2019年5月19日日曜日

『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たるエンターテイメント

 GW中に娘の住んでいる近くの映画館で観ようと試みた際は客席が予約で埋まっているという予想外の事態に断念し、あらためて家の近くの映画館で。こちらはさすが田舎というか、公開後二週間だからというか、遅い上映時間のせいか、まるっきりガラガラだった。
 さて、映画はなんと2本続けてこれもまた神保哲生と宮台真司の対談で先に聞いてしまっているのだった。そしてそれ以上の見方ができるわけではないのだった。
 だが映画の全体はそれでいいのかもしれない。これは確かに「そういう」映画だ。それは宣伝用の映画の紹介の時点でわかっていたことだ。
 半世紀ちょっと前のアメリカ、特に南部における黒人差別がテーマになっていて、一方に、自身もある程度は差別される立場にあるイタリア系移民トニーと、高度な教育を受けた黒人ミュージシャン、ドンの友情を描く。もうこれだけである。ただそこにLGBT問題まで絡めるとは思わなかったが、そこまでやって、いかにものアカデミー作品賞だ。
 そして、これは後からわかったのだが、監督はコメディ作品が得意な監督なのだそうだ。なるほど、2時間を超える映画で、始終笑えた。しかもそれはギャグというよりもハートウォーミングな笑いで。
 最初の爆笑は、車の中で「本場」ケンタッキーフライドチキンを食べるところ。手掴みでフライドチキンを持つのを嫌がるドンにトニーがチキンを押しつけるのは、悪気のないトニーの無神経さと無邪気さで、それに釣られて、まあ悪くないと思わされるドンの変化もいい。骨を窓から投げ捨てるのが「決まり」だというのに釣られていく感化もいい。そういう映画だ。
 だが空容器を投げ捨てるのを見てギョッとするのは観客だけではない。ある意味では「自然物」である鳥の骨と違って、それはアリなのか? との疑念が湧いたところでドンの呆気にとられた顔でカットが変わって、バックしてきた車のドアが開いて、そのゴミを拾う。
 さすがにそれは許さないドンと、そのこだわりには従わざるを得ないトニーが、そうしてお互いに妥協点を探りながら、お互いが変わっていくのだ。
 このエピソードには伏線がある。SAの無人売店で売り物の石が地面に落ちているのをトニーが拾い、それをドンが咎める、というエピソードが先に置かれているのだ。それは泥棒だと言うドンは、地面に落ちていたのを拾っただけだというトニーの主張を受け入れずに金を払いに行くよう命ずる。雇い主に逆らえずに金を払って戻ってきたトニーに、正しいことをする方が気持ちがいいだろう、と言うドンに対し、それじゃあ意味がないんだよと毒づくトニー。つまりトニーはその石が金を払ってでも買いたいのではなく、「落ちていたのを拾っただけ」という言い訳で自分の物にできる「得した」感を得たかっただけなのだ。
 このドンの妥協なき潔癖感があって、車を戻してのゴミ拾いがある。不満気なトニーの顔も文句も想像できるが、それは映さない。その演出の見事さに笑わされつつも正しいことが行われることはドンの言うとおり「気持ちが良い」。
 そしてその石の方も、二人の友情の証として最後まで重要な小道具として使われる。アカデミー賞では作品賞と共に脚本賞も獲っているのも納得の、実にうまい語り口だ。

 一方、アメリカでは「白人の救世主」「マジカル・ニグロ」といったステレオタイプの物語であるとの批判があるそうな。なるほど、日本人には意識しにくいが、アメリカ映画的な文法に馴染んでくるとそうした見方ができ、なおかつそれが意識しにくいという問題があるのか。
 だが、そんなステレオタイプとしてドンとトニーを捉えるには、二人とも血が通ったキャラクターとして魅力的でありすぎる。そもそも「白人の救世主」と「マジカル・ニグロ」は同居するものなのか? 矛盾するんじゃないのか? 一方だけが描かれる時が問題なんじゃないのか?
 『チョコレートドーナツ』でも、その時代のゲイ差別はこんなにひどかった、という糾弾が現代の我々の鑑賞にほとんど関係がないように、アメリカの人種差別が背景にあっても、それは知識としては必要だしこの映画を通した学びもまたあるのだが、これらの映画はそうした社会批判的視点によって感動的なのではなく、もっと普遍的なものだ。
 お互いに距離を縮めながら変わってゆく二人が友情を結ぶ。それを周囲が許容する。実にわかりやすく幸せな映画なのだった。

 ところで、主役の一人、ヴィゴ・モーテンセンは『ロード・オブ・ザ・リング』の時は、まるで『ウォーキングデッド』のダリル(ノーマン・リーダス)かと思わせるロン毛のイケメンだったのだが、こちらはまるでピエール瀧だった。ほんとうにそのままピエール瀧が演じても良さそうな人物だった。 

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