2026年2月25日水曜日

『ゲッタウェイ』-わからない

 スティーブ・マックイーンつながりで、録画「積ん読」状態だったのを観てしまおうと。

 『パピヨン』と同時期の本作、『パピヨン』では老けメイクも見せたが、こちらは終始、実にかっこよかった。

 とはいえ『パピヨン』とは違って悪党ではある。こういうのはどうやって観たものか。フィクションを享受するのに、別に不道徳であることをことさらに忌避するつもりはないのだが、さりとて共感できるかと言えばそれも難しい。

 対抗する悪役は実に悪辣で、それは見事な悪役なのだが、大詰めまで迫ってきてあっさり倒される。

 ああいうあっさりさ加減がサム・ペキンパーの美学なのだろうか。よくわからない。

 あんなに酷い話が何やらハッピーエンド風に終わるのも。

2026年2月22日日曜日

『パピヨン』-不屈

 子供の頃に観た記憶はあるが、それが小学生なのか中学生なのかもからない。脱獄物だから、ストーリーの骨格は単純で、とにかくラストシーンの、断崖から海に飛び降りる画を覚えている。

 脱獄物といえばNHKのドラマ『破獄』で、あれはまた希有なドラマだった。調べてみると放送は大学時代だから、録画もできずに放送時に観たのだったか。強い印象を受けていたところ、そのちょっと後に我が恩師となる教官が学生に薦めたい小説としてこの原作小説を挙げていたので驚きもし、その後原作も読んだのだった。

 数年前に再放送されたものはさすがに録画して観た。これはまた時代を経てもまるで古びない、おそろしい手応えの作品だった。

 さてさらに間隔を開けての本作は、驚くほど『破獄』と似た印象だった。そしてまたブログを繙いてみると、10年前に『ショーシャンクの空に』のことを書いた中で『破獄』と本作を並べて言及しているのだった。そう、共通テーマはやはり「不屈」なのだった。

 見直してみても、スティーブ・マックイーンのタフさがすごい。タフガイのアクションスターだが、こちらはもちろん精神的な意味で。

 脱獄を企てると独房に入れられる。二回の脱獄でそれぞれ2年と5年。独房というのは監視の必要よりも罰としての意味合いが強いのだろう。想像だに恐怖だ。それだけでなくその途中で、覆いをして真っ暗にされるという罰が追加される。これが精神的にどれほどの苦痛か想像するだけで怖くてたまらない。

 孤独や不自由に対する苦痛だけでなく、否応なく衰えていく肉体に対する恐怖もまた。歯が抜けるシーンの怖さ。

 それでも友の名を売らず、自由への意志も失わない。二度目の独房入りから解放されると既に肉体は老人となっているにもかかわらず、自由を求めることが存在そのものであるかのように次の計画を考える(この老人のメイキャップがまた見事だった。歩き方も完全に老人に見える。タフガイのアクションスターが、本当に体まで縮んだかのように。これは『破獄』の緒形拳も見事だった)。


 ダブル主演のダスティン・ホフマンとの友情も感動的。可能なところでは助けようとするが、それぞれの意志は尊重しようとする。最後の流刑地で、それなりに安住しているダスティン・ホフマンが、自由への意志を失わない「パピヨン」を疎みながらも再会を喜び、自由への一歩を二人で踏み出すところでためらって別れるシーンはやはり胸が熱くなった。


2026年2月16日月曜日

『ひゃくえむ。』-勝敗の向こう

 映画館にはしばらくご無沙汰だったのに、二週連続で映画を見に行く機会があろうとは思わなかった。仕事が早くにひけて、思い立って。

 『チ。』の高評価からこれも期待してしまう。岩井澤健治も『音楽』は全面支持とは言わないが、アニメ表現としては面白かったから、やはり期待できる。


 ロトスコープを使ったリアルな(だからこそ違和感のある)動きはスポーツをテーマとするアニメとしては効果的だったし、それがレース終盤で崩れていくところは「茄子-アンダルシアの夏」を思い出したりもして一人で盛り上がった。

 映画館で観る効用はやはり音だが、画面が大きいのももちろん良かった。いくつかの重要なレースの演出は申し分なくよくできていた。挿入曲のロックが鳴り出すと高揚感にとらわれ、走り出すスピード感も、それを自在に追うカメラワークも、観る者をその場に引き込んでしまう。


 小山ゆうの『スプリンター』の話を最近家族でしたので、どうにも連想が働いてしまう。どちらも、何かを得るために何かを犠牲にすることの恐怖とどう向き合うかが共通したモチーフではある。もちろん『スプリンター』の方が「犠牲」は大きい。命をかける。それと引き換えに手にしたいものは栄光よりも100m走の果てに到達する「真理」のように描かれていた。その意味では『ひゃくえむ。』よりもむしろ『チ。』に似ているとも言える。

 『ひゃくえむ。』では、いいところ選手「生命」くらいではある。栄光と競技は引き換えではない。むしろ競技を続けることでしか栄光が失われていくのを止められない。

 いや、プライドが引き換えになっているとは言える。この哀感をトガシが引き受けている。中学で一度競技をやめてしまうのも、社会人編で競技を続けることが企業との選手契約の「更新」の条件であるという現実がつきつけられるのも、続けることと磨り減っていくプライドが天秤にかけられているとは言える。

