2017年9月13日水曜日

「羅生門」とはどんな小説か 7 -不自然な心理をどう読むか

承前 6「心理の推移」を追う意味

 「老婆の論理」に「勇気が生まれてきた」根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは無意味どころか、そうした作品把握自体の障害となるはずである。一方で「心理の推移」には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。「心理の推移」が「勇気が生まれてきた」に決着する、どのような機制を考えなければならないか。
 具体的な授業展開を追ってみる。まず生徒に、下人の心理の読み取れる表現をマークさせる。最初に登場するのは①「Sentimentalisme」である。以下細かい状況説明は省くが、②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」から「迷い・逡巡」→③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」から「慎重・不審・緊張」→④「六分の恐怖と四分の好奇心」→⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」→⑥「勇気」→⑦「安らかな得意と満足」→⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」→⑨「冷然」→⑩「勇気」が抽出できる。
 ②や③は適宜言い換えやまとめをして確認する。また⑥の「勇気」は該当の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものである。
 この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか。
 ④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理である。
 だが、既に⑤の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。不自然である。この不自然さは、その「憎悪」が理解できないとか共感できないとかいうより、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。」という作者による客観的な分析と(それこそ激しく)衝突するからである。充分に合理性があるというのなら激しさの強調は論理的に納得される。だが訳が分からないはずだと言いつつ、その「憎悪」が不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。これはどうかしている。
 かててくわえてそれが「あらゆる悪に対する反感」と抽象化されたうえで、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼやかされ、一般化されているにもかかわらず、短絡的に断定される。
 この、念入りに表現された不自然さは何を意味しているか。
 この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。老婆の行為を「悪」と決めつける理屈は、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じて憤っているのだろうという見当はつく。だがそれに素直に納得することはできない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。だからこそここに「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを指摘することなく、その「憎悪」について、それをどのようなものだと考えるべきかの情報を読者に提示してみせる。
 認識に合理性がないこと。対象が一般化されていること。短絡的に決めつけていること。にもかかわらずその情動が過剰であること。
 こうした情報をどのように受け取るべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。
 この部分の下人に生じた「憎悪」について、複数の指導書からそれを説明した語句を列挙してみる。「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」である。作者は下人の「憎悪」をそのようなものと印象づけようとしているのだ、というのが従来の理解である。こうした理解は「老婆の論理」を得た下人が引剥をするという行為に及ぶ必然性を説明するところまで、そのままつながっていく。悪を憎悪することと悪を選ぶことは、ともに「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」なのである。
 こうした解釈には同意できない。この部分の「憎悪」と、最後の行為の選択は質の違うものだという感触がある。では、この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか。この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか。

 同様に⑦の「安らかな得意と満足」の脳天気さも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。これは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。
 だが問題は、⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問がまるで解決していないのにこの「満足」が訪れて、「憎悪」が忘れ去られるという点である。というか、なぜ「老婆が死人の髪の毛を抜くか」は「下人には、…わからなかった」にもかかわらず、そもそも問題視されてもいないのである。
 ⑦「安らかな得意と満足」については、それが、事態の解決とかかわりのない、というより事態が何なのかという把握に関係のない、という点を確認しておこう。

 ⑧「失望」ももちろん不自然だが、ここでは、下人が何を望んでいたことを示しているのかを確認しておこう。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。これはなぜか、というより、これは何を示しているか。

 以上のような「心理の推移」を追う授業過程は、どこの授業でも行われているのだろうが、問題は、それが「行為の必然性」につながっていないという点である。だが、上に見たような念入りに書かれた不自然は、それがこの小説にとって意味あることを示している。そこに、「行為の必然性」、つまりはこの小説の主題にかかわる論理を見出さなければならない。

