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2017年12月27日水曜日

「夢十夜」の授業 2 ~第一夜は解釈しない

承前

 「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
 筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。

 まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
 冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
 だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
 授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。

      百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)

 右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
 それから、生徒に次のような指示をする。

    取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。

 冒頭の一段落で具体的に見てみる。
   腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない「形容」である。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない「描写」である。上のように「描写」の中にもさらに「形容」が施されている。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。
右に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は判断の揺れる問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない。また「形容」(波線部)と「映像的描写」(傍線部)も厳密な区別ではない。だが、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。時間をおいて生徒同士で確認させるか発表させるなどして、その適否を検討していく。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
 実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。

 さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
 漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
 まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。

 こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
   「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)
   視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。
  しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
    何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 
たとえばこの一節に述べられていることを上記の授業過程と比較するよう指示する。何が言えるか(実際に生徒に読ませるのはもっと長い文章である)。
 ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。

 続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する

2017年12月26日火曜日

「夢十夜」の授業 1 ~第六夜は解釈する

 「夢十夜」に関心がありましたらこちらへどうぞ。

 ここ数年で1学年を担当することが3回あって、その1回目の時に、夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」について、今までと全く違う解釈を思いついた。その年の授業については以前まとめたことがある
 この、いわゆる「コペルニクス的転回」的な認識の変容は我ながらいささか衝撃的で、「夢十夜」の授業についてのアプローチを大きく変えることになった。それ以前から想定していた「夢十夜」の教材としての価値についても再考し、あらためてひとまとまりの授業の構想を立てて、その後2回の1学年担当で実施してみた。
 3回目の実施となる今年度の様子を、ここに記録しておく。

 「夢十夜」の教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的である。この場合、最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が、生徒にとって馴染んだ「国語科授業」的扱いができるからだ。あえて「解釈」をするのである。

 授業で小説を扱うということは、その小説の「解釈」を「教える」ことではない。そもそも小説を読むときに、いちいち「解釈」をしているという実感は、我々にはない。大衆小説の多くは「解釈」を必要とするような感触がなく、読めばただちに「わかる」と感ずるし、あるいは村上春樹のように、わからなくても、楽しかったり怖かったりと、何らかの感銘を与えてくれる小説もある。だから授業でも、小説によってはただ読むだけでいい。それ以上に、読めばわかる小説内情報をいたずらに整理して確認する必要などない(といってもちろん、作者の伝記的事項や作品制作の背景などの小説外情報を伝達することも、授業で小説を扱うことの本義ではない。本論における「夢十夜」の読解にも、漱石個人の伝記的事実は無関係である)。
 だが、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。そのとき、生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることだ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題である。
 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むような「解釈」はいたずらに見当外れな穿ちすぎということになりかねない。
 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識させるための伏線にもなる。

 最初にまず「第六夜」を「解釈」するのだ、と宣言する。

    ①「第六夜」の主題は何か。「第六夜」はつまり何を言っているのか。

 本当は、こんなことはあらためて言う必要もない。だが、常にこの問いの答えにつながるかどうかを視野に入れつつ以下の考察を行うべきであることを確認しておく必要性は、実際にはある。以下の問いが一問一答式の答え合わせになってしまわぬよう、生徒自身が考える方向を忘れぬためである。
 「解釈」とは、小説内情報の論理について、さまざまなレベルでの結合を意図する思考だが、その中でも、全体を統覚する論理がいわゆる「主題」である。「主題」とはつまり、この小説は何を言っているのかを、小説内の出来事のレベルよりも抽象的なレベルで語ることである。まずはそのように大きな見通しを提示しておいて次の問いを提示する。

    ②「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だがそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。といってすべての読者にそれが自明なわけでもない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述である。
 この問いは、たとえば「なぜ鎌倉時代の人間である運慶が今日(明治時代)まで生きているのか」という問いではない。我々がその不思議の意味を問われているわけではない。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触があるからだ。だからあくまでこれは語り手の「自分」が思い至った「生きている理由」が何かを問うているのである。
 この「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
 そうした問題を意識した上であらためて小説の展開や細部から必要な情報を読み取っていく。そのために、さらに補助的な問いを提示していく。

    ③「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか。

 ②を明らかにするためには、まず③を解決する必要がある。③の認識によって、「それで」②が「わかった」と「自分」は言っているからである。
 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。なぜ「自分には彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか。なぜそれが「とうてい」なのか。
  「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。生徒の様子を見て、問いを変形する。
 たとえば上述の問いを次のように変形する。

    ③仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か。

 複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効である。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからだ。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。そのインセンティブを導引するには、問いという形式は有効だし、とりわけ選択肢のある問いは、生徒の思考を読解に向かわせる。
 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、「木のせい」というのが素直な答えだが、どうもすんなりと納得はしがたい。「明治の木には…埋まっていない」というのはなんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではなさそうである。実際に印象のみを二択で聞いてみると、生徒の意見は分かれる。
 この問いをさらに微分すると、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。これはつまり「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っているということになる。
 ②についても例えば次のように選択的な問いに変形することができる。

    ②x「運慶が今日まで生きている理由」とは「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々(語り手)にとって運慶が生きている理由」なのか。
    ②y「運慶が今日まで生きている理由」とは「今日まで生きていられた理由」なのか、「生きていなければならない理由」なのか。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。xとyの組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。ニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有する。
 といって、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。やはり、どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 さて③における「明治の木」は、なぜ「明治の」でなければならないのか。仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。だが、例えば「鎌倉時代の木」からならば「自分」にも仁王が掘り出せるのだろうか。そもそも護国寺の山門で今しも運慶が刻んでいるのは、いったいいつの木なのだろうか。「鎌倉の木」か。それが「明治の木」だったなら、運慶にも仁王を彫ることは適わないのだろうか。
 そう考えてみると、「明治の木」とはそもそも、明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのかもしれない。たとえ運慶でも「明治の木」からは仁王が掘り出せないのだ、ということではなく、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのかもしれない。
 つまりそれは「自分」という個人の問題ではなく、明治の人間としての「自分」の問題である。とすれば③は「自分のせい」だと言っても「木のせい」だと言っても同じことになる。問題は「明治」という時代なのである。
 そこでさらなる誘導として、次のような直裁的な問いを投げかける。

    ④明治とはどういう時代か。

 たとえば「こころ」で言及される「明治」という時代について考察することは、高校生一年生には手に余る問題だ。それは人類史にとっての「近代」の問題である。
 だがここでの「明治」は日本史にとっての江戸の終焉に続く特殊な時代のことである。つまり生徒には、まず「黒船」「開国」「維新」「文明開化」などが想起されれば良い(もちろんそれも、ひいては世界史の「近代」の問題に敷衍できるだろうが)。

 時間に余裕があれば補助的に次のような問いを投げかけてもいい。

    ⑤見物人はどのような存在として描かれているか。

 作品細部の描写には、作品をどのようなものとして成立させたいかという作者の意図が表れている。これもまた「解釈」するための重要な要素として取り上げるに値する。

 もうひとつ聞いておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か。

    ⑥この小説における「運慶」とはどういった存在か、何を象徴するか?

 鎌倉時代の実在の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。それを明確に語ることこそこの小説の主題を語ることにほかならない。
 だが「どういった」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。考えあぐねているようならば、たとえば「何の象徴か」と聞く。名詞(名詞句)を挙げさせるのである。
 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がいたが、こうした発想は面白いものの、どこにたどりつくのか、今のところ筆者にはわからない。それより注目させたいのは次の一節である。
 運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。運慶が象徴しているものとは、運慶自身というより、このように表現される行為そのものである。
 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。そこでの芸術作品は「天啓」として降りてくるのであり、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく、彼の手を通じて神が地上にもたらしたのである。
 とすれば運慶は「芸術家」であり、また「芸術」あるいは「芸術創造」の象徴、ということになる。
 だがこうした言い方は、筆者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。それよりも、運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか。それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか。
 こうした疑問を、次のような選択肢のある問いに言い換えてみる。

    ⑥ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、熟練した職人だからなのか。これは裏返していえば、「自分」に仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか、ということだ。運慶と「自分」の違いとは何なのか。
 運慶と「自分」の違いを考えさせる上で補助的に付け加えるとよいのは、「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に具わっていないものは何か、という問いである。例えばどちらも二字熟語で答えよ、と指示する。
 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
 むろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけでもない。だが、なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。したがって物語上は、ここから遡って運慶が仁王を掘り出せる必然性を考えるしかない。つまり、明治に失われたのは、芸術家の天才なのか職人の技術なのか。
 だが、「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な思考は期待できない、と筆者は考えている。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからである。
 「才能/技術」以外に想起されるものはないか。「文化」の声が生徒から挙がる。確かに「明治」という時代と結びつけて考察するなら、「才能/技術」よりは「文化」の方が発展性がありそうだ。だが「芸術的才能」「職人的技術」それぞれがそれぞれの形で「文化」を形成している。どちらかについてさらに別の方向から捉えることはできないか。

 いくつかの問いは、相互の意見の出し合いの中で考える糸口になればよい。そして頃合いを見計らってある種の見通しを提示する。
 上記の通り、②を最後に語るとして、③については選択的な正解などなく、問題は「明治」という時代なのだと筆者は考えている。④は「文明開化」が想起されればいいし、⑤は「自分」同様「明治人」として造形されていると考えられる。
 ⑥について筆者は、運慶を「職人」として読む方が整合的だと考えている。「職人」たる運慶が備えているものは何か。全体の解釈の整合性の中で、それに思い至る生徒は必ずいる。「伝統」である。
 筆者の提示する見通しはこうだ。この運慶は時代を超越するような形で出現する天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、③の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのである。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったかもしれない。時代を画したかに見える天才の残した「芸術」作品にも、実は職人集団の技術の蓄積がある。だからそれを、ある種の神秘思想のように、「天啓」として語るのをやめるならば運慶が芸術家か職人かという問いには意味がなくなる。それは同じことだ。問題は運慶が伝統を引き継ぐ者である、という点である。
 こうした読みは、「第六夜」全体の主題の設定、①の問いとどう対応するか。
 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったようなものだと筆者は考えている。⑤についても、車夫と中心とする見物人の造形を、「芸術を理解しない無教養な人々」として理解するような議論を目にすることがあるが、それよりむしろ「古い文化を失いつつある明治の人々」として読むべきだと思う。
 とすると、②の問いはどう考えたらいいのだろう。「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか。
 これもまたどちらと言ってもかまわないのだが、上記の読解に従って言えばどちらかといえば、「生きていられる」という言い方に馴染むのは運慶を芸術家として見る読解であり、「生きていなければならない」という言い方は運慶を職人として見る読解に整合的であるように思える。運慶が天才芸術家であればこそ、時代を超越して明治の「今日まで生きていられる」のであり、伝統を継承する職人だからこそ「今日まで生きていなければならない」のである。
 そしてそれは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのである。
 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。

