2026年10月22日木曜日

『モネと時間旅行』-時間旅行

 戦後、誰も住んでいない屋敷とその敷地を再開発のために自治体が買い取りたいというので、家主の子孫が一堂に集められる。面識も交流もない親戚同士から、代表4名が、80年ぶりに屋敷に入る。入ってみると壁一面の写真と、印象派らしき絵画を発見する。これが予告編でもわかるとおりクロード・モネのまだ知られていない絵画だったいうのが顛末なのだが、その事情を調査をする現在編と、それを現在進行形で語られる過去編が交互に展開する。

 序盤から、これは良い映画だという手触りが始終感じられて心地良い。親戚代表の4人のそれぞれの人生が次第に交差していくドラマと、そこに100年以上前に生きた家主のドラマが重層する。さまざまな苦さと喜びが重奏する。

 その切り替えは映画的楽しさに満ちていて、例えば100年前のパリの街角でヒロインが角を曲がって姿を消したと思うと、直後にその陰から現代のジョガーが姿を現す。こんなことはパリだからできるのだろう。東京ではこんなことができる街角が見つかるかどうか。

 細部までよく考えられていて、弛緩したところがない。親戚のZoom会議で一人が猫のアバターになっていて、孫娘が設定したのだが直し方がわからない、などというユーモアもちりばめられている。カメラの切り替えがわかって現れたのは怒りっぱい老人だったりするのもユーモラスだ。

 100年以上前に懸命に生きたヒロインと、これまたそれぞれに人生を生きるその子孫たちの悲喜こもごもが、最後には幸せな気分にさせてくれる良い映画だった。


2026年10月21日水曜日

『神回』-頭の悪い

 とりあえずループものだということは紹介でわかっている。夏休みの教室に高校生の男女がいて、午後の1時から5分間がループする。

 ここでも脱出のための試行錯誤が繰り返される。だがこれがあまりに頭が悪すぎて不自然極まりない。そんな錯誤に満ちた試行は、それ自体を楽しんでしまうのでなければ実行したりしない。グラウンドに素早く到着するために校舎の3階だか4階だかから飛び降りてみるなどというのは、一回試してだめなら繰り返したりしない。痛いのは記憶されるのだし。それが狂気として描かれるわけではないから、これはどうにも頭の悪い映画なのだと序盤で思われる。

 終盤、結局このループが何なのかという種明かしも、感動的に見せながら何も腑には落ちない。そこで長々と見せられる老年の役者二人の演技がどうにも素人くさいのも痛ましかった。

 それでいて校舎とかグラウンドとか教室の机だとかにプロジェクションマッピングのように映像が映される終盤のシーンが、何だか映画的に良さげに見えるところが腹立たしい。

 死に際の老人が高校時代の一場面を繰り返し見ているという設定はいい。それが「人間」を描くどのようなリアリティも持てずに、何となく映画という非日常の空気感だけを描ければいいと考えているような映像作家に、多くの人手と金が費やされているかと思うと無残。


2026年10月16日金曜日

『パーム・スプリング』-再鑑賞

 ループものということで観直してみる。よく考えられた脚本で、やはり楽しい。いろんな感情が味わえる。これは劇中の台詞のパクりだ。

 ループを堪能して、そこからの脱出に努力して、脱出したところで一息の安心感が実に心地よい。


2026年10月13日火曜日

『室井慎次 生き続ける者』-中身のない

 今頃の新作が公開されているので、テレビシリーズから劇場版まで、大放出の再放送。テレビシリーズの第一話を初めて見たりした。

 劇場版は第一弾が面白かったのだが、記録的ヒットの第二弾はそれほど、と当時思った。テレビといい劇場版といい、どれも微妙に面白く、どれもそれほどでもない、という程度の品質で揃っている。

 本作はキャラクターとして好印象の室井を主人公にしたスピンオフだから、それなりに好意的に見られるかと思ったが、実に何も中身のないお話だった。ひたすら柳葉敏郎の苦虫噛み潰した顔芸で持たせる。その挙句に、どういう必然性もなく死んでしまう。愛着があればそれも感動的なのだろうが、そこで感動させるのは安易に過ぎるとも言える。


2026年10月12日月曜日

『遺書、公開』-再鑑賞にて

 『幸せカナコの殺し屋生活』第2シーズンの新キャラクターで笑わない少女を演ずる鈴川紗由が気になって、出演作を調べてみたら、これに出ているという。どの子だったかと観直してみるとなるほどちゃんと存在感があるのだが、キャラクターや髪型は変わっていて結びつかなかった。ついでに『御上先生』にも出ているのだが、こちらはまるで目立たない(ついでにここで高石あかりと同じクラスメイトになっているのだった。そして高石あかりは『ベイビーわるきゅーれ』で殺し屋を演じ、鈴川は『幸せ』で殺し屋になる)。

 そのまま全編観直してしまったのは、これはまた改めて見てみると、それぞれの登場人物を細かく映す演出が実に丁寧であることに感心したからだった。それぞれの場面でそれぞれの人物にどういう感情が生じているかを実に丁寧に掬い上げている。高石あかりを初めてとする役者陣がうまいということもあるが、基本的には演出がよく考えられていて的確だからできることでもある。あらためて確認すると監督の英勉は『幸せカナコの殺し屋生活』の演出でもある。

 さて、あろうことかもう一晩、まるまる観直してしまった。これはマンガ原作をどうシナリオ化しているのかが気になったからだった。原作本を片手に、時々はマンガを読み進め、ある程度進んだら映画を再生し、止めては読み進め…。

 教室を舞台にした会話劇ということで、これを文化祭向けの舞台劇に書き下ろせないかと考えていたのだった。この、すさまじく面白い物語を適切に戯曲化して、的確に演出すれば、面白い舞台劇になることは間違いない。

 だがしかし、ただちに実現を考えるには一点、ハッピーエンドでないところが玉に瑕ではある。映画も原作も同じく、人の悪意を最後のオチに使っていて、文化祭に向いているとは言いがたいところがためらわれる。


2026年10月11日日曜日

『幸せカナコの殺し屋生活』-軽く

 前のシリーズが楽しかったので、これも家族で一気見。

 基本的にはのんの脳天気ぶりが楽しいのだが、それでいて殺し屋としては高い戦闘力を発揮する無敵ぶりが安易な快楽ではある。

 4コマ漫画が原作とは思えないストーリーテリングに発展するのは前作同様。登場人物が増えてきて、それぞれのキャラクターとのからみにそれぞれの微妙な面白さが生ずる。


2026年10月2日金曜日

『リバー、流れないでよ』-アイデア満載

 『ドロステのはてで僕ら』に続くヨーロッパ企画の映画。そしてこちらもタイムループもの。『ドロステ』はループしているわけではないが、同じ場面が繰り返されたが、こちらは完全にループする。

 『ドロステ』では驚異の全編ワンカット(に見える)ところが一つの売りではあったが、こちらも、このループ一回分が毎度ワンカットで撮られているところが楽しい。舞台となる旅館を周辺と館内、縦横無尽に移動しながら物語が展開する。スピーディーで賑やかな展開に飽きない。

 そしてループものと言えばどうやって脱出するかだ。試行錯誤が繰り返され、そのたびにループの中身が変わるバラエティに富んだバリエーションのアイデアが楽しい。だが繰り返しが2分というのは短すぎないか、というのが少々不満ではある。実際、どうみても2分以上の展開だろうというバリアントもある。

 まあどうでもいいともいえる。5分くらいなのだと言ってもまるでかまわない。それにしては短い回もあるじゃないかという突っ込みが生じるが、ループ全編を描かないということにしてしまえば5分くらいにしておけばよかったのでは、という気もする。

 それでもその短い繰り返しの中でいろいろな事情が明かされていく。物語は展開していく。そして最後は満足の大団円で終る。見事な脚本だ。

 ただ、ループから抜けた途端にカット割りして「普通の」映画っぽくなると、ちょっと面白さが後退する。やはりこの映画の楽しさには、ワンカット撮影の工夫というのもあるらしいのだった。

 ということでシナリオも撮影もアイデアに満ちた、実に面白い映画だった。


2026年9月30日水曜日

第3クールのドラマ

 『スピナーベイト』

 『オッド・タクシー』の此元和津也の原作だというので観始める。『シナントロープ』の登場人物が二人と『最高の教師』の加藤清史郎が揃って、不穏な雰囲気と先の読めない展開に引っ張られる。面白いドラマだったとも言えるが、後味はあまり良くないまま終わったのが残念。

『一次元の挿し木』

 キャッチコピーに掲げられた謎は、小説の宣伝の時から魅力的だと感じていた。その回収はそれなりに満足だが、いかんせん、主役の山田涼介が一貫して深刻な顔をし続け、時々は叫び、周囲の登場人物も大体においてそんな感じで、観続けたいという意欲が湧かなかった(が、なんとか最後まで見届けた)。キャストは豪華なのだが、面白くなる見通しはあったのだろうか。

『さよならノワール』

 おそるべき多作家、井上由美子の脚本は、さすがに特別な面白さとは言えないものの、演出も含めて、耐えられないようなくだらなさもない。それよりも小池栄子の演技があまりにうまくて、それだけで観られる。北香那はそもそもADHDっぽく設定されているから、そのぎこちなさはかえって納得できてしまう。二人のバディぶりが見事な刑事ドラマだった。

 シーズン1の低評価で、超話題作の『VIVANT2』は観ていない。


2026年9月26日土曜日

『殺人鬼から逃げる夜』-サスペンスはあるが

 聾唖のヒロインが連続殺人鬼から逃げ続ける一夜の物語。

 音が聞こえないから重要な情報を聞き逃すという設定がサスペンスを生む。殺人鬼が近づく気配も、聞き逃してはならない会話も聞こえない。ただし、何か音がなっているとインジケーターが上がるセンサーを自宅の玄関や車に付けていて、それが凶事の予告をヒロインばかりか観客にも伝える。サスペンスを生じさせる工夫としてうまい。

 同じく殺人鬼の被害者になりかける女性の兄がヒーローとして配され、堅物の屈強な元海兵隊ということで頼りになりそうだと思っていると、意外なほど間抜けで頼りない。ここは脚本の失敗なのか、意図的なのかよくわからない。ただもどかしい。ヒーローの活躍に快哉を叫びたい観客の期待は裏切られる。

 それでもヒロインの健闘に引っ張られて観続けてると、決着の手段はひとひねりされていて、これが売りであることは予告編からもわかる。

 ただ、そこから殺人鬼を退治するのがヒーローではなく警察であるのはやはりがっかりではある。あくまで彼に活躍させるつもりはないということなのか、やはり脚本の失敗なのか。さらに、その射撃のリアリティが欠けているのはがっかり。プロは、仲間が対象を取り囲んだ状態で発砲しない。ましてその外側に観客が取り囲んでいるのに、発砲することはありえない。

 そんなふうにがっかりな決着を最後に見せられるのは残念。

2026年9月25日金曜日

『フロッグ』-佳品

 高評価だったことは覚えているが、物語の帰趨についてはちっとも覚えていないので、見放題終了にあわせて観直してみた。

 いやこれはなるほどよくできている。物語の同じ場面を別の登場人物の視点から描き直すという設定はいつも楽しい。

 女の子を死なせなくてもいいのに! という不満はあるものの、ドンデン返しも、伏線回収も文句のない、よくできた脚本を手堅く演出した佳品。


2026年9月23日水曜日

『バックルームス』-結局トラウマ

  予告編から期待大だったが世間的にも大いにヒットしていて、これは体験として劇場で見てもいいかと思った。

 終始怖かった。音のせいでもある。通奏低音が長く鳴り続けている。キャッチコピーの「脳を侵食する」って、映画のコンセプトによってではなく、物理的・生理的にかい、と突っ込みたくなる。

 ジャンプスケアもある。だから気が抜けない。空間がテーマだから、いったんバックルームに入ると、いつ何が起こるか、出てくるかと緊張が抜けない。あそこの陰が、背後が、怖い。ホラーとしてはこれは常套手段だ。