次節 8「勇気」を持てなかったのはなぜか

2017年9月11日月曜日

「羅生門」とはどんな小説か 6 -「心理の推移」を追う意味

承前 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

 もう一つ、筆者に長年不可解だったのは、「羅生門」を扱う授業において「下人の心理の推移を追う」という読解が必須の授業過程であると見做されていることである。
 むろん小説の授業において「登場人物の心理を読み取る」ことは定番の授業展開である。だがそれも先述の「例文として読む」に終わるのではなく、「作品として」読もうとするならば、そうして読み取った心理が、何事か主題にかかわるのでなければならない。つまり、そのような登場人物の心理を描くのは、この小説がどんな小説だと言っていることになるのかという論理的帰結がなければならない。
 だが心理の推移から、引剥をするという「行為の必然性」を説明している論はほとんどない。引剥は「生きるため」に為されるはずである。だからこその「極限状況に露呈する人間悪」だったのではなかったか。そしてそれを可能ならしめたのが老婆の提示した論理である。
 つまり「極限状況」を前提に「老婆の論理」が示されれば下人の「行為の必然性」は説明されるのであって、物語中盤を占める「心理の推移」はこうした主題把握には無関係なのである。
 一方で「羅生門」における下人の心理は、どうみても意識的に詳細に描かれている。心理の推移を追おうとすると、その不自然さがいやでも目につく。読者は「憎悪」にも「侮蔑」にも共感できないばかりか、その変化の急激さ、振幅の大きさにもついていけないと感ずる。だからこそそこに意味を見出さずにはいられない。
 にもかかわらず、この「心理の推移」は「極限状況に露呈する人間悪」という主題把握によっては「行為の必然性」を説明しないのである。
 それどころかむしろ、不自然なこの「心理の推移」そのものが下人が極限状況におかれているという主題の把握の障害となる。「心理の推移」を追うほどに、下人が極限状況におかれてなどいないことが強く感じられてくる。
 たとえば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと極限状況に置かれているという設定と相反する。本当に「極限状況」に置かれてるなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している(いや、たぶん図っている)。「極限状況」があっさり忘れられてしまうことを「もちろん」と言い放つのである。
 あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても極限状況に置かれている者のそれではない。
 つまり、状況設定としての「極限状況」と、最後に提示される「老婆の論理」を短絡させて下人の行為の必然性を説明するところにのみ「極限状況において露呈する人間悪」などといった主題が想定できるのだが、授業において途中の「心理の推移」を丁寧に追っていけば、そうした主題把握が小説本文の細部を無視した図式的なものであることがわかるはずなのである。

 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにして引剥をさせるという「行為の必然性」を支えている、という理屈である。
 こうした論を立てるならば、この小説は「下人が盗人になる物語」ではない。引剥をする=盗人になるという選択も、推移の一場面に過ぎないことになるからである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。吉田精一の言う「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」である。
 だが推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえるが、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそれをした、ということになるのだから。
 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥をする下人の行為には、何かしら、この物語における「必然性」があるのだろうという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる「心理の推移」の過程における一つ一つの「心理」とは違う、この物語の核心に関わっているという感触である。この行為は、どう見ても意識的に描かれる「心理の推移」の決着点としての選択でなければならない。

