アナログのマスターテープをミックス前の状態で聴きながら、制作時のエピソードを関係者に訊くという企画は『MASTER TAPE ~荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る~』と同一シリーズかと思っていたのだがそういうわけではなくて、新しく始まった「名盤ドキュメント」と称するシリーズの井上陽水「氷の世界」、佐野元春「ヴィジターズ」に続く第3弾なのだった。上記全て見ているが、同様の企画は海外でもスティービー・ワンダーの「メイキング・オブ『キー・オブ・ライフ』」で見たことがあるし、ザ・バンドの「メイキング・オブ『ザ・バンド』」はDVDを持っている。どれも興味深い。
とりわけ今回のはっぴいえんどは、私が中学生の時に初めてレコード屋でレコードを買ったのがベスト盤の『CITY』だったこともあり(『風街ロマン』でこそないが)思い入れも深い。「夏なんです」「花いちもんめ」あたりは中学生の頃に最も好きな曲に数えても良いほどに思い入れがあったし、「風をあつめて」はここ十年来、夏のライブでは唯一入れ替わりのない定番のレパートリーだ。
もちろん番組としてはまるで食い足りない。テレビということで一般視聴者を対象として中途半端に想定しているのが既に全く間違っている。最初からこんな番組は思い入れのある者しか見ないのだ。わかりきった解説はばっさり省いていい。星野源など出す必要は全くない。
それよりもジャケットイラストの宮谷一彦(漫画家としての諸作品はほとんど持っている)こそ出演させてほしかったが、そうでなくともそもそも全曲解説にはなってないではないか。また、言及されているにしても充分な分析もされているとは言い難い。佐野史郎と高田漣も有効活用しきれず勿体ない。
ついでに無論「風をあつめて」は好きな曲だが、どうしてあればかりが「名曲」として特別扱いされるのか。カバーが多いのは、単に歌いやすいからではないのか。原曲を超えるカバーなどできるはずもない唯一無二のバージョンである「夏なんです」の方が、私にとってよほど特別な一曲だ。その意味では佐野史郎が、夏の喫茶店で「夏なんです」がかかるのを聴くのは人生の中でもそうとう幸せな一瞬のひとつだ、と語ったのは我が意を得たり! の思いだった。
そういえば書いていて思い出したのだが、高校一年生の時の美術の授業で、自分の好きな曲で架空のレコードジャケットを作るという課題の時に「夏なんです」のジャケットを描いたのだった。卒業時に提出したそれを返してもらえないかと先生の所へ言いに行ったが結局見つからず、謝られたが実に残念だった(というか、今もって残念きわまりない)。
とまれ、初心者向け基本情報や星野源や「風をあつめて」ばかりに集中しすぎた解説を省けばもっと、と思いはするものの、それでもともかくも全体としては興奮を抑えきれずに観てしまった。
そしてなにより、この場に大瀧詠一がいないのはいかにも残念だが、生きていてもきっと大瀧は出演しなかっただろうな。それでも大瀧のコメントがどんなものだったか、その興味深さを考えると、その喪失感は計り知れない。
2014年12月30日火曜日
『猿の惑星 創世記』
この間の「暗い未来の映画って大好き」の「暗い未来の映画」といえば『ソイレントグリーン』だろ、というのは我々の世代には相当の共感を持ってもらえるものと信じているが、もうひとつ『猿の惑星』シリーズもあの時代の誰もが知っているお話だ。尤も映画のタッチは「暗」くはない。だが「人類衰退」物でもあり、「核戦争で地球が滅亡」物でもあるところが、60~70年代のSFだ。「終末」物SFは我々の原体験である。
それに比べると新しい『猿の惑星』は、この後に人類の衰退が待ち構えていようと、あまり「暗」くもないし、第一、未来でもない。そうしたSFっぽさを味わう映画というよりは、ひたすらエンターテイメントとして楽しめる映画だった。最初からシーザー達、猿の動きのCG合成の見事さは、やはり三池崇史や山崎貴とは違う。そこがクリアされれば後は脚本で、その構成も申し分ない。シーザーの人間社会での生き辛さもちゃんと伝わってくるし、施設に収容されてからそこの支配者になっていく過程には映画的なワクワク感が満載だった。
ただ、ラストは最近のいくつかの洋画同様、不全感を拭えなかった。ウィルス感染はどうなった? それにミュアウッズ国定公園の森はチンパンジーの棲めるような環境なのか? そこに棲んだとて、そのあとに間違いなく決行されるであろう人類による猿殲滅作戦を免れまい。良い人ではあるが思慮に欠ける主人公とシーザーの別れの悲しみを超えて、なんとなくメデタシメデタシ的な空気で終わってどうする?
と思っていたら、調べてみると、あれは単にカットされているのであって、上記二つもちゃんと次の『新世紀』につながるように解決しているのだった。メデタシメデタシ。
それに比べると新しい『猿の惑星』は、この後に人類の衰退が待ち構えていようと、あまり「暗」くもないし、第一、未来でもない。そうしたSFっぽさを味わう映画というよりは、ひたすらエンターテイメントとして楽しめる映画だった。最初からシーザー達、猿の動きのCG合成の見事さは、やはり三池崇史や山崎貴とは違う。そこがクリアされれば後は脚本で、その構成も申し分ない。シーザーの人間社会での生き辛さもちゃんと伝わってくるし、施設に収容されてからそこの支配者になっていく過程には映画的なワクワク感が満載だった。
ただ、ラストは最近のいくつかの洋画同様、不全感を拭えなかった。ウィルス感染はどうなった? それにミュアウッズ国定公園の森はチンパンジーの棲めるような環境なのか? そこに棲んだとて、そのあとに間違いなく決行されるであろう人類による猿殲滅作戦を免れまい。良い人ではあるが思慮に欠ける主人公とシーザーの別れの悲しみを超えて、なんとなくメデタシメデタシ的な空気で終わってどうする?
と思っていたら、調べてみると、あれは単にカットされているのであって、上記二つもちゃんと次の『新世紀』につながるように解決しているのだった。メデタシメデタシ。
2014年12月29日月曜日
『鈴木先生』
テレビドラマが放送されていた2011年はまだ東北大震災から1ヶ月余りしか経っていなかったなんて、今ではまるでその時の感じが思い出せないのだが、ともかく一緒に観ていた息子と共に、当時テレビ放送されていた連続番組としては毎週、最も楽しみにしていたのははっきりと覚えている。原作は「ヨルムンガンド級」だから、丁寧につくりさえすれば間違いはないのだが、観始めてすぐ期待以上だと興奮した。エンドロールを見ると脚本はまだ「リーガル・ハイ」で評価を不動にする前の(しかし『キサラギ』で期待絶大の)古沢良太だし、画作りがどうみてもテレビドラマではなく映画のそれだった。長谷川博巳も面白い役者だと思ったし、生徒たちも総じてうまい。とうとう来春からNHK朝ドラの主役になってしまう土屋太鳳も、この時に初めて知った。
それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。
それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。
2014年12月25日木曜日
『トゥモロー・ワールド』
全く予備知識無しに観始めてすぐ、菅野よう子作品時代の坂本真綾のとりわけ素晴らしい曲の一つ「ピース」の冒頭の「暗い未来の映画って大好き」というフレーズを思い出してしまった。坂本真綾のいうのは恐らく『ブレードランナー』あたりなんだろうが、我々の世代はすべからく『ソイレントグリーン』を思い出すべしである。まあそれはともかく『トゥモロー・ワールド』である。いやはやおそるべき映画だった。「暗い未来」が画面の中に実在している。そしてその退廃的な空気がなんだか懐かしくも重苦しい。そして美しいのである。
とにかく「画」としての美しさがいちいち尋常じゃない。ロケにしてもセットにしても、光の当たり方から角度から、考えずに撮っていてはああいう画は撮れないはずだ。だからといってもちろん、美しい風景を撮った環境ビデオなどではなく、緊迫感溢れるSFサスペンスなのである。
いちいちの演出も考え抜かれている。カメラをどこから撮って、そこで登場人物達やら物語の動向やらがどんな動きを見せるかを、細心の注意を払って演出しているのが端々から感じ取れる。
とりわけラスト近くの戦闘シーンの緊迫感は尋常じゃなかったし、驚異的な長回しにも心底驚かされ、「映画」としてはオールタイム・ベスト10クラスだぞと興奮して、それにしてはアルフォンソ・キュアロンって監督は知らんなあ、などと暢気に思っていた浅薄を今となっては恥じる。調べてみると『ゼロ・グラビティ』で今年話題だった監督じゃないか。それどころか、うちの子供達とも共通認識の『ハリー・ポッター』シリーズ最高傑作『アズガバンの囚人』も監督している。あれは実に面白い映画だったが、まあ原作が良いのかも知れぬと思っていたから、今回のことでやはり監督の力量でもあるのだとあらためて認識した。
で、驚異の長回しは、やはりそれが“売り”なのだった。ネットでの言及もいちいちそれだ。で、なおかつ“驚異の”は、特殊な技術で合成することによって実現したものだと知って感心しこそすれ、がっかりはしなかった。三池崇史とか山崎貴とかのCG合成には大抵の場合がっかりしてしまい、なぜこれを実写にする、アニメにすればいいのに、と思わされるのに、外国のこの手の特殊撮影の技術の高さはどういうわけだろう。日本がこういう分野で明らかに遅れをとっているのは不思議だ。まあその分、二次元アニメに特化して人材が集中しているということか。
だからといって映像技術がただ素晴らしい映画だったというわけではない。物語を追う流れのどの断片も、熟慮をこらしたらしい細心の演出がなされていると感じさせる「映画」的描写力が素晴らしいのである。ついでにいえば、冒頭の爆発といい、ジュリアン・ムーアの死亡にいたる襲撃シーンといい、椅子に座る後ろ姿のマイケル・ケインが自殺しているのかと思わせてただの居眠りだとわかるシーンといい、赤ん坊の出現で戦闘が中断したと思ったらたちまち再開するシーンといい、いちいち観る者の予断を裏切るギミックもサービス精神旺盛だ。
惜しむらくは、結局物語的には弱かったことだ。そこが文句なしにベスト10クラスと評価しきれない瑕疵ではある。もちろん大きな瑕疵でもある。『トゥモロー・ワールド』という偽英題(英語かと思いきや邦題だという。原題は『Children of Men』だって。)のがっかり感は許すとしても。赤ん坊が生まれなくなった世界の絶望感は、胸に迫るほどの共感力はなかったし、だから赤ん坊の存在で戦闘が停まって、人々が道を空けるシーンは感動的ではあったが、もっと大きな物語の中にこのエピソードが位置付けられなかった期待外れは否めない。
とにかく「画」としての美しさがいちいち尋常じゃない。ロケにしてもセットにしても、光の当たり方から角度から、考えずに撮っていてはああいう画は撮れないはずだ。だからといってもちろん、美しい風景を撮った環境ビデオなどではなく、緊迫感溢れるSFサスペンスなのである。
いちいちの演出も考え抜かれている。カメラをどこから撮って、そこで登場人物達やら物語の動向やらがどんな動きを見せるかを、細心の注意を払って演出しているのが端々から感じ取れる。
とりわけラスト近くの戦闘シーンの緊迫感は尋常じゃなかったし、驚異的な長回しにも心底驚かされ、「映画」としてはオールタイム・ベスト10クラスだぞと興奮して、それにしてはアルフォンソ・キュアロンって監督は知らんなあ、などと暢気に思っていた浅薄を今となっては恥じる。調べてみると『ゼロ・グラビティ』で今年話題だった監督じゃないか。それどころか、うちの子供達とも共通認識の『ハリー・ポッター』シリーズ最高傑作『アズガバンの囚人』も監督している。あれは実に面白い映画だったが、まあ原作が良いのかも知れぬと思っていたから、今回のことでやはり監督の力量でもあるのだとあらためて認識した。
で、驚異の長回しは、やはりそれが“売り”なのだった。ネットでの言及もいちいちそれだ。で、なおかつ“驚異の”は、特殊な技術で合成することによって実現したものだと知って感心しこそすれ、がっかりはしなかった。三池崇史とか山崎貴とかのCG合成には大抵の場合がっかりしてしまい、なぜこれを実写にする、アニメにすればいいのに、と思わされるのに、外国のこの手の特殊撮影の技術の高さはどういうわけだろう。日本がこういう分野で明らかに遅れをとっているのは不思議だ。まあその分、二次元アニメに特化して人材が集中しているということか。
だからといって映像技術がただ素晴らしい映画だったというわけではない。物語を追う流れのどの断片も、熟慮をこらしたらしい細心の演出がなされていると感じさせる「映画」的描写力が素晴らしいのである。ついでにいえば、冒頭の爆発といい、ジュリアン・ムーアの死亡にいたる襲撃シーンといい、椅子に座る後ろ姿のマイケル・ケインが自殺しているのかと思わせてただの居眠りだとわかるシーンといい、赤ん坊の出現で戦闘が中断したと思ったらたちまち再開するシーンといい、いちいち観る者の予断を裏切るギミックもサービス精神旺盛だ。
惜しむらくは、結局物語的には弱かったことだ。そこが文句なしにベスト10クラスと評価しきれない瑕疵ではある。もちろん大きな瑕疵でもある。『トゥモロー・ワールド』という偽英題(英語かと思いきや邦題だという。原題は『Children of Men』だって。)のがっかり感は許すとしても。赤ん坊が生まれなくなった世界の絶望感は、胸に迫るほどの共感力はなかったし、だから赤ん坊の存在で戦闘が停まって、人々が道を空けるシーンは感動的ではあったが、もっと大きな物語の中にこのエピソードが位置付けられなかった期待外れは否めない。
2014年12月24日水曜日
『沈黙の戦艦』
かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』は「ヨルムンガンド級」の名作だが、その二番煎じというか“柳の下の泥鰌”商法で『沈黙』シリーズと名づけられたスティーブン・セガールの映画は、一つも観たことがなかった。というわけで初体験は第一作の『沈黙の戦艦(原題:Under Siege)』である。ついでにいえば、コンセプトは『ダイ・ハード』の丸パクリであるところも“柳”である。テロリストに占拠された船の中で、拘束を免れたスティーブン・セガールが一人、テロリストに対抗するのである。なんともはや。
だが、楽しい映画だった。むろん大名作の『ダイ・ハード』(私的ベスト10に数えられる)のような高度に練り込まれた脚本の素晴らしさはない。が、展開はスピーディーで飽きさせないし、セガールのアクションは(抑えめではあるが)見事だった。何より、テロリストのトミー・リー・ジョーンズが素晴らしかった。『ダイ・ハード』のアラン・リックマンや『レオン』のゲイリー・オールドマン以上といっていい悪役ぶりだった。芝居のキレといい溢れる狂気といい、いやはや恐れ入った。トミー・リー・ジョーンズってのは今まで、役者としては原田芳雄と同じような位置づけで意識されていたのだが、このキャラクターは、はたして原田芳雄に演じられただろうか。
ついでにゲイリー・ビジーの嫌味な悪役も実に板についてるのだが、どうも見覚えがあるぞと思ったら、ジェイク・ビジーの父親か! 二代続く悪役の家系!?
それにしても主役のセガール、ずるいほど強い。安心できていいというか、サスペンスが生じないというか。でかい体で余裕の笑顔を浮かべるだけで魅力的というところもずるい。
だが、楽しい映画だった。むろん大名作の『ダイ・ハード』(私的ベスト10に数えられる)のような高度に練り込まれた脚本の素晴らしさはない。が、展開はスピーディーで飽きさせないし、セガールのアクションは(抑えめではあるが)見事だった。何より、テロリストのトミー・リー・ジョーンズが素晴らしかった。『ダイ・ハード』のアラン・リックマンや『レオン』のゲイリー・オールドマン以上といっていい悪役ぶりだった。芝居のキレといい溢れる狂気といい、いやはや恐れ入った。トミー・リー・ジョーンズってのは今まで、役者としては原田芳雄と同じような位置づけで意識されていたのだが、このキャラクターは、はたして原田芳雄に演じられただろうか。
ついでにゲイリー・ビジーの嫌味な悪役も実に板についてるのだが、どうも見覚えがあるぞと思ったら、ジェイク・ビジーの父親か! 二代続く悪役の家系!?
それにしても主役のセガール、ずるいほど強い。安心できていいというか、サスペンスが生じないというか。でかい体で余裕の笑顔を浮かべるだけで魅力的というところもずるい。
2014年12月23日火曜日
ヤングシナリオ大賞「隣のレジの梅木さん」
フジテレビの「ヤングシナリオ大賞」の創設は1987年というから、私が大学生の頃で、第一回の坂元裕二も第二回の野島伸司も、大体同世代。なんとなく思い入れもあって、見つけると観るようにしているのだが、四半世紀も続く有名なシナリオライター登竜門だというのに、心に残るような作品にはなかなか出会えない。
今年度の「隣のレジの梅木さん」も、もしかしたら脚本はいいのかもしれないが、残念ながら映像化されたテレビドラマはひどいものだった。しかもそれが、基本的に脚本のせいではないかという印象を与えるのだ。人物の造型がシリアスでありながら深みに欠けて、行動が唐突にすぎる。なんら観る者に(とりあえず私に)何の共感も切迫感も感じさせない。物語の展開そのものもそうだ。主要な登場人物三人の抱える問題を並行して描きながらそれをからめる、というねらいは悪くないんだろうと思う。だからもしかしたらやはりこれは演出や編集のせいかもしれない。
なんだかここんとこ、映画もドラマも残念な印象を語る記事ばかりだ。これはそれこそ残念な印象を読者に与えるような気がする。辛口批評が痛快、とかいうような切れ味を見せるほど書き込んでもいないしな。まあ、自分用のメモ・備忘録ということで御寛恕を。
今年度の「隣のレジの梅木さん」も、もしかしたら脚本はいいのかもしれないが、残念ながら映像化されたテレビドラマはひどいものだった。しかもそれが、基本的に脚本のせいではないかという印象を与えるのだ。人物の造型がシリアスでありながら深みに欠けて、行動が唐突にすぎる。なんら観る者に(とりあえず私に)何の共感も切迫感も感じさせない。物語の展開そのものもそうだ。主要な登場人物三人の抱える問題を並行して描きながらそれをからめる、というねらいは悪くないんだろうと思う。だからもしかしたらやはりこれは演出や編集のせいかもしれない。
なんだかここんとこ、映画もドラマも残念な印象を語る記事ばかりだ。これはそれこそ残念な印象を読者に与えるような気がする。辛口批評が痛快、とかいうような切れ味を見せるほど書き込んでもいないしな。まあ、自分用のメモ・備忘録ということで御寛恕を。
2014年12月22日月曜日
『ダークナイト ライジング』
『ダークナイト』はもちろん名作だし、『バットマン ビギンズ』も(定かではないが)良い印象があるので、期待したものの、残念な鑑賞後感(「読後感」に相当する「映画を観た後の感じ」を表す言葉ってなかったっけ?)に終わった。一緒に観ていた息子も同様の感想。
シリアスなドラマとしての見所があったか? どうもそうとは思えない。ベインがゴッサムシティを制圧して、核爆弾で脅すところに『ダークナイト』のジョーカーの要求と同じ、ヒリヒリするような焦燥感を期待したのだがその後の展開はぐだぐだで期待はずれ。
とするとなんだ? 主人公の苦悩か? 「エヴァンゲリオン」でも碇シンジの苦悩が一つの吸引力であるような作品評を目にするが、あれはそんな中二な問題が魅力であるとはとても思えない。『ダークナイト』でも、そこは鬱陶しいばかりだ。
じゃあアクション? だが擬斗は古典的に過ぎて、『エクスペンダブルズ』あたりの見事なアクションを観てしまうとがっかり。
もしかしたらバットマン・カーなどのギミックの面白さに喝采を送ればいい映画なのか? これだけの大作で、もったいつけたシリアスなタッチなのに? 大体そんなものに興味ももてないし。
もしかしたら、三部作を通して、映画館で観ると大いに感動したりするのかもしれないが。
シリアスなドラマとしての見所があったか? どうもそうとは思えない。ベインがゴッサムシティを制圧して、核爆弾で脅すところに『ダークナイト』のジョーカーの要求と同じ、ヒリヒリするような焦燥感を期待したのだがその後の展開はぐだぐだで期待はずれ。
とするとなんだ? 主人公の苦悩か? 「エヴァンゲリオン」でも碇シンジの苦悩が一つの吸引力であるような作品評を目にするが、あれはそんな中二な問題が魅力であるとはとても思えない。『ダークナイト』でも、そこは鬱陶しいばかりだ。
じゃあアクション? だが擬斗は古典的に過ぎて、『エクスペンダブルズ』あたりの見事なアクションを観てしまうとがっかり。
もしかしたらバットマン・カーなどのギミックの面白さに喝采を送ればいい映画なのか? これだけの大作で、もったいつけたシリアスなタッチなのに? 大体そんなものに興味ももてないし。
もしかしたら、三部作を通して、映画館で観ると大いに感動したりするのかもしれないが。
2014年12月21日日曜日
『清須会議』
「テレビ初登場」とかいう仰々しい煽り文句で3時間近い放送時間をとって放送したわりに、つまるところ面白くなかった。「清須会議」という素材が面白くなりそうな予感はテレビのCFから感じていたが、それが生かせているようには到底思えなかった。「評定 」の面白さときたら『12人の優しい日本人』のはずじゃないのか? 二転三転する議論の行方やその裏に進行するかけひき、と言葉にすれば『12人』と同様の面白さを盛り込めるはずの設定なのに、この質量の違いはなんなんだ。といって『マジックアワー』や『有頂天ホテル』のように、複雑に混乱した物語の行方がアクロバティックに着地するような展開の面白さもない。この間の「おやじの背中」の惨状といい、三谷幸喜、仕事のしすぎが原因だということなのだろうか。単に。
敢えて美点を挙げるなら、大泉洋と中谷美紀の演ずるキャラクターは魅力的だった。これも前に書いたとおり。
敢えて美点を挙げるなら、大泉洋と中谷美紀の演ずるキャラクターは魅力的だった。これも前に書いたとおり。
2014年12月14日日曜日
YouTuber
ここ2、3日のどこかでブログの閲覧数が2000を超えた。不思議だ。誰が見てるんだろう。コメントは0だしフォロワーもいないし(どこで確認できるのかわからん。あ、いや、いるか。感謝!)。もちろん更新のために自分で見てる分が1割くらいはあるんだろうけど。
というわけで最も再生数の多いものと少ないもの。
これらの再生数に100倍以上の差があるなんて、腑に落ちない(というわけでもないが。サムネイルが興味を引くかどうかなんだろうな。おそらく)。
このブログを開設した経験をもとにその一週間後くらいに開設した学校のブログは校長自らものりのりで更新しているせいもあって記事も多く(投稿数94)、関係者の多いこともあって(多分生徒とその家族が見てるんだろう)、閲覧数は現在1万4千を超えているが、まあ公的な機関のブログなんだからそのくらいいっても不思議はない。それに比べて、映画の感想を書く際にもまるでストーリーの説明をしない記事が、誰の需要に応えているとも思えない。まさか「こころ」の授業展開に関心を持つ教員が? ないない。
ところでニコ動とYou-Tubeの投稿者でもある。「YouTuber」と自称しようと思ったら、それは
主に動画共有サイトYouTube上で独自に制作した動画を継続して公開している人物や集団を指す名称。 狭義では「YouTubeの動画再生によって得られる広告収入を主な収入源として生活する」人物を指す。「wikipedia」だというから私には該当しないか。だが投稿動画の最多再生回数は5桁なのだ。なんと。それはそれで誰が見てるんだろう、だが、まあどこかで誰かが観てると思うのは、投稿した甲斐もあるというものだ。そちらにはブログと違ってコメントもあって、嬉しい言葉も並んでいるし(別に私に対してではないが、我が事のように嬉しい)。 一方で、再生数の少ないものは3桁から増えない。そっちも良いと思うんだけどなあ。
というわけで最も再生数の多いものと少ないもの。
これらの再生数に100倍以上の差があるなんて、腑に落ちない(というわけでもないが。サムネイルが興味を引くかどうかなんだろうな。おそらく)。
2014年12月13日土曜日
『エターナル・サンシャイン』
というわけで洋画だ。この間、最初の方を見始めて、これはしっかりしてるぞと期待していた『エターナル・サンシャイン』。何の予備知識もないので、ジャンルさえわからずに見始めたが、まあ恋愛映画なんだろうと単純に思っていた。ヒロインは『タイタニック』のケイト・ウィンスレットで、映画が始まってから20分近く経ってから流れるオープニングのクレジットを見ていると、この陰鬱な二枚目はジム・キャリーだって!? そのまま見ていると『ロード・オブ・ザ・リング』のイライジャ・ウッドがちらっと出てくるから何事かと思わせる。これは伏線に違いない、と思ってるとはたして重要な登場人物なのだった。クリニックみたいな会社の受付嬢は『スパイダーマン』のヒロインのキルスティン・ダンストだし、そこの先生はもしやと思って調べるとやはり『孤独な嘘』で可哀想な主人公だったトム・ウィルキンソンではないか。
かような豪華キャストで、演出もいい。見たい「洋画」の手触りってこういうのだよなあと思っているとあれよとSFになってびっくり。普通は最初からそのつもりで見るもんなんだろうが、こちとら予備知識0である。
脳内の仮想空間を見せるのは『インセプション』が大掛かりで映像的にすばらしいし、映画的には凡作だったと思う『完全なる首長竜の日』も比較的最近に見た。それらよりも前の作品とはいえ、こちらが観たのは今日が初めてだから、ものすごく新鮮だとか画期的だとか思ったわけではない。それでもまあ、この映画の魅力の大半は、現実と脳内現実が混乱する複雑な構成なんだろう。ネットで低評価な人の言い分はここがよくわからない、理解できないというものだが、それは同情にも共感にも値しない。やはりこの混乱が、おそらくこの映画を見直す価値のあるものにしている。もちろんそれは撮影方法とか編集とかいった映像的な工夫でもある(CGは多用していないそうな)。だがやはりアカデミー脚本賞を獲った脚本の構成力だろう。
伏線が意味を成し、ピースが嵌りだす後半まで、面白いなあと思って観ていて、最後の最後、結末にがっかりして全体には手放しの高評価はできなかった。結局「真実の愛」なの? このハッピーエンドが永続的なものだとは、全然思えない。一時の気の迷いじゃないの? という不信感を拭えず。
かような豪華キャストで、演出もいい。見たい「洋画」の手触りってこういうのだよなあと思っているとあれよとSFになってびっくり。普通は最初からそのつもりで見るもんなんだろうが、こちとら予備知識0である。
脳内の仮想空間を見せるのは『インセプション』が大掛かりで映像的にすばらしいし、映画的には凡作だったと思う『完全なる首長竜の日』も比較的最近に見た。それらよりも前の作品とはいえ、こちらが観たのは今日が初めてだから、ものすごく新鮮だとか画期的だとか思ったわけではない。それでもまあ、この映画の魅力の大半は、現実と脳内現実が混乱する複雑な構成なんだろう。ネットで低評価な人の言い分はここがよくわからない、理解できないというものだが、それは同情にも共感にも値しない。やはりこの混乱が、おそらくこの映画を見直す価値のあるものにしている。もちろんそれは撮影方法とか編集とかいった映像的な工夫でもある(CGは多用していないそうな)。だがやはりアカデミー脚本賞を獲った脚本の構成力だろう。
伏線が意味を成し、ピースが嵌りだす後半まで、面白いなあと思って観ていて、最後の最後、結末にがっかりして全体には手放しの高評価はできなかった。結局「真実の愛」なの? このハッピーエンドが永続的なものだとは、全然思えない。一時の気の迷いじゃないの? という不信感を拭えず。
2014年12月10日水曜日
『アウトレイジ ビヨンド』
「洋画が見たくなる」と書いたのはほんとなのだが、そしてそういう洋画を見始めて続きも見たかったのだが(映画を分割して観るなんて許し難い行為だと思いつつ)、受験の終わった息子と、ハードディスクの中に溜まった録画のどれを片付けるかで、今夜の所は『アウトレイジ ビヨンド』を選んだのだった。
ところで彼と通しで映画を観るのはいつ以来だ? 辿ってみたらわかった。このブログ開設のきっかけとなった『マレフィセント』以来だ。だが本来私は彼らと映画を観るのが好きなのだ。受験生という自覚に適った行動をとる自律に敬意を払って抑えてきたが、今後は時間の許す限り一緒に観ていきたい。
で、『アウトレイジ ビヨンド』なのだが、前作『アウトレイジ』も一緒に観ている。北野武のヤクザ映画を観ていると、こういう行動原理がどのあたりでバランスを保っているのだろう、といつも気になる。法を犯すことをためらわないということは、そのまま社会生活を送り続けることを諦めざるをえないということだが、そんなふうにして生きていくのはシンドイだろうなあ、と思う。あるいは、ナメられないようにしていなければならないが、果てしなく敵対し続けるわけにもいかないだろうから、どこで引くかという見極めは重要だ。ある意味ではそれを計算しない「キレる」者(激昂しやすい人)が一時的には強いのだろうけれど、長期的には計算のできる「キレる」者(頭の良い人)の方が優位に立てるんだろう。加瀬亮の演ずる「石原」がのしあがっていけたのは、その両方の意味で「キレる」者だったからなのだろうが、そういう不愉快な人物をちゃんと引きずり下ろすところは映画的には快感ではあった。
とはいえ、同じように悪党な三浦友和や小日向文世あたりは因果応報的に殺されて良かったとは、あんまり思えなかった。人が死にすぎで、もうお腹いっぱいだったということもある。それよりそんな悪循環の応報にうんざりして、殺伐としてるなあ、と思ってしまったのだった。展開のスピード感にのせられて、退屈したりはしなかったのだが、暴力描写も安易な銃殺が多くて、むきだしの暴力によって「異化効果」を与えるといういつものキタノ映画の魅力は少なかったと思う。
さて、次は洋画か?
