2026年4月4日土曜日

『一秒先の彼/彼女』-改悪

 2年越しの宿題で、日本版を。

 宮藤官九郎にはずれなしの評価は、映画ではいくらか外れるのだが、これはまた本当にひどい裏切りだった。ちっとも面白くならない。最大の問題はキャスティングだとは思うものの、クドカンの脚本がいささかもそれを救っていない。この物語の魅力の一つは伏線回収の構成の妙にある。こういうのはクドカンの得意技ではないか。それが、原作のいくつかの伏線を省略した上で、加わるところは何もない。どこまでが脚本の問題なのかはわからないとはいえ、リメイクの際に付け加わった変更が成功しているところがあるとは思えない。主人公と同居する妹カップルとか謎の洛中マウントとか、何も生んでいない。

 そのわりに、前半の後半でヒロインが謎を解くべく奔走する、ロードムービー的展開が台湾版がみるみる魅力的になっていたくだりだったのに、それが大幅にカットされている。それは主人公が消えた1日を探す旅であるとともに、後半主人公の思いに気づいていく重要な助走であるはずなのに。

 とはいえ最大の問題はキャスティングだ。男女逆転の配役は、それだけで失敗が必然的とは言うまい。だが結果的には致命的な失敗だった。台湾版の二人が、それぞれに冴えない30代で、それだけにその愛嬌や誠実さや不器用さや前向きさが愛おしいと思えるキャラクターであり得るのに、それを岡田将生と清原果耶にして、どう「冴えない」と思えば良いのか。

 前半主人公の台湾版のヒロイン、ペティ・リーは美人ではないが愛嬌があって、映画が進むにつれてみるみる魅力的になっていくというのに、岡田将生は見た目に反して冴えないという設定になってはいるが、単に嫌な感じの人物になってしまっている。対する後半主人公のリゥ・クアンティンは(いくらか個人的な事情で特別の思い入れもあるとはいえ)不器用で愛すべき人物として感じられるのに、清原が「パッとしない」と言われても無理がある。リゥ・クアンティンがどれほどヒロインを大事に思っているかを、清原は、あの演技力があったとて、到底実現してはいない。リゥがペティを大切に思うことは切実に感じられるのに、清原が岡田を大切に思うことに、まるで共感できない。何であんなやつにとだけ思えるばかりで、まるで共感できない。

 それでも監督がなんとかしてくれ。一体何をしようとしているんだ。単に本家の魅力を殺いで殺いで、何を付け加えるつもりなのか。いや、単にカメラワークとか編集とかいった映画本来の要素でさえ、本家のうまさに比べて全く印象に残らないほど凡庸なのは一体何なのか。

 製作の都合で短くなっているせいであれこれ削られているのかと思って上映時間をみると、台湾版と同じ2時間。豊かな時間に満ちていたように思える台湾版に比べて、あれこれが「ない」と思えるのに。手応えはまるでスカスカ。

 どうもおかしい、あの感動は気のせいだったのか、と台湾版を見直してみた。どちらも2時間あるので、余裕のある休日とはいえ、すっかり夜更かし。

 設定がわかってしまってからだと、あの驚愕の展開や構成の妙からくる感動は失われているかと思いきや、台湾版はやはり細部に至るまで素晴らしいのだった。軽妙な笑いを生み出す台詞回しこそ得意であるはずのクドカンでは全く可笑しくなかったというのに、こちらは可笑しくて笑ってしまうほどのユーモアが横溢している。それは主人公の二人に対する愛おしさゆえに、温かい気持ちで受け入れられる笑いだ。岡田の「嫌なヤツ」に笑う気にはなれないし、清原は外れ役に痛々しいばかり。

 それだけではなく、例の牡蠣養殖場のシーンの美しさとか、時間の止まった街の異常さに、いつしか心浮き立っていくくだりとか、日本版からはすっかり抜け落ちてしまった映画的な魅力にも溢れている。

