ブログの開設に先立って、縁あってツイッターを始めたのだった。
だがやはりツイッターというのは、基本、モバイルから発信するものなのだろう。ガラケーからはメールも億劫で、ましてツイッターなど利用する気になれない。パソコンを開いて呟くくらいなら、ブログに書いてしまえばいいのだ。どうせ長くなるんだし。
というわけで最初の頃のいくつかのあとはすっかりご無沙汰なのだが、フォローの方はしてる。
が、
最近「残響のテロル」の番組最後のクイズの答えを公式サイトで確認するには、公式ツイッターのフォローをしなければならないということで、やむなくフォロワーになったのだが、そうするとツイッターのタイムラインに「残響」関係のツイートが溢れかえってしまい、もともとフォローしている人のツイートが埋もれてしまう、という、まことに迷惑な状態になっていた。
さて、放送も終わって、フォローを辞めたら、いきなりタイムラインがすっきりして、もともとフォロワーだった人のツイートだけが残った。あーすっきり。
そもそも三人しかフォローしてないのだ。
この「すっきり」には「残響のテロル」に対する不満が鬱積していたことの反動でもある。途中で、どうもつまらないぞ、これは、と思いつつも渡辺信一郎だしなあ、と最後まで見たのだが、やっぱりつまらなかった。怒りさえ覚えた。あの、いろんな物語からパクっただけの、どこかで見たことのある物語の断片を寄せ集めただけの矮小版「社会派サスペンス」が企画として通ってしまう不毛を、誰か止めろよ。作画が最後までレベルを落とさなかっただけにいっそう、脚本・演出とのギャップに怒りを覚えるのだった。
つっこみどころはいくらでもある。だが一つだけ挙げる。三島リサの存在が、この物語のレベルを果てしなく引き下げている。ヒロインの存在が物語に必須だとしても、結局このキャラクターにかかわっている部分がどこもかしこも足をひっぱって、物語のテンションを引き上げさせない。
2014年9月30日火曜日
2014年9月28日日曜日
推薦入試の小論文
とりあえず推薦入試を受ける予定の息子の小論文をみている(見ている? 看ている? 診ている?)
毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。
さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。
毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。
さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。
2014年9月26日金曜日
『ファンタスティック・フォー 銀河の危機』『心霊写真』
もともと観た映画の記録をしようという目的で始めたブログなので、言いたいことがあろうがなかろうが、映画のことだけは書く。
…などという言い訳をしなければならないくらいどうでもいい映画だった。とりあえずテレビで放送するSFとホラーは、とりあえず気になるので片っ端から観てしまうんだが、そういえば、ハリウッドでのリメイクが決まったとかいうタイのホラー映画『心霊写真』を観たのもこのブログ開設以降だったことを思い出した。
とりあえずホラーとSFってのは、素材をどう扱うかという共通した基準で観られるので、その決着が気になってしまうのだ。ブログ開設直前に観た『トライアングル 殺人ループ地獄』というどうしようもない邦題の、題からしてB級のホラーは、予想に反してよくできていて、この夏休みの最大の収穫だったが、タイミングが悪くてブログに書かれずにいたので、とりあえず子供たちに見せようとHDに入れたままにしてある。
それに比べて、「心霊写真」とか「ファンタスティック・フォー」とか、途中を早送りにせずにはいられないくらいにどうでもいい映画だった。まあ厳密にいえばちゃんと全編を観ないでそんな評価をするのはフェアではないのだが、もう端々が「どうでもいい」という感じを発しているのだ。「ファンタスティック・フォー」の第一作も観ているはずで、しかも悪い印象ではなかったような記憶が微かにあるのだが、この忘れっぷりはやっぱり「どうでもいい」映画だったんだろうな。
「心霊写真」ともども、内容を紹介するのも分析して評価するのも億劫なほど「どうでもいい」。
…などという言い訳をしなければならないくらいどうでもいい映画だった。とりあえずテレビで放送するSFとホラーは、とりあえず気になるので片っ端から観てしまうんだが、そういえば、ハリウッドでのリメイクが決まったとかいうタイのホラー映画『心霊写真』を観たのもこのブログ開設以降だったことを思い出した。
とりあえずホラーとSFってのは、素材をどう扱うかという共通した基準で観られるので、その決着が気になってしまうのだ。ブログ開設直前に観た『トライアングル 殺人ループ地獄』というどうしようもない邦題の、題からしてB級のホラーは、予想に反してよくできていて、この夏休みの最大の収穫だったが、タイミングが悪くてブログに書かれずにいたので、とりあえず子供たちに見せようとHDに入れたままにしてある。
