例えば「旅する本」が教材として採り上げられるにあたっての編集部の意図した「教材のねらい」は
「旅する本」という教材を通して生徒に伝えるべきは、なによりもまず読書の素晴らしさであると考える。と明言されている(いわゆる「指導書」にそう書いてある)。
だがそうだとすれば、この小説を授業で扱う場合、生徒とともにこの小説を読み(各自黙読では愛想がないと思えば朗読し)、読書って素晴らしいよね、先生は本が好きだなあ、とでも語っておしまいである。もちろんそれでも「読書の素晴らしさ」は伝わる可能性はある。というか、可能性しかない。それを期待するしかない。だから教師はそれを生徒に体験させることのできるよう、力のこもった朗読をするくらいしかない。筆者はそのことに悲観的なわけではない。
授業で「読む」小説が生徒にとって面白いことはあるだろう、とは思う。だが、少なくとも「読書の素晴らしさ」が「教え」られないことは明白な事実である(なおかつ「旅する本」の肝は、筆者の見解では「読書のすばらしさ」などではない。前回書いたとおりである)。
同様に「絵はすべての人の創るもの」は
芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える中で、自己の内的世界を拡張させる。という「ねらい」が掲げられている。だがもちろん「芸術創造と鑑賞のダイナミズム」は「教え」られない。生徒自身にそれを感じさせようとするならば、例えば実際に芸術作品の鑑賞が生徒たち相互の間でどれほど違っているかを感じさせるような体験をさせるしかない(同じ絵を見せて感想を書かせ、それらを比較する…など)。むろんそれは有益だ。教材文を「読む」こととは別に、そうした活動が企図されることは大いに望ましい。が、恐らくそんな手間のかかる活動(しかも意図通りに成果が上がるかどうか難しい)をする教師はいまい。
だから結局、それぞれの文章は、その「内容」を「教え」られてしまうのだろう。
それでも、そうした文章で訴えられている「内容」を、そもそも求めていた生徒がいたとすれば、幸福な出会いとして、それぞれの文章が生徒の心に何かを(それは例えば「ねらい」どおりかもしれない)残すかもしれない。
だがそれは「国語」の学習なのだろうか?
そうではない。それは「国語」の学習の、いわば「余録」としてもたらされるかも知れない幸運である。では上のような学習によって「芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える」などという行為はどうか。芸術の授業だろうか? そうかもしれない。少なくとも国語の学習として「絵はすべての人の創るもの」を読むこととはそれほど関係のない何事かである。
安倍政権の目論む「道徳」の教科化は浅はかな妄言だと思うが、教科としてではない「道徳」教育自体は、やりようによっては無意味なものではないと思う。特に小学生のうちならば、いわゆる「徳目主義」的な教育が行われることによって、「道徳心」と言うよりコモンセンスとしての「道徳」についての知識が定着することも有益ではある。そうした知識が適切に内面化されるならばそれはもう「道徳心」と呼んでも構わない。
一方で高校生に「徳目主義」的な「道徳」の授業を行うことなどほとんど無意味だ。扱われる「徳目」など、みんな知っている。だが「知っている」こととそれを体現することは別問題だ。「道徳心」のかけらもない凶悪犯でも、恐らく「徳目」は「知っている」。ただ彼はそれを一顧だにしないことに何の痛痒も感じないだけだ。
この、道徳教育をめぐる事態と、国語科教育の現状はある意味で似ている。「読書の素晴らしさ」や「芸術生活の素晴らしさ」は、「徳目」同様、思春期以降の子供たちに「教え」ても大した意味はない。ただそれらを内面化することが期待されるだけだ。だがどのようにしてそれが可能なのだろう。こうした学習イメージに、筆者は悲観的である。
そしてさらに、そのようなイメージの国語科教育は実現不可能という以上に、道徳教育とのアナロジーで語られるところが、そもそもの間違いなのだ。国語の授業に使用される教材文は、そこから何かの「教訓=徳目」を読み取るべき対象ではないはずである。だが、教材の「内容」を「教え」る、という学習イメージの延長には、「徳目」を教える道徳教育のイメージがある。
こうした国語科教育のイメージは二重の意味で間違っている。「徳目」のような「内容」は「教え」ても大した意味はない。そしてそもそも国語科教育は「国語」の学習を生徒にさせるべき機会であって、教材の「内容」を(「教え」ることによって)理解させるべき機会ですらないのである。
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