2016年7月9日土曜日

『レイクサイドビュー・テラス 危険な隣人』 -確かにビデオスルー

 隣にサイコパスが引っ越してきて、徐々に相手の狂気に脅かされる恐怖…とかいうパターンなんだろうと思っていると、まあそのとおりではある。
 が、サイコパスは引っ越してきた側ではなくて、引っ越してみると隣に住んでいたのがサイコパスだった…というパターンだった。しかも物語の最初はそちらのサイコパス側の視点から描かれていたから、最初のうちには、引っ越してきたあいつらが…と観客は思ってしまう。一種のミスリーディングによる意外性。
 一方で、その「サイコパス」たるサミュエル・L・ジャクソンは、最初のうちなかなかにユーモアも良識も職業意識も頼り甲斐もありそうで、とうてい問題がありそうには思えなかった。ただつきあうには面倒だと感じさせる違和感も微妙に描かれていて、隣人同士の対立がエスカレートする過程は巧みに描かれていると感じた。
 それには二つの要因が付加されている。
 一つは黒人差別の問題だ。人種間の対立、とくに被差別側が加害者側になることが一種の説得力を生んでおり、単なる「サイコ野郎」ではないキャラクター造型を可能にしている。
 もう一つは、折しも起こった山火事が、徐々に迫ってくるという設定だ。これがカタストロフとシンクロして、悲劇への傾斜に説得力を与えている。
 ということで、安っぽくはないのだが、だからといって何かものすごく爽快感とか感動があるというものでもなく、これがビデオスルー作品だというところには実に納得がいくのだった。

2016年7月8日金曜日

『マン・オブ・スチール』 -スーパーマン映画の不可能性

 スーパーマン映画に興味はなかったが、ザック・スナイダーには興味はある。『300』『エンジェル・ウォーズ』と見て、映画を手放しで賞賛する気にはならなかったが、映像の斬新さには目を瞠った。『Dawn of the Dead』のリメイクがデビューだというのは後から知った。本家に及ぶべくもないとはいえ、悪くないリメイクだった。
 だがまあ、今回も映像の凄さに感銘が比例しない。
 「悩めるヒーロー」像は今さら新しくない。最近は「スパイダーマン」シリーズ、ちょっと古くなると「エヴァンゲリオン」、物心ついたときから平井和正がそういうのを描いていた。そこにスポットがあたっているようだが、そうしたテーマが深められているようには思えない。
 ではストーリーが、波瀾万丈、スリルとサスペンスでドキドキするか? ヒロインとのロマンスにドキドキするか? 笑えるか? ほのぼのするか? 感動するか?
 しない。
 スーパーマンの物理的な、数値的な巨大さを描けば描くほど、スリルはなくなっていくというこのアンビバレンス。格闘を見ていても、どれが致命的なのかの実感がまるで湧かない。どうせいくら激しい物理的負荷を受けても無事なんだろ、と思えてしまう。
 街が激しい破壊を受けて、一体何十万人が死んでるんだろうと思われるのに、直接には死者は描かれない。死にそうになる人物が描かれるが、だからもうサスペンスはない。この状況で今更なんだ? と思ってしまう。
 だから、たぶんスーパーマン映画を面白く描こうとするなら、ドラマにしては駄目なんだろう。ひたすら豪快で爽快なヒーローの活躍を描くしかないんじゃないかと思う。

