2026年2月22日日曜日

『パピヨン』-不屈

 子供の頃に観た記憶はあるが、それが小学生なのか中学生なのかもからない。脱獄物だから、ストーリーの骨格は単純で、とにかくラストシーンの、断崖から海に飛び降りる画を覚えている。

 脱獄物といえばNHKのドラマ『破獄』で、あれはまた希有なドラマだった。調べてみると放送は大学時代だから、録画もできずに放送時に観たのだったか。強い印象を受けていたところ、そのちょっと後に我が恩師となる教官が学生に薦めたい小説としてこの原作小説を挙げていたので驚きもし、その後原作も読んだのだった。

 数年前に再放送されたものはさすがに録画して観た。これはまた時代を経てもまるで古びない、おそろしい手応えの作品だった。

 さてさらに間隔を開けての本作は、驚くほど『破獄』と似た印象だった。そしてまたブログを繙いてみると、10年前に『ショーシャンクの空に』のことを書いた中で『破獄』と本作を並べて言及しているのだった。そう、共通テーマはやはり「不屈」なのだった。

 見直してみても、スティーブ・マックイーンのタフさがすごい。タフガイのアクションスターだが、こちらはもちろん精神的な意味で。

 脱獄を企てると独房に入れられる。二回の脱獄でそれぞれ2年と5年。独房というのは監視の必要よりも罰としての意味合いが強いのだろう。想像だに恐怖だ。それだけでなくその途中で、覆いをして真っ暗にされるという罰が追加される。これが精神的にどれほどの苦痛か想像するだけで怖くてたまらない。

 孤独や不自由に対する苦痛だけでなく、否応なく衰えていく肉体に対する恐怖もまた。歯が抜けるシーンの怖さ。

 それでも友の名を売らず、自由への意志も失わない。二度目の独房入りから解放されると既に肉体は老人となっているにもかかわらず、自由を求めることが存在そのものであるかのように次の計画を考える(この老人のメイキャップがまた見事だった。歩き方も完全に老人に見える。タフガイのアクションスターが、本当に体まで縮んだかのように。これは『破獄』の緒形拳も見事だった)。


 ダブル主演のダスティン・ホフマンとの友情も感動的。可能なところでは助けようとするが、それぞれの意志は尊重しようとする。最後の流刑地で、それなりに安住しているダスティン・ホフマンが、自由への意志を失わない「パピヨン」を疎みながらも再会を喜び、自由への一歩を二人で踏み出すところでためらって別れるシーンはやはり胸が熱くなった。


2026年2月16日月曜日

『ひゃくえむ。』-勝敗の向こう

 映画館にはしばらくご無沙汰だったのに、二週連続で映画を見に行く機会があろうとは思わなかった。仕事が早くにひけて、思い立って。

 『チ。』の高評価からこれも期待してしまう。岩井澤健治も『音楽』は全面支持とは言わないが、アニメ表現としては面白かったから、やはり期待できる。


 ロトスコープを使ったリアルな(だからこそ違和感のある)動きはスポーツをテーマとするアニメとしては効果的だったし、それがレース終盤で崩れていくところは「茄子-アンダルシアの夏」を思い出したりもして一人で盛り上がった。

 映画館で観る効用はやはり音だが、画面が大きいのももちろん良かった。いくつかの重要なレースの演出は申し分なくよくできていた。挿入曲のロックが鳴り出すと高揚感にとらわれ、走り出すスピード感も、それを自在に追うカメラワークも、観る者をその場に引き込んでしまう。


 小山ゆうの『スプリンター』の話を最近家族でしたので、どうにも連想が働いてしまう。どちらも、何かを得るために何かを犠牲にすることの恐怖とどう向き合うかが共通したモチーフではある。もちろん『スプリンター』の方が「犠牲」は大きい。命をかける。それと引き換えに手にしたいものは栄光よりも100m走の果てに到達する「真理」のように描かれていた。その意味では『ひゃくえむ。』よりもむしろ『チ。』に似ているとも言える。

 『ひゃくえむ。』では、いいところ選手「生命」くらいではある。栄光と競技は引き換えではない。むしろ競技を続けることでしか栄光が失われていくのを止められない。

 いや、プライドが引き換えになっているとは言える。この哀感をトガシが引き受けている。中学で一度競技をやめてしまうのも、社会人編で競技を続けることが企業との選手契約の「更新」の条件であるという現実がつきつけられるのも、続けることと磨り減っていくプライドが天秤にかけられているとは言える。