ところで彼と通しで映画を観るのはいつ以来だ? 辿ってみたらわかった。このブログ開設のきっかけとなった『マレフィセント』以来だ。だが本来私は彼らと映画を観るのが好きなのだ。受験生という自覚に適った行動をとる自律に敬意を払って抑えてきたが、今後は時間の許す限り一緒に観ていきたい。
で、『アウトレイジ ビヨンド』なのだが、前作『アウトレイジ』も一緒に観ている。北野武のヤクザ映画を観ていると、こういう行動原理がどのあたりでバランスを保っているのだろう、といつも気になる。法を犯すことをためらわないということは、そのまま社会生活を送り続けることを諦めざるをえないということだが、そんなふうにして生きていくのはシンドイだろうなあ、と思う。あるいは、ナメられないようにしていなければならないが、果てしなく敵対し続けるわけにもいかないだろうから、どこで引くかという見極めは重要だ。ある意味ではそれを計算しない「キレる」者(激昂しやすい人)が一時的には強いのだろうけれど、長期的には計算のできる「キレる」者(頭の良い人)の方が優位に立てるんだろう。加瀬亮の演ずる「石原」がのしあがっていけたのは、その両方の意味で「キレる」者だったからなのだろうが、そういう不愉快な人物をちゃんと引きずり下ろすところは映画的には快感ではあった。
とはいえ、同じように悪党な三浦友和や小日向文世あたりは因果応報的に殺されて良かったとは、あんまり思えなかった。人が死にすぎで、もうお腹いっぱいだったということもある。それよりそんな悪循環の応報にうんざりして、殺伐としてるなあ、と思ってしまったのだった。展開のスピード感にのせられて、退屈したりはしなかったのだが、暴力描写も安易な銃殺が多くて、むきだしの暴力によって「異化効果」を与えるといういつものキタノ映画の魅力は少なかったと思う。
さて、次は洋画か?
2014年12月8日月曜日
『武士の家計簿』、『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』
森田芳光の『武士の家計簿』は、久々に観た森田映画だったのだが、『家族ゲーム』の先鋭的な映画作りをするイメージの強いあの森田芳光が、時代劇で、しかもなんとも端整で手堅い演出をするのが意外だった。だがそういえば『家族ゲーム』の、あの有名な食卓シーンだって、リアルさよりも映画的な違和感を強く感じさせるものだったように、『武士の』のあちこちの演出も、やはりリアルさよりも映画的な感触を優先しているのだった。尤も『家族ゲーム』が従来の映画的なるものを否定して、新たな「映画」を作ろうとしていたように見えるのに比べて『武士の』は、むしろお約束の映画的文法を十全に使いこなしているように見える。それだけに驚きもないが、素材の良さで観てしまった。もちろんそれは堺雅人でも仲間由紀恵でもなく、御算用者(会計処理の役人)という素材のことだ。
だが、見終わって悪くなかったぞと思いつつネットの評判を見るとやはりどの映画もそうであるように毀誉褒貶あって、その「貶」を読むと、そのとおりだよなあと納得させられてしまう。素材の良さは充分に引き出されていたか? そうとは言い難い。良くできたドキュメンタリーであったらもっとずっと面白い「事実」を掬い上げていたはずであり、そうでないとすればあれはやはり「家族映画」として作られていたのだ。そうした視点から評価しようとすると、まるで深みも軽みも渋みもない、どうということもない絵解きに思えてくる。
ということは、それでも観られたのはやはりあの「端整で手堅い演出」のせいだということか。
ところで調べてみると森田芳光映画を12本も観ていたことがわかった。そしてそのどれも、手放しで面白かった、好きだと言えるものがないのだった。最も許し難いのは『模倣犯』の首が飛ぶシーンで、最も好意的に覚えているのは『間宮兄弟』かなあ。
『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』は、テレビドラマの時の疑似ドキュメンタリー風の面白さがなくなって、じゃあ映画的に面白くなったかというとそうでもない、という不満が残った。映像に金がかかっているのも、意外な事件でドキュメンタリー的展開から抜け出した序盤の展開も期待を持たせたのだが。たぶん、短期間で書き下ろす、というようなシチュエーションを想定すれば、あれはよくできた脚本なんだろうと好意的に思う。だが、金のかかった劇場映画と思えば、あんな完成度で撮り始めてしまうのは勿体ないと思う。この物語に、あんな中途半端な銃撃戦なんか要るか?
ただ、矢が刺さるCGは良くできていて、一瞬、おおっと思わせる。
手作り風味の日本映画をあえて観たい、という欲求が起こることもあって、どうしてもという期待をしているわけではない邦画も観てしまうが、そうすると反動で、良くできた洋画を見たい欲求が昂じてくる。とうてい日本ではない、この世ですらないような時空が逆に懐かしくなるような。
だが、見終わって悪くなかったぞと思いつつネットの評判を見るとやはりどの映画もそうであるように毀誉褒貶あって、その「貶」を読むと、そのとおりだよなあと納得させられてしまう。素材の良さは充分に引き出されていたか? そうとは言い難い。良くできたドキュメンタリーであったらもっとずっと面白い「事実」を掬い上げていたはずであり、そうでないとすればあれはやはり「家族映画」として作られていたのだ。そうした視点から評価しようとすると、まるで深みも軽みも渋みもない、どうということもない絵解きに思えてくる。
ということは、それでも観られたのはやはりあの「端整で手堅い演出」のせいだということか。
ところで調べてみると森田芳光映画を12本も観ていたことがわかった。そしてそのどれも、手放しで面白かった、好きだと言えるものがないのだった。最も許し難いのは『模倣犯』の首が飛ぶシーンで、最も好意的に覚えているのは『間宮兄弟』かなあ。
『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』は、テレビドラマの時の疑似ドキュメンタリー風の面白さがなくなって、じゃあ映画的に面白くなったかというとそうでもない、という不満が残った。映像に金がかかっているのも、意外な事件でドキュメンタリー的展開から抜け出した序盤の展開も期待を持たせたのだが。たぶん、短期間で書き下ろす、というようなシチュエーションを想定すれば、あれはよくできた脚本なんだろうと好意的に思う。だが、金のかかった劇場映画と思えば、あんな完成度で撮り始めてしまうのは勿体ないと思う。この物語に、あんな中途半端な銃撃戦なんか要るか?
ただ、矢が刺さるCGは良くできていて、一瞬、おおっと思わせる。
手作り風味の日本映画をあえて観たい、という欲求が起こることもあって、どうしてもという期待をしているわけではない邦画も観てしまうが、そうすると反動で、良くできた洋画を見たい欲求が昂じてくる。とうてい日本ではない、この世ですらないような時空が逆に懐かしくなるような。
2014年12月6日土曜日
『ハルフウェイ』『大鹿村騒動記』
この間『新しい靴を買わなくちゃ』を観たばかりの北川悦吏子の初監督作品『ハルフウェイ』。一家をなした脚本家が、こんな、何のストーリーもないお話を書いていいのかいなと、心配にさえなってしまった。というか、脚本があるのか? と思わせるほど、台詞がとりとめもない。手持ちカメラのブレも尋常じゃなく、どうやってこんな演出をしているんだろうと思って調べてみると、お芝居はアドリブなんだって。なるほど。それであの、書いたとは思えない、北乃きいと岡田将生のからみのお芝居が成り立っているのか(そしてそれをリアルタイムで追っているからのあのカメラのブレ)。
そのままネットでみんなの感想を読んでみると、否定派の言うとおり北乃のキャラクターは考えてみればどうみてもウザイのだが、観ている最中に不快感はなかった。それよりもとりとめもなく描かれる二人のいちゃつきは、「新しい靴を買わなくちゃ」の桐谷美玲と綾野剛のからみが、ひたすら鬱陶しく、この二人のシークエンスがごそっとカットされればこの映画はどれほど良くなるかと思わせたのに比べて、ほとんど同じように見えてもおかしくない北乃と岡田のからみがそうは見えなかったのはこちらの偶々のコンディションなのか、田舎の風景の中におさまった高校生という図が救いになっていたからか。むしろネットのこんな大胆な感想に共感さえしてしまったのだった。
ついでに最近「昨夜のカレー、明日のパン」で見慣れているサラリーマンコンビの溝端淳平と仲里依紗が高校生で揃って出てきているのも不思議な感じだった。二人とも今では、この高校生役の輝くような魅力とはまた違った好感度でサラリーマンを演じている。
編集も尋常じゃないとりとめもなさ(ストーリー上の意味付けや、カット同士の繋がり具合やカメラの視線の位置とか)だなあ、この味はなんだか覚えがあるぞと思っていたら、やっぱり岩井俊二なのだった。
『大鹿村騒動記』は阪本順治というようり原田芳雄を観たくて観たのだが、何とも感想の難しい映画だった。阪本順治は『どついたるねん』と最近の『北のカナリアたち』しか観たことがなく、どちらも安っぽくはないが手放しで好きにもなれなかった。『大鹿村騒動記』もそうだ。なんだかこれを喜劇として笑う気にはなれないのだが、シリアス一辺倒のドラマとして作っているわけでもあるまい。この間の『孤独な嘘』と同じ、妻の不倫を夫が許すという構図を受け入れがたいと言いたいわけではない。そこは原田芳雄の人柄で、それもアリだと思わせてしまうところがこの映画の魅力なのかもしれない。大楠道代だって、『ツィゴイネルワイゼン』のあの人がこの歳になってまでこんな風に女を演じられることを素直に賞賛したいし、岸部一徳も大好きな俳優だ。それでも、たとえば「見所」ということになっている大鹿歌舞伎はどうとも感じなかったし、佐藤浩市や松たか子は完全に無駄遣いに思えた。冨浦智嗣のエピソードもまるで心を動かされなかった。
でもなんだか、こんなつまらない感想はこちらの見方が悪かったような気もして、なんとなく居心地の悪い後味なのだった。
そのままネットでみんなの感想を読んでみると、否定派の言うとおり北乃のキャラクターは考えてみればどうみてもウザイのだが、観ている最中に不快感はなかった。それよりもとりとめもなく描かれる二人のいちゃつきは、「新しい靴を買わなくちゃ」の桐谷美玲と綾野剛のからみが、ひたすら鬱陶しく、この二人のシークエンスがごそっとカットされればこの映画はどれほど良くなるかと思わせたのに比べて、ほとんど同じように見えてもおかしくない北乃と岡田のからみがそうは見えなかったのはこちらの偶々のコンディションなのか、田舎の風景の中におさまった高校生という図が救いになっていたからか。むしろネットのこんな大胆な感想に共感さえしてしまったのだった。
こんな初々しい青春あふれる学校生活が、将来の日本の希望につながるのではないか? 女子高生のすがすがしさ。ちょっと考えてみれば分かる。自分をとりまくおじちゃん、おばちゃん達の素朴さ。やはり、昔でもこういう健康的なラブストーリーを経験してきてるから、日本の年配の方々は強いのだ。またもっと言えば、誰にでも青春は来るのだ。それが若い頃じゃなくても。いじめや援交などの学校生活ばかりが映画化されるが、こういう映画こそ、生きる力のつく映画だと思う。いやあ、相当数のバッシングもある中で、この肯定のシンプルさはすごかった。
ついでに最近「昨夜のカレー、明日のパン」で見慣れているサラリーマンコンビの溝端淳平と仲里依紗が高校生で揃って出てきているのも不思議な感じだった。二人とも今では、この高校生役の輝くような魅力とはまた違った好感度でサラリーマンを演じている。
編集も尋常じゃないとりとめもなさ(ストーリー上の意味付けや、カット同士の繋がり具合やカメラの視線の位置とか)だなあ、この味はなんだか覚えがあるぞと思っていたら、やっぱり岩井俊二なのだった。
『大鹿村騒動記』は阪本順治というようり原田芳雄を観たくて観たのだが、何とも感想の難しい映画だった。阪本順治は『どついたるねん』と最近の『北のカナリアたち』しか観たことがなく、どちらも安っぽくはないが手放しで好きにもなれなかった。『大鹿村騒動記』もそうだ。なんだかこれを喜劇として笑う気にはなれないのだが、シリアス一辺倒のドラマとして作っているわけでもあるまい。この間の『孤独な嘘』と同じ、妻の不倫を夫が許すという構図を受け入れがたいと言いたいわけではない。そこは原田芳雄の人柄で、それもアリだと思わせてしまうところがこの映画の魅力なのかもしれない。大楠道代だって、『ツィゴイネルワイゼン』のあの人がこの歳になってまでこんな風に女を演じられることを素直に賞賛したいし、岸部一徳も大好きな俳優だ。それでも、たとえば「見所」ということになっている大鹿歌舞伎はどうとも感じなかったし、佐藤浩市や松たか子は完全に無駄遣いに思えた。冨浦智嗣のエピソードもまるで心を動かされなかった。
でもなんだか、こんなつまらない感想はこちらの見方が悪かったような気もして、なんとなく居心地の悪い後味なのだった。
2014年11月30日日曜日
週末
そういえば前にも同じ題名の記事があったような。
週末のことをまとめて書いておく。こういうのは単に自分のための日記。
時々触れていた息子の入試は(まあ本人はこんなところで公の場にさらされたくはないだろうが)、木金で終了。とりあえず。本人曰く、入試本番はめっちゃテンションが上がって楽しかったというのだから豪胆と言おうか前向きと言おうか、なんともはや。聞くと、小論文のテーマと彼の書いた内容にはズレがあるような気もして安心はできないのだが、本人に後ろ向きな感情が湧いていないらしいことには安心。結果が出るまではさっさと切り替えて一般試験用の勉強を続けている。大したものだ。
土日に新人戦の県大会だが、土曜の午後は東京で二つの会議を梯子する。その移動の途中で明治神宮外苑の銀杏並木を縦走して、駅までを遠回りしてしまった。もう日が落ちていたから、銀杏の黄葉もライトアップされていたのだが、そこら中でそれを撮影している人がいて、なるほどと思い、私も。
週末のことをまとめて書いておく。こういうのは単に自分のための日記。
時々触れていた息子の入試は(まあ本人はこんなところで公の場にさらされたくはないだろうが)、木金で終了。とりあえず。本人曰く、入試本番はめっちゃテンションが上がって楽しかったというのだから豪胆と言おうか前向きと言おうか、なんともはや。聞くと、小論文のテーマと彼の書いた内容にはズレがあるような気もして安心はできないのだが、本人に後ろ向きな感情が湧いていないらしいことには安心。結果が出るまではさっさと切り替えて一般試験用の勉強を続けている。大したものだ。
土日に新人戦の県大会だが、土曜の午後は東京で二つの会議を梯子する。その移動の途中で明治神宮外苑の銀杏並木を縦走して、駅までを遠回りしてしまった。もう日が落ちていたから、銀杏の黄葉もライトアップされていたのだが、そこら中でそれを撮影している人がいて、なるほどと思い、私も。
それにしてもここまでひどいとは、ガラケーの画面ではわからなかった、とは言い訳だが、センスのないのにもほどがある。
日曜日に天台のスポーツセンターの敷地で撮った「名もない」銀杏並木の方が、よほど綺麗に撮れてる。
こちらが東京に出て娘1のところに泊まっている間、娘2と妻は金沢で「ざぶん賞」(「ザ文章」ではない)とかいう作文コンクールの授賞式に出席していた。「募集する文は、海や水に関わることであれば、環境問題に限らず安全、文化などテーマを広く選べること、また表現方法も作文や童話、詩、手紙など選択できます。」というのだが、どうも主催団体がどんなものなのかわからないところが怪しい。一応文科省や環境省が後援ではあるのだが。
入賞作品がちゃんとした文庫本になっていたりする(いかにもの「文集」の体裁でないところが)のをみても、なんだが金がかかっている。さすがわざわざ金沢くんだりまで授賞式だとかいって千葉の人間を喚び出すだけのことはある。珍しい経験に本人は喜んでいたが、こちらも嬉しい。授賞式が終わるまで読ませてもらえなかった肝心の入賞作品は、これで初めて読んだのだが、侮れない。すまん、侮っていた。申し訳ない。これほどとは。
帰ると、「一人暮らし」モードだったという息子は家から一歩も出ずに勉強していたのだと。
というわけで子供の自慢話二題。
2014年11月25日火曜日
『孤独な嘘』『婚前特急』
忙しい時間の隙間を縫って、ハードディスクの残量がカウントダウンになりつつあるのを気にして、録画されている映画を観る。
『孤独な嘘』(「Separate Lies」監督:ジュリアン・フェロウズ)は「アカデミー賞スタッフによるサスペンス」という触れ込みに釣られて観てみると、監督はこれが初監督作品なのだった(プロデューサーや出演者がアカデミー賞受賞者のようだ)。それが後で調べてわかって驚くほど、堂々たる画面構成で、演出で、編集の、格調高い映画だった。すっかりベテラン監督の風格だと感じたのだが。
が、お話としては、あれでいいのか! という不全感が強い。自分に置き換えて納得できる範囲を超えている。交通事故で人を死なせて隠蔽したままでいいのかとか、妻の不倫をあのように容認したままでいいのかとか。もちろんサスペンスでもない。それは許すとしても、ああ共感も感銘もなく、映画的表現のレベルの高さだけが際だつ作品をどう受け止めたものか。
一方、日本映画の『婚前特急』(監督:前田弘二)もまた、偶然にも初監督作品だった。なおかつこちらも、あれでいいのか! という不全感が強い。『孤独な嘘』同様、こちらもネットでは「納得できない」コールが激しいが、むべなるかな。吉高由里子が、気の迷いのように浜野謙太と結ばれてしまうのが、どうみても結局気の迷いのようにしか感じられなくて。それなりに納得できる面もあるよ、とかいう余地の無いほど、ハマケンの演じる男はどうしようもないと思うんだが。
でもなおかつ、悪くない映画だった。吉高が可愛かったとかいうのも認めてもいいが、『孤独な嘘』などとはあまりに対照的な日本映画的、手作り感が。
それと、途中のワンシーンがあまりに印象的だったのに驚いた。ハマケンのアパートに向かう吉高が街を歩くシークエンスが長々と挿入されているのだが、この街の風景が、なんだかこの世のものではないような感じなのだ。視界に人影がなく、強い風が街路樹や吉高の髪を靡かせる。ふてくされたような、放心したような表情で、体を投げ出すように歩く吉高の感情も、言葉で掬いきれない複雑なもののように感じられる。吉高からかなり遠い向こうにある樹のざわめき方からすると、あの風はロケ当日に偶然なのか狙ってなのか、実際に吹いていたのだろうと思うが、それがどうしてあんな違和感を感じさせるのかわからない。太陽の位置も判然とせず、「朝」だとか「昼」だとか「夕方」だとか名づけられるような、どういう時間帯だとも言えない。
そしてそうした街角を望遠で平面的に捉えておいて、手前に吉高の脚が焦点の合わないまま表れたかと思うと、低い位置に置かれたカメラから遠ざかるように奥に向かって歩くにつれて平面的な街に嵌め込まれるに焦点が合っていく。それでも縮尺から、奥行きはあるようにも見える住宅街は人影が絶えて、遠くの方で樹がざわめいている。
こういうカットが撮れるのは「センス」によるものか。それとも私が知らないだけで定番の技法なのか。いずれにせよこのカットだけでハマケンも許す。
ところでハマケンって、在日ファンクのあの人か!
『孤独な嘘』(「Separate Lies」監督:ジュリアン・フェロウズ)は「アカデミー賞スタッフによるサスペンス」という触れ込みに釣られて観てみると、監督はこれが初監督作品なのだった(プロデューサーや出演者がアカデミー賞受賞者のようだ)。それが後で調べてわかって驚くほど、堂々たる画面構成で、演出で、編集の、格調高い映画だった。すっかりベテラン監督の風格だと感じたのだが。
が、お話としては、あれでいいのか! という不全感が強い。自分に置き換えて納得できる範囲を超えている。交通事故で人を死なせて隠蔽したままでいいのかとか、妻の不倫をあのように容認したままでいいのかとか。もちろんサスペンスでもない。それは許すとしても、ああ共感も感銘もなく、映画的表現のレベルの高さだけが際だつ作品をどう受け止めたものか。
一方、日本映画の『婚前特急』(監督:前田弘二)もまた、偶然にも初監督作品だった。なおかつこちらも、あれでいいのか! という不全感が強い。『孤独な嘘』同様、こちらもネットでは「納得できない」コールが激しいが、むべなるかな。吉高由里子が、気の迷いのように浜野謙太と結ばれてしまうのが、どうみても結局気の迷いのようにしか感じられなくて。それなりに納得できる面もあるよ、とかいう余地の無いほど、ハマケンの演じる男はどうしようもないと思うんだが。
でもなおかつ、悪くない映画だった。吉高が可愛かったとかいうのも認めてもいいが、『孤独な嘘』などとはあまりに対照的な日本映画的、手作り感が。
それと、途中のワンシーンがあまりに印象的だったのに驚いた。ハマケンのアパートに向かう吉高が街を歩くシークエンスが長々と挿入されているのだが、この街の風景が、なんだかこの世のものではないような感じなのだ。視界に人影がなく、強い風が街路樹や吉高の髪を靡かせる。ふてくされたような、放心したような表情で、体を投げ出すように歩く吉高の感情も、言葉で掬いきれない複雑なもののように感じられる。吉高からかなり遠い向こうにある樹のざわめき方からすると、あの風はロケ当日に偶然なのか狙ってなのか、実際に吹いていたのだろうと思うが、それがどうしてあんな違和感を感じさせるのかわからない。太陽の位置も判然とせず、「朝」だとか「昼」だとか「夕方」だとか名づけられるような、どういう時間帯だとも言えない。
そしてそうした街角を望遠で平面的に捉えておいて、手前に吉高の脚が焦点の合わないまま表れたかと思うと、低い位置に置かれたカメラから遠ざかるように奥に向かって歩くにつれて平面的な街に嵌め込まれるに焦点が合っていく。それでも縮尺から、奥行きはあるようにも見える住宅街は人影が絶えて、遠くの方で樹がざわめいている。
こういうカットが撮れるのは「センス」によるものか。それとも私が知らないだけで定番の技法なのか。いずれにせよこのカットだけでハマケンも許す。
ところでハマケンって、在日ファンクのあの人か!
