2019年8月16日金曜日

「I was born」を「読解」する 3 -文法的に考える

承前

 本筋から些か逸れるが、興味深いやりとりが期待できるので、少々寄り道する。
F 第五聯「文法上の単純な発見」とは何か。
これは読者にとって「謎」とは感じられないかもしれない。だがこの問いに適切に答えることは案外に難しい。
 たとえば「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」「I was born が受身形であること」といった表現で「文法上の単純な発見」を語ることはできない。問うているのは、「文法上の単純な発見に過ぎなかった」と限定されている認識である。「これはまだ序章に過ぎない」といえば、「これからの長大な展開」が想定されているし、「幻想に過ぎない」といえば、「現実」が想定されている。「~に過ぎない」は、言外の想定を背後に隠している。
 「文法上の単純な発見に過ぎない」という限定は、少年の認識を父親の認識から区別しているのだといえる。では父親が息子の言葉から読み取った認識とは何か。
 さしあたってそれを、いわば生命の神秘や真実といったような「哲学的な真理」とでも呼ぶべき認識だとしよう。だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」、あるいは「人間は生まれさせられるのだ」などという原文の表現は、「文法上の単純な発見」と「真理」が混ざっていて、そのままでは前者がどのようなものなのかを語ることはできないのである。
 「文法上の単純な発見」と「哲学的な真理」が混ざっている、あるいは重なっているとしたら、同一の表現のまま父親はそれを「哲学的な真理」として、少年は「文法上の単純な発見」として捉えたのだと考えればいいのではないか。
 だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」のどこが「文法上」なのか。
 では「I was bornが受身形であること」か。これなら「文法上」だ。
 だがこれは先生から「教わった」ことだ。この時彼が「発見した」ことではない。
 では先生から教わった文法上の決まりが、この時実感を伴ったと言っているのだ。
 だが「実感を伴った」とか「腑に落ちた」という感覚を「発見」と表現するのは違和感がある。
 一方で、少年が「やっぱり I was born なんだね」と言うときの「やっぱり」には、前からそうではないかと思われた何事かがあらためて確認できたというニュアンスがある。必ずしも明確な認識でなくとも、その時に「言われてみれば…」という、それに既知の感触をみとめたことを示すのが「やっぱり」という副詞である。
 つまり、この時の少年におとずれたのは「文法上」の認識でありかつ「発見」されたものでありかつ既知の感触も持っているのだ。それをどのように表現すれば「文法上の単純な発見」であると見なすことができるのか。
 いくつかの補助的な問いを用意しておいて、必要に応じて投げかける。
補 「I was born さ。受身形だよ。」とはどのような意味か。
厳密には国語の問題ではないではないが、補助的に確認しておく。
 英語における受身形=受動態は「主語 + be動詞 + 過去分詞」の形で表される。
 「was」が「be動詞」、「born」が「bear(産む)」の「過去分詞」である。したがって「I was born」は英語における受動態の文型である。
 もちろん少年が「発見」したのはこのことではない。「やっぱり」というのは「I was born」が受身形であることによって、前からそうではないかと思われた別の何事かがあらためて確認できたと言っているのである。その「何事」とは何か。
補 何が「やっぱり」だと言っているのか。
ここでもやはり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」こと、と言いたくなる。間違いではない。ここから「文法的な発見」を切り取るにはどのような表現が必要か。
 日本語における誕生を表す動詞「生まれる」が「I was born」と同じく受身形であるということである。「生まれる」が受身形であることは「文法的な発見」である。
 「英語を習い始めて」と始まり、「やっぱりI was bornなんだね」と語られるとき、「文法上の発見」とは、何か英語に関わる事柄に限定されて捉えられかねない。もちろん「発見」の端緒に英語の表現があることは確かだ。だがここで少年が「発見」した認識は、むしろそれまで慣れ親しんできた日本語に潜んでいた秘密である。だからこそ「やっぱり」と表現されているのである。
 あるいは「やっぱり I was born なんだね」に表れる、英語表現が受身形である「訳」がわかったのがこの時の「発見」なのだとしても、それは「真理」が英語の「文法」と直接に結びついたということではなく、あくまで日本語の「生まれる」の文法的な認識を経由することで生じた認識だと言わねばならない。
 だがこの「発見」は正しいか。「生まれる」は本当に「受身形」なのか。
補 「生まれる」が受身形であることを文法的に説明せよ。
 さしあたって「れる」が受身の助動詞のように見えるとは言える。このことを「文法」的に考えてみよう。
 比較の為に第六聯の最後の「死なれた」について言及しておこう。第六聯の最後の「死なれた」に含まれる「れる」は何か。
 品詞分解するならば、ナ行五段活用動詞「死ぬ」の未然形「死な」+「れる」の連用形+過去の助動詞「た」である。助動詞「れる・られる」が「受身・自発・可能・尊敬」の四つの意味を持つことは中学校で習っているし、日本語話者ならば自然にわかることだ。
 「死なれた」の「れる」は、少々わかりにくいが、消去法で「尊敬」である。わかりにくいのは、亡き妻に尊敬表現を使うことの妥当性、自然さにひっかかるからだ。だが、「受身」だととるには「お母さんが…死なれた」ではなく「(我々が)お母さんに…死なれた」でなければならない。「自発・可能」とは考えられないから消去法で「尊敬」だと考えられる。
 「生まれる」はどうか。例文を用いて確認してみよう。

a1 母が私を叱る。
b1 私は母に叱られる。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母に愛された。