 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

    裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 こうして積まれたものが「明治の木」というわけだが、この「先だっての暴風」とは何のことだ? とは是非聞いてみたい。
 もはや明らかである。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本文化を薙ぎ倒したのである。
 仁王の埋まっていない「明治の木」を物語に登場させる際にさりげなく冠せられたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげない形容として、仁王の埋まっていない「明治の木」の来歴を語るのである。

 さて、繰り返すがこうした「解釈」を「学習内容」として「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、あくまでこの小説についての、私の納得のありようなのだ、と生徒には言っておく。

 続く 「夢十夜」の授業2 ~「第一夜」は解釈しない
    「夢十夜」の授業3 ~「第一夜」も解釈する

2015年4月11日土曜日

「読み比べ」というメソッド 10 ~「グローバリズムの『遠近感』」と「『映像体験』の現在」

 上田紀行「グローバリズムの『遠近感』」は、この教科書に載っている最後の評論である。ここでは、授業の様子をいささか実況中継的に記述してみよう。

 一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
 さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
グローバリズムは遠近感を喪失させる
近いことは心に響くが遠いことは心に響かない
恐らく生徒にとってこれはそれほど簡単な問いではない。生徒の解答は、いくらかの言い換えがあるものの、結局片方の趣旨しか言えていないか、二文の趣旨が単に直列されてしまうか、というものが多い。「つなげろ」ではなく「混ぜろ」だ、「代入するんだ」などと誘導しながら時間をかけて考えさせると次第に力のある者が次のような表現にたどりつく。
グローバリズムは、心に響くとか響かないとかいった感覚を喪失させる
  これはこの文章の趣旨として、きわめて的確な把握である。だがくりかえすが、こうした把握を生徒に理解させることが授業の目的ではない。生徒自身が、本文をこうして把握するようになることが授業の目的なのである。把握しようとする思考過程そのものが授業の目的を実現する手段なのである。

 続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
 最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
 「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。

   遠近感あり/なし                                          
      日本/アメリカ                                      
    工業化社会/ポスト工業化社会                              
   生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義    
      モノ/カネと情報                                    
   タイムラグ/瞬時                                          
                /メディア・IT技術、金融自由化

 ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
 二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
 これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
 対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。

「グローバリズムの『遠近感』」
   遠近感あり/なし
  生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
      モノ/カネと情報
                  /メディア・IT技術、金融自由化
   交換不可能/交換可能
  かけがえない/
       本物/複製

「『映像体験』の現在」
  実体験・現実/映像体験
   反復不可能/反復可能
   再現不可能/再現可能

  「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
 だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
 時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
「映像文化」の時代に「アウラ」が消失した。
グローバル化の時代に「遠近感」を喪失した。
  文型を揃えてみれば一目瞭然、両者が似ていることは印象として生徒にも感得される。
 さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
 同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
 コンピューター・ゲームで遊ぶ今日の子供たちは、原っぱで転げ回って風を額に受けたり、木々の香りを胸いっぱい吸い込んだりといった体験なしに、二次元のテレビ画面の中の映像とだけコミュニケーションを交わすといった子供時代を過ごしている。友達と喧嘩して体と体がぶつかり合うといった手応えある体験を知らずに大人になってゆく。「『映像体験』の現在」
 勝ち続けていたときの日本と同じく、アメリカの戦争もこれまで常に自国の外部で行われてきた。だからアメリカ人は、ゲリラを一掃しようと枯れ葉剤をまいてジャングルを破壊し、村々を焼き払うという行為がベトナムの人々にどんな喪失感をもたらすかを、想像することはできなかった。空爆で都市を破壊し尽くすことが、そこに生きる人々にとってどんな苦痛をもたらすことなのかも、自分の身に同じことが起こったらどのような状態になるのかというレベルでは感じることができなかった。「グローバリズムの『遠近感』」
 前者における、風の感触や木々の香り、友達との体と体のぶつかりあいが経験されないことは、後者における、土地や命が失われてしまう人々の喪失感に気づかないことに対応している。「複製・映像技術」は「メディア」に対応し、「二次元のテレビ画面の中の映像」には「遠近感」がない。「映像―対―現実という対立関係」はまだ人々の認識が「遠近感」のうちにあるということであり、「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく」というのは「遠近感」を喪失した現代人の認識を表現しているのである。

 もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
 さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
 シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
 結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。

  このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
 だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
  「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
 だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。

2015年4月7日火曜日

「読み比べ」というメソッド 9 ~「夢十夜」と「『見る』」

 漱石は「現代文」における「こころ」の採録率が圧倒的だが、「私の個人主義」や「国語総合」の「夢十夜」も、複数の教科書が採録している。第一学習社「高等学校 国語総合」も「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」を採っている(昔は「第三夜」が採録されていることもあったが、今はどこの教科書も「第一夜」と「第六夜」である)。

 まず枕に「第六夜」を読む。ここではあえて「解釈」をする。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことかを問うのである。
 授業で小説を読むことが「解釈」を「教える」ことだ、などと思っているわけでは毛頭ない。生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることである。だが一般に、小説を読むことが、いわゆる「解釈」することだと考えているわけでさえない。これは後に続く授業過程の伏線である。
 「解釈」への誘導として、明治という時代がどういう時代だったかを考えさせ、そこでの「自分」と運慶の違いを考えさせる。さらに、次の問いを投げかける。
ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
先の、「対比」を設定して文中の表現をどちらに位置づけるかを問う発問と同様、複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからである。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。
  こんな発問を思いついたのは、「第六夜」がしばしば芸術論として語られることに違和感を覚えたからである。運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が語る、
なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。
という表現は、確かにある種の「芸術」論のようにも読める。だがむしろこのように「芸術」を捉えるのは、芸術創造についての神秘思想、神話だと思う。
 それよりむしろ、この表現が意味しているのは、運慶の仕事ぶりが、熟練の職人の技だということではないのか?
 筆者の印象を言えば、この運慶は時代から突出するような形で出現する天才芸術家ではなく、むしろ伝統を形づくる職人集団の先頭に位置する者として描かれていると考えるべきだと思う。運慶と同じように仁王を彫れない理由を、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からだと「自分」は考える。運慶の仕事ぶりが、芸術家としての創作だとしたら「明治の木には」という限定に何の意味があるのか。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の木には」という形容が納得されるのではないだろうか。これはつまるところ、「第六夜」の主題をどう捉えるかという問題である。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。芸術作品と工芸品に区別を付ける必要もないのかもしれない。しかし明治に生きている運慶と仁王を掘り出せない「自分」との違いは、芸術家であるか否かという点にあるのか、職人か否かにあるのか、という選択的な問いは、「第六夜」をどのような物語として読むかに大きな影響を及ぼすように筆者には思える。
 だから「明治という時代はどういう時代だったか」を考えさせることも必須だ。そのうえで、運慶を芸術家として捉えることを否定するわけではないが、どちらかといえば私には、運慶は職人として描かれているように思える、と生徒には言う。それは「第六夜」の主題を「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったものとして捉えるからだ、と説明する。
 といってもちろん、ここでの「学習内容」としてこれを「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、この小説についての、私の納得のありようなのだ、と言っておくのである。これは次につながる「枕」である。

 さて、問題の「第一夜」が、「第六夜」のように、どのような意味であれ、腑に落ちる「解釈」の可能な物語だとは思っていない。この物語は解釈を目的として「使う」つもりではないのだが、考えたり話し合ったりすることに前向きな生徒達であれば、「第一夜」についても、結局この結末は何を意味している? などと聞いてみたくもなる。
  それが「解釈」であるうちは、まだ「枕」である。だが、しばし「枕」で遊ぼう。
 生徒に、次のような問いを投げかけてみる。
途中で数えることを放棄した自分は、どうして「百年がまだ来ない」と思ったり、百年経っていたことに気づいたりしたのか?
物語の因果関係が追える生徒は、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。
 だが、なぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのか。もちろんそれは、擬人化された百合の描写によって、読者にはあっさりと看過されてしまう疑問である。その百合は女の生まれ変わりだと言われれば、疑問を差し挟む余地はない。こうした奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。
 だが、にもかかわらず、本文を正確に読むと百合が咲いたからではなく、「暁の星」が瞬いているのを見て、「自分」は百年が経っていたことに気づいた、と書いてあるのである。これは何を意味するか?
 自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
つまり、百合を女の生まれ変わりだと認識することによって、百年の経過に気づくのではないのである。こうした論理は転倒している。逆だ。「百年はもう来ていたんだな」と気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったことが認識されているのである。
  この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。そのうえでこの描写の意味することを問う。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。これは、この瞬間に夜明けが近づいたことに気づいた、つまり、夢から覚める自覚が生じた、ということを意味しているのではないだろうか。それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。昼に対応する夜も描かれていない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ておらず、「自分」が「暁の星」を見た瞬間にそこまでの「百年」が一夜の夢として完結してしまうのである。
 つまり、「百年」とは夜明け、すなわち夢の終わりまでの期間を意味しているのであり、そこから遡って、女の約束が成就した、つまり百合こそが女の生まれ変わりだったのだ、という論理的帰結(というよりむしろ捏造)が生じているのである。
 この、後から遡って創作されたにもかかわらず、だからこそ強い納得を生じさせる真実の感触こそ、この小説がもつ「夢」の手触りである。