2014年11月24日月曜日
小論文3
夜中までスライドショーの編集で、今日は部活に行って、で、帰って夕飯のカレーを作ってから今日の分の小論文指導を。今日だけで4本。この週末に13本だ。正味20時間くらい? それに対する指導時間も10時間くらいは費やしているか。
だが問題文を読んでいると寝てしまって、なかなか頭に入ってこない。昨日書いたとおり、もうあれこれ言う余地のないものもあるが、それでもせっかくだから誤字を探したり、微妙に主述の乱れているところをみつけて指摘したりもする。今日の4本の中には問題文の読解を失敗していて、致命的だったものもあるし、問いに十分答えることなく紙幅の尽きてしまっているものもあるが、ともあれ、こうして一つ一つ、次に「使える」定見が増えていくことは大いなる成果だ。半分くらいは前に展開したことのある論旨の使い回しになりつつある。テーマの範囲がある程度決まった小論文の対策として、数をこなすことの成果はこれだ。
だが本当は、高校時代、授業中などに読んだ評論などが、同様に使える「パターン」「定石」となるのが好ましい。多くの高校生にはそこまで授業の成果を自分のものとすることがないままで、いざ小論文に使えるのはワイドショーのコメンテーターの受け売りくらいだったりする。惜しいことだ。教科書に収録されている評論の受け売りができれば上出来なのに。
だが問題文を読んでいると寝てしまって、なかなか頭に入ってこない。昨日書いたとおり、もうあれこれ言う余地のないものもあるが、それでもせっかくだから誤字を探したり、微妙に主述の乱れているところをみつけて指摘したりもする。今日の4本の中には問題文の読解を失敗していて、致命的だったものもあるし、問いに十分答えることなく紙幅の尽きてしまっているものもあるが、ともあれ、こうして一つ一つ、次に「使える」定見が増えていくことは大いなる成果だ。半分くらいは前に展開したことのある論旨の使い回しになりつつある。テーマの範囲がある程度決まった小論文の対策として、数をこなすことの成果はこれだ。
だが本当は、高校時代、授業中などに読んだ評論などが、同様に使える「パターン」「定石」となるのが好ましい。多くの高校生にはそこまで授業の成果を自分のものとすることがないままで、いざ小論文に使えるのはワイドショーのコメンテーターの受け売りくらいだったりする。惜しいことだ。教科書に収録されている評論の受け売りができれば上出来なのに。
2014年11月23日日曜日
小論文2
いよいよ本番が目前に迫ってきた息子は、金曜日から今日までの三日間で計9本もの小論文を書いてきた。1本1時間半としても単純に合計すると13時間半。問題選定の時間も含めるともっとかかっているはず。なんという集中力。
で、次々とこちらに持ってくるのだが、これを、1本2~3時間かけて検討している時間は無論無い。こちらもここんとこ修学旅行のビデオ編集とスライドショー作りに膨大な時間を取られていて、寝不足の毎日。結局1本あたり1時間も時間をとれていないで、最低限の検討会をこなしていく。彼も初期の頃より格段に練度が高くなってきて、もうそれほど駄目出しをする余地がなくなっている。というか、文章の完成度は恐ろしく高い。同時にたまたま、それほど考える余地のない問題が続いているともいえる。考えているうちに新しい認識が訪れるスペクタクルが展開されるわけでもない。手堅くまとめているという印象のものが多い。この段階ではこれで良しとするか。
三連休の明日はさらに2~3本書いてくるんだろうな。あと何本見られるか。どこまでつきあえるか。
で、次々とこちらに持ってくるのだが、これを、1本2~3時間かけて検討している時間は無論無い。こちらもここんとこ修学旅行のビデオ編集とスライドショー作りに膨大な時間を取られていて、寝不足の毎日。結局1本あたり1時間も時間をとれていないで、最低限の検討会をこなしていく。彼も初期の頃より格段に練度が高くなってきて、もうそれほど駄目出しをする余地がなくなっている。というか、文章の完成度は恐ろしく高い。同時にたまたま、それほど考える余地のない問題が続いているともいえる。考えているうちに新しい認識が訪れるスペクタクルが展開されるわけでもない。手堅くまとめているという印象のものが多い。この段階ではこれで良しとするか。
三連休の明日はさらに2~3本書いてくるんだろうな。あと何本見られるか。どこまでつきあえるか。
2014年11月20日木曜日
オペラ
今年の芸術鑑賞会はなんとオペラ。ほんとかよ、と思っていたら、本当にオペラだった。しかも「カルメン」。ただしフルオーケストラは無理で、ピアノとパーカッション2台。でも役者たちは本格的にうまかった。
だが、やはり起き続けてはいられなかった。そんな状態で感想を言うのも不遜だが、やはりどうにも入り込めなかった。歌の部分は台詞も聞き取れないし、物語が感情移入できたりスペクタクルだったりすることもなく。
だいたい昔からミュージカルもだめだった。この間の「Jersey Boys」などは、劇中ではっきりと演奏をするという設定で演奏するのだから、全く問題はないのだが、お芝居の一部として、台詞を歌ってしまうような演出には全然ついていけない(たしかタモリもそんなことを言っていた)。オペラも同様だった。
申し訳ない。良い観客ではありません。
だが、やはり起き続けてはいられなかった。そんな状態で感想を言うのも不遜だが、やはりどうにも入り込めなかった。歌の部分は台詞も聞き取れないし、物語が感情移入できたりスペクタクルだったりすることもなく。
だいたい昔からミュージカルもだめだった。この間の「Jersey Boys」などは、劇中ではっきりと演奏をするという設定で演奏するのだから、全く問題はないのだが、お芝居の一部として、台詞を歌ってしまうような演出には全然ついていけない(たしかタモリもそんなことを言っていた)。オペラも同様だった。
申し訳ない。良い観客ではありません。
2014年11月15日土曜日
カスタマー・レビュー
Amazonから届いた北園みなみとウワノソラを一通り聞いて、カスタマー・レビューに投稿。
北園みなみ『PROMENADE』
北園みなみ『PROMENADE』
わかった。天才だ。認める。作曲・編曲に、演奏だって? このレベルで鍵盤楽器もギターもベースも弾けるって、どういうことだよ。ウワノソラ『ウワノソラ』
そもそもLampから辿り着いたのだが、Lampやキリンジ、流線形や青山陽一あたりを挙げておけば、北園の音楽の心地良さは想像して貰えるだろうか。
それにしても、SoundCloudの音源から聴いている者としては、例えば「ソフトポップ」などは原曲である「Dorothy」と比べて、実に音数が増えてその一音一音がセンスの閃きに満ちているし、録音もそれなりに金のかかった贅沢な感触になっているのだが、それでも「Dorothy」はそれはそれで良い。さらにチープな「Dorothy」のDEMOバージョンですら、既に充分に良い。やはり根っこのところで既に天才なのだな。
北園みなみのリコメンドに誘われて聴いてみると、これは好みだ。北園みなみやキリンジのような「天才」に圧倒されるわけではないが、このまま精進してLampのような陰影のある曲が増えてくることを期待したくなる好感大のグループ。世代的には「あっぷるぱい」に近いが、印象としてはadvantage Lucyに近いか。
多くは16ビートのギター・カッティングに乗せた、トニックやサブ・ドミナントを基本、メイジャー7thにするという、日本ではシュガー・ベイブに始まって、ゼロ年代には流線形が、2010年代にあっぷるぱいが継承してきたるキラキラしたポップ・ソングたち。細かい転調が散りばめられているのもこの手のジャンル好きには嬉しい曲作りだ。流線形のクニモンド氏の歳ならこうした70年代風のサウンド作りも腑に落ちるが、どうして90年代に生まれた彼らがこうしたサウンドを生み出しているんだろう。とはいえadvantage Lucyでさえ、結成から20年近く経っているなんて聞くと、時間の感覚が混乱してしまう。
というわけでオールタイムで聴ける、いわゆるエバーグリーン・ミュージックです。
ものんくるの『南へ』の一番乗りをしようと思っているうちに見てみるともう3人のレビューが載っていて、出遅れた。といっても、何が書けるかちっとも思いつかないのだが。
高野文子の『ドミトリーともきんす』も、買って読んだら、やはりなんらかの感想を言わねばなるまいと思うのだが、数年ぶりに『棒がいっぽん』など読んでみると、どうにも語り口がみつからずに途方に暮れてしまう。やはり「よくわからないけどあきらかにすごい」のだった。
2014年11月12日水曜日
高野文子
最近、新聞の書評で高野文子の12年振りの新刊が出ていることを知って驚いたのだが、今日、大修館の出している『辞書のほん』というフリーマガジンで連載されている穂村弘の対談「よくわからないけど、あきらかにすごい人」の今月号のゲストが高野文子だったのを見つけて再度びっくり。
高野文子は卒論でも言及した、思い入れのある存在なのだが、連載名の「よくわからないけど、あきらかにすごい人」は、ほんとうに高野文子のためにあるような形容だ。未読だが先月号のゲストが萩尾望都で、彼女が「自分以降のマンガ家ですごい人は?」と訊かれて高野文子と即答したのだそうだ。おお! 萩尾望都にそう言わしめる高野文子はやっぱり「すごい」が、まあ多くのマンガ読みがそう思っているのも間違いない。そして高野文子も萩尾に導かれてマンガを描き始めたのだとか、自分に近い存在は樹村みのりだと言っていたりするのを読んで感慨に耽る。樹村みのりもまた私にとっては大学生の頃からの最重要作家なのだった。
高野の新刊『ドミトリーともきんす』もいつ買うかは単に時間の問題で、買わないという選択肢はないが、さて、読むのは怖い。読んで「面白かった」とかいう腑抜けた感想を書く訳にもいかないだろうし。とりあえず『棒がいっぽん』と『黄色い本』を読み返して、準備体操をするか。
昨日注文した北園みなみの『PROMENADE』とウワノソラの『ウワノソラ』がもう配達されてびっくり。amazonnおそるべし。ルルルルズも注文してしまえばよかったか。
高野文子は卒論でも言及した、思い入れのある存在なのだが、連載名の「よくわからないけど、あきらかにすごい人」は、ほんとうに高野文子のためにあるような形容だ。未読だが先月号のゲストが萩尾望都で、彼女が「自分以降のマンガ家ですごい人は?」と訊かれて高野文子と即答したのだそうだ。おお! 萩尾望都にそう言わしめる高野文子はやっぱり「すごい」が、まあ多くのマンガ読みがそう思っているのも間違いない。そして高野文子も萩尾に導かれてマンガを描き始めたのだとか、自分に近い存在は樹村みのりだと言っていたりするのを読んで感慨に耽る。樹村みのりもまた私にとっては大学生の頃からの最重要作家なのだった。
高野の新刊『ドミトリーともきんす』もいつ買うかは単に時間の問題で、買わないという選択肢はないが、さて、読むのは怖い。読んで「面白かった」とかいう腑抜けた感想を書く訳にもいかないだろうし。とりあえず『棒がいっぽん』と『黄色い本』を読み返して、準備体操をするか。
昨日注文した北園みなみの『PROMENADE』とウワノソラの『ウワノソラ』がもう配達されてびっくり。amazonnおそるべし。ルルルルズも注文してしまえばよかったか。
2014年11月11日火曜日
『麒麟の翼』『ヒッチャーⅡ』、ウワノソラ、ルルルルズ
『麒麟の翼』は「ガリレオ」シリーズもそうだが、それなりに謎のピースが嵌っていく後半へ向けて快感もあるものの、感動はない。阿部寛のお説教は「誰も守ってくれない」の佐藤浩市を思い出させたし、松坂桃李の暑苦しい演技は「ツナグ」の悪夢再びというような気がして見たくなかった。うーん、原作読んでもおんなじような感想になるのかなあ。
『ヒッチャーⅡ』は、あまりの駄目さに感想を書く気力も湧かない。これやこれが充分に言いたいことを言ってくれている。むしろこれらのブログ主の分析力や文章力がすごい。気合いもすごい。両方のブログ主ともに「ヒッチャー」第一作については傑作との評価なので、そちらは機会があれば観よう。
ところで殺人鬼のジェイク・ビジーって俳優がどうも見覚えあるなあと思ったら、『アイデンティティー』のあの護送される犯罪者か! しかも「ヒッチャーⅡ」と同じ年の映画なのか、あの傑作は。
ということで映画は2本ともはずれだったが、音楽の方は良いのを見つけて満悦。
北園みなみがとうとうメジャー・デビューということで早速amazonで注文。そこでリコメンドされているウワノソラとルルルルズに一聴惚れ。
ウワノソラ - Umbrella Walking ルルルルズ 『All Things Must Pass』 MV
他にも↓
2014年11月10日月曜日
『エクスペンダブルズ』12
「3」が公開されるのにあわせて「エクスペンダブルズ」の「1」「2」が地上波や衛星で複数回、テレビ放送されてる。前にあんなことを書いた義理もあって、録画しておいたものを観る。休みにまかせて一日で2本とも。
いやはや「やり過ぎ」感はキャスティングだけにとどまらない。アクションも、これでもかという「やり過ぎ」感に満ちている。いや、面白かったけどね。ストーリーはそれなりに起伏に富んでいてハラハラしたり、ワクワクしたり、機知に富んだ会話にニヤリとしたり、悪くない。何よりアクションのレベルの高いこと。ジェット・リーのカンフー・アクションはまあ当然として、ジェイソン・ステイサムの合気道風な動きとナイフ捌きを混ぜた殺陣はうまかった。爆撃やら銃撃やらカーアクションやら、これでもかの天こ盛りで、わずか数秒のカットにどれほどの手間と金がかかっているんだろうというようなアクションが、湯水のように流れ去って、目が追いきれない。勿体ない。贅沢というにも気が引けるほど、「勿体ない」というべき密度。
それにしても、あの仲間の命と敵方の命の重さの、あまりの不均衡をどう受け止めたらいいのか。敵は全くシューティングゲームの的でしかない。それを薙ぎ倒す快感を認めるべきなんだろうと思いつつ、それを等閑視して、仲間の死を悼んで良いものか。とするとどうしても人間ドラマが弱くなるんだよなあ。
ところでランディ・クートゥアが主役メンバーの一人として出演しているのは嬉しかった。敵方の肉体派ラスボスを倒す重要な役どころを割り当てられているとは。一方でノゲイラ兄弟は、かろうじて画面の中に認められるだけであっさり死んでいく敵方の兵士の一人。それもまた勿体ない。
いやはや「やり過ぎ」感はキャスティングだけにとどまらない。アクションも、これでもかという「やり過ぎ」感に満ちている。いや、面白かったけどね。ストーリーはそれなりに起伏に富んでいてハラハラしたり、ワクワクしたり、機知に富んだ会話にニヤリとしたり、悪くない。何よりアクションのレベルの高いこと。ジェット・リーのカンフー・アクションはまあ当然として、ジェイソン・ステイサムの合気道風な動きとナイフ捌きを混ぜた殺陣はうまかった。爆撃やら銃撃やらカーアクションやら、これでもかの天こ盛りで、わずか数秒のカットにどれほどの手間と金がかかっているんだろうというようなアクションが、湯水のように流れ去って、目が追いきれない。勿体ない。贅沢というにも気が引けるほど、「勿体ない」というべき密度。
それにしても、あの仲間の命と敵方の命の重さの、あまりの不均衡をどう受け止めたらいいのか。敵は全くシューティングゲームの的でしかない。それを薙ぎ倒す快感を認めるべきなんだろうと思いつつ、それを等閑視して、仲間の死を悼んで良いものか。とするとどうしても人間ドラマが弱くなるんだよなあ。
ところでランディ・クートゥアが主役メンバーの一人として出演しているのは嬉しかった。敵方の肉体派ラスボスを倒す重要な役どころを割り当てられているとは。一方でノゲイラ兄弟は、かろうじて画面の中に認められるだけであっさり死んでいく敵方の兵士の一人。それもまた勿体ない。
2014年11月9日日曜日
帰朝、『Jersey Boys』
台湾の話は無し。書き出すときりがないし。
それより行き帰りの機内で『Jersey Boys』を観た。これは良い映画だった。クリント・イーストウッドにハズレなし。何より音楽が良かった。まあミュージカルなんだからそこを外す訳にはいかないが。忍び込んだ教会ではじまる合唱や終演後のクラブではじまるセッションの素晴らしいこと。そして、ミュージカルの苦手な私にも、ラストシーンのダンスにはこみ上げるものがあった。あれを原作のように舞台でやられるとどうなんだろう。映画では奥行きのある画面でストリートを歩きながらダンスするという様式美があって、その進行に物語の時間の流れがシンクロして再生されるような印象があるんだが、観客席から観て平面的な空間で繰り広げられる舞台劇のダンスでもそういう印象が表現できるんだろうか。
ドラマとしてももちろん面白い、感動的なものだが、ふと、こういう、栄光と挫折という人間ドラマということなら、この間の「敵はリングの外にいた」なども同様の面白さだったよな、とか連想してしまう。それにしては金のかかり方が桁違い。それだけに「敵は…」は良い仕事だったということだが。
ところで、「ジャージー・ボーイズ」という邦題を聞いたときは「Jazzy Boys」(「Jazzy」=活気のある・派手な・けばけばしい)なのかと思ったが、出身地のニュージャージーに因んでの「Jersey Boys」なんだそうな。それにしても「Jazzy」って、「ジャズっぽい」って意味で使っていたが、「ジャズ」ってのがそもそもそ「派手な・けばけばしい」なのか。日本語の「かぶく」だな。「歌舞伎」の語源になってる。
飛行機の中ではもうひとつ、「Lucy」の最初の30分くらいを観たが、舞台がさっきまでいた台湾だったのが妙な偶然ではあった。
それより行き帰りの機内で『Jersey Boys』を観た。これは良い映画だった。クリント・イーストウッドにハズレなし。何より音楽が良かった。まあミュージカルなんだからそこを外す訳にはいかないが。忍び込んだ教会ではじまる合唱や終演後のクラブではじまるセッションの素晴らしいこと。そして、ミュージカルの苦手な私にも、ラストシーンのダンスにはこみ上げるものがあった。あれを原作のように舞台でやられるとどうなんだろう。映画では奥行きのある画面でストリートを歩きながらダンスするという様式美があって、その進行に物語の時間の流れがシンクロして再生されるような印象があるんだが、観客席から観て平面的な空間で繰り広げられる舞台劇のダンスでもそういう印象が表現できるんだろうか。
ドラマとしてももちろん面白い、感動的なものだが、ふと、こういう、栄光と挫折という人間ドラマということなら、この間の「敵はリングの外にいた」なども同様の面白さだったよな、とか連想してしまう。それにしては金のかかり方が桁違い。それだけに「敵は…」は良い仕事だったということだが。
ところで、「ジャージー・ボーイズ」という邦題を聞いたときは「Jazzy Boys」(「Jazzy」=活気のある・派手な・けばけばしい)なのかと思ったが、出身地のニュージャージーに因んでの「Jersey Boys」なんだそうな。それにしても「Jazzy」って、「ジャズっぽい」って意味で使っていたが、「ジャズ」ってのがそもそもそ「派手な・けばけばしい」なのか。日本語の「かぶく」だな。「歌舞伎」の語源になってる。
飛行機の中ではもうひとつ、「Lucy」の最初の30分くらいを観たが、舞台がさっきまでいた台湾だったのが妙な偶然ではあった。
2014年11月5日水曜日
明日から
明日から台湾で4日ほどブログお休み。まあ毎日更新ではないから特に珍しい空白でもないが。「こころ」シリーズの更新も、準備はしていたのだが果たせず。ブログらしく旅の記録なぞする予定もなく、帰朝してから何事もなくまた更新するんだろうな。
2014年11月2日日曜日
『88ミニッツ』、散歩
『88ミニッツ』なる深夜映画を録画。サスペンスだかホラーだかという宣伝だったのだがどんなのか不明だったので、休日の徒然に午前中から観てみる。何だか妙な急展開で裁判シーンになって、証人で出てきたのがアル・パチーノだったので、あれ、こいつはちゃんとした映画なのかいなと思い、続けてみてみると、とりあえず謎で物語を引っ張る。車を爆破したりして、妙なところで金がかかってもいる。題名の「88ミニッツ」が、殺人予告のあった途中から、映画と物語中の時間をシンクロさせるという例の手法で描かれるのだとわかって、興味も引かれる。
だが、結局バタバタしたまま強引に終わるB級サスペンス映画だった。ネットでも口々に「登場人物が把握しきれないうちに終わる」「人物に思い入れも持てないうちに殺される」と、やっぱり、な感想だった。それにしてもあちこち謎だ。冒頭でアル・パチーノと一夜を共にした女が、朝、全裸でY字バランスをしたまま電動歯ブラシで歯磨きをして登場するんだが、この衝撃的な登場が、何ら意味をもっていないのが凄い(さらにどうでもいいが、行きずりの女がどうして電動歯ブラシを持っている? 家主の歯ブラシを勝手に使ってる?)。この女、後で「出張ホステス」だったことがわかり(原語は何だ? コールガールか?)、その後で殺されてしまうんだが、連続殺人犯のトレードマークの、ロープで片足を吊すという殺し方が、ちょうどY字バランスを逆さまにしたポーズのようにも見えるが、その伏線かと考えるのはあまりに無理矢理か?
昼過ぎに運動不足感をおぼえて、自転車で散歩。途中の古い集落で、側溝の端の草地に小さな旗が何本も立てられている光景を不思議に思って写真に撮る。
どうやら「御加護」と書いてあるように見えるのだが、こういうのを何というのか、ネットでも調べられない。水辺であることと、曲がり角であることに何らかの意味合いがあるのだろうと想像されるのだが。子供が側溝に落ちないようにとのおまじないなのだろうか。
だが、結局バタバタしたまま強引に終わるB級サスペンス映画だった。ネットでも口々に「登場人物が把握しきれないうちに終わる」「人物に思い入れも持てないうちに殺される」と、やっぱり、な感想だった。それにしてもあちこち謎だ。冒頭でアル・パチーノと一夜を共にした女が、朝、全裸でY字バランスをしたまま電動歯ブラシで歯磨きをして登場するんだが、この衝撃的な登場が、何ら意味をもっていないのが凄い(さらにどうでもいいが、行きずりの女がどうして電動歯ブラシを持っている? 家主の歯ブラシを勝手に使ってる?)。この女、後で「出張ホステス」だったことがわかり(原語は何だ? コールガールか?)、その後で殺されてしまうんだが、連続殺人犯のトレードマークの、ロープで片足を吊すという殺し方が、ちょうどY字バランスを逆さまにしたポーズのようにも見えるが、その伏線かと考えるのはあまりに無理矢理か?
昼過ぎに運動不足感をおぼえて、自転車で散歩。途中の古い集落で、側溝の端の草地に小さな旗が何本も立てられている光景を不思議に思って写真に撮る。
2014年10月31日金曜日
『魔法にかけられて』『フィッシャー・キング』
リアルタイムで書けなかった。今週火曜日に、録画されていた「魔法にかけられて」を娘と観た。大ヒットした、あれね、とか思って侮っていたので、最初の方だけ観てやめようと思っていたのだが、いや、ディズニー、侮れない。娘と一緒に観てるというシチュエーションがまた曲者だ。こういう脳天気にハッピーなミュージカルは、一人では観る気にならないかもしれないが、誰か、しかも無邪気に面白がることに貪欲な彼女と観ると、どうにもハマってしまうのだ。いやあ、満足した。
あとでネットでみると、低評価の人の感想はまるで共感できないわけではなく、私とてもシチュエーション次第では同じような感想を抱かないとも限らない。
ただ個人的には、現代に迷い込んだ異邦人、というモチーフには奇妙に心惹かれるものがある。前半部に引き込まれたのにはそういう理由も確かにある。これが何を意味しているかは俄には判じがたいが、「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」で書いた「センス・オブ・ワンダー」ということかもしれない。
もうひとつ、1991年の公開当時から気になり続けていた「フィッシャー・キング」(監督:テリー・ギリアム)を何回かに分けてようやく見終わった。ロビン・ウィリアムズの追悼特集のような放送だったんだろうが、確かに良い役者だったよなあ。映画は、PDSTの表象であるところの赤騎士に辟易した他は、細部までよく作り込まれた良質な作品だった。横から覗き込んでいた息子が「音楽の使い方で引き込まれる映画だ」と評していた。
たぶん、悲惨なことになりそうな不安を常に感じさせておいて、それに対する希望や救いをそれよりほんの少々多めに用意しておくところが絶妙な映画なのだと思う。
ところでロビン・ウィリアムズは「グッドウィル・ハンティング」に次いでブログに二度目の登場。そしてヒロインのアマンダ・プラマーはなんと「新しい靴を買わなくちゃ」などという日本映画に続けて二度目の登場なのだった。
あとでネットでみると、低評価の人の感想はまるで共感できないわけではなく、私とてもシチュエーション次第では同じような感想を抱かないとも限らない。
ただ個人的には、現代に迷い込んだ異邦人、というモチーフには奇妙に心惹かれるものがある。前半部に引き込まれたのにはそういう理由も確かにある。これが何を意味しているかは俄には判じがたいが、「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」で書いた「センス・オブ・ワンダー」ということかもしれない。
もうひとつ、1991年の公開当時から気になり続けていた「フィッシャー・キング」(監督:テリー・ギリアム)を何回かに分けてようやく見終わった。ロビン・ウィリアムズの追悼特集のような放送だったんだろうが、確かに良い役者だったよなあ。映画は、PDSTの表象であるところの赤騎士に辟易した他は、細部までよく作り込まれた良質な作品だった。横から覗き込んでいた息子が「音楽の使い方で引き込まれる映画だ」と評していた。
たぶん、悲惨なことになりそうな不安を常に感じさせておいて、それに対する希望や救いをそれよりほんの少々多めに用意しておくところが絶妙な映画なのだと思う。
ところでロビン・ウィリアムズは「グッドウィル・ハンティング」に次いでブログに二度目の登場。そしてヒロインのアマンダ・プラマーはなんと「新しい靴を買わなくちゃ」などという日本映画に続けて二度目の登場なのだった。
2014年10月27日月曜日
「敵はリングの外にいた」
フジテレビの「ザ・ノンフィクション」の10月26日放送「敵はリングの外にいた」をテレビ欄で見つけて、なんか気になると録画した。どうも観たい。夕飯の後に部屋に戻る前の息子とちょっとさわりだけ、とか思いつつ見始めたら結局最後まで一緒に見てしまった。面白かった。後で息子も「やっぱ、面白いドキュメンタリーって面白いんだね」と言っていた。
女子プロレスに興味はないし、ファンだったこともない。だが同い年(だと今回初めて知った)の長与千種とダンプ松本の現在には興味があった。一世を風靡して、濃密な時間を生きていた人が、世間から忘れられたように生きる現在がどんなものか、気になった。社会問題を真剣に考えさせるようなタイプのドキュメンタリーの持っている重さってのあるのだろうが、そうではなく、ここにあるのは有り体に言ってやはり「人間ドラマ」なのだ。それを、恐らくは長い時間をかけて丁寧に取材して、その何気なくも貴重な瞬間の数々を映像に残してきたディレクターは、良い仕事をしたと思う。
そういえば、昨日一日がかりで編集した、こっちは歴史の一断面について心に刻むべきドキュメンタリーである「Japanデビュー アジアの”一等国”」は、やはりそれだけの鋭さで生徒たちの心に跡を残したような気がするし、苦労した編集も、全編を観ている同僚に絶賛されて、昨日の苦労が報われた。ま、番組そのものはNHK(外部の制作会社?)の労作なんだけど。
女子プロレスに興味はないし、ファンだったこともない。だが同い年(だと今回初めて知った)の長与千種とダンプ松本の現在には興味があった。一世を風靡して、濃密な時間を生きていた人が、世間から忘れられたように生きる現在がどんなものか、気になった。社会問題を真剣に考えさせるようなタイプのドキュメンタリーの持っている重さってのあるのだろうが、そうではなく、ここにあるのは有り体に言ってやはり「人間ドラマ」なのだ。それを、恐らくは長い時間をかけて丁寧に取材して、その何気なくも貴重な瞬間の数々を映像に残してきたディレクターは、良い仕事をしたと思う。
そういえば、昨日一日がかりで編集した、こっちは歴史の一断面について心に刻むべきドキュメンタリーである「Japanデビュー アジアの”一等国”」は、やはりそれだけの鋭さで生徒たちの心に跡を残したような気がするし、苦労した編集も、全編を観ている同僚に絶賛されて、昨日の苦労が報われた。ま、番組そのものはNHK(外部の制作会社?)の労作なんだけど。
「Japanデビュー アジアの”一等国”」他2題
明日、1時限で見せるためにNHKスペシャルの「Japanデビュー アジアの”一等国”」を40分程度に編集するのに、一日がかり。戦前の台湾統治の歴史を辿ったドキュメンタリーだが、番組の方向は確かにネトウヨの餌食になることを避けられない、今や懐かしいにおいすらする左翼的なバイアスがかかっている。一面的に日本統治の負の面が描かれる。それでもこうした歴史を口頭で語ってもとうてい浸透していくとは思えないので、せめて映像とともに生徒に提示したい。視聴記録プリントまで作って、1時限のために一体、何時間費やす?