それに比べて、「心霊写真」とか「ファンタスティック・フォー」とか、途中を早送りにせずにはいられないくらいにどうでもいい映画だった。まあ厳密にいえばちゃんと全編を観ないでそんな評価をするのはフェアではないのだが、もう端々が「どうでもいい」という感じを発しているのだ。「ファンタスティック・フォー」の第一作も観ているはずで、しかも悪い印象ではなかったような記憶が微かにあるのだが、この忘れっぷりはやっぱり「どうでもいい」映画だったんだろうな。
「心霊写真」ともども、内容を紹介するのも分析して評価するのも億劫なほど「どうでもいい」。
2014年9月23日火曜日
『ウォンテッド』『幸せのレシピ』「おやじの背中」
文化祭後の柔道がこたえて、体はきつかったが、どこにも出かけない、急ぎの用もない、贅沢な休日。休日に子供たちと食べる昼食の幸福。
この休日に見終わった映画。
「見終わった」とは妙な言い回しだが、実際録画されている映画をどれもこれも途中まで見ていて、さてどれから見終えるか、という感じなのだ。
夏休み中に録画したものだから一ヶ月越しの鑑賞でようやく見終えた『Wanted』(ティムール・ベクマンベトフ監督)は、まあ完全に映像を見るだけの映画だったな。このブログの開設のきっかけとなった「マレフィセント」のアンジェリーナ・ジョリーは、『トゥーム・レイダー』以来、タフなアクション女優ばっかりやってるような気がして、作品数が多いから多分そういうわけではないんだろうが、『ソルト』とこれと、実におんなじような役どころだった。モーガン・フリーマンが深みのないこの程度の悪役なのも残念。これも、映画館で観ればもっと楽しめるのかもしれないが、だからといってこんな脚本にこんな金をかけていいのか? ティムール・ベクマンベトフは『ナイト・ウォッチ』もやはり「驚愕の映像」で、でも面白かったという印象もない。
一方『幸せのレシピ』(スコット・ヒックス監督)は、あまりによくできているので、途中まで観ては子供たちにも見せたくて戻って再生したりして、最初の方は3回観てるところもあるが、ようやく最後の3分の1を娘と見通した。良かった。実に「幸せ」だった。
だがこれは『Wanted』に比べてそんなに良くできた物語だろうか。同程度に単純なお話のような気もする。気になってネットの映画評など見てみると、低評価の人の言い分も実に的確な気もする。
それでも観ていて幸せな気分になれるのは、なにより細部の演出が見事だったからだ。美しい抑揚によって書かれた文章が、読むだけで良い気分にさせてくれるように(ちょうどさっき向田邦子の文章を読んだので、それがイメージされている)、細部まで気配りの行き届いた画面が適切なテンポで展開していく映画は、観ているだけで気分がいい。こういうのは、「ドラマツルギー」とか言って物語の構造を考えたりして工夫していくだけでは生み出せない魅力で、ちょっと敵わんなあ、という気がする。言いたくないが「センス」というやつだ(ここは具体的な場面を挙げて分析すべきかとも思うが、それにはもう一度見直さなければならず時間がとれない)。
この休日に見終わった映画。
「見終わった」とは妙な言い回しだが、実際録画されている映画をどれもこれも途中まで見ていて、さてどれから見終えるか、という感じなのだ。
夏休み中に録画したものだから一ヶ月越しの鑑賞でようやく見終えた『Wanted』(ティムール・ベクマンベトフ監督)は、まあ完全に映像を見るだけの映画だったな。このブログの開設のきっかけとなった「マレフィセント」のアンジェリーナ・ジョリーは、『トゥーム・レイダー』以来、タフなアクション女優ばっかりやってるような気がして、作品数が多いから多分そういうわけではないんだろうが、『ソルト』とこれと、実におんなじような役どころだった。モーガン・フリーマンが深みのないこの程度の悪役なのも残念。これも、映画館で観ればもっと楽しめるのかもしれないが、だからといってこんな脚本にこんな金をかけていいのか? ティムール・ベクマンベトフは『ナイト・ウォッチ』もやはり「驚愕の映像」で、でも面白かったという印象もない。
一方『幸せのレシピ』(スコット・ヒックス監督)は、あまりによくできているので、途中まで観ては子供たちにも見せたくて戻って再生したりして、最初の方は3回観てるところもあるが、ようやく最後の3分の1を娘と見通した。良かった。実に「幸せ」だった。
だがこれは『Wanted』に比べてそんなに良くできた物語だろうか。同程度に単純なお話のような気もする。気になってネットの映画評など見てみると、低評価の人の言い分も実に的確な気もする。