 さて、だが怖さを求めているのではない。リミナルスペースという奇妙なコンセプトに「脳を侵食」してほしいと思っていたのだった。これに惹かれるのは、ディストピアものの、人のいなくなった街とか、廃墟とかに惹かれるあの感じに似ているようにも思える。

 だがこの期待は十分には満たされなかった。空間のデザインが不自然だという序盤の指摘は期待通りだったが、それが結局は記憶を不完全にコピーしたせいだとか、説明されてしまう。謎であるべきリミナルスペースに、それは人のイド(潜在意識)だという説明がついてしまう。

 だから恐怖も結局は、正体みたりトラウマなりといういつものパターンなのだった。『IT』はそういうパターンだとわかっているから心構えもできているが、これもそうかと知らされるのはいささかがっかり。その末に、『IT』で最もがっかりした、老婆の肢体が細長く伸びたクリーチャーが、こちらでも出てくるのだった。『スマイル』でもそうだった。細長い手足を持った3メートルくらいあるクリーチャーといえば「トールマン」だが、何か、アメリカ人の共通の潜在意識に根ざした恐怖の対象なんだろうか。ともあれ、これが物理的に危害を加えてくるというのがクライマックスだったのはがっかり。といって「悪魔」が出てきて、そんなの人間にはどうにもできないといった凶悪な呪いで責められても戦いようがないから、それもまた興醒めではあるが。

 結局ホラーにちょうど良いのは走らないゾンビなのか。

 いや、ホラーと言っても、本作に脅威からの逃走を期待していたわけではないのだ。もっとリミナルスペースは不条理で圧倒的な不思議であってほしかった。

 そこでの試行錯誤が描かれるという意味では『CUBE』や『プラットホーム』の方が豊富なアイデアが詰め込まれていたと思う。

 それから、ラストがハッピーエンドにならないホラーも気に入らない。『スマイル』も『ロングレックス』も。とりわけ敵がトラウマなら、克服の物語を描けばいいではないか。そこは安心なところに落として、でもリミナルスペースの不気味は残る、という終わりでいいのに。

2026年9月9日水曜日

『俺とマコトと終わらない昼休み』

 今年度の文化祭で演劇を選んだのは2クラス。3年生の舞台は観るタイミングがとれなくて残念だったが、2年生のクラスは縁があるので意識して機会を作った。

 最初にこれをやると聞いたときには、そういえば何年か前の全国高校演劇大会に出てた演目だったなと思い出した。NHKでその一部が紹介された時にも、昼休みがループするという設定に惹かれたものだが、ここで観る機会が得られることになるとは。

 「昼休み」という設定から舞台は教室だが、このクラスが発表したのも特別教室ではない普通教室だった(特別教室は抽選に負けたとのこと)。教室の窓側半分を舞台、廊下側半分を客席とするのは、教室を発表場所とする時の常套手段だが、その「舞台」には教室用の机椅子が並べられている。舞台監督の前口上に続く暗転の間にキャストが着席している音がして、明転すると授業の一場面から物語は始まる。クラスの半数以上の生徒がキャストとして、そのまま普段の「教室」を再現する。無論この授業の教師の話もまた物語のテーマにまつわる伏線なのだが、ほどなく授業が終わって問題の昼休みになる。思い思いに席を移っていつものグループで集まって雑然とした「昼休み」が再現される中で、それぞれのグループのドラマの断片らしきものが観客の前に提示されていく。

 そうするうちに、突然アラートの音が響いてみんながスマホを見る。一人の生徒が立ち上がって周りを見回し、観客席側の窓の方を指さして大声でミサイルの襲来を告げる。キャストの生徒たちが観客席側に詰め寄って窓の上方を指さしてそれをみとめ、直後に一斉に叫び声をあげて反対側にしゃがみ込む。暗転と共に点される赤い不穏なフットライトに、観客席から遠い側の席で一人の女生徒だけが立ち尽くしているのを観客は見る。

 生徒の座席は3列に並べられ、最も観客席に近い列と観客の最前列はほんの手を伸ばせば届くような距離にある。だからこの一連の、身体的にも音響的にも激しい動きは、観客の本当に「目の前」で演じられ、観客の強い動揺を誘発して、ただ事ではないこの舞台の緊張を会場全体に生む。

 一瞬おいてフットライトの消えた暗転下、ドラムのビートによるSEが鳴り始めると、みんなの移動の気配がして、明転すると生徒たちは元の席に戻って4限の終わりが再現され、チャイムとともに同じような昼休みが始まる。なるほど、ここまでがループするのだ。4限の終わりから、ミサイル襲来までの8分間。

 同じ繰り返しの中で、少しずつ違った情報が提示される。観客の注意を集めるために、あるグループの会話が殊更に声を大きくして、それ以外の生徒はサイレントで演技をする。そうして徐々に人間関係やそれぞれの生徒の立ち位置が観客に把握されていく。

 今が文化祭のエントリーの締め切り間際であり、クラスがそれに対して積極的でない空気が示される。冷笑と諦念が支配する教室の中で、委員長が必死に(義務的に?)呼びかけをするが、教室の空気は変わらない。そうした空気をやがてミサイルが破壊し、昼休みがループする。

 繰り返される中で、物語の中心となる二人のドラマが次第に明らかになってくる。

 これは平和な日常が、実は常に戦争の脅威にさらされていることを暴いている物語でもあるが、それをも隠喩として、登場人物たちにとっての日常に潜む脅威、すなわち冷笑と諦念が支配する教室の空気が、毎日「繰り返される」物語でもある。ループは、そうした空気の支配が常態化していることの暗喩している。

 空気、すなわちスクールカーストを前提とする人間関係と、そこで起こる「いじめ」という「脅威」に対するミサイルの襲来による破壊は、日常に潜む不安の隠喩であると同時に、そこからの解放の願望でもある。

 SFにおけるディストピアは、戦後には科学の進歩した未来に対する不安の表現であったが、高度経済成長を越えてからはむしろ「日常」の破壊願望を表すようにもなった。人類消滅やゾンビ蔓延といったディストピアに対する奇妙な憧憬は、90年代に宮台真司が言った「終わりなき日常」に対する絶望感の裏返しでもある。ロメロの名作「ゾンビ(Dawn of the Dead)」は明確にそのことに対する批評となっていた。我々は確かに文明の終末を望んでいたし、しかしゾンビはゾンビになってもショッピングモールに集まって「終わりなき日常」を「生きて」いたのだ。それは繰り返される代わりばえのしない日常こそがグロテスクなディストピアでもあることの透かし絵でもあった。

 だが、高校生の物語が終末を目指してはならない。まずはミサイルの脅威から逃げる可能性が試行される。だがループする8分という時間は、ミサイルから逃げるには短すぎることが示される。

 ではどうするか。

 ミサイルの襲来に象徴される政治や世界情勢といった大状況を高校生が変える展開を描いてしまえば安易になる。だがこれはそもそもの「終末」が高校生たちの日常によって要請されたものだから、この日常の変化、すなわちループからの脱出がミサイルの襲来を阻止することになるのは物語の因果律としては必然だ。

 ループから脱出しなくてはならない。ループすなわち「終わりなき日常」は、「成長」という変化によって打ち破られなければならない。それが観客によって高校生である登場人物たちに期待された「物語」のはずだ。

 高校生の「成長」はどのように描かれるのか。


 高校生たちの痛みとそれに対する抵抗に、劇中で何度かこみあげそうになる場面があるのだが、その一つは主人公の「8分あれば、逃げることはできなくても、告ることはできる。」という台詞だった。これはクレヨンしんちゃんの『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の「おら、お姉さんと付き合いたい!」が、TVCMで見たときはギャグだと思っていたら、映画本編の中では最も感動的な台詞であったように、笑うべき台詞ではなく、そこに物語の主題が露出する真剣な台詞なのだ。

 終末が迫っているのに何を暢気な、と言うことはできない。そもそも戦争の阻止もミサイルからの逃走もできないという設定の中でできることを探ろうとしているのだ。それが、主人公の試みる「クラスメートのことを知ろうと努める」であり、「告白」なのだった。ループの中心にいるヒロインは、主人公の奮闘に「そんなことして、なんになるんだ?」と苛立つが、なるほど、ミサイルもループも、クラスの空気の隠喩なのだとすればその空気を変えるための手段は、素朴にいえばコミュニーションしかない。

 コメディとして描かれる一つ目の告白はもちろん楽しく、これは冷笑的なクラスの空気を変える第一歩にはなるが、むしろ物語としては、こうした空気に潜むもう一つの「脅威」が観客に示されるのはその後である。ヒロインを務める生徒の圧倒的な演技によって、その絶望が、ミサイルによる破壊願望の切実さが、明らかになる。

 それを変えるのが二つ目の告白だ。机の上に立つというのが「ここから見ると世界が変わって見える」という言葉ほど意味のある振る舞いであることに今ひとつ納得はできないが、狭い会場で高低差をつける演出は、観客の視線を大きく上下させるダイナミズムがあって効果的だった。

 ともあれこの告白によってループを抜けた5時間目が初めて描かれ、授業の冒頭、これも象徴的な英文の朗読の後、主人公とヒロインが互いに向けたピースサインによって締めくくられるラストシーンは、多幸感が満ちていた。


 「告ることはできる」とともに感動的だったのは、クラスでのいじめ=「シカト」が明らかになる場面で、教室から出て行くヒロインを追おうとする主人公を一人の女生徒が制止する「わかってやんなよ。あの子だって気ぃ遣って出て行ったんだから」という台詞だった。この生徒は優等生的な委員長の友人として、クラスでは上位グループにいる。そうした立場でこの台詞を言うならば、青臭い主人公を諫める傍観者的上から目線で、クールな口調で語る、という選択もありうるのだろうが、この劇中では、台詞の後半に向けて叫ぶように発せられたことで、単に主人公の行動に対する諫止や非難ではなく、この生徒自身の痛みを聞く者に感じさせた。理想主義的な主人公の行動に対する共感と、だがそれを阻止してクラスの現状のバランスを維持したいと考える矛盾、自らの無力さへの苛立ちと、ヒロインが出て行かざるを得ない状況に自分自身が加担しているという自覚からくるヒロインに対する罪悪感。

 原作では別の生徒が言う台詞として設定されているから、これもまたこのクラスの舞台において生じた独自の輝きの一つなのだろう(これはこの台詞を言う配役生徒自身のキャラクターのせいでもある。後でオリジナルの舞台を見ると、やはりこの台詞がそれほど特別な響きを持ってはいなかった)。


 クラスの作り上げた舞台の感動には不足ない。成功の要因に脚本の選定があることは間違いないが、その可能性を実現したのは裏方も含めたクラス全体の力だった。

 だがそれだけに、さらにこの物語の持っている可能性について、ない物ねだりをしたくもなった。

 原作は高校演劇だから規定の60分をなるべく目一杯使っているはずだが、今回の上演では原作のシナリオにあったいくつかの会話がカットされ、50分ちょっとにおさまっている。この処理は上手い。面白くならなさそうな会話をカット(あるいはサイレント芝居に隠して)、物語にとって重要な会話を際立たせている(追記 オリジナルの舞台の動画も見たところ、オリジナルでも、シナリオにある会話を全部聞こえるように演出しているわけではなかった。聞こえている会話はこちらの舞台とほとんど変わらない。ただ、いちいちの演技の間が長いことでもう数分長い舞台になっていたのだった。だがその間が感興を増しているともいえず、むしろ今回の舞台は十分な完成度だと感じた)。

 なくてもいい要素はなくてもいい。だが「クラスの空気が変わるとループから抜けられる」という物語の大きな因果律を支えるのに、一つの告白に頼るというのは単純すぎる、とも感じた。