月曜日に学校の図書室で、開架に並んでいた窪島誠一郎の「絵をみるヒントを」ぱらぱらとめくり、面白そうではないと思ってやめた、この本の後書きに水上勉の息子である由が書かれていた。
今日、随分前から断続的に読み進めていた「生きるかなしみ」(山田太一:編)の末尾に収録されている水上勉の文章を読んだら、この窪島誠一郎のことが「生き別れになっていた息子」として登場していて、窪島誠一郎も水上勉を全く縁のない読書生活の中でこんな偶然の符合が起こったのを不思議に思った。
録画した「東京JAZZ」のアーマッド・ジャマルのカルテットの演奏を、今日で3回目に(最初に一人で、次に娘と、今日は息子と)聴いていたら、突然腑に落ちる感覚がおとずれた。最初の時は曲の構成がわからないので、インプロビゼーションがどんどん逸脱していくと、もう何が何だかわからなくなっていた。2回目の時に、これは13分もの演奏の間、ただ4小節のテーマがひたすら繰り返されているだけなのだと気付いた。
そして3回目の今日は、インプロビゼーションで演奏がどれほど逸脱しようとも、背後でその4小節が流れつづけているのだと思いながら聴いてみた。すると、最初の時にはわけがわからない(コード感も調性感も小節の区切りの位置も、すぐについていけなくなる)と思っていた演奏が、俄かに「わかる」ように感じられた。テーマのメロディーやコード進行をスキーマとして、逸脱していく音の距離感がつかめるようになったのだった。
情報を枠組みに捉えることこそ「理解」という現象なのだ、という話。
月曜日に学校の図書室で、開架に並んでいた窪島誠一郎の「絵をみるヒントを」ぱらぱらとめくり、面白そうではないと思ってやめた、この本の後書きに水上勉の息子である由が書かれていた。
今日、随分前から断続的に読み進めていた「生きるかなしみ」(山田太一:編)の末尾に収録されている水上勉の文章を読んだら、この窪島誠一郎のことが「生き別れになっていた息子」として登場していて、窪島誠一郎も水上勉を全く縁のない読書生活の中でこんな偶然の符合が起こったのを不思議に思った。
録画した「東京JAZZ」のアーマッド・ジャマルのカルテットの演奏を、今日で3回目に(最初に一人で、次に娘と、今日は息子と)聴いていたら、突然腑に落ちる感覚がおとずれた。最初の時は曲の構成がわからないので、インプロビゼーションがどんどん逸脱していくと、もう何が何だかわからなくなっていた。2回目の時に、これは13分もの演奏の間、ただ4小節のテーマがひたすら繰り返されているだけなのだと気付いた。
そして3回目の今日は、インプロビゼーションで演奏がどれほど逸脱しようとも、背後でその4小節が流れつづけているのだと思いながら聴いてみた。すると、最初の時にはわけがわからない(コード感も調性感も小節の区切りの位置も、すぐについていけなくなる)と思っていた演奏が、俄かに「わかる」ように感じられた。テーマのメロディーやコード進行をスキーマとして、逸脱していく音の距離感がつかめるようになったのだった。
情報を枠組みに捉えることこそ「理解」という現象なのだ、という話。
2014年10月24日金曜日
『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』『すべてがFになる』
何の予備知識もなしで見始めた『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』(監督:御法川修)は大いに満足。気力がなくてレビューはしないが、たぶん間違いなく原作(益田ミリの4コマ漫画)の力であるとともに、監督もキャストもこの映画の空気感を作るのに、良い仕事をしたと思う。同じレストランものといえば、前に書いた『幸せのレシピ』が連想されるが、なるほど、どちらもストーリーはどうでもよくて、細部の描き方のうまさで見せる映画だ。
それにしても、真木よう子や寺島しのぶがうまくても今更驚かないが、柴咲コウのキャラクターがなんとも上手い造型で良いなあと思ったら、原作ではこれが主役なんだな。
これは原作も読んでみねば。
そういえば『すべてがFになる』のテレビドラマ版も、朝刊で突然知って第一話を予録して観たが、とりあえず原作に対する思い入れに落とし前をつけなきゃなるまい、という動機だけで期待などできるはずもあるまいという予想通り、安っぽいドラマだった。あの薄っぺらいテレビ特有の画面は、テレビマンの矜持だとどこかで読んだことがあるが、いったいそんな矜持をどうしたいというのだろう。あんな物語を日常(だがテレビドラマという作り物じみた非日常)的な画面で見せて何をねらうつもりか。とりあえず、であれ、映画的な異空間を作ってこそはじめて、あの外連味 たっぷりの「ミステリー」の異空間に視聴者をもっていけるんじゃないのか。でなければ、原作の絵解きに過ぎないあんな緊張感のないお芝居を見せてどうしたいというのか。
それにしても、真木よう子や寺島しのぶがうまくても今更驚かないが、柴咲コウのキャラクターがなんとも上手い造型で良いなあと思ったら、原作ではこれが主役なんだな。
これは原作も読んでみねば。
そういえば『すべてがFになる』のテレビドラマ版も、朝刊で突然知って第一話を予録して観たが、とりあえず原作に対する思い入れに落とし前をつけなきゃなるまい、という動機だけで期待などできるはずもあるまいという予想通り、安っぽいドラマだった。あの薄っぺらいテレビ特有の画面は、テレビマンの矜持だとどこかで読んだことがあるが、いったいそんな矜持をどうしたいというのだろう。あんな物語を日常(だがテレビドラマという作り物じみた非日常)的な画面で見せて何をねらうつもりか。とりあえず、であれ、映画的な異空間を作ってこそはじめて、あの
2014年10月21日火曜日
「議会占拠24日間の記録」「台湾アイデンティティー」
中間考査も明日で終わって、明後日からはまた授業が始まってしまう。授業自体は楽しみで、いくらでも時間がほしいのだが、この猶予に追いつこうと思っていた授業記録は結局書けないまま、授業の方が先へ進めばまた書きたいネタは生まれ出るんだろうし。もどかしい。
歯医者の予約を入れていたんで早くに帰って、治療が済んで家に戻ると、修学旅行の事前学習用の企画を考える。台湾の学習に「台湾アイデンティティー」(監督:酒井充子)と、NHKの「Japanデビュー」と、同じくNHK・BSのドキュメンタリー「議会占拠24日間の記録」のどれをどの順で見せるか検討。「Japanデビュー」はこの週末にようやく見終わって、日本と台湾の関係を考える上では是非見せたいと思いつつ、1時限で見せることの可能な長さにどう編集するか、容易な作業ではないと保留。今日は「台湾アイデンティティー」を、これもまたようやく見終えて、しごく好意的な印象をもったのだが、編集に関する時間の見当に二の足を踏んで、とりあえず明後日向けに「議会占拠24日間の記録」で行こうと決めた。
録画した5月に観て以来、二度目だが、やはりものすごく面白いドキュメンタリーだ。時間的にも小規模なカットでいける。テーマは台湾と中国の関係やら現在の台湾の情勢についての学習だが、何より、台湾の人々が実に素朴な「民主主義」を現実に生きていることを見せたいと思った。そこここで、学生が、市井の人たちが政治について車座になって熱く議論を交わす。こういう素朴さは今の日本では実現することが難しい。どうしたって頭でっかちの観念的「民主主義」擁護になってしまう気がする。
だが私の感ずる「面白さ」は、そうした理念より、学生による立法院(議会)立て籠もりを、具体的に体験するように想像できたことによる。行政府への要求をどこまで貫けたら撤退するかといったリーダーの決断や駆け引き、立て籠もりにあたってのチームの役割分担など、その顛末はまるで映画のような「面白さ」だった。とりわけ、撤退を宣言してから二日間でバリケート封鎖を解いて議会場を掃除して外へ出るという学生たちの振る舞いには拍手喝采だ。それぞれが日常生活に戻っても、この24日間の経験を生かしていこうとする「成長物語」まで、どこまでも良くできた映画のようだった。
だが「台湾アイデンティティー」も諦めてはいない。「議会占拠24日間の記録」が、ある事件の顛末を追った「映画」のようなドキュメンタリーだとすると、「台湾アイデンティティー」はさまざまな人生の断片が、さまざまな思いの強度によって語られることに引き込まれる、ドラマのようなドキュメンタリーだ。結局感動的なところは台湾という特殊な状況によるものというより、普遍的な夫婦愛や親子愛だったりもして、台湾の学習になるか? というためらいもないではないが。
歯医者の予約を入れていたんで早くに帰って、治療が済んで家に戻ると、修学旅行の事前学習用の企画を考える。台湾の学習に「台湾アイデンティティー」(監督:酒井充子)と、NHKの「Japanデビュー」と、同じくNHK・BSのドキュメンタリー「議会占拠24日間の記録」のどれをどの順で見せるか検討。「Japanデビュー」はこの週末にようやく見終わって、日本と台湾の関係を考える上では是非見せたいと思いつつ、1時限で見せることの可能な長さにどう編集するか、容易な作業ではないと保留。今日は「台湾アイデンティティー」を、これもまたようやく見終えて、しごく好意的な印象をもったのだが、編集に関する時間の見当に二の足を踏んで、とりあえず明後日向けに「議会占拠24日間の記録」で行こうと決めた。
録画した5月に観て以来、二度目だが、やはりものすごく面白いドキュメンタリーだ。時間的にも小規模なカットでいける。テーマは台湾と中国の関係やら現在の台湾の情勢についての学習だが、何より、台湾の人々が実に素朴な「民主主義」を現実に生きていることを見せたいと思った。そこここで、学生が、市井の人たちが政治について車座になって熱く議論を交わす。こういう素朴さは今の日本では実現することが難しい。どうしたって頭でっかちの観念的「民主主義」擁護になってしまう気がする。
だが私の感ずる「面白さ」は、そうした理念より、学生による立法院(議会)立て籠もりを、具体的に体験するように想像できたことによる。行政府への要求をどこまで貫けたら撤退するかといったリーダーの決断や駆け引き、立て籠もりにあたってのチームの役割分担など、その顛末はまるで映画のような「面白さ」だった。とりわけ、撤退を宣言してから二日間でバリケート封鎖を解いて議会場を掃除して外へ出るという学生たちの振る舞いには拍手喝采だ。それぞれが日常生活に戻っても、この24日間の経験を生かしていこうとする「成長物語」まで、どこまでも良くできた映画のようだった。
だが「台湾アイデンティティー」も諦めてはいない。「議会占拠24日間の記録」が、ある事件の顛末を追った「映画」のようなドキュメンタリーだとすると、「台湾アイデンティティー」はさまざまな人生の断片が、さまざまな思いの強度によって語られることに引き込まれる、ドラマのようなドキュメンタリーだ。結局感動的なところは台湾という特殊な状況によるものというより、普遍的な夫婦愛や親子愛だったりもして、台湾の学習になるか? というためらいもないではないが。
2014年10月19日日曜日
「ごめんね青春!」「昨日のカレー、明日のパン」、ビッケブランカ
このクールのアニメは「寄生獣」も2話でやめてしまったし、「四月は僕の嘘」も絵が綺麗なのは特筆すべきだが、見続けるかどうかはまだなんとも。
それより宮藤官九郎の「ごめんね青春!」恐るべし、だ。なんなんだこのハズレのなさは。多くのドラマは、新聞のテレビ欄でいくら広告しようとも主演俳優の名前しか書いていないというのにクドカンは満島ひかりより錦戸亮よりも先に名前が掲げられる。それもむべなるかな。
ところでこのドラマに個人的に受けた点。
舞台が我がふるさと(の隣の隣の市の)三島市だ。どういうわけでこんな地方都市が選ばれたのか謎だ。舞台のモデルになっているのは私も併願した日大三島なんだろうなあ。三島での高校生活は結局実現しなかったが。昨日買ったばかりの「うなぎパイ」が話題に出た時には、娘と顔を見合わせてしまった。
もうひとつ。授業のシーンでトリンドル玲奈が持っていたのは、私の関わっているあの書籍だった。エンドクレジットには協力として出版社名が出ていたから、編集部が知らないはずはないのだが、この間の会議では話題に出なかったなぁ。ところで高校3年という設定で「国語総合」はなかろう、などとは学校関係者しか思わないだろうが。
もうひとつ、木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」は、一話の後半を録り損ねて観られなかったのだが、2話まで観たところ、すこぶる良い感じ。この良さも「ごめんね青春!」同様、まだ言葉にならない。願わくはテレビ的な中途半端なコメディっぽさや感動ものっぽさを狙った演出などせず、淡々と脚本をリアルなお芝居で見せて欲しい。それでも木皿泉的ユーモアはにじみ出るだろうし、それでこそ、この奇妙な不穏さや悲しみを背後に隠した穏やかな空気はいっそう生きるだろうに。
You-Tubeで見つけた新人。
それより宮藤官九郎の「ごめんね青春!」恐るべし、だ。なんなんだこのハズレのなさは。多くのドラマは、新聞のテレビ欄でいくら広告しようとも主演俳優の名前しか書いていないというのにクドカンは満島ひかりより錦戸亮よりも先に名前が掲げられる。それもむべなるかな。
ところでこのドラマに個人的に受けた点。
舞台が我がふるさと(の隣の隣の市の)三島市だ。どういうわけでこんな地方都市が選ばれたのか謎だ。舞台のモデルになっているのは私も併願した日大三島なんだろうなあ。三島での高校生活は結局実現しなかったが。昨日買ったばかりの「うなぎパイ」が話題に出た時には、娘と顔を見合わせてしまった。
もうひとつ。授業のシーンでトリンドル玲奈が持っていたのは、私の関わっているあの書籍だった。エンドクレジットには協力として出版社名が出ていたから、編集部が知らないはずはないのだが、この間の会議では話題に出なかったなぁ。ところで高校3年という設定で「国語総合」はなかろう、などとは学校関係者しか思わないだろうが。
もうひとつ、木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」は、一話の後半を録り損ねて観られなかったのだが、2話まで観たところ、すこぶる良い感じ。この良さも「ごめんね青春!」同様、まだ言葉にならない。願わくはテレビ的な中途半端なコメディっぽさや感動ものっぽさを狙った演出などせず、淡々と脚本をリアルなお芝居で見せて欲しい。それでも木皿泉的ユーモアはにじみ出るだろうし、それでこそ、この奇妙な不穏さや悲しみを背後に隠した穏やかな空気はいっそう生きるだろうに。
You-Tubeで見つけた新人。
ビッケブランカ『秋の香り』
ビッケブランカ『追うBOY』
あまりの完成度にびっくりしたのだが、なんとなく清竜人を「Morning Sun」(Youtubeにはカバーしかないみたい)で知ったときのような予感もある。その後、興味をなくして、今は聞いていない、という。2014年10月18日土曜日
2014年10月17日金曜日
『Xファイル ザ・ムービー』『新しい靴を買わなくちゃ』
連日の「こころ」報告がなかなかハードなのだが、実は前回までの「曜日を推定する」の後にもう3時限くらい進んでいて、その間だってまとめておきたい、残しておきたい要素はいろいろあり、去年あれだけ考え、書いたにもかかわらず、やっぱり授業をやるということはそうした机上の想定内にはおさまらない様々な思考を強いるのだった。いや、これまでも、それぞれの生徒を相手に、その時々で精一杯のものを開陳して見せていたつもりだが、いつだって次の授業は、前回の「精一杯」を超える。
だが、中間考査をはさむので、今後の展開には猶予があるから、今日の所はお休み。
ポリシーとしての映画視聴記録。
「Xファイル ザ・ムービー」は、こういうジャンルが好物な私の嗜好に敬意を払って録画したが、いやあ、見終わるまでに長いことかかった。よくできている。ちゃちな感じはない。が、いかんせんTVシリーズを観ていない者が観るもんじゃないよなあ。
「新しい靴を買わなくちゃ」は、なんだか懐かしいような切ないような気分になった。そういう気分になるのを目的とした嗜好品としてのお伽噺ということで納得しないと、ネットのレビューの低評価の人たちのように「ふざけるな」という感想になってしまうんだろうな。やっぱり。一方でAmazonのカスタマー・レビューの意外なほどの高評価もどうしたことか(ネットでは、けっこうな割合で監督を岩井俊二と勘違いしている人が多かった。岩井俊二:プロデュースに坂本龍一:音楽ってのは豪華だ。肝心の脚本・監督の北川悦吏子は、有名な有名なトレンディ・ドラマの諸作品を一つも観ていなくて、なんの思い入れもないが)。
でも、「お伽噺」としては良かった。それと、ヒールの折れた靴、折れたヒールというのが、主人公たちの隠喩になっているという、わかりやすい構図に、とりあえず気づけたのは嬉しかった。
ああそれにしてもレビューも面倒でできない。
このクールで見始めた木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」と、宮藤官九郎の「ごめんね青春!」についても書き留めておきたいが、時間がとれず。だがこのままにはすまい。
だが、中間考査をはさむので、今後の展開には猶予があるから、今日の所はお休み。
ポリシーとしての映画視聴記録。
「Xファイル ザ・ムービー」は、こういうジャンルが好物な私の嗜好に敬意を払って録画したが、いやあ、見終わるまでに長いことかかった。よくできている。ちゃちな感じはない。が、いかんせんTVシリーズを観ていない者が観るもんじゃないよなあ。
「新しい靴を買わなくちゃ」は、なんだか懐かしいような切ないような気分になった。そういう気分になるのを目的とした嗜好品としてのお伽噺ということで納得しないと、ネットのレビューの低評価の人たちのように「ふざけるな」という感想になってしまうんだろうな。やっぱり。一方でAmazonのカスタマー・レビューの意外なほどの高評価もどうしたことか(ネットでは、けっこうな割合で監督を岩井俊二と勘違いしている人が多かった。岩井俊二:プロデュースに坂本龍一:音楽ってのは豪華だ。肝心の脚本・監督の北川悦吏子は、有名な有名なトレンディ・ドラマの諸作品を一つも観ていなくて、なんの思い入れもないが)。
でも、「お伽噺」としては良かった。それと、ヒールの折れた靴、折れたヒールというのが、主人公たちの隠喩になっているという、わかりやすい構図に、とりあえず気づけたのは嬉しかった。
ああそれにしてもレビューも面倒でできない。
このクールで見始めた木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」と、宮藤官九郎の「ごめんね青春!」についても書き留めておきたいが、時間がとれず。だがこのままにはすまい。
2014年10月12日日曜日
別役実、佐原の大祭
今日は「随筆」ではなく「日録」。
三連休。まず午前中から出かける。英語スピーチコンテストだという娘2を心の中で応援しつつ、娘1の関わる公演を観に東京まで。劇研10月公演。もう4回目の観劇だが、娘は今回も演出も出演もせずに照明オペレーター。
ここまでも、文句なしと言い切れる公演はなかったが、今回も満足のいく舞台にはならなかった。別役実ってのは期待したいような不安なような、と思っていたが、結局なんだかなあ、という感想に終わった。もちろん(というしかないような)、わけのわからんお話だが、まあそれはすっきりとわかるような話を期待しているわけではない。それでも、辻褄がわからないまでも伝わるべき感情や不条理感がちゃんと伝わればいいんだが、それよりも必然のわからない激情が全面に出て、それで観客を徒に脅しているような絶叫系の演技に出演者が中毒(「依存症」という意味で)しているんじゃないかという疑いを消せなかった。30年くらい前の脚本だそうだが、どうしてまたこれを選んだのやら。次回に期待。
一旦水道橋まで戻って会議だが、時間が早すぎるから新宿で時間をつぶそうとしてしばらくウロウロしたが、結局どこに居場所を見つけられるでもなく、とりあえず向こうに行ってからドトールででも時間を潰そうと電車に乗ったドアの正面に会議の出席者が座っていてびっくり。新宿駅でこんな偶然ってある?
夜の会議と飲み会の後でもう一度、娘のアパートまで行って泊めてもらう。舞台の感想やらその他もろもろをお喋りしているうち深夜が更ける。
朝は、公演最終日に出かける娘に邪魔にならないくらいに先んじて出て帰る。が、約束があったのでそのまま佐原まで。佐原の秋の大祭の三日目、最終日。
東大の大学院に在籍中の前任校の卒業生、卓が、佐原高の生徒との合同プロジェクト「さわら まちづくりプロジェクト(SMP)」の活動拠点である「さわらぼ(さわら&ラボラトリ)」を見に来いと言うので、一度は佐原高の文化祭の時に行きそびれたが、今度こそは実行。
東大のサイト
佐原高のサイト
facebook
評価は保留。感想も微妙。私などがちょっと見てどう思おうがどう言おうが、これから現実に起こる事だけがその成果なのだから、今の段階で門外漢が期待も失望の予感も語るまい。ただ、人の繋がりができていく不思議さに感じ入るところはあった。たとえば私がこの先この活動にどんなふうに関わらないとも限らない。それを拒否するものでもないし。そうなったときにまた、いくらか感じたことがあればあらためてそれを言おう。
偶然居合わせた私に長いことつきあって、祭やら佐原の歴史やらについていろいろと興味深いお話をして下さった、ほぼ私の父親世代の小高さんに感謝。卓が相変わらず飄々としながらもエネルギッシュで凄いなあと感嘆させられたのも嬉しかったし、もっとじっくりと研究のことなど話したかったが、それはまた後日。
「さわらぼ」にいるあいだに、前任校の卒業生が通りがかって、気付いてくれた向こうが話しかけてくれた偶然にも(学校と佐原の距離はそうとうなもんだから)驚くとともに嬉しかった。
大祭の盛り上がりは外部の者には近寄りがたいものがあって、以前は当事者たちの「ヤンキー」っぽさに眉をひそめたくなってしまったものだが、やはりこんなふうに外部から安易な感想を言うのは無責任というものだと思う。それより今日は、こんなふうに子供たち、少年、青年、壮年、老年と各世代が一緒に大掛かりなイベントに関わるなかで、それぞれに上の世代の振る舞いから「世間」とか「社会」とかいったものへの参加の仕方を学んでいく共同体のありようが、そういう関係性を持たない新興住宅地でしか暮らしたことのない私などにはとても貴重でうらやむべきものに感じられたのだった。

三連休。まず午前中から出かける。英語スピーチコンテストだという娘2を心の中で応援しつつ、娘1の関わる公演を観に東京まで。劇研10月公演。もう4回目の観劇だが、娘は今回も演出も出演もせずに照明オペレーター。
ここまでも、文句なしと言い切れる公演はなかったが、今回も満足のいく舞台にはならなかった。別役実ってのは期待したいような不安なような、と思っていたが、結局なんだかなあ、という感想に終わった。もちろん(というしかないような)、わけのわからんお話だが、まあそれはすっきりとわかるような話を期待しているわけではない。それでも、辻褄がわからないまでも伝わるべき感情や不条理感がちゃんと伝わればいいんだが、それよりも必然のわからない激情が全面に出て、それで観客を徒に脅しているような絶叫系の演技に出演者が中毒(「依存症」という意味で)しているんじゃないかという疑いを消せなかった。30年くらい前の脚本だそうだが、どうしてまたこれを選んだのやら。次回に期待。
一旦水道橋まで戻って会議だが、時間が早すぎるから新宿で時間をつぶそうとしてしばらくウロウロしたが、結局どこに居場所を見つけられるでもなく、とりあえず向こうに行ってからドトールででも時間を潰そうと電車に乗ったドアの正面に会議の出席者が座っていてびっくり。新宿駅でこんな偶然ってある?
夜の会議と飲み会の後でもう一度、娘のアパートまで行って泊めてもらう。舞台の感想やらその他もろもろをお喋りしているうち深夜が更ける。
朝は、公演最終日に出かける娘に邪魔にならないくらいに先んじて出て帰る。が、約束があったのでそのまま佐原まで。佐原の秋の大祭の三日目、最終日。
東大の大学院に在籍中の前任校の卒業生、卓が、佐原高の生徒との合同プロジェクト「さわら まちづくりプロジェクト(SMP)」の活動拠点である「さわらぼ(さわら&ラボラトリ)」を見に来いと言うので、一度は佐原高の文化祭の時に行きそびれたが、今度こそは実行。
東大のサイト
佐原高のサイト
評価は保留。感想も微妙。私などがちょっと見てどう思おうがどう言おうが、これから現実に起こる事だけがその成果なのだから、今の段階で門外漢が期待も失望の予感も語るまい。ただ、人の繋がりができていく不思議さに感じ入るところはあった。たとえば私がこの先この活動にどんなふうに関わらないとも限らない。それを拒否するものでもないし。そうなったときにまた、いくらか感じたことがあればあらためてそれを言おう。
偶然居合わせた私に長いことつきあって、祭やら佐原の歴史やらについていろいろと興味深いお話をして下さった、ほぼ私の父親世代の小高さんに感謝。卓が相変わらず飄々としながらもエネルギッシュで凄いなあと感嘆させられたのも嬉しかったし、もっとじっくりと研究のことなど話したかったが、それはまた後日。
「さわらぼ」にいるあいだに、前任校の卒業生が通りがかって、気付いてくれた向こうが話しかけてくれた偶然にも(学校と佐原の距離はそうとうなもんだから)驚くとともに嬉しかった。
大祭の盛り上がりは外部の者には近寄りがたいものがあって、以前は当事者たちの「ヤンキー」っぽさに眉をひそめたくなってしまったものだが、やはりこんなふうに外部から安易な感想を言うのは無責任というものだと思う。それより今日は、こんなふうに子供たち、少年、青年、壮年、老年と各世代が一緒に大掛かりなイベントに関わるなかで、それぞれに上の世代の振る舞いから「世間」とか「社会」とかいったものへの参加の仕方を学んでいく共同体のありようが、そういう関係性を持たない新興住宅地でしか暮らしたことのない私などにはとても貴重でうらやむべきものに感じられたのだった。

2014年10月9日木曜日
続 アニメ「ハイキュー!!」の凄さ
予告した「ハイキュー!!」讃の続きを書く。
前回分析したように、まずは相手方の高度なプレーを描いて敵の「凄さ」を感じさせておいて、次は、その実力差をひっくり返す可能性のあるこちら側、主人公のプレーをどう描くか。
先述の通り、主人公の一人、日向の武器は爆発的な瞬発力を生かしたワイド・ブロード(広範囲な移動攻撃)なのだが、これも、毎度同じようにアニメ技術だけでそのスピード感や力感を描くだけでは「凄さ」のインフレを起こしてしまう。どうするか。
まずは後衛にいるとほとんど戦力にならない日向が前衛に回ってくる期待感を、敵のキーマン・及川の「不安」として描く。ローテンションによる日向の前衛交代を「ああ、いやだ」と迎える及川の目からは日向が「ウォームアップ・ゾーンでフラストレーションを溜めた小さな獣」と表現される。そうしたナレーションに被る日向の表情は静止画で描かれ、コートに入る喜びに、憑かれたような白目がちだ。
こうして期待を高めた上でのお約束のブロードなのだが、これも、単に決めたのではそれこそ「お約束」になってしまうだけだ。だから、ここぞというときには特別な見せ方をしなければならない。今回のアタックでは、例によってスローモーションを交えた緩急のある描写でダイナミックスを感じさせた上で、そのあまりのスピードにブロックが付いて来られないばかりか、相手コートに突き刺さって大きくバウンドした後に、登場人物の何人かのバストショットに息を飲む音声を被せるだけの静止状態を描いて、たっぷり間を取ってから体育館内が一気に歓声に包まれる、という演出で見せるのである。
もちろんこれとても、そう何度も使える演出ではない。今回限りの使い捨ての覚悟で描かれた演出かもしれない。ともあれ、この「神回」ともいえる23話では、このようにして敵のプレーと主人公側のプレーのそれぞれが、高いレベルで拮抗する「凄さ」を、観る者に感じさせて始まるのだった。
前回分析したように、まずは相手方の高度なプレーを描いて敵の「凄さ」を感じさせておいて、次は、その実力差をひっくり返す可能性のあるこちら側、主人公のプレーをどう描くか。
先述の通り、主人公の一人、日向の武器は爆発的な瞬発力を生かしたワイド・ブロード(広範囲な移動攻撃)なのだが、これも、毎度同じようにアニメ技術だけでそのスピード感や力感を描くだけでは「凄さ」のインフレを起こしてしまう。どうするか。
まずは後衛にいるとほとんど戦力にならない日向が前衛に回ってくる期待感を、敵のキーマン・及川の「不安」として描く。ローテンションによる日向の前衛交代を「ああ、いやだ」と迎える及川の目からは日向が「ウォームアップ・ゾーンでフラストレーションを溜めた小さな獣」と表現される。そうしたナレーションに被る日向の表情は静止画で描かれ、コートに入る喜びに、憑かれたような白目がちだ。
こうして期待を高めた上でのお約束のブロードなのだが、これも、単に決めたのではそれこそ「お約束」になってしまうだけだ。だから、ここぞというときには特別な見せ方をしなければならない。今回のアタックでは、例によってスローモーションを交えた緩急のある描写でダイナミックスを感じさせた上で、そのあまりのスピードにブロックが付いて来られないばかりか、相手コートに突き刺さって大きくバウンドした後に、登場人物の何人かのバストショットに息を飲む音声を被せるだけの静止状態を描いて、たっぷり間を取ってから体育館内が一気に歓声に包まれる、という演出で見せるのである。
もちろんこれとても、そう何度も使える演出ではない。今回限りの使い捨ての覚悟で描かれた演出かもしれない。ともあれ、この「神回」ともいえる23話では、このようにして敵のプレーと主人公側のプレーのそれぞれが、高いレベルで拮抗する「凄さ」を、観る者に感じさせて始まるのだった。
「ハイキュー!!」はまた、何というか「文学的」なマンガだ。優れたスポーツマンガが文学的になる例は、先述の「ピンポン」も、ひぐちアサの「おおきく振りかぶって」も、新井英樹の「SUGER」も、坂本眞一の「孤高の人」(登山がスポーツかどうかは微妙だが)も、決して類例がないわけではないが、「少年ジャンプ」に載って少年少女に広く読まれているこの作品が、このレベルで「文学」なのは喜ばしいことだと思う。
スポーツマンガが「文学」であるかどうかは、つまりそれがどれほどスポーツという行為や戦いの意味について、その競技の本質について考察しているかにかかっている。そしてそれを語る言葉が、何というか「文学的」なのだ。
例えば、この23話でいうと、ラリーの続くシーソーゲームに被せて、応援に来ているOBが次のように語る。
バレーは、さ、とにかくジャンプ連発のスポーツだから、重力との戦いでもあると思うんだ。囮で跳び、ブロックで跳び、スパイクで跳ぶ。さらにラリーが続いて、苦しくなるにつれて思考は鈍っていく。ぶっちゃけ、囮とかブロックはサボりたくなるし、スパイクも誰か他のやつ打ってくれって思ったこともある。長いラリーが続いたときは酸欠になった頭で思ったよ。ボールよ、早く落ちろ。願わくは相手のコートに。こうして、観る者(あるいは原作の読者)は、そのラリーを体験する選手の内面に心を重ねていく。こうした心理描写と、なおかつその客観的な考察が、プレーを観る者の思考のレベルを引き上げてくれる。
それでもやはり厳然と実力差はある。マッチポイントに向けて、じりじりと引き離されていく。むしろ観る者の期待を高めた上で、ここぞというときに主人公のアタックもブロックされる。
ここで「流れを変える」ためにコーチのとった作戦はピンチサーバーの投入である。コートインするのは試合には初出場の控えの一年生。もちろん彼が個人的に練習時間後にサーブを習いにOBを訪れるエピソードが、以前の回で描いてあってこれが伏線となっている。だがそのサーブはまだまだ決定率も低く、習得過程に過ぎない。はたして物語はこの交代をどう決着させるか。
まず交代するサーバー本人は意気揚々とコートインするわけではない。それどころか、重要な場面での突然の抜擢にすっかり萎縮している。コートに入る瞬間も、たっぷり間を取って描かれる。白線をまたぐ逡巡を「この線の向こうは違う世界だ」というナレーションとともに描いてから、コートに入った瞬間、熱気が彼の顔を襲い、髪が後ろに流れる「心象描写」が続く。コートに立つ味方も敵も、揺れる炎を背景にして険しい顔をしている。
だが一方で彼の緊張を描くばかりではない。実はコートに立つチームメイトもまた、初出場の彼の緊張を痛いほどわかっていて、その緊張に感染してしまっていて、だがそれを表には出すまいとしているのである。前述の「険しい顔」は、視点を変えてみるとまったく違った意味合いであったことが明らかになる。
だがその緊張を彼に伝えまいとみんな必死に平静を保っている。彼の緊張を和らげようとするベンチの控え選手の気遣いや、それでも緊張の余りサーブゾーンでボールをバウンドするうちに自分の足に当てて、コート外にボールが転がってしまう痛々しさを描いてから、またしても先述のようなナレーションによって、この場面でサーバーとして立つことの重みを分析してみせ、観る者の感情移入を促す。
さて、このサーブは成功するか否か。果たして本当にサービスエースが描かれるのか。
もちろんこれが反撃のきっかけとなるべく、劇的な決定をさせるという展開もあるだろう。やはりここでもやっぷり間を取って、スローモーションを交えた描写でボールトスからジャンプ、そしてフローターサーブのボールが無回転で飛ぶ様子が描かれる。
だがこのサーブは、ここまでの期待をまったく無視してネットにかかるのである。ここでも先ほどと同じ、コート内に静止した一瞬をつくって、この結末に呆気にとられる観る者の心情を掬い上げる。
現実的には可能性の高い展開ながら、これは物語的には、アリなのだろうか? もちろんこの場面で期待に応えられなかった一年生の情けなさと悔しさと、そこから前に踏み出す心理的なドラマを描いてはいる。「すみません!」と謝る彼に、キャプテンの三年生が「次、決めろよ」と声をかけ、彼が泣き顔で「はい!」と答える。観客の女の子が「ピンチに突然出されて、失敗すると引っ込められちゃうんだ」「なんか可哀想…」と呟くのに答えて、くだんのOBが語る。
「ピンチサーバーはそういう仕事なんだ。その1本に試合の流れと自分のプライドを全部乗っけて…、そんで、タダシは失敗した。でも、今ここで自分の無力さと悔しさを知るチャンスがあることが、絶対にあいつを強くする。」いささか通俗的ながら、やはりきわめて「文学的」である。
だが、ゲームの展開としてこれでいいのだろうか? ピンチサーバーの投入の失敗で、さらに事態は悪化したのではないか?
そうではない。彼の緊張にシンクロしていた選手が、この失敗によって緊張から解き放たれて、もう一度集中力と闘志を新たにするのである。「流れを変える」という当初の目論見はこうして逆説的に果たされたのである。
緊迫した点の取り合いが、テンションの高い描写で続く。こぼれ球を足で拾ったり、レシーブに必死で顔からコートに突っ込んだり、快哉を叫んだり、歯ぎしりしたり。
それでも相手の総合力の高いことが、遠ざかる及川の背中に手を伸ばす心象描写で描かれる。得点するとすぐ届きそうになるが、相手のアタックが決まってマッチポイントになった瞬間、届かずに宙を掴む。万事休すか?
相手の速攻を肩口で弾いたボールがふわりと相手方コートに上がる。相手のチャンスだ。ネット際で待ち構える及川が、ダイレクトで押し込もうとジャンプしてくる。コースをコントロールされては、防ぐ手立てはない。スローモーションで及川の手にボールが近づく。
だがこのシーンは前に観たことがないか?
そう、及川の手と、そこに近づくボールの間に、下から差し込まれるのは、主人公の一人、セッターの影山の必死に伸ばした片手である。相手方コートに入るボールをワンハンドトスで自陣に引き戻す瞬間、及川の背中に再び手が伸びるイメージが挿入される。
そしてかろうじて上がったボールに、影山の背後からせり上がってくるのはもう一人の主人公、日向の姿である。コートに落ちていく及川と影山のアップを挟んで、日向の体が画面手前に膨れていく。そしてもう一度、及川のユニフォームの背中を、今度こそ鷲摑みにするイメージが力強く挿入され、そこからはスピードを戻して日向のスパイクが相手コートに突き刺さる。
ここで、冒頭のプレーが攻守を入れ替えて反復されるのであった。
そうくるか!