 そしてやはり台湾版ではヒロインを思う男性主人公の健気さがひしひしと胸を打つ。やはり物語の核心はそこにある。それ以外の魅力も横溢しているというのに、その切実さがユーモアとともに、観客に共感されていく。それに対して、清原がそれを感じさせないのは本当に残念だ。単に大学7回生というくらいでは「冴えない」が現前してこない。岡田を大切に思う気持ちに、まるで共感できない。

 そしてそのキャスティングのせいで、バス運転手役にあらためて荒川良々を物語に介入させるしかなくなっているのだが、これはまた全く何の魅力も増しておらず、単にそこに時間がかかるぶん差し引きが大きくマイナスになるだけ。清原が真相を語るのが荒川相手になるなんて、辻褄としてはしょうがないのだが、本家の感動的な語りはすっかり台無しではないか。リゥの語りはまっすぐにペティに向けられていて、それを受け止めるペティは笑顔のまま固まっている(ここは物語の展開を詳述しないが、これもまた周到に伏線が張られた結果としてそうなっている)。ここに物語上必然性を持たせられなかった改作版では、岡田は無表情のまま。これがどれほど物語の興趣を殺いでいるか。本当に残念な改悪だった。

 山下敦弘は「リンダ リンダ リンダ」でも、雨の中で登場人物を演技させるというリアリティより「劇的さ」を優先する演出に醒めて評価できなかったのだが、本作はもっとはっきりと無能だと言える。あれほど素晴らしい原作があるというのにこの駄作ぶりは何事だ。いくら「大人の事情」があろうとも。いや、この一観客の嘆きを受け止める責任こそ「大人」であるべきだ。


2026年4月2日木曜日

『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

 こちらが本命で前作を観たのだった。前作の準主役の本田望結が、こちらでは主役となる。前作で「きさらぎ駅」に残してきた恒内を救うために異世界に戻る。

 冒頭、モキュメンタリーふうに展開するので、これは白石晃士監督だったっけと思ったが違った。CGの安っぽさも白石作品を彷彿とさせるが。

 そこで異世界に戻る動機を説明しておいて、さて「きさらぎ駅」に戻ってからの展開はおなじみ。先の展開を知っているぞと思うと、ところどころ微妙に変化したりもする。で、やっぱりうまくいかないと思っていると展開の冒頭に戻る。あれっ、これはループものではないか!

 となれば、これはやりなおしながらクリアを目指すことになるのだが、その過程でどんどん面白くなっていった。試行錯誤で課題を解決していく創意工夫も、習熟して敵を打ち倒す爽快感も楽しい。演出はそれを意図して「ノって」いることが明らかだった。

 まるでホラーではない。前作も怖くはなかったが本作は怖くなりようがない。同乗者が「仲間」になっていくのだ。不愉快でしかなかったあのホラーにおける脇役が。彼らは通常、不愉快であることと引き換えにホラーにおける犠牲者となるのがお約束なのだが、本作では物語が進むにつれて、主人公とともに課題をクリアしようとする盟友になってくる。『遺書、公開。』の映画版は、原作のその要素が削られていたのが残念だったが、こんなところでその要素が満たされる映画に出くわそうとは。

 本作の本田望結は前向きで真摯で、いくらか脳天気ともいえる明るさが魅力的で、本作の味わいにもおおいにプラス要素だった。


2026年3月10日火曜日

『テミスの不確かな法廷』-法律とASD

 法廷ものとしてまず関心をもつ。主役の松山ケンイチ演ずる判事は高機能自閉症スペクトラムという設定だが、そういえば『僕達はまだその星の校則を知らない』のスクールロイヤー(弁護士)も軽微なそれであるような描かれ方をしていた。ASDと法律は相性が良いように、それぞれのドラマで描かれている。実態としてそういう傾向があるのかはわからないが。