 教室を再現したこの物語は、もっと群像劇であってほしい。

 もちろんそうなってもいる。だが十分かと言えば納得しかねる。クラスの演技も演出も申し分ないから、これはシナリオに対する期待だ。

 主人公がヒロインに対して「一緒にいる」と言うことでヒロインがなにがしか救われるとして、主人公の他の足掻きはクラスに何をもたらしているのか。前日のやりとりから小さなわだかまりを作っているらしい女子生徒二人や、一人で本を読んでいる生徒、一人奮闘する委員長の状況はどんなふうに変化するのか。そして何より最大の「脅威」であるクラス全体からの無視という「いじめ」に対しても、小さな変化の片鱗を見せてもいいのではないか。

 もちろんそれらを安易に描くことはできない。「空気」を変えることの困難は、わずかな変化としてのみ描かれるべきではある。だがそれらを描くことが、群像劇としてのこの物語の厚みはさらに増すであろうと夢想してしまう。

 例えば上記の二人の女生徒のエピソードを、Queerの「問題」として、少ない情報量で示すのは唐突にすぎる(観客にはほぼ伝わらない)。だからそれは高校生にありがちな小さな諍いとその和解として描かれるか、そうでなければしかるべき一つの「物語」としてちゃんと描かれてほしいと思う。それがまた「告白」の一つの系列に連なるように描かれる可能性さえ考えてしまう。教室の中の多くの「物語」が、それぞれの小さな「告白」によって「空気」を変えていく可能性を。

 もちろんそれは物語の構成上はとても難しい。主人公二人の物語に集約して一気にラストに向かうスピード感があの高揚感をもたらしているのも確かだ。

 だが例えば、ラスト5時間目の授業で、ヒロインにプリントを渡す女生徒の変化は、そうした小さな「告白」の形として、物語の一つの意味ある要素となっていた。こうした変化としての「告白」がもっと教室のあちこちで起こる群像劇を見たい、と思った。


 余談1

 途中で押井守の「ビューティフルドリーマー」の挿入曲が流れたのにびっくりして、後で、あれは誰が選曲したのかと尋ねると、原作のシナリオに指定されているという。なるほど、作者は同年代だからあれを知っているのかと腑に落ちた。

 「ビューティフルドリーマー」もまたループ物の名作だった。本作中で言及される「君の名は」が単なるタイムリープものであってループ物ではなく、「時をかける少女」もループそのものを主題にしていないのに比べて、「ビューティフルドリーマー」の序盤は完全なるループ物であり、やはりそこからの脱出がテーマだった。ただし高校の文化祭前夜が繰り返す、かの物語では、はっきりとそれが終わってほしくないというヒロインの願望が生み出したループだったのに比べ、本作でヒロインがそれを願望しているはずがないのに繰り返すのは、脱出できない絶望の隠喩としてのループである。

 それでも問題のその曲が流れるのは、高校生活の断片に対する愛おしさが語られるくだりだから、そうした意味では共通した面があるともいえる。


 余談2

 クラスの方で撮影の予定がなかったそうで、「公式」撮影を買って出た。集大成たる最終公演が狙いではあったが、何たることか、この公演の途中でSDカードの容量がいっぱいになって撮影が止まってしまった。急遽SDカードを換えて撮影を再開したのだが、予定の「公式」映像の一部は永遠に欠けてしまったのだった。

 幸い二日目の第一公演は全部撮ってある。第二公演も現場にいなかったがカメラは回しておいてもらってある。そこで最終公演を基本としながら、途中を第一公演と第二公演でつなぐことを考えた。そうして何とかストーリーが貫徹する映像が作れることはできそうだとわかった。

 そのうちにもうちょっとやりようがあることに気づいた。第一公演は上手から、最終公演は下手から撮っていたから、場面によって芝居が近い方、顔が見える方の映像を使った方が観客に訴える映像になる。

 そういうわけで結局、校内公開の「公式」映像は計三回の公演の場面が継ぎ接ぎになっている。暗転でつなぐのが一番楽だが、そうはいかない部分もあり、演者が振り返るところでカットを変えるなどという荒技も駆使した。

 これが可能なのは、毎回の演技が、台詞の間や動作、周囲のキャストの動きまで正確に再現されているからだ。それだけでなく、どの公演も同じように観客を動かす力を持ち得ていたことの証明でもある。

 とはいえさすがに最終公演が終わって観客に挨拶した後のキャストの退場シーンだけは、二日間の舞台をやり終えた満足感が感じられる、かけがえのない場面を使っている。

 物語の大団円を告げるピースサインとともに、これも多幸感に満ちた映像だ。

2026年8月31日月曜日

この1年に観た映画 2025-2026

 42本というのはここ12年で最低を更新している。仕事が忙しかった自覚があるのは3年前から2年前までで、ここ2年はどうしてこれほど観られなくなったか、どうもわからない。それ以外に何に時間が使われているのか心当たりがない。観ようと思ってウォッチリストに入れたり録画したりしている映画は増えるばかりだから、意欲がないわけではないのだが。

 10本を選んでみる。


9/20『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

12/27『この動画は再生できません』-伏線回収

1/3『さよならピーチ』-映画に生きる

2/16『ひゃくえむ。』-勝敗

2/22『パピヨン』-不屈

3/13『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

7/18『Search』-限定された設定の中で

8/9『Search2』-前作に引けをとらない

8/21『落下の王国』-映像美と大団円

8/23『オークストリートの異変』-楽しいが惜しくもある


 以前はよく次点10本を選んだりもしていたが、到底そんなには挙がらない。上記も、例年に比べると小粒ではある。『Search』は以前ならまとめても良かったくらい。

 『パピヨン』の鑑賞は初めてではないが、あまりに昔のことなのでここに挙げているが、見直しも入れるなら『1秒先の彼女』の原作再鑑賞が最も面白かったくらい。

 量も質も貧弱な1年。


 テレビドラマは『銀河の一票』か。


 以下、順に。


9/18『川を越えた先』-地味なホラー

9/19『真・鮫島事件』-怖さよりカタルシス

9/20『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

9/21『何者』-いたい

10/4『Last Letter』-弱い

10/13『SMILE』-いまいち

11/1『アウトブレイク』-パンデミックものとしては

11/1『メイズ・ランナー』-期待ほどでは

11/2『シビル・ウォー アメリカ最後の日』-「面白い」

11/29『時をかける少女』ーアニメ的リアリティ

12/19『事実無根』ー「無根」

12/27『この動画は再生できません』-伏線回収

1/3『さよならピーチ』-映画に生きる

1/18『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

2/8[『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

2/9『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

2/16『ひゃくえむ。』-勝敗

2/22『パピヨン』-不屈

2/25『ゲッタウェイ』-わからない

3/1『六人の嘘つきな大学生』-ドラマの失敗

3/8『グッドワン』-苦い

3/10『きさらぎ駅』-安っぽい異世界

3/13『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

4/4『一秒先の彼/彼女』-改悪

4/27『花束みたいな恋をした』-閉鎖感

5/10『特捜部Q 知りすぎたマルコ』

5/29『侍タイムスリッパー』-映画業界の自己愛

6/8『勝手にふるえてろ』-消化不良

6/10『プラダを着た悪魔』-映画的描写力

6/13『マイケル』-映画館で音楽映画を

7/11『黒牢城』-小説には勝てない

7/18『Search』-限定された設定の中で

8/8『ロングレッグス』-キリスト教圏の映画

8/9『Search2』-前作に引けをとらない

8/13『12か月の未来図』-地道

8/14『劇場版 幼女戦記』-ヒトラーのいない

8/15『夜勤事件』-二番煎じにも程がある

8/21『落下の王国』-映像美と大団円

8/22『ロングウォーク』-残酷と強い意志

8/23『オークストリートの異変』-楽しいが惜しくもある

8/29『クラスの敵』-スロベニア映画

8/30『ククルス・ドアンの島』-豪華なスピンオフ

2026年8月30日日曜日

『ククルス・ドアンの島』-豪華なスピンオフ

 『機動戦士ガンダム』の最初のシリーズの中の一話をふくらませて、一本の劇場映画にしたもの。40年以上経ってのリメイクで、当時20代だった古谷徹が、ほぼ70歳にして変わらずに主人公の少年アムロを演じている。これもファーストガンダムの作画だった大御所、安彦良和が監督する。

 アニメとしてはむろん隔世の感ありの進歩だし、元々「いい話」ではあった。ファンサービスということでオールスターキャストを物語にからめているところが、原話での逸話(本筋から逸れたエピソード)としての特別感を若干損なっているともいえるが、諸々、細部の描写がある分の物語の厚みはある。

 十分に面白い映画ではあった。

2026年8月29日土曜日

『クラスの敵』-スロベニア映画

 産休に入る担任に代わって赴任した高校教師にクラスの生徒が反発する。それで「クラスの敵」というわけ。少ないリコメンドの評価は決して低くないという以上に何の予備知識もないのだが、先日観直した『12か月の未来図』と比較したくなったからではある。

 何語で喋っているのやらと思って調べてみるとスロベニア映画とのこと。新任教師はドイツ語の先生だといい、生徒が反発するのに「ナチ」などと言うのはどういうわけかと思っていると、ドイツによるスロベニア支配の歴史が背景にあるのだった。女生徒の一人が急に自殺してしまうのも、どういう必然性があるのかと思っていると、スロベニアはそもそも自殺率が高いという情報もある。少なくともこの教師のせいではないが、生徒がそれを疑うことにまるで理由がないかといえばそうとも言えない、という微妙な情報量で描かれている。いろいろとわかりにくい。

 というか、この教師が何を考えているかがわかるように描かれているのかがどうも判別できない。こちらの読解力不足でそうなっているのか、そもそもそういう意図で作られているのか。

 ただ、あちこちの描写は必要な情報を的確に提示しているような手触りも感じさせる。新任教師への反発でストライキを起こす生徒への対策として、校長が育休中の元担任を学校に喚ぶ。クラス生徒への信頼関係に安心している元担任が親しげに接すると、生徒の反応は案外に冷たい。ショックを受けた元担任は早々に退散する。「生徒教師の信頼関係」がそもそも一時の感情で演じられたものに過ぎないことを感じさせるこのあたりの描写はうまい。

 ストライキを主導する生徒グループにも、それぞれに微妙な立場の相違があるし、開かれる保護者会でのそれぞれの保護者の示す態度もリアルに描かれている。

 そのうえで、やはりこの物語の伝えるメッセージはわかりにくい。たびたび引用されるトーマス・マンに対する理解が不足していることもあるのだろうが、生徒のストライキに対してこの教師の発するメッセージがどう対峙しているかがどうもつかみかねた。



2026年8月23日日曜日

『オークストリートの異変』-楽しいが惜しくもある

 予告編を見て面白そうだと思ったということもあるが、監督が『イット・フォローズ』のデヴィッド・ロバート・ミッチェルなのに期待して。

 住宅街に恐竜が出てくるサバイバルものだとは予告されている。それがどういう理由で起こっているかは、結局は重要ではなく、ちゃんと説明されず「ワームホールが発生してタイムスリップが起こったんじゃないか」という登場人物の推測が語られるだけ。街ごと、恐竜のいるジュラ紀あたりの時空間と入れ替わってしまって、恐竜たちが街の中に入ってくる。街からの脱出先はない。

 脱出は、そのよくわからないワームホールが局所的に発生している光の穴、的なところに飛び込むというものだが、それがちゃんと元の時空間の、ちょうど街外れに出るところがご都合主義ではある。だがそこに不満はない。サバイバルの過程のサスペンスはエンタテインメントとして申し分ない。ひそかに崩壊が進んでいた家族の絆が、サバイバルを通じて再生するところもお約束だ。いや、その途中でその方向が絶望的になる展開から、最後でそれを大逆転するひねりがあるところも巧みなストーリーテリングだった。

