2026年9月30日水曜日

第3クールのドラマ

 『スピナーベイト』

 『オッド・タクシー』の此元和津也の原作だというので観始める。『シナントロープ』の登場人物が二人と『最高の教師』の加藤清史郎が揃って、不穏な雰囲気と先の読めない展開に引っ張られる。面白いドラマだったとも言えるが、後味はあまり良くないまま終わったのが残念。

『一次元の挿し木』

 キャッチコピーに掲げられた謎は、小説の宣伝の時から魅力的だと感じていた。その回収はそれなりに満足だが、いかんせん、主役の山田涼介が一貫して深刻な顔をし続け、時々は叫び、周囲の登場人物も大体においてそんな感じで、観続けたいという意欲が湧かなかった(が、なんとか最後まで見届けた)。キャストは豪華なのだが、面白くなる見通しはあったのだろうか。

『さよならノワール』

 おそるべき多作家、井上由美子の脚本は、さすがに特別な面白さとは言えないものの、演出も含めて、耐えられないようなくだらなさもない。それよりも小池栄子の演技があまりにうまくて、それだけで観られる。北香那はそもそもADHDっぽく設定されているから、そのぎこちなさはかえって納得できてしまう。二人のバディぶりが見事な刑事ドラマだった。

 シーズン1の低評価で、超話題作の『VIVANT2』は観ていない。


2026年9月26日土曜日

『殺人鬼から逃げる夜』-サスペンスはあるが

 聾唖のヒロインが連続殺人鬼から逃げ続ける一夜の物語。

 音が聞こえないから重要な情報を聞き逃すという設定がサスペンスを生む。殺人鬼が近づく気配も、聞き逃してはならない会話も聞こえない。ただし、何か音がなっているとインジケーターが上がるセンサーを自宅の玄関や車に付けていて、それが凶事の予告をヒロインばかりか観客にも伝える。サスペンスを生じさせる工夫としてうまい。

 同じく殺人鬼の被害者になりかける女性の兄がヒーローとして配され、堅物の屈強な元海兵隊ということで頼りになりそうだと思っていると、意外なほど間抜けで頼りない。ここは脚本の失敗なのか、意図的なのかよくわからない。ただもどかしい。ヒーローの活躍に快哉を叫びたい観客の期待は裏切られる。

 それでもヒロインの健闘に引っ張られて観続けてると、決着の手段はひとひねりされていて、これが売りであることは予告編からもわかる。

 ただ、そこから殺人鬼を退治するのがヒーローではなく警察であるのはやはりがっかりではある。あくまで彼に活躍させるつもりはないということなのか、やはり脚本の失敗なのか。さらに、その射撃のリアリティが欠けているのはがっかり。プロは、仲間が対象を取り囲んだ状態で発砲しない。ましてその外側に観客が取り囲んでいるのに、発砲することはありえない。

 そんなふうにがっかりな決着を最後に見せられるのは残念。

2026年9月25日金曜日

『フロッグ』-佳品

 高評価だったことは覚えているが、物語の帰趨についてはちっとも覚えていないので、見放題終了にあわせて観直してみた。

 いやこれはなるほどよくできている。物語の同じ場面を別の登場人物の視点から描き直すという設定はいつも楽しい。

 女の子を死なせなくてもいいのに! という不満はあるものの、ドンデン返しも、伏線回収も文句のない、よくできた脚本を手堅く演出した佳品。


2026年9月23日水曜日

『バックルームス』-結局トラウマ

  予告編から期待大だったが世間的にも大いにヒットしていて、これは体験として劇場で見てもいいかと思った。

 終始怖かった。音のせいでもある。通奏低音が長く鳴り続けている。キャッチコピーの「脳を侵食する」って、映画のコンセプトによってではなく、物理的・生理的にかい、と突っ込みたくなる。

 ジャンプスケアもある。だから気が抜けない。空間がテーマだから、いったんバックルームに入ると、いつ何が起こるか、出てくるかと緊張が抜けない。あそこの陰が、背後が、怖い。ホラーとしてはこれは常套手段だ。

