2015年3月28日土曜日

「読み比べ」というメソッド 4 ~「水の東西」と「『間』の感覚」

 山崎正和の「水の東西」は、「国語総合」ではおそらく「羅生門」につぐ定番教材である。世の多くの高校国語教師がうんざりしているかもしれないのに、依然として教科書には載り続ける。出版社も教師も、いまさら途中下車することが怖くなって、まるで特急列車ででもあるかのように、改訂を乗り越えて採録され続ける。
 かくいう筆者は、それほどうんざりしているわけではない。少なくとも「羅生門」のようには。
 「水の東西」の学習の肝は、言うまでもなく二項対立にもとづく読解の作法である。高校一年生の初期の学習なのだから、そもそも「二項対立」って何だ? というところから入って、そうした頭の使い方に慣れるのが学習の「ねらい」である。ん、ほんとにそうか? 確認してみる。
  「指導書」によると単元の「ねらい」は
評論文の基本的な読み方を習得させる。
とあり、「水の東西」については
 『水の東西』は、人文科学の分野ではオーソドックスな手法である比較法・対照法により東西の文化を分析・記述している。
と述べられているから、「比較法・対照法」=「二項対立」の練習問題と考えていいのだろう。
 だがこれは「人文科学の分野」に限って「オーソドックスな手法である」わけではない。そもそも人間の頭はそういうふうにしか働かないのである。「分かる」とは「分かれる」「分けられる」ことである。ある差異によって、何かと何かの間に線を引いて「分ける」ことである。そうした差異線に沿って情報を位置づけることが「分かる」ということだ。
 そうした頭の使い方そのものに慣れることを目標とするなら、文中では何と何が対比されているかを問うて、文中の具体例・形容・抽象語などを整理していく作業が具体的な読解過程となる。むろん、高校で初めて読む「評論」だろうから(教科書の配列によるが)、そもそも文中の何を目に留めなければならないかを判断するところが練習である。そのうちには例の
 流れる水/噴き上げる水
時間的な水/空間的な水
見えない水/目に見える水
といった明示された対比も挙がるだろう。だが、順序はともかく、明白な形をとらずに文中に埋もれた対比要素を探して整理していくところが読解の要点でもあり醍醐味でもある。
 問いに対して生徒の挙げる対比の適否を判断しつつ読み進めていくと、挙げるべき対比は題名にもある「東西」を含めて少なくとも三つである。
東(洋・日本)/西(洋・欧米)
   鹿おどし/噴水
     自然/人工
  これが、上の三つの対比と重なることを確認してさらに問う。ではそれらの関係はどうなっているか? 最もキーとなる対比は何で、それ以外の対比はどう位置づけられるか?
 あえて分類するならば「東/西」がキーとなる対比であり、「鹿おどし/噴水」は具体例である。明示された三つの対比は形容であり、「自然/人工」は抽象語である。こうした分析は文章構造の把握に有益だが、難しいことも確かだ。だが「一番代表的な対比はどれ?」くらいに訊いてみれば、題名と結びつけて「東/西」であることは思い至るし、具体例もどれだかわかる。

 定番の授業過程の記述がいささか長くなった。さて、問題は「読み比べ」である。定番教材であるから何度か扱ったことがある。これまで、山本健吉の「日本の庭について」や加藤周一の「日本の庭」、あるいは陣内秀信「東京の空間人類学」との「読み比べ」をしたことがある。
 これらの文章は共通して「日本/西洋」という対比構造で論を展開しており、その対比要素として「自然への親和性/人工への志向性」といった特徴が読みとれる。この対比構造が意識されると、文章の細部をどう読むべきかの見当がつけやすくなる。同時に、何と何が対比要素なのかを考えること自体が読むことを促す。
 こうした思考過程は、どちらかが完全に先行するわけではなく、相互補完的なものだ。対比を読もうとするから読めるようになるし、読み取った対比を意識しながら読むからさらに読めるようになる。それぞれの文章を読む際にもそうした頭の使い方をするのは有益だが、さらにそれらの文章を「対比」して読むことが、それぞれの文章を読む推進力となる。