 管見に拠ればこうした解釈は一般的なものではないはずである(とりあえず目にしたことがない)。生徒にはもちろんこうした解釈のあれこれを語って聞かせるだけで、それを「教える」つもりはない。つい寄り道をしてしまったが、やはりこれは「枕」である。ここでの学習課題は、「第一夜」における「描写」の問題について考えさせることである。

 「第一夜」の文体の特徴は、過剰な叙景である。
 意識して読んでみると「第一夜」には異様とも言える頻度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。冒頭の一段落で具体的に見てみる。
 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
  斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない描写である。こうした、前後をつめても読める形容や映像の描写に傍線をひかせる。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 上に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は線引きの難しい問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない(上の斜体と傍線も厳密な区別ではない)。だが、考えさせることで、この小説の文体の特徴を実感する手がかりにはなる。時間をおいて生徒に発表させ、「なるほど」とか「そうかな?」などと検討していく。
  試みにこうした形容や映像的描写を全文から取り除いてみるとわかるが、原文を半分ほどに詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、原文とほとんどかわらないような印象があるはずだ。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で盛り込まれているのである。

 さて、ここまでの過程は、次の課題を提示するための前振りである。
 「夢十夜」を取り上げたここまでの授業過程を、「『見る』」と比べよ、というのである。特に後半で茂木が論じていることと、ここまで「夢十夜」の授業で考えてきたことの間には、何か似たような点がないか? と問いかける。
  既に明らかである。後半の「絵画を見る」ことと、ここでの「小説を読む」ことが相似形なのである。
 我々がものを「見る」ということは、それを「要約」することなのだ、というのが茂木の主張の半分である。それが爪切りや小銭入れであるとか「モナリザ」であると認識することを茂木は「要約」と表現しているが、これは同時に、キャンバス上の絵の具のパターンを女の肖像と「解釈」することである。
 小説を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「要約」(「第一夜」で試みたように)したり「解釈」(「第六夜」で試みたように)したりする。それをしなければ、読んだ小説の文言は、茂木の描写してみせたホテルの一室のあれこれと同じく、「掛け流」されてしまうだろう。
 しかし、「モナリザ」を見る経験がそうした「要約」「解釈」といった「意味づけ」でしかないのだと茂木は言っているわけではない。後半で確認されているのはむしろ「要約」の際に切り捨てられていく「圧倒的な豊穣」もまた「モナリザ」を見るという経験の反面なのだということである。つまり「第一夜」を読むという経験は、それがどんな物語であったのかという把握(「要約」)と同時に、心の表面を流れていく「源泉掛け流しの温泉」の「圧倒的な豊穣」、つまりあの過剰な叙景によって形象され、感触される物語の中の時空間そのものを体験することに他ならないのである。

 したがって、茂木の言っているのが、指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」などでないことも明らかである。それは「絵画」といった限定に留まらない、我々の認識全般についての秘密なのである。

2015年4月5日日曜日

「読み比べ」というメソッド 8 ~茂木健一郎「『見る』」を読む

 「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を括る単元はただ「随想」と名付けられているだけであり、次の茂木健一郎「『見る』」と高階秀爾「『間』の感覚」は「評論三」という単元である。だが、そもそも現在の国語科教科書は「単元」という枠組みにほとんど意味を見出していない(現場の教師も同様である)。昔の「単元」とはある種のテーマ的な括り方がされていたものだったが、今では「小説」とか「詩歌」とか、単に文章のジャンル名を指し示しているだけである(若い教師は「単元」とはそういうものだと思っているかもしれない)。
 そして「随想」と「評論」は、それほどはっきりした境界などない。だから「絵はすべての人の創るもの」が「評論一」で、「『映像体験』の現在」が「随想」に収められてしまうという、何とも奇妙な括り方も、まあ目くじらをたてるほどのことはない。
 ともかく、「花のいざない」を捲って次に現れる茂木健一郎の「『見る』」はどう「使う」ことが可能か。

 「絵はすべての人の創るもの」について、指導書には、
「見る」を学習する際に、もう一度立ち返って読ませたい
と書かれていて、ある種の「読み比べ」が想定されているのだが、実際のところどういった授業展開を想定しているのかは不明である。一方「『見る』」の方には「絵は…」を受けた記述はない。こうした一方通行は、恐らく指導書の執筆担当者が別々であるためだろうが、惜しいことだ。
 もちろん、そうした「読み比べ」をすることにはそれなりに意義がある。両者を比較して気づくのは「人間の目/カメラ」という比較によって、人間の「見る」という行為の独自性を説明しようとする、という論理操作が共通していることだ。といって、この「読み比べ」は、読解過程の全体に渡るほどの射程はない。比較することで認識が深まるような関連性が見出せないのだ。「絵は…」の方は、先に述べたようにいわば受容理論や読者論などに通じる、作品を受け取る側に注目する芸術享受理論を語っているのに対し、「『見る』」は認知心理学的水準が問題にされているからである。
 だがそれを確認するだけでも意味はあることだ。ただ、そうした「読み比べ」に導かれて読解が進むと言うより、読解が進んでからの総括として考察することが可能な「読み比べ」だと言った方がいいだろう。
 そういう意味で「絵は…」と読み比べるならば、使用頻度の高い教科書教材としては清岡卓行の「ミロのヴィーナス(「失われた両腕」「手の変幻」とも)」が手頃だろうか。「芸術」という観点で共通性を考察させることで、両者の文章の核心を捉えることができそうである。
 例えば次の一節などは、「読み比べ」ることが可能である。
ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。「ミロのヴィーナス」
鑑賞がどのくらい多種多様であり、どんなに独特な姿を創り上げるか。それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。「絵はすべての人の創るもの」
芸術が、受け取る側によってさまざまに姿をかえること、そこに芸術の価値を見出すこと。「花のいざない」にも共通したテーマをここに認めることができる。

 翻って、では「『見る』」をどう読むか。「疑問形」を使ってみよう。これも題名を使うと容易である。「『見る』とはどういうことか?」である。もちろん、題名を見ただけでこの変換を考えさせるわけではなく、一読したあとで問うのである。こうした変換は、それが妥当なものであるという感触と相互に支え合って可能になるからだ。つまり、こうした「疑問形=問題提起」を想定するときには、その疑問・問題の答えが文中から見つかるはずだという予想ができているということである。漠然と読むことに比べて、こうした疑問を心に留めながら考えることの間には大きな差がある。問題意識が明確であれば、この文章のキーセンテンスが次の一文であることは、比較的容易にわかる。
    「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。

  さて「対比」はどうだろう。本文を読み進めると、すぐに「脳(に視覚的な記憶を蓄積するメカニズム)/ビデオカメラ(がテープなどの記憶媒体に映像を記録する機構)」という対比がみつかる。「人間の目/カメラ」もしくは「見る/録画する」である。この文章は「『見る』とはどういうことか?」という問題の答えを提示するものであるから、つまり「録画する」にはなくて「見る」にあるものを明らかにすることで論が進んでいくことが予想されるわけである。途中まではこの対比を意識することで、筆者が何を明らかにしようとしているかは読みとれる。
 半ば近くまで読み進めると上の一文が登場する。ここから「視覚的アウェアネス/要約」という対比が読みとれる。これは最初の「見る/録画する」という対比と同一軸上に並ぶか、と問う。並ばない。「視覚的アウェアネス/要約」は対立ではなく、二つ揃って「見る」という体験を成立させているからである。
 「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があると、しばしば生徒に言う。「見る/録画する」は「対立」、「視覚的アウェアネス/要約」は「並列」による対比である(ちなみに「読み比べ」によって併置される対応関係は「類比」である)。
 対比が提示されたら、「源泉掛け流しの温泉」「贅沢な空間性、並列性」「圧倒的な豊穣」「豊穣な喪失」などの表現も、どちらの対比の上下どっち? と聞くことによって、受け止める構えをつくることができる。これらの文言は、教師にとって、恐らく生徒にはわかりにくいはずだ、と感じられる表現であり、だからそうした文言が指し示す「内容」を「教え」なければならないと考える教師はその「説明」に頭を悩ませることになる。
 だが何度か触れたように「わかる」とは、情報の、何らかの位置づけができたということである。だから「どっち?」という選択肢の示された問いの形式は、生徒の思考を活性化させる上で有効である。「どういうこと?」という問いは、それを包括的に考えることこそ高度な要求として学力の高い生徒には投げかけたい問いなのだが、現実にはしばしば、生徒にとって思考の方向が定まらずに無為に流れてしまう。
 それに比べて、座標軸が定まると、考えるべき方向がはっきりする。上下どちらかを考えることは、この対比がどのような要素の対比なのかを考えさせ、同時に該当の表現が何を意味しているかを考えさせる。これらは再帰的に相互に根拠づけられるような思考である。もちろん生徒はそのことを自覚してはいないが。
 例えば「源泉掛け流しの温泉」は文脈上、対比の上項「見る」の側に位置づけられるが、それは「見る/録画する」という対比の対立要素のうち、上項の何らかの属性が「源泉掛け流しの温泉」と表現されることを意味している。そして「源泉掛け流しの温泉」と対比的な表現を考えるならば、例えば「沸かし直しの風呂」とでもいったような比喩になるだろう。こうした思考が、対比の意味と「源泉掛け流しの温泉」という比喩の意味を相互に往還しながら明瞭にしていく。