 さて、だが怖さを求めているのではない。リミナルスペースという奇妙なコンセプトに「脳を侵食」してほしいと思っていたのだった。これに惹かれるのは、ディストピアものの、人のいなくなった街とか、廃墟とかに惹かれるあの感じに似ているようにも思える。

 だがこの期待は十分には満たされなかった。空間のデザインが不自然だという序盤の指摘は期待通りだったが、それが結局は記憶を不完全にコピーしたせいだとか、説明されてしまう。謎であるべきリミナルスペースに、それは人のイド(潜在意識)だという説明がついてしまう。

 だから恐怖も結局は、正体みたりトラウマなりといういつものパターンなのだった。『IT』はそういうパターンだとわかっているから心構えもできているが、これもそうかと知らされるのはいささかがっかり。その末に、『IT』で最もがっかりした、老婆の肢体が細長く伸びたクリーチャーが、こちらでも出てくるのだった。『スマイル』でもそうだった。細長い手足を持った3メートルくらいあるクリーチャーといえば「トールマン」だが、何か、アメリカ人の共通の潜在意識に根ざした恐怖の対象なんだろうか。ともあれ、これが物理的に危害を加えてくるというのがクライマックスだったのはがっかり。といって「悪魔」が出てきて、そんなの人間にはどうにもできないといった凶悪な呪いで責められても戦いようがないから、それもまた興醒めではあるが。

 結局ホラーにちょうど良いのは走らないゾンビなのか。

 いや、ホラーと言っても、本作に脅威からの逃走を期待していたわけではないのだ。もっとリミナルスペースは不条理で圧倒的な不思議であってほしかった。

 そこでの試行錯誤が描かれるという意味では『CUBE』や『プラットホーム』の方が豊富なアイデアが詰め込まれていたと思う。

 それから、ラストがハッピーエンドにならないホラーも気に入らない。『スマイル』も『ロングレックス』も。とりわけ敵がトラウマなら、克服の物語を描けばいいではないか。そこは安心なところに落として、でもリミナルスペースの不気味は残る、という終わりでいいのに。

2026年9月9日水曜日

『俺とマコトと終わらない昼休み』

 今年度の文化祭で演劇を選んだのは2クラス。3年生の舞台は観るタイミングがとれなくて残念だったが、2年生のクラスは縁があるので意識して機会を作った。

 最初にこれをやると聞いたときには、そういえば何年か前の全国高校演劇大会に出てた演目だったなと思い出した。NHKでその一部が紹介された時にも、昼休みがループするという設定に惹かれたものだが、ここで観る機会が得られることになるとは。

 「昼休み」という設定から舞台は教室だが、このクラスが発表したのも特別教室ではない普通教室だった(特別教室は抽選に負けたとのこと)。教室の窓側半分を舞台、廊下側半分を客席とするのは、教室を発表場所とする時の常套手段だが、その「舞台」には教室用の机椅子が並べられている。舞台監督の前口上に続く暗転の間にキャストが着席している音がして、明転すると授業の一場面から物語は始まる。クラスの半数以上の生徒がキャストとして、そのまま普段の「教室」を再現する。無論この授業の教師の話もまた物語のテーマにまつわる伏線なのだが、ほどなく授業が終わって問題の昼休みになる。思い思いに席を移っていつものグループで集まって雑然とした「昼休み」が再現される中で、それぞれのグループのドラマの断片らしきものが観客の前に提示されていく。

 そうするうちに、突然アラートの音が響いてみんながスマホを見る。一人の生徒が立ち上がって周りを見回し、観客席側の窓の方を指さして大声でミサイルの襲来を告げる。キャストの生徒たちが観客席側に詰め寄って窓の上方を指さしてそれをみとめ、直後に一斉に叫び声をあげて反対側にしゃがみ込む。暗転と共に点される赤い不穏なフットライトに、観客席から遠い側の席で一人の女生徒だけが立ち尽くしているのを観客は見る。

 生徒の座席は3列に並べられ、最も観客席に近い列と観客の最前列はほんの手を伸ばせば届くような距離にある。だからこの一連の、身体的にも音響的にも激しい動きは、観客の本当に「目の前」で演じられ、観客の強い動揺を誘発して、ただ事ではないこの舞台の緊張を会場全体に生む。