それでも観ていて幸せな気分になれるのは、なにより細部の演出が見事だったからだ。美しい抑揚によって書かれた文章が、読むだけで良い気分にさせてくれるように(ちょうどさっき向田邦子の文章を読んだので、それがイメージされている)、細部まで気配りの行き届いた画面が適切なテンポで展開していく映画は、観ているだけで気分がいい。こういうのは、「ドラマツルギー」とか言って物語の構造を考えたりして工夫していくだけでは生み出せない魅力で、ちょっと敵わんなあ、という気がする。言いたくないが「センス」というやつだ(ここは具体的な場面を挙げて分析すべきかとも思うが、それにはもう一度見直さなければならず時間がとれない)。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズは恐ろしく綺麗だったし、アーロン・エッカートはかっこよかったし、アビゲイル・ブレスリンは可愛かった。それもまた優れた演出の賜物である。スコット・ヒックスは『アトランティスのこころ』でも、うまいなあと思って見ていたんだが、監督を覚えるに至らなかったが、これを期に心に留めておこう。
ところで思いのほか低い評価をする人の中で、元になっているドイツ映画を高く評価している人もいた。そうか、そういうのがあるのか。機会があったら観てみよう。
それに比べて「おやじの背中」の最終話は無惨だった。三谷幸喜があんな脚本を書いていいのか。登場人物の嘘がどんどん大がかりな展開になるというのは『マジック・アワー』でも『有頂天ホテル』でも実にうまく構成できていたのに、なんなんだ、このちゃちな展開は。ハラハラもドキドキもなくその無理さ加減にうんざりするばかりで、といって「笑いと涙」もなく。そして残念ながら小林隆はどうしようもなく大根だし。それを「味」だの「ほのぼの」だの「人柄」だのといって弁護する気には到底なれないのだった。
もうひとつ、億劫で見終わってなかった第8話の池端俊策も、これが紫綬褒章を受勲しているような脚本家のドラマかとがっかりだった。あながち演出のせいとも思えないほど、どこに魅力を感じればいいのかわからなかった。大泉洋の使い方も、決定的に間違ってる。彼には軽妙な演技をさせれば絶妙な味わいのある演技をする俳優なのに、それ以外に存在価値があるのか? 少なくともこのドラマではなかったと思う。
ところで思いのほか低い評価をする人の中で、元になっているドイツ映画を高く評価している人もいた。そうか、そういうのがあるのか。機会があったら観てみよう。
それに比べて「おやじの背中」の最終話は無惨だった。三谷幸喜があんな脚本を書いていいのか。登場人物の嘘がどんどん大がかりな展開になるというのは『マジック・アワー』でも『有頂天ホテル』でも実にうまく構成できていたのに、なんなんだ、このちゃちな展開は。ハラハラもドキドキもなくその無理さ加減にうんざりするばかりで、といって「笑いと涙」もなく。そして残念ながら小林隆はどうしようもなく大根だし。それを「味」だの「ほのぼの」だの「人柄」だのといって弁護する気には到底なれないのだった。
もうひとつ、億劫で見終わってなかった第8話の池端俊策も、これが紫綬褒章を受勲しているような脚本家のドラマかとがっかりだった。あながち演出のせいとも思えないほど、どこに魅力を感じればいいのかわからなかった。大泉洋の使い方も、決定的に間違ってる。彼には軽妙な演技をさせれば絶妙な味わいのある演技をする俳優なのに、それ以外に存在価値があるのか? 少なくともこのドラマではなかったと思う。
2014年9月21日日曜日
文化祭 「白犬伝 ある成田物語」
ブログの位置付けを「随筆集」のようなものとすると、そうおいそれとは更新ができないのだが、「備忘録」や「日記・日録」のようなものとすれば、ことの大小にかかわらず毎日書かねばならない。そう、「気の利いたこと」などと考えず。だがなかなかそういうわけにもいかず、更新が滞っている。
それより、例年、文化祭といえば大抵は音楽系の発表場所で過ごすのだが、今年もまた大半の時間を体育館で過ごした。
3年と1年に演劇の発表クラスがあって、3年生の演劇は体育館だったので、その準備や裏方の仕事ぶりや、劇の舞台そのものを見ることができた。劇自体は「白雪姫」のディズニー映画版をもとにしたもので、王子様のキスで白雪姫が生き返るところで劇が終わってしまう、30分ほどの簡略版、といったところである。基本的には小人たちや魔女役の男子生徒(なのだ、やはり)の個人技で、半ばは内輪受けのギャグで観客を沸かせる、といった体のクラス演劇ではある。だが、うちのような学校でクラス演劇をやることの困難はわかるだけに、担任の熱意と指導力と、それに応えた生徒たちの感じているであろう充実感は、見ていてやはり羨ましかった。体育館には恐らく四百人を超える観客がいたと思う。クラス全員でそのことを誇っていいと思った。
だが私が今回の文化祭で最も印象的だったのは演劇部の舞台だった。地区大会での実績をみる限り、そこそこの舞台にはなるんだろうと思っていたが、あんなに感動させられてしまうとは、申し訳ないが予想していなかった。
