の「ギャラクティカ・マグナム!!」的な)。こういう、作者の経験によるものか、丹念な取材によるものか、実に貴重なネタを冒頭に並べてみせ、その醍醐味をアニメーションが十全に描ききってみせる。
 そしてこのプレーの直後に、日向をアップにして、微かに嬉しそうな顔で「すっげえ!」と言わせるのだ。期待はいやが上にも高まる。
(今晩は限界なのでここまで。以下次号