2016年7月3日日曜日

『その男 ヴァン・ダム』 -粋なヴァン・ダム讃歌

 どこかで、ジャン・クロード・ヴァン・ダムが自分自身を演ずるセルフパロディの映画があると聞いたことがあって、放送予定で見つけて、これか、と。
 ヴァン・ダムに特に思い入れはなく、代表作のあれやこれやも観ていないんだが、比較的最近『エクスペンダブルズ2』で重要な役どころをやっているのをみて嬉しくなったものだった。
 さて映画は、冒頭の長回しから比較的よくやっているぞと感心しないでもないんだが、微妙にグダグダだなあと思っていると長回しの最後にヴァン・ダム自身が「全然駄目だ。俺はもう47歳だ、ああいうのは無理だ」と言うという見事な落とし方をする。ファンだというタクシー運転手のおばちゃんに言いたい放題言われて口ごもるやりとりや、郵便局強盗立てこもり事件をある程度まで見せておいてから、もう一度時間を巻き戻して同じ事件を内側から描いてみせるなど、映画としてかなりうまい。単なるおふざけの映画ではない。
 単なるどころか、まるでシリアスな映画なのだった。確かにあちこちは笑えると言えないこともないのだが、それよりはるかにシリアスでペーソス溢れる映画なのだった。
 それはそうだ。かつて売れっ子のアクション・ムービーのスターだった男が中年になって、出演作がB級映画ばかりになって、娘の親権を争う裁判で負けそうで…悲哀に満ちた設定ばかりだ。
 そしてその中でヴァン・ダムが、最後の最後でヒーローとなるかというと、一瞬なるかと思いきやそれは幻想で、現実にはやっぱり悲哀に満ちた、でもわずかなハッピイエンドでしめる、という、映画自体にも、そしてヴァン・ダムにも、大いに好意的な気分を残して終わる映画なのだった。

2016年7月2日土曜日

『ザ・ビーチ』 -パラダイス創造の失敗

 『28日後…』の、『127時間』の、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイルだから、評判の芳しくないことは何となく知ってはいたが、ここはとりあえず観てみることにした。
 確かに映画としてはやはりものすごくうまい。ダニー・ボイルである。こういうふうに「映画」の文体を確立している人ではあるのだ。
 だがそのダニー・ボイルにして「失敗作」と言われる要因は諸々あると言わざるを得ない。
 ディカプリオに興味はないから、むろんそこを期待して観ているわけでもない。ヒロインとの恋愛エピソードは、はっきりと邪魔である。いるのか? あれ。
 「狂気」とか言う単語が聞かれる映画のことだから、『蠅の王』的な、孤島におけるコミュニティの崩壊を描くストーリーなのかと思っていると、まあそうではあるのだが、そこのところは詰めが甘いお話ではある。
 では、映像を見るしかないか。確かに『127時間』も映像はきれいだった。『28日後…』を最初に観たときも、ホラー映画なのに、この映像のきれいさは何なんだとびっくりした。まして『ザ・ビーチ』はそれが売りのひとつである。だがそのために観るか? 環境ビデオでもあるまいに。

 それでもいくらか面白かったのは、「楽園」を維持するために何を選択しなければならないかについて、意外とシリアスに選択を迫られるところだ。だがこれが「意外と」と思われるくらいには全体が甘いということなのだが。
 やはりお話の浅さが致命的なのだ。人死にを出しておいて、しかもそこにはっきりと関わっておいて、ラストの日常への復帰がハッピーエンドのように描かれるのは何事だ?
 こんな風に安易にあの閉鎖的なコミュニティが存続できるなんて現実的じゃない、と感じさせていると、ちゃんとそれが崩壊する、という現実感覚くらいはいくらか認めてもいい。だがそれをラストでノスタルジックに描くのはどうみても駄目だ。
 そういう意味では、例えば文化祭前夜を延々繰り返す『うる星やつら ~ビューティフル・ドリーマー』や、夏休みを延々繰り返す『ハルヒ』の『エンドレス・エイト』は、終わりが約束された非日常であるからこそ、それがパラダイスのように描かれるのを、ノスタルジックに描くことを許されてもいた。
 たぶん、『ザ・ビーチ』も、前半のコミュニティと孤島の生活が、後からノスタルジィを感じさせるくらいに魅力的に描かれることが意図されていたはずで、単にそれが失敗したということなのだろう。
 パラダイスの創造に失敗したのは、サル(コミュニティのリーダー)というより、映画の制作スタッフである。

