2026年2月8日日曜日

『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

 スクールカースト最上位にある女生徒が突然自殺し、その「遺書」がクラス全生徒に配られる。自殺の動機をめぐって、HRを利用した「遺書」の公開が行われる…。もうこの設定だけで、いやおうなく期待してしまう。

 とはいえお話はすっかり知っている。というか原作に対する確かな信頼から、映画はだめに違いないなどと先入観を持っていたが、やはり興味が勝って観始める。

 いや、悪くない。途中で気になって、原作を読み直してみる。意外に丁寧に実写化しているのだとわかる。ただ、漫画では気にならないリアリティの水準が、実写で人間に演じられてしまうとちょっと鼻白むような大げさに感じられてもしまう。

 が、その分、演技の迫力が物語の力を増しているところもある。とりわけ、高石あかりはすごかった。『この星の校則』での繊細な感情表現も見事だったが、こちらの狂気を含んだ昂ぶりはまた圧倒的だった。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん原作のミステリー要素にある。そこが、映画の尺の中ではかなり忠実に再現されているのは好感が持てた。いや、本当にそこだけを原作並みに再現するなら、まだやれたと思われる。割愛されてしまっている要素はあった。だからこれは映画のバランスを考えてとは思われる。それでも、バランスよりもそこをつきつめてほしいとも思う。

 さて、久しぶりに一気に通読した原作は相変わらず素晴らしかった。物語の展開にともなって秘められた意外な設定が次第に明らかになる、ミステリーとしての常套手段、ドンデン返し的構成も堅実だが、何より、遺書という「テクスト」をめぐるミステリーという設定が魅力的だ。前例はある。エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの謎』は新聞記事を読み解く「安楽椅子探偵」物で、まったく「テクスト」読解をめぐるミステリーだった。島田荘司の『眩暈』も謎の手記を読解していくミステリーだった。考えてみればそういう先例もあるとはいえ、少年漫画で、このようなテクスト解釈の多義性をめぐる読み換えがこれほどかと思わされる豊穣さで陳列される圧巻の展開に翻弄され、それによって生ずる心理ドラマに酔い、実に幸せな時間を過ごした。


2026年1月18日日曜日

『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

 観たことはある。さりとて、十数年ぶりに観始めて、見覚えがあるなどということはちっとも感じない。それどころか、終盤で明かされる大どんでん返しの基本設定をさえ忘れていた。ひどい。

 とはいえ序盤の展開と最後のカタストロフは覚えていた。どうなっちゃうんだ、これ、というラストシーン。

 なるほど、序盤の「ファイトクラブ」の発足にいたる、日常をぶち壊したい願望はうまい。というか、うまいのは全編で、やはりデビット・フィンチャーだ。壊したいという願望と、まもるべきという執着がせめぎあう終盤のスピード感も無論うまい。

 だから面白い映画ではあるのだが、集中して映画を楽しむぞ、という構えがないと「うまい」が「楽しい」や「面白い」につながらない。

 それにしても、あの日常破壊願望は、どの程度、人々に共感されているのだろう。されているからこその人気作ではあるのだろうが。


2026年1月3日土曜日

『さよならピーチ』-映画に生きる

 PFF(ぴあフィルムフェスティバル)2024のエンタテインメント賞受賞作品。どこにどういう佳品が眠っていることかと気になって、時折TV番組表で目につくと観てしまう。短編なのかと思って観始めると続く続く。結局2時間4分もあった。途中でやめようとは思わなかった。というか、結局面白かった。が、説明が難しい。

 京都芸術大学の映画科の学生、遠藤愛海監督の卒業制作だという。物語も、そのまま、芸術大学の映画科の学生が自主映画を作る過程で不思議な出来事が起こる話。高校演劇でもしばしば演劇部が舞台になるが、同様に映画を作ろうとする学生が映画作りを題材に映画を作るのは、狭い世界に閉じこもるばかりで創造性の広がりに欠けるのではないかという懸念ももちろんある。だが、真剣に取り組んでいることにこそ、掘り下げもリアリティも愛もある、とも言える。高校演劇の演劇部ものも、やはり面白かったりもする。

