以前この題名の映画を観た時には、こちらの映画と別であるとは知らずにいて、観終わってから調べているうちに話題の映画が別なのだとわかったのだった。
さてこちらがダニー・ボイル監督作品だけあって、当然話題性もある。期待もある。そして実際に観終わっての満足感も充分なのだった。
だが前のジョシュア・マイケル・スターン版を観ていたことが幸いしたのも確かだ。ダニー・ボイル版は、スティーブ・ジョブズやアップルに不案内な者が見るにはいささか辛い。飛び交う会話に登場する用語や人名がもつ文脈を理解していることは、その会話を理解するために必須だし、エピソード間の歴史的事実を知らずに登場人物たちの感情の軋轢を捉えることも難しい。
もう一つ、幸いしたといえばレンタルのDVDを、吹き替えで観ていたのだが、同時に字幕も表示していたのだが、これがなければニュアンスのわからない科白がどれほどあったろうかと思うと、その偶然を喜びたい。
吹き替えと字幕の翻訳者が別なのだ、おそらく。
二種類に翻訳されることでそのニュアンスがようやくわかる、という科白が多いというのは、それだけ含みのある表現をしているということなのだろう。
にもかかわらず、この映画の科白の量たるや、『ソーシャル・ネットワーク』並みだなあと思っていると、脚本のアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』も書いているのか! まったく恐るべきスピードで科白がやり取りされるのだ。
この映画は基本的に口論で成り立っているといっていい。スティーブ・ジョブズによる、三つの有名な製品発表会の開始前を描き、さて発表会が始まるというところで肝心の発表会そのものは描かれずに顛末だけが紹介されて、また次の発表会開始前に時間が跳ぶ、という展開が2回繰り返される。その発表会開始前の殺気立って慌ただしい緊迫した時間の中で、これでもかというほど密度の高い口論が繰り返されるのだ。
一つ目のマッキントッシュ発表会前のパートを観終わったところで再生を一時停止して、久しぶりに一緒に映画を観た息子と、これはすごいと言い合った。基本的には脚本がよくできているのが前提ではあるが、役者の演技も、演出も編集も、そのテンションを支えきらなければこの緊迫感は出ない。
そして、その口論のすごさとは、その論理の拮抗と、プライドやらコンプレックスやらのからみあった感情の拮抗が、強い説得力をもって観客に伝わるということだ。これが単なる感情のぶつかり合いだとか水掛け論だとか、ジョブズがエキセントリックで嫌な奴だとしか感じられない人は(という評をネットで見るのだが)、「議論」というものができない人なのだろう。惜しいことだ。
「議論」によって、物事や価値観の多面性、戦略の有効性についての可能性の分岐、人間の感情の重層性が見えてくる過程は、ぞくぞくするほど楽しかった。高度な技の応酬が見応えのあるスポーツ観戦のように。
そして、時を経た三回の議論において、スティーブ・ジョブズの「成長」が描かれているのも、素朴に快い。堂々たるハッピーエンドに、終わって感じる満足感も高い。
2017年12月31日日曜日
2017年12月30日土曜日
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
家に押し入ってきた暴漢と戦う家族、という、このブログを始めてからでさえ何本か観ているシチュエーションのスリラー。だが観終わって思い出したのは『ダイ・ハード』だった。テロリスト集団に対して、偶然人質に紛れ込んでいたタフガイが意外な活躍をしてテロ集団を殲滅するという筋立ては、考えてみればこの映画に重なる。ただ、スケールはもちろん小さい。だがそこは期待していない。低予算で作られた「思いがけず面白い」映画を期待しているのだ。ついでに言えばタフ「ガイ」ではないし、「家族」でもない主人公の強さが、子供の頃に、終末妄想にとりつかれた父にサバイバルの訓練を受けたという過去からきているのだという、「サプライズ」な設定は微笑ましかった。
「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。
「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。
2017年12月29日金曜日
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
この間は『チェンジング・レーン』で、役者として実に味わい深い演技を見たばかりのシドニー・ポラックの監督作品。
どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。
どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。
2017年12月25日月曜日
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
「午後のロードショー」という放送枠にふさわしいB級映画だが、観る。もちろん傑作だった第1作に操を立てているのだ。
といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。
といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。
2017年12月22日金曜日
アクティブラーニング「ブーム」の弊害
忘れないうちに書き留めておく。
若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。
アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。
まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。
班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。
だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
これはいったい何の儀式か?
ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。
班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
自己目的化の陥穽は常にそこにある。
若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。
アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。
まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。
班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。
次に気になるのは、授業の際に教師の配るプリントである。
これも、板書とともになされる講義を生徒がノートに写す、といういわゆる「ボード&ノート」授業スタイルに対抗して、教員手作りのプリントは、生徒が能動的になるかのようなイメージがある。だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
これはいったい何の儀式か?
ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。
班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
自己目的化の陥穽は常にそこにある。
2017年12月20日水曜日
「サクラダリセット」ふたたび
アニメ放送の終了時に一度ふれたことがあったが、その後、原作の小説を読みすすめて終盤にさしかかったところで、図書委員から「おすすめ図書」を挙げろという依頼が入ったのを機に、最後までいっきに読み終えた。最終7巻は一日で。巻の後半に入って、これはこのままいこうと決めた。布団の中で深夜までかかって読み終えるという読書は幸福だ。すごい物語だった。
というわけで以下、前回の記事を使い回しつつ「おすすめ図書」。
2009年に刊行の始まったこのシリーズを知ったのは、 遅ればせながら今年のアニメ化によってだった。初回から、「 時間を巻き戻せる」 という設定のせいでなんだか筋を追うのが大変だぞというのと、 台詞回しが妙に面白いなというのが印象的だった。ただ、 その後2クールの放送を追ってみて、 花澤香菜と悠木碧の演技の素晴らしさが特筆に値するという以外は 、 アニメーションとしては凡庸な量産深夜アニメレベルを脱しなかっ た。それでも最後まで見続ける気になったのは、 物語のあまりの力量に圧倒されたからだ。
これは原作の面白さに決まっている、 と図書室に購入を希望して揃えてもらった。 そういうわけで全巻の貸し出し第一号は私だ。読んでみると、 複雑なストーリーラインも、ウィットに富んだ台詞も、 やはりこの物語の素晴らしさは原作に拠るのだった。
ある種のタイムリープを設定としてもちこむと、 物語の論理はすぐに複雑になる。設定上、 パラドクスこそ回避されているが、可変的な未来を知る者同士が、 どの時点で何を知っていて、 何を意図しているかを個々の状況に応じて把握しなければならない 。その上で十分に頭の良い複数の登場人物が、 互いに相手の思惑を上回ろうと策略をめぐらす。 それは相手も十分読んでいるだろうから、 その上を行こうとすれば…と、 まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。 ある条件下でこの難問を解決するにはどんな方法をどんな手順で実 行すれば可能なのか…。 どこまでも複雑な構築物としての物語に目の眩む思いがした。
そして、この物語では何より「言葉」が大切にされている。 超能力者たちが跋扈する世界での戦いであるにもかかわらず、 この物語の主人公とラスボスの最終決戦は、 凡百のSFのような物理法則を超えた物理的破壊合戦ではなく、 なんと「議論」と「説得」なのである。 相手との合意がなければ戦いは終わらない。そうでなければ「 幸せ」になれないと主人公は考える。
クールだったりユーモラスだったり哲学的だったりする言い回しは 村上春樹を思わせもするのだが、にもかかわらず、ハルキ・ ワールドの不健全さとはまるで違って、この小説では、 どこまでもまっすぐでまっとうでまえむきな言葉が、 陳腐で恥ずかしいと思うより、 すがすがしくも感動的でさえあるのだった。
2017年12月12日火曜日
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
海外の映画祭でも高い評価を得たという平栁敦子監督映画だが、どういうわけで再編集してNHKでテレビ放送するのかわからない。宣伝として? 映画制作のドキュメンタリーにはできなかったのか?
この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
だが何に対するどのような批評になっているというのか?
すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。
この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
だが何に対するどのような批評になっているというのか?
すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。
2017年12月3日日曜日
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
オリンピックに向けての「戦意高揚」といったところだろうが、世評に高いこの映画を観たことがなかったので、TV放送されたのを機に。
だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。
だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。
登録:
投稿 (Atom)