 次節 7 不自然な心理をどう読むか

2017年9月9日土曜日

「羅生門」とはどんな小説か 5 -「老婆の論理」の論理的薄弱さ

承前 4「極限状況」の嘘

 先に、下人の行為は老婆の論理によって可能になった、と書いた。だが、可能になることとそれをすることの必然性とは違う。可能になりさえすればそれをするというのなら、可能になった者がそれをすることの必然性は問うまでもない。だがその動因となるべき「極限状況」を認めることができないのだから、可能になったからといって行為の必然性はないのである。
 それでもやはり、引剥をするという下人の行為には、それをなぜ敢えてするかという必然性が、この小説をどのようなものとして読むか、つまり小説の「主題」と密接に関わる論理があると見なさなければならないだろうという確信はある。次のように書く作者がその「必然性」を充分に意識していないとは思えない。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
「これ」とは老婆の長広舌であり「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。下人の裡には確かにこのとき、盗人になる勇気が生まれてきている(そう書いてある)。だが、勇気が生まれさえすれば当然それを実行しようとするだけの動機は、実感に乏しい「極限状況」によっては支えられない。
 そして物語の中盤では、奇妙な心理の推移が描かれた末に、物語の結末では、いわば思い出したかのように「勇気が生まれてきた」からといって引剥をするのである。これを、下人にとっての必然性とともに、作者にとっての必然性、つまりこの小説をどんな小説として描こうとしているか、という疑問として考察すべきである。だから問題は、なぜ「勇気が生まれてきた」かである。
 こうした疑問が従来の「羅生門」論において看過されているのは、それが自明なことだと思われているからである。上の引用にあるように、老婆の話を聞いたから、である。老婆の語る論理が、すなわち下人の心に「ある勇気」を生んでいるのである。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理的整合には何ら疑問はない。
 だがこの論理は、すでに述べたように状況の「極限」性が薄弱であることから破綻している。それだけではない。よく考えてみると、老婆の語る理屈が勇気を生んでいるという因果関係にも、実は納得できるほどの根拠はないように思える。
 老婆の語る、いわゆる「悪の肯定(容認)の論理」は次のようなものだ。
せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。
だがこれは、冒頭で下人が羅生門の下で考えていた次のような逡巡とどう違うのか。
「(生きるために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
老婆の認識は、それを聞く以前から下人が理解していた状況認識と変わらない。「老婆の論理」とは、ただそれを「しかたがない」「大目に見てくれる」と開き直っているというだけである。他人が開き直っているのを見て、自分もかまわないと思ったというだけのことが、どうして「新たに老婆の論理を得た」ことになるのか。
 念のため。もちろん「老婆の論理」にはもう一つ、「悪人に対しては悪が許される」という論理が含まれている。だが「悪人に対しては」などという限定をしてしまえば、すべての人間を対象にした盗みをはじめとする悪を肯定する論理になり得ないことは明白だし、相手を選ぶのなら、避けられない「極限状況」という設定とも論理的に矛盾する。
 問題となる「老婆の論理」とは「極限状況」におかれて為す悪は許される、というものだ。この「緊急避難」の論理は、最初から下人に認識されている(「しかたがない」という文言は下人の思考にすでに見える)。わかっていてできないだけだ。なおかつ「極限状況」は描かれていない。
 「極限状況」ばかりか「老婆の論理」にも、「行為の必然性」を支えるだけの論理的強度はない。

 だがそれでは「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」はどういうことになるか。ここからは、やはりどうみても老婆の語る理屈が下人の心に勇気を生んだのだ、という因果関係が読みとれるように見える。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
という一節を、誰もが
老婆の話を聞いて、下人の心には盗人になる勇気が生まれてきた。
と言い換えてしまう。そしてこの言い換えられた一文は、「羅生門」の粗筋を語る時に必ず登場する。つまりぎりぎりまで細部をそぎ落とした粗筋においても、「勇気が生まれてきた」ことは決して落とせない展開上の要素なのである(もちろん「盗人になる決意をした」などという言い換えには既に解釈が含まれている)。なぜならこの一節こそ「行為の必然性」を支えていると考えられているからであり、「行為の必然性」こそこの小説の主題を支えているからだ。
 そしてそこに必ず「老婆の話を聞いて」という冠が被さる。粗筋を語る時には、物語の展開の必然性が露呈するから、「勇気が生まれてきた」の原因を語らないと落ち着きが悪いのである。
 粗筋とはすなわち物語の把握である。その小説をそのようなものとして捉えたことのあらわれが粗筋である。すなわち「勇気が生まれてきた」のは「老婆の話を聞いた」からだ、という因果関係を我々はそこに見ているのである。なぜ「勇気が生まれてきた」のか、という問いは最初から看過されている。
 では「老婆の論理」が「行為の必然性」を支える強度を持たない、つまりそこに因果関係があると認めないとすると、「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」という明白な一文をどう考えればいいか。
 「これを聞いているうちに」とは必ずしも「これを聞いて」ではない(まして「これを聞いたから」ではない)。これは因果ではなく、単に時間経過を示しているだけなのだ。
 つまり「勇気が生まれて」くる動因は老婆が長台詞を語り出す前の展開中にあるのであり、長広舌が始まる時点で「行為の必然性」は既に準備されているのである。