 全体に、感動的な場面がいくつもあった優れたドラマだった。

 『シナントロープ』のレギュラーメンバーだった鳴海唯が、あちらとはまるで印象の違う軽やかさでヒロインを演じていて、調べてみると『地震のあとで』にも出ていて、あの子か! と結びついた。これは今後に期待かもしれない。

 松山ケンイチはむろん見事だったが、上司の遠藤憲一がまた素晴らしかった。現実と理想の間で引き裂かれながら職務に努めるリアリティと虚構性のせめぎ合いを見事に演じていた。

 最後のエピソードは、複雑な設定が徐々に明かされるミステリー的興味もあり、よくできているなあと感心もした。

 「分からないことを分かっていないと、分からないことは分からない」は授業でも引用したり。

『きさらぎ駅』-安っぽい異世界

 ネット怪談としての「きさらぎ駅」というモチーフに詳しいわけではない。2チャンネルのユーザーではないからまとめて追ったことはなく、いろいろな作品に出てくるので知っているくらい。配信のおすすめに本作がやたらと上がってくるなあと思ってはいるが積極的に見ようという動機はなかった。が、続編の評価がそこそこ高いので、気楽に見られるホラーとして観てしまおうかと。

 いや恐ろしく安っぽかった。あんなCGで劇場版として公開していいのかと思うほど。だがまあそこに金をかけたCGで異界を作ったからといって面白くなるというものでもないのだろう。

 怖かったかというと全く怖くはない。同監督の『真・鮫島事件』の方がずっと怖い。あれも同様に安っぽいCGに驚いたが。

 不思議なことが起こる展開は基本、元になっている都市伝説(いや田舎だが)から引き継いでいるんだろうが、登場人物がゾンビみたいな化け物として襲ってくるなんて展開は原話にはなかったはずだ。そのメイクもまた安っぽい。そして、それらが襲ってくる理由もわからない。その不思議展開も、多分何かの「象徴」だったりするような意味はたぶんない。

 ホラーにおける脇役は不愉快な言動をするのがお決まりで、これもまた定型を守っていたが、残念なことに主演の恒松祐里も魅力的な人物ではなかった。

 このないない尽くしで、うんざりするばかりかというと、これが、なんだか妙に面白かったのだ。これはひとえに原話の世界観の魅力なのだろうと思われる。異世界観を出そうと、いくらか色味を変えたりCGで靄をかけたりしているが、結局はまるで現実のロケ地そのままであることがまるわかりなところが間抜けなのだが、そのことがかえってこの都市伝説の魅力であるようにも感じられる。ただの知らない街並みが、しかし異世界でもある、という。


2026年3月8日日曜日

『グッドワン』-苦い

 父親とその友人の山登りに付き合う女子高生という設定は珍しくはないというべきなんだろうか。父親のアウトドア趣味に家族総じて付き合う習慣の家庭というのはもちろんあるんだろうが、離婚を経て父親の元で暮らす女子高生が、それでも付き合い続けるというのが普通のことなのかどうか。珍しいからこそ題材にされたのかもしれないが。

 とはいえ地味な映画だった。劇的なことは起こらず、一夜の登山行を追って、そこで起こる感情の起伏を描いていく。離婚をめぐる親世代の屈託に対し、悟ったような、妙に醒めたような態度で接する娘は、しかし登山行自体にはつきあっている。娘の鬱屈もあるのだろうが、それが前面に出るよりも、父親たちに対して、時にはできるだけ好意的に、しかし苛立ちや哀しみを覚えつつ接していく過程が、静かに描かれる。

 終盤、不意に娘が親たちを置いて一人で下山してしまう。麓に置いた車で待つうちに、追いついてきた父親が訳を聞くが、娘は明確には答えない。この展開に、一緒に観ていた娘はわけがわからないと言っていたが、これは確かに言葉にするのは難しい感情の機微が描かれているということなのだろう(別に不条理を描こうとしているということではなく)。