 大学生活を終えて、自分が社会に出ることをどう受け入れるかというテーマでは、最近観た中では『何者』を思い出してしまうが、予算規模がたぶん何十倍と違うはずのあちらにも全くひけをとらない。が、どう面白いのかが説明できない。

 ひとまず「意外と」うまかったりする。お話は少々まとまりはなく、突飛でもあるが、カット編集はそつなく、それぞれの人物の感情の機微を描こうという目が確かなものだと感じる。映画的な面白さに流されていない(このあたりは最近のでいえば『時をかける少女』が比較になっている)。

 そうして描かれる人物の中でも、監督役の林ひよりが、演技によるキャラクター作りと、たぶん脚本も、その迷いなくまっすぐな明るさで魅力的だったとは言える。

 ヒロインのひとりである長谷川七虹も、不思議な魅力を出すことに成功していたが、これがまた演技なのか脚本なのか演出なのかわかりにくい(もちろん全部でなければならないのかもしれない)。

 そうなると残るひとり、向井彩夏の主人公「ピーチ」がどうかというと、やはり彼女の感情の揺れ動きが繊細に描かれるからこそ、この物語が成立していることは間違いない。

 人物たちにそれぞれ寄り添いつつ過ごす2時間が、過ぎてから思い出す時に感じる懐かしさを生んでいる。

 映画という物語を生きる感覚。


2025年12月28日日曜日

ドラマ3本

 このクールは連続ドラマを3本。


『良いこと悪いこと』

 「良い事」なのか「良い子と」なのかが気になっていたが、もちろんどちらでもあるのだろうと思いながら見ていた。

 連続殺人をめぐって、真相が徐々に明らかになる展開は引きつけられるし、見ていてうんざりする安っぽさもなかったから最後まで見たが、主演の間宮祥太朗と新木優子が始終暗い顔をしているのはちょっと残念ではある。もっと笑顔の割合が多ければ楽しく見られたのに。連続殺人に巻き込まれ、過去の罪を告発されて、明るい顔でもないだろ、とはいえ。


『推しの殺人』

 『良いこと悪いこと』とともに、1クールに二つも「連続殺人」物を観ることになってしまったが、単になりゆき。面白いのかどうか試そうと思って録り始めたら、結局観ないまま最終回の週まで放置され、見始めたら先が気になって、3晩くらいで見終えた。12話、長いよ。

 しかし、長いと、つきあった虚構体験がそれだけで何事かの重みではある。惜しむらくはもっと面白かったら良かったのに。安っぽさにうんざりすると途中で止めるのだが、それほどのひどさもなく。とはいえ最後は、田辺桃子の熱演に拍手を送りたくなったが。

 連続殺人の重みのないのが残念。


『シナントロープ』

 『オッドタクシー』の此元和津也だからと見始めると、1話の最初の10分が神がかっている。監督の山岸聖太の演出力もすごい。脚本はむろんうまい。会話劇としても面白いのに、伏線を張って回収する構成が見事。娘と観ていたので、全く溜めることなく毎週観た。これも長いこと付き合った効用で登場人物たちに対する愛着が湧いてきて、こういうのが「物語」体験ではある。


2025年12月27日土曜日

『この動画は再生できません』-伏線回収

 テレビシリーズが通しで再放送され、それを観てからの劇場版。最初のシリーズを観てから3年、ブログには書いていないので当時の詳細を覚えていないものの、観たことは明瞭に覚えていた。ホラーなのかと思ってみていると、実は心霊現象は起こっていないという謎解きがあるミステリーが珍しい。毎回、微妙によくできているなあと思っていた。

 第2シーズンも第3シーズンも、それぞれによくできている話もあるし、観ているうちに「かが屋」のふたり、とりわけ探偵役の加賀翔の物腰に好感を覚えて、それも楽しみだった。

