2018年11月3日土曜日

『Jellyfish』-苦苦な青春映画

 東京に出ている娘に、東京国際映画祭の上映作品を観ないかと誘われた。そういえばこの間テレビで東京国際映画祭の紹介番組をやっていたのだが、縁がないものと見逃した。見ておけば良かったとは思ったものの、見たとてこれを紹介したかどうはわからない。これは上映映画の大半を占めるコンペティション部門ではなく「ユース」部門という、若者向けの映画の一編なのだった。
 若者向け? いやはや、ほろ苦いというよりも苦苦いというべき青春映画だった。
 父親がいないのに、母親はまるで生活能力がなく、小学生の妹弟の面倒を見ながら家計を支えている15歳の主人公がコメディアンを目指す物語、という紹介だったが、予想したような、苦労の中で成功を夢見てがんばる、というような明るい希望の感じられる物語ではなかった。
 むしろ救いのない状況の中で、かろうじて逃避的にコメディのネタをノートに書くのだが、状況はどんどん悪化していくばかりで先が見えない。とりあえずラスト、すべてを放棄して逃げだそうとしてやめた主人公を、コメディを奨めた芸術科目(らしき)教師が追いかけてきて寄り添うという場面で終わるのが救いではある。精神的に寄りかかれる大人が辛うじてでも見つけられたのは、そこまでの物語の状況からすれば随分と救いだし、彼の仲立ちによってこの先に公的な機関の介入が、それなりに状況を改善させるはずだという見通しも立つ。
 
 それにしても、同じ年ごろの登場人物を描いて『君の膵臓を食べたい』などと頭の中で比較してみると、まるで違う世界の物語だなあと、その落差に眩暈がする。
 『膵臓』の、主人公の孤独もヒロインの死も、甘い。「厳しい」の対義語としての「甘い」ではなく、「苦い」の対義語としての「甘い」である。それを味わうことが快感であり、かつ不健康にもなりかねない、嗜好品のもつ性質としての「甘い」である。不幸が甘いのである。
 それに比べてこの映画の苦いこと。この「良薬」は一体何に効くというのか。多分「人間」を見るという経験になるという意味で。
 物語の背景に社会が感じられるかどうかという点でも、恐ろしく対照的な2作である。『Jellyfish』には、明らかにその町の置かれた社会的状況が物語に透けて見える。寂れた地方都市やそこに存在する社会的格差が。
 それに比べて『膵臓』はどこに存在する場所で起こった物語だというのだ(そういう意味であれは「ファンタジー」である。)。それを目的とした物語でない以上、そんなことを求めても仕方がないのだろうが、それにしてもなんと子供じみたお伽噺であることか。甘い。
 それだけに、『Jellyfish』の「苦い」状況の中で生きる主人公の必死さが、観終わって思い出しても胸に迫ってくる。

 東京国際映画祭という催しは今までまるでノーチェックだったが、来年からは事前に計画して、もうちょっとまとめていくつかの作品を観ようかという気になった。
 映画館で映画を観ることの経験の特殊さはやはり尊重していい。

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