2015年3月26日木曜日

「読み比べ」というメソッド 2 ~「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」

 教科書の冒頭教材は岡本太郎の「絵はすべての人の創るもの」である。

 絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。誰でもが描けるし、描くことの喜びを持つべきであるというのが、私の主張です。
だが岡本太郎は、万人が絵を描くべきであると言っているわけではない。見ることはそもそも創造なのだと言っているのである。芸術に触れ、自ら創造する姿勢が生活を生き生きとさせる、と岡本は言う。

 もう一つの随筆と、超定番「羅生門」をはさんで収録されているのが角田光代の「旅する本」である。

 主人公の「私」は、大学入学の年に一冊の小説本を古本屋に売る。大学の卒業旅行でネパールを訪れたときに、立ち寄った古本屋で同じ本を見つける。「同じ」というのは同じ小説の本という意味ではなく、自分が日本の古本屋に売った、その本だったという意味だ。本の書き込みがまぎれもなく自分のものだったからだ。買って読み、もう一度カトマンズでバックパッカーに売る。それから勤め人になって仕事で訪れたアイルランドの古本屋で、主人公はもう一度同じ本に出会う。そしてそれを買って読み、またロンドンで売ってしまおうと思う。

 妙な小説である。先の展開が読めない。予想外の奇妙な展開が続いて、しかし最後まで読んでも合理的な説明がないままである。

 どういうわけだか知らないが、この本は私といっしょに旅をしているらしい。また数年後、どこかの町の古本屋で私はこの本に出会い、性懲りもなく買うだろう。

  小説としては意外な展開に引き込まれて読み進めてしまう面白さがあるが、この小説の肝は、こうした物語の展開そのものにはない。外国での二度の再会の際に読んだその小説は、それぞれ、高校生の頃に読んだ小説と全く違った物語のように主人公の目に映る。高校・大学・社会人、都合三つの物語は、つまりその時々の主人公の姿を映し出しているのである。

 それぞれの文章を単独で読解することに、それほど時間をかけたりはしない。まして解説したりもしない。「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」を読み比べて、共通する考え方が何かを説明せよ、と問うのである。
 もちろん、生徒は簡単に結論にたどり着きはしない。さまざまなヒントや緒(いとぐち)を与えながら、大きな論理・構造において文章を読むように誘導する。
 例えばそれぞれの主題材が何であるかを考えさせる。それぞれ「絵」と「小説」、と挙がったところで、それについて、それぞれがどのような思想を語っているかを考えさせる。「絵がどうだって? 小説がどうしたって?」などと問いかける。「絵」と「小説」を同じ位置に並べて比べてみたときに、それぞれの文章に共通する思想が見えてくる。
 こうした扱い方を、編集部では想定してはいない(実は直に問い質して確認してみた)。とすればこれは絶妙な偶然なのだが、この二つの文章は、随筆と小説というジャンルの違いにもかかわらず、重要なその思想のエッセンスにおいて見事な共通性を有しているのである。
 まとめてみるならば、次のようにでも言える思想である。
・芸術作品の享受者は、作品の享受を通じて自分自身を見ている
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在するわけではなく、受け手によってそれぞれ違った意味・価値が生ずる

 だが少なくとも指導書にはこの二つの文章を結びつけて言及する記述は見あたらず、そのような扱い方を提案する気配はない。が、これは看過するにはあまりに惜しい教材収録の妙だ。扱わないのはもったいない。
 上のような共通性について何となく気づいた生徒も、それをただちに上のような形でまとめて表現できるわけではない。それぞれに拙いなりにこの感触を表現しようとする生徒の発表を聞き継ぎながら、それが「絵はすべての人の創るもの」の本文中でどのように語られているかを指摘させる。あるいは、こうした共通思想が括り出せた後には、「旅する本」において高校、大学、社会人それぞれの時代のその小説のイメージが、享受者であるところの「私」のどのようなありかたの反映であるかを考えさせたりする。
  注意すべきことは、こうした共通点の抽出は、それぞれの文章を理解してから始めてできるというわけではなく、むしろ、二つの文章を比べて読もうとすることそのものが、それぞれの文章を読ませる原動力となるという点だ。それは、それぞれの文章を教員が解説することによって生徒に「理解させる」などという怪しい学習過程とはまるで異なった国語学習のありかたである。

  二つの文章に共通する上のような思想は、次のような思想に対置される。
・芸術作品には、それ自体に固有の意味がある
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在する
  これは、そうした「意味」を「正解」として教えることが典型としてイメージされているような国語科授業のありかたをささえる思想だ。二つの文章は、評論と小説というジャンルの違いにもかかわらず、背後に、上のような思想に対するアンチテーゼを提示しようという意図を隠し持つ点で共通しているのである。
 つまり、全く皮肉なことに、この二つの文章は、そこに秘められた思想自体から、教師が教材の「内容」を生徒に「教える」、という一般的な授業のあり方を否定しているのである。とすると、上のような「共通点」を、この教材の「内容」として「教える」ことすら、これらの文章の思想と対立するものなのだ。
 もちろんこのような学習活動は、そのことを「教える」つもりなのではなく、それを体験させること自体に目的がある。
 教科書は「教える」ものではなく「使う」ものだ。

 追記
 明治書院の「現代文B」の教科書にも「絵はすべての人の創るもの」が収録されている。それは第一学習社の「高等学校 国語総合」所収の本文よりも後の部分までを収録してある。そこでは、岡本太郎はやはり鑑賞者自身の創作(実作という意味で)を勧めているのだった。
 だがもちろん上のような読解は、岡本太郎の思想を全体として知ろうとしているわけではなく、国語の学習として、テクストを、提示されている範囲で誠実に読もうと意図しているのである。したがって、この教科書を読む限りは、「旅する本」と関連させた上記のような読解は充分に妥当なものだと思われる。

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