 さて、読解における「対比」の有用性をもうひとつ。
 「『見る』」の最初の4頁は、「見る」という体験の本質を、認知心理学的水準で明らかにしている、と捉えることができる。では、「モナ・リザ」を題材にした後の2頁は何を言っているのか? 指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」について述べているのだろうか?
 もちろんそれは間違ってはいない。だがそれでは、前半から後半にかけての展開の様相は、充分に必然のあるものとは感じられないはずだ。後半を読んで、「なるほどそうか、芸術というのは奥深いものなのだな」などと納得することが、「『見る』」を読んだことになるのか?
 そこで「視覚的アウェアネス/要約」という対比(並列)によって、前半と後半の関係捉え直してみる。すると、次のように表現することができる。
 まず「見る」という体験が「視覚的アウェアネス/要約」という二つの要素によって成立していることを明らかにしたうえで、最初の4頁は二つのうちの「要約」について重点的に述べ、後の2頁は「視覚的アウェアネス」も重要だということを言っているのである。こんなふうに表現してみると、「『見る』」全体の論理構造が一掴みにできる。
 これは、もう一つの読解ツールである「疑問形」からも納得できる捉え方だ。「絵画という芸術の奥深さ」といった捉え方は「芸術とは何か?」という疑問形に対応している。だが、文章全体の問題提起は「『見る』とはどういうことか?」と考えた方が妥当だろう。とすれば、上記「対比」による捉え方の方がそうした問題提起に的確に対応していることは明らかである。

 国語科授業のメソッドとしての「読み比べ」は教材理解にも有用だが、それのみを目的としたメソッドではない。つまり「読み比べ」をすると文章の内容が理解しやすくなる、と言っているわけはないということだ。そうではなく、有効な国語学習のためのメソッドとして、あるいは授業を構想する際のメソッドなのであり、その過程で余録のように、そこでとりあげた教材文の理解にも有用だと言っているのである。
 したがって、取り上げる文章を教科書収録教材に限定する必要などない。先の「ミロのヴィーナス」についての言及もそれを想定している。
 だが、第一学習社「高等学校 国語総合」には志村史夫「科学の限界」という文章が収録されている。この文中には次のような一節がある。
視覚的に、我々に〝ものが見える〟というのはどういうことなのだろうか。
この、「『見る』」で提起されているのとあまりに似た「問題」は、「読み比べ」に使えないのだろうか?
 残念ながら、それほど有用な「読み比べ」は期待できない。その点は「絵はすべての人の創るもの」同様である。
  「科学の限界」では「見る」ことは次のように説明されている。
物体から反射された〝可視光〟が、我々の視神経を刺激し、その刺激を大脳が認知することで物体が〝見える〟ということになる。
  これは言わば生理学的な水準で「見る」ことを捉えている。先述の通り、「絵は…」は読者論などのような芸術受容理論的水準、「『見る』」は大脳前頭葉における情報処理のような認知心理学的水準が問題にされているのだといえる。そしてそれぞれの文章は相互の水準にまで議論を広げることを目的としていない。そこでは共通した話題が扱われていながら、筆者の関心はほとんど重なっていないのである。両者を重ね合わせることで双方が「腑に落ちる」、という、「『映像体験』の現在」と「花のいざない」のような劇的な体験は期待できない。したがって、そうした考察はそれなりに意味はあるが、授業展開全体にわたる「読み比べ」は構想しにくい。

 「『見る』」と「読み比べ」ることが可能な評論教材としては、例えば大森荘蔵の「見る-考える」(『流れとよどみ』所収)などが想起される。この文章は、「『見る』」と「科学の限界」双方と読み比べると興味深い文章である。茂木「『見る』」と志村「科学の限界」の「読み比べ」がそれほどの有用性を見出せないにもかかわらず、茂木「『見る』」-大森「見る-考える」-志村「科学の限界」と並べてみると、面白いことにそこには濃密な関連性(比較可能性)がありそうには見えるのである。
  もう一つ、思い出すのは小林秀雄の「美を求める心」である。脳科学者である茂木が、全体として「要約」の方に多くの紙幅を割いて論じているのに対し、小林ははっきりと「視覚的アウェアネス」の方を称揚していると言える(もちろん茂木が小林のこの文章を知らないはずはない)。例えば、
見ることはしゃべることではない。言葉は目の邪魔になるものです。
などという一節は、茂木の用語を使うなら、「要約」に拠ってではなく「視覚的アウェアネス」そのものを味わうことが「美を求める」ことだと言っているのである。
 「当麻」の有名な一節、
美しい花がある、花の美しさという様なものはない。
も、「美しい花」が「視覚的アウェアネス」に対応しており、「花の美しさ」(=「観念」)が「要約」に対応しているのである。
 ここまで書いてきて、ここで小林が言う「花」が、世阿弥の「花」であることに突然思い至った。とすれば、これは観世寿夫「花のいざない」につながるはずだ。「花のいざない」―「美を求める心」―「『見る』」とつなげてみれば、そこには「花のいざない」と「『見る』」の「読み比べ」の可能性が浮上してくる。観世寿夫が「花のように舞台に立ちたい」というとき、小林の「美しい花」が念頭に置かれていた可能性は大いにあり得る。

  だがここではこれ以上の考察はしない。
 もう一つ、この教科書内で「『見る』」と「読み比べ」たい文章は、夏目漱石の「夢十夜」である。

2015年4月1日水曜日

「読み比べ」というメソッド 7 ~観世寿夫「花のいざない」を読む

  「『映像体験』の現在」と同じ単元に観世寿夫の「花のいざない」が収録されている。これは、言ってみれば奇跡的な単元構成である。だが、指導書の記述を見る限り、編集部がそのことに自覚的であるような気配はない。単元は「広い意味での文化に関わる」といった括り方が示されているだけである。
 だがこの二つの文章は、読み比べ、参照しあうことでこそ、その最も抽象的で、なおかつそれぞれの文章の中心的な概念について理解できる、取り合わせの妙をなしているのである。

 「花のいざない」は、含みの多い言い回しが多く、一読して何を言っているのかわかりにくい部分の残る文章である。本当なら、何度も読み返して、体に馴染ませる必要のある文章である。
  だがここではやはり「読み比べ」というメソッドが、この文章を読むことにどのような効果を発揮するか、という点から論じたい。

  例えば導入部においては、先に触れた「『間』の感覚」の「花」を題材にした一節が対応することに触れてもよい。
洋の東西を問わず、太古の昔から人間の心には、花に寄せる、ある感性のようなものが持ち続けられてきたのではなかろうか。
は、「『間』の感覚」の
日本人は自然の美しさを愛する民族としてよく知られているが、西欧世界においてもたとえば華麗な花の美を愛好することは(…)明らかである。
とよく似ている。そしてその差異を語ることが中心的なテーマとなる「『間』の感覚」に比べて「花のいざない」では東西の対比は強く表面化しないものの、筆者の、東西の差異に対する認識が、おそらく無意識に表出している記述もないわけではない。例えば次のような一節。
自然と協調して生きるにせよ、自然と闘い、征服しつつ生きるにせよ
むろん前者が「東洋」で後者が「西洋」である。
  だが「花のいざない」を「日本人の自然観」といった主題によって、「水の東西」などと「読み比べ」ることにはそれほどの実りはないように思える。共通するのは「自然への親和性」くらいのありきたりの日本人論に過ぎないからである。
 「花のいざない」は、最初の1ページを過ぎると早々に、話題の中心が植物の「花」から世阿弥の「花」論に移ってしまう。問題はここからだ。この、高校生にはきわめて捉えにくいであろう「花」という概念をどう考えさせるか。

 「花のいざない」は難しい。平易な語り口であるにもかかわらず、結局のところ何を言っている文章なのかピンとこない(この感じは内山節に似ている)。これは、この文章の「仮想敵」がはっきりしないことに因る。文章は、それについて考えたことのない人か、反対する人に対して述べられたものだ。だが「花のいざない」は、そうした対象とする読み手が想定しにくく、どんな考え方に対置されるような考え方が提示されているのかが把握しにくいのである。「対比」を読み取ることが読解のための強力なメソッドとなるように、「対比(対立)」を形成しない言説は理解するのが難しい。
 そこで先述の、文章のテーマをまず疑問形で表現してみる、という方法を用いてみる。「『花のいざない』とは何か?」が安直な変換であるが、これはだたちに「『花』とは何か?」「誰をいざなっているのか?」などに変形できるから、こうして問題が明確に意識されれば筆者の主張をどういった方向で捉えればいいかが考えやすくなってくる。問題となる「花」とは、世阿弥の「花」論における「花」である。この「花」とは何だろう?
 端的に「本文ではどう説明されているか」と聞く。「『花』はどう定義づけられているか」などと言い換えもする。本文から、この問いに対応する部分を探させるのである。
  本文では「すなわち演技者の肉体を通して発顕するあらゆる魅力」という定義が最初になされている(しばらく後で「舞台での生き方、舞台での美しさの現れ」と表現されているのもほぼ同じ定義だ)。ここからが植物としての「花」ではなく、能楽における「花」のことが話題になっているのだ、と確認して先を読み進む。
 次に「しかし」と逆接によって再定義されるのは「観客が反応するもののこと」という概念である。「花」とは、舞台上にあって役者が発顕しているにもかかわらず、それは「観客」の「反応」において捉えられるというのである。
 この構図は見覚えがある。すなわち「絵はすべての人の創るもの」や「旅する本」で作者が提示して見せた思想である。「花のいざない」と「絵は…」の頁を指定して共通する表現を探させると、生徒はすぐに「十人(いれば)十色」という表現を見つける。
一枚の絵を十人が見た場合、その十人の心の中に映る絵の姿は、それぞれ全く異なった十だけのイメージになって浮かんでいるとみて差し支えありません。…同じように好きだといっても十人十色、その好き方はまたさまざまです。(「絵はすべての人の創るもの」)
だが、いかに単純な「花」にしても、観客は種々雑多、十人いれば十色のものなのだ。(「花のいざない」)
舞台に咲く「花」が観客によってそれぞれ別なものであるように、「絵」の価値はそれを見る者が「創るもの」だと岡本太郎は言う。ここから、「花のいざない」の「花」を、「絵はすべての人の創るもの」で語られる「芸術作品」との類比から捉えることができる。
それ(芸術作品)は、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。(「絵は」)
一つの花を誰かが見ている。見る人の心々にさまざまな思いが生まれる。(…)花によってその色香はまちまち、見る人の描く夢もまちまちなのだ。(…)観客一人一人がさまざまなイメージを育み持てる、ひともとの花…(「花の」)
  つまり、岡本太郎は芸術家として、芸術の裡に「花」を見出すのは鑑賞者自身であると説いているのに対し、観世寿夫は役者としての立場から、観客と「一期一会」の出会い方をする覚悟を述べているのである。