 敢えて言葉にすれば、人生を長く続けていても、それほどうまい生き方をできるわけではない中年たちに、怒りと失望を覚え、それを表明しているのだろうとは思う。娘にとって人生の希望や憧れではあり続けられない先達の姿は哀しくも苛立たしい。不機嫌な娘を強くは責められない父親も、それを感じとっている。

 山の景色は美しかったが、苦い映画だった。それでも娘を「グッドワン」と呼ぶことに救いを見出すべきなんだろう。たぶん。


2026年3月1日日曜日

『六人の嘘つきな大学生』-ドラマの失敗

 ミステリーなのだろうと思いつつも、就職活動を題材にしたとなれば『何者』を思い出しもする。同時に、会議室の中で嘘と本音が絡み合うドラマが展開するSSSでもあるんだろうと期待もする。

 ま、そうなのだが、会議室展開は半分で終わって、一応の「真相」が明らかになり、とはいえ時間的にそれだけでも終わらないんだろうと思っていると後半でどんでん返しが行われる。

 お話のつくりは悪くない。好みではある。だが演出としては心理の描き方があまりに大げさで芝居がかって醒める。ドラマを作ろうとして失敗している。後半の、登場人物の病没の設定も、どういう必要があるのかわからない。真相の掘り起こしのためではあるのだが、何か喪失感のような感情を呼び起こすというわけでもないのに。

 監督は『キサラギ』の佐藤祐市なのか。これ以外の作品を観ていないのだが、『キサラギ』も脚本の勝利なんだろうと思っていて、監督を評価してはいなかったのだが。


2026年2月25日水曜日

『ゲッタウェイ』-わからない

 スティーブ・マックイーンつながりで、録画「積ん読」状態だったのを観てしまおうと。

 『パピヨン』と同時期の本作、『パピヨン』では老けメイクも見せたが、こちらは終始、実にかっこよかった。

 とはいえ『パピヨン』とは違って悪党ではある。こういうのはどうやって観たものか。フィクションを享受するのに、別に不道徳であることをことさらに忌避するつもりはないのだが、さりとて共感できるかと言えばそれも難しい。

 対抗する悪役は実に悪辣で、それは見事な悪役なのだが、大詰めまで迫ってきてあっさり倒される。

 ああいうあっさりさ加減がサム・ペキンパーの美学なのだろうか。よくわからない。

 あんなに酷い話が何やらハッピーエンド風に終わるのも。

2026年2月22日日曜日

『パピヨン』-不屈

 子供の頃に観た記憶はあるが、それが小学生なのか中学生なのかもからない。脱獄物だから、ストーリーの骨格は単純で、とにかくラストシーンの、断崖から海に飛び降りる画を覚えている。

 脱獄物といえばNHKのドラマ『破獄』で、あれはまた希有なドラマだった。調べてみると放送は大学時代だから、録画もできずに放送時に観たのだったか。強い印象を受けていたところ、そのちょっと後に我が恩師となる教官が学生に薦めたい小説としてこの原作小説を挙げていたので驚きもし、その後原作も読んだのだった。

 数年前に再放送されたものはさすがに録画して観た。これはまた時代を経てもまるで古びない、おそろしい手応えの作品だった。

 さてさらに間隔を開けての本作は、驚くほど『破獄』と似た印象だった。そしてまたブログを繙いてみると、10年前に『ショーシャンクの空に』のことを書いた中で『破獄』と本作を並べて言及しているのだった。そう、共通テーマはやはり「不屈」なのだった。

 見直してみても、スティーブ・マックイーンのタフさがすごい。タフガイのアクションスターだが、こちらはもちろん精神的な意味で。

 脱獄を企てると独房に入れられる。二回の脱獄でそれぞれ2年と5年。独房というのは監視の必要よりも罰としての意味合いが強いのだろう。想像だに恐怖だ。それだけでなくその途中で、覆いをして真っ暗にされるという罰が追加される。これが精神的にどれほどの苦痛か想像するだけで怖くてたまらない。

