2018年5月23日水曜日

『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない

 子守り(The Sitter)のために雇った若い女性が、その家の主人に対するストーカーだったという、まったくそれだけの話。
 家庭内における、常軌を逸した人の恐怖といえば『ルームメイト』とか、最近では『The Visit』だが、もちろん比ぶべくもない。
 無論それほどの期待をしたわけではないが、こういう、まったく予備知識のない、しかも放送枠的に基本的にB級だろう作品に、思いがけない拾い物があることを期待しても、まあほとんどかなえられないことはわかっていたのだが。
 もちろん問題は脚本だ。あまりのひねりのなさが残念ではある。やはりもっと工夫を凝らしてほしいと素朴に思う。
 といって時折お目にかかる、腹立たしいほどのひどい作品などではない。こういう、明らかに低予算のB級映画でさえ、例えば『ソロモンの偽証』くらいのグレードの邦画よりも、はるかに「まとも」にできているのだった。出演者の演技も、演出も。
 どこかしらの配給会社が買うだけのレベルではあるということなのか、米映画の地力なのか。

2018年5月12日土曜日

『パシフィック・リム』-ひたすら想定内

 新作公開と、『シェープ・オブ・ウォーター』のアカデミー作品賞受賞に乗せてテレビ放送。実は初めて観る。
 さすがに映像は手間のかかり方といいイマジネーションといい、すごかったのだが、それはまあ最初からそこを期待している以上、想定内で、しかも物語がまた想定内なのだった。想定内であることすら既に想定内なのだ。それはもう、最初からベタな怪獣映画、巨大ロボット映画をやりたいのだからそうに違いないのだが、やっぱりなあ、という感じ。
 そこらじゅうが観たことのあるいろんな映画だの特撮テレビ映画だのアニメだのの感触なのだが、映像の凄さとドラマの浅さのアンバランスは、最近でいえば『言の葉の庭』の感触と似ている。
 『スーパーマン』映画の時にも感じたのだが、スケールが大きすぎると、活劇が肉体的な実感を超えてしまって逆に無感覚になってしまう。そのくせ、物理的なありえなさばかりが気になって。
 巨大ロボットの手がビルのフロアを横切っていくのをビル内部から写した映像と、芦田愛菜のあまりのうまさがわずかに映画的な感銘。

2018年5月10日木曜日

『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか

 『The Visit』の「三つの約束」も、どうしてそんな本編とかみあわない惹句を宣伝に使うのかわからないが、この邦題もどうしたことか。もちろん原題の『HUGO』で日本公開するのは勇気がいる。マーチン・スコセッシというだけで問答無用に期待させてしまうほどの映画受容の土壌は日本にはない。となると多少なりとも内容を想像させるような邦題を、ということなんだろうが、だからといって、ヒューゴ、別に発明してないじゃん、という観終わった観客のつっこみをどうするつもりなんだろうか。配給会社の担当者。
 スコセッシといえば最近では『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』、その前は『ギャング・オブ・ニューヨーク』、その前は『ディパーテッド』か。『タクシー・ドライバー』を観なおそうと録画したのだが失敗して3分の2くらいのところで突然録画が切れていて、はっきりした感想が固まらないのだが、まあとにかくいずれも『HUGO』の感触とつながらない。強いていえば『ギャング』の、街一つを映画のために作ってしまう、人工的な世界観が近い感触だとはいえる。
 それでも、冒頭のリヨン駅構内、とりわけ壁の中の、おそらくCD処理を混ぜた長回しとジェットコースターのようなカメラ移動は、とにかく映画の視覚的効果を追究することに執心していて、ドラマを描こうとしているようにみえる『タクシー・ドライバー』の監督のものとは思えない。
 どうも妙だとは思っていたが、映画情報によるとスコセッシ随一のビッグ・バジェットで、しかも3D映画だというではないか。なるほどそれであの世界観。視覚効果。
 ではドラマの方はどうかというと、それほど感動するようなものでもなかった。批評家の評価が高いらしいが、これは映画中に溢れる映画への自己言及的愛情のせいではあるまいか。
 物語中では、こだわる対象が絡繰り仕掛けと本と映画と、どうもバラけたように感じられて、今一つその思い入れに乗れなかった。狙いはわかるんだけどなあ、という感じ。
 映画への自己言及と言えば『The Visit』のPOV手法を用いて、主人公たちを映画作りをしている少女に設定するのも、シャマランの自己言及だが、どちらかというとそちらの方に共感もし、映画的にも大いに楽しめたのだった。

 調べてみると邦題は、原作本がすでに『ユゴーの不思議な発明』と邦訳されていて、映画もそれに倣ったということなのだろう。映画らしいいい加減な邦題、と思ったのだったが。出版業界もか。それとも原作ではそれなりの「発明」が描かれているのだろうか。