 劇場版は、テレビシリーズ3本分くらいのエピソードを描き、しかもそれらが絡んでくるという凝った構成になっている。「読者への挑戦」ができるほどのパズル的公正性はなく、真相がわかっていくだけのミステリーではあるが、その過程で拾い上げていく伏線の多さに感心した。

 テレビシリーズから通しで、まだ回収していない伏線もあるし、制作費も安いんだろうから、続きが作られる期待はできる。

2025年12月19日金曜日

『事実無根』ー「無根」

 縁あって、インディーの本作を観る機会があった。

 何やらの映画祭で多数の受賞歴があるというし、村田雄浩と近藤芳正というベテランを引っ張り出して、小品でも佳作であることを期待したのだが、どうも手放しで面白かったとは言いがたい。

 高評価はたぶん、何やらヒューマンな良い話ということになっているんだろうが、それはまあそう思う。最後に関係者が集まって、なんだか良い感じに和解する大団円的な展開は山田太一みたいだ。

 だが全体としてそれほどの作品と思えなかったのは、題名の「事実無根」とキャッチコピーの「嘘に翻弄された」が予想させる「藪の中」的テーマの掘り下げがまるで弱いことだ。「事実無根」などという言われれば、それが本当に「無根」なのか、どうだと「無根」だといえるのかとかいうのはなかなかに難しい問題なはずだと思ってしまうのに、そういう掘り下げがないまま、どうやら本当に、単に「無根」だと描いているようなのだ。二人の男の「嘘に翻弄された」過去が描かれるのだが、例えば村田雄浩の「冤罪」事件も、思わせぶりに相手が登場して、何か事情がありそうだとは描くのに、結局真相がどうだったのかはわからない。 それが本当に冤罪だとしたら、職を追われるような重大事なのだから、裁判で争うべきで、そうなるとその「無根」に潜む微妙さが明らかに(あるいはますます不明確に)なっていくはずなのに、そんな展開はまるでない。じゃあ思わせぶりな題名と宣伝文句は何なんだ。

 テーマの掘り下げが弱いところに強い人間ドラマが生まれるはずもなく、何となく良い話、的なぬるいムードが流れて終わる。ドラマとしても根が無い。

2025年11月29日土曜日

『時をかける少女』ーアニメ的リアリティ

 「時をかける少女」といえば、我々の世代はNHKの少年ドラマシリーズの「タイムトラベラー」から、思春期の角川映画の大林宣彦監督の原田知世主演版に続く、映像化「古典」作品として認識されている。筒井康隆の原作も読んでいるはずだが、印象は覚えていない。

 細田守作品の本作は、テレビで放送されるたび、場面場面は断片的に観ていたのだが、初めて通して観た。細かいテレビ作品やCMと今公開中の『果てしなきスカーレット』以外では細田作品では唯一まだ観ていなかった大メジャー作品にして出世作。『オマツリ男爵』と『サマーウォーズ』の間だし、あちこちでも評判も良いから、と当然期待して観る。

 だがなんということか最近作に感じるのと同じような細かい違和感が積み重なってノれず、結局がっかり。名作じゃなかったのか。

 全体としては、アニメ的面白さを出すためにリアリティが犠牲になることを厭わない演出が受けつけなかった。そこらじゅうに突っ込みどころがあって、だがそれはアニメ的ということで不問に付すべき描写だと言いたいのだろう。だがそういうのがありすぎるともう感情移入もできず、醒めてしまう。例えば消火器を投げる場面で、頭上に持ち上げる動作がやたらと重そうに描写されている。だが、消火器が重量挙げのバーベルのように重かったら扱えないのだから、そんな描写は不合理だ。あるいは坂道を勢いよく走り下って、転がって擦り傷や打ち身ができるのはいいが、転んだ直後にもう青あざや流血があるのは不合理だ。痛そうに見せるためにリアリティがないがしろにされている。そういう突っ込みどころが無限にある。「劇的」だったり「可笑しさ」だったりとして見せようとするこういう描写が、「鬼太郎」や「デジモンアドベンチャー」ではかまわないのに、この、リアルであるべき物語で、かえってそれなりにリアルに描かれてしまうから受け入れがたい。上記の重さも痛さも。