 映画館で観るには満足のいく一本だったが、大絶賛というにはいくらか残念なところもあった。ズームアウトで街全体を映して、街ごと過去にタイムスリップしているのだとわかるシーンはもっともったいつけて描いてほしかった。あっさり上空からの視点で全体に何が起こっているのかを見せてしまう。このカットが「ビューティフルドリーマー」とあまりに似ていたので、全体を映してしまったのはもしかしたら「ビューティフルドリーマー」リスペクトかもしれない。監督がそれを知っている可能性が疑われるほど似ていた。あるいはスペクタクル優先なのかもしれないが、もうちょっとサスペンス重視でもよかった。あちらではそのシーンが実に衝撃的だったのに比べて、本作では「あっさり」と思えてしまったのは、街から出るくだりに試行錯誤がなかったからだろう。

 もう一つ、家族は申し分ないが、他の住民との協力などはそれなりに描かれてもいい。関わりのある住民に救いがあることは後日譚で回収されるが、それが感動的になるためには、もっと異変下での助け合いが描かれてほしかった。

 その回収があるのに、「自分」たちに対する救出が描かれないのは、矛盾を回避するために仕方がないとはいえ、行く末が気になるところではある。それが制作者たちの念頭にないわけではないことは、エンディング場面での少女の描写に表れているから、あれはあれで続編の可能性を示唆しているんだろうか。

 息子の学校でのいざこざから、異変下でなおもからんでくる同級生の兄のエピソードなどは何もその後に発展しないし、子供たちの考えなしの行動が苛立たしいのは、ホラーやパニック映画にありがちな、サスペンスを作る都合が優先していて観客の納得感を下げてしまうという欠点ではある。

 全体にはかなり楽しい。それだけに残念さもある。



2026年8月22日土曜日

『ロングウォーク』-残酷と強い意志

 『バトル・ロワイヤル』に熱中した頃、これがスティーブン・キングのデビュー作『死のロングウォーク』に着想を得たという話を聞いて、読みたいと思いつつも手をつけずにいた。それが映画化されたと聞いて、これも観たいと思っているうちに劇場公開が終わって、あっというまにアマプラで配信が始まった。

 ひたすら歩くだけだから『バトル・ロワイヤル』のような屈曲はない。それでも、この設定で起こりうるドラマを詰め込んでいる。死の描写にもごまかしがない。俗悪なグロを狙っているのではなく、ちゃんと痛みを感じさせる。

 『バトル・ロワイヤル』もそうだが、生き残れるのが一人という設定は、仲間を作ることと矛盾する。ただしこちらは故意に他の参加者を害してはならないから、すぐさま殺し合いが起こるわけではないが、他者の脱落こそが自らの勝利なのだから、「仲間」は存在しないはずだ。

 だが両者ともにそうではない。『バトル・ロワイヤル』では体制に対する反逆の可能性にすがって、仲間を作ろうとする参加者が現れる。死に直面した状況の中で、残酷な裏切りと、それでも生まれる絆か美しいのが『バトル・ロワイヤル』だった。

 一方の本作では脱落するのは本人の責任だから、一人一人の参加者は心おきなく励まし合える。それだけの自信と矜持のある者は。

 だから、設定のもたらす残酷さの中で、強い意志とヒューマニズムが素直に描かれる物語だった。



2026年8月21日金曜日

『落下の王国』-映像美と大団円

 ずいぶん前から録画だけしてあって、序盤は何度も観ているが、どうも先に進めなかった。今度こそと観始めてようやく。

 いや、退屈なわけではない。「千夜一夜物語」が元になっているのか、傷痍軍人が病院で少女に語る物語が、劇中劇として展開する。その劇中劇は世界遺産をロケ地に使ったという壮麗な映像美で展開する。感嘆する。すごい。

 そして軍人と少女の物語も気持ちよく着地して満足の大団円。


2026年8月15日土曜日

『夜勤事件』-二番煎じにも程がある

 B級どころから、下手するとC級かもしれないとも思いつつ、軽く観られるホラーということで。期待していないぶん、『ロングレックス』ほどの落胆もないだろうと。

 いくつかのジャンプスケアはやめてほしいが、やはりゾクゾクする演出はないでもない。画面の端の方に何が映りそうな気配は常にある。ホラーを観ているというこちらの心構えが作る恐怖。

 とはいえやはりC級。これほどあからさまに『リング』と『呪怨』をパクっていいのか。いや、映画の問題ではなくこれは原作のゲームの問題なのだが。それにしても、映画化するにあたって工夫もほしい。こんなふうに「謎の老人」の設定を放置したりするのはやめてほしい。時間あたりのイベントを増やしてほしい。

 まずは脚本の問題ではあるが、監督もなんとかしてくれ。永江二朗は『きさらぎ駅Re:』が楽しかったが、これは『真・鮫島事件』並み。


2026年8月14日金曜日

『劇場版 幼女戦記』-ヒトラーのいない

 テレビで新シリーズが始まるにあたって、その前日譚たる劇場版がテレビ放送された。

 約十年前の第1シーズンは観ていたが、転生についての設定と主人公のキャラクターを覚えているくらいで、戦況についての設定はまるで覚えていない。今回2時間を通して観ると、なるほど、この劇場版は独ソ戦なのだった。「連邦」の首都がモスコーで、共産主義者と呼ばれているし、「帝国」の首都はベルンだ。そう思って観ると「共産主義者は畑でとれるのか?」というような台詞が、人的資源を浪費することに躊躇のないスターリンの戦略を皮肉っているのがわかってくる。スターリン(らしき人物)とゴルバチョフ(らしき人物)が同時期にいるのは、歴史をフィクション化する妥協的な描写か。

 そのうえで、そうか、主人公はドイツ軍なのか。「大戦」を描いて、フィクションとはいえドイツに主人公をおいて大丈夫なのか?

 心配にはなったが、「帝国」というからには帝国主義的な国家なのかもしれないし、愛国心はいやというほど強調されているが、今のところファシズムのにおいはしない。ヒトラー的な人物が出てはこない。

 出てきたときに主人公がどう振る舞うかにも興味はあるが、今のところヒトラーがいないことで、「仕事」としての戦争、戦闘行為にも、かろうじてつきあえるとも言える。「合理的」を標榜しながら、案外生真面目な主人公に安心していられる。


2026年8月13日木曜日

『12か月の未来図』-地道

 岩波ホールで観たのは7年前だ。ブログではなかなかに長い文章で感想が述べてある。

 読み直してみると、今回観直した感想とまったく変わらないのだった。圧倒されるとか大感動したとは言わないが、その後に観た『型破りな教室』と比較しても、こちらの地道な描き方に、より好感を持った。

 


2026年8月9日日曜日

『Search2』-前作に引けをとらない

 『ロングレックス』があまりに不愉快だったので、一緒に観た娘と、「口直し」に、好評だった『Search』の続編を。同工異曲の便乗作品というでもなく、正統な続編として、前作が冒頭に引用されてもいた。

 さて今作もまた、突然失踪した家族を、主人公がネットを駆使して探すという設定は同じ。旅行先で行方不明となった母親を、女子高生が捜すのだが、本作では旅行先の出来事をPC画面で描くために、現地の「便利屋」をネットで雇って調査してしてもらう様子をリアルタイム中継するというのが新機軸だった。となればこの調査員のキャラクターが物語の味わいに大きく関係してくる。これは物語としてイイカンジに描かれていた。たぶん、不在の父親を補うバランスをとっているのだ。

 さて、驚異的な調査能力の主人公が、ネットでできる調査を次々と試行するのも、展開が意外な方向に次々と転がっていくのも、その起伏とスピード感とアイデアの豊富さは前作に引けをとらない。最後の大団円まで、最高に楽しいエンタテインメント映画だった。


2026年8月8日土曜日

『ロングレッグス』-キリスト教圏の映画

 アマプラでやたらとリコメンドされる「怖い」映画ということでタイミングが合えば観ようと思っていた。予告編はなるほど怖そうではある。

 主人公はFBIの捜査官である若い女性で、連続殺人事件を追うというのだから、どうしても『羊たちの沈黙』を思わざるを得ない。確かにそんな風に展開する。レクター博士こそ出てこないが、主人公の直感力が並外れているとか幼児期に特殊な経験をしているとか。

 だが結局、大いに不満足に終わった。また例によってキリスト教の悪魔が元凶なのだった。ホラーでこれが持ち出されるといつもがっかりしてしまうのだが、サイコサスペンスかと思って観始めたのに、敵がサタンだなんて、いい加減にしてほしい。

 加えて、何もカタルシスがない。最後のケースが解決しないばかりか、それがなんとも無策なまま手をこまねいていることに、納得できる「仕方なさ」がない。これもまた、元凶が悪魔である以上、しょうがないとでもいうのだろう。勝って終わるためには神を持ち出すしかないんだろうが、それはそれで安っぽくなるんだろうし。

 ああキリスト教圏の映画。

2026年7月21日火曜日

『夫婦別姓刑事』-佐藤二朗のすごさ

 ミステリーとしてもそこそこ面白い仕掛けはあったのだが、やはり佐藤二朗の演技が圧倒的だった。アドリブらしいユーモアで、ああいうおかしみを醸し出すことにかけては大泉洋と双璧だな。一方で、怒りの表出の振れ幅の大きさに圧倒された。

2026年7月18日土曜日

『Search』-限定された設定の中で

 突然失踪した娘を父親が捜す。この設定だけで、切迫感は必然的に用意される。焦燥感と必死さが否応なく際立つ。それだけ言えば『96』と同じ設定だが、あちらが堂々たるアクション映画のシリーズであるのに対して、本作は映画の画面が全てPCの画面そのままであるという、極めて限定された設定がユニーク。ホラーの『Zoom』でもあったアイデアではあるが、あちらは題名通りビデオ通話の画面のみだが、こちらはPCの操作画面がまた驚くほど「見せる」。捜すという目的に対してやれることが何なのかを、主人公が探り、試し、わかった情報によって次々と試行錯誤していく展開がスリリングなのだ。

 物語の展開としても、物語が進むにつれて関係者の事件への関わり方について、次々と新たな事実が明らかになっていく。それぞれの局面で予想される「真相」が二転三転していく。

 その末に、見事にハッピーエンドに決着する。

 限定された設定の中でやれるアイデアを詰め込んだ、恐ろしくよくできた脚本だが、それを高い緊張感で描ききる演出ももちろんすごい。調べてみると『RUN 』の監督なのだった。



2026年7月11日土曜日

『黒牢城』-小説には勝てない

 直木賞だけでなく主要ミステリー賞も総なめにした米澤穂信作品を黒沢清が映画化する。どう期待したものやらと思いながら観始めると、画面はさすがの重厚感。

 ところが最初の謎がほどなくあっさり解ける。どういうわけかと思っていると、そういえば短編集だと聞いた気もする。次の謎も、やはり途中で解決してしまう。やはりそうなのだ。

 とはいえ通して仕掛けられた大きな謎はあるから、それが最後に解けるという構成は「medium 霊媒探偵城塚翡翠」だ。が、あれほどのドンデン返しはなかった。なんとなく重厚な時代劇と、それほどでもないミステリー、という感じだったが、あれほど高評価の原作がこんなもんなのかと、原作も読んでみた。

 読んでみると、意外なほど原作通りに映画化している。落としているエピソードはない。場面も台詞も、映画で観た覚えがある。そして確かに短編としては章ごとに謎が解けて一区切りしていく。

 だが終盤、全体に関わる動機が明らかになる長い語りが圧倒的だとわかる。なるほど、映画でも語られなかったはずはないのに、その印象が驚くほど薄いのに比べて、小説ではこれほど胸を衝く力をもっているのだった。これはミステリーとしても、直木賞が対象にしているような一般的大衆小説としても、最高度に力のある小説だという評価が納得される。最も、動機で感動させるミステリーというのは珍しいだろうけれど。

 そういえば籠城をめぐって荒木村重がどう考えているかというような細かい心理も、やはり映画では描けないから(まさか心中語を語らせるわけにもいくまいから)、そうなると、途中の面白みも、やはり小説の方が豊かなのだった。