画面の中の会場の人々とともに、リビングの私と娘も歓声を上げている。
なんともはや、見事な物語であり、それを高いレベルの演出と作画で見せる見事なアニメーションである。
こうして長々と書いてきたが、これでも、正味18分ほどのこの回の物語の興趣の全てを掬い上げているとはとても言えない。まだまだ語り足りぬ面白さを横溢させているのである。これを観ている体験を再現しようと思ったら、たぶんまるまる「小説」として書いてしまうしかないような気もする。
もちろん一方で小説として読むことはこのアニメを観るという体験とは別の体験を読者にさせるに過ぎないのだが。だからブログとしてはその体験を分析し、考察を加えてその面白さを伝えようとしているのだが、果たしてその目的は達せられたのだろうか。
とまれ、とりあえずこの2本の記事を、「ハイキュー!!」鑑賞における同志である娘に捧げる。
2014年10月7日火曜日
ものんくる
ものんくるのメジャー第一弾『南へ』が、発売前から予約をしていたAmazonから届いた。実は前作の『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のAmazonのカスタマー・レビューは私が第一号で、長らくレビューはその1本しかなかったのだが、さっき見たら2本になっていた。『南へ』も第一号になってやろうと狙ってはいるが、その前にとりあえず聴かねば。とりあえずざっと流して、「良い」とは思うものの、そこそこ読めるだけの感想を言おうとなるとちょっと時間がいるなあ。
発売されたばかりで、Windows Media Playerで聴こうとすると、まだデータベースにCD情報がアップされていないから曲名が表示されない。そこまで発売ほやほや。
発売されたばかりで、Windows Media Playerで聴こうとすると、まだデータベースにCD情報がアップされていないから曲名が表示されない。そこまで発売ほやほや。
2014年10月6日月曜日
発見(マゼラン的な意味で) Polaris,Predawn,strandbeest
本屋や図書館は情報が整理されていないから偶然の出会いがあるが、ネットは関心のある情報しか提示されないから、新しい情報に出会わない、といった類の言説を耳にすることがある。昨日、息子の小論文のネタになっていた朝日新聞論説委員の清水克雄の文章もそういう趣旨だったし、今日読んだ黒瀬陽平の文章もそうだった。
どうだか。
紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?
ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。
昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
たとえばこういうの。
Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。
これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?
今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。
台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?
どうだか。
紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?
ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。
昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
たとえばこういうの。
Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。
これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?
今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。
台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?
2014年10月5日日曜日
アニメ「ハイキュー!!」の凄さ
この9月までの1クールで見ていたアニメは「残響のテロル」と「ばらかもん」だが、それだけでなく、その前のクールからの引き続きで見ていたのが「ハイキュー!!」である。
4月に新番組が次々と自動的に録画されていくうちに(ハードディスクレコーダーをそういう設定にしてある)、その一つとして録画されていたのが「ハイキュー!!」だった。
そういう新番組は、片っ端から冒頭の所を見て、特筆すべき特徴のないもの(美少女やイケメンがわらわら出るような学園物やファンタジー)を、ばさばさと消していくのだが、「ハイキュー!!」も、それが「配給」でも「High-Q」でもなく「排球」のことだとわかって、特にスポーツ物を見る動機もないから、即座に消そうとした。
だがその瞬間、一緒に新番組チェックをしていた娘が「待った」をかけた。彼女はその、「少年ジャンプ」連載のマンガであるところの原作を知っており、予め見る気でいたのだった。一瞬の遅滞でもあれば、ボタンを押して消してしまうところだった。すんでのところで消去を免れた第一話を娘と見ているうち、これは悪くないと、当面様子をみることにしてから半年、結局近年、最も面白いアニメであるという評価で最近放送を終えたのだった。
原作はちょっとしか読んでないので評価できないのだが、もちろんこういうのは基本的に原作が良いのだろう。原作を超えるアニメはほとんど存在しない。あれほど素晴らしかった「ピンポン」も、その出来に感心して原作を読み返してみると、決して原作を「超えて」はいないのだった(もちろん松本大洋のあの原作のレベルに匹敵するようなアニメを作ったということ自体、湯浅政明をいくら賞賛してもしすぎることはない)。
だがアニメ版「ハイキュー!!」が素晴らしいことも間違いない。ほとんど毎回、娘と見ていて歓声を上げてしまう場面があり、その回の放送を見終わると「いやあ、面白かった」と言わない回がほぼなかった。アニメーションとしての作画や演出がきちんとあるレベルを保っていないと、こうはいかない。
たとえば、しばしば感心するのはボールの動き。手前に飛んでくるボールの大きくなるスピードと画面上を移動するスピードで、ボールが飛んでくるスピード感が表現されるんだろうが、これがリアルなのである。また、ボールの回転によって軌道が変わる様子もリアルだ。フローターサーブの、回転が止まって軌道が揺れるところなんかも実にうまい。ボールの表面の凹凸も丁寧に(たぶんCGで)描き込まれている。
あるいは主人公、日向の特長である瞬発力が観る者にきちんと感じ取れるのも優れたアニメ技術ゆえだ。たぶん、単純な画面に対する横移動だけでスピードを表現しようとしたのではあのダイナミズムは出てこない。画面の奥行きに対する移動、基本的にはカメラに接近する動き、つまり対象物(日向の体)の膨張スピードと、決めポーズで静止するタイミングが適正にコントロールされているから、そのスピード感を実感して観る者の意識が一瞬で引きつけられてしまうのだろう。
だがこうしたアクションのレベルの高さは、SFでもバトルものでも、感心するようなものが少なくない。先日批判した「残響のテロル」も、アニメーションとしてはよくできていた。だからやはり「ハイキュー!!」の素晴らしさは基本的には物語の持っている強さに拠るのだろう。娘と二人、最も熱狂して見終えた第23話「流れを変える一本」(9月7日放送)を例に考えてみる(すぐにでも書こうと思って、もう一ヶ月も経ったのだが)。
物語は県大会の三回戦、練習試合の経験のある因縁の相手との試合は1セットずつ取ってのファイナルセット終盤を迎えている。結局は準優勝することになる相手校は強豪といっていい。ラリーが続くとじりじりと実力差が表れる。
この、「実力差」や「強さ」をどう描くか。現実には「強さ」は総合力の差だろうから、単にこちらがミスするか相手のスパイクが決まるかだ。だがそうして相手が得点するというだけでは何ら劇的な要素はない。だから、何らかの形でその強さが「特別」であることを示さなくてはならない。そこで、冒頭から次のようなプレーが描かれる。
味方サーブを、後衛に回った敵方のキーマンであるところのセッター・及川がレシーブする。このボールをリベロが上げ、それを及川がバックアタックで決める。
このプレーが強い印象を与えるのはなぜか。まず及川がレシーブをしたということは及川自身がトスを上げることはできないから、このプレーでは相手方には強い攻撃ができず、こちらのチャンスであるという観る者の期待を、直後に及川自身のスパイクが打ち砕く、という、観る者の感情を上げて下げる力学が効果的に働くことに拠るのである。
さらに、トスを上げるのがリベロである点にも仕掛けがある。ここでコーチが、素人である顧問教師に向かって解説する(この設定も巧みだ)。リベロはアタックラインの前でオーバーハンドのトスを上げてはいけないというルールがあるのだが、このプレーでは、リベロはラインより後ろで踏み切って空中でトスを上げているのである。「咄嗟にハイレベルな攻撃ができる」「これが強豪…」。
次のプレーの描写も見事だ。
味方のスパイクに対する相手のレシーブが、ふわりと味方コートに戻ってくる。レシーブボールが敵側にまで返ってしまうのはむろんミスだから、レシーバーの「しまった」という表情が写され、ボールが上がったところからはスローモーションになる。チャンスである。ダイレクト・アタックを決めるべく、主人公・日向がネット際に跳ぶ。日向のジャンプに「押し込め!」という味方の声が被さる。ネット真上の天井からのカメラワークでボールへ向かう日向の手がボールに近づくのにつれて高まる期待に、ボールに届く直前に、画面下から浮上して、日向とボールの間に挿し挟まれる及川の手が影を射す。及川の手がボールを自陣へ戻すと同時に再生スピードを戻して、後ろから跳んだアタッカーがスパイクを決める。及川の手がボールを自陣に引き戻す時には、スローモーションであるという以上に「ため」のある描写によって、直前の期待を裏切るその一瞬を最大限(しかし間延びしないタイミングで)見せておいて、決着は一瞬で見せる。この緩急の切り替え。
二つのプレーのどちらも、実際の試合の中では起こる頻度の低い、だが不可能ではないプレーである。いわゆる「必殺技」的な物理法則無視のスーパープレイではない(「リンかけ」の「ギャラクティカ・マグナム!!」的な)。こういう、作者の経験によるものか、丹念な取材によるものか、実に貴重なネタを冒頭に並べてみせ、その醍醐味をアニメーションが十全に描ききってみせる。
そしてこのプレーの直後に、日向をアップにして、微かに嬉しそうな顔で「すっげえ!」と言わせるのだ。期待はいやが上にも高まる。
(今晩は限界なのでここまで。以下次号)
4月に新番組が次々と自動的に録画されていくうちに(ハードディスクレコーダーをそういう設定にしてある)、その一つとして録画されていたのが「ハイキュー!!」だった。
そういう新番組は、片っ端から冒頭の所を見て、特筆すべき特徴のないもの(美少女やイケメンがわらわら出るような学園物やファンタジー)を、ばさばさと消していくのだが、「ハイキュー!!」も、それが「配給」でも「High-Q」でもなく「排球」のことだとわかって、特にスポーツ物を見る動機もないから、即座に消そうとした。
だがその瞬間、一緒に新番組チェックをしていた娘が「待った」をかけた。彼女はその、「少年ジャンプ」連載のマンガであるところの原作を知っており、予め見る気でいたのだった。一瞬の遅滞でもあれば、ボタンを押して消してしまうところだった。すんでのところで消去を免れた第一話を娘と見ているうち、これは悪くないと、当面様子をみることにしてから半年、結局近年、最も面白いアニメであるという評価で最近放送を終えたのだった。
原作はちょっとしか読んでないので評価できないのだが、もちろんこういうのは基本的に原作が良いのだろう。原作を超えるアニメはほとんど存在しない。あれほど素晴らしかった「ピンポン」も、その出来に感心して原作を読み返してみると、決して原作を「超えて」はいないのだった(もちろん松本大洋のあの原作のレベルに匹敵するようなアニメを作ったということ自体、湯浅政明をいくら賞賛してもしすぎることはない)。
だがアニメ版「ハイキュー!!」が素晴らしいことも間違いない。ほとんど毎回、娘と見ていて歓声を上げてしまう場面があり、その回の放送を見終わると「いやあ、面白かった」と言わない回がほぼなかった。アニメーションとしての作画や演出がきちんとあるレベルを保っていないと、こうはいかない。
たとえば、しばしば感心するのはボールの動き。手前に飛んでくるボールの大きくなるスピードと画面上を移動するスピードで、ボールが飛んでくるスピード感が表現されるんだろうが、これがリアルなのである。また、ボールの回転によって軌道が変わる様子もリアルだ。フローターサーブの、回転が止まって軌道が揺れるところなんかも実にうまい。ボールの表面の凹凸も丁寧に(たぶんCGで)描き込まれている。
あるいは主人公、日向の特長である瞬発力が観る者にきちんと感じ取れるのも優れたアニメ技術ゆえだ。たぶん、単純な画面に対する横移動だけでスピードを表現しようとしたのではあのダイナミズムは出てこない。画面の奥行きに対する移動、基本的にはカメラに接近する動き、つまり対象物(日向の体)の膨張スピードと、決めポーズで静止するタイミングが適正にコントロールされているから、そのスピード感を実感して観る者の意識が一瞬で引きつけられてしまうのだろう。
だがこうしたアクションのレベルの高さは、SFでもバトルものでも、感心するようなものが少なくない。先日批判した「残響のテロル」も、アニメーションとしてはよくできていた。だからやはり「ハイキュー!!」の素晴らしさは基本的には物語の持っている強さに拠るのだろう。娘と二人、最も熱狂して見終えた第23話「流れを変える一本」(9月7日放送)を例に考えてみる(すぐにでも書こうと思って、もう一ヶ月も経ったのだが)。
物語は県大会の三回戦、練習試合の経験のある因縁の相手との試合は1セットずつ取ってのファイナルセット終盤を迎えている。結局は準優勝することになる相手校は強豪といっていい。ラリーが続くとじりじりと実力差が表れる。
この、「実力差」や「強さ」をどう描くか。現実には「強さ」は総合力の差だろうから、単にこちらがミスするか相手のスパイクが決まるかだ。だがそうして相手が得点するというだけでは何ら劇的な要素はない。だから、何らかの形でその強さが「特別」であることを示さなくてはならない。そこで、冒頭から次のようなプレーが描かれる。
味方サーブを、後衛に回った敵方のキーマンであるところのセッター・及川がレシーブする。このボールをリベロが上げ、それを及川がバックアタックで決める。
このプレーが強い印象を与えるのはなぜか。まず及川がレシーブをしたということは及川自身がトスを上げることはできないから、このプレーでは相手方には強い攻撃ができず、こちらのチャンスであるという観る者の期待を、直後に及川自身のスパイクが打ち砕く、という、観る者の感情を上げて下げる力学が効果的に働くことに拠るのである。
さらに、トスを上げるのがリベロである点にも仕掛けがある。ここでコーチが、素人である顧問教師に向かって解説する(この設定も巧みだ)。リベロはアタックラインの前でオーバーハンドのトスを上げてはいけないというルールがあるのだが、このプレーでは、リベロはラインより後ろで踏み切って空中でトスを上げているのである。「咄嗟にハイレベルな攻撃ができる」「これが強豪…」。
次のプレーの描写も見事だ。
味方のスパイクに対する相手のレシーブが、ふわりと味方コートに戻ってくる。レシーブボールが敵側にまで返ってしまうのはむろんミスだから、レシーバーの「しまった」という表情が写され、ボールが上がったところからはスローモーションになる。チャンスである。ダイレクト・アタックを決めるべく、主人公・日向がネット際に跳ぶ。日向のジャンプに「押し込め!」という味方の声が被さる。ネット真上の天井からのカメラワークでボールへ向かう日向の手がボールに近づくのにつれて高まる期待に、ボールに届く直前に、画面下から浮上して、日向とボールの間に挿し挟まれる及川の手が影を射す。及川の手がボールを自陣へ戻すと同時に再生スピードを戻して、後ろから跳んだアタッカーがスパイクを決める。及川の手がボールを自陣に引き戻す時には、スローモーションであるという以上に「ため」のある描写によって、直前の期待を裏切るその一瞬を最大限(しかし間延びしないタイミングで)見せておいて、決着は一瞬で見せる。この緩急の切り替え。
二つのプレーのどちらも、実際の試合の中では起こる頻度の低い、だが不可能ではないプレーである。いわゆる「必殺技」的な物理法則無視のスーパープレイではない(「リンかけ」の「ギャラクティカ・マグナム!!」的な)。こういう、作者の経験によるものか、丹念な取材によるものか、実に貴重なネタを冒頭に並べてみせ、その醍醐味をアニメーションが十全に描ききってみせる。
そしてこのプレーの直後に、日向をアップにして、微かに嬉しそうな顔で「すっげえ!」と言わせるのだ。期待はいやが上にも高まる。
(今晩は限界なのでここまで。以下次号)
2014年9月30日火曜日
ツイッター、「残響のテロル」
ブログの開設に先立って、縁あってツイッターを始めたのだった。
だがやはりツイッターというのは、基本、モバイルから発信するものなのだろう。ガラケーからはメールも億劫で、ましてツイッターなど利用する気になれない。パソコンを開いて呟くくらいなら、ブログに書いてしまえばいいのだ。どうせ長くなるんだし。
というわけで最初の頃のいくつかのあとはすっかりご無沙汰なのだが、フォローの方はしてる。
が、
最近「残響のテロル」の番組最後のクイズの答えを公式サイトで確認するには、公式ツイッターのフォローをしなければならないということで、やむなくフォロワーになったのだが、そうするとツイッターのタイムラインに「残響」関係のツイートが溢れかえってしまい、もともとフォローしている人のツイートが埋もれてしまう、という、まことに迷惑な状態になっていた。
さて、放送も終わって、フォローを辞めたら、いきなりタイムラインがすっきりして、もともとフォロワーだった人のツイートだけが残った。あーすっきり。
そもそも三人しかフォローしてないのだ。
この「すっきり」には「残響のテロル」に対する不満が鬱積していたことの反動でもある。途中で、どうもつまらないぞ、これは、と思いつつも渡辺信一郎だしなあ、と最後まで見たのだが、やっぱりつまらなかった。怒りさえ覚えた。あの、いろんな物語からパクっただけの、どこかで見たことのある物語の断片を寄せ集めただけの矮小版「社会派サスペンス」が企画として通ってしまう不毛を、誰か止めろよ。作画が最後までレベルを落とさなかっただけにいっそう、脚本・演出とのギャップに怒りを覚えるのだった。
つっこみどころはいくらでもある。だが一つだけ挙げる。三島リサの存在が、この物語のレベルを果てしなく引き下げている。ヒロインの存在が物語に必須だとしても、結局このキャラクターにかかわっている部分がどこもかしこも足をひっぱって、物語のテンションを引き上げさせない。
だがやはりツイッターというのは、基本、モバイルから発信するものなのだろう。ガラケーからはメールも億劫で、ましてツイッターなど利用する気になれない。パソコンを開いて呟くくらいなら、ブログに書いてしまえばいいのだ。どうせ長くなるんだし。
というわけで最初の頃のいくつかのあとはすっかりご無沙汰なのだが、フォローの方はしてる。
が、
最近「残響のテロル」の番組最後のクイズの答えを公式サイトで確認するには、公式ツイッターのフォローをしなければならないということで、やむなくフォロワーになったのだが、そうするとツイッターのタイムラインに「残響」関係のツイートが溢れかえってしまい、もともとフォローしている人のツイートが埋もれてしまう、という、まことに迷惑な状態になっていた。
さて、放送も終わって、フォローを辞めたら、いきなりタイムラインがすっきりして、もともとフォロワーだった人のツイートだけが残った。あーすっきり。
そもそも三人しかフォローしてないのだ。
この「すっきり」には「残響のテロル」に対する不満が鬱積していたことの反動でもある。途中で、どうもつまらないぞ、これは、と思いつつも渡辺信一郎だしなあ、と最後まで見たのだが、やっぱりつまらなかった。怒りさえ覚えた。あの、いろんな物語からパクっただけの、どこかで見たことのある物語の断片を寄せ集めただけの矮小版「社会派サスペンス」が企画として通ってしまう不毛を、誰か止めろよ。作画が最後までレベルを落とさなかっただけにいっそう、脚本・演出とのギャップに怒りを覚えるのだった。
つっこみどころはいくらでもある。だが一つだけ挙げる。三島リサの存在が、この物語のレベルを果てしなく引き下げている。ヒロインの存在が物語に必須だとしても、結局このキャラクターにかかわっている部分がどこもかしこも足をひっぱって、物語のテンションを引き上げさせない。
2014年9月28日日曜日
推薦入試の小論文
とりあえず推薦入試を受ける予定の息子の小論文をみている(見ている? 看ている? 診ている?)
毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。
さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。
毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。
さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。
2014年9月26日金曜日
『ファンタスティック・フォー 銀河の危機』『心霊写真』
もともと観た映画の記録をしようという目的で始めたブログなので、言いたいことがあろうがなかろうが、映画のことだけは書く。
…などという言い訳をしなければならないくらいどうでもいい映画だった。とりあえずテレビで放送するSFとホラーは、とりあえず気になるので片っ端から観てしまうんだが、そういえば、ハリウッドでのリメイクが決まったとかいうタイのホラー映画『心霊写真』を観たのもこのブログ開設以降だったことを思い出した。
とりあえずホラーとSFってのは、素材をどう扱うかという共通した基準で観られるので、その決着が気になってしまうのだ。ブログ開設直前に観た『トライアングル 殺人ループ地獄』というどうしようもない邦題の、題からしてB級のホラーは、予想に反してよくできていて、この夏休みの最大の収穫だったが、タイミングが悪くてブログに書かれずにいたので、とりあえず子供たちに見せようとHDに入れたままにしてある。
それに比べて、「心霊写真」とか「ファンタスティック・フォー」とか、途中を早送りにせずにはいられないくらいにどうでもいい映画だった。まあ厳密にいえばちゃんと全編を観ないでそんな評価をするのはフェアではないのだが、もう端々が「どうでもいい」という感じを発しているのだ。「ファンタスティック・フォー」の第一作も観ているはずで、しかも悪い印象ではなかったような記憶が微かにあるのだが、この忘れっぷりはやっぱり「どうでもいい」映画だったんだろうな。
「心霊写真」ともども、内容を紹介するのも分析して評価するのも億劫なほど「どうでもいい」。
…などという言い訳をしなければならないくらいどうでもいい映画だった。とりあえずテレビで放送するSFとホラーは、とりあえず気になるので片っ端から観てしまうんだが、そういえば、ハリウッドでのリメイクが決まったとかいうタイのホラー映画『心霊写真』を観たのもこのブログ開設以降だったことを思い出した。
とりあえずホラーとSFってのは、素材をどう扱うかという共通した基準で観られるので、その決着が気になってしまうのだ。ブログ開設直前に観た『トライアングル 殺人ループ地獄』というどうしようもない邦題の、題からしてB級のホラーは、予想に反してよくできていて、この夏休みの最大の収穫だったが、タイミングが悪くてブログに書かれずにいたので、とりあえず子供たちに見せようとHDに入れたままにしてある。
それに比べて、「心霊写真」とか「ファンタスティック・フォー」とか、途中を早送りにせずにはいられないくらいにどうでもいい映画だった。まあ厳密にいえばちゃんと全編を観ないでそんな評価をするのはフェアではないのだが、もう端々が「どうでもいい」という感じを発しているのだ。「ファンタスティック・フォー」の第一作も観ているはずで、しかも悪い印象ではなかったような記憶が微かにあるのだが、この忘れっぷりはやっぱり「どうでもいい」映画だったんだろうな。
「心霊写真」ともども、内容を紹介するのも分析して評価するのも億劫なほど「どうでもいい」。
2014年9月23日火曜日
『ウォンテッド』『幸せのレシピ』「おやじの背中」
文化祭後の柔道がこたえて、体はきつかったが、どこにも出かけない、急ぎの用もない、贅沢な休日。休日に子供たちと食べる昼食の幸福。
この休日に見終わった映画。
「見終わった」とは妙な言い回しだが、実際録画されている映画をどれもこれも途中まで見ていて、さてどれから見終えるか、という感じなのだ。
夏休み中に録画したものだから一ヶ月越しの鑑賞でようやく見終えた『Wanted』(ティムール・ベクマンベトフ監督)は、まあ完全に映像を見るだけの映画だったな。このブログの開設のきっかけとなった「マレフィセント」のアンジェリーナ・ジョリーは、『トゥーム・レイダー』以来、タフなアクション女優ばっかりやってるような気がして、作品数が多いから多分そういうわけではないんだろうが、『ソルト』とこれと、実におんなじような役どころだった。モーガン・フリーマンが深みのないこの程度の悪役なのも残念。これも、映画館で観ればもっと楽しめるのかもしれないが、だからといってこんな脚本にこんな金をかけていいのか? ティムール・ベクマンベトフは『ナイト・ウォッチ』もやはり「驚愕の映像」で、でも面白かったという印象もない。
一方『幸せのレシピ』(スコット・ヒックス監督)は、あまりによくできているので、途中まで観ては子供たちにも見せたくて戻って再生したりして、最初の方は3回観てるところもあるが、ようやく最後の3分の1を娘と見通した。良かった。実に「幸せ」だった。
だがこれは『Wanted』に比べてそんなに良くできた物語だろうか。同程度に単純なお話のような気もする。気になってネットの映画評など見てみると、低評価の人の言い分も実に的確な気もする。
それでも観ていて幸せな気分になれるのは、なにより細部の演出が見事だったからだ。美しい抑揚によって書かれた文章が、読むだけで良い気分にさせてくれるように(ちょうどさっき向田邦子の文章を読んだので、それがイメージされている)、細部まで気配りの行き届いた画面が適切なテンポで展開していく映画は、観ているだけで気分がいい。こういうのは、「ドラマツルギー」とか言って物語の構造を考えたりして工夫していくだけでは生み出せない魅力で、ちょっと敵わんなあ、という気がする。言いたくないが「センス」というやつだ(ここは具体的な場面を挙げて分析すべきかとも思うが、それにはもう一度見直さなければならず時間がとれない)。
この休日に見終わった映画。
「見終わった」とは妙な言い回しだが、実際録画されている映画をどれもこれも途中まで見ていて、さてどれから見終えるか、という感じなのだ。
夏休み中に録画したものだから一ヶ月越しの鑑賞でようやく見終えた『Wanted』(ティムール・ベクマンベトフ監督)は、まあ完全に映像を見るだけの映画だったな。このブログの開設のきっかけとなった「マレフィセント」のアンジェリーナ・ジョリーは、『トゥーム・レイダー』以来、タフなアクション女優ばっかりやってるような気がして、作品数が多いから多分そういうわけではないんだろうが、『ソルト』とこれと、実におんなじような役どころだった。モーガン・フリーマンが深みのないこの程度の悪役なのも残念。これも、映画館で観ればもっと楽しめるのかもしれないが、だからといってこんな脚本にこんな金をかけていいのか? ティムール・ベクマンベトフは『ナイト・ウォッチ』もやはり「驚愕の映像」で、でも面白かったという印象もない。
一方『幸せのレシピ』(スコット・ヒックス監督)は、あまりによくできているので、途中まで観ては子供たちにも見せたくて戻って再生したりして、最初の方は3回観てるところもあるが、ようやく最後の3分の1を娘と見通した。良かった。実に「幸せ」だった。
だがこれは『Wanted』に比べてそんなに良くできた物語だろうか。同程度に単純なお話のような気もする。気になってネットの映画評など見てみると、低評価の人の言い分も実に的確な気もする。
それでも観ていて幸せな気分になれるのは、なにより細部の演出が見事だったからだ。美しい抑揚によって書かれた文章が、読むだけで良い気分にさせてくれるように(ちょうどさっき向田邦子の文章を読んだので、それがイメージされている)、細部まで気配りの行き届いた画面が適切なテンポで展開していく映画は、観ているだけで気分がいい。こういうのは、「ドラマツルギー」とか言って物語の構造を考えたりして工夫していくだけでは生み出せない魅力で、ちょっと敵わんなあ、という気がする。言いたくないが「センス」というやつだ(ここは具体的な場面を挙げて分析すべきかとも思うが、それにはもう一度見直さなければならず時間がとれない)。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズは恐ろしく綺麗だったし、アーロン・エッカートはかっこよかったし、アビゲイル・ブレスリンは可愛かった。それもまた優れた演出の賜物である。スコット・ヒックスは『アトランティスのこころ』でも、うまいなあと思って見ていたんだが、監督を覚えるに至らなかったが、これを期に心に留めておこう。
ところで思いのほか低い評価をする人の中で、元になっているドイツ映画を高く評価している人もいた。そうか、そういうのがあるのか。機会があったら観てみよう。
それに比べて「おやじの背中」の最終話は無惨だった。三谷幸喜があんな脚本を書いていいのか。登場人物の嘘がどんどん大がかりな展開になるというのは『マジック・アワー』でも『有頂天ホテル』でも実にうまく構成できていたのに、なんなんだ、このちゃちな展開は。ハラハラもドキドキもなくその無理さ加減にうんざりするばかりで、といって「笑いと涙」もなく。そして残念ながら小林隆はどうしようもなく大根だし。それを「味」だの「ほのぼの」だの「人柄」だのといって弁護する気には到底なれないのだった。
もうひとつ、億劫で見終わってなかった第8話の池端俊策も、これが紫綬褒章を受勲しているような脚本家のドラマかとがっかりだった。あながち演出のせいとも思えないほど、どこに魅力を感じればいいのかわからなかった。大泉洋の使い方も、決定的に間違ってる。彼には軽妙な演技をさせれば絶妙な味わいのある演技をする俳優なのに、それ以外に存在価値があるのか? 少なくともこのドラマではなかったと思う。
ところで思いのほか低い評価をする人の中で、元になっているドイツ映画を高く評価している人もいた。そうか、そういうのがあるのか。機会があったら観てみよう。
それに比べて「おやじの背中」の最終話は無惨だった。三谷幸喜があんな脚本を書いていいのか。登場人物の嘘がどんどん大がかりな展開になるというのは『マジック・アワー』でも『有頂天ホテル』でも実にうまく構成できていたのに、なんなんだ、このちゃちな展開は。ハラハラもドキドキもなくその無理さ加減にうんざりするばかりで、といって「笑いと涙」もなく。そして残念ながら小林隆はどうしようもなく大根だし。それを「味」だの「ほのぼの」だの「人柄」だのといって弁護する気には到底なれないのだった。
もうひとつ、億劫で見終わってなかった第8話の池端俊策も、これが紫綬褒章を受勲しているような脚本家のドラマかとがっかりだった。あながち演出のせいとも思えないほど、どこに魅力を感じればいいのかわからなかった。大泉洋の使い方も、決定的に間違ってる。彼には軽妙な演技をさせれば絶妙な味わいのある演技をする俳優なのに、それ以外に存在価値があるのか? 少なくともこのドラマではなかったと思う。
2014年9月21日日曜日
文化祭 「白犬伝 ある成田物語」
ブログの位置付けを「随筆集」のようなものとすると、そうおいそれとは更新ができないのだが、「備忘録」や「日記・日録」のようなものとすれば、ことの大小にかかわらず毎日書かねばならない。そう、「気の利いたこと」などと考えず。だがなかなかそういうわけにもいかず、更新が滞っている。
それより、例年、文化祭といえば大抵は音楽系の発表場所で過ごすのだが、今年もまた大半の時間を体育館で過ごした。
3年と1年に演劇の発表クラスがあって、3年生の演劇は体育館だったので、その準備や裏方の仕事ぶりや、劇の舞台そのものを見ることができた。劇自体は「白雪姫」のディズニー映画版をもとにしたもので、王子様のキスで白雪姫が生き返るところで劇が終わってしまう、30分ほどの簡略版、といったところである。基本的には小人たちや魔女役の男子生徒(なのだ、やはり)の個人技で、半ばは内輪受けのギャグで観客を沸かせる、といった体のクラス演劇ではある。だが、うちのような学校でクラス演劇をやることの困難はわかるだけに、担任の熱意と指導力と、それに応えた生徒たちの感じているであろう充実感は、見ていてやはり羨ましかった。体育館には恐らく四百人を超える観客がいたと思う。クラス全員でそのことを誇っていいと思った。
だが私が今回の文化祭で最も印象的だったのは演劇部の舞台だった。地区大会での実績をみる限り、そこそこの舞台にはなるんだろうと思っていたが、あんなに感動させられてしまうとは、申し訳ないが予想していなかった。
恐ろしく手抜きのポスターにある「白犬伝」という題名は、それがパロディであり、コメディなのかと思わせるが、それにしては「~ある成田物語」という副題が不審だ。リードには成田空港闘争を背景にした物語だというからこれはもしや社会派の演劇なのかと思って見始めると、主人公の白い犬のモノローグから始まる。やはりコメディタッチではある。が、早々に登場人物の一人が交通事故で死に、ドキリとしていると、そこから生ずる人間ドラマはシリアスである。
登場人物の何人かは知っている生徒が演じているので、どうにも冷静には見られない。頑張って練習してきたんだろうなとか、緊張して失敗しなければいいなとか(実際、結構噛み噛みだった)、そもそもこちらが不安定な心理状態で見ているせいか、些細な物語の起伏にどうにも感情が動いてしまって、やたらと感動しやすくなっていたのだった。笑うよりもむしろ胸にこみあげる場面が多かった。
とりあえず文化祭が終わった。もう昨日のことだ。Bloggerは投稿日時を指定できるから、今日書いたものを「昨日」投稿することもできるのだが(今までのいくつかもそうだ)、素直に今日の日付でアップしようか(「今日」のうちに書き終われば)。
クラスの方は細かく書き込むようなネタはない。アイス・ジュース販売などという不本意な参加形態に基本的に愛着を抱けないクラス発表だったことは、自分の力不足、戦略の失敗という点で反省するとして、一旦そう決まったからには、可能な限り良い活動であったという記憶を残したいものではある。
その点、全体としての生徒の活動は、実に好意的に見ていられた。何人かの、積極的に動ける生徒たちの行動力、責任感、気配り、アイデア、献身、クラス全体としてのノリ…、どれも見ていて微笑ましく、うんざりさせられたり苛立たしい思いをさせられたりというようなことがほとんどなく過ごせた三日半(準備日から数えて)だった。二日間で8万数千円の売り上げのある金銭のやりとりがあって、仕入れから計算した予定売り上げと、完売しての手元の現金が二百円ちょっとのズレで決算できたのも、上出来と言っていい(完全に一致するのを望むのは無理というものだ)。みんな金銭の管理に責任感をもって臨んだのだろうと、素直に誉めたい。
その点、全体としての生徒の活動は、実に好意的に見ていられた。何人かの、積極的に動ける生徒たちの行動力、責任感、気配り、アイデア、献身、クラス全体としてのノリ…、どれも見ていて微笑ましく、うんざりさせられたり苛立たしい思いをさせられたりというようなことがほとんどなく過ごせた三日半(準備日から数えて)だった。二日間で8万数千円の売り上げのある金銭のやりとりがあって、仕入れから計算した予定売り上げと、完売しての手元の現金が二百円ちょっとのズレで決算できたのも、上出来と言っていい(完全に一致するのを望むのは無理というものだ)。みんな金銭の管理に責任感をもって臨んだのだろうと、素直に誉めたい。
それより、例年、文化祭といえば大抵は音楽系の発表場所で過ごすのだが、今年もまた大半の時間を体育館で過ごした。
3年と1年に演劇の発表クラスがあって、3年生の演劇は体育館だったので、その準備や裏方の仕事ぶりや、劇の舞台そのものを見ることができた。劇自体は「白雪姫」のディズニー映画版をもとにしたもので、王子様のキスで白雪姫が生き返るところで劇が終わってしまう、30分ほどの簡略版、といったところである。基本的には小人たちや魔女役の男子生徒(なのだ、やはり)の個人技で、半ばは内輪受けのギャグで観客を沸かせる、といった体のクラス演劇ではある。だが、うちのような学校でクラス演劇をやることの困難はわかるだけに、担任の熱意と指導力と、それに応えた生徒たちの感じているであろう充実感は、見ていてやはり羨ましかった。体育館には恐らく四百人を超える観客がいたと思う。クラス全員でそのことを誇っていいと思った。
だが私が今回の文化祭で最も印象的だったのは演劇部の舞台だった。地区大会での実績をみる限り、そこそこの舞台にはなるんだろうと思っていたが、あんなに感動させられてしまうとは、申し訳ないが予想していなかった。
恐ろしく手抜きのポスターにある「白犬伝」という題名は、それがパロディであり、コメディなのかと思わせるが、それにしては「~ある成田物語」という副題が不審だ。リードには成田空港闘争を背景にした物語だというからこれはもしや社会派の演劇なのかと思って見始めると、主人公の白い犬のモノローグから始まる。やはりコメディタッチではある。が、早々に登場人物の一人が交通事故で死に、ドキリとしていると、そこから生ずる人間ドラマはシリアスである。
登場人物の何人かは知っている生徒が演じているので、どうにも冷静には見られない。頑張って練習してきたんだろうなとか、緊張して失敗しなければいいなとか(実際、結構噛み噛みだった)、そもそもこちらが不安定な心理状態で見ているせいか、些細な物語の起伏にどうにも感情が動いてしまって、やたらと感動しやすくなっていたのだった。笑うよりもむしろ胸にこみあげる場面が多かった。
物語は本当に成田空港闘争における1971年の「第2次行政代執行」を背景にしていて、やはり後へいくほど、笑うよりはシリアスなドラマが展開されるのだった。
だが、これが社会問題についてリアルに考えさせる物語になっていると単純に考えるわけにはいかない。というか、権力の横暴を単純に批判するような力が、直ちにこの演劇にあると言ってしまうのは危険だ。社会問題として真っ当に考えるならば、成田闘争における左翼運動の介入についても勘案したうえで評価しなければならないからだ。
それよりもむしろこの物語は、社会問題の複雑さに、家族間の人間ドラマを対置させ、そのいずれもの解決の見えなさに対して、主人公の犬がいわば「無垢」として機能することで一筋の救いを感じさせるところに魅力があると考えるべきだろう。もちろんそれが「無私」や「献身」といった安易なヒロイズムに見えかねないこともわかったうえで。
ただ、こんな真面目な問題を扱って、真面目になっている登場人物たちを動かしておいて、それでもうちのような学校の生徒に「何だか難しくて退屈な話だった」というだけでない感動を与える物語になっていたのは確かだった。
見に来ていた生徒の一人に、後で「演劇部の劇、良かったね」と言ったら、「本当に。何度も泣いちゃった」と言っていたのは、私の感想が他の観客にも共有されていたことを確信させたのだった。
だが、これが社会問題についてリアルに考えさせる物語になっていると単純に考えるわけにはいかない。というか、権力の横暴を単純に批判するような力が、直ちにこの演劇にあると言ってしまうのは危険だ。社会問題として真っ当に考えるならば、成田闘争における左翼運動の介入についても勘案したうえで評価しなければならないからだ。
それよりもむしろこの物語は、社会問題の複雑さに、家族間の人間ドラマを対置させ、そのいずれもの解決の見えなさに対して、主人公の犬がいわば「無垢」として機能することで一筋の救いを感じさせるところに魅力があると考えるべきだろう。もちろんそれが「無私」や「献身」といった安易なヒロイズムに見えかねないこともわかったうえで。
ただ、こんな真面目な問題を扱って、真面目になっている登場人物たちを動かしておいて、それでもうちのような学校の生徒に「何だか難しくて退屈な話だった」というだけでない感動を与える物語になっていたのは確かだった。
見に来ていた生徒の一人に、後で「演劇部の劇、良かったね」と言ったら、「本当に。何度も泣いちゃった」と言っていたのは、私の感想が他の観客にも共有されていたことを確信させたのだった。
さて、結局日をまたいでしまったのだが、冒頭に書いたとおり、文化祭が「昨日」であった日付でアップすることにするか。
2014年9月14日日曜日
喩え話 その2 ~スキーマ
続くのか。続くのである(「だけ」と言ったのに)。
昨夜は眠くて完結を断念したのだった。
人が何かを理解するとはどういうことか。
この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。
「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。
そこでさらに最近の喩え話一題。
『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から勧請 (分霊)を受けて分祀された神社を建てたということなのだ。この事態を生徒にどう説明したものかと悩んでいた先生と話していて思いついた喩え話。
昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。
追記
この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌?