 だが、まだ十分とは言えない。「花」が「花」であるための条件である「自然」=「偶然でもあり必然でもあること」という表現は、難しい言葉を使っているわけでもないのに、ちっとも掴めている手応えが得られない。精読を通して少しずつ実感させていく必要のありそうな概念なのだが、本文を繰り返し読み込むことがそれをどれほど可能にするかは心許ない。
 「旅する本」で「私」がそれぞれの年代で出会った「本」をそのような「本」としてあらしめた「偶然・必然」を考えるとき、ここでの「本」はそれぞれの「私」にとっての「花」だったのだ、などと言えなくもない。
 だがこれも、生徒に対して問いを発して考えさせるには、恐らく掴み所がない。語って聞かせれば、感じる生徒は何事かを感じるかもしれないが、多くの生徒にはまるでピンとこないはずだ。

 そこでさらに、「『映像体験』の現在」との「読み比べ」を試みる。
 「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を「読み比べ」せよ、というのは、もちろんかなり高度な思考を必要とする課題である。「水の東西」と「『間』の感覚」のように、その対比構造が共通するとか、上のように題材が共通する、といった、並置するためのとっかかりがみつからない。そもそも話題も語り口もあまりに違いすぎて、それらを「読み比べ」ようという発想が浮かぶとも思えない(編集部がそうであるように)。
 したがって生徒が考えるための誘導的なはたらきかけをする必要もある。たとえば、それぞれの筆者の主張を端的にまとめてごらん、と言う。もちろん「筆者の主張を端的にまとめる」などという操作自体が高度である。
 それでも「文中からそのまま抜き出せ」と言い添えれば、「花のいざない」では、次の一節などが挙げられるかもしれない。
自然に咲いている花みたいに、舞台にいたい
一方「『映像体験』の現在」については、先ほどの、本文中の「抽象的でわかりにくい」一節がそのまま最終的に「筆者の主張」である。例えば次の一節。
『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける
こんなふうに必要な誘導を可能な限り織り込んで、そこにたどり着く生徒が現れるのを期待していると、そうした直観に至る者は、きっと表れる。

 つまり「」とは「アウラ」のことなのだ。

 重要なのは、こうした結論を「正解」のように教えることではなく、こうした発想に生徒自身がたどりつくことであり、そうした発想に基づいて本文を読むことである。あるいはそうした発想に共感しないものに(共感しているものにすら)どう説明するかである。
  この直観を確かめるために、とにかく本文を読むように指示する。
 確かめてみよう。こうした直観はどのように裏付けられるのか?
 「『映像体験』の現在」によれば、「アウラ」とは「自分にとってかけがえなく貴重な視覚的映像」が「まとって」いるものである。一方の「花のいざない」では「花」とは「観客が反応するもののこと」である。これは前述の通り「絵はすべての人の創るもの」における「芸術作品」、「旅する本」における「本」の捉え方と同じものである。「失恋の直後に見た夕焼けの海」というのは、その「夕焼けの海」の光景が単に「アウラ」を発しているというのではなく、それを見た「失恋の直後」であった自分との「一期一会」においてそれが「アウラ」をまとったということである。「イメージがいくらでも反復可能・再現可能になってきたとき、映像から失われていったのはこの『アウラ』である。」ということは、翻して言えば「アウラ」をまとったイメージは「反復不可能・再現不可能・複製不可能」であるということであり、これはつまり、その場限りでの観客との出会いにおいて「偶然・必然」に舞台上に生まれるものだということである。「夕焼けの海」に「アウラ」があったのは、それが「失恋の直後」であったという「偶然・必然」に拠っているのである。
  これはまさしく、「観客」の「反応」において捉えられる、「偶然でもあり必然でもある」ような「花」そのものではないか。
 つまり「『映像体験』の現在」で松浦が主張するのは、イメージの氾濫の中で「花」を見いだす感性を失わないでいたい、ということであり、「花のいざない」で観世が述べているのは、「アウラ」を発する存在として舞台に立ちたいということなのである。「アウラ」と「花」はほとんど同一の概念として右の文で交換可能である。
  この、それぞれの文章の中で最も中心的であるにもかかわらず、抽象的でピンとこない「アウラ」「花」という概念は、それらを重ねてみることによって俄にくっきりとしてくるように思える。少なくとも、それを捉えようとする思考において、こうした方法が有効であることは確かである。

 だがさらに、こうして語られる世阿弥の「花」が、やはり植物の「花」の類比によって語られていることを忘れてはならない。植物としての「花」と能舞台における「花」は、単に断絶しているわけではなく、一連の論理の中で捉えられている。「花」は「アウラ」であり「芸術作品」であり「本」である。そしてやはり「自然に咲いている花」でもある。
 「花のいざない」の前半部、植物の「花をめづる心」から、日本人の自然観を読み取って、それを「水の東西」と読み比べることにはそれほどの実りはなさそうだと先ほど述べたが、後半の能舞台における「花」のありかたを捉えようとしたとき、再び「水の東西」との「読み比べ」の可能性が浮上してくる。
自然の花は、見せるために咲いているのではない。(…)役者も見せようと思って舞台に上がってはだめだ。
という「花のいざない」の一節は、「水の東西」の
日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかった
と重なってくる。つまり「見せようと思」うのが、水を「造形する」、西洋流の「噴水」なのである。
「自然」は動くものなのだ。宇宙の法則に従って動き、しかも予見できない。無常観もこれにつながる。常ならず流動する、その動き去り、動き来たるところに、存在の真理を観ずる。(「花の」)
は、
水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。(…)それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。(「水の」)
と重なる。
演者は黙ってじっと座り、地謡が主人公について(…)語るのである。舞台中央に正面を向いて、ただ黙って動かずにいるそのかなり長い時間、いったいどんな心持ちで、どう演じようとして座っているのかと、能の役者は時々きかれることがある(「花の」)。
と語られる能役者の佇まいは
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。
と語られる「鹿おどし」のごとしである。

  こうして、「花のいざない」を読むことによって、ここまでに読んできた「絵はすべての人の創るもの」「旅する本」「水の東西」「『間』の感覚」「『映像体験』の現在」までを一つらなりに捉えることが可能なのである。
 驚くべきことではないだろうか?

2015年3月30日月曜日

「読み比べ」というメソッド 6 ~「対比」は何か? 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む2

 引き続き「『映像体験』の現在」を読む。

  さらに、もう一つの読解メソッドである「対比」である。この文章ではどのような対比にもとづいて、論が進められているのだろうか。文中から探せ、と指示するとただちに「メリット/デメリット」などという対比要素が挙げられるのだが、これはさして重要な対比ではない。それは承知のうえで、それを挙げる生徒がいれば「メリット/デメリット」それぞれについてまとめさせたりする。
 だが、この文章では、いきなり「探せ」という前に、やはり題名に注目させる。「『映像体験』の現在」の「映像体験」と「現在」が、何との対比であるかを考えさせるのである。するとそれぞれ
映像体験/実体験
   現在/過去
という対比が想定できる。
 つまり、この文章は「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という「問題」について、「映像媒体による体験」を「実体験」と「対比」することによって、またそうした「映像体験」が可能になる「現在」を「過去」と「対比」することによって考察した文章、と捉えることができる。
 「疑問形」と「対比」によって、筆者の問題意識の構造が明確に意識された状態で読むことは、文章を読む上できわめて有益である。ここまでの展開は、そうした状態をつくって生徒にその後の考察をさせる前提をつくっているともいえるが、だからといって、こうすればこの文章を理解させやすい、といっているわけではない。そもそも個々の文章の内容を理解させることが国語の授業の目的ではないからである。ここでは、こうした文章読解の方法を体験させること自体が目的である。その意味で、この文章は「使える」のである。

 「映像体験/実体験」「現在/過去」という二つの対比は、おおまかには同一軸上に並列させることができる。「映像体験(によって変質を被った)現在/実体験(しかなかった)過去」という対比だからである。「メリット/デメリット」はこの軸上に配置できない。「映像体験」の「メリット/デメリット」だからである。つまり文章中の主たる対比構造の一方に「入れ子」になっているのである。「メリット/デメリット」については先述の通りある程度のまとめをして、先を読み進める。
 文章の大きな対比と同一軸上に並ぶ対比をさらに探させる。すると文章の半ばには「複製/オリジナル」という対比が抽出される。これが対比であることを直ちに読みとれる生徒はもうそれだけでかなりの読解力をもっていると言っていいのだが、そういう生徒がいなければ、ページを指定をして探させる。
 次にこの対比はさっきの対比とどういう関係になっているか、と問う。結局これもまた同一軸上に並ぶ。後半に入るとこれがただちに「映像体験/現実・実体験」という対比に推移していくからである。
 こうした対比は、向きを揃えて次々と黒板に書き出していく。可能な限りセットにして挙げさせ、その上下を聞くのである。実際にはセットになる一方が文中に明示されていない場合もあるのだが、それはそれで言明されているその要素と対比される潜在的な要素がなんなのかを考えさせることが読解の緒になる。
映像体験/実体験・現実
   現在/過去
   複製/オリジナル
  次にこうした対比軸上に並ぶ「具体例」を探させる。
           写真/絵画
            映画/マリア様の図像
          印刷物/
コンピュータ画像/原っぱ・木々・野原
  さらにこうした対比軸上に並ぶ「形容」を探させる。
  おびただしく/ただこの一点
安価なイメージ/ありがたみ
                /神聖な輝きをまとった「本物」
  不幸・危険/生き生きした
  「水の東西」でも見てきたように「対比」は、上のように「キーとなる対比」「具体例」「形容」に分類すると探しやすい。上の「形容」は厳密に対になっているというわけではなく、軸上に配置されて上下が決定できるという程度である。それは、主たる対比の属性を表したものだといえる。

 さてここまでの授業過程では、この文章の重要な主旨に関しては、生徒に的確な理解をされていない可能性が大きく、終わるには惜しい段階である。
 評論における対比は、その一方を否定することで一方の価値を主張するための構図として設定される事が多い。この文章の対比ならば、上項を否定して下項を称揚するのである。とすると、上の対比構造を本文から抽出して眺めただけでは、先の「どのように生きていったらいいのか?」に対して「野原の現実を取り戻せ」「オリジナルへ戻れ!」「イメージを捨てて現実に戻れ」といった主張を筆者がするはずだという帰結に陥りかねない。だがそれこそが、先に見たとおり否定されているのである。いったいどうなっているのか?
 この先に考察を進めるために、どのような展開が可能なのか?