 メディアの差を超えることがないまま、しかもよりによって感動的な原作の最後のエピソードがすっかり省略されているのはいったいどういうわけか。

 やはり黒沢清。


2026年7月5日日曜日

『銀河の一票』-善意のリアル

 第一回を観て、これは面白くなるぞと娘を誘って、毎週楽しみに観続けた。展開が楽しみというだけでなく、毎回感動的な場面が描かれるのがたいしたものだった。

 素人のスナックのママが都知事選に立候補するという無茶な設定にリアリティを持たせるために、周りを政治のプロが固める。それでも、それが簡単に実現できそうな方向で描くのならたちまちリアリティはなくなるはずだが、そんなことにはしない。そう描いてこそ、このドラマの核である、政治に本気で期待するという善意に感動できる。

 細かいドラマや伏線の回収も豊富だし、演出上の可笑しさもふんだんで、これはたいしたドラマだった。

2026年7月1日水曜日

2026年第2クール(4-6)のアニメ

『霧尾ファンクラブ』

 同級生の男子が好きな二人の女子高生が「ファンクラブ」を作って、密かに彼を追っかけ、やがて少しずつ関係ができていく。設定は青春ものとしてベタな感じがするが、ギャグの秀逸さに見続けていると、そのうちに徐々にそれぞれの人物の背景が明らかになるにつれ、シリアスなドラマが展開されていく。このパターンは『村井の恋』以来だ。本作もまた同様に、終わりに向かうにつれてひどく感動的だった。


『勇者のクズ』

 2クール、それなりに楽しんだ。

 暴力団の組長が「魔王」で、それを討伐する賞金稼ぎが「勇者」という設定の近未来SF。「勇者」を養成する学校の生徒とともに主人公の「勇者」が謎に迫っていく。

 主人公の「クズ」ぶりが、微妙なバランスを維持していて面白い。ヒロインたる女子高生たちが殺し合いに巻き込まれることを、主人公が止めない。そのわりに、登場人物があっさり死ぬ。危険がないわけではない。だが「勇者」というのがそういう存在であることをきちんと前提にしている。

 一方で、戦いにおいて、いちいちちゃんと勝てるための理屈を立てて話を描くところが意外に誠実。こうした、リアルさの水準のバランスが妙なまま、物語が展開する。


『氷の城壁』

 ちょっと生真面目で人の心を考えすぎる主人公と友人たちの高校生活を描く。感情の描写が細やかで見続けたが、完全に途中で、秋クールに続く。

 それにしてもいやゆるコミュ障で、仲間に入りきれない主人公、特に女子高生を描くというのはずっとニーズのあるモチーフなのだな。


『左ききのエレン』

 「天才」についてのいささかの神秘主義が過ぎるとは思うものの、「プロ」としての仕事の在り方とプライドとそれでも良いものは世界に存在するという信頼とがからみあって、かなり観られるドラマが続いた。それぞれの登場人物の背景を、時間を前後させながら描いていく構成が面白く、どんどんドラマが立体的になっていって見事だと感心した。


『淡島百景』

 画はきれいだし、監督は『GUNSLINGER GIRL』の浅香守生だし、と一話も観ないまま録っておいたが、全話録っておいて、観るまでにはずいぶん時間がかかった。夏休みに観始めると、これはまたなんともすごいアニメなのだった。

 宝塚をモデルにした「淡島歌劇団」を舞台に、生徒たちの群像劇が、短いスパンで描かれる。1話に3つほどのエピソードが詰め込まれることもある。そして、それらの人物は時代が違っていたり、無関係だったりもする。だから「百景」なのだが、これがもちろん関係もしてくる。親族だったり先輩後輩だったり。

 そうした群像劇としての構成だけでなく、アニメーションの表現としてもきわめて質が高い。おそらく原作の細やかな心理描写が繊細に描かれているのだろうが、学校という空間とそこにいる生徒が群像劇として描かれるという設定から、空間がもつ歴史の堆積を、半透明の学生で描く表現はすばらしかった。

 前クールの『違国日記』もすごかったが、これも同じくらいにすごかった。


『春夏秋冬代行者』
 四季の神に代わって世界に季節を与える「四季の代行者」と、「代行者」を守護する「護衛官」の物語を描く(Wikipedia)。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の暁佳奈原作だが、京アニではなくWit studioの制作。アニメは終始質が高かった。テーマである自然の美しさとアクションも。物語は1クールでよくまとめてあるのだろう、たぶん。物語の背景や過去の経緯が徐々にわかっていく構成も巧みだった。どんどん盛り上がって終わった。
 とはいえ、一貫してうんざりしたのは、登場人物がいかにもアニメ的な感情表現を過剰にし続けることだった。やたらと罪の意識を吐露しては自分を責め、同時に登場人物同士で過剰に依存し合う。大げさに喜んだり恥ずかしがったりしてみせる。
 感動的でしょ? とアピールし続けながらも、描写はきわめて類型的。物語の展開にすがって観続けたが、その演出には相当にうんざりした。

『日本三國』
 明治っぽさを出したいのが先に動機としてあったのだろうか。戦争後に文明が後退して明治くらいの文明レベルになったというのだが、だからといって、政治体制やデザインまで明治っぽくなるいわれはなかろうに。ただの明治ではなく、現代文明が遺跡として残ってはいる。そこで3つに分裂した日本を舞台にしたいわば陣取り合戦の戦国物。アニメの質が終始高いというだけでなく、濃密な人間ドラマが展開されるのでずっと面白かった。



2026年6月13日土曜日

『マイケル』-映画館で音楽映画を

 公開中の『プラダを着た悪魔 2』を観ようと映画館に行くと、時間を間違えていて観られない。で、急遽本作を。

 何かと『ボヘミアン・ラプソディ』と並び称される音楽伝記映画だが、どちらも映画館で観たことが幸いしている。この間のチャック・ベリーの『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』は単に既存のライブ映像の継ぎ接ぎで、YouTubeとの差別化が難しかったが、『ボヘミアン・ラプソディ』も本作も、ライブ映像は再構成されているし、伝記映画としてのドラマ性もある。

 とはいえ、マイケル・ジャクソンのファンだという思い入れがない観客にとっては、ドラマとしては『ボヘミアン・ラプソディ』の方が強かった。こちらのマイケルの父親の毒親ぶりはいささか型通りで、そこから逃れる成長物語としては単調なドラマにとどまった。

 とはいえ音楽は、映画館で観る価値が十分だった。今まで知っている曲が、例えばテレビやPCで観ていたのに比べてもはるかに感情を揺さぶるのは、もちろん映像の見せ方にもよるが、まずは映画館の音量だ。


2026年6月10日水曜日

『プラダを着た悪魔』-映画的描写力

 観ているのは確かだが、もう12年以上前で、細部はおろか基本的なストーリーもまるで覚えていない。設定は覚えているというか周辺情報でわかってしまっているし。例えばエミリー・ブラントなどという女優も、今なら『クワイエット・プレイス』のあの人、という認識ができるのだが、この映画に出ている人だという認識は全くなかった。

 面白かった印象だけはある。それは信頼できる。

 そして観てみるとやっぱり面白い。問答無用に面白い。隅々まで面白い。

 こういう、映画としての描写自体が良くできているから面白いというのは、例えば『幸せのレシピ』だし『マーガレット・サッチャー』だ。そういえばサッチャーを演じているのもメリル・ストリープだ。映画が何を描くべきかが明確で、それが役者によって体現されていて、その微妙な感情の推移に感情移入もできて、とそのストーリーとかドラマツルギー以前の映画的描写のレベルが高いのだ。

 そしてアン・ハサウェイ演じるヒロインの成長物語としても、仕事に生きる女の孤独も、謀略と逆転劇と。

 やはり良くできた映画だ。


2026年6月8日月曜日

『勝手にふるえてろ』-消化不良

 『私をくいとめて』の大九明子の前作。松岡茉優の初主演映画なのだという。あれほどの活躍をしていて、意外ではある。その次の主演作が『蜜蜂と遠雷』なのか。

 『私をくいとめて』と同じく綿矢りさの原作。どちらも妄想癖のある主人公の日常を描くから、現実の境界が曖昧な描写が特徴。いや、設定が似すぎだろ。ありなのか、これは。

 それと、のんも松岡も、これが「冴えない」コミュ障なのかというのがどうもすんなりと受け入れられない。コミュ障はともかく、どうみても可愛い。これで人に好かれにくいという設定が難しい。といって本当にそういうキャラクターが似合う女優が演じて、それでも魅力的に見せなければならないとなると、それはそれで難しいだろうが。

 あちこちでこれは喜べば良いのか悲しめば良いのか観客として判断に迷う場面が続いて、最後の「勝手にふるえてろ」の解釈ができなかったこともあって消化不良。 


2026年5月29日金曜日

『侍タイムスリッパー』-映画業界の自己愛

 『銀河の一票』で山口馬木也が良い芝居をしてるなあと思って、出世作を見ようと。

 なるほど、山口は素晴らしかった。顔立ちがちゃんと「侍」然として表情も内面の葛藤を表現している。

 とはいえ、脚本の甘さと演出の甘さはいかんともしがたい。脚本兼監督の安田淳一の目線の低さは、本当に素人レベルとしか感じられない。

 低予算映画のヒットということで『カメラを止めるな』の再来らしいのだが、観始めると全然レベルが違う。役者陣の演出が甘くて、いわゆる学芸会。だがこれは役者が下手だというより演出の目線が低いのだろうと思われる。

 それでも、中盤からの意外な展開が、確かにわずかに面白さを感じさせるから、そこに注目すれば、面白い映画だったという感想はありうる。だがそこから発展させられる可能性ばかりがあれこれ浮かんでしまって、せっかくの美点も惜しいばかり。

 これは一体何事だろう。これが日本アカデミー賞の作品賞となっているという事態は。

 たぶん映画業界の自己愛なのだろうというのが推測(憶測、邪推)だ。映画作りそのものを題材とした映画がアカデミー賞で高評価となるというのは『桐島部活辞めるってよ』のアカデミー賞にもそう思った。あちらはそれなりにあれこれ感じる人もいるらしいので好みの問題なのかもしれないが、本作の方は、特別に映画製作に思い入れのない観客から見ても、これが本当に強い物語たりえていると、アカデミー賞関係者は思っているのだろうか。この、スカスカで浅い映画が。

 『カメラを止めるな』がアカデミー作品賞をとれなかったのは『万引き家族』が同じ年だったから仕方ないとはいえ、脚本から役者陣の演技まで、魅力に満ちた奇跡のようなあの映画と本作を並べて語ることなど、とてもできない。圧倒的な脚本の力量の差はもちろん、本作では編集のタイミングさえぎこちないと感じられる(だというのに、アカデミー賞では編集賞!!)。

 米国アカデミー賞はやはりアメリカの状況を反映した選考に、日本人にはピンとこないこともありつつも理解もできるのだが、日本アカデミー賞はこういう選考をするから信用できない。


2026年5月10日日曜日

『特捜部Q 知りすぎたマルコ』

 『特捜部Q』は主要キャストを代えて続くようだ。安っぽさはまったくないが、さりとて面白いとは思えず、何となく見終えた。なんだろうと『檻の中の女』を見直してみたらちゃんと面白かった。

 瑕疵がないことと、面白いことは別、なのか、観ていた姿勢が悪かったのか。

2026年4月29日水曜日

『冬のなんかさ 春のなんかね』-リアル/アンリアル

 映画監督としての今泉力哉作品は観ていないのだが、映画監督がテレビドラマを撮って圧倒的なクオリティを示す例は是枝裕和の『ゴーイングマイホーム』で驚嘆したことがある。

 観始めると、とにかくうまい。どこまで演出かわからない自然さで登場人物が演じる。微妙なアドリブが許されているのか、言い淀みとか言い直しとかを含む台詞回しと間。カメラの切り替えなのか編集なのか、シーンの長い芝居をたっぷり見せて、感情の微妙な動きを豊かに描く。

 これが映画を本職とする監督のレベルかと舌を巻いていると、脚本も今泉。器用だ。

 フィクションは、そのメディアの語りの上手さが十分に発揮されていれば、それだけで快感ではある。

 にもかかわらず、お話としてはいささかうんざりする部分があちこちにあって、終わりもまた後味が良いとは言えない。それは現実の苦さだといって納得できるわけでもない。途中の人物描写はむしろ現実離れしている。特に主人公の元彼たちは総じて。