恐ろしく手抜きのポスターにある「白犬伝」という題名は、それがパロディであり、コメディなのかと思わせるが、それにしては「~ある成田物語」という副題が不審だ。リードには成田空港闘争を背景にした物語だというからこれはもしや社会派の演劇なのかと思って見始めると、主人公の白い犬のモノローグから始まる。やはりコメディタッチではある。が、早々に登場人物の一人が交通事故で死に、ドキリとしていると、そこから生ずる人間ドラマはシリアスである。
登場人物の何人かは知っている生徒が演じているので、どうにも冷静には見られない。頑張って練習してきたんだろうなとか、緊張して失敗しなければいいなとか(実際、結構噛み噛みだった)、そもそもこちらが不安定な心理状態で見ているせいか、些細な物語の起伏にどうにも感情が動いてしまって、やたらと感動しやすくなっていたのだった。笑うよりもむしろ胸にこみあげる場面が多かった。
とりあえず文化祭が終わった。もう昨日のことだ。Bloggerは投稿日時を指定できるから、今日書いたものを「昨日」投稿することもできるのだが(今までのいくつかもそうだ)、素直に今日の日付でアップしようか(「今日」のうちに書き終われば)。
クラスの方は細かく書き込むようなネタはない。アイス・ジュース販売などという不本意な参加形態に基本的に愛着を抱けないクラス発表だったことは、自分の力不足、戦略の失敗という点で反省するとして、一旦そう決まったからには、可能な限り良い活動であったという記憶を残したいものではある。
その点、全体としての生徒の活動は、実に好意的に見ていられた。何人かの、積極的に動ける生徒たちの行動力、責任感、気配り、アイデア、献身、クラス全体としてのノリ…、どれも見ていて微笑ましく、うんざりさせられたり苛立たしい思いをさせられたりというようなことがほとんどなく過ごせた三日半(準備日から数えて)だった。二日間で8万数千円の売り上げのある金銭のやりとりがあって、仕入れから計算した予定売り上げと、完売しての手元の現金が二百円ちょっとのズレで決算できたのも、上出来と言っていい(完全に一致するのを望むのは無理というものだ)。みんな金銭の管理に責任感をもって臨んだのだろうと、素直に誉めたい。
その点、全体としての生徒の活動は、実に好意的に見ていられた。何人かの、積極的に動ける生徒たちの行動力、責任感、気配り、アイデア、献身、クラス全体としてのノリ…、どれも見ていて微笑ましく、うんざりさせられたり苛立たしい思いをさせられたりというようなことがほとんどなく過ごせた三日半(準備日から数えて)だった。二日間で8万数千円の売り上げのある金銭のやりとりがあって、仕入れから計算した予定売り上げと、完売しての手元の現金が二百円ちょっとのズレで決算できたのも、上出来と言っていい(完全に一致するのを望むのは無理というものだ)。みんな金銭の管理に責任感をもって臨んだのだろうと、素直に誉めたい。
それより、例年、文化祭といえば大抵は音楽系の発表場所で過ごすのだが、今年もまた大半の時間を体育館で過ごした。
3年と1年に演劇の発表クラスがあって、3年生の演劇は体育館だったので、その準備や裏方の仕事ぶりや、劇の舞台そのものを見ることができた。劇自体は「白雪姫」のディズニー映画版をもとにしたもので、王子様のキスで白雪姫が生き返るところで劇が終わってしまう、30分ほどの簡略版、といったところである。基本的には小人たちや魔女役の男子生徒(なのだ、やはり)の個人技で、半ばは内輪受けのギャグで観客を沸かせる、といった体のクラス演劇ではある。だが、うちのような学校でクラス演劇をやることの困難はわかるだけに、担任の熱意と指導力と、それに応えた生徒たちの感じているであろう充実感は、見ていてやはり羨ましかった。体育館には恐らく四百人を超える観客がいたと思う。クラス全員でそのことを誇っていいと思った。
だが私が今回の文化祭で最も印象的だったのは演劇部の舞台だった。地区大会での実績をみる限り、そこそこの舞台にはなるんだろうと思っていたが、あんなに感動させられてしまうとは、申し訳ないが予想していなかった。
恐ろしく手抜きのポスターにある「白犬伝」という題名は、それがパロディであり、コメディなのかと思わせるが、それにしては「~ある成田物語」という副題が不審だ。リードには成田空港闘争を背景にした物語だというからこれはもしや社会派の演劇なのかと思って見始めると、主人公の白い犬のモノローグから始まる。やはりコメディタッチではある。が、早々に登場人物の一人が交通事故で死に、ドキリとしていると、そこから生ずる人間ドラマはシリアスである。
登場人物の何人かは知っている生徒が演じているので、どうにも冷静には見られない。頑張って練習してきたんだろうなとか、緊張して失敗しなければいいなとか(実際、結構噛み噛みだった)、そもそもこちらが不安定な心理状態で見ているせいか、些細な物語の起伏にどうにも感情が動いてしまって、やたらと感動しやすくなっていたのだった。笑うよりもむしろ胸にこみあげる場面が多かった。
物語は本当に成田空港闘争における1971年の「第2次行政代執行」を背景にしていて、やはり後へいくほど、笑うよりはシリアスなドラマが展開されるのだった。