 孤独や不自由に対する苦痛だけでなく、否応なく衰えていく肉体に対する恐怖もまた。歯が抜けるシーンの怖さ。

 それでも友の名を売らず、自由への意志も失わない。二度目の独房入りから解放されると既に肉体は老人となっているにもかかわらず、自由を求めることが存在そのものであるかのように次の計画を考える(この老人のメイキャップがまた見事だった。歩き方も完全に老人に見える。タフガイのアクションスターが、本当に体まで縮んだかのように。これは『破獄』の緒形拳も見事だった)。


 ダブル主演のダスティン・ホフマンとの友情も感動的。可能なところでは助けようとするが、それぞれの意志は尊重しようとする。最後の流刑地で、それなりに安住しているダスティン・ホフマンが、自由への意志を失わない「パピヨン」を疎みながらも再会を喜び、自由への一歩を二人で踏み出すところでためらって別れるシーンはやはり胸が熱くなった。


2026年2月16日月曜日

『ひゃくえむ。』-勝敗の向こう

 映画館にはしばらくご無沙汰だったのに、二週連続で映画を見に行く機会があろうとは思わなかった。仕事が早くにひけて、思い立って。

 『チ。』の高評価からこれも期待してしまう。岩井澤健治も『音楽』は全面支持とは言わないが、アニメ表現としては面白かったから、やはり期待できる。


 ロトスコープを使ったリアルな(だからこそ違和感のある)動きはスポーツをテーマとするアニメとしては効果的だったし、それがレース終盤で崩れていくところは「茄子-アンダルシアの夏」を思い出したりもして一人で盛り上がった。

 映画館で観る効用はやはり音だが、画面が大きいのももちろん良かった。いくつかの重要なレースの演出は申し分なくよくできていた。挿入曲のロックが鳴り出すと高揚感にとらわれ、走り出すスピード感も、それを自在に追うカメラワークも、観る者をその場に引き込んでしまう。


 小山ゆうの『スプリンター』の話を最近家族でしたので、どうにも連想が働いてしまう。どちらも、何かを得るために何かを犠牲にすることの恐怖とどう向き合うかが共通したモチーフではある。もちろん『スプリンター』の方が「犠牲」は大きい。命をかける。それと引き換えに手にしたいものは栄光よりも100m走の果てに到達する「真理」のように描かれていた。その意味では『ひゃくえむ。』よりもむしろ『チ。』に似ているとも言える。

 『ひゃくえむ。』では、いいところ選手「生命」くらいではある。栄光と競技は引き換えではない。むしろ競技を続けることでしか栄光が失われていくのを止められない。

 いや、プライドが引き換えになっているとは言える。この哀感をトガシが引き受けている。中学で一度競技をやめてしまうのも、社会人編で競技を続けることが企業との選手契約の「更新」の条件であるという現実がつきつけられるのも、続けることと磨り減っていくプライドが天秤にかけられているとは言える。

 それに比べると小宮の、スプリントへの執着は描き込みが不十分だと感じられたが、これは原作から落とされてしまっているのかもしれない。子供編も、吃音が「逃れたい現実」の一つであることはわかるが、たぶんそれだけでない家庭の事情などもありそうではある。が、そこは描かれない。高校編では怪我への恐怖が描かれるがそれを乗り越えて走ることに執着させるのが何なのかはよくわからない。

 もちろんそれが子供時代にトガシが言った「一番速く走れれば何でも解決する(不正確)」という言葉の呪縛であることはわかる。だがそれに執着させる動因がどうもわからない。大人編では既に成功者であり、特に迷いが描かれるわけではない。

 トガシの哀感は十分感動的だったが、魅力的なキャラクターであろう小宮の描き込みがここまでなのはやや残念。これは原作からのシナリオ化にあたっての改変なのかもしれないが。

 それでも、長い時間を経てきた登場人物たちが最後のスプリントで相まみえる最後の場面はやはり感動的だった。それぞれの思い、いろんな関係者の思いを背負って走る最後のレースは、しかし現実には決着がつく。様々な格闘技で、それ以外のスポーツ競技で、先の衆議院選挙でさえ。そこで快哉を叫ぶにせよ、痛みに耐えるにせよ、そうした強い思いの詰め込まれた場面に、やはり強く感情が動かされてしまうのだった。

p.s.