昨夜は眠くて完結を断念したのだった。
人が何かを理解するとはどういうことか。
この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
スキーマ (英語: schema)とは、もともと図や図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。Wikipedia
新しい経験をする際に,過去の経験に基づいて作られた心理的な枠組みや認知的な構えの総称。Weblio辞典その他の参考リンク 1、2
道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。
「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。
そこでさらに最近の喩え話一題。
『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から
昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。
追記
この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌?
2014年9月13日土曜日
喩え話 ~キーとスケール
部活(比較的珍しいジャンルの音楽系)の練習効率の悪さについては以前からもどかしく思っていたのだが、早急に改善すべき点の一つとして、理論の把握の弱さが重要な懸案事項だと思っていた。無論、こうした考え方の陥穽については充分自覚している。理論を教えても、それを実践に結びつけない者にとってはまるで無駄になってしまうという失敗例は数々(それこそうんざりするほど)経験してきた。それでも理論を知らないままでやりつづけるのはいかにも勿体ないと思われて、どうにももどかしくなってしまうのが理屈っぽいのが苦にならない私の悪い癖ではある。
ずっとタイミングをとれずにいて、今日ようやっと、部活の開始の時点で話す機会をつくって、とりあえずこれだけは、と話したのは、練習の段階から通しで曲を演奏する段階まで、常にその曲のキー(調性)を意識しなさい、ということだった。その曲のキーが何であるかを意識せずに練習したり演奏したりするなどということは今ではアリエナイことだ私などには思えるのだが、実際に生徒を見ていると、むしろ意識している者がほとんどいない様子なのだ。
もちろん、実は私にも思い当たる。その昔、友達に教えてもらってギターを始めた頃、キーなどという概念はなかった。音楽の時間に聞いたことのある「ハ長調」とか「ニ短調」とかいう言葉が、自分のやっている音楽とどう結びつくのか、まるで理解していなかった。フォークやポップスの弾き語りというスタイルの、いわゆる歌本が楽譜代わりであるような演奏にとって、示されたコードネームを指のコードフォームに翻訳して、ストロークかアルペジオかで演奏するだけで演奏として完結するのであり、それがなんというキーであるかを知る必要は、とりあえず存在しないのだ。
私がそれを意識するようになったのは、別に教えてくれた人がいたわけも、本で勉強したわけでもない。多くの曲をやっているうちに、ある種の傾向、言ってしまえば法則があることがわかってきたからだ。曲ごとに、使うコードにはグループらしきものがあるようだとわかってきたのだ。これがあるキーにとっての「ダイアトニック・コード」というものであるなどと、その呼び名を知ったのは随分後だが、とにかく、コード弾きが中心のギター演奏にとって、キーの認識は、「ダイアトニック・コード」=「コードのグループ」のことなのだ。同時に、そうしたグループの中での、トニックやドミナント、サブドミナントなどの各コードの役割もわかってきた。ある曲ではCがトニックだが、別な曲でCがサブドミナントであるような時にはGがトニックだ。もちろんそんな用語を知ったのは随分後になってからだ。だが、そういう法則については、曲の中から洗練されるようにしてわかってきた。Eのキーでトニックとして聞こえるEメジャーと、Amのキーでドミナントとして聞こえるEがまるで違った音に聞こえることも、実際の演奏の中で気づいて驚いたのだった。
一方、それに対して楽譜を読んで演奏する生徒たちにとって、キーの認識とは、つまりスケール(音階)の認識だ。この曲がCメジャー(ハ長調)であると認識することはCメジャーのスケールを意識した状態で楽譜を読んだり演奏したりするということだ。だが、これを実践していない者が多い(というかほとんどやっていない)。教えられていないのだ。スケールは上級生が教えている。だが、それが何の意味を持っているのかは教えていない。上級生がそもそも教わっていない。スケールの練習は大切だと、例えば経験者から言われているから真面目な者は実行するし、下級生にも教える。が、何のために覚えているかというと、スケールを弾くことを要求されたときに弾けるようなするためなのだ。つまりテストのために勉強する、という、例によって「学校」という制度にはびこる毎度毎度の自己完結、予定調和、自己目的化だ。
では、演奏のためにスケールを意識することはなんの意味があるのか。単に「効用」と言ってしまえば、つまりはキーを意識しておくと、練習の段階で、より早く演奏できるようになるということであり、演奏の段階で間違えにくくなるということだ。なぜか。使う可能性の高い音が把握されているからだ、というような言い方をしてきたのだが、今日、この話をするにあたって喩え話を一つ考えた。
スケールを意識しておくということは、案内されて道を歩くときに、地図を手にしておくということに似ている。道案内に従って初めての道を往く。目的地まで辿り着いて、さてもう一度今の道をたどれるかといえば、行程の長さや経路の複雑さによるだろうが、その界隈の全体像を俯瞰できる地図があれば、ない場合に比べてそれははるかに容易になることは間違いない。
演奏における楽譜は、辿るべき道をその都度示している道案内のようなものだ。ここは右に曲がれとか真っ直ぐとか東方向に三歩とか。楽譜を読み慣れてくるとそうした指示に瞬時に反応できるようになるから、楽譜を見ていると演奏はできるようになる。だが演奏全体が楽譜なしに可能になるまでには、地図なしに道案内だけで経路を把握するのと同様の手間がかかる。また、それだけでは、たとえば違った小道を辿って同じ目的地に行ったり、その地域を自由に行き来したりすることができるようになるわけではない。
地図を見ながらそうした案内を受けるということは、自分の現在位置が全体の中に位置づけられ、同時に周りの状況も見えているということだ。経路の把握は速やかに為され、再び同じ道を辿るときに迷うことがない。これが「練習の段階で、より早く演奏できるようになり、演奏の段階で間違えにくくなる」ということだ。例えば、キーを意識していない者にとってCの音は単にCの音でしかないが、キーが、つまりスケールが意識されている者にとってのCの音は、Cのキーの曲においては第1音(ルート)であり、Fのキーでは第5音、A♭では第3音、E♭では第6音、B♭では第2音か第9音だ。つまり、地図上に自分の位置が位置づけられるように、自分のいる位置が把握できるということだ。キーを意識していない者は、自分のいる位置が把握できない。次に移動するべき指示に従って道を辿るしかないのである。
また、覚えが早い、間違えにくいというだけでなく、自分で経路をアレンジできるということでもある。この道はどうつながっているのか、そもそもそちらへ進んでいいのかは、地図として全体像が把握されているから可能なのである。同様にスケールを意識していれば演奏すべき音列を自分でアレンジできる。つまり自由なアドリブが可能になるのである。
ここまで書くことになる予定はまるでなかった。言いたかったのは次の一言だけ。
うまい喩え話を思いついたときは嬉しい。
ずっとタイミングをとれずにいて、今日ようやっと、部活の開始の時点で話す機会をつくって、とりあえずこれだけは、と話したのは、練習の段階から通しで曲を演奏する段階まで、常にその曲のキー(調性)を意識しなさい、ということだった。その曲のキーが何であるかを意識せずに練習したり演奏したりするなどということは今ではアリエナイことだ私などには思えるのだが、実際に生徒を見ていると、むしろ意識している者がほとんどいない様子なのだ。
もちろん、実は私にも思い当たる。その昔、友達に教えてもらってギターを始めた頃、キーなどという概念はなかった。音楽の時間に聞いたことのある「ハ長調」とか「ニ短調」とかいう言葉が、自分のやっている音楽とどう結びつくのか、まるで理解していなかった。フォークやポップスの弾き語りというスタイルの、いわゆる歌本が楽譜代わりであるような演奏にとって、示されたコードネームを指のコードフォームに翻訳して、ストロークかアルペジオかで演奏するだけで演奏として完結するのであり、それがなんというキーであるかを知る必要は、とりあえず存在しないのだ。
私がそれを意識するようになったのは、別に教えてくれた人がいたわけも、本で勉強したわけでもない。多くの曲をやっているうちに、ある種の傾向、言ってしまえば法則があることがわかってきたからだ。曲ごとに、使うコードにはグループらしきものがあるようだとわかってきたのだ。これがあるキーにとっての「ダイアトニック・コード」というものであるなどと、その呼び名を知ったのは随分後だが、とにかく、コード弾きが中心のギター演奏にとって、キーの認識は、「ダイアトニック・コード」=「コードのグループ」のことなのだ。同時に、そうしたグループの中での、トニックやドミナント、サブドミナントなどの各コードの役割もわかってきた。ある曲ではCがトニックだが、別な曲でCがサブドミナントであるような時にはGがトニックだ。もちろんそんな用語を知ったのは随分後になってからだ。だが、そういう法則については、曲の中から洗練されるようにしてわかってきた。Eのキーでトニックとして聞こえるEメジャーと、Amのキーでドミナントとして聞こえるEがまるで違った音に聞こえることも、実際の演奏の中で気づいて驚いたのだった。
一方、それに対して楽譜を読んで演奏する生徒たちにとって、キーの認識とは、つまりスケール(音階)の認識だ。この曲がCメジャー(ハ長調)であると認識することはCメジャーのスケールを意識した状態で楽譜を読んだり演奏したりするということだ。だが、これを実践していない者が多い(というかほとんどやっていない)。教えられていないのだ。スケールは上級生が教えている。だが、それが何の意味を持っているのかは教えていない。上級生がそもそも教わっていない。スケールの練習は大切だと、例えば経験者から言われているから真面目な者は実行するし、下級生にも教える。が、何のために覚えているかというと、スケールを弾くことを要求されたときに弾けるようなするためなのだ。つまりテストのために勉強する、という、例によって「学校」という制度にはびこる毎度毎度の自己完結、予定調和、自己目的化だ。
では、演奏のためにスケールを意識することはなんの意味があるのか。単に「効用」と言ってしまえば、つまりはキーを意識しておくと、練習の段階で、より早く演奏できるようになるということであり、演奏の段階で間違えにくくなるということだ。なぜか。使う可能性の高い音が把握されているからだ、というような言い方をしてきたのだが、今日、この話をするにあたって喩え話を一つ考えた。
スケールを意識しておくということは、案内されて道を歩くときに、地図を手にしておくということに似ている。道案内に従って初めての道を往く。目的地まで辿り着いて、さてもう一度今の道をたどれるかといえば、行程の長さや経路の複雑さによるだろうが、その界隈の全体像を俯瞰できる地図があれば、ない場合に比べてそれははるかに容易になることは間違いない。
演奏における楽譜は、辿るべき道をその都度示している道案内のようなものだ。ここは右に曲がれとか真っ直ぐとか東方向に三歩とか。楽譜を読み慣れてくるとそうした指示に瞬時に反応できるようになるから、楽譜を見ていると演奏はできるようになる。だが演奏全体が楽譜なしに可能になるまでには、地図なしに道案内だけで経路を把握するのと同様の手間がかかる。また、それだけでは、たとえば違った小道を辿って同じ目的地に行ったり、その地域を自由に行き来したりすることができるようになるわけではない。
地図を見ながらそうした案内を受けるということは、自分の現在位置が全体の中に位置づけられ、同時に周りの状況も見えているということだ。経路の把握は速やかに為され、再び同じ道を辿るときに迷うことがない。これが「練習の段階で、より早く演奏できるようになり、演奏の段階で間違えにくくなる」ということだ。例えば、キーを意識していない者にとってCの音は単にCの音でしかないが、キーが、つまりスケールが意識されている者にとってのCの音は、Cのキーの曲においては第1音(ルート)であり、Fのキーでは第5音、A♭では第3音、E♭では第6音、B♭では第2音か第9音だ。つまり、地図上に自分の位置が位置づけられるように、自分のいる位置が把握できるということだ。キーを意識していない者は、自分のいる位置が把握できない。次に移動するべき指示に従って道を辿るしかないのである。
また、覚えが早い、間違えにくいというだけでなく、自分で経路をアレンジできるということでもある。この道はどうつながっているのか、そもそもそちらへ進んでいいのかは、地図として全体像が把握されているから可能なのである。同様にスケールを意識していれば演奏すべき音列を自分でアレンジできる。つまり自由なアドリブが可能になるのである。
ここまで書くことになる予定はまるでなかった。言いたかったのは次の一言だけ。
うまい喩え話を思いついたときは嬉しい。
2014年9月11日木曜日
ブログ名 変更
あまりに考えなしでつけたブログ名を、娘のアドバイスに従って変更しました。
というか彼女の命名。
追記
Bloggerというのは外国企業が提供している、基本、英語向けのサービスだからなのか、編集画面は日本語に「翻訳」されたものらしく、このブログ名が「麹ん的な見解」と表記されていて、何事かと思った。漢語の音に筆者名のローマ字表記を重ねるという、複数の文字系統を併用する日本語ならではの言葉遊びは、英語ベースの言語体系には理解されないようで、それにしても「こーじ」の長音はどこから出た?
というか彼女の命名。
追記
Bloggerというのは外国企業が提供している、基本、英語向けのサービスだからなのか、編集画面は日本語に「翻訳」されたものらしく、このブログ名が「麹ん的な見解」と表記されていて、何事かと思った。漢語の音に筆者名のローマ字表記を重ねるという、複数の文字系統を併用する日本語ならではの言葉遊びは、英語ベースの言語体系には理解されないようで、それにしても「こーじ」の長音はどこから出た?
2014年9月10日水曜日
『誰も守ってくれない』「進撃の巨人」
平日で、宵のうちから眠くて、「進撃の巨人」の14巻に思う存分感動したあとだというのに、録画されていた『誰も守ってくれない』を見てしまった。5年前の公開の時に話題だったから、脚本か監督かが別の作品で知ってる人なんだろうと思ったら『踊る大走査線』の君塚良一だった。見終わってから知ったのは失敗だった。
重大な犯罪を犯した者の家族に対する世間の非難は妥当なものか? テーマとしては決着が難しい、興味深い題材を取り上げている。展開も演出も安っぽくはない、だが密度が薄い、と思ってみてるうち、ラスト近く、多分最も感動的であるべき主人公の台詞があまりに安っぽくて、ここまで見せといて(こっちが勝手に見ているのだが)、最後でこれかよ! と怒ってしまった。犯罪者の家族はどこまでその罪を共有しなければならないのか? 本気で考える気が脚本家か監督にあれば、どう転んでも面白くなりそうなテーマ設定なのに(どちらも君塚良一だが)。
確かに難しい。説得力のある見解を提示するのはどうしたって難しいことは理解できるが、それにしたって、あの大仰で感動的だろ? と言わんばかりの作り物の台詞は何事だ。
それにしてもどこにもここにも佐藤浩市。日本の役者には佐藤浩市と役所広司と香川照之しかいないのか。三人とも、いつ見ても見事な演技をする人たちだから、まあそれで不満があるわけではないが。いったい、佐藤浩市と役所広司と香川照之は、それぞれ何人ずついるんだ?
それにしても「進撃の巨人」は、10巻くらいで一度ピークがあったが、またそのピークに再び到達している。しかも10巻のはとにかく衝撃的なネタで勝負、というピークだったが、この14巻のは、丁寧に練り込まれた設定と圧倒的なストーリーテリング、名台詞に酔い、絵のスピード感に昂揚する、という、まことに真っ当な力業によって押し上げられたピークだ。脱帽。
重大な犯罪を犯した者の家族に対する世間の非難は妥当なものか? テーマとしては決着が難しい、興味深い題材を取り上げている。展開も演出も安っぽくはない、だが密度が薄い、と思ってみてるうち、ラスト近く、多分最も感動的であるべき主人公の台詞があまりに安っぽくて、ここまで見せといて(こっちが勝手に見ているのだが)、最後でこれかよ! と怒ってしまった。犯罪者の家族はどこまでその罪を共有しなければならないのか? 本気で考える気が脚本家か監督にあれば、どう転んでも面白くなりそうなテーマ設定なのに(どちらも君塚良一だが)。
確かに難しい。説得力のある見解を提示するのはどうしたって難しいことは理解できるが、それにしたって、あの大仰で感動的だろ? と言わんばかりの作り物の台詞は何事だ。
それにしてもどこにもここにも佐藤浩市。日本の役者には佐藤浩市と役所広司と香川照之しかいないのか。三人とも、いつ見ても見事な演技をする人たちだから、まあそれで不満があるわけではないが。いったい、佐藤浩市と役所広司と香川照之は、それぞれ何人ずついるんだ?
それにしても「進撃の巨人」は、10巻くらいで一度ピークがあったが、またそのピークに再び到達している。しかも10巻のはとにかく衝撃的なネタで勝負、というピークだったが、この14巻のは、丁寧に練り込まれた設定と圧倒的なストーリーテリング、名台詞に酔い、絵のスピード感に昂揚する、という、まことに真っ当な力業によって押し上げられたピークだ。脱帽。
2014年9月7日日曜日
続 週末 ~「塩一トンの読書」
昨日の記事は、今週の平日のことを書ききれてはおらず、今日にまで続いてしまうのだが、それでも今日もまた書ききれない。今日は今日で、息子の文化祭に行ったことやら、アニメ「ハイキュー!!」が毎週毎週あまりに素晴らしいこととか、「おやじの背中」の井上由美子はつまらなかったことなど、書き留めておきたいことがあるのに、それよりもまず昨日の続きを書いておかねばならない。ブログを放置してしまうことがあるとしたら、書くことがないのではなく、書きたいことを書ききれずに流れてしまう日々への焦燥感、喪失感、徒労感によるものではないかと予感している。
とりあえず続き。
「カンガルー日和」に続いて、さて、もう一時限。
新学期2回目の授業でいよいよ「こころ」かと思いきや、回り道をすることにする。野球部が試合で、各クラスに公欠者が出てしまう。「こころ」の第一回は可能な限り全員に受けさせたい。そこでもうひとつ、一時限の読み切りを扱う。須賀敦子の「塩一トンの読書」。
須賀敦子は「となり町の山車のように」のように複雑な陰影を持った随筆も別の教科書には載っているのだが、「塩一トン」はいたってシンプルなメッセージを読み取ればおしまい、といった文章に見えて、年度当初には扱うつもりがなかった。だが、一回読み切りの文章を選ぶために読み返して、俄かに、このタイミングで読むことの意義に気づいたのだった。
「シンプルなメッセージ」とは言ってみれば「人は簡単に理解できるものではなく、長い間じっくりつきあってみなければわからない。本もまた同じである。」といったような、国語教科書に似つかわしいお説教じみた教訓である。もちろん須賀本人がそれを言うときには、したり顔で教訓を垂れる教師としてではなく、読書人としての実感を素直に語っているだけではある。もちろんとりあえずこの文章から読み取るべきメッセージを真っ当に読み取れる必要性はあり、授業では真っ当にそれを生徒に要求すればいいのだ(もちろんそれを「教える」ことなど何ら意味のあることではなく、あくまで「生徒に読み取ることを要求する」ことにのみ意味があるだけだ)。
それでもその過程も、果実としての教訓も、それほど魅力的なものとは思えない。ただ、問いの形としていくらか面白いと自分ながら思えたのは「この文章で前半の5分の2と後半の5分の3の内容が何についてであるかを、それぞれ漢字一字の一語で言え。」という問いだった。
こういう、シンプルな答えを要求するような問いで、その答えを考えることで文章についての認識がクリアになるような問いを思いついたときは嬉しい。生徒はすぐにどちらかが「塩」だろうと考えるのだが、それは「前半・後半」というような並列の片方に適用すべきキーワードではない、という感覚が、全体の趣旨をバランスよく把握する読解に根拠づけられる時、訂正されなければならない。上にまとめた「メッセージ」で明らかなように「人」と「本」である。これが提出されれば「メッセージ」はそこから容易にまとめられる。こちらが「教える」必要などない。
だがここが目的地ではない。
この文章で「面白い」ところはどこか? 上のような「メッセージ」に、なるほどと頷くことが「面白い」と思うことなのだと感ずる人は、そもそもそうした「メッセージ」の内容にあらためて何か目を見開かれたとかいうことではなく、そもそもそうした「メッセージ」を誰かが言ってくれることを予め求めていた人なのだろう。だが私自身はそれには当たらなかった。では何か?