 実は第一学習社の「高等学校 国語総合」では高階秀爾の「『間』の感覚」が、こうした読み比べの可能な教材として収録されていることが指導書にも明示してある。これは実に有意義なことなのだが、はたして現場ではそれをどの程度意識して授業計画に取り込んでいるのだろうか。言及する、といった程度の扱いではたいした意味はない。そもそも本文の詳細な「説明」などせずに、「両者に共通している考え方を述べよ」と要求してしまうのだ。そうした総括と、それを本文のどの記述に根拠づけるのかといった細部の検討を往復していくならば、それだけでもう教材としては充分に「使える」ものとなる。
  だが、惜しむらくは「水の東西」と「『間』の感覚」は、教材配列上、離れたところに置かれており、よほど意識して授業計画を立てなければ、そうした比較が行われることはないだろう。こうした残念な配列は編集部の不必要なバランス感覚に拠っていると思われる。似たような題材の文章は、わざわざ遠ざけて置くか、もしくは収録しないのだ(例えば「国語総合」と「現代文」に分けるとか)。
 だが一学期に「水の東西」を単独で扱うのももったいないし、二学期に「『間』の感覚」を扱ったときに「水の東西」に「言及する」くらいであるのももったいない。この二つの文章は並べて一つの単元とし、現状の現場で行われているようにどちらかを選んで授業で「教える」のではなく、両方をセットにして「使う」べきなのだ。

 「『間』の感覚」は、
住居の構造や空間構成に見られる日本とヨーロッパの違いは
と始まるから、「東/西」が対比されていることはあまりに明白である。そこでそれぞれの文化のありようが、どんな具体例を使ってどんな表現で対比されているかを文中から指摘させる。最初の2ページでは、花を題材として次のような対比が抽出できる。
・自然の中に出かけていってその美しさを楽しむ/自然の環境から切り離された切り花を愛好する
・自然の中の花/花瓶に生けられた花
3ページ目では、都市を描いた画のモチーフを題材として次の対比が抽出できる。
・自然の情景/人工のモニュメント
4ページ目では、建築様式を例に、次の対比が抽出できる。
・中間領域を媒介として、内部は自然に外部へつながっている/壁という強固な物理的遮蔽物によって内部と外部を明確に区分する
さらに5ページ目では、建築様式からみた空間の構造から、そこでの人の行動様式に話題を移して、次の対比が語られる。
・内と外を心理的・意識的に区別する/内と外を物理的に区別する
  最後の対比は文中から抜き出すことはできず、こちらでまとめるしかない。
 これらはいずれも「水の東西」と同様「東/西」の対比軸上に並ぶものだ。
 こうした対比を探していく、という読み方と並行して、
花→都市景観→建築様式→行動様式
といった話題転換を大きなまとまりを読み取っていくことも重要である。もちろん教えない。何が論の題材として取り上げられているか? と問うのである。

  さて「水の東西」との共通項として「東/西」=「自然/人工」という対比を軸に「『間』の感覚」の前半を読み進めていたが、後半の「間」の話題になると「水の東西」からは離れてしまう。仕方がない。そして後半の、日本人の「間の感覚」がまた、生徒にとっては捉えにくい議論なのだが、これについてはまた別の文章との読み比べが必要になるのだろう。
 だが「水の東西」の「時間的な水/空間的な水」と強引に結びつけてしまえば、日本人は対象との関係を自然の推移の中で捉えようとし(時間的)、西洋人は対象と自分の関係を物理的な対称関係において捉えようとする(空間的)、などと言ってみれば、それはそれで「『間』の感覚」の後半とも重なってくるように思える。
 こんなアクロバティックな読み方はいささか牽強付会に過ぎるだろうか?

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