 それに比べると小宮の、スプリントへの執着は描き込みが不十分だと感じられたが、これは原作から落とされてしまっているのかもしれない。子供編も、吃音が「逃れたい現実」の一つであることはわかるが、たぶんそれだけでない家庭の事情などもありそうではある。が、そこは描かれない。高校編では怪我への恐怖が描かれるがそれを乗り越えて走ることに執着させるのが何なのかはよくわからない。

 もちろんそれが子供時代にトガシが言った「一番速く走れれば何でも解決する(不正確)」という言葉の呪縛であることはわかる。だがそれに執着させる動因がどうもわからない。大人編では既に成功者であり、特に迷いが描かれるわけではない。

 トガシの哀感は十分感動的だったが、魅力的なキャラクターであろう小宮の描き込みがここまでなのはやや残念。これは原作からのシナリオ化にあたっての改変なのかもしれないが。

 それでも、長い時間を経てきた登場人物たちが最後のスプリントで相まみえる最後の場面はやはり感動的だった。それぞれの思い、いろんな関係者の思いを背負って走る最後のレースは、しかし現実には決着がつく。様々な格闘技で、それ以外のスポーツ競技で、先の選挙でさえ。そこで快哉を叫ぶにせよ、痛みに耐えるにせよ、そうした強い思いの詰め込まれた場面に、やはり強く感情が動かされてしまうのだった。


2026年2月9日月曜日

『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

 前日の雪が若干残って不安だったので、車ではなく電車で出勤する。せっかくだから駅前の映画館に行くことにした。上映中の映画から選んだ一本に、着いてみると間に合わず、時間の合う中からチャック・ベリーのドキュメンタリー映画を。

 ドキュメンタリーといいつつ、全編ほとんどがライブシーンだった。本人のもあるが、彼をリスペクトする後代の大物ミュージシャンのカバーも。コラボレーションも。ビートルズやストーンズや。

 演奏は楽しかったし、これを映画館で観るのは音響的にも恵まれている。

 とはいえドキュメンタリー映画としてはこの間の『メイキング・オブ・モータウン』の圧倒的な面白さには比ぶべくもない。シンプルに演奏シーンを並べただけで、『モータウン』がアメリカ音楽史であるようには、それ以上の存在であるはずのチャック・ベリーの「意味」が語られているというには物足りない。様々なミュージシャンの言葉の断片も、公式サイトの映画紹介で全部見たなあと思ったり。

 ライブシーンだけだと、きっとYouTube上で観られたりするんだろうなあ、などと思ってしまうのも期待の水準が上がってしまう要因ではあるが。

2026年2月8日日曜日

『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

 スクールカースト最上位にある女生徒が突然自殺し、その「遺書」がクラス全生徒に配られる。自殺の動機をめぐって、HRを利用した「遺書」の公開が行われる…。もうこの設定だけで、いやおうなく期待してしまう。

 とはいえお話はすっかり知っている。というか原作に対する確かな信頼から、映画はダメに違いないなどと先入観を持っていたが、やはり興味が勝って観始める。

 いや、悪くない。途中で気になって、原作を読み直してみる。意外に丁寧に実写化しているのだとわかる。ただ、漫画では気にならないリアリティの水準が、実写で人間に演じられてしまうとちょっと鼻白むような大げさに感じられてもしまう。

 が、その分、演技の迫力が物語の力を増しているところもある。とりわけ、高石あかりはすごかった。『この星の校則』での繊細な感情表現も見事だったが、こちらの狂気を含んだ昂ぶりはまた圧倒的だった。

 とはいえ、本作の魅力はもちろん原作のミステリー要素にある。そこが、映画の尺の中ではかなり忠実に再現されているのは好感が持てた。いや、本当にそこだけを原作並みに再現するなら、まだやれたと思われる。割愛されてしまっている要素はあった。だからこれは映画のバランスを考えてのことだとは思われる。それでも、バランスよりもそこをつきつめてほしいとも思う。

 さて、久しぶりに一気に通読した原作は相変わらず素晴らしかった。物語の展開にともなって秘められた意外な設定が次第に明らかになる、ミステリーとしての常套手段、ドンデン返し的構成も堅実だが、何より、遺書という「テクスト」をめぐるミステリーという設定が魅力的だ。前例はある。エドガー・アラン・ポーの『マリー・ロジェの謎』は新聞記事を読み解く「安楽椅子探偵」物で、まったく「テクスト」読解をめぐるミステリーだった。島田荘司の『眩暈』も謎の手記を読解していくミステリーだった。