 次節 6「心理の推移」を追う意味

2017年9月7日木曜日

「羅生門」とはどんな小説か 4 -「極限状況」の嘘

承前 3「行為の必然性」の謎

 「こころ」について語られる言説に「エゴイズム」という言葉の登場しないことが稀であるように、「羅生門」について語るときに必ず登場する言葉が「極限状況」だ。それはなんだか、自明な、疑ってはならない前提と考えられているように見える。
 もちろん論者の言う「極限状況」が何を指しているかはわかる。「おれもそう(引剥)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた下人の状況である。都は荒れ果て、羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。下人は行くあてもない。こうした状況を誰もが「極限状況」と称する。
 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。これのどこが「極限状況」なのか。
 昔から「羅生門」がわからないと感じていたのも、「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかったからだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。読者としては、物語を受け取る上で登場人物が不道徳な行為をすることに対する抵抗のハードルは低い。引剥をした、だからどうした。
 したがって「羅生門」を読んでも「飢え死にか盗人か」が問題として設定されているようには感じない。それなのに「羅生門」を論ずる上で法律概念である「緊急避難」などを持ち出すのは見当外れである。
 小説は読者にとって一つの体験である。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、すべての要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。上記の主題把握はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。極限状況における悪は許されるか? もしもそれをしなければ死んでしまうという状況で悪いことをするのは許されるでしょうか? そんな問いはこの小説の読者に提示されてはいない。読者は極限状況だと説明されるだけで、極限状況を生きることはない。現に飢えていない下人はまるで「極限状況」に置かれてなどいない。論者がそうした問題設定を観念的に創作しているだけである。
 「生きるためには悪をなすことがゆるされるのか」という「緊急避難」的問いを主題とするためには、大岡昇平の「野火」や武田泰淳の「ひかりごけ」のような「極限状況」を読者に「体験」させなければならない。

 だが下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実である。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。
 だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。下人がなぜそんなことをするのか分からないと読者が感ずるのはそれゆえである。
 それはすなわち、作者が下人にそれをさせることによって何を言っているのか分からないということである。つまりは小説の主題がわからないのである。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を晒すはずである。「極限状況」を体験させるはずである。それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在のもつエゴイズム」などと大仰に言われても、そんなものはこの小説を読んだ実感とはかけはなれているのである。
 吉田精一、三好行雄に始まる従来の主題把握は、「羅生門」という小説を読むという体験に相応した感触がまるでしない。そのような主題把握によって「羅生門」を教材として、授業で読解することが価値あることだとは思えない。読解の先にそのような主題が浮上してくるという見通しが立たないからである。

 では「羅生門」の主題として「自我の覚醒」「自我の解放」を読み取るのはどうか。ここには可能性がありそうな感触があって、一時期はそうした方向で授業することが魅力的に思えていた時期もあった。
 だが結局こうした主題把握にも納得できない。現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」が、そのような主題と齟齬をきたすからである。「黒洞々たる夜があるばかり」の「下人の行方」に「覚醒」だの「解放」だのといった肯定的な(あるいは脳天気な)主題を読むことはできない。
 そもそも「盗人になる」ことを「覚醒」だの「解放」だのという小説を、どうして高校生に読ませたいのか。そんな、にわかに「道徳」的な疑問を筆者が抱いてしまうのも、それが小説の読解として抽出された主題ではなく、観念的に構成された主題だからである。