2016年6月15日水曜日

『ウェールズの山』 -上品なイギリス映画

 第一次世界大戦後のウェールズ。
 イングランドの測量士が訪れて、地元の人々が「山」と信じている「土地の盛り上がり」を測量し、それが地図の習慣によれば「丘」であることを告げる。土地の人々は誇りにかけて、それが「山」と呼ばれるところまで盛り土すべく、土を桶に入れて列をなして頂上に登る。努力の結果、測量士はそれを「山」と認める。
 それだけの話。
 始まったとたん、その語り口のうまさにニヤニヤさせられる。風景と音楽の美しさ。登場人物のやりとりの軽妙さ。
 ヒュー・グラントの、軟弱だが人の良さそうな好青年ぶりも、実直な牧師もいい。
 が、後へ行くほどどうでもいい感じになってしまった。
 こういうのは、観ている側のこっちの受け入れ状況のせいかもしれない。映画の罪ではなく。

2016年6月8日水曜日

『スーパー8』 -尻つぼみな高品質エンターテイメント

 公開当時、評判の良かったこの映画を、機会があれば観たいとずっと思っていた。といってレンタルするでなし、放送の機会に録画してようやく。
 題名は8人の超能力少年のことでもあるかとか思っていたのだが、8mmフィルムのことなのな。映画少年たちの自主映画作りという設定は、それだけで映画ファンの感情移入を誘う。
 加えて、見始めてしばらくの列車事故のシーンで「おおっ!!」となり、その後の緊張感のある展開も、青春映画としての甘酸っぱさも、レベルの高いエンターテイメント映画だと興奮していた。
 だが、モンスターの姿が露わになるのと比例して(反比例しているのか?)、つまらなくなっていく。ラストはすっかりがっかりして終わった。
 問題の「物体X」が、憎むべきモンスターであることと同情すべき宇宙人であることのバランスの収まりが悪い。どちらでもあることのアンビバレンツが精妙に描かれているというのではなく、単にどっちつかずでしかない。同情するにはモンスターとして憎むべき行為をさまざましているのに、宇宙に帰れて良かったと素直に喜べない。憎むには、打ち倒すカタルシスがあるわけではむろんなし。
 しかもその結末に向けては、サスペンスもなにもなくなっていくばかりだし。
 なぜだ?

2016年6月1日水曜日

『奇跡の人』 -すごい演技者の競演

 娘が、ここのところ「ガラスの仮面」の「奇跡の人」編あたりを読んでいて、じゃあ、本家を観ようということで、舞台版は未見だが、久しぶりの『奇跡の人』、映画版。だが舞台版も映画版の二人がオリジナルキャストだというので、カメラワークはともかく、ほとんど舞台を観るようなつもりでいいんじゃなかろうか。
 サリバン先生役のアン・バンクロフトがアカデミー賞を獲っているのは知っていたが、ヘレン役のパティ・デュークの方もそうだったのは、今回初めて知った。二人の演技がすさまじさには納得の受賞なのだが、そもそも、舞台劇という出自がその演技レベルを要請しているのだろうとも思う。
 ついでに「奇跡の人」が、三重苦を克服したヘレン・ケラーを指しているのではなく、そうした「奇跡」をもたらした人、サリバン先生を指しているのだということも今回初めて知った。だからアカデミー主演女優賞はアン・バンクロフトで、パティ・デュークは助演女優賞なのだった。
 
 クライマックスの、例の井戸の場面の直前、躾が成功したかに見えたヘレンが、食卓についてナプキンを何度も床に落とすシーンで、わざとヘレンをカメラに背を向けさせたままにするカメラワークはスリリングだった。表情が見えない分だけ、その意図をはかりかねていると、サリバンが「私たちを試している。様子を見ているのだ」とその行為を解説する。なるほど、と思うとともにそのあとの展開をドキドキして見守ってしまう。
 あれは舞台でも同様に観客席に背を向けた配置でテーブルに着席しているんだろうか。だとしたらそれもすごい演出だし、映画オリジナルだとしたらやはりすごいアイデアだ。