2年越しの宿題で、日本版を。
宮藤官九郎にはずれなしの評価は、映画ではいくらか外れるのだが、これはまた本当にひどい裏切りだった。ちっとも面白くならない。最大の問題はキャスティングだとは思うものの、脚本がクドカンであることがいささかもそれを救っていない。この物語の魅力の一つは伏線回収の構成の妙にある。こういうのはクドカンの得意技ではないか。それが、原作のいくつかの伏線を省略した上で、加わるところは何もない。どこまでが脚本の問題なのかはわからないとはいえ、リメイクの際に付け加わった変更が成功しているところがあるとは思えない。主人公と同居する妹カップルとか謎の洛中マウントとか、何も生んでいない。
とはいえ最大の問題はキャスティングだ。男女逆転の配役は、それだけで失敗が必然的とは言うまい。だが結果的には致命的な失敗だった。台湾版の二人が、それぞれに冴えない30代で、それだけにその愛嬌や誠実さや不器用さや前向きさが愛おしいと思えるキャラクターであり得るのに、それを岡田将生と清原果耶にして、どう「冴えない」と思えば良いのか。前半主人公の台湾版のヒロイン、ペティ・リーは美人ではないが愛嬌があって、映画が進むにつれてみるみる魅力的になっていくというのに、岡田将生は見た目に反して冴えないという設定になっていて、単に嫌な感じの人物になってしまっている。対する後半主人公のリゥ・クアンティンは(いくらか個人的な事情で特別の思い入れもあるとはいえ)不器用で愛すべき人物として感じられるのに、清原が「パッとしない」と言われても無理がある。リゥ・クアンティンがどれほどヒロインを大事に思っているかを、清原は、あの演技力があったとて、到底実現してはいない。リゥがペティを大切に思うことは切実に感じられるのに、清原が岡田を大切に思うことに、まるで共感できない。
それでも監督がなんとかしてくれ。一体何をしようとしているんだ。単に本家の魅力を殺いで殺いで、何を付け加えるつもりなのか。いや、単にカメラワークとか編集でさえ、本家のうまさに比べて全く印象に残らないほど凡庸なのは一体何なのか。
あれこれ削られているように思えて上映時間をみると、台湾版と同じ2時間。豊かな時間に満ちていたように思える台湾版に比べて、あれこれが「ない」と思えるのに。手応えはまるでスカスカ。
いやおかしいだろ、と台湾版を見直してみた。どちらも2時間あるので、余裕のある休日とはいえ、すっかり夜更かしして。
設定がわかってしまってからだと、あの感動は失われているかと思いきや、台湾版はやはり素晴らしいのだった。細部に至るまで。軽妙な笑いを生み出す軽妙な台詞回しこそ得意であるはずのクドカンでは全く可笑しくなかったというのに、こちらは可笑しくて笑ってしまうほどのユーモアが横溢している。それは主人公の二人に対する愛おしさゆえに、温かい気持ちで受け入れられる笑いだ。岡田の「嫌なヤツ」に笑う気にはなれないし、清原は外れ役に痛々しい。
それだけではなく、例の牡蠣養殖場のシーンの美しさとか、止まった街の異常さに、いつしか心浮き立っていくくだりとか、映画的な魅力も、日本版にはまるでない。
そしてやはり台湾版ではヒロインを思う男性主人公の健気さがひしひしと胸を打つ。やはり物語の核心はそこにある。それ以外の魅力も横溢しているというのに、その切実さがユーモアとともに、観客に共感されていく。それに対して、清原がそれを感じさせないのは本当に残念だ。単に大学7回生というくらいでは「冴えない」が現前してこない。岡田を大切に思う気持ちに、まるで共感できない。
そしてそのキャスティングのせいで、バス運転手役にあらためて荒川良々を物語に介入させるしかなくなっているのだが、これはまた全く何の魅力も増しておらず、単にそこに時間がかかって差し引きが大きくマイナスになるだけ。清原が真相を語るのが荒川相手って、辻褄としてはしょうがないのだが、本家の感動的な語りはすっかり台無しではないか。リゥの語りはまっすぐにペティに向けられていて、それを受け止めるペティは笑顔のまま固まっている(ここは物語の展開を詳述しない)。ここを物語上必然性を持たせられなかった改作版では岡田は無表情のまま。これがどれほど物語の興趣を殺いでいるか。
山下敦弘は「リンダ リンダ リンダ」でも、雨の中で登場人物を演技させるというリアリティより「劇的さ」を優先する演出に醒めて評価できなかったのだが、本作はもっとはっきりと無能だと言える。あれほど素晴らしい原作があるというのにこの駄作ぶりは何事だ。いやいくら「大人の事情」があろうとも。
0 件のコメント:
コメントを投稿