たとえば最終章に
それだけではない。
別の時期に別の筆者が別の関心で別の主題について(文章のジャンルさえ異なって)書き留めた思考が、奇妙な共通点を持っている。両者が結びついたとき、わかったつもりになっていたそれぞれの文章が言っているのはそういうことか、とふと腑に落ちる。面白い。
そしてまた、これから「こころ」を読むにあたって、「塩一トンの読書」が言っていることは、まさしく心に留めておいてほしいことなのだ。世間で言われている「こころ」についての「知識」や「すじ」でわかったつもりにならずに、何度でも本文を読み返してほしい。それらはわかったつもりになっていた「こころ」とどれほど違った顔を見せることか。
とりあえず続き。
「カンガルー日和」に続いて、さて、もう一時限。
新学期2回目の授業でいよいよ「こころ」かと思いきや、回り道をすることにする。野球部が試合で、各クラスに公欠者が出てしまう。「こころ」の第一回は可能な限り全員に受けさせたい。そこでもうひとつ、一時限の読み切りを扱う。須賀敦子の「塩一トンの読書」。
須賀敦子は「となり町の山車のように」のように複雑な陰影を持った随筆も別の教科書には載っているのだが、「塩一トン」はいたってシンプルなメッセージを読み取ればおしまい、といった文章に見えて、年度当初には扱うつもりがなかった。だが、一回読み切りの文章を選ぶために読み返して、俄かに、このタイミングで読むことの意義に気づいたのだった。
「シンプルなメッセージ」とは言ってみれば「人は簡単に理解できるものではなく、長い間じっくりつきあってみなければわからない。本もまた同じである。」といったような、国語教科書に似つかわしいお説教じみた教訓である。もちろん須賀本人がそれを言うときには、したり顔で教訓を垂れる教師としてではなく、読書人としての実感を素直に語っているだけではある。もちろんとりあえずこの文章から読み取るべきメッセージを真っ当に読み取れる必要性はあり、授業では真っ当にそれを生徒に要求すればいいのだ(もちろんそれを「教える」ことなど何ら意味のあることではなく、あくまで「生徒に読み取ることを要求する」ことにのみ意味があるだけだ)。
それでもその過程も、果実としての教訓も、それほど魅力的なものとは思えない。ただ、問いの形としていくらか面白いと自分ながら思えたのは「この文章で前半の5分の2と後半の5分の3の内容が何についてであるかを、それぞれ漢字一字の一語で言え。」という問いだった。
こういう、シンプルな答えを要求するような問いで、その答えを考えることで文章についての認識がクリアになるような問いを思いついたときは嬉しい。生徒はすぐにどちらかが「塩」だろうと考えるのだが、それは「前半・後半」というような並列の片方に適用すべきキーワードではない、という感覚が、全体の趣旨をバランスよく把握する読解に根拠づけられる時、訂正されなければならない。上にまとめた「メッセージ」で明らかなように「人」と「本」である。これが提出されれば「メッセージ」はそこから容易にまとめられる。こちらが「教える」必要などない。
だがここが目的地ではない。
この文章で「面白い」ところはどこか? 上のような「メッセージ」に、なるほどと頷くことが「面白い」と思うことなのだと感ずる人は、そもそもそうした「メッセージ」の内容にあらためて何か目を見開かれたとかいうことではなく、そもそもそうした「メッセージ」を誰かが言ってくれることを予め求めていた人なのだろう。だが私自身はそれには当たらなかった。では何か?
たとえば最終章に
ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだ時とはすっかり印象が違って、それがなんともうれしいことがある。それは、年月のうちに、読み手自身が変わるからで、子どもの時にはけんかしたり、相手に無関心だったりしたのに、大人になってから、何かのきっかけで、深い親しみを持つようになる友人に似ている。といった一節がある。ここで言っていること自体には、そりゃそういうこともあるだろう、くらいの感慨しか持てないのだが、この文章を生徒が授業で読むことには、いくぶん不思議な感慨を抱いてもいい。国語の授業という限定があって、去年読んだ文章をなんか連想しない? といった誘い水を差すと、どこのクラスにも気づく者がいる。一年の時の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、まさしくそういうことを言っていた小説だったのだ。誰かがそう指摘すると、他の者も、ああ、なるほどそういえば、という反応をする。ちょっと面白い。
それだけではない。
ある本「についての」知識を、いつの間にか「実際に読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」を手っ取り早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。は、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」の
今日のような映像の氾濫状態に慣れてしまうと、自分がその場で実際に体験したわけではない出来事を、映像を見ただけであたかも全部わかってしまったかのように考えがちだということがある。を連想させるし、
(小説を)すじだけで語ってしまったら、作者が実際に力を入れたところを、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な楽しみしか味わえないだろう。は、茂木健一郎の「『見る』」の
しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。…絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。を連想させる。これらを生徒はちゃんと思い出して指摘する。
別の時期に別の筆者が別の関心で別の主題について(文章のジャンルさえ異なって)書き留めた思考が、奇妙な共通点を持っている。両者が結びついたとき、わかったつもりになっていたそれぞれの文章が言っているのはそういうことか、とふと腑に落ちる。面白い。
そしてまた、これから「こころ」を読むにあたって、「塩一トンの読書」が言っていることは、まさしく心に留めておいてほしいことなのだ。世間で言われている「こころ」についての「知識」や「すじ」でわかったつもりにならずに、何度でも本文を読み返してほしい。それらはわかったつもりになっていた「こころ」とどれほど違った顔を見せることか。
2014年9月6日土曜日
週末 ~「カンガルー日和」
予想はしていたが、新学期が始まると途端に放置になるな。
そもそも開設してからの更新が無理矢理ではあったのだ。文章書く速度がそれほど速いというわけでもないのに。
それにしても月曜日に始業式というのはしんどいパターンで、そのまま続く4日間が授業になってしまう。だが火曜日にはもう平常モードになって、前日の始業式、まして前々日の夏季休暇が遙か昔のことのように思われるのも毎度のパターンではある。
平日はさすがに映画も一本見終わることもなく過ぎてしまう(それでも録画してあるのを少し観ては寝てしまったりして、一本の映画に何日もかけるこういう映画鑑賞はどうなの? とは我ながら思う。それで低評価される映画は同情に値する)。
で、ブログ開設当初からどうしようかとは思っていたが、どうせ見る者も多くはないブログのこと、備忘録的にこれを書いてしまうことにするか。
2学期は「こころ」を扱う予定だ。もうこれはやりだすと2学期いっぱいやっても終わらないほどの「ネタ」があるのだから、すぐに始めても構わないのだが、そうするといかにも2学期が「それだけ」感が強いので、まずはこちらの発声及び滑舌のリハビリに、最初の時間は朗読をする。村上春樹の「カンガルー日和」にしよう。
あくまで2時間以上の扱いをする気はなく、他の小説が、あまりに読む(読ませる)気のしないものばかりなので。途中に出てくる「スティービー・ワンダーとビリー・ジョエル」をCDに焼いておいて、それをBGMにして朗読をしようと、年度当初から思ってはいた。とりわけ「Overjoyed」は「カンガルー日和」のイメージにピッタリなのだ。尤も発表は「Overjoyed」の方が後だから、村上春樹がそれをイメージしたはずはなく、あるいはもう一曲の「Isn't She Lovely」の方が可能性はあるか。
Youtubeで見る→Overjoyed・Isn't She Lovely
そもそも開設してからの更新が無理矢理ではあったのだ。文章書く速度がそれほど速いというわけでもないのに。
それにしても月曜日に始業式というのはしんどいパターンで、そのまま続く4日間が授業になってしまう。だが火曜日にはもう平常モードになって、前日の始業式、まして前々日の夏季休暇が遙か昔のことのように思われるのも毎度のパターンではある。
平日はさすがに映画も一本見終わることもなく過ぎてしまう(それでも録画してあるのを少し観ては寝てしまったりして、一本の映画に何日もかけるこういう映画鑑賞はどうなの? とは我ながら思う。それで低評価される映画は同情に値する)。
で、ブログ開設当初からどうしようかとは思っていたが、どうせ見る者も多くはないブログのこと、備忘録的にこれを書いてしまうことにするか。
2学期は「こころ」を扱う予定だ。もうこれはやりだすと2学期いっぱいやっても終わらないほどの「ネタ」があるのだから、すぐに始めても構わないのだが、そうするといかにも2学期が「それだけ」感が強いので、まずはこちらの発声及び滑舌のリハビリに、最初の時間は朗読をする。村上春樹の「カンガルー日和」にしよう。
あくまで2時間以上の扱いをする気はなく、他の小説が、あまりに読む(読ませる)気のしないものばかりなので。途中に出てくる「スティービー・ワンダーとビリー・ジョエル」をCDに焼いておいて、それをBGMにして朗読をしようと、年度当初から思ってはいた。とりわけ「Overjoyed」は「カンガルー日和」のイメージにピッタリなのだ。尤も発表は「Overjoyed」の方が後だから、村上春樹がそれをイメージしたはずはなく、あるいはもう一曲の「Isn't She Lovely」の方が可能性はあるか。
Youtubeで見る→Overjoyed・Isn't She Lovely
ついでに脚注で、村上春樹がビリー・ジョエルと同い年で、かつスティービー・ワンダーがその一つ下であることなどを知って妙な感じがしたりもした。
「カンガルー日和」は大学生の時から何度も読んでいるから、今更考える余地もないような気がしていたが、授業で読むということは個人的に読むことよりはるかに濃密に頭を使って読むことになるから、読んでおしまいのつもりのこのお話も、やはりもう少しだけ新しい顔を見せる。
毎度の村上のアクロバティックな比喩も、諦観に裏打ちされた冷静な語り手の判断も、それでいて夏の一日の気持ち良さを感じさせるに充分な描写や結末も、それだけ味わえば村上春樹を読む快感はもう満たされているのではないかと思うが、それでも、なぜ「カンガルーの赤ん坊なのか?」という彼女のこだわりにそれなりの納得をしないことには、この小説を読んだ落とし前はつかない、とも思う。
指導書は「人間には論理で解決できない心情がある。そこには、他人にも理解できない人それぞれのこだわりというものがある。僕はカンガルーの赤ん坊をそれほど重要には考えていないが、彼女にとってカンガルーの赤ん坊は特別な存在であった。」などと言っている。つまりこの「こだわり」は理解しないで受け入れるべきだということらしいし、「僕」もまたそれを理解していないということらしい。
確かに僕が、彼女の奇妙な断定を共感するでもなく半ば諦念とともに受け入れているところがあるのは確かだが、一方、この小説の核心である彼女のカンガルーの赤ん坊に対する思い入れについては語り手の「僕」にも結末時には共有されているように読める。
「理解せずに受け入れている」と読むべきか「ある種の理解をしている」と読むべきか?
毎度の村上のアクロバティックな比喩も、諦観に裏打ちされた冷静な語り手の判断も、それでいて夏の一日の気持ち良さを感じさせるに充分な描写や結末も、それだけ味わえば村上春樹を読む快感はもう満たされているのではないかと思うが、それでも、なぜ「カンガルーの赤ん坊なのか?」という彼女のこだわりにそれなりの納得をしないことには、この小説を読んだ落とし前はつかない、とも思う。
指導書は「人間には論理で解決できない心情がある。そこには、他人にも理解できない人それぞれのこだわりというものがある。僕はカンガルーの赤ん坊をそれほど重要には考えていないが、彼女にとってカンガルーの赤ん坊は特別な存在であった。」などと言っている。つまりこの「こだわり」は理解しないで受け入れるべきだということらしいし、「僕」もまたそれを理解していないということらしい。
確かに僕が、彼女の奇妙な断定を共感するでもなく半ば諦念とともに受け入れているところがあるのは確かだが、一方、この小説の核心である彼女のカンガルーの赤ん坊に対する思い入れについては語り手の「僕」にも結末時には共有されているように読める。
「理解せずに受け入れている」と読むべきか「ある種の理解をしている」と読むべきか?
筆者の印象としては後者である。一方指導書執筆者はある種のディスコミュニケーションが村上春樹的主題なのだと考えているのだろう。
また、カンガルーの赤ん坊へのこだわりについても「論理では解決できない」と考えるべきか「ある種の論理がはたらいている」と考えるべきか?
やはり筆者の印象は後者である。
では彼女が求めているのは何なのか?
授業ではまず「彼女はなぜカンガルーの赤ん坊を見たがったか?」といった質問から始める。こういう質問には「新聞で知ったから」とか「珍しいから」とかいった、間違いではないが、いっこうに核心に触れない答えを出してくる生徒がいて、こういうのも、そういう回答を聞いて、そうか、そういうふうに考えたりするのか、と意外に思わされるところが面白い。
そこでさらに「彼女のこだわりポイントは何なのか?」というように方向を誘導する。「赤ん坊であること」が出たら、「なぜそこがこだわりポイントなのか?」と詰めていく。「小型のカンガルー」と形容するのが適当な、もはや「赤ん坊」に見えないカンガルーの子供に一旦はがっかりした彼女が、結局は満足したらしいのは、つまりカンガルーの子供が母親の袋に入っているのを見ることができたからだ。つまりこだわりポイントはそこである。
ではなぜそれが問題なのか? 考えるためのヒントはどこにあるか、と探させる。勘の良い者はすぐに気づく。繰り返される「保護されている」という言葉である。つまり彼女が見たかったのは「カンガルーの赤ん坊」ではなく、カンガルーの赤ん坊が「保護されている」姿である。
そこでさらに「彼女のこだわりポイントは何なのか?」というように方向を誘導する。「赤ん坊であること」が出たら、「なぜそこがこだわりポイントなのか?」と詰めていく。「小型のカンガルー」と形容するのが適当な、もはや「赤ん坊」に見えないカンガルーの子供に一旦はがっかりした彼女が、結局は満足したらしいのは、つまりカンガルーの子供が母親の袋に入っているのを見ることができたからだ。つまりこだわりポイントはそこである。
ではなぜそれが問題なのか? 考えるためのヒントはどこにあるか、と探させる。勘の良い者はすぐに気づく。繰り返される「保護されている」という言葉である。つまり彼女が見たかったのは「カンガルーの赤ん坊」ではなく、カンガルーの赤ん坊が「保護されている」姿である。
ここまで読めればおしまいでいい。だが、最後の最後で、どうして「保護されていること」が問題なの? とは訊いてみたい。これも予想外に複数の者から「自分が妊娠しているか、もしくは妊娠を考えていることを示唆している」という理解が示された。こういう発言はもちろん誉めておくが、筆者個人はちょっと違った理解をしていた。
「妊娠」が問題になってしまうと、彼女が自分を重ねているのが母親カンガルーということになる。だが素直に読めば、彼女が重ねているのはやはり「カンガルーの赤ん坊」ではないのか?
とすれば、「保護されている」ことによる安心を求めている彼女は、それだけ不安を抱えているということではないか?
とすれば、「保護されている」ことによる安心を求めている彼女は、それだけ不安を抱えているということではないか?
休日の動物園訪問が、結局はハッピーエンドに終わるとはいえ、やはりこの小説は背後に、「不安」(いわゆる「現代人の抱える」?)を前提しているのであり、それでもそれが一時でも解消することを、やはりハッピーエンドとして素直に愛でる小説なのではないかと思う。
2014年8月31日日曜日
『デストロ246』「ヨルムンガンド」
うちには「ヨルムンガンド級」という言葉があって(というか私が使っているだけだが、子供にはもはや通じるようになっている)、これは戦艦をドレッドノートに因んで「超弩級」とかいうときと同じ、ある基準、水準を意味するのだが、「ヨルムンガンド級」というのはそういうわけで「世界蛇(ヨルムンガンド)のように大きな」ものを指すというわけではなく、マンガを評するときに、「最高水準である」ことを示す我が家だけに通用する表現だ。言うまでもなく「ヨルムンガンド」とは高橋慶太郎の、あれである。
「ヨルムンガンド」の最初の3~4巻くらいまで買った頃から、この作品は私にとって最高水準の評価を維持しているのだが、同じような時期に同水準のマンガをいくつか読んで、それらをまとめて「ヨルムンガンド級」というように個人的に意識するようになったのだった。例えば『刻刻』(堀尾省太)であり、『ナチュン』(都留泰作)であり、『GUNSLINGER GIRL』(相田裕)であり、『ナツノクモ』(篠房六郎)であり、『BLACK LAGOON』(広江礼威)であり、『HELLSING』(平野耕太)であり、もうちょっと遡れば『MOONLIGHT MILE』(太田垣康男)であり、『プラネテス』(幸村誠)であり、『無限の住人』(沙村広明)である(もちろんこんな列挙では到底網羅してはいない)。私見では、この水準のマンガは前世紀には十数作を数えるのみだったのが、今世紀に入って俄に数倍増したと思う。上に列挙した作品はそれぞれ、前世紀のマンガ作品群に置いてみれば、突出した水準で屹立したはずだが、今世紀においてはマニアックで「知る人ぞ知る」作品として割拠しているように見える。で、この中で特に優れているというわけではないが口に馴染んだのがたまたま「ヨルムンガンド級」という言い方だった。「ナチュン級」ではあまりにマニアックすぎるかも、というくらいの選択だ(そもそもうちの子ですらまだ『ナチュン』を読んでいない。たぶん)。
で、読んだ本のことをちゃんと覚えておけないから、ある程度まとまってからようやく単行本数冊をまとめて読むのが常である現在の私なのだが、それでも高橋慶太郎の『デストロ246』は、単行本を見つけるのに合わせて間をあけてでも一冊ずつ読んでしまう。4巻も、まあ3巻から半年だから、前巻の展開がすっかりわからなくなっていて、という程の支障もなく、買ってきた十冊くらいの本の最初に手をつけてしまう。
この中で、天才女子高生が「ハリウッド映画とか、アレじゃん。全部とは言わないけど『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」と言う場面があって、あれっと思った。最近観た「ハリウッド映画」が立て続けにまさしくそれだったからだ。『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」 監督:ジェイソン・ライトマン)と『マイ・ルーム』(原題:「Marvin's Room」 監督:ジェリー・ザックス)。
二本とも堂々たるA級映画であり、実際に良くできていて、面白かった。「ヨルムンガンド級」とはいわないが、良い映画だと言っていい。だがどちらも結局「家族の絆が大事」って映画だよなあ、と思っていたところにちょうど『デストロ246』の台詞がカブって、タイムリー! と思ったのだった。
長い前置きの割に言いたかったのはそれだけ。
そういえば『デストロ246』も『マレフィセント』と同じく、男が何もできないお話だ。だが別にここにある符合に特別な意味づけをしようなどという気は、毛頭ない。
「ヨルムンガンド」の最初の3~4巻くらいまで買った頃から、この作品は私にとって最高水準の評価を維持しているのだが、同じような時期に同水準のマンガをいくつか読んで、それらをまとめて「ヨルムンガンド級」というように個人的に意識するようになったのだった。例えば『刻刻』(堀尾省太)であり、『ナチュン』(都留泰作)であり、『GUNSLINGER GIRL』(相田裕)であり、『ナツノクモ』(篠房六郎)であり、『BLACK LAGOON』(広江礼威)であり、『HELLSING』(平野耕太)であり、もうちょっと遡れば『MOONLIGHT MILE』(太田垣康男)であり、『プラネテス』(幸村誠)であり、『無限の住人』(沙村広明)である(もちろんこんな列挙では到底網羅してはいない)。私見では、この水準のマンガは前世紀には十数作を数えるのみだったのが、今世紀に入って俄に数倍増したと思う。上に列挙した作品はそれぞれ、前世紀のマンガ作品群に置いてみれば、突出した水準で屹立したはずだが、今世紀においてはマニアックで「知る人ぞ知る」作品として割拠しているように見える。で、この中で特に優れているというわけではないが口に馴染んだのがたまたま「ヨルムンガンド級」という言い方だった。「ナチュン級」ではあまりにマニアックすぎるかも、というくらいの選択だ(そもそもうちの子ですらまだ『ナチュン』を読んでいない。たぶん)。
で、読んだ本のことをちゃんと覚えておけないから、ある程度まとまってからようやく単行本数冊をまとめて読むのが常である現在の私なのだが、それでも高橋慶太郎の『デストロ246』は、単行本を見つけるのに合わせて間をあけてでも一冊ずつ読んでしまう。4巻も、まあ3巻から半年だから、前巻の展開がすっかりわからなくなっていて、という程の支障もなく、買ってきた十冊くらいの本の最初に手をつけてしまう。
この中で、天才女子高生が「ハリウッド映画とか、アレじゃん。全部とは言わないけど『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」と言う場面があって、あれっと思った。最近観た「ハリウッド映画」が立て続けにまさしくそれだったからだ。『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」 監督:ジェイソン・ライトマン)と『マイ・ルーム』(原題:「Marvin's Room」 監督:ジェリー・ザックス)。
二本とも堂々たるA級映画であり、実際に良くできていて、面白かった。「ヨルムンガンド級」とはいわないが、良い映画だと言っていい。だがどちらも結局「家族の絆が大事」って映画だよなあ、と思っていたところにちょうど『デストロ246』の台詞がカブって、タイムリー! と思ったのだった。
長い前置きの割に言いたかったのはそれだけ。
そういえば『デストロ246』も『マレフィセント』と同じく、男が何もできないお話だ。だが別にここにある符合に特別な意味づけをしようなどという気は、毛頭ない。
2014年8月30日土曜日
「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」追記
昨夜書いた「君が僕の息子について教えてくれたこと」から連想したあれこれについては、ツイッターの方でも「この感想は不謹慎ではないはずだ」と書いたとおり、「面白い」という表現が誤解されるかもしれないという可能性をかすかに危惧している。ましてSFを連想し、異星人やアンドロイドを引き合いに出して「君が」や「この星」を語ろうとすることがさらに反発をまねくのではないか、とも思う。
だが私が「君が」や「この星」に感じる面白さは、いわゆる「センス・オブ・ワンダー」だ。文字盤無しでは日常会話ができない東田さんが、あのように文法の整った文章を書ける不思議! そして書き上がった文章を元に講演したときにはまた何を言っているのわからなくなるというシーンにまた驚く。外に表れた通常のコミュニケーションのありようからは、彼の内面がどのようなものであるのかは、知ることができないのだ。それが、ワープロの文字変換を通して、またその応用である文字盤を使った会話において初めて、あのように共感可能なものであったり、やはり不思議な世界認識であったりすることが知れるのだ。これこそセンス・オブ・ワンダーである。そして日頃「表現できないことは考えてもいないんだ」なぞと言っている自らの言動を深く反省したりするのである(私にそう言われた方々、本当に申し訳ない)。
今回私が連想した「A-A'」については、「これって、今時はやりの高機能自閉症のことじゃないの?!」と書いているブログを今日見つけてしまい、やはり同じように考える人がいるのだと納得した。
→「萩尾望都「A-A'」に驚嘆する」(「わにの日々-アラフィフ編」より)
2年前に書かれたこのブログの記事では、「うちの若息子はガチでADDなので、色々、ADDに関する文献を読んだりしましたが、かくいう私自身がADDだった。」と書かれていて、「A-A'」について「萩尾氏の先見の妙というか、人間観察の目の鋭さに、今更ながら驚きました。」と評されている。そのような前提があって読むと、なるほど「A-A'」はそのように読める作品なのだった。
「A-A'」についてはクローンという目を引く題材を扱っているから、語られる切り口も専らクローン人間という設定をめぐってのものだ。確かにそこでは「アイデンティティの分裂」というテーマが興味深い。あの彼女を前の私の知っているあの彼女と同一人物として認めて良いか? 自分が他にもいるとしたら、この自分は何なのか?
だが以前から私はそれよりも「感情の表現が普通と違う人の感情のありよう」というテーマに奇妙に惹かれるものを感じていた。ラストシーンで無表情のアディが無表情のまま流す涙に同調してこみ上げてしまうあの感動が「この星のぬくもり」と同じだとは、今回の「君が僕の息子について教えてくれたこと」が両者を繋ぐまで気づかなかった。
だが私が「君が」や「この星」に感じる面白さは、いわゆる「センス・オブ・ワンダー」だ。文字盤無しでは日常会話ができない東田さんが、あのように文法の整った文章を書ける不思議! そして書き上がった文章を元に講演したときにはまた何を言っているのわからなくなるというシーンにまた驚く。外に表れた通常のコミュニケーションのありようからは、彼の内面がどのようなものであるのかは、知ることができないのだ。それが、ワープロの文字変換を通して、またその応用である文字盤を使った会話において初めて、あのように共感可能なものであったり、やはり不思議な世界認識であったりすることが知れるのだ。これこそセンス・オブ・ワンダーである。そして日頃「表現できないことは考えてもいないんだ」なぞと言っている自らの言動を深く反省したりするのである(私にそう言われた方々、本当に申し訳ない)。
今回私が連想した「A-A'」については、「これって、今時はやりの高機能自閉症のことじゃないの?!」と書いているブログを今日見つけてしまい、やはり同じように考える人がいるのだと納得した。
→「萩尾望都「A-A'」に驚嘆する」(「わにの日々-アラフィフ編」より)
2年前に書かれたこのブログの記事では、「うちの若息子はガチでADDなので、色々、ADDに関する文献を読んだりしましたが、かくいう私自身がADDだった。」と書かれていて、「A-A'」について「萩尾氏の先見の妙というか、人間観察の目の鋭さに、今更ながら驚きました。」と評されている。そのような前提があって読むと、なるほど「A-A'」はそのように読める作品なのだった。
「A-A'」についてはクローンという目を引く題材を扱っているから、語られる切り口も専らクローン人間という設定をめぐってのものだ。確かにそこでは「アイデンティティの分裂」というテーマが興味深い。あの彼女を前の私の知っているあの彼女と同一人物として認めて良いか? 自分が他にもいるとしたら、この自分は何なのか?