 だいたい、主人公達の習慣となっている野球ごっこの設定も、受け入れがたいほど不合理で、どう受け入れて良いかわからない。あのグラウンドは何なのか、なぜよりによって三人でやるのが不便な野球なのか(卓球などではなく)。あるいはなぜ三人は部活をしないであんな習慣を身につけたのか。部活をやらないで帰り道に習慣で何かをするなら「セトウツミ」のように駄弁るか、ゲームでもしていればいいのだ。「桐島、部活やめるってよ」のバスケットだって、それがどういう意味を持った習慣なのかに明確な論理があった。本作の野球は、たぶん、三人の良い思い出のような意味合いで捉えさせたいということなのだろうが、まるで不自然で、行動原理が読めない。何なんだこの人達は。

 いや、欠点をあげつらうより魅力だ。それも問題なのだ。

 タイムリープが主要設定なのに、それがどういう理屈で起こせるのか全くわからない。もちろん、タイムマシンの理論的説明などを求めているわけではない。物語内での法則性がわからないのだ。何だか助走をつけて高く跳躍すると時間を過去に遡るのだが、どういう跳躍が成功するのか、それくらいの時間を遡れるのか、そもそも最初の跳躍で、それが「方法」なのだとなぜ主人公が推測したのかもわからない。「跳びたい」という思いがあれば「時をかける」ことができるという「法則」を吞めと観る者に無理矢理要求する。だが一方で、その跳躍はまるで切実ではない「くだらないこと」だとも言われている。それに有限の機能を使ってしまったことに後悔が描かれたりもしている。作品の論理が矛盾している。

 また、物語を駆動しているはずの「絵」がまるでそのような意味を持った絵に見えず、それを観るためという動機がどういう理屈かもわからない。原作のケンソゴルの、核戦争を防ぐためのタイムリープだという方がよくわかる。未来人が現代に来る動機の切実さが感じられない。あんなにどうでもいい動機でタイムリープしてきたということは、そこら中に実は未来人がいますという設定なのだろうか。よくわからない。

 確か少年ドラマシリーズの最も感動的だったのは、別れた二人が後に再会しても、主人公はもう相手のことを忘れているというラストシーンだったような記憶があるのだが、本作の「別れる」は、それよりもずっと子供っぽいその場の喪失感だ。もちろんそれは意図的でもあるようだし、それはそれで切なくに描かれてもいたのだが、問題は、主人公と未来人の関係は、そこまではそういうふうに描かれているか、という点だ。

 最大の問題は、物語の論理を支えるべき未来人・千昭の魅力がまるで感じられないということだ。前半には存在感もなく、設定にまつわる伏線の描写もまるでない。ミステリーじゃないんだから、暗示や示唆があって、意外性がなくなることを危惧するより、真相がわかったときの納得感が全然ないことを危惧すべきなのに、その配慮があるようには見えず、実は…と語られても、物語的な納得感のないこと甚だしくて白ける。

 人物描写としても、未来人が現代に来て、そこでどんなふうに過ごしているかということに関する想像力がまったく欠如しているように見える。時代状況の違い、生活習慣の差異に彼がどう向き合っているのかとか、未来から来たという重要事が、人物の描写に全く反映していない。未来人が未来人に見えないのは、AIやアンドロイドがまるで人間にしか見えない問題と同様、物語の根幹に関わる世界観の甘さとしか思えない。そんな風に描くのなら、なんでAIだの未来人だの異星人だのを(転校生などではなく)設定する必要があるのだ。

 背景美術や空間の手触り、細かい描写のうまさは圧倒されるほどなのに、それが物語の重要な要素として描かれるべき時には、かえって粗として意識されてしまう。良い脚本であってほしいとも思うが、演出としても、そうした弱さを自覚してほしかったと、今更20年近く前のメジャー出発点となる作品について残念がり、なおかつそれでもこれが評価されて後の成功のきっかけになるという不条理に居心地が悪い。