2016年10月8日土曜日

辻征夫「弟に速達で」の授業2-なぜ老眼鏡を思い出すのか

 承前

 詩という形式は、そもそもが「わからない」ことだらけである。単に情報量の少なさに加えて、散文に比べて、素直に意味をとらせないこと自体に、詩という形式の独自性があるとさえいっていい。
 だからともすれば「わかる」こと自体を放棄してしまう一方で、わかったつもりになって看過してしまう部分も生じがちである。
 さて、もう一つ、さらに気づきにくい違和感について指摘し、生徒とともに考察してみたい。次の問いは、この詩における三聯の意味である。
Q 第三聯が、この詩に置かれている意味は何か。三聯はこの詩の中で何を語っているか。
この詩に書かれていることを次のようにまとめてみる。

一・二聯 ① 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案する
  三聯 ② 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す
四・五聯 ③ 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける

 書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜ①に続いて②が語られるのか、またそれが③に続く脈絡は、わかったようでわからない。
 ①と③の関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからである。だがそこに②を挟む脈絡とはなんだろう。
 この問題意識は、恐らく生徒には理解されにくい。上記の問いを投げかけても途方にくれるばかりだし、「脈絡がわからない」という、問う側の問題意識がそもそも共有されそうにない。「わからない」とは思わない、と言われてしまえばそれまでだ。
 そこで問題を微分する。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。
「なぜ思い出したのか」を説明するということは、それを思い出させる契機が何であるかを明確にし、それと老眼鏡の想起の因果関係を説明するということだ。その契機を明らかにすることで①と②の脈絡を捉えようというのである。何が「おれ」に老眼鏡を思い出させたのか。
 しばらく考える間をとってから、次の問いを加える。
Q 「おれはすぐに」とは、何の直後なのか。 
①の何事かに続いて②が起こったことが「すぐに」だと述べられているのである。その因果関係を捉えるうえで、何と何が連続しているのかを明確にしておきたい。
 ところが実はこれは案外に即答の難しい問いなのである。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
 契機はむろん「はるか」という名である。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
 もっとも、生徒から「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えが出てくる可能性もある。間違っていない。その場合は「誰から、いつ聞いたのか」という問いに切り替える。
 二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「そうだな」という伝聞の助動詞からすると、間接的に語り手に伝えられている。つまりその場に語り手は同席していない。②は母親が「いった」時に起こったことではないということだ。
 この命名が話題に上った電話とは、たとえば娘の誕生を弟が母親に報せた電話である。当然おめでた自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母親はひそかに暖めていた命名案を息子に提示したということだろうか。
 そのことを語り手が知ったのはまた別の機会である。母親と語り手がそれより後のどこかで電話でか直接にか、会って話しているのだろうか(もっといえば、母親と語り手が同居している可能性も想定していい)。
 あるいは命名案のことを弟に聞いた第三者(たとえば弟の奥さん)が語り手にそのことを話した可能性もある。少なくとも弟からではない。この件を語り手も知っていることは弟にはまだ知らされておらず(「いったのか電話で」と聞いているのだから)、そして一聯「さいきん/おばあちゃんにはあったか?」から、その後弟と母親が会ったかどうかは語り手には不明である。
 つまり、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨?)したということを、後から母親あるいは第三者から聞いた直後「すぐに」ということになる。
 ではなぜ語り手はこの話から老眼鏡を連想したのか。
 だがこうした疑問も、一聯の「おばあちゃん/ノブコちゃん」の言い換えが必要だった理由などと同じく、読者にとっては読み進める詩句のすべてが新情報だから、何はともあれそれを解釈しようとする構えにとっては疑問として意識されにくい。だからまずは生徒に、これが疑問である、つまり因果関係はそれほど自明ではないことを確認する必要があるのである。
 実際に生徒から出された説を列挙してみる。

  • a 「遠くに見える」からの連想で、見るための道具としての「老眼鏡」が思い出された。
  • b 母親を話題にのせるとき、その外観上の特徴として「老眼鏡」がイメージされた。
  • c 孫が生まれたことから、母親の老齢が実感され、そこから「ゆるゆるになったらしい」「老眼鏡」が連想された。
  • d 母親が孫に贈る名前を、あれこれ考えていたのだろうという想像が、自分が母親に老眼鏡を贈ったときにもあれこれ苦労して考えていたものだという連想に結びついた。
  • e 孫娘はいわば母親にとっての贈り物であるという認識が、自分が母親に贈った老眼鏡の連想に結びついた。

 いずれもそれなりにわからないでもない。このような解釈のアイデアが生徒から提出されたときは、なるべく「なるほど」という反応をしておく。そのうえでそれぞれの解釈について検討する。
 aについては、老眼鏡が近くを見る道具であることと「遠くに見える」の齟齬がひっかかる。
 bについては、老眼鏡が常にかけているものではないことから、外観上のイメージを代表しているものと考えることに疑問がある。あるいは、そもそも語り手が母親と直接会って命名の件を聞いたのだとすると、この説明は成り立たない。
 cは、単に「孫の誕生」ではなく「命名」の件を母親から聞くことと連想の因果関係が明確でない。「孫の誕生」→「老齢」の連想ならわかる。だがここでは「命名」→「老眼鏡」という連想である。この因果関係はやはりよくわからない。
 そして、a、b、cいずれも③に続く脈絡が不明で、②の内容がこの詩の中に置かれている充分な理由を説明してはいない。
 また、a、b、cの解釈は「老眼鏡に」焦点があっている。それに対してd、eは、「老眼鏡」そのものではなく、それが「はじめてのおくりもの」であったという点に重心が置かれている。つまりa、b、cでは「老眼鏡」の出自は問題ではなく、単に「ノブコちゃん」が買ったものでもかまわないことになる。それに対してd、eでは「おくりもの」がたとえばネッカチーフなどでもかまわないことになる。
 どう考えるべきなのか。
 d、eは「はじめてのおくりもの」であったという点から連想の機制を説明しようとしている。それぞれなかなか巧みな考察であり、授業では称賛に値する。だが筆者の考えでは、これはいわば考え過ぎである。そうだとすると、そうした読みに読者を誘導する情報が、ほかに詩中に示されるはずだからである。それが書かれていないことが不自然だと感じられるのである。
 ではなぜ「おれ」は「はるか」という名から「老眼鏡を 思い出した」のか。

続く

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