 そもそも探偵小説というジャンル自体が、テクスト解釈であるとも言える。読者は小説本文というテクストを読解していくのだ。上記のような物語はそれを入れ子状に見せている。考えてみればそういう先例もあるとはいえ、少年漫画で、このようなテクスト解釈の多義性をめぐる読み換えがこれほどかと思わされる豊穣さで陳列される圧巻の展開に翻弄され、それによって生ずる心理ドラマに酔い、休日の一日、実に幸せな時間を過ごした。


2026年1月18日日曜日

『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

 観たことはある。さりとて、十数年ぶりに観始めて、見覚えがあるなどということはちっとも感じない。それどころか、終盤で明かされる大どんでん返しの基本設定をさえ忘れていた。ひどい。

 とはいえ序盤の展開と最後のカタストロフは覚えていた。どうなっちゃうんだ、これ、というラストシーン。

 なるほど、序盤の「ファイトクラブ」の発足にいたる、日常をぶち壊したい願望はうまい。というか、うまいのは全編で、やはりデビット・フィンチャーだ。壊したいという願望と、まもるべきという執着がせめぎあう終盤のスピード感も無論うまい。

 だから面白い映画ではあるのだが、集中して映画を楽しむぞ、という構えがないと「うまい」が「楽しい」や「面白い」につながらない。

 それにしても、あの日常破壊願望は、どの程度、人々に共感されているのだろう。されているからこその人気作ではあるのだろうが。


2026年1月3日土曜日

『さよならピーチ』-映画に生きる

 PFF(ぴあフィルムフェスティバル)2024のエンタテインメント賞受賞作品。どこにどういう佳品が眠っていることかと気になって、時折TV番組表で目につくと観てしまう。短編なのかと思って観始めると続く続く。結局2時間4分もあった。途中でやめようとは思わなかった。というか、結局面白かった。が、説明が難しい。

 京都芸術大学の映画科の学生、遠藤愛海監督の卒業制作だという。物語も、そのまま、芸術大学の映画科の学生が自主映画を作る過程で不思議な出来事が起こる話。高校演劇でもしばしば演劇部が舞台になるが、同様に映画を作ろうとする学生が映画作りを題材に映画を作るのは、狭い世界に閉じこもるばかりで創造性の広がりに欠けるのではないかという懸念ももちろんある。だが、真剣に取り組んでいることにこそ、掘り下げもリアリティも愛もある、とも言える。高校演劇の演劇部ものも、やはり面白かったりもする。

 大学生活を終えて、自分が社会に出ることをどう受け入れるかというテーマでは、最近観た中では『何者』を思い出してしまうが、予算規模がたぶん何十倍と違うはずのあちらにも全くひけをとらない。が、どう面白いのかが説明できない。

 ひとまず「意外と」うまかったりする。お話は少々まとまりはなく、突飛でもあるが、カット編集はそつなく、それぞれの人物の感情の機微を描こうという目が確かなものだと感じる。映画的な面白さに流されていない(このあたりは最近のでいえば『時をかける少女』が比較になっている)。

 そうして描かれる人物の中でも、監督役の林ひよりが、演技によるキャラクター作りと、たぶん脚本も、その迷いなくまっすぐな明るさで魅力的だったとは言える。

 ヒロインのひとりである長谷川七虹も、不思議な魅力を出すことに成功していたが、これがまた演技なのか脚本なのか演出なのかわかりにくい(もちろん全部でなければならないのかもしれない)。

 そうなると残るひとり、向井彩夏の主人公「ピーチ」がどうかというと、やはり彼女の感情の揺れ動きが繊細に描かれるからこそ、この物語が成立していることは間違いない。

 人物たちにそれぞれ寄り添いつつ過ごす2時間が、過ぎてから思い出す時に感じる懐かしさを生んでいる。

 映画という物語を生きる感覚。


2025年12月31日水曜日

2025年第4クール(10-12)のアニメ

『しゃばけ』

 ノイタミナは枠自体を認知しているから注目もしてしまうんだが、物語の行く先が気になって8話くらいまで観たが、演出の軽さ浅さに耐えられず脱落。


『終末ツーリング』

 現在の風景が、人類滅亡後の「終末」風景に書き換えられるのが楽しくて途中まで観たが、物語の先に期待が持てず、これも途中でやめ。


『小林さんちのメイドラゴンS』

 単に再放送なのだが、毎回驚くほど見覚えがなく、そして毎回面白かった。京アニの技術の高さが、時々垣間見える瞬間に、ほのぼのとした物語のタッチとのギャップでドキリとさせる。そこで語られるシリアスな物語の深みにまた居住まいを正される。


