承前
前回「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」という認識から、少年にうちに発生した「文法上の単純な発見」がどのように切り出せるかを文法的に考察した。それは少年の認識と父親の認識のズレを明らかにしたいという狙いからだった。
ではこの「不思議」は父親にはどのように受け止められたのか。あらためて中心となる二つの問いについて考えてみよう。
先ほど確認したようにB「父親の感情」についてはAから推測するしかない。まずはA「『文法』と『蜉蝣』をつなぐ論理」を明らかにしなければならない。
ここからがいよいよ核心である。できる限り生徒に任せ、粘り強い考察と話し合いによって「論理」をつむぐのを待ちたい。
前回「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」という認識から、少年にうちに発生した「文法上の単純な発見」がどのように切り出せるかを文法的に考察した。それは少年の認識と父親の認識のズレを明らかにしたいという狙いからだった。
ではこの「不思議」は父親にはどのように受け止められたのか。あらためて中心となる二つの問いについて考えてみよう。
先ほど確認したようにB「父親の感情」についてはAから推測するしかない。まずはA「『文法』と『蜉蝣』をつなぐ論理」を明らかにしなければならない。
ここからがいよいよ核心である。できる限り生徒に任せ、粘り強い考察と話し合いによって「論理」をつむぐのを待ちたい。
とはいえ生徒たちが端緒を捉え損なって議論が進まない様子が見えたら、手がかりを与える必要もあろうし、議論が活発に行われているとしても、その後で全体で議論するためには考察の方向性をしぼって論点を明確にする必要がある。
例えば五・六聯の脈絡は逆接か順接か、などという選択肢を示してもいい。あるいは論理関係を示す次の四つの型、(1)対立関係、(2)同値関係、(3)因果関係、(4)付加関係、などを示してもいい。いわば(1)は逆接で(2~4)は順接だ。
さらに誘導する。
補 第五聯と第六聯の主題を、対照的な言葉で表現せよ。
これはこれで難しい問いである。「聯の主題」という言い方にもうなじめない。「それぞれの聯は、言ってしまえば何の話?」などと聞いてみる。むろん「文法」と「蜉蝣」である。だがこれでは「対照的な言葉」ではない。では?
いよいよとなれば、「第五聯は〈生まれる〉についての文法的な考察だ。では第六聯は?」などと誘導する。第六聯では蜉蝣の産卵が主題となっている。とすれば、第五聯と第六聯の主題は「生まれる/生む」という対比関係にあるといえる。
読解の為に文章中の対比要素を読み取るのは、文章読解の基本的な技術である。「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があるというのが筆者の持論なのだが、この詩における「生まれる/生む」という対比はどれにあてはまるだろう。
いよいよとなれば、「第五聯は〈生まれる〉についての文法的な考察だ。では第六聯は?」などと誘導する。第六聯では蜉蝣の産卵が主題となっている。とすれば、第五聯と第六聯の主題は「生まれる/生む」という対比関係にあるといえる。
読解の為に文章中の対比要素を読み取るのは、文章読解の基本的な技術である。「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があるというのが筆者の持論なのだが、この詩における「生まれる/生む」という対比はどれにあてはまるだろう。
補 第五聯「生まれる」と第六聯「生む」はどのような関係で対比されているか。
「生まれる/生む」という対比を「対立」「類比」「並列」という関係の型でそれぞれで言い換えてみよう。
・対立 「〈生まれる〉ことは…だが〈生む〉ことは…である」
・類比 「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも…である」
・並列 「〈生まれる〉や〈生む〉は…である」
「類比」と「並列」を区別しなくてもかまわない場合もある。「類比」は異なったカテゴリーに属する二項に共通性を見出して並べる対比であり、「並列」は最初から同一のカテゴリーに属する複数項をまとめて論述する対比である。ここでは「生まれる」と「生む」は「異なったカテゴリー」とも「同一のカテゴリー」ともつかないから、ここでは「類比」と「並列」を区別しなくともよい。
この「…」に代入できる内容を詩の中から抽出するのである。
だが実は選択肢はそれほど多くない。この詩の、散文詩という形式がいくらかその選択肢を見えにくくしているとはいえ、言葉の絶対量が少ない詩というテキストの形式が、必然的に選択肢の幅を狭めている。第五聯の言葉をつぶさに検討していけば、どの言葉が第六聯にも適用できるかはわかる。「受身」もしくは「自分の意志ではない」である。これらの言葉を第六聯に適用したときに、父親の言葉はどのようなものとして解釈できるのか。
先ほどの対比形式にあてはめてみよう。
・対立
・対立 「〈生まれる〉ことは…だが〈生む〉ことは…である」
・類比 「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも…である」
・並列 「〈生まれる〉や〈生む〉は…である」
「類比」と「並列」を区別しなくてもかまわない場合もある。「類比」は異なったカテゴリーに属する二項に共通性を見出して並べる対比であり、「並列」は最初から同一のカテゴリーに属する複数項をまとめて論述する対比である。ここでは「生まれる」と「生む」は「異なったカテゴリー」とも「同一のカテゴリー」ともつかないから、ここでは「類比」と「並列」を区別しなくともよい。
この「…」に代入できる内容を詩の中から抽出するのである。