 リアルだと思える描写と、どうにも現実離れした設定やら人物造型やらが同居している。

2026年4月27日月曜日

『花束みたいな恋をした』-閉鎖感

 坂元裕二の脚本に対する期待から、かえって観ることをためらっていたふしもある。宇田丸さんが言うように面白いんだろうか、と。

 さて総評としてはそれほど楽しめなかった。『問題のあるレストラン』でも『カルテット』でも、『大豆田』でも『初恋の悪魔』でも、あんなに面白いテレビドラマに対して、この映画での盛りあがらなさと抵抗感はなんだろう。クドカンにおけるテレビドラマと映画の差も連想される。

 一つにはテレビドラマには、あの長い時間をかけて「彼ら」に感情移入していくことの力がある。その分喪失感は大きい。映画ではあれよと時間が展開して、それほど思い入れないまま、何かが失われるにしても痛みは小さい。

 それだけでなく、テレビドラマが隅々まで面白いように、例えば本作は楽しくはなかった。ひとつには「やりすぎ」だと思えてしまったこともある。主人二人の共通点が、これでもかと描かれるが、それはいくらなんでも偶然が過ぎる。

 最初の押井守をカフェで見かける興奮には共感したが。

 それから、やっぱり主人公二人がそれほど好きになれなかったということかもしれない。例えば最近作で言うと『初恋の悪魔』は、 林遣都の「鹿浜」さんに好感が持てたから、あれほど切なかったのだ。本作ではそうはならなかった。なんだろう。二人は共通点で惹かれ合っているが、それは本人たちの人間的魅力なんだろうか。どうもそういうふうには感じなくて、二人の世界の「閉鎖」感にうんざりしたのかもしれない。


2026年4月4日土曜日

『一秒先の彼/彼女』-改悪

 2年越しの宿題で、日本版を。

 宮藤官九郎にはずれなしの評価は、映画ではいくらか外れるのだが、これはまた本当にひどい裏切りだった。ちっとも面白くならない。最大の問題はキャスティングだとは思うものの、クドカンの脚本がいささかもそれを救っていない。この物語の魅力の一つは伏線回収の構成の妙にある。こういうのはクドカンの得意技ではないか。それが、原作のいくつかの伏線を省略した上で、加わるところは何もない。どこまでが脚本の問題なのかはわからないとはいえ、リメイクの際に付け加わった変更が成功しているところがあるとは思えない。主人公と同居する妹カップルとか謎の洛中マウントとか、何の面白みも生んでいない。

 そのわりに、原作では前編の後半(映画全体が二章構成で、その前編の後半)で、ヒロインが謎を解くべく奔走する、ロードムービー的展開で、物語がみるみる魅力的になっていったくだりだったのに、それが大幅にカットされている。それは主人公が消えた1日を探す旅であるとともに、後半で男性主人公の思いに気づいていく重要な助走であるはずなのに。

 こうした構成上の問題もあるとはいえ最大の問題はキャスティングだ。男女逆転の配役は、それだけで失敗が必然的とは言うまい。だが結果的には致命的な失敗だった。台湾版の二人が、それぞれに冴えない30代で、それだけにその愛嬌や誠実さや不器用さや前向きさが愛おしいと思えるキャラクターであり得るのに、それを岡田将生と清原果耶にして、どう「冴えない」と思えば良いのか。

 前半主人公の台湾版のヒロイン、ペティ・リーは美人ではないが愛嬌があって、映画が進むにつれてみるみる魅力的になっていくというのに、岡田将生は見た目に反して冴えないという設定になってはいるが、単に嫌な感じの人物になってしまっている。対する後半主人公のリゥ・クアンティンは(いくらか個人的な事情で特別の思い入れもあるとはいえ)不器用で愛すべき人物として感じられるのに、清原が「パッとしない」と言われても無理がある。リゥ・クアンティンがどれほどヒロインを大事に思っているかを、清原は、あの演技力があったとて、到底実現してはいない。リゥがペティを大切に思うことは切実に感じられるのに、清原が岡田を大切に思うことに、まるで共感できない。何であんなやつにとだけ思えるばかりで、まるで共感できない。

 それでも監督がなんとかしてくれ。一体何をしようとしているんだ。単に本家の魅力を殺いで殺いで、何を付け加えるつもりなのか。いや、単にカメラワークとか編集とかいった映画本来の要素でさえ、本家のうまさに比べて全く印象に残らないほど凡庸なのは一体何なのか。

 製作の都合で短くなっているせいであれこれ削られているのかと思って上映時間をみると、台湾版と同じ2時間。豊かな時間に満ちていたように思える台湾版に比べて、あれこれが「ない」と思えるのに。手応えはまるでスカスカ。

 どうもおかしい、あの感動は気のせいだったのか、と台湾版を見直してみた。どちらも2時間あるので、余裕のある休日とはいえ、すっかり夜更かし。

 設定がわかってしまってからだと、あの驚愕の展開や構成の妙からくる感動は失われているかと思いきや、台湾版はやはり細部に至るまで素晴らしいのだった。軽妙な笑いを生み出す台詞回しこそ得意であるはずのクドカンでは全く可笑しくなかったというのに、こちらは可笑しくて笑ってしまうほどのユーモアが横溢している。それは主人公の二人に対する愛おしさゆえに、温かい気持ちで受け入れられる笑いだ。岡田の「嫌なヤツ」に笑う気にはなれないし、清原は外れ役に痛々しいばかり。

 それだけではなく原作では、牡蠣養殖場をバスが走るシーンの美しさとか、時間の止まった街の異常さに、いつしか心浮き立っていくくだりとか、日本版からはすっかり抜け落ちてしまった映画的な魅力にも溢れている。

 そしてやはり台湾版ではヒロインを思う男性主人公の健気さがひしひしと胸を打つ。やはり物語の核心はそこにある。その切実さがユーモアとともに、観客に共感されていく。それに対して、清原がそれを感じさせないのは本当に残念だ。単に大学7回生というくらいでは「冴えない」が現前してこない。岡田を大切に思う気持ちに、まるで共感できない。

 そしてそのキャスティングのせいで、バス運転手役にあらためて荒川良々を物語に介入させることで整合性をとるしかなくなっているのだが、これはまた全く何の魅力も増しておらず、単にそこに時間がかかるぶん差し引きが大きくマイナスになるだけ。原作ではリゥはバスを運転しながら、時間の止まったペティに「真相」を語る。日本版では清原が語るのが荒川相手になるのは、辻褄としてはしょうがないのだが、これで本家の感動的な語りはすっかり台無しになっている。リゥの語りはまっすぐにペティに向けられていて、それを受け止めるペティは笑顔のまま固まっている(ここは物語の展開を詳述しないが、これもまた周到に伏線が張られた結果としてそうなっている)。ここに物語上必然性を持たせられなかった改作版では、岡田は無表情のまま。これがどれほど物語の興趣を殺いでいるか。本当に残念な改悪だった。

 山下敦弘は「リンダ リンダ リンダ」でも、雨の中で登場人物を演技させるというリアリティより「劇的さ」を優先する演出に醒めて評価できなかったのだが、本作はもっとはっきりと落胆した。あれほど素晴らしい原作があるというのにこの駄作ぶりは何事だ。いくら「大人の事情」があろうとも。いや、この一観客の嘆きを受け止める責任こそ「大人」であるべきだ。


2026年4月2日木曜日

『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

 こちらが本命で前作を観たのだった。前作の準主役の本田望結が、こちらでは主役となる。前作で「きさらぎ駅」に残してきた恒内を救うために異世界に戻る。

 冒頭、モキュメンタリーふうに展開するので、これは白石晃士監督だったっけと思ったが違った。CGの安っぽさも白石作品を彷彿とさせるが。

 そこで異世界に戻る動機を説明しておいて、さて「きさらぎ駅」に戻ってからの展開はおなじみ。先の展開を知っているぞと思うと、ところどころ微妙に変化したりもする。で、やっぱりうまくいかないと思っていると展開の冒頭に戻る。あれっ、これはループものではないか!

 となれば、これはやりなおしながらクリアを目指すことになるのだが、その過程でどんどん面白くなっていった。試行錯誤で課題を解決していく創意工夫も、習熟して敵を打ち倒す爽快感も楽しい。演出はそれを意図して「ノって」いることが明らかだった。

 まるでホラーではない。前作も怖くはなかったが本作は怖くなりようがない。同乗者が「仲間」になっていくのだ。不愉快でしかなかったあのホラーにおける脇役が。彼らは通常、不愉快であることと引き換えにホラーにおける犠牲者となるのがお約束なのだが、本作では物語が進むにつれて、主人公とともに課題をクリアしようとする盟友になってくる。『遺書、公開。』の映画版は、原作のその要素が削られていたのが残念だったが、こんなところでその要素が満たされる映画に出くわそうとは。

 本作の本田望結は前向きで真摯で、いくらか脳天気ともいえる明るさが魅力的で、本作の味わいにもおおいにプラス要素だった。


2026年4月1日水曜日

2026年第1クール(1-3)のアニメ

『グノーシア』

 前クールから引き続き。

 結局面白くならなかった。あの絵のうまさで、あの豪華声優陣で、なぜ、という感じだが、そもそもどう面白さが想定されているのか、ゲームをやっていない身には想像できない。船に乗り合わせる登場人物たちの仲間意識が育まれていく過程など、感情移入できれば面白くなるだろうに、それもできず、原作に感動した二人の話を聞くに、原作の喪失感や喜びが、アニメでは感じられないというのは口を揃えて証言しているので、アニメだけ見ていたこちらにはいかんともしがたいか。


『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』

 2クール連続。原作の面白さがアニメでも伝わってくるようで、毎週楽しみだった。が、話としてはこれで終わって、何の大団円でもない。相変わらず世界は危機のままだ。本家「仮面ライダー」では2話で、あっという間に解決してしまう「怪人」2体に、こちらの人類は2クールかけても「ひと泡吹かせた」程度の反撃しかしていない。いや、まだ人類は何もしてはいない。民間の素人が草の根で活動しているだけだ。この、超現実のSF設定にミスマッチングな日常展開と、それでも日常を柴田ヨクサル的にはみ出していく過剰さと、どう決着するでもない物語的構造が妙な手触りのまま終わった。アニメはクールの切れ目で終わるものの、原作はどう決着させるんだろう。


『死亡遊戯で飯を食う』

 とにかく全編、美術の雰囲気が良いなあと思い続けて観たが、いかんせん、人物が覚えられないで、感情移入もできずに終わった。この説明不足な感じも、時間の流れがやたらとゆっくりなのも、終わってから調べると『義妹生活』の監督だというので納得。しかし面白いと思えるためには決定的に不親切なアニメ化だった。いや、一気見しないとだめなのか?