 一瞬おいてフットライトの消えた暗転下、ドラムのビートによるSEが鳴り始めると、みんなの移動の気配がして、明転すると生徒たちは元の席に戻って4限の終わりが再現され、チャイムとともに同じような昼休みが始まる。なるほど、ここまでがループするのだ。4限の終わりから、ミサイル襲来までの8分間。

 同じ繰り返しの中で、少しずつ違った情報が提示される。観客の注意を集めるために、あるグループの会話が殊更に声を大きくして、それ以外の生徒はサイレントで演技をする。そうして徐々に人間関係やそれぞれの生徒の立ち位置が観客に把握されていく。

 今が文化祭のエントリーの締め切り間際であり、クラスがそれに対して積極的でない空気が示される。冷笑と諦念が支配する教室の中で、委員長が必死に(義務的に?)呼びかけをするが、教室の空気は変わらない。そうした空気をやがてミサイルが破壊し、昼休みがループする。

 繰り返される中で、物語の中心となる二人のドラマが次第に明らかになってくる。

 これは平和な日常が、実は常に戦争の脅威にさらされていることを暴いている物語でもあるが、それをも隠喩として、登場人物たちにとっての日常に潜む脅威、すなわち冷笑と諦念が支配する教室の空気が、毎日「繰り返される」物語でもある。ループは、そうした空気の支配が常態化していることの暗喩している。

 空気、すなわちスクールカーストを前提とする人間関係と、そこで起こる「いじめ」という「脅威」に対するミサイルの襲来による破壊は、日常に潜む不安の隠喩であると同時に、そこからの解放の願望でもある。

 SFにおけるディストピアは、戦後には科学の進歩した未来に対する不安の表現であったが、高度経済成長を越えてからはむしろ「日常」の破壊願望を表すようにもなった。人類消滅やゾンビ蔓延といったディストピアに対する奇妙な憧憬は、90年代に宮台真司が言った「終わりなき日常」に対する絶望感の裏返しでもある。ロメロの名作「ゾンビ(Dawn of the Dead)」は明確にそのことに対する批評となっていた。我々は確かに文明の終末を望んでいたし、しかしゾンビはゾンビになってもショッピングモールに集まって「終わりなき日常」を「生きて」いたのだ。それは繰り返される代わりばえのしない日常こそがグロテスクなディストピアでもあることの透かし絵でもあった。

 だが、高校生の物語が終末を目指してはならない。まずはミサイルの脅威から逃げる可能性が試行される。だがループする8分という時間は、ミサイルから逃げるには短すぎることが示される。

 ではどうするか。

 ミサイルの襲来に象徴される政治や世界情勢といった大状況を高校生が変える展開を描いてしまえば安易になる。だがこれはそもそもの「終末」が高校生たちの日常によって要請されたものだから、この日常の変化、すなわちループからの脱出がミサイルの襲来を阻止することになるのは物語の因果律としては必然だ。

 ループから脱出しなくてはならない。ループすなわち「終わりなき日常」は、「成長」という変化によって打ち破られなければならない。それが観客によって高校生である登場人物たちに期待された「物語」のはずだ。

 高校生の「成長」はどのように描かれるのか。


 高校生たちの痛みとそれに対する抵抗に、劇中で何度かこみあげそうになる場面があるのだが、その一つは主人公の「8分あれば、逃げることはできなくても、告ることはできる。」という台詞だった。これはクレヨンしんちゃんの『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の「おら、お姉さんと付き合いたい!」が、TVCMで見たときはギャグだと思っていたら、映画本編の中では最も感動的な台詞であったように、笑うべき台詞ではなく、そこに物語の主題が露出する真剣な台詞なのだ。

 終末が迫っているのに何を暢気な、と言うことはできない。そもそも戦争の阻止もミサイルからの逃走もできないという設定の中でできることを探ろうとしているのだ。それが、主人公の試みる「クラスメートのことを知ろうと努める」であり、「告白」なのだった。ループの中心にいるヒロインは、主人公の奮闘に「そんなことして、なんになるんだ?」と苛立つが、なるほど、ミサイルもループも、クラスの空気の隠喩なのだとすればその空気を変えるための手段は、素朴にいえばコミュニーションしかない。