 上のように「対比」を捉える際には、「~ではなく、~」という文型が重要な目印になることを指摘する。「ではなく」の前後には必ず対比的な要素が置かれているのである。この文中では次の4箇所にこの文型が登場する。
a.ただ一点だけのオリジナルというわけではなくて、同一の映像が無数に複製され、流通することが可能になる
b.ただこの一点しか存在しないというわけではなく、いくらでも複製されて広まってゆくことになるから、一枚一枚の映像の「ありがたみ」は薄れてゆくことになる
c.映像―対―現実という対立関係ではなくて、映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく
d.単にイメージを捨てて現実に戻れというのではなく、イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆくという選択
これらは筆者が論理的に文章を書こうと意識していることの表れであり、論理的であろうとするとき、人は対比を用いて論理を組み立てることを証している(先の「疑問形」が明示されていることもまた、論理的であることに意識的である証である)。
 さて、abは「複製/オリジナル」という対比であるから、既に見たとおりであるが、あとの二つはどのような対比だろうか。
 cの「映像―対―現実という対立関係/映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」という対比は、この文章中でも最も重要な対比であるが、これをこの文章中で捉えるのは、高校生には少々難しいだろう。そもそも対比の一方である「映像―対―現実という対立関係」こそ、上に見てきた「キーとなる対比」なのだから、それを「入れ子」として、それとまた対立する「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」というのが、さらにその外側に対比構造をつくってしまう。つまりcとabは入れ子構造になっているわけだ。
 筆者の考えでは、abのような「過去/現在」という対立を、さらに細分化して「前近代/近代/現代」という対比で捉えたときに浮上する「近代/現代」の対比こそ、cで述べられた対比なのである。
 つまり「過去/現在」という対比においては「現実/映像」という「対立」が意味をもっていたが、そこでいう「過去」とは、写真や映画の技術が出現したばかりの「近代」までを指していたのに対して、さらにメディアの発達した「現代」においてはそうした「対立」そのものが消滅してしまうという事態を捉えているのがcの対比なのである。
 となると、abの対比の上項「映像体験」が「不幸」だったり「危険」だったりするからといって、下項の「現実」に戻るわけにはいかない。つまり「近代」から遡って「前近代」に戻るわけにはいかないわけである。そこからdの主張がなされる、という流れになるのである。dの対比は先程見た、この文章の三つ目の問題提起「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか」についての筆者の結論を明確にするための対比といえる。

 いささか込み入った議論になったが、さて、「疑問形」と「対比」によって、筆者の認識と主張はかなり整理できた。だからといって、筆者の主張として先に確認した「イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆく」「『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」「映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく」という文言は、実はまだ抽象的で、生徒には実感としてわかりにくいはずである。これを考えさせることも、こちらが具体例などで説明することもある程度は可能である。
 だが別の回路によってそれを企図したのが次の展開につながる「読み比べ」である。

2015年3月29日日曜日

「読み比べ」というメソッド 5 ~問題提起は何か? 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む

  今回、連続してまとめているのは、「読み比べ」という授業メソッドが、具体的な教科書を使った一年間の授業の中で、どう展開可能だったかを明らかにすることを主たる目的としている。
 だがむろん、個々の文章の読解も、必要と思われる範囲で行っていきはする。そのためのメソッドとして最初にあげたいくつかの方法のうち、「発問」は、実際には個々の教材、個々の授業展開の中で多様であり、なおかつそれは授業の中での生徒の反応に応じて発想されたり変更されたりする可変的なものだ。
 とはいえ、ある程度は「発問」を発想するための技法もあるともいえる。「水の東西」「『間』の感覚」で多用した「対比」を問う発問もそうだ。私見ではこれは評論を読解する上で最も汎用性がある強力なメソッドである。
 さらにもう一つ、汎用性のあるメソッドである「この文章で提起されている問題は何か?」という問いを駆使した読解の実際例として、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」の授業展開を詳述していこう。

 「この文章で提起されている問題は何か?」という問いは、ある生徒たちには無論難し過ぎる。だからすぐに「この文章で作者が言おうとしていることを、疑問形で(文末に「?」がつく形で)言え。」と言い換える。
 漠然と文章が「わからない」と感じているとき、その文章はどんな「問題」を提起しているのか、筆者は何について考えようとしているのかを自覚することはきわめて有益である。提起されている「問題」の「解答」を文中から探すばかりでなく、文章によってはむしろ「解答」から遡って「問題」を拵えることが必要になったりもする。つまり、「問題」と「解答」のセットを文中に探す読解は、相互に補完的な思考である。
 だがそれだけではなく、さらにメタレベルで、こうした明確な目標をもった思考が読解そのものを促す、という意味でも、それは相互補完的なものである。文章が「わかる」から「問題」と「解答」のセットが括り出せるわけではない。それらをセットにして括り出そうとする思考が文章を「わかる」ようにさせるのである。だから「わからない」と感じているわけではない文章でさえ、そうしたセットが揃ったときに、にわかにその文意が明確になるのを感じられたりする。
 この問いは、文章によって容易だったり難しかったりする。「絵はすべての人の創るもの」ならば、「我々は芸術に対してどのように向き合うべきか?」とでもいったところだろうか。これは答えから遡ってつくられる問いだ。何が書いてあるかがある程度把握されていて、それがどのような問題意識によって導かれた結論なのかを考える中で、「問題」としての上のような「疑問形」が想定されるのである。
 これは生徒にはなかなか難しい操作である。だが、比較的容易な方法もある。題名を使うのである。「絵はすべての人が創るもの」ならば「なぜ絵はすべての人が創らなければいけないのか?」などと変形することで「疑問形」が得られる。「水の東西」ならば「水に対する感性は日本と西欧でどう違うか?」だ。

 さて、「『映像体験』の現在」ならばどうだろう。とりあえずは「『映像体験』の現在とは何か?」と言えればまずまずだが、それよりも「『映像体験』は現在、どうなっているか?」と言えればなお良し、だ。この、「問題」の表現形は、「解答」との照応関係においてその適切さが判断される。「何か?」ならば「解答」は名詞であろうし、「どうなっているか?」ならば説明が対応するはずである。
 この「筆者が言おうとしている問題を疑問形で言え。」は、文章全体に適用してもいいのだが、もう少し小さく区切った範囲に適用することもできる。
 実は「『映像体験』の現在」では、この「疑問形」が、文中にそのまま見出せる。冒頭からしばらく「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という問題意識で読み進められるのだが、3分の1ほどのところに「そうした中でどういうことが起きてきたのか。」という一文があり、さらに3分の1ほど読み進めると「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか。」という一文がある。こうした疑問文を探させ、それに対応した筆者の結論を探させる、という形で読解を進めることができる。
 論の展開を「疑問形」によって整理してみよう。
1 「映像体験」は現在、どうなっているか?
      ↓
2 そうした中でどういうことが起きてきたのか?
      ↓
3 こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか?
最後の「どのように生きていったらいいのか?」については、それについての結論として筆者が否定する「生き方」と筆者が肯定する「生き方」を、文中からそれぞれ否定4箇所、肯定3箇所探せと指示する。
 否定されているのは
1.野原の現実を取り戻せ
2.オリジナルへ戻れ!
3.オリジナルがただ一点あるだけだった前近代へ戻れ
4.イメージを捨てて現実に戻れ
である。全て文末が命令形になっているので、勘のいい生徒はすぐに見つける。見つかりにくければ文末の特徴に注目するようヒントを出す。
 肯定されているのは
1.イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆく
2.「アウラ」の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける
3.映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく
である。
  疑問形のテーマ提示とそれに対する結論提示を、文中からこうして数を指定して探させることができる、という点で、この文章はきわめて「使える」教材である。評論読解入門期の練習問題として適切なのである。