 『スプリンター』を再読してみて、原作からアニメ化にあたって改作されている或るシーンが、完全に『スプリンター』からの引用であることを発見した。脚本家なのか監督なのか。盗用などではない。改変する必要など特にあるわけではないから、完全なリスペクトによるオマージュなのだろう。嬉しい発見だった。再読ではあらためて『スプリンター』の凄みを確認したり。


2026年2月9日月曜日

『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

 前日の雪が若干残って不安だったので、車ではなく電車で出勤する。せっかくだから駅前の映画館に行くことにした。上映中の映画から選んだ一本に、着いてみると間に合わず、時間の合う中からチャック・ベリーのドキュメンタリー映画を。

 ドキュメンタリーといいつつ、全編ほとんどがライブシーンだった。本人のもあるが、彼をリスペクトする後代の大物ミュージシャンのカバーも。コラボレーションも。ビートルズやストーンズや。

 演奏は楽しかったし、これを映画館で観るのは音響的にも恵まれている。

 とはいえドキュメンタリー映画としてはこの間の『メイキング・オブ・モータウン』の圧倒的な面白さには比ぶべくもない。シンプルに演奏シーンを並べただけで、『モータウン』がアメリカ音楽史であるようには、それ以上の存在であるはずのチャック・ベリーの「意味」が語られているというには物足りない。様々なミュージシャンの言葉の断片も、公式サイトの映画紹介で全部見たなあと思ったり。

 ライブシーンだけだと、きっとYouTube上で観られたりするんだろうなあ、などと思ってしまうのも期待の水準が上がってしまう要因ではあるが。

2026年2月8日日曜日

『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

 スクールカースト最上位にある女生徒が突然自殺し、その「遺書」がクラス全生徒に配られる。自殺の動機をめぐって、HRを利用した「遺書」の公開が行われる…。もうこの設定だけで、いやおうなく期待してしまう。

 とはいえお話はすっかり知っている。というか原作に対する確かな信頼から、映画はダメに違いないなどと先入観を持っていたが、やはり興味が勝って観始める。

 いや、悪くない。途中で気になって、原作を読み直してみる。意外に丁寧に実写化しているのだとわかる。ただ、漫画では気にならないリアリティの水準が、実写で人間に演じられてしまうとちょっと鼻白むような大げさに感じられてもしまう。

 が、その分、演技の迫力が物語の力を増しているところもある。とりわけ、高石あかりはすごかった。『この星の校則』での繊細な感情表現も見事だったが、こちらの狂気を含んだ昂ぶりはまた圧倒的だった。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん原作のミステリー要素にある。そこが、映画の尺の中ではかなり忠実に再現されているのは好感が持てた。いや、本当にそこだけを原作並みに再現するなら、まだやれたと思われる。割愛されてしまっている要素はあった。だからこれは映画のバランスを考えてのことだとは思われる。それでも、バランスよりもそこをつきつめてほしいとも思う。

 さて、久しぶりに一気に通読した原作は相変わらず素晴らしかった。物語の展開にともなって秘められた意外な設定が次第に明らかになる、ミステリーとしての常套手段、ドンデン返し的構成も堅実だが、何より、遺書という「テクスト」をめぐるミステリーという設定が魅力的だ。前例はある。エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの謎』は新聞記事を読み解く「安楽椅子探偵」物で、まったく「テクスト」読解をめぐるミステリーだった。島田荘司の『眩暈』も謎の手記を読解していくミステリーだった。