 ここんとこ何本か観るようになってしまったラノベ異世界物3本。

『異世界の沙汰は社畜次第』

 3年くらい前までは最初からトばしていた転生ものという設定の安易さはもはや文句を言ってもしょうがないほど自然なものになってしまい、ただただ面白いかどうかだけが問題なのだろう。

 本作は「社畜」などという設定を持ち込んで、かつBL物という、誰得なのかという異世界魔法物。そういった要素には興味がないが、真面目な人柄がちゃんと異世界でも有用性を持っていて、それが認められていくという物語の進行は基本的に心地よい。真面目な分、結構笑えた。最初から悪ふざけをしているアニメだと笑えない。

『穏やか貴族の休暇のすすめ。』

 絵柄的には驚くほど『社畜』と似ている。こちらは異世界から異世界への転生のようでわけがわからない。見るだけで人々が「貴族様?」と思う印象というのも、どういう設定なのだか。やたらと人に好かれる、というか彼に好かれたがるという属性があるところがチート。

『魔術師クノンは見えている』

 主演の少年役を早見沙織が演ずる。これもチートなところが安易ではあるが、調子の良い主人公が嫌みでもないユーモアをもっていて、これが明るくて楽しかった。


『ダーウィン事変』

 思想的にも現実認識的にもレベルの高さはさすがの『アフタヌーン』クオリティだった。ただ、物語としてどんどん先を見たくなる面白さだったかと言えばそうでもない。しかも全く途中のままこのクールが終わって、これは完全に続くのだが、2クール放送でもない。もどかしい。

 opの髭男「Make Me Wonder」は髭男史上でも1,2を争う名曲だった。


『違国日記』

 1話の放送後に観て、あまりの素晴らしさに感嘆して思わず娘にその素晴らしさを伝えたのだが、その後、毎週観ることはやめて完結まで録画して、それを3回に分けて観た。最後はラスト4話を続けて観たのだが、いやはやすごいアニメ作品だった。原作未読でそれが素晴らしいことは想像に難くないが、同じヤマシタトモコ作品のアニメ化として素晴らしかった『さんかく窓の外側は夜』に比べても圧倒的だった。何が素晴らしいと言葉にするのは難しい。牛尾憲輔の音楽が絶妙な「違国」感を感じさせつつ、音楽として気持ちよいのに目立ちすぎないのにも終始感心し続けたし、沢城みゆきはこの間の『よふかしのうた』に続いてそれそれは見事な人物像を造型した。森風子も、あれこれ出過ぎの諏訪部順一も、本作はとりわけ素晴らしかった。原作の演出なんだろうが、ドラマの途中で突如虚構の異空間に重なっていくのは、同様の演出をした『小市民シリーズ』に比べてもはるかに効果的だった。主人公の一方が小説家ということもあってか、言葉の扱いが繊細なのも嬉しかった。

 それにしてもドラマとしての人物描写、台詞、エピソード展開が、たぶん原作の魅力を欠かすことなく描ききっているのだろう。もしかしたら増幅しているのではなかろうかとさえ思えるほど繊細な描写でアニメ化した本作は、『呪術廻戦』『チェンソーマン』などの化物とは別の意味で数年に一度の傑作だった。


『ゴールデンカムイ 最終章』

 このクールの初回を観たら、前からのつながりがまるで思い出せないので、先に原作を通読した。通読は初めてでこれは圧倒的な盛り上がりだったのだが、その直後に観てみると、やはり原作ほどには面白くならないのだった。お話の面白さで観られるとはいえ。

 だが最後の最後、これから終わりに向けて怒濤の展開、というところで一段落。間に1,2クールをおいて次が最終回までいくのな。


『勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録』

 一話冒頭からその圧倒的な作画力、演出力に驚嘆して、放送終了まで待ってからまとめて観た。そのままレベルを落とさずに最後までクールを終えた。『呪術廻戦』や『チェンソーマン』のような化物もあるとはいえ、これもテレビアニメとしては最高レベル。

 ドラマとしても、最終話の強さに感心して、これは続きを期待しよう。


『地獄楽 第二期』

 第一期は1クールの中でだんだん作画の質が落ちてきたのと、どんどん敵が人知を超えたものになりすぎて冷めていったが、二期はまた残った者たちのそれぞれのキャラクター立ちと「チーム」としてのまとまりができていく過程に思い入れて、楽しく観た。やはり背景となる過去編が語られるとにわかに物語に立体感が増す。

 お話は完全に次のクールに続くな。


『呪術廻戦 死滅回游 前編』

 肝心の「死滅回游」の設定がちっともわからないのだが、アニメーションは呆れるようなレベルで、戦闘シーンのイマジネーションの奔流に圧倒される。たぶん世界最高峰の映像コンテンツだ。ハリウッド映画でもこのレベルの物はない。


『【推しの子】第3期』

 前のクールではアニメーションの質の高さと芸能界裏話のリアルさに感心することしきりだったが、このクールはそれぞれのドラマの掘り下げが胸をつく展開になった。クールの最後で大ネタを入れてきて、これは最後に持ってくるのでは予想していたネタだったのでいささか残念ではあったが、やはり感動的だった。


『勇者のクズ』

 2クール続きらしいので、保留。


『葬送のフリーレン 第2期』『TRIGUN STARGAZE』は録画したものの、いつ観るのやら。


これ以外にも5話目くらいまでは見ていて、見切りをつけたのもいくつかあり、忙しい(というか未消化な)クールだった。


2026年3月10日火曜日

『テミスの不確かな法廷』-法律とASD

 法廷ものとしてまず関心をもつ。主役の松山ケンイチ演ずる判事は高機能自閉症スペクトラムという設定だが、そういえば『僕達はまだその星の校則を知らない』のスクールロイヤー(弁護士)も軽微なそれであるような描かれ方をしていた。ASDと法律は相性が良いように、それぞれのドラマで描かれている。実態としてそういう傾向があるのかはわからないが。

 全体に、感動的な場面がいくつもあった優れたドラマだった。

 『シナントロープ』のレギュラーメンバーだった鳴海唯が、あちらとはまるで印象の違う軽やかさでヒロインを演じていて、調べてみると『地震のあとで』にも出ていて、あの子か! と結びついた。これは今後に期待かもしれない。

 松山ケンイチはむろん見事だったが、上司の遠藤憲一がまた素晴らしかった。現実と理想の間で引き裂かれながら職務に努めるリアリティと虚構性のせめぎ合いを見事に演じていた。

 最後のエピソードは、複雑な設定が徐々に明かされるミステリー的興味もあり、よくできているなあと感心もした。

 「分からないことを分かっていないと、分からないことは分からない」は授業でも引用したり。

『きさらぎ駅』-安っぽい異世界

 ネット怪談としての「きさらぎ駅」というモチーフに詳しいわけではない。2チャンネルのユーザーではないからまとめて追ったことはなく、いろいろな作品に出てくるので知っているくらい。配信のおすすめに本作がやたらと上がってくるなあと思ってはいるが積極的に見ようという動機はなかった。が、続編の評価がそこそこ高いので、気楽に見られるホラーとして観てしまおうかと。

 いや恐ろしく安っぽかった。あんなCGで劇場版として公開していいのかと思うほど。だがまあそこに金をかけたCGで異界を作ったからといって面白くなるというものでもないのだろう。

 怖かったかというと全く怖くはない。同監督の『真・鮫島事件』の方がずっと怖い。あれも同様に安っぽいCGに驚いたが。

 不思議なことが起こる展開は基本、元になっている都市伝説(いや田舎だが)から引き継いでいるんだろうが、登場人物がゾンビみたいな化け物として襲ってくるなんて展開は原話にはなかったはずだ。そのメイクもまた安っぽい。そして、それらが襲ってくる理由もわからない。その不思議展開も、多分何かの「象徴」だったりするような意味はたぶんない。

 ホラーにおける脇役は不愉快な言動をするのがお決まりで、これもまた定型を守っていたが、残念なことに主演の恒松祐里も魅力的な人物ではなかった。

 このないない尽くしで、うんざりするばかりかというと、これが、なんだか妙に面白かったのだ。これはひとえに原話の世界観の魅力なのだろうと思われる。異世界観を出そうと、いくらか色味を変えたりCGで靄をかけたりしているが、結局はまるで現実のロケ地そのままであることがまるわかりなところが間抜けなのだが、そのことがかえってこの都市伝説の魅力であるようにも感じられる。ただの知らない街並みが、しかし異世界でもある、という。


2026年3月8日日曜日

『グッドワン』-苦い

 父親とその友人の山登りに付き合う女子高生という設定は珍しくはないというべきなんだろうか。父親のアウトドア趣味に家族総じて付き合う習慣の家庭というのはもちろんあるんだろうが、離婚を経て父親の元で暮らす女子高生が、それでも付き合い続けるというのが普通のことなのかどうか。珍しいからこそ題材にされたのかもしれないが。

 とはいえ地味な映画だった。劇的なことは起こらず、一夜の登山行を追って、そこで起こる感情の起伏を描いていく。離婚をめぐる親世代の屈託に対し、悟ったような、妙に醒めたような態度で接する娘は、しかし登山行自体にはつきあっている。娘の鬱屈もあるのだろうが、それが前面に出るよりも、父親たちに対して、時にはできるだけ好意的に、しかし苛立ちや哀しみを覚えつつ接していく過程が、静かに描かれる。

 終盤、不意に娘が親たちを置いて一人で下山してしまう。麓に置いた車で待つうちに、追いついてきた父親が訳を聞くが、娘は明確には答えない。この展開に、一緒に観ていた娘はわけがわからないと言っていたが、これは確かに言葉にするのは難しい感情の機微が描かれているということなのだろう(別に不条理を描こうとしているということではなく)。

 敢えて言葉にすれば、人生を長く続けていても、それほどうまい生き方をできるわけではない中年たちに、怒りと失望を覚え、それを表明しているのだろうとは思う。娘にとって人生の希望や憧れではあり続けられない先達の姿は哀しくも苛立たしい。不機嫌な娘を強くは責められない父親も、それを感じとっている。

 山の景色は美しかったが、苦い映画だった。それでも娘を「グッドワン」と呼ぶことに救いを見出すべきなんだろう。たぶん。


2026年3月1日日曜日

『六人の嘘つきな大学生』-ドラマの失敗

 ミステリーなのだろうと思いつつも、就職活動を題材にしたとなれば『何者』を思い出しもする。同時に、会議室の中で嘘と本音が絡み合うドラマが展開するSSSでもあるんだろうと期待もする。

 ま、そうなのだが、会議室展開は半分で終わって、一応の「真相」が明らかになり、とはいえ時間的にそれだけでも終わらないんだろうと思っていると後半でどんでん返しが行われる。

 お話のつくりは悪くない。好みではある。だが演出としては心理の描き方があまりに大げさで芝居がかって醒める。ドラマを作ろうとして失敗している。後半の、登場人物の病没の設定も、どういう必要があるのかわからない。真相の掘り起こしのためではあるのだが、何か喪失感のような感情を呼び起こすというわけでもないのに。

 監督は『キサラギ』の佐藤祐市なのか。これ以外の作品を観ていないのだが、『キサラギ』も脚本の勝利なんだろうと思っていて、監督を評価してはいなかったのだが。


2026年2月25日水曜日

『ゲッタウェイ』-わからない

 スティーブ・マックイーンつながりで、録画「積ん読」状態だったのを観てしまおうと。

 『パピヨン』と同時期の本作、『パピヨン』では老けメイクも見せたが、こちらは終始、実にかっこよかった。

 とはいえ『パピヨン』とは違って悪党ではある。こういうのはどうやって観たものか。フィクションを享受するのに、別に不道徳であることをことさらに忌避するつもりはないのだが、さりとて共感できるかと言えばそれも難しい。

 対抗する悪役は実に悪辣で、それは見事な悪役なのだが、大詰めまで迫ってきてあっさり倒される。

 ああいうあっさりさ加減がサム・ペキンパーの美学なのだろうか。よくわからない。

 あんなに酷い話が何やらハッピーエンド風に終わるのも。

2026年2月22日日曜日

『パピヨン』-不屈

 子供の頃に観た記憶はあるが、それが小学生なのか中学生なのかもからない。脱獄物だから、ストーリーの骨格は単純で、とにかくラストシーンの、断崖から海に飛び降りる画を覚えている。

 脱獄物といえばNHKのドラマ『破獄』で、あれはまた希有なドラマだった。調べてみると放送は大学時代だから、録画もできずに放送時に観たのだったか。強い印象を受けていたところ、そのちょっと後に我が恩師となる教官が学生に薦めたい小説としてこの原作小説を挙げていたので驚きもし、その後原作も読んだのだった。

 数年前に再放送されたものはさすがに録画して観た。これはまた時代を経てもまるで古びない、おそろしい手応えの作品だった。

 さてさらに間隔を開けての本作は、驚くほど『破獄』と似た印象だった。そしてまたブログを繙いてみると、10年前に『ショーシャンクの空に』のことを書いた中で『破獄』と本作を並べて言及しているのだった。そう、共通テーマはやはり「不屈」なのだった。

