2026年2月16日月曜日

『ひゃくえむ。』-勝敗の向こう

 映画館にはしばらくご無沙汰だったのに、二週連続で映画を見に行く機会があろうとは思わなかった。仕事が早くにひけて、思い立って。

 『チ。』の高評価からこれも期待してしまう。岩井澤健治も『音楽』は全面支持とは言わないが、アニメ表現としては面白かったから、やはり期待できる。


 ロトスコープを使ったリアルな(だからこそ違和感のある)動きはスポーツをテーマとするアニメとしては効果的だったし、それがレース終盤で崩れていくところは「茄子-アンダルシアの夏」を思い出したりもして一人で盛り上がった。

 映画館で観る効用はやはり音だが、画面が大きいのももちろん良かった。いくつかの重要なレースの演出は申し分なくよくできていた。挿入曲のロックが鳴り出すと高揚感にとらわれ、走り出すスピード感も、それを自在に追うカメラワークも、観る者をその場に引き込んでしまう。


 小山ゆうの『スプリンター』の話を最近家族でしたので、どうにも連想が働いてしまう。どちらも、何かを得るために何かを犠牲にすることの恐怖とどう向き合うかが共通したモチーフではある。もちろん『スプリンター』の方が「犠牲」は大きい。命をかける。それと引き換えに手にしたいものは栄光よりも100m走の果てに到達する「真理」のように描かれていた。その意味では『ひゃくえむ。』よりもむしろ『チ。』に似ているとも言える。

 『ひゃくえむ。』では、いいところ選手「生命」くらいではある。栄光と競技は引き換えではない。むしろ競技を続けることでしか栄光が失われていくのを止められない。

 いや、プライドが引き換えになっているとは言える。この哀感をトガシが引き受けている。中学で一度競技をやめてしまうのも、社会人編で競技を続けることが企業との選手契約の「更新」の条件であるという現実がつきつけられるのも、続けることと磨り減っていくプライドが天秤にかけられているとは言える。

 それに比べると小宮の、スプリントへの執着は描き込みが不十分だと感じられたが、これは原作から落とされてしまっているのかもしれない。子供編も、吃音が「逃れたい現実」の一つであることはわかるが、たぶんそれだけでない家庭の事情などもありそうではある。が、そこは描かれない。高校編では怪我への恐怖が描かれるがそれを乗り越えて走ることに執着させるのが何なのかはよくわからない。

 もちろんそれが子供時代にトガシが言った「一番速く走れれば何でも解決する(不正確)」という言葉の呪縛であることはわかる。だがそれに執着させる動因がどうもわからない。大人編では既に成功者であり、特に迷いが描かれるわけではない。

 トガシの哀感は十分感動的だったが、魅力的なキャラクターであろう小宮の描き込みがここまでなのはやや残念。これは原作からのシナリオ化にあたっての改変なのかもしれないが。

 それでも、長い時間を経てきた登場人物たちが最後のスプリントで相まみえる最後の場面はやはり感動的だった。それぞれの思い、いろんな関係者の思いを背負って走る最後のレースは、しかし現実には決着がつく。様々な格闘技で、それ以外のスポーツ競技で、先の選挙でさえ。そこで快哉を叫ぶにせよ、痛みに耐えるにせよ、そうした強い思いの詰め込まれた場面に、やはり強く感情が動かされてしまうのだった。


0 件のコメント:

コメントを投稿