 そもそも探偵小説というジャンル自体が、テクスト解釈であるとも言える。読者は小説本文というテクストを読解していくのだ。上記のような物語はそれを入れ子状に見せている。考えてみればそういう先例もあるとはいえ、少年漫画で、このようなテクスト解釈の多義性をめぐる読み換えがこれほどかと思わされる豊穣さで陳列される圧巻の展開に翻弄され、それによって生ずる心理ドラマに酔い、休日の一日、実に幸せな時間を過ごした。


2026年1月18日日曜日

『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

 観たことはある。さりとて、十数年ぶりに観始めて、見覚えがあるなどということはちっとも感じない。それどころか、終盤で明かされる大どんでん返しの基本設定をさえ忘れていた。ひどい。

 とはいえ序盤の展開と最後のカタストロフは覚えていた。どうなっちゃうんだ、これ、というラストシーン。

 なるほど、序盤の「ファイトクラブ」の発足にいたる、日常をぶち壊したい願望はうまい。というか、うまいのは全編で、やはりデビット・フィンチャーだ。壊したいという願望と、まもるべきという執着がせめぎあう終盤のスピード感も無論うまい。

 だから面白い映画ではあるのだが、集中して映画を楽しむぞ、という構えがないと「うまい」が「楽しい」や「面白い」につながらない。

 それにしても、あの日常破壊願望は、どの程度、人々に共感されているのだろう。されているからこその人気作ではあるのだろうが。


2026年1月3日土曜日

『さよならピーチ』-映画に生きる

 PFF(ぴあフィルムフェスティバル)2024のエンタテインメント賞受賞作品。どこにどういう佳品が眠っていることかと気になって、時折TV番組表で目につくと観てしまう。短編なのかと思って観始めると続く続く。結局2時間4分もあった。途中でやめようとは思わなかった。というか、結局面白かった。が、説明が難しい。

 京都芸術大学の映画科の学生、遠藤愛海監督の卒業制作だという。物語も、そのまま、芸術大学の映画科の学生が自主映画を作る過程で不思議な出来事が起こる話。高校演劇でもしばしば演劇部が舞台になるが、同様に映画を作ろうとする学生が映画作りを題材に映画を作るのは、狭い世界に閉じこもるばかりで創造性の広がりに欠けるのではないかという懸念ももちろんある。だが、真剣に取り組んでいることにこそ、掘り下げもリアリティも愛もある、とも言える。高校演劇の演劇部ものも、やはり面白かったりもする。

 大学生活を終えて、自分が社会に出ることをどう受け入れるかというテーマでは、最近観た中では『何者』を思い出してしまうが、予算規模がたぶん何十倍と違うはずのあちらにも全くひけをとらない。が、どう面白いのかが説明できない。

 ひとまず「意外と」うまかったりする。お話は少々まとまりはなく、突飛でもあるが、カット編集はそつなく、それぞれの人物の感情の機微を描こうという目が確かなものだと感じる。映画的な面白さに流されていない(このあたりは最近のでいえば『時をかける少女』が比較になっている)。

 そうして描かれる人物の中でも、監督役の林ひよりが、演技によるキャラクター作りと、たぶん脚本も、その迷いなくまっすぐな明るさで魅力的だったとは言える。

 ヒロインのひとりである長谷川七虹も、不思議な魅力を出すことに成功していたが、これがまた演技なのか脚本なのか演出なのかわかりにくい(もちろん全部でなければならないのかもしれない)。

 そうなると残るひとり、向井彩夏の主人公「ピーチ」がどうかというと、やはり彼女の感情の揺れ動きが繊細に描かれるからこそ、この物語が成立していることは間違いない。

 人物たちにそれぞれ寄り添いつつ過ごす2時間が、過ぎてから思い出す時に感じる懐かしさを生んでいる。

 映画という物語を生きる感覚。