 では、そもそも「引剥をする」ことは「盗人になる」ことではないと考えてはどうか。老婆の着物を剥ぎ取るという行為は、老婆の論理をそのまま老婆に投げ返すことを意味しているのであって、それは下人が盗人になることを決意したのではない、という解釈である。だからこそ下人は、原話にあるように老婆の抜いた死人の髪や死人の着物には手をつけることなく、老婆の着物だけを剥ぎ取ったのである。
 だがそれでは、結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。これでは、物語の主人公が老婆になってしまう。自らの利己的論理、詭弁によって自らが被害者になる物語。星新一や「ドラえもん」によくある因果応報譚。

 引剥ぎという反社会的な行為を敢えて肯定的に描いているのだとか、実はこれは老婆の物語なのだとか、アクロバットが楽しいのはそれが見事だと思えるうちであって、腑に落ちなければ与太話に過ぎない。
 結局、「極限状況」を認めることができない以上、従来の理解では「行為の必然性」はわからず、したがって主題もわからない。

 次節 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

2017年9月5日火曜日

「羅生門」とはどんな小説か 3 -「行為の必然性」の謎

承前 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

 「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
 この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
 といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
 だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
 それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「羅城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
 一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
 問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
 もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
 だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
 別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
 だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
 さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。

次節 4「極限状況」の嘘

2017年9月3日日曜日

「羅生門」とはどんな小説か 2 -教材としての価値、「主題」を設定する必要性

承前 ○ ブログ的前置き
 
 「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
 教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
 問題は「教材として」である。
 「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
 といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
「羅生門」の内容は以上のようであるが、これから、主題はなどと教師が押しつけるのはやめたほうがよさそうだ。主題は、などとまとめたり論じたりするのは、教師ではなく学習者たちでなければならないように思われる。各人がそれぞれ読みとり、それらが対比され、より高次元の主題が、話し合いのうちにまとまれば、それは最も望ましい姿であろう。そこで、ここでは主題はなどと論ずるのはひかえておく。(筑摩書房「国語Ⅰ 学習指導の研究」より「主題と構成」鈴木醇爾・猪野謙二)
 
「羅生門」の主題は、作品を「どう読むか」「どのような角度からとらえるか」によって、見解がさまざまに分かれることだろう。(略)いずれにせよ、「どの主題が正しいか」ではなく、大切なのは「どのような〈読み〉に基づいて、そのような主題が見いだせたのか」という、その〈読み〉のプロセスなのである。(三省堂「国語Ⅰ 指導資料」長谷川達哉)
正論である。
 国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
 だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
 むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
 だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
 そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
 もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
これまで三十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教師が必ずといっていいほど授業で扱ってきたこの作品は、しかしその主題がまだ確定していない。(桐原書店「探求 国語総合 指導資料」)
 
「羅生門」の主題は、一見明解なようだが、実はかなり幅があり、一つにしぼるのは困難のように思われる。(第一学習社「新訂国語総合 指導と研究」)
だからこそ、先の「正論」がある。いろいろに考えられるから、限定するのはやめよう、生徒に考えさせよう、そのことにこそ価値がある…。正論ではあるが、欺瞞的でもある。そんなことが本当にできるのか。それを理念通り実施している授業がどれほどあるだろう。実際に、生徒からどのような「主題」が提出されるというのだろう。
 だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
 やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
 明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。

 一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
 「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
 だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
 あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
 だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。

いささか駄言を弄した。次回からもうちょっと具体的な読解に踏み込む。

 次節 3 「行為の必然性」の謎

2017年9月1日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 1 -ブログ的前置き

 これから数回、授業で扱う「羅生門」について論ずる。
 呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
 我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
 いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
 「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
 そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
 もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
 どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
 なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。

 そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
 誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
 題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。 

 次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

「羅生門」の解釈について関心のある方はこちらをお読みください。