a3 母が私を見る。
b3 私は母に見られる。

 aの文を受身形(受動態)に言い換えるには、主語と目的語「Aは(が)Bを」を入れ替えて「Bは(が)Aに」の形にし、述語の動詞(五段動詞「叱る」、サ変動詞「愛する」、上一段動詞「見る」)の未然形に受け身の助動詞「れる・られる」を接続して述語におく。
 「生まれる」という動詞は、この時の述語の形、「生む」というマ行五段自動詞の未然形「生ま」に受身の助動詞「れる」を接続した形と形態的に同じである。
 だが「生む」で右と同様の操作をしてみると、この動詞の特殊さがわかる。

a4 母は私を生んだ。
b4 私は母に生まれた。

 b4は、形式的に同じ操作をしたはずなのに、自然な日本語表現とは言い難い。無理にでも解釈しようとすると「私は母になる為にこの世に生まれ出た」というような意味としてかろうじて読めなくもないが、それでは意味がかわってしまう。
 同時に、「叱られる」「愛される」「見られる」が明らかに「動詞+助動詞」だと感じられるのに対し、「生まれる」は一語の自動詞と感じられる。「生まれる(うまる)」のような古い言葉では、語源的にも「生む」が先にあって、その受身形としての「生まれる」が徐々に一語化したというような変遷をたどることはできない。
 だから受身形であることを「僕」が示そうとすると「生まれさせられる」と言い換えなくてはならないのである。
補 「生まれさせられる」を文法的に解釈せよ。
 ラ行下一段動詞「生まれる」の未然形+使役を表す動詞「させる」の未然形+受身の助動詞「られる」である。
 「走らせる」などの使役形では「走る」のは相手である。自分が「生まれる」の行為主である以上、「生まれさせる」のは自分でない、自分を対象とする誰かである。端的には母親かもしれないし、産科医かもしれないし、それ以外の何かの抽象概念かもしれない。
 「生まれる」という行為が誰かの使役によって為されているのだと示し、その相手の行為を受動することで子供の「生まれる」という行為の受動性を示すのが「生まれさせられる」という使役受身表現である。
 誕生という事態が受身であることを「正しく言う」には、このようにもってまわった言い回しが必要だと感じられるのである。

 以上のことから「生まれる」という動詞は、文法的な操作による受身形と全く同じ形態をしながら、日本語の使い手にとっては、他の受身形とは何かしら違っているという認識もある、とひとまずは言える。
 一方で、受身文への変形も、操作によっては、「生まれる」がそれほど不自然でない文をつくることもできる。先ほどの「Bは(が)Aに」の「に」という助詞のニュアンスを、作用の方向性をはっきり示すように「から」「によって」と言い換えてみる。

a1 母が私を叱った。(a3 母が私を見た。)
b1 私は母から叱られた。(b3 私は母から見られた。)
b4 私は母から生まれた。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母によって愛された。
b4 私は母によって生まれた。

 b123「動詞未然形+受身の助動詞」の場合と同じ操作で作ったb4は、日本語として間違っているとはいえない。もちろん誕生が「母から」「母による」ことは当然すぎて、かえって言うことが不自然ではある(「生まれる」という、一見受身の助動詞「れる」を含んでいるように見える動詞の特殊性も、そこから生じたのかもしれない)。だが少なくとも先の単なる「に」の言い換えのように別の意味になってしまうわけではない。
 つまり、「生まれる」は語源的にも口語文法的にも「動詞未然形+受身の助動詞」であると言い切ることはできないが、一方で見かけ上は受身としての形態的特徴を持ち、意味的にも受身の意味合いを持っているのも確かなのである。
 ここまで考えて再び問う。「文法上の単純な発見」とは何か。どう答えたらいいのだろうか。
例1 「生まれる」という動詞が、「受身形」の形態的特徴をもち、意味的にも「受身」であること。                                  
 英文法を学ぶことによって、少年がもともと感じ取る可能性をもっていた右のような認識が、語る言葉を得たのである。そこから、次のような言い方もできる。
例2 誕生という事態が、英語・日本語どちらも「受身形」で表現される(受身形でしか表現できない)ということ。
 これが、「文法上」であり「発見」であり既知の感触ももっている、この時の少年の認識である。
 ここでは、「文法上の単純な発見」を「哲学的な真理」から切り離すにはどのような表現が必要かを考えてきた。この過程は「I was born」という詩の読解というより、国語科の学習として意義がある。
 そしてこの考察は少年と父親の認識のずれについても考える手がかりを与えてくれる。
 だが、こうして表現された「文法上の単純な発見」は本当に「に過ぎない」と言うほど「無邪気」で「単純な」認識なのだろうか。
 この発見を少年に促したものは、境内ですれ違った妊婦から得た「世に生まれ出ることの不思議に打たれ」るという心理状態である。それを受けての「発見」は「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳」と表現されている。「〈生まれる〉という言葉が まさしく〈受身〉である訳」ではない。
 つまり「文法上の発見」は「生まれる」という語の不思議さであるとともに、そのまま不可避的に「生まれる」という現象の不思議さをも少年に感じさせずにはおかないのである。大人である読者もまた、少年の言葉から既に父親が感じたのと同じような「真理」の感触を感じ取ってしまうし、まして再読の際には、もはやこの詩が全体として訴えているところの「生き死にの悲しみ」まで含めて理解してしまう。
 つまり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」とはそうした「真理」と「文法上の単純な発見」が混ざった形で表現されているのである。

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