 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む の項、次回へ続く。

2015年3月28日土曜日

「読み比べ」というメソッド 4 ~「水の東西」と「『間』の感覚」

 山崎正和の「水の東西」は、「国語総合」ではおそらく「羅生門」につぐ定番教材である。世の多くの高校国語教師がうんざりしているかもしれないのに、依然として教科書には載り続ける。出版社も教師も、いまさら途中下車することが怖くなって、まるで特急列車ででもあるかのように、改訂を乗り越えて採録され続ける。
 かくいう筆者は、それほどうんざりしているわけではない。少なくとも「羅生門」のようには。
 「水の東西」の学習の肝は、言うまでもなく二項対立にもとづく読解の作法である。高校一年生の初期の学習なのだから、そもそも「二項対立」って何だ? というところから入って、そうした頭の使い方に慣れるのが学習の「ねらい」である。ん、ほんとにそうか? 確認してみる。
  「指導書」によると単元の「ねらい」は
評論文の基本的な読み方を習得させる。
とあり、「水の東西」については
 『水の東西』は、人文科学の分野ではオーソドックスな手法である比較法・対照法により東西の文化を分析・記述している。
と述べられているから、「比較法・対照法」=「二項対立」の練習問題と考えていいのだろう。
 だがこれは「人文科学の分野」に限って「オーソドックスな手法である」わけではない。そもそも人間の頭はそういうふうにしか働かないのである。「分かる」とは「分かれる」「分けられる」ことである。ある差異によって、何かと何かの間に線を引いて「分ける」ことである。そうした差異線に沿って情報を位置づけることが「分かる」ということだ。
 そうした頭の使い方そのものに慣れることを目標とするなら、文中では何と何が対比されているかを問うて、文中の具体例・形容・抽象語などを整理していく作業が具体的な読解過程となる。むろん、高校で初めて読む「評論」だろうから(教科書の配列によるが)、そもそも文中の何を目に留めなければならないかを判断するところが練習である。そのうちには例の
 流れる水/噴き上げる水
時間的な水/空間的な水
見えない水/目に見える水
といった明示された対比も挙がるだろう。だが、順序はともかく、明白な形をとらずに文中に埋もれた対比要素を探して整理していくところが読解の要点でもあり醍醐味でもある。
 問いに対して生徒の挙げる対比の適否を判断しつつ読み進めていくと、挙げるべき対比は題名にもある「東西」を含めて少なくとも三つである。
東(洋・日本)/西(洋・欧米)
   鹿おどし/噴水
     自然/人工
  これが、上の三つの対比と重なることを確認してさらに問う。ではそれらの関係はどうなっているか? 最もキーとなる対比は何で、それ以外の対比はどう位置づけられるか?
 あえて分類するならば「東/西」がキーとなる対比であり、「鹿おどし/噴水」は具体例である。明示された三つの対比は形容であり、「自然/人工」は抽象語である。こうした分析は文章構造の把握に有益だが、難しいことも確かだ。だが「一番代表的な対比はどれ?」くらいに訊いてみれば、題名と結びつけて「東/西」であることは思い至るし、具体例もどれだかわかる。

 定番の授業過程の記述がいささか長くなった。さて、問題は「読み比べ」である。定番教材であるから何度か扱ったことがある。これまで、山本健吉の「日本の庭について」や加藤周一の「日本の庭」、あるいは陣内秀信「東京の空間人類学」との「読み比べ」をしたことがある。
 これらの文章は共通して「日本/西洋」という対比構造で論を展開しており、その対比要素として「自然への親和性/人工への志向性」といった特徴が読みとれる。この対比構造が意識されると、文章の細部をどう読むべきかの見当がつけやすくなる。同時に、何と何が対比要素なのかを考えること自体が読むことを促す。
 こうした思考過程は、どちらかが完全に先行するわけではなく、相互補完的なものだ。対比を読もうとするから読めるようになるし、読み取った対比を意識しながら読むからさらに読めるようになる。それぞれの文章を読む際にもそうした頭の使い方をするのは有益だが、さらにそれらの文章を「対比」して読むことが、それぞれの文章を読む推進力となる。

 実は第一学習社の「高等学校 国語総合」では高階秀爾の「『間』の感覚」が、こうした読み比べの可能な教材として収録されていることが指導書にも明示してある。これは実に有意義なことなのだが、はたして現場ではそれをどの程度意識して授業計画に取り込んでいるのだろうか。言及する、といった程度の扱いではたいした意味はない。そもそも本文の詳細な「説明」などせずに、「両者に共通している考え方を述べよ」と要求してしまうのだ。そうした総括と、それを本文のどの記述に根拠づけるのかといった細部の検討を往復していくならば、それだけでもう教材としては充分に「使える」ものとなる。
  だが、惜しむらくは「水の東西」と「『間』の感覚」は、教材配列上、離れたところに置かれており、よほど意識して授業計画を立てなければ、そうした比較が行われることはないだろう。こうした残念な配列は編集部の不必要なバランス感覚に拠っていると思われる。似たような題材の文章は、わざわざ遠ざけて置くか、もしくは収録しないのだ(例えば「国語総合」と「現代文」に分けるとか)。
 だが一学期に「水の東西」を単独で扱うのももったいないし、二学期に「『間』の感覚」を扱ったときに「水の東西」に「言及する」くらいであるのももったいない。この二つの文章は並べて一つの単元とし、現状の現場で行われているようにどちらかを選んで授業で「教える」のではなく、両方をセットにして「使う」べきなのだ。

 「『間』の感覚」は、
住居の構造や空間構成に見られる日本とヨーロッパの違いは
と始まるから、「東/西」が対比されていることはあまりに明白である。そこでそれぞれの文化のありようが、どんな具体例を使ってどんな表現で対比されているかを文中から指摘させる。最初の2ページでは、花を題材として次のような対比が抽出できる。
・自然の中に出かけていってその美しさを楽しむ/自然の環境から切り離された切り花を愛好する
・自然の中の花/花瓶に生けられた花
3ページ目では、都市を描いた画のモチーフを題材として次の対比が抽出できる。
・自然の情景/人工のモニュメント
4ページ目では、建築様式を例に、次の対比が抽出できる。
・中間領域を媒介として、内部は自然に外部へつながっている/壁という強固な物理的遮蔽物によって内部と外部を明確に区分する
さらに5ページ目では、建築様式からみた空間の構造から、そこでの人の行動様式に話題を移して、次の対比が語られる。
・内と外を心理的・意識的に区別する/内と外を物理的に区別する
  最後の対比は文中から抜き出すことはできず、こちらでまとめるしかない。
 これらはいずれも「水の東西」と同様「東/西」の対比軸上に並ぶものだ。
 こうした対比を探していく、という読み方と並行して、
花→都市景観→建築様式→行動様式
といった話題転換を大きなまとまりを読み取っていくことも重要である。もちろん教えない。何が論の題材として取り上げられているか? と問うのである。

  さて「水の東西」との共通項として「東/西」=「自然/人工」という対比を軸に「『間』の感覚」の前半を読み進めていたが、後半の「間」の話題になると「水の東西」からは離れてしまう。仕方がない。そして後半の、日本人の「間の感覚」がまた、生徒にとっては捉えにくい議論なのだが、これについてはまた別の文章との読み比べが必要になるのだろう。
 だが「水の東西」の「時間的な水/空間的な水」と強引に結びつけてしまえば、日本人は対象との関係を自然の推移の中で捉えようとし(時間的)、西洋人は対象と自分の関係を物理的な対称関係において捉えようとする(空間的)、などと言ってみれば、それはそれで「『間』の感覚」の後半とも重なってくるように思える。
 こんなアクロバティックな読み方はいささか牽強付会に過ぎるだろうか?

2015年3月27日金曜日

「読み比べ」というメソッド 3 ~「国語」は「教え」られるか?

  前回のように、教科書の文章を「読む」という行為は、当たり前のようでいて実は当たり前ではない。国語の授業で教材を「読む」のではなく、では何をやっているのかといえば、少なくとも筆者の見聞きしている多くの場合、教材の「内容」を「教え」ているのである。教師は生徒に何かを「教え」、それを生徒に「理解」させるものだと思っているからだ(だからもちろん生徒もそう思っている)。
 例えば「旅する本」が教材として採り上げられるにあたっての編集部の意図した「教材のねらい」は
「旅する本」という教材を通して生徒に伝えるべきは、なによりもまず読書の素晴らしさであると考える。
と明言されている(いわゆる「指導書」にそう書いてある)。
 だがそうだとすれば、この小説を授業で扱う場合、生徒とともにこの小説を読み(各自黙読では愛想がないと思えば朗読し)、読書って素晴らしいよね、先生は本が好きだなあ、とでも語っておしまいである。もちろんそれでも「読書の素晴らしさ」は伝わる可能性はある。というか、可能性しかない。それを期待するしかない。だから教師はそれを生徒に体験させることのできるよう、力のこもった朗読をするくらいしかない。筆者はそのことに悲観的なわけではない。
 授業で「読む」小説が生徒にとって面白いことはあるだろう、とは思う。だが、少なくとも「読書の素晴らしさ」が「教え」られないことは明白な事実である(なおかつ「旅する本」の肝は、筆者の見解では「読書のすばらしさ」などではない。前回書いたとおりである)。
  同様に「絵はすべての人の創るもの」は
芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える中で、自己の内的世界を拡張させる。
という「ねらい」が掲げられている。だがもちろん「芸術創造と鑑賞のダイナミズム」は「教え」られない。生徒自身にそれを感じさせようとするならば、例えば実際に芸術作品の鑑賞が生徒たち相互の間でどれほど違っているかを感じさせるような体験をさせるしかない(同じ絵を見せて感想を書かせ、それらを比較する…など)。むろんそれは有益だ。教材文を「読む」こととは別に、そうした活動が企図されることは大いに望ましい。が、恐らくそんな手間のかかる活動(しかも意図通りに成果が上がるかどうか難しい)をする教師はいまい。
  だから結局、それぞれの文章は、その「内容」を「教え」られてしまうのだろう。
 それでも、そうした文章で訴えられている「内容」を、そもそも求めていた生徒がいたとすれば、幸福な出会いとして、それぞれの文章が生徒の心に何かを(それは例えば「ねらい」どおりかもしれない)残すかもしれない。
 だがそれは「国語」の学習なのだろうか?
 そうではない。それは「国語」の学習の、いわば「余録」としてもたらされるかも知れない幸運である。では上のような学習によって「芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える」などという行為はどうか。芸術の授業だろうか? そうかもしれない。少なくとも国語の学習として「絵はすべての人の創るもの」を読むこととはそれほど関係のない何事かである。