 コメディとして描かれる一つ目の告白はもちろん楽しく、これは冷笑的なクラスの空気を変える第一歩にはなるが、むしろ物語としては、こうした空気に潜むもう一つの「脅威」が観客に示されるのはその後である。ヒロインを務める生徒の圧倒的な演技によって、その絶望が、ミサイルによる破壊願望の切実さが、明らかになる。

 それを変えるのが二つ目の告白だ。机の上に立つというのが「ここから見ると世界が変わって見える」という言葉ほど意味のある振る舞いであることに今ひとつ納得はできないが、狭い会場で高低差をつける演出は、観客の視線を大きく上下させるダイナミズムがあって効果的だった。

 ともあれこの告白によってループを抜けた5時間目が初めて描かれ、授業の冒頭、これも象徴的な英文の朗読の後、主人公とヒロインが互いに向けたピースサインによって締めくくられるラストシーンは、多幸感が満ちていた。


 「告ることはできる」とともに感動的だったのは、クラスでのいじめ=「シカト」が明らかになる場面で、教室から出て行くヒロインを追おうとする主人公を一人の女生徒が制止する「わかってやんなよ。あの子だって気ぃ遣って出て行ったんだから」という台詞だった。この生徒は優等生的な委員長の友人として、クラスでは上位グループにいる。そうした立場でこの台詞を言うならば、青臭い主人公を諫める傍観者的上から目線で、クールな口調で語る、という選択もありうるのだろうが、この劇中では、台詞の後半に向けて叫ぶように発せられたことで、単に主人公の行動に対する諫止や非難ではなく、この生徒自身の痛みを聞く者に感じさせた。理想主義的な主人公の行動に対する共感と、だがそれを阻止してクラスの現状のバランスを維持したいと考える矛盾、自らの無力さへの苛立ちと、ヒロインが出て行かざるを得ない状況に自分自身が加担しているという自覚からくるヒロインに対する罪悪感。

 原作では別の生徒が言う台詞として設定されているから、これもまたこのクラスの舞台において生じた独自の輝きの一つなのだろう(これはこの台詞を言う配役生徒自身のキャラクターのせいでもある。後でオリジナルの舞台を見ると、やはりこの台詞がそれほど特別な響きを持ってはいなかった)。


 クラスの作り上げた舞台の感動には不足ない。成功の要因に脚本の選定があることは間違いないが、その可能性を実現したのは裏方も含めたクラス全体の力だった。

 だがそれだけに、さらにこの物語の持っている可能性について、ない物ねだりをしたくもなった。

 原作は高校演劇だから規定の60分をなるべく目一杯使っているはずだが、今回の上演では原作のシナリオにあったいくつかの会話がカットされ、50分ちょっとにおさまっている。この処理は上手い。面白くならなさそうな会話をカット(あるいはサイレント芝居に隠して)、物語にとって重要な会話を際立たせている(追記 オリジナルの舞台の動画も見たところ、オリジナルでも、シナリオにある会話を全部聞こえるように演出しているわけではなかった。聞こえている会話はこちらの舞台とほとんど変わらない。ただ、いちいちの演技の間が長いことでもう数分長い舞台になっていたのだった。だがその間が感興を増しているともいえず、むしろ今回の舞台は十分な完成度だと感じた)。

 なくてもいい要素はなくてもいい。だが「クラスの空気が変わるとループから抜けられる」という物語の大きな因果律を支えるのに、一つの告白に頼るというのは単純すぎる、とも感じた。

 教室を再現したこの物語は、もっと群像劇であってほしい。

 もちろんそうなってもいる。だが十分かと言えば納得しかねる。クラスの演技も演出も申し分ないから、これはシナリオに対する期待だ。

 主人公がヒロインに対して「一緒にいる」と言うことでヒロインがなにがしか救われるとして、主人公の他の足掻きはクラスに何をもたらしているのか。前日のやりとりから小さなわだかまりを作っているらしい女子生徒二人や、一人で本を読んでいる生徒、一人奮闘する委員長の状況はどんなふうに変化するのか。そして何より最大の「脅威」であるクラス全体からの無視という「いじめ」に対しても、小さな変化の片鱗を見せてもいいのではないか。

