2015年3月25日水曜日

「読み比べ」というメソッド 1 ~第一学習社「高等学校 国語総合」を使った授業

 昨年度、1年生相手に行った「国語総合」が予想外の充実した手応えだったので、そのまま流れ去ってしまうことが惜しくて、ちょうど去年の今頃、1年間の授業のことをまとめていた。
 とはいえ、それが何になるというあてもなかった。
 国語の授業案は、「使い回せる」ものが社会や理科や数学に比べて少ない。
 もちろん古典の教材や現代文でも「定番」と言われる教材についての授業案は「使い回せる」。ブログの開設後に展開していた「こころ」の授業などは、恐らくこの先も「使い回せる」。それは筆者一人にとってというだけでなく、「こころ」を授業で扱う教師(それはほとんどの高校国語教師を含む)にとってもそうだ。「曜日を特定する」などはそれを意識して書いてもいる。若い先生などに「使い回し」てほしいものだと思う。
 だがそうはできない授業も多い。内山節の「『おのずから』を感じ取る」などは「定番」とは言い難い。教科書が違えば教材の3分の2ほどは初めて出会う文章である。それを授業でどう扱うかは、その都度考えなければならない。だから、国語の先生は、おそらく数学の先生に比べて、はるかに授業準備に手間がかかっているはずである。
 だがもちろん、国語の授業は個々の文章の「内容」を教えるわけではない。「『おのずから』を感じ取る」を教えるわけでもないし、「こころ」を教えるわけでもない。ただそれらを使って、国語科の学習となる何事かを、生徒とともに「する」(あるいは生徒に「させる」)のである。そのための授業の方法論、メソッドは「使い回せる」。例えば「要約」や「段落分け」や「章題(小見出し)を付ける」などの作業は、よく知られたメソッドである。だが授業の大半を占めているであろう「発問」というメソッドは教材毎に考えなければならないから、「使い回す」にしてもやはり準備に手間のかかることは間違いない。

 さて、そうしたメソッドの中で、やはり手間はかかるに違いないが、やってみると面白く、学習としても有益であると思われるのが、以前から度々書いてきた「読み比べ」である。
 昨年度の授業が充実していたのは、この「読み比べ」にあたって、使用していた教科書の収録教材がきわめて有用だったことにも拠る。それは、あるときには奇跡的とも思える取り合わせだった。そしてそれは、どうやら、ほとんどの場合、編集部も気づいていない偶然によるらしいのである。
  この教科書は「教える」に適した教科書というよりむしろ「使う」に適した教科書なのである。

 これから何回かに分けて、1年間の授業で起こった、取り合わせの妙から生まれた化学反応の諸相を記録にとどめておく。

 使用する教科書は第一学習社の「高等学校 国語総合」である。

p.s
 投稿としては先行する「塩一トンの読書」についての記事は、これら第一学習社「高等学校 国語総合」の一年間の授業より後に行った授業について書いたものであり、そこでもまた、これから書く授業で読んだいくつかの文章と「塩一トンの読書」を「読み比べ」たのだった。

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