  安倍政権の目論む「道徳」の教科化は浅はかな妄言だと思うが、教科としてではない「道徳」教育自体は、やりようによっては無意味なものではないと思う。特に小学生のうちならば、いわゆる「徳目主義」的な教育が行われることによって、「道徳心」と言うよりコモンセンスとしての「道徳」についての知識が定着することも有益ではある。そうした知識が適切に内面化されるならばそれはもう「道徳心」と呼んでも構わない。
 一方で高校生に「徳目主義」的な「道徳」の授業を行うことなどほとんど無意味だ。扱われる「徳目」など、みんな知っている。だが「知っている」こととそれを体現することは別問題だ。「道徳心」のかけらもない凶悪犯でも、恐らく「徳目」は「知っている」。ただ彼はそれを一顧だにしないことに何の痛痒も感じないだけだ。
  この、道徳教育をめぐる事態と、国語科教育の現状はある意味で似ている。「読書の素晴らしさ」や「芸術生活の素晴らしさ」は、「徳目」同様、思春期以降の子供たちに「教え」ても大した意味はない。ただそれらを内面化することが期待されるだけだ。だがどのようにしてそれが可能なのだろう。こうした学習イメージに、筆者は悲観的である。
 そしてさらに、そのようなイメージの国語科教育は実現不可能という以上に、道徳教育とのアナロジーで語られるところが、そもそもの間違いなのだ。国語の授業に使用される教材文は、そこから何かの「教訓=徳目」を読み取るべき対象ではないはずである。だが、教材の「内容」を「教え」る、という学習イメージの延長には、「徳目」を教える道徳教育のイメージがある。
 こうした国語科教育のイメージは二重の意味で間違っている。「徳目」のような「内容」は「教え」ても大した意味はない。そしてそもそも国語科教育は「国語」の学習を生徒にさせるべき機会であって、教材の「内容」を(「教え」ることによって)理解させるべき機会ですらないのである。

2015年3月26日木曜日

「読み比べ」というメソッド 2 ~「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」

 教科書の冒頭教材は岡本太郎の「絵はすべての人の創るもの」である。

 絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。誰でもが描けるし、描くことの喜びを持つべきであるというのが、私の主張です。
だが岡本太郎は、万人が絵を描くべきであると言っているわけではない。見ることはそもそも創造なのだと言っているのである。芸術に触れ、自ら創造する姿勢が生活を生き生きとさせる、と岡本は言う。

 もう一つの随筆と、超定番「羅生門」をはさんで収録されているのが角田光代の「旅する本」である。

 主人公の「私」は、大学入学の年に一冊の小説本を古本屋に売る。大学の卒業旅行でネパールを訪れたときに、立ち寄った古本屋で同じ本を見つける。「同じ」というのは同じ小説の本という意味ではなく、自分が日本の古本屋に売った、その本だったという意味だ。本の書き込みがまぎれもなく自分のものだったからだ。買って読み、もう一度カトマンズでバックパッカーに売る。それから勤め人になって仕事で訪れたアイルランドの古本屋で、主人公はもう一度同じ本に出会う。そしてそれを買って読み、またロンドンで売ってしまおうと思う。

 妙な小説である。先の展開が読めない。予想外の奇妙な展開が続いて、しかし最後まで読んでも合理的な説明がないままである。

 どういうわけだか知らないが、この本は私といっしょに旅をしているらしい。また数年後、どこかの町の古本屋で私はこの本に出会い、性懲りもなく買うだろう。

  小説としては意外な展開に引き込まれて読み進めてしまう面白さがあるが、この小説の肝は、こうした物語の展開そのものにはない。外国での二度の再会の際に読んだその小説は、それぞれ、高校生の頃に読んだ小説と全く違った物語のように主人公の目に映る。高校・大学・社会人、都合三つの物語は、つまりその時々の主人公の姿を映し出しているのである。

 それぞれの文章を単独で読解することに、それほど時間をかけたりはしない。まして解説したりもしない。「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」を読み比べて、共通する考え方が何かを説明せよ、と問うのである。
 もちろん、生徒は簡単に結論にたどり着きはしない。さまざまなヒントや緒(いとぐち)を与えながら、大きな論理・構造において文章を読むように誘導する。
 例えばそれぞれの主題材が何であるかを考えさせる。それぞれ「絵」と「小説」、と挙がったところで、それについて、それぞれがどのような思想を語っているかを考えさせる。「絵がどうだって? 小説がどうしたって?」などと問いかける。「絵」と「小説」を同じ位置に並べて比べてみたときに、それぞれの文章に共通する思想が見えてくる。
 こうした扱い方を、編集部では想定してはいない(実は直に問い質して確認してみた)。とすればこれは絶妙な偶然なのだが、この二つの文章は、随筆と小説というジャンルの違いにもかかわらず、重要なその思想のエッセンスにおいて見事な共通性を有しているのである。
 まとめてみるならば、次のようにでも言える思想である。
・芸術作品の享受者は、作品の享受を通じて自分自身を見ている
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在するわけではなく、受け手によってそれぞれ違った意味・価値が生ずる

 だが少なくとも指導書にはこの二つの文章を結びつけて言及する記述は見あたらず、そのような扱い方を提案する気配はない。が、これは看過するにはあまりに惜しい教材収録の妙だ。扱わないのはもったいない。
 上のような共通性について何となく気づいた生徒も、それをただちに上のような形でまとめて表現できるわけではない。それぞれに拙いなりにこの感触を表現しようとする生徒の発表を聞き継ぎながら、それが「絵はすべての人の創るもの」の本文中でどのように語られているかを指摘させる。あるいは、こうした共通思想が括り出せた後には、「旅する本」において高校、大学、社会人それぞれの時代のその小説のイメージが、享受者であるところの「私」のどのようなありかたの反映であるかを考えさせたりする。
  注意すべきことは、こうした共通点の抽出は、それぞれの文章を理解してから始めてできるというわけではなく、むしろ、二つの文章を比べて読もうとすることそのものが、それぞれの文章を読ませる原動力となるという点だ。それは、それぞれの文章を教員が解説することによって生徒に「理解させる」などという怪しい学習過程とはまるで異なった国語学習のありかたである。

  二つの文章に共通する上のような思想は、次のような思想に対置される。
・芸術作品には、それ自体に固有の意味がある
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在する
  これは、そうした「意味」を「正解」として教えることが典型としてイメージされているような国語科授業のありかたをささえる思想だ。二つの文章は、評論と小説というジャンルの違いにもかかわらず、背後に、上のような思想に対するアンチテーゼを提示しようという意図を隠し持つ点で共通しているのである。
 つまり、全く皮肉なことに、この二つの文章は、そこに秘められた思想自体から、教師が教材の「内容」を生徒に「教える」、という一般的な授業のあり方を否定しているのである。とすると、上のような「共通点」を、この教材の「内容」として「教える」ことすら、これらの文章の思想と対立するものなのだ。
 もちろんこのような学習活動は、そのことを「教える」つもりなのではなく、それを体験させること自体に目的がある。
 教科書は「教える」ものではなく「使う」ものだ。

 追記
 明治書院の「現代文B」の教科書にも「絵はすべての人の創るもの」が収録されている。それは第一学習社の「高等学校 国語総合」所収の本文よりも後の部分までを収録してある。そこでは、岡本太郎はやはり鑑賞者自身の創作(実作という意味で)を勧めているのだった。
 だがもちろん上のような読解は、岡本太郎の思想を全体として知ろうとしているわけではなく、国語の学習として、テクストを、提示されている範囲で誠実に読もうと意図しているのである。したがって、この教科書を読む限りは、「旅する本」と関連させた上記のような読解は充分に妥当なものだと思われる。

2015年3月25日水曜日

「読み比べ」というメソッド 1 ~第一学習社「高等学校 国語総合」を使った授業

 昨年度、1年生相手に行った「国語総合」が予想外の充実した手応えだったので、そのまま流れ去ってしまうことが惜しくて、ちょうど去年の今頃、1年間の授業のことをまとめていた。
 とはいえ、それが何になるというあてもなかった。
 国語の授業案は、「使い回せる」ものが社会や理科や数学に比べて少ない。
 もちろん古典の教材や現代文でも「定番」と言われる教材についての授業案は「使い回せる」。ブログの開設後に展開していた「こころ」の授業などは、恐らくこの先も「使い回せる」。それは筆者一人にとってというだけでなく、「こころ」を授業で扱う教師(それはほとんどの高校国語教師を含む)にとってもそうだ。「曜日を特定する」などはそれを意識して書いてもいる。若い先生などに「使い回し」てほしいものだと思う。
 だがそうはできない授業も多い。内山節の「『おのずから』を感じ取る」などは「定番」とは言い難い。教科書が違えば教材の3分の2ほどは初めて出会う文章である。それを授業でどう扱うかは、その都度考えなければならない。だから、国語の先生は、おそらく数学の先生に比べて、はるかに授業準備に手間がかかっているはずである。
 だがもちろん、国語の授業は個々の文章の「内容」を教えるわけではない。「『おのずから』を感じ取る」を教えるわけでもないし、「こころ」を教えるわけでもない。ただそれらを使って、国語科の学習となる何事かを、生徒とともに「する」(あるいは生徒に「させる」)のである。そのための授業の方法論、メソッドは「使い回せる」。例えば「要約」や「段落分け」や「章題(小見出し)を付ける」などの作業は、よく知られたメソッドである。だが授業の大半を占めているであろう「発問」というメソッドは教材毎に考えなければならないから、「使い回す」にしてもやはり準備に手間のかかることは間違いない。

 さて、そうしたメソッドの中で、やはり手間はかかるに違いないが、やってみると面白く、学習としても有益であると思われるのが、以前から度々書いてきた「読み比べ」である。
 昨年度の授業が充実していたのは、この「読み比べ」にあたって、使用していた教科書の収録教材がきわめて有用だったことにも拠る。それは、あるときには奇跡的とも思える取り合わせだった。そしてそれは、どうやら、ほとんどの場合、編集部も気づいていない偶然によるらしいのである。
  この教科書は「教える」に適した教科書というよりむしろ「使う」に適した教科書なのである。

 これから何回かに分けて、1年間の授業で起こった、取り合わせの妙から生まれた化学反応の諸相を記録にとどめておく。

 使用する教科書は第一学習社の「高等学校 国語総合」である。

p.s
 投稿としては先行する「塩一トンの読書」についての記事は、これら第一学習社「高等学校 国語総合」の一年間の授業より後に行った授業について書いたものであり、そこでもまた、これから書く授業で読んだいくつかの文章と「塩一トンの読書」を「読み比べ」たのだった。