だが以前から私はそれよりも「感情の表現が普通と違う人の感情のありよう」というテーマに奇妙に惹かれるものを感じていた。ラストシーンで無表情のアディが無表情のまま流す涙に同調してこみ上げてしまうあの感動が「この星のぬくもり」と同じだとは、今回の「君が僕の息子について教えてくれたこと」が両者を繋ぐまで気づかなかった。
「君が僕の息子について教えてくれたこと」「この星のぬくもり」
ツイッターでも触れたNHKのドキュメンタリー「君が僕の息子について教えてくれたこと」を再放送で見直してみると、最初に見たときには途中から偶然見始めたと思っていたのだが、冒頭のほんの数十秒のみが未見で、ほとんど全部見ていたのだった。やはりいくつかの場面でこみ上げてしまったし、相変わらず興味深いとも思い、勢いで「この星のぬくもり」(曽根富美子)を十数年ぶりに読み返した。何度となく読み返しているマンガだが、これも相変わらず感動的で、やはり面白い。
「君が」も「この星」も、自閉症者が自らの心中を的確な言葉で表現することでようやく我々に彼らの心中がいくらかでも想像することが可能になっているという稀なケースを実現しているのだが、これはある種の異星人もの、あるいはアンドロイドものの優れたSFが可能にしている面白さを連想させる。たとえば「パラサイト・イブ」は、あんなに突拍子もない生命体(細胞内のミトコンドリアが自立した意識を持った生物であるという設定)を描いているにもかかわらず、その意識があまりに俗物な人間であることに心底白けたものだが、「寄生獣」やTVシリーズの「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ」は、人間的な類推でその心理を想像していると、時折疑心にかられるという微妙な描写をしていて実に面白かった。この究極の形である「惑星ソラリス」は類推がほとんど通用しない異生命体(かどうかも怪しいが)を描いていたが、あそこまでいくと「面白い」が「感動的」ではない。
この、「心理を類推することが妥当かどうかを改めて考え直させる」作品として最も感動的なのは、萩尾望都の「A-A'」だと思う。「何を考えてるかわからない」という他人の認識(というか読者の認識)が充分に明晰であって、なおかつ本人の、共感可能な感情が他人の目に垣間見えた時こそそれらの作品は感動的になる。「君が」も「この星の」も「A-A'」もそうだ。そしてそれらは感動的であると同時に、やはり面白いのである。
「君が」も「この星」も、自閉症者が自らの心中を的確な言葉で表現することでようやく我々に彼らの心中がいくらかでも想像することが可能になっているという稀なケースを実現しているのだが、これはある種の異星人もの、あるいはアンドロイドものの優れたSFが可能にしている面白さを連想させる。たとえば「パラサイト・イブ」は、あんなに突拍子もない生命体(細胞内のミトコンドリアが自立した意識を持った生物であるという設定)を描いているにもかかわらず、その意識があまりに俗物な人間であることに心底白けたものだが、「寄生獣」やTVシリーズの「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ」は、人間的な類推でその心理を想像していると、時折疑心にかられるという微妙な描写をしていて実に面白かった。この究極の形である「惑星ソラリス」は類推がほとんど通用しない異生命体(かどうかも怪しいが)を描いていたが、あそこまでいくと「面白い」が「感動的」ではない。
この、「心理を類推することが妥当かどうかを改めて考え直させる」作品として最も感動的なのは、萩尾望都の「A-A'」だと思う。「何を考えてるかわからない」という他人の認識(というか読者の認識)が充分に明晰であって、なおかつ本人の、共感可能な感情が他人の目に垣間見えた時こそそれらの作品は感動的になる。「君が」も「この星の」も「A-A'」もそうだ。そしてそれらは感動的であると同時に、やはり面白いのである。
2014年8月29日金曜日
TBS 『日曜劇場』~おやじの背中
TBSの「日曜劇場」は今「おやじの背中」というシリーズを放送中だ。
これがまことにおどろくべき企画で、「日本を代表する」脚本家10人がオリジナルの1時間完結の脚本を書き下ろす、というのだが、このメンバーを見て、シルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーの共演だという「エクスペンダブルズ」のCMを見たときの衝撃を思い出してしまったのだった。ジェイソン・ステイサムだのブルース・ウィリスだのといった売れっ子を並べるところもすごいが、なんといってもスタローンとシュワといったオールド肉体派が同じ映画に出て、しかもちゃんとアクション映画だというところがすごい(観てないけど)。
かたや「おやじの背中」もすごい。ステイサムだのウィリスだのにあたる岡田惠和や井上由美子、橋部敦子、三谷幸喜という売れっ子を揃えるのもすごいが、ここになんと鎌田敏夫(77歳)・倉本聰(80歳)・山田太一(80歳)という、ものすごい超ベテランを並べているのだ。肉体派のアクション俳優と違って「現役」脚本家であることは可能ではあるんだが、もはや「売れっ子」とは言い難いこれらの重鎮を、これでもかと並べる企画がよく実現したものだ。さらにドルフ・ラングレンにチャック・ノリスにジャン=クロード・ヴァン・ダムといった格闘家出身の映画スターを、これでもかと並べる「やり過ぎ」感もすごいし、こっそりランディ・クートゥアやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなんていう、つい最近まで現役だった本物の格闘家を登場させてしまう悪趣味(いや、観てないのでちゃんとリスペクトされてるのもかもしれないが)も、悪のりが過ぎるだろ、とつっこみたくなる(なおかつ「エクスペンダブルズ3」にはメル・ギブソンとハリソン・フォードの出演も予定されているというから、もはやなにをかいわんや)。これに対抗して(別に対抗する必然性はないが)、悪のりついでに宮藤官九郎を引っ張り出せれば完璧だったのに。ここに木皿泉や池端俊策といった実に渋い面子がラインナップされているところはミッキー・ロークとジェット・リーにあたるのかもしれないが、個人的には今は亡き田向正健が倉本聰・山田太一とラインナップされているのを見たかった。
さて、未見の「エクスペンダブルズ」はともかく、「おやじの背中」は、毎週録画しているのだが、楽しみで次々見てしまうというわけでもなく、この「気になる」感に決着を付けるためになんとか消化しているという感じ。
スタローンやシュワルツェネッガーのアクションに切れがあるという期待はできないが、さすがに鎌田・倉本・山田も、30年前に心を奪われる思いで追っていた彼らのドラマ群のような切実さは、もうないのだった。ならばしみじみとした滋味のようなものが醸し出されてきているかというとそういうわけでもなく、やはり(決して良い意味ではなく)枯れているのだった。それともむしろ三人とも、連続ドラマで見たい脚本家なのかもしれない。1時間完結のような、TVドラマとしては謂わば「短編」のような作品では、三人の、連続ドラマならではの贅沢な時間の使い方でこそ描ける人間の描写が難しいのだろうか。
現在までの7話では、2話の坂元裕二「ウェディング・マッチ」が出色だった。恐るべき面白さだった。脚本と鶴橋康夫の演出と役所広司と満島ひかりの演技が見事に咬み合って、嘘だろ、と思うほどのテンションの高い会話劇の面白さが展開していた(絶叫系の「テンションの高い」演技を熱演と称するのと違って、感情の行方を見届けずにはおけない、観客の注意を振り回すテンションの高さ)。最高の賛辞を送りつつ、最後の「マッチ」が戯画的になってしまったのと、あの結末は惜しむべき瑕疵だと思う。これは父の期待に応えることが自己目的化してしまっている娘が、そこからの独立を図って葛藤するって話だと思う。とすると、やっぱり痣だらけの顔でバージンロードに並ぶ二人を描かなきゃだめだと思ったんだけど。
娘と一回見て、後で息子にもさわりだけ見せようとしてそのまま終わりまで見てしまった。見終わった息子がしばらく後で「なんか切なくなってしまった」と呟いていたのは意味深だった。挫折したギターのことか、中途半端だった柔道のことか、実現しなかった共作脚本の上演のことか、と内心あれこれ推し量って口にはしなかったが(まあそのうちこれを読むかもしれないが)。
追記
「そのうち読」んだ息子に言わせると「そんな意味深な話じゃないよ」だそうな。久しぶりに面白いTVドラマを見て、そういう面白い番組をいくつか見ていた中学生の頃を思い出したんだそうな。今や実生活を大いに面白がっている高校生活が2年以上続いて、そういう感覚が懐かしく思われたんだと。ふーん、そうなのね。
これがまことにおどろくべき企画で、「日本を代表する」脚本家10人がオリジナルの1時間完結の脚本を書き下ろす、というのだが、このメンバーを見て、シルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーの共演だという「エクスペンダブルズ」のCMを見たときの衝撃を思い出してしまったのだった。ジェイソン・ステイサムだのブルース・ウィリスだのといった売れっ子を並べるところもすごいが、なんといってもスタローンとシュワといったオールド肉体派が同じ映画に出て、しかもちゃんとアクション映画だというところがすごい(観てないけど)。
かたや「おやじの背中」もすごい。ステイサムだのウィリスだのにあたる岡田惠和や井上由美子、橋部敦子、三谷幸喜という売れっ子を揃えるのもすごいが、ここになんと鎌田敏夫(77歳)・倉本聰(80歳)・山田太一(80歳)という、ものすごい超ベテランを並べているのだ。肉体派のアクション俳優と違って「現役」脚本家であることは可能ではあるんだが、もはや「売れっ子」とは言い難いこれらの重鎮を、これでもかと並べる企画がよく実現したものだ。さらにドルフ・ラングレンにチャック・ノリスにジャン=クロード・ヴァン・ダムといった格闘家出身の映画スターを、これでもかと並べる「やり過ぎ」感もすごいし、こっそりランディ・クートゥアやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなんていう、つい最近まで現役だった本物の格闘家を登場させてしまう悪趣味(いや、観てないのでちゃんとリスペクトされてるのもかもしれないが)も、悪のりが過ぎるだろ、とつっこみたくなる(なおかつ「エクスペンダブルズ3」にはメル・ギブソンとハリソン・フォードの出演も予定されているというから、もはやなにをかいわんや)。これに対抗して(別に対抗する必然性はないが)、悪のりついでに宮藤官九郎を引っ張り出せれば完璧だったのに。ここに木皿泉や池端俊策といった実に渋い面子がラインナップされているところはミッキー・ロークとジェット・リーにあたるのかもしれないが、個人的には今は亡き田向正健が倉本聰・山田太一とラインナップされているのを見たかった。
さて、未見の「エクスペンダブルズ」はともかく、「おやじの背中」は、毎週録画しているのだが、楽しみで次々見てしまうというわけでもなく、この「気になる」感に決着を付けるためになんとか消化しているという感じ。
スタローンやシュワルツェネッガーのアクションに切れがあるという期待はできないが、さすがに鎌田・倉本・山田も、30年前に心を奪われる思いで追っていた彼らのドラマ群のような切実さは、もうないのだった。ならばしみじみとした滋味のようなものが醸し出されてきているかというとそういうわけでもなく、やはり(決して良い意味ではなく)枯れているのだった。それともむしろ三人とも、連続ドラマで見たい脚本家なのかもしれない。1時間完結のような、TVドラマとしては謂わば「短編」のような作品では、三人の、連続ドラマならではの贅沢な時間の使い方でこそ描ける人間の描写が難しいのだろうか。
現在までの7話では、2話の坂元裕二「ウェディング・マッチ」が出色だった。恐るべき面白さだった。脚本と鶴橋康夫の演出と役所広司と満島ひかりの演技が見事に咬み合って、嘘だろ、と思うほどのテンションの高い会話劇の面白さが展開していた(絶叫系の「テンションの高い」演技を熱演と称するのと違って、感情の行方を見届けずにはおけない、観客の注意を振り回すテンションの高さ)。最高の賛辞を送りつつ、最後の「マッチ」が戯画的になってしまったのと、あの結末は惜しむべき瑕疵だと思う。これは父の期待に応えることが自己目的化してしまっている娘が、そこからの独立を図って葛藤するって話だと思う。とすると、やっぱり痣だらけの顔でバージンロードに並ぶ二人を描かなきゃだめだと思ったんだけど。
娘と一回見て、後で息子にもさわりだけ見せようとしてそのまま終わりまで見てしまった。見終わった息子がしばらく後で「なんか切なくなってしまった」と呟いていたのは意味深だった。挫折したギターのことか、中途半端だった柔道のことか、実現しなかった共作脚本の上演のことか、と内心あれこれ推し量って口にはしなかったが(まあそのうちこれを読むかもしれないが)。
追記
「そのうち読」んだ息子に言わせると「そんな意味深な話じゃないよ」だそうな。久しぶりに面白いTVドラマを見て、そういう面白い番組をいくつか見ていた中学生の頃を思い出したんだそうな。今や実生活を大いに面白がっている高校生活が2年以上続いて、そういう感覚が懐かしく思われたんだと。ふーん、そうなのね。
2014年8月25日月曜日
「日々の」 ~『華氏451』
映画を観たから書かなきゃという義務が生ずるのか、書くために観るのか。
眠い、と思いつつ、明日と言わずに書いてしまおう。
今日はフランソワ・トリュフォー『華氏451』。トリュフォーは多分『隣の女』と『アメリカの夜』しか見ていないのだが、どちらも、魔術のように「映画」が立ち上がる瞬間が描かれている、それはそれは見事な映画だった(ような記憶がある。どちらも30年くらい前に見た映画なので、記憶の中で変質していないとも限らないが)。それに比べて、この古色蒼然とした無残なSFは何事だ。2年後の『2001年宇宙の旅』が今見ても古びていないのに比べて(といいつつ、やはりここ30年くらいは観ていないのだが)、画面全体から古さが滲みだしている。演出も美術もストーリーも。とりわけ合成画面は笑うしかないようなチープさが悲しい(「華氏」が1966年、「2001年宇宙」が1968年)。
中学高校で好きだったレイ・ブラッドベリは、代表作の一つである「華氏451度」に関しては読まずに過ごしてしまい、映画の評価だけで原作まで貶めるつもりはないのだが、結局、本って人類にとって大事だ、というメッセージ以上の何を受け取ればいいのかわからなかった。そのメッセージだけが切々と感じられればそれはそれで良いのだろうが、どうも、「そういうことです」と頭で理解させられただけのようにしか感じられず。
佐野洋子の「嘘ばっか 新釈・世界おとぎ話」の「ありときりぎりす」は、効率第一のアリが、キリギリスによって芸術にめざめる瞬間を、それはそれは切実に描いていたものだが、(まあそれとは違った対立だが)本を害悪と見なす社会の中で、本の魅力にとりつかれることの切実さを、ちっとは精妙に描いてくれないものかと。これは「ないものねだり」なのだろうか。
リンダとクラリスが同じ俳優なんだろうな、とは思っていたのだが、これを使って、実は片方は主人公の心の中にしかいない存在で…とかいう驚愕の真相が明らかになるような展開も期待したのだが、そんな仕掛けはなく。
うーん、最後の「本の人々」の村(?)の詩的な描写は美しかったが。
眠い、と思いつつ、明日と言わずに書いてしまおう。
今日はフランソワ・トリュフォー『華氏451』。トリュフォーは多分『隣の女』と『アメリカの夜』しか見ていないのだが、どちらも、魔術のように「映画」が立ち上がる瞬間が描かれている、それはそれは見事な映画だった(ような記憶がある。どちらも30年くらい前に見た映画なので、記憶の中で変質していないとも限らないが)。それに比べて、この古色蒼然とした無残なSFは何事だ。2年後の『2001年宇宙の旅』が今見ても古びていないのに比べて(といいつつ、やはりここ30年くらいは観ていないのだが)、画面全体から古さが滲みだしている。演出も美術もストーリーも。とりわけ合成画面は笑うしかないようなチープさが悲しい(「華氏」が1966年、「2001年宇宙」が1968年)。
中学高校で好きだったレイ・ブラッドベリは、代表作の一つである「華氏451度」に関しては読まずに過ごしてしまい、映画の評価だけで原作まで貶めるつもりはないのだが、結局、本って人類にとって大事だ、というメッセージ以上の何を受け取ればいいのかわからなかった。そのメッセージだけが切々と感じられればそれはそれで良いのだろうが、どうも、「そういうことです」と頭で理解させられただけのようにしか感じられず。
佐野洋子の「嘘ばっか 新釈・世界おとぎ話」の「ありときりぎりす」は、効率第一のアリが、キリギリスによって芸術にめざめる瞬間を、それはそれは切実に描いていたものだが、(まあそれとは違った対立だが)本を害悪と見なす社会の中で、本の魅力にとりつかれることの切実さを、ちっとは精妙に描いてくれないものかと。これは「ないものねだり」なのだろうか。
リンダとクラリスが同じ俳優なんだろうな、とは思っていたのだが、これを使って、実は片方は主人公の心の中にしかいない存在で…とかいう驚愕の真相が明らかになるような展開も期待したのだが、そんな仕掛けはなく。
うーん、最後の「本の人々」の村(?)の詩的な描写は美しかったが。
休日の映画 ~『のぼうの城』『グッドウィル・ハンティング』
見た映画や読んだ本の記録をつけておきたいとは、もう数十年来思ってきたことなのだが、いっこうに実現しないまま過ごしてきた。
で、ブログという形式はまさにそれをやるためにあるんじゃないか、とは思うものの、実行しようとすると結構に負担だ。題名だけ示してもしょうがないから、ちょっと気の利いた感想くらい言わないと、とか考えるとなおさら。
で、今日は二本観た。録画するテレビ放送の映画を消化するのもいっぱいいっぱいで。
『のぼうの城』は、期待したよりも(といいつつ無視できずに録画してしまったのだが)面白かった。野村萬斎はもちろん、どこにもここにも出てくる佐藤浩市はやっぱり安定して、演出がはずしさえしなければ良い演技をするし、成宮や榮倉のように時代劇向きでない役者まで、なかなかに観る者の感情を共振させるような演技をしていたのだった。いやもちろん榮倉を大根だと言うことは可能だが、それでもいろいろな場面でそれぞれの登場人物が快哉を叫ぶとき(実際に叫んでいるというわけではなくとも)、その叫びに観客が同調してしまうようなうまい演出がされていたと思う。
それでも、籠城ものの知恵比べ、技比べ、人間としての度量比べみたいな見応えは、たとえば「ダイハード」みたいなスタンダードはもちろん、私にとっては永遠の名作「冒険者たち~ガンバと15ひきの仲間」のような幾重にも重ねられた攻防の妙と比べると当然ながら軽いのだった。「獅子の時代」の会津戦争の籠城戦も、まああれは時間のかけかたが違うから比べるのに無理があるが、はるかに重厚な人間ドラマを見せてくれたし、それらの名作群とはやはり比すべくもない。
だがせめて映画館で一息に、集中して観れば、かなり面白い映画だったかもしれない。映画館の暗闇で2時間くらい映画を見続けるというシチュエーションが、「籠城」という状況に感情移入をさせやすくするかもしれない。テレビで、しかも途中に日を挟んで観るなんて、映画にとってフェアな批評にならないかなあ。やっぱり。
もう一本。『グッドフィルハンティング』はさすがの鉄板名画。最後の「君は悪くない」連呼で折れて全面和解にいたるところは、感動的と言うべきか白けるというべきか迷うところではあったが(どっちの感想も同時に抱いたのだった)。
森博嗣の犀川先生ものでも、「天才」をどう描くかは難しいよなあとよく思っていた。天才にあらざる作者がどうやって天才を描けるだろう。しかもそれがちゃんと天才として感じられるように。
一つの方法は、凡人の「時間」を超越することであり、脚本の段階でのリサーチが手堅ければここはクリアできる。この映画でもここをしっかり抑えて、「時間」を凝縮できるウィルの天才ぶりを描いていたが、もう一方の、認識の深さや複雑さについては、むしろわざとウィルを凡人として描いていたと考えるべきなのだろう。
それより、観ていて何度か「うまい!」と(文字通り、隣で観ていた娘に向かって口に出して)唸ってしまったのは、たとえば彼女との会話。自分をさらけ出すことに対する恐れから、素直になれない感情のせめぎ合い、思考の迷い(しかもそれは無論、愚鈍さの表れではなく明晰であるからこその迷い)が、見事に描けていた。この機微が見事に演じられていたマット・デイモンもロビン・ウィリアムズも、アカデミー賞に値するのは納得。
で、ブログという形式はまさにそれをやるためにあるんじゃないか、とは思うものの、実行しようとすると結構に負担だ。題名だけ示してもしょうがないから、ちょっと気の利いた感想くらい言わないと、とか考えるとなおさら。
で、今日は二本観た。録画するテレビ放送の映画を消化するのもいっぱいいっぱいで。
『のぼうの城』は、期待したよりも(といいつつ無視できずに録画してしまったのだが)面白かった。野村萬斎はもちろん、どこにもここにも出てくる佐藤浩市はやっぱり安定して、演出がはずしさえしなければ良い演技をするし、成宮や榮倉のように時代劇向きでない役者まで、なかなかに観る者の感情を共振させるような演技をしていたのだった。いやもちろん榮倉を大根だと言うことは可能だが、それでもいろいろな場面でそれぞれの登場人物が快哉を叫ぶとき(実際に叫んでいるというわけではなくとも)、その叫びに観客が同調してしまうようなうまい演出がされていたと思う。
それでも、籠城ものの知恵比べ、技比べ、人間としての度量比べみたいな見応えは、たとえば「ダイハード」みたいなスタンダードはもちろん、私にとっては永遠の名作「冒険者たち~ガンバと15ひきの仲間」のような幾重にも重ねられた攻防の妙と比べると当然ながら軽いのだった。「獅子の時代」の会津戦争の籠城戦も、まああれは時間のかけかたが違うから比べるのに無理があるが、はるかに重厚な人間ドラマを見せてくれたし、それらの名作群とはやはり比すべくもない。
だがせめて映画館で一息に、集中して観れば、かなり面白い映画だったかもしれない。映画館の暗闇で2時間くらい映画を見続けるというシチュエーションが、「籠城」という状況に感情移入をさせやすくするかもしれない。テレビで、しかも途中に日を挟んで観るなんて、映画にとってフェアな批評にならないかなあ。やっぱり。
もう一本。『グッドフィルハンティング』はさすがの鉄板名画。最後の「君は悪くない」連呼で折れて全面和解にいたるところは、感動的と言うべきか白けるというべきか迷うところではあったが(どっちの感想も同時に抱いたのだった)。
森博嗣の犀川先生ものでも、「天才」をどう描くかは難しいよなあとよく思っていた。天才にあらざる作者がどうやって天才を描けるだろう。しかもそれがちゃんと天才として感じられるように。
一つの方法は、凡人の「時間」を超越することであり、脚本の段階でのリサーチが手堅ければここはクリアできる。この映画でもここをしっかり抑えて、「時間」を凝縮できるウィルの天才ぶりを描いていたが、もう一方の、認識の深さや複雑さについては、むしろわざとウィルを凡人として描いていたと考えるべきなのだろう。
それより、観ていて何度か「うまい!」と(文字通り、隣で観ていた娘に向かって口に出して)唸ってしまったのは、たとえば彼女との会話。自分をさらけ出すことに対する恐れから、素直になれない感情のせめぎ合い、思考の迷い(しかもそれは無論、愚鈍さの表れではなく明晰であるからこその迷い)が、見事に描けていた。この機微が見事に演じられていたマット・デイモンもロビン・ウィリアムズも、アカデミー賞に値するのは納得。
2014年8月23日土曜日
今年のライブ
毎年夏の恒例の「ふるさと祭」のライブは、練習不足の去年より練習での演奏が良い出来だったので楽しみにしていたのだが、リハの雨から文字通り暗雲立ちこめていたのだった。
で、ほとんどリハできないまま臨んだ本番では、やっぱりDI経由のエレアコが音圧低くてほとんど聞こえないか、PAの方で上げてもらうとハウりまくって、打ち込みのリズムとのバランスもとれず、残念な出来だった。ギターのピックアップの問題かもしれず、準備不足だとしたら悔いが残る。
来てくれた方々、申し訳ありません。
良い演奏を心掛けて、来年にリベンジを期す。
あ、一応こういうのは記録としてセットリストを付けとくべきだな。
1.イージュー☆ライダー(奥田民生)
2.世界はそれを愛と呼ぶんだぜ(サンボマスター)
3.強く儚い者たち(Cocco)
4.スワロウテイル・バタフライ(Yen Town Band)
5.ブルーでハッピーがいい(ショコラ)
6.ハロ/ハワユ(ナノウ)
7.風をあつめて(はっぴいえんど)
8.Drifter(キリンジ)
9.おわりのはじまり(くらげP)
50分いただいたので、例年より多めの9曲。
メンバーが高校生の時にやってたのから、最近知ったボカロ曲まで。
今年初めての新曲はなし。
こちらがクロスフェード。
で、ほとんどリハできないまま臨んだ本番では、やっぱりDI経由のエレアコが音圧低くてほとんど聞こえないか、PAの方で上げてもらうとハウりまくって、打ち込みのリズムとのバランスもとれず、残念な出来だった。ギターのピックアップの問題かもしれず、準備不足だとしたら悔いが残る。
来てくれた方々、申し訳ありません。
良い演奏を心掛けて、来年にリベンジを期す。
あ、一応こういうのは記録としてセットリストを付けとくべきだな。
1.イージュー☆ライダー(奥田民生)
2.世界はそれを愛と呼ぶんだぜ(サンボマスター)
3.強く儚い者たち(Cocco)
4.スワロウテイル・バタフライ(Yen Town Band)
5.ブルーでハッピーがいい(ショコラ)
6.ハロ/ハワユ(ナノウ)
7.風をあつめて(はっぴいえんど)
8.Drifter(キリンジ)
9.おわりのはじまり(くらげP)
50分いただいたので、例年より多めの9曲。
メンバーが高校生の時にやってたのから、最近知ったボカロ曲まで。
今年初めての新曲はなし。
こちらがクロスフェード。
2014年8月22日金曜日
『マレフィセント』観た
夏休み唯一の子供達とのお出かけで『マレフィセント』を観てきた。
最初の方の映像美や躍動感は、こういうのが映画館で観ることの快感だよなあ、と大いに満足だったのだが、見終わる頃には不満の方が克ってしまった。
ムーア国の映像美が一見の価値があるのは認めるとして、いかんせん脚本の浅さが致命的だった。ディズニー映画ってのは、そういうところはシステマチックにある水準を超えるように創ってくるはずなのに。どうしたことか。
作品批評に「ないものねだり」をするのは筋違いだとは思うものの、やはり「こうあってほしい」という期待の地平にそって作品享受をするしかない観客は、期待するものを与えてくれない作品に不満を抱いてしまう。だから映像美もアンジーの演技も王女の可愛らしさもカラスのイケメンぶりも、それ自体をプラスに数えることはできるものの、そのあまりに薄いドラマツルギーに不満を覚えてしまうのを禁じえない。
例えば葛藤とその解決がドラマツルギーの基本だとすると、「眠れる森の美女」の「葛藤」は王女が目覚めないことであり、その目覚めが一つの大きな物語的な「解決」を構成するはずであると「期待」される。だが、「マレフィセント」では、この、「葛藤」期間があまりに短かすぎる。王女の目覚めに向けた試行錯誤や苦闘の描写があまりに薄い(これはアニメでも同じだった)。
万事がこのとおりなのだが、中でも、王になってからのステファンが単なる悪役になってしまうところがドラマを生成させない最大の要因だと思う。ステファン王と王妃の、オーロラに対する思いが描かれていない分、マレフィセントとの間に緊張を作れない。オーロラがどちらに付くのが物語として正解なのかが迷うようでなければ、ドラマとしてのハラハラもドキドキもないではないか。
ステファン王の変貌も、そこに「一理」を認められるような、充分に共感可能なものでないと、単なる主人公の「敵」として、打ち倒すべき対象でしかなくなるではないか。
例えば鉄の茨の描写も、そうしたドラマ作りの浅さを示す恰好の例だ。
城の入口の鉄の茨は、ステファン王が鍛冶屋に造らせていたものは何か? という謎の解答としてビジュアル的にインパクトがあったが、そのわりに注意して通れば通れてしまうだけで、マレフィセントの侵入を防ぐのに何の意味もなかった。
ムーア国の茨と対になっている鉄の茨は、どうみてもマレフィセントとステファン王それぞれの心の隠喩になっているはずだ(だからこそ大団円でムーア国の茨は消え去るのだ)。それならばステファン王があれほど偏執的に鍛冶屋に造らせていた鉄の茨は、マレフィセントの侵入を完全に阻止してしまわなければならない。
そして、ステファン王の心がマレフィセントを受け入れるかどうかで揺れるときにこそかろうじて鉄の茨は、マレフィセントを城内に通すことを可能にするはずだ(王になる前のステファンにはその迷いがあった)。
だが鉄の茨は、そのおどろおどろしいビジュアルだけで、いともたやすくマレフィセントを通してしまう(だからといってステファン王がマレフィセントを心の中では実は受け入れているのだ、などどいう解釈の余地はまるでない)。だからこそ、鍛冶屋に造らせていたのはマレフィセントを捕らえた網の方だったのかなあ、なぞとぼやけた理解しかできないくらいに、その描き方は曖昧だ。
お話づくりの面白さ、上手さという観点からしてもあの脚本はない、というのが息子の意見だった。アニメと同じ展開を見せておいてから、マレフィセントとステファンの子供時代の関わりは後から挿入的に描く方がよかろう、と。
例えば「真実の愛のキスで目覚める」という付帯条件をマレフィセントがなぜ付けたのかは、子供時代が先に描かれてしまうとあっさりわかってしまうが、そこまではアニメと同じ展開で見せておいて、そうした条件をつけた「真実の愛なんてない」というマレフィセントの絶望を、後から子供時代のステファンとのエピソードを描いて観客の前に提出すれば、「そうだったのかあ!」という納得の快感(伏線とその回収)を生じさせることも可能なのに。
良かれ悪しかれ、観客はアニメのストーリーを想起しつつ観るだろうから、それを納得させることと、なおかつ裏切ることを当然、仕掛けとして想定すべきなのだ。それが、ただなんとなく「アニメと同じ」「アニメと違う」としか思えないようにしか参照されていかない。
あれほど手間も金もかけた映画が、その魅力を挙げることができるにもかかわらず、結局これほどちゃちなドラマしか描けていないなんて、あまりに勿体ない、とただただ残念なのだった。
最初の方の映像美や躍動感は、こういうのが映画館で観ることの快感だよなあ、と大いに満足だったのだが、見終わる頃には不満の方が克ってしまった。
ムーア国の映像美が一見の価値があるのは認めるとして、いかんせん脚本の浅さが致命的だった。ディズニー映画ってのは、そういうところはシステマチックにある水準を超えるように創ってくるはずなのに。どうしたことか。
作品批評に「ないものねだり」をするのは筋違いだとは思うものの、やはり「こうあってほしい」という期待の地平にそって作品享受をするしかない観客は、期待するものを与えてくれない作品に不満を抱いてしまう。だから映像美もアンジーの演技も王女の可愛らしさもカラスのイケメンぶりも、それ自体をプラスに数えることはできるものの、そのあまりに薄いドラマツルギーに不満を覚えてしまうのを禁じえない。
例えば葛藤とその解決がドラマツルギーの基本だとすると、「眠れる森の美女」の「葛藤」は王女が目覚めないことであり、その目覚めが一つの大きな物語的な「解決」を構成するはずであると「期待」される。だが、「マレフィセント」では、この、「葛藤」期間があまりに短かすぎる。王女の目覚めに向けた試行錯誤や苦闘の描写があまりに薄い(これはアニメでも同じだった)。
万事がこのとおりなのだが、中でも、王になってからのステファンが単なる悪役になってしまうところがドラマを生成させない最大の要因だと思う。ステファン王と王妃の、オーロラに対する思いが描かれていない分、マレフィセントとの間に緊張を作れない。オーロラがどちらに付くのが物語として正解なのかが迷うようでなければ、ドラマとしてのハラハラもドキドキもないではないか。
ステファン王の変貌も、そこに「一理」を認められるような、充分に共感可能なものでないと、単なる主人公の「敵」として、打ち倒すべき対象でしかなくなるではないか。
例えば鉄の茨の描写も、そうしたドラマ作りの浅さを示す恰好の例だ。
城の入口の鉄の茨は、ステファン王が鍛冶屋に造らせていたものは何か? という謎の解答としてビジュアル的にインパクトがあったが、そのわりに注意して通れば通れてしまうだけで、マレフィセントの侵入を防ぐのに何の意味もなかった。
ムーア国の茨と対になっている鉄の茨は、どうみてもマレフィセントとステファン王それぞれの心の隠喩になっているはずだ(だからこそ大団円でムーア国の茨は消え去るのだ)。それならばステファン王があれほど偏執的に鍛冶屋に造らせていた鉄の茨は、マレフィセントの侵入を完全に阻止してしまわなければならない。
そして、ステファン王の心がマレフィセントを受け入れるかどうかで揺れるときにこそかろうじて鉄の茨は、マレフィセントを城内に通すことを可能にするはずだ(王になる前のステファンにはその迷いがあった)。
だが鉄の茨は、そのおどろおどろしいビジュアルだけで、いともたやすくマレフィセントを通してしまう(だからといってステファン王がマレフィセントを心の中では実は受け入れているのだ、などどいう解釈の余地はまるでない)。だからこそ、鍛冶屋に造らせていたのはマレフィセントを捕らえた網の方だったのかなあ、なぞとぼやけた理解しかできないくらいに、その描き方は曖昧だ。
お話づくりの面白さ、上手さという観点からしてもあの脚本はない、というのが息子の意見だった。アニメと同じ展開を見せておいてから、マレフィセントとステファンの子供時代の関わりは後から挿入的に描く方がよかろう、と。
例えば「真実の愛のキスで目覚める」という付帯条件をマレフィセントがなぜ付けたのかは、子供時代が先に描かれてしまうとあっさりわかってしまうが、そこまではアニメと同じ展開で見せておいて、そうした条件をつけた「真実の愛なんてない」というマレフィセントの絶望を、後から子供時代のステファンとのエピソードを描いて観客の前に提出すれば、「そうだったのかあ!」という納得の快感(伏線とその回収)を生じさせることも可能なのに。
良かれ悪しかれ、観客はアニメのストーリーを想起しつつ観るだろうから、それを納得させることと、なおかつ裏切ることを当然、仕掛けとして想定すべきなのだ。それが、ただなんとなく「アニメと同じ」「アニメと違う」としか思えないようにしか参照されていかない。
あれほど手間も金もかけた映画が、その魅力を挙げることができるにもかかわらず、結局これほどちゃちなドラマしか描けていないなんて、あまりに勿体ない、とただただ残念なのだった。
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