 もちろんそれらを安易に描くことはできない。「空気」を変えることの困難は、わずかな変化としてのみ描かれるべきではある。だがそれらを描くことが、群像劇としてのこの物語の厚みはさらに増すであろうと夢想してしまう。

 例えば上記の二人の女生徒のエピソードを、Queerの「問題」として、少ない情報量で示すのは唐突にすぎる(観客にはほぼ伝わらない)。だからそれは高校生にありがちな小さな諍いとその和解として描かれるか、そうでなければしかるべき一つの「物語」としてちゃんと描かれてほしいと思う。それがまた「告白」の一つの系列に連なるように描かれる可能性さえ考えてしまう。教室の中の多くの「物語」が、それぞれの小さな「告白」によって「空気」を変えていく可能性を。

 もちろんそれは物語の構成上はとても難しい。主人公二人の物語に集約して一気にラストに向かうスピード感があの高揚感をもたらしているのも確かだ。

 だが例えば、ラスト5時間目の授業で、ヒロインにプリントを渡す女生徒の変化は、そうした小さな「告白」の形として、物語の一つの意味ある要素となっていた。こうした変化としての「告白」がもっと教室のあちこちで起こる群像劇を見たい、と思った。


 余談1

 途中で押井守の「ビューティフルドリーマー」の挿入曲が流れたのにびっくりして、後で、あれは誰が選曲したのかと尋ねると、原作のシナリオに指定されているという。なるほど、作者は同年代だからあれを知っているのかと腑に落ちた。

 「ビューティフルドリーマー」もまたループ物の名作だった。本作中で言及される「君の名は」が単なるタイムリープものであってループ物ではなく、「時をかける少女」もループそのものを主題にしていないのに比べて、「ビューティフルドリーマー」の序盤は完全なるループ物であり、やはりそこからの脱出がテーマだった。ただし高校の文化祭前夜が繰り返す、かの物語では、はっきりとそれが終わってほしくないというヒロインの願望が生み出したループだったのに比べ、本作でヒロインがそれを願望しているはずがないのに繰り返すのは、脱出できない絶望の隠喩としてのループである。

 それでも問題のその曲が流れるのは、高校生活の断片に対する愛おしさが語られるくだりだから、そうした意味では共通した面があるともいえる。


 余談2

 クラスの方で撮影の予定がなかったそうで、「公式」撮影を買って出た。集大成たる最終公演が狙いではあったが、何たることか、この公演の途中でSDカードの容量がいっぱいになって撮影が止まってしまった。急遽SDカードを換えて撮影を再開したのだが、予定の「公式」映像の一部は永遠に欠けてしまったのだった。

 幸い二日目の第一公演は全部撮ってある。第二公演も現場にいなかったがカメラは回しておいてもらってある。そこで最終公演を基本としながら、途中を第一公演と第二公演でつなぐことを考えた。そうして何とかストーリーが貫徹する映像が作れることはできそうだとわかった。

 そのうちにもうちょっとやりようがあることに気づいた。第一公演は上手から、最終公演は下手から撮っていたから、場面によって芝居が近い方、顔が見える方の映像を使った方が観客に訴える映像になる。

 そういうわけで結局、校内公開の「公式」映像は計三回の公演の場面が継ぎ接ぎになっている。暗転でつなぐのが一番楽だが、そうはいかない部分もあり、演者が振り返るところでカットを変えるなどという荒技も駆使した。

 これが可能なのは、毎回の演技が、台詞の間や動作、周囲のキャストの動きまで正確に再現されているからだ。それだけでなく、どの公演も同じように観客を動かす力を持ち得ていたことの証明でもある。

 とはいえさすがに最終公演が終わって観客に挨拶した後のキャストの退場シーンだけは、二日間の舞台をやり終えた満足感が感じられる、かけがえのない場面を使っている。

 物語の大団円を告げるピースサインとともに、これも多幸感に満ちた映像だ。

2026年8月31日月曜日

この1年に観た映画 2025-2026

 42本というのはここ12年で最低を更新している。仕事が忙しかった自覚があるのは3年前から2年前までで、ここ2年はどうしてこれほど観られなくなったか、どうもわからない。それ以外に何に時間が使われているのか心当たりがない。観ようと思ってウォッチリストに入れたり録画したりしている映画は増えるばかりだから、意欲がないわけではないのだが。