だが、これが社会問題についてリアルに考えさせる物語になっていると単純に考えるわけにはいかない。というか、権力の横暴を単純に批判するような力が、直ちにこの演劇にあると言ってしまうのは危険だ。社会問題として真っ当に考えるならば、成田闘争における左翼運動の介入についても勘案したうえで評価しなければならないからだ。
それよりもむしろこの物語は、社会問題の複雑さに、家族間の人間ドラマを対置させ、そのいずれもの解決の見えなさに対して、主人公の犬がいわば「無垢」として機能することで一筋の救いを感じさせるところに魅力があると考えるべきだろう。もちろんそれが「無私」や「献身」といった安易なヒロイズムに見えかねないこともわかったうえで。
ただ、こんな真面目な問題を扱って、真面目になっている登場人物たちを動かしておいて、それでもうちのような学校の生徒に「何だか難しくて退屈な話だった」というだけでない感動を与える物語になっていたのは確かだった。
見に来ていた生徒の一人に、後で「演劇部の劇、良かったね」と言ったら、「本当に。何度も泣いちゃった」と言っていたのは、私の感想が他の観客にも共有されていたことを確信させたのだった。
だが、これが社会問題についてリアルに考えさせる物語になっていると単純に考えるわけにはいかない。というか、権力の横暴を単純に批判するような力が、直ちにこの演劇にあると言ってしまうのは危険だ。社会問題として真っ当に考えるならば、成田闘争における左翼運動の介入についても勘案したうえで評価しなければならないからだ。
それよりもむしろこの物語は、社会問題の複雑さに、家族間の人間ドラマを対置させ、そのいずれもの解決の見えなさに対して、主人公の犬がいわば「無垢」として機能することで一筋の救いを感じさせるところに魅力があると考えるべきだろう。もちろんそれが「無私」や「献身」といった安易なヒロイズムに見えかねないこともわかったうえで。
ただ、こんな真面目な問題を扱って、真面目になっている登場人物たちを動かしておいて、それでもうちのような学校の生徒に「何だか難しくて退屈な話だった」というだけでない感動を与える物語になっていたのは確かだった。
見に来ていた生徒の一人に、後で「演劇部の劇、良かったね」と言ったら、「本当に。何度も泣いちゃった」と言っていたのは、私の感想が他の観客にも共有されていたことを確信させたのだった。
さて、結局日をまたいでしまったのだが、冒頭に書いたとおり、文化祭が「昨日」であった日付でアップすることにするか。
2014年9月14日日曜日
喩え話 その2 ~スキーマ
続くのか。続くのである(「だけ」と言ったのに)。
昨夜は眠くて完結を断念したのだった。
人が何かを理解するとはどういうことか。
この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。
「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。
そこでさらに最近の喩え話一題。
『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から勧請 (分霊)を受けて分祀された神社を建てたということなのだ。この事態を生徒にどう説明したものかと悩んでいた先生と話していて思いついた喩え話。
昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。
追記
この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌?
昨夜は眠くて完結を断念したのだった。
人が何かを理解するとはどういうことか。
この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
スキーマ (英語: schema)とは、もともと図や図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。Wikipedia
新しい経験をする際に,過去の経験に基づいて作られた心理的な枠組みや認知的な構えの総称。Weblio辞典その他の参考リンク 1、2
道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。
「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。
そこでさらに最近の喩え話一題。
『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から
昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。
追記
この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌?
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