『永久のユウグレ』

 P.A.WORKSのオリジナルアニメ。さすがに『ID』『Sonny Boy』あたりのレベルにはならなかったが心意気は買う。何かのカタストロフがあって文明レベルが後退した未来の日本で、アンドロイドをめぐる謎に引っ張られて見続けた。アニメのレベルは総じて高く、ロードムービーとして、場所と関わる人を変えながらの展開は楽しかったが、肝心のカタストロフがまるで『ターミネーター』だったのと、どうしてもアンドロイドが人間に描かれすぎるのに、これもがっかり。


『SANDA』

 板垣巴留は『BEASTARS』もそうだったが、突飛な設定に現実的なテーマが反映されていて、実に骨太なドラマを作る。サイエンスSARUのアニメ品質も高く、原作の単なる移し替えにならない。感動的なところを感動的に見せる。

 2期あるか?


『デブとラブと過ち』

 アニメーションの質は極めて低かったが、謎で引っ張るので最後まで見続けた。最終回は過去のシーンの再現ばかりで恐ろしく密度も低く、終わるのかいなと思っていたら、終わらない。シーズン2があるのか? あれで?


『忍者と極道』

 忍者と極道が対立しているというのはどういう理屈かというと、忍者が体制を守る正義の守護者だということなのだった。とにかく一貫して狂ったような大げさで突飛な設定や描写にあきれているうちに、だんだん盛り上がって面白くなってくる。敵にしろ味方にしろ毎度、死んでから、その人物の過去が描かれるというパターンに、死んでから彼に思い入れてしまうという引きがあって、どこでみつけたパターンやら、と思っていた。「ジャンプ」マンガかな。「ケンガンアシュラ」でもやってるな。


『ワンダンス』

 高校ダンス部といえばヤマシタトモコの『BUTTER!!!』があるが(そちらはソーシャルダンスだが)、よもやあれほどではあるまいとは思いつつ見続けた。そのとおり残念ながらワンダさんもコボくんもそれほど魅力的には描かれていない。それぞれの葛藤も描かれつつ、たとえばカボがうまくいきすぎるところあたりは、物語のカタルシスを生まない原因かもしれない。

 アニメとしては、予算の問題か、そこを描かないのかい! とつっこみたくなる省略がしばしばで、それもまた大いに残念。


『最後にひとつだけお願いしてもよろしいでしょうか』 

 転生に魔法と、以前なら観なかったジャンルだが、絵の安定しているところをかって見通した。ヒロインが「最後」に拳で相手をぶっ飛ばすという設定が珍しいのだが、この「最後」に、のカタルシスがもうちょっと、というところではある。無敵さは痛快さでもあるが、安心が緊張感を生まないともいえる。


『ワンパンマン』

 間が空いているシリーズ物としては、前のシリーズの展開を忘れずにいるところをみると、ちゃんと面白いと毎度感じているのだ。確かに。

 第一シーズンは監督が夏目真悟だったり、絵コンテに川尻義昭が参加していたりと、アニメのレベルも高かったが、第2シーズンからは、物語の面白さ、キャラクターの面白さで見せる。何の面白さかはわかりにくい。『ファブル』の面白さに似ている。 


『グノーシア』

 ゲーム原作だそうで、絵がものすごくうまいし、声優陣も豪華だが、いまいち面白くならない。人狼ゲームの応用になっているのだが、1話で1ゲームの展開になる中で、論理の把握もできないまますぐに話が終わってしまう。論理の把握と人物の関係や人物像の描写に、1話という長さが足りていないのだ。

 とりあえずただちに2クール目に入る。


『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』

 原作の柴田ヨクサルの絵とはかなりタッチが違うが、柴田の絵が特徴的すぎて、そのままアニメ化は難しいんだろうとは思う。単に作画が乱れているのだと思われてしまうことをアニメーター達はさけたいんだろうし。

 だが、ちょっと絵が整った分、原作のめちゃくちゃさが浮いてしまう。原作では勢いで読めてしまうところに、微妙にひっかかったりする。まあそれでも面白いには違いない。

 これも2クールになるようだ。


『ケンガンアシュラ』

 どこまでやるのか知らずに観ていたら、トーナメント決勝までこのクールに納めて、しかも原作的にもこれで終わりなのだった。何せ主人公が死んでしまうのだから。このパターンは言うまでもなく『あしたのジョー』だが、負けずにこの結末もかなり切なかった。