 見直してみても、スティーブ・マックイーンのタフさがすごい。そもそもがタフガイのアクションスターというのが定番イメージだが、こちらはもちろん精神的な意味で。

 脱獄を企てると独房に入れられる。二回の脱獄でそれぞれ2年と5年。独房というのは監視の必要よりも罰としての意味合いが強いのだろう。想像だに恐怖だ。それだけでなくその途中で、覆いをして真っ暗にされるという罰が追加される。これが精神的にどれほどの苦痛か想像するだけで怖くてたまらない。

 孤独や不自由に対する苦痛だけでなく、否応なく衰えていく肉体に対する恐怖もまた。歯が抜けるシーンの怖さ。

 それでも友の名を売らず、自由への意志も失わない。二度目の独房入りから解放されると既に肉体は老人となっているにもかかわらず、自由を求めることが存在そのものであるかのように次の計画を考える(この老人のメイキャップがまた見事だった。歩き方も完全に老人に見える。タフガイのアクションスターが、本当に体まで縮んだかのように。これは『破獄』の緒形拳も見事だった)。


 ダブル主演のダスティン・ホフマンとの友情も感動的。可能なところでは助けようとするが、それぞれの意志は尊重しようとする。最後の流刑地で、それなりに安住しているダスティン・ホフマンが、自由への意志を失わない「パピヨン」を疎みながらも再会を喜び、自由への一歩を二人で踏み出すところでためらって別れるシーンはやはり胸が熱くなった。


2026年2月16日月曜日

『ひゃくえむ。』-勝敗の向こう

 映画館にはしばらくご無沙汰だったのに、二週連続で映画を見に行く機会があろうとは思わなかった。仕事が早くにひけて、思い立って。

 『チ。』の高評価からこれも期待してしまう。岩井澤健治も『音楽』は全面支持とは言わないが、アニメ表現としては面白かったから、やはり期待できる。


 ロトスコープを使ったリアルな(だからこそ違和感のある)動きは、音楽よりもスポーツをテーマとするアニメとしては効果的だったし、それがレース終盤で崩れていくところは「茄子-アンダルシアの夏」を思い出したりもして一人で盛り上がった。

 映画館で観る効用はやはり音だが、画面が大きいのももちろん良かった。いくつかの重要なレースの演出は申し分なくよくできていた。挿入曲のロックが鳴り出すと高揚感にとらわれ、走り出すスピード感も、それを自在に追うカメラワークも、観る者をその場に引き込んでしまう。


 小山ゆうの『スプリンター』の話を最近家族でしたので、どうにも連想が働いてしまう。どちらも、何かを得るために何かを犠牲にすることの恐怖とどう向き合うかが共通したモチーフではある。もちろん『スプリンター』の方が「犠牲」は大きい。命をかける。それと引き換えに手にしたいものは栄光よりも100m走の果てに到達する「真理」のように描かれていた。その意味では『ひゃくえむ。』よりもむしろ『チ。』に似ているとも言える。

 『ひゃくえむ。』では、いいところ選手「生命」くらいではある。栄光と競技は引き換えではない。むしろ競技を続けることでしか栄光が失われていくのを止められない。

 いや、プライドが引き換えになっているとは言える。この哀感をトガシが引き受けている。中学で一度競技をやめてしまうのも、社会人編で競技を続けることが企業との選手契約の「更新」の条件であるという現実がつきつけられるのも、続けることと磨り減っていくプライドが天秤にかけられているとは言える。

 それに比べると小宮の、スプリントへの執着は描き込みが不十分だと感じられたが、これは原作から落とされてしまっているのかもしれない。子供編も、吃音が「逃れたい現実」の一つであることはわかるが、たぶんそれだけでない家庭の事情などもありそうではある。が、そこは描かれない。高校編では怪我への恐怖が描かれるがそれを乗り越えて走ることに執着させるのが何なのかはよくわからない。

 もちろんそれが子供時代にトガシが言った「一番速く走れれば何でも解決する(不正確)」という言葉の呪縛であることはわかる。だがそれに執着させる動因がどうもわからない。大人編では既に成功者であり、特に迷いが描かれるわけではない。

 トガシの哀感は十分感動的だったが、魅力的なキャラクターであろう小宮の描き込みがここまでなのはやや残念。これは原作からのシナリオ化にあたっての改変なのかもしれないが。

 それでも、長い時間を経てきた登場人物たちが最後のスプリントで相まみえる最後の場面はやはり感動的だった。それぞれの思い、いろんな関係者の思いを背負って走る最後のレースは、しかし現実には決着がつく。様々な格闘技で、それ以外のスポーツ競技で、先の衆議院選挙でさえ。そこで快哉を叫ぶにせよ、痛みに耐えるにせよ、そうした強い思いの詰め込まれた場面に、やはり強く感情が動かされてしまうのだった。

p.s.

 『スプリンター』を再読してみて、原作からアニメ化にあたって改作されている或るシーンが、完全に『スプリンター』からの引用であることを発見した。脚本家なのか監督なのか。盗用などではない。改変する必要など特にあるわけではないから、完全なリスペクトによるオマージュなのだろう。嬉しい発見だった。再読ではあらためて『スプリンター』の凄みを確認したり。


2026年2月9日月曜日

『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

 前日の雪が若干残って不安だったので、車ではなく電車で出勤する。せっかくだから駅前の映画館に行くことにした。上映中の映画から選んだ一本に、着いてみると間に合わず、時間の合う中からチャック・ベリーのドキュメンタリー映画を。

 ドキュメンタリーといいつつ、全編ほとんどがライブシーンだった。本人のもあるが、彼をリスペクトする後代の大物ミュージシャンのカバーも。コラボレーションも。ビートルズやストーンズや。

 演奏は楽しかったし、これを映画館で観るのは音響的にも恵まれている。

 とはいえドキュメンタリー映画としてはこの間の『メイキング・オブ・モータウン』の圧倒的な面白さには比ぶべくもない。シンプルに演奏シーンを並べただけで、『モータウン』がアメリカ音楽史であるようには、それ以上の存在であるはずのチャック・ベリーの「意味」が語られているというには物足りない。様々なミュージシャンの言葉の断片も、公式サイトの映画紹介で全部見たなあと思ったり。

 ライブシーンだけだと、きっとYouTube上で観られたりするんだろうなあ、などと思ってしまうのも期待の水準が上がってしまう要因ではあるが。

2026年2月8日日曜日

『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

 スクールカースト最上位にある女生徒が突然自殺し、その「遺書」がクラス全生徒に配られる。自殺の動機をめぐって、HRを利用した「遺書」の公開が行われる…。もうこの設定だけで、いやおうなく期待してしまう。

 とはいえお話はすっかり知っている。というか原作に対する確かな信頼から、映画はダメに違いないなどと先入観を持っていたが、やはり興味が勝って観始める。

 いや、悪くない。途中で気になって、原作を読み直してみる。意外に丁寧に実写化しているのだとわかる。ただ、漫画では気にならないリアリティの水準が、実写で人間に演じられてしまうとちょっと鼻白むような大げさに感じられてもしまう。

 が、その分、演技の迫力が物語の力を増しているところもある。とりわけ、高石あかりはすごかった。『この星の校則』での繊細な感情表現も見事だったが、こちらの狂気を含んだ昂ぶりはまた圧倒的だった。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん原作のミステリー要素にある。そこが、映画の尺の中ではかなり忠実に再現されているのは好感が持てた。いや、本当にそこだけを原作並みに再現するなら、まだやれたと思われる。割愛されてしまっている要素はあった。だからこれは映画のバランスを考えてのことだとは思われる。それでも、バランスよりもそこをつきつめてほしいとも思う。

 さて、久しぶりに一気に通読した原作は相変わらず素晴らしかった。物語の展開にともなって秘められた意外な設定が次第に明らかになる、ミステリーとしての常套手段、ドンデン返し的構成も堅実だが、何より、遺書という「テクスト」をめぐるミステリーという設定が魅力的だ。前例はある。エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの謎』は新聞記事を読み解く「安楽椅子探偵」物で、まったく「テクスト」読解をめぐるミステリーだった。島田荘司の『眩暈』も謎の手記を読解していくミステリーだった。

 そもそも探偵小説というジャンル自体が、テクスト解釈であるとも言える。読者は小説本文というテクストを読解していくのだ。上記のような物語はそれを入れ子状に見せている。考えてみればそういう先例もあるとはいえ、少年漫画で、このようなテクスト解釈の多義性をめぐる読み換えがこれほどかと思わされる豊穣さで陳列される圧巻の展開に翻弄され、それによって生ずる心理ドラマに酔い、休日の一日、実に幸せな時間を過ごした。


2026年1月18日日曜日

『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

 観たことはある。さりとて、十数年ぶりに観始めて、見覚えがあるなどということはちっとも感じない。それどころか、終盤で明かされる大どんでん返しの基本設定をさえ忘れていた。ひどい。

 とはいえ序盤の展開と最後のカタストロフは覚えていた。どうなっちゃうんだ、これ、というラストシーン。

 なるほど、序盤の「ファイトクラブ」の発足にいたる、日常をぶち壊したい願望はうまい。というか、うまいのは全編で、やはりデビット・フィンチャーだ。壊したいという願望と、まもるべきという執着がせめぎあう終盤のスピード感も無論うまい。

 だから面白い映画ではあるのだが、集中して映画を楽しむぞ、という構えがないと「うまい」が「楽しい」や「面白い」につながらない。

 それにしても、あの日常破壊願望は、どの程度、人々に共感されているのだろう。されているからこその人気作ではあるのだろうが。


2026年1月3日土曜日

『さよならピーチ』-映画に生きる

 PFF(ぴあフィルムフェスティバル)2024のエンタテインメント賞受賞作品。どこにどういう佳品が眠っていることかと気になって、時折TV番組表で目につくと観てしまう。短編なのかと思って観始めると続く続く。結局2時間4分もあった。途中でやめようとは思わなかった。というか、結局面白かった。が、説明が難しい。

 京都芸術大学の映画科の学生、遠藤愛海監督の卒業制作だという。物語も、そのまま、芸術大学の映画科の学生が自主映画を作る過程で不思議な出来事が起こる話。高校演劇でもしばしば演劇部が舞台になるが、同様に映画を作ろうとする学生が映画作りを題材に映画を作るのは、狭い世界に閉じこもるばかりで創造性の広がりに欠けるのではないかという懸念ももちろんある。だが、真剣に取り組んでいることにこそ、掘り下げもリアリティも愛もある、とも言える。高校演劇の演劇部ものも、やはり面白かったりもする。

 大学生活を終えて、自分が社会に出ることをどう受け入れるかというテーマでは、最近観た中では『何者』を思い出してしまうが、予算規模がたぶん何十倍と違うはずのあちらにも全くひけをとらない。が、どう面白いのかが説明できない。

 ひとまず「意外と」うまかったりする。お話は少々まとまりはなく、突飛でもあるが、カット編集はそつなく、それぞれの人物の感情の機微を描こうという目が確かなものだと感じる。映画的な面白さに流されていない(このあたりは最近のでいえば『時をかける少女』が比較になっている)。

 そうして描かれる人物の中でも、監督役の林ひよりが、演技によるキャラクター作りと、たぶん脚本も、その迷いなくまっすぐな明るさで魅力的だったとは言える。

 ヒロインのひとりである長谷川七虹も、不思議な魅力を出すことに成功していたが、これがまた演技なのか脚本なのか演出なのかわかりにくい(もちろん全部でなければならないのかもしれない)。

 そうなると残るひとり、向井彩夏の主人公「ピーチ」がどうかというと、やはり彼女の感情の揺れ動きが繊細に描かれるからこそ、この物語が成立していることは間違いない。

 人物たちにそれぞれ寄り添いつつ過ごす2時間が、過ぎてから思い出す時に感じる懐かしさを生んでいる。

 映画という物語を生きる感覚。