 それに比べると小宮の、スプリントへの執着は描き込みが不十分だと感じられたが、これは原作から落とされてしまっているのかもしれない。子供編も、吃音が「逃れたい現実」の一つであることはわかるが、たぶんそれだけでない家庭の事情などもありそうではある。が、そこは描かれない。高校編では怪我への恐怖が描かれるがそれを乗り越えて走ることに執着させるのが何なのかはよくわからない。

 もちろんそれが子供時代にトガシが言った「一番速く走れれば何でも解決する(不正確)」という言葉の呪縛であることはわかる。だがそれに執着させる動因がどうもわからない。大人編では既に成功者であり、特に迷いが描かれるわけではない。

 トガシの哀感は十分感動的だったが、魅力的なキャラクターであろう小宮の描き込みがここまでなのはやや残念。これは原作からのシナリオ化にあたっての改変なのかもしれないが。

 それでも、長い時間を経てきた登場人物たちが最後のスプリントで相まみえる最後の場面はやはり感動的だった。それぞれの思い、いろんな関係者の思いを背負って走る最後のレースは、しかし現実には決着がつく。様々な格闘技で、それ以外のスポーツ競技で、先の衆議院選挙でさえ。そこで快哉を叫ぶにせよ、痛みに耐えるにせよ、そうした強い思いの詰め込まれた場面に、やはり強く感情が動かされてしまうのだった。

p.s.

 『スプリンター』を再読してみて、原作からアニメ化にあたって改作されている或るシーンが、完全に『スプリンター』からの引用であることを発見した。脚本家なのか監督なのか。盗用などではない。改変する必要など特にあるわけではないから、完全なリスペクトによるオマージュなのだろう。嬉しい発見だった。再読ではあらためて『スプリンター』の凄みを確認したり。


2026年2月9日月曜日

『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

 前日の雪が若干残って不安だったので、車ではなく電車で出勤する。せっかくだから駅前の映画館に行くことにした。上映中の映画から選んだ一本に、着いてみると間に合わず、時間の合う中からチャック・ベリーのドキュメンタリー映画を。

 ドキュメンタリーといいつつ、全編ほとんどがライブシーンだった。本人のもあるが、彼をリスペクトする後代の大物ミュージシャンのカバーも。コラボレーションも。ビートルズやストーンズや。

 演奏は楽しかったし、これを映画館で観るのは音響的にも恵まれている。

 とはいえドキュメンタリー映画としてはこの間の『メイキング・オブ・モータウン』の圧倒的な面白さには比ぶべくもない。シンプルに演奏シーンを並べただけで、『モータウン』がアメリカ音楽史であるようには、それ以上の存在であるはずのチャック・ベリーの「意味」が語られているというには物足りない。様々なミュージシャンの言葉の断片も、公式サイトの映画紹介で全部見たなあと思ったり。

 ライブシーンだけだと、きっとYouTube上で観られたりするんだろうなあ、などと思ってしまうのも期待の水準が上がってしまう要因ではあるが。

2026年2月8日日曜日

『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

 スクールカースト最上位にある女生徒が突然自殺し、その「遺書」がクラス全生徒に配られる。自殺の動機をめぐって、HRを利用した「遺書」の公開が行われる…。もうこの設定だけで、いやおうなく期待してしまう。

 とはいえお話はすっかり知っている。というか原作に対する確かな信頼から、映画はダメに違いないなどと先入観を持っていたが、やはり興味が勝って観始める。

 いや、悪くない。途中で気になって、原作を読み直してみる。意外に丁寧に実写化しているのだとわかる。ただ、漫画では気にならないリアリティの水準が、実写で人間に演じられてしまうとちょっと鼻白むような大げさに感じられてもしまう。

 が、その分、演技の迫力が物語の力を増しているところもある。とりわけ、高石あかりはすごかった。『この星の校則』での繊細な感情表現も見事だったが、こちらの狂気を含んだ昂ぶりはまた圧倒的だった。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん原作のミステリー要素にある。そこが、映画の尺の中ではかなり忠実に再現されているのは好感が持てた。いや、本当にそこだけを原作並みに再現するなら、まだやれたと思われる。割愛されてしまっている要素はあった。だからこれは映画のバランスを考えてのことだとは思われる。それでも、バランスよりもそこをつきつめてほしいとも思う。

 さて、久しぶりに一気に通読した原作は相変わらず素晴らしかった。物語の展開にともなって秘められた意外な設定が次第に明らかになる、ミステリーとしての常套手段、ドンデン返し的構成も堅実だが、何より、遺書という「テクスト」をめぐるミステリーという設定が魅力的だ。前例はある。エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの謎』は新聞記事を読み解く「安楽椅子探偵」物で、まったく「テクスト」読解をめぐるミステリーだった。島田荘司の『眩暈』も謎の手記を読解していくミステリーだった。

 そもそも探偵小説というジャンル自体が、テクスト解釈であるとも言える。読者は小説本文というテクストを読解していくのだ。上記のような物語はそれを入れ子状に見せている。考えてみればそういう先例もあるとはいえ、少年漫画で、このようなテクスト解釈の多義性をめぐる読み換えがこれほどかと思わされる豊穣さで陳列される圧巻の展開に翻弄され、それによって生ずる心理ドラマに酔い、休日の一日、実に幸せな時間を過ごした。