 10本を選んでみる。


9/20『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

12/27『この動画は再生できません』-伏線回収

1/3『さよならピーチ』-映画に生きる

2/16『ひゃくえむ。』-勝敗

2/22『パピヨン』-不屈

3/13『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

7/18『Search』-限定された設定の中で

8/9『Search2』-前作に引けをとらない

8/21『落下の王国』-映像美と大団円

8/23『オークストリートの異変』-楽しいが惜しくもある


 以前はよく次点10本を選んだりもしていたが、到底そんなには挙がらない。上記も、例年に比べると小粒ではある。『Search』は以前ならまとめても良かったくらい。

 『パピヨン』の鑑賞は初めてではないが、あまりに昔のことなのでここに挙げているが、見直しも入れるなら『1秒先の彼女』の原作再鑑賞が最も面白かったくらい。

 量も質も貧弱な1年。


 テレビドラマは『銀河の一票』か。


 以下、順に。


9/18『川を越えた先』-地味なホラー

9/19『真・鮫島事件』-怖さよりカタルシス

9/20『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

9/21『何者』-いたい

10/4『Last Letter』-弱い

10/13『SMILE』-いまいち

11/1『アウトブレイク』-パンデミックものとしては

11/1『メイズ・ランナー』-期待ほどでは

11/2『シビル・ウォー アメリカ最後の日』-「面白い」

11/29『時をかける少女』ーアニメ的リアリティ

12/19『事実無根』ー「無根」

12/27『この動画は再生できません』-伏線回収

1/3『さよならピーチ』-映画に生きる

1/18『ファイト・クラブ』-日常破壊願望

2/8[『遺書、公開』-テクスト読解ミステリー

2/9『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』-食い足りない

2/16『ひゃくえむ。』-勝敗

2/22『パピヨン』-不屈

2/25『ゲッタウェイ』-わからない

3/1『六人の嘘つきな大学生』-ドラマの失敗

3/8『グッドワン』-苦い

3/10『きさらぎ駅』-安っぽい異世界

3/13『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

4/4『一秒先の彼/彼女』-改悪

4/27『花束みたいな恋をした』-閉鎖感

5/10『特捜部Q 知りすぎたマルコ』

5/29『侍タイムスリッパー』-映画業界の自己愛

6/8『勝手にふるえてろ』-消化不良

6/10『プラダを着た悪魔』-映画的描写力

6/13『マイケル』-映画館で音楽映画を

7/11『黒牢城』-小説には勝てない

7/18『Search』-限定された設定の中で

8/8『ロングレッグス』-キリスト教圏の映画

8/9『Search2』-前作に引けをとらない

8/13『12か月の未来図』-地道

8/14『劇場版 幼女戦記』-ヒトラーのいない

8/15『夜勤事件』-二番煎じにも程がある

8/21『落下の王国』-映像美と大団円

8/22『ロングウォーク』-残酷と強い意志

8/23『オークストリートの異変』-楽しいが惜しくもある

8/29『クラスの敵』-スロベニア映画

8/30『ククルス・ドアンの島』-豪華なスピンオフ

2026年8月30日日曜日

『ククルス・ドアンの島』-豪華なスピンオフ

 『機動戦士ガンダム』の最初のシリーズの中の一話をふくらませて、一本の劇場映画にしたもの。40年以上経ってのリメイクで、当時20代だった古谷徹が、ほぼ70歳にして変わらずに主人公の少年アムロを演じている。これもファーストガンダムの作画だった大御所、安彦良和が監督する。

 アニメとしてはむろん隔世の感ありの進歩だし、元々「いい話」ではあった。ファンサービスということでオールスターキャストを物語にからめているところが、原話での逸話(本筋から逸れたエピソード)としての特別感を若干損なっているともいえるが、諸々、細部の描写がある分の物語の厚みはある。

 十分に面白い映画ではあった。