だが実は選択肢はそれほど多くない。この詩の、散文詩という形式がいくらかその選択肢を見えにくくしているとはいえ、言葉の絶対量が少ない詩というテキストの形式が、必然的に選択肢の幅を狭めている。第五聯の言葉をつぶさに検討していけば、どの言葉が第六聯にも適用できるかはわかる。「受身」もしくは「自分の意志ではない」である。これらの言葉を第六聯に適用したときに、父親の言葉はどのようなものとして解釈できるのか。
先ほどの対比形式にあてはめてみよう。
・対立
「〈生まれる〉ことは受動だが〈生む〉ことは能動である」
「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないが〈生む〉ことは自分の意志である」
・類比・並列
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも受身である」
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも自分の意志ではない」
補 「生まれる/生む」という対比は「対立」か「類比・並列」か。
とはいえ本当はこのように迂遠な手続きを踏まずに、生徒を信頼して問Aを粘り強く考えさせるべきではある。第五聯と第六聯をつなぐ論理とは何か。だがそうして自由に考えさせ、話し合わせたうえで、このような誘導をすることは、やはり生徒の思考に刺激を与え、討論を活発にするのは確かである。選択肢は対立を鮮明にするからである。 さて、筆者に最初に見出された文脈は「類比」だった。「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないんだね」と言う息子に父親は、「〈生む〉という行為もまた自分の意志ではない」と言っているのだ。
どういうことか。
「自分の意志」の最も根源的なところに位置するのは「生きたい(死にたくない)」という欲求である。
一方、父親が語る母蜉蝣は「口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり」であり、「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる」ような存在である。こうしたのありようは、個体の生命維持を最優先する原則からすれば不合理である。自ら生きたいと思うことが「自分の意志」ならば、蜉蝣にとって「生む」ことは確かに「自分の意志ではない」のである。
ならば「生む」という行為は何によっているのか。これを先ほどの「文法的な発見」の考察を使って問うてみる。「生む」ことが受身だとすると、少年の「正しく言う」に従えば「生ませられる(「生む」の未然形+使役「せる」の未然形+受身の「られる」)」である。この場合の為手は何なのか。
どういうことか。
「自分の意志」の最も根源的なところに位置するのは「生きたい(死にたくない)」という欲求である。
一方、父親が語る母蜉蝣は「口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり」であり、「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる」ような存在である。こうしたのありようは、個体の生命維持を最優先する原則からすれば不合理である。自ら生きたいと思うことが「自分の意志」ならば、蜉蝣にとって「生む」ことは確かに「自分の意志ではない」のである。
ならば「生む」という行為は何によっているのか。これを先ほどの「文法的な発見」の考察を使って問うてみる。「生む」ことが受身だとすると、少年の「正しく言う」に従えば「生ませられる(「生む」の未然形+使役「せる」の未然形+受身の「られる」)」である。この場合の為手は何なのか。
補 母親に子供を「生ませる」ものは何か。
「運命」「宿命」「神」の他、「子供」というアイデアも出る。子供は母によって「生まれさせられ」、母は子供によって「生ませられる」のである。
一方、父親の言う「目まぐるしく繰り返される生き死に」とは、生命の循環という、言ってみれば「自然の摂理」とでもいったようなものである。詩の論理から言えば、「生む」ことは自らが生きることを放棄して、自然の摂理に殉ずるということなのである。したがって母は「自然の摂理」によって子供を「生ませられる」。
問Aについての結論は、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」がいずれも「自分の意志ではない=受身」であるという「類比」関係によって結ばれている、ということになる。
とすれば問Bはどういうことになるか。
問Fで考察したとおり、息子の言葉は、彼にその意図がなかったとしても、「文法上の単純な発見」にとどまらない生命の真実とでもいうべき認識に届いている。これが父親に届いていないはずはない。これが、先ほど墓前であらためて思い起こした妻の死と、それに結びつく蜉蝣のエピソードについて、あらたな意味を与えたのである。
つまり父親はここで、妻の死を、自然の摂理に殉じたものとしてあらためて捉え、「自分の意志」を超えた摂理のうちに循環する生命の、それゆえの崇高さを息子に伝えようとしているということになる。
このような思考に、レッテルとしての感情語を安易に貼り付けることは難しい。
それでもかろうじて詩中から挙げるならば「淋しい(詩集再録時は『つめたい』」「せつない」「息苦しい」「痛み」などの言葉はどれも、「近代的個人」がもつという「自由意志」などを超越した自然の摂理の前で、命をつなぐことの厳しさ、重さを受け止めた思いを反映している。生命に対する敬虔な思いでもあり、問Eで考察した、自らの選択の結果としての妻の死を受け止めるための器をあらたに受け止めた感慨でもある。
これらは、それを話す父親の心情の断片であり、同時に聞かされた息子の心情でもある。
そしてまた読者にもその認識が手渡されているのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