2018年5月8日火曜日

『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー

 M・ナイト・シャマランの、最近作の一つ前の、低予算スリラー。
 映画宣伝に掲げられている「三つの約束」が意味不明で、映画会社め、余計なノイズを入れやがる、と些か腹立たしいが、それは映画の罪ではない。
 POV手法に対する個人的な好感は、作り手の工夫がストレートに感じられるからだ。こんな時までカメラを回すのかよ、とか、そんなに都合よくカメラの視界に重要なものが映るかよ、とかいう突っ込みは、厳しくはすまい。
 この映画については、白石晃士的なフェイクドキュメンタリー的な面白さはないが、怖い目に遭う本人達(姉と弟)の心情に感情移入できるという意味で臨場感を増す効果はある。
 そうなればもう面白い。充分に怖いし、その状況に対峙する姉弟の健闘も好もしい。
 『サプライズ』ほどのハードアクションは期待するでもなし、比較としては『ドント・ブリーズ』だが、これはさすがに結末の波状攻撃で『ドント・ブリーズ』が上手だったが、そもそもこれは『ドント・ブリーズ』が特別にすごいという話であって、『The Visit』のエンディングはそれとは違って、これもまた出色の後味の良い終わりだった。

 それにしても、宇多丸さんの言う通り、これは子供の成長を素直に描くという点では『アフター・アース』とまったく同じテーマの、いわばジュブナイル映画だったのだが、あちらのつまらなさに対するこの映画の面白さはいったい何事だ。
 ユーモアのあるなし、というのは無論大きいが、『アフター・アース』に描かれた成長が、あまりに観念的であったことが大きいと思われる。あちらでは乗り越えるべき敵が強大過ぎて、恐怖から目を逸らさないとかいう実行命題が非現実的なのだ。だから課題の解決による成長が観念的にしか感じられない。
 それに比べるとこちらは、充分に対峙可能な恐怖であり、しかも充分に怖い。むしろ『アフター・アース』の恐怖に比べて現実的であるだけに一層怖い相手に勇気を振り絞って対峙するという行為が、説得力のある成長を感じさせるのだ。

2018年5月3日木曜日

『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ

 第二作を観たのが比較的最近だったりもして、テレビ東京の「午後のロードショー」を録画したのが間違いだった。じゃあレンタルだったら良かったというとそうでもないのだろうが。
 どうやら作品自体の評価も、1、2作目よりも低いらしいが、片手間で観ているこっちの鑑賞態度の悪いことを棚に上げても、放送上のカットの問題は大きい。テレビ放送だという配慮で、問題のシーンをカットしてしまって、この映画の味わいを損なっているのは間違いない。悲惨さの即物性がユーモアにさえ感じられるという、このシリーズ独特の味わいが。
 あちこちが映画自体の編集と、放送上の編集が相まって、映画の中の現場で何が起こっているということなのか、よくわからない状態になっていて、どうにも感情移入できなかった。
 観てすぐに記事を書くのはめずらしいのだが、それだけ書くことがないのだった。

2018年4月7日土曜日

『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖

 人気記事を書きたくて、記事を捏造していた記者の話だと事前に知っていたから、意外な展開、というような驚きなしに観てしまったのは、いささか残念ではあった。
 記事の信憑性に疑いが生じていく過程で、これがどこまで意図的な捏造なのか、ただ裏をとることを怠っていたために情報の提供者の言うことを真に受けてしまっただけなのか、という決着の行方に、もうちょっと観客が迷う余地があった方が良かったが、それもまあ事前の知識があったためだろうか。
 どうも早々に、これは全部捏造なんだろうな、という感触があって、たぶんそれは映画製作者の意図的なものだ。捏造なんだろうに、なんでこいつはこんなに「ほんとだ。なんで信じてくれないんだ。」って、泣いてまで言い張るんだ、とむしろその虚言癖のそら恐ろしさに感じ入るのが正しい受け取り方なのかもしれない。
 展開を見せる映画的描写はすこぶるうまく、こういう映画が量産される米映画の層の厚さにはやはり感心してしまう。
 真実を追究するジャーナリズムの使命、などというテーマも、もちろん垣間見られはしたが、まあそちらに重きが置かれているわけではないようだ。
 それよりも、最初は記者たちから反感をかっている編集長が、主人公の捏造を暴く過程で自分の責任を果たそうと努める誠実さと、それを記者たちが認めていく展開が面白かったが、最後にその編集長の行いが拍手喝采で記者たちに認められてしまう極端さは、もしかしたら、そんなふうな美談もまた本当に真実かどうか疑わしいという皮肉なのかもしれない。
 だからうっかりその拍手にカタルシスを感じてはいけない。

2018年3月29日木曜日

『ソロモンの偽証』 -人間を描かない人工物としての映画

 引っ越しというイベントがあったせいですっかり映画を観るようなまとまった時間がとれずにいた。
 その間にも録画してあったものもあり、とりあえず、もうすぐ一人暮らしを始める娘がうちにいるうちに観てしまおうと『ソロモンの偽証』前後編を一気に。
 宮部みゆきの原作がつまらないわけはないだろうと信頼していたし、映画も、評価の高かった『八日目の蝉』の成島出だし、というような期待が毎度だめなんだよなあ。
 観始めてしばらくすると、もうだめだ、ということがわかってくる。
 この監督は人間をちゃんと見ていない、ということがわかってくる。映画的にありがちな情緒を描くことを優先して、人間を描いていない映画なのだということがひしひしとわかってくる。
 それでも宮部みゆきは裏切るまい、と前編を見終えたところですっかり意気消沈した気分を励まして、後編を観た。映画的にはだめだろうが、物語のミステリー的興味は満たされるんだろうと思ったのだった。
 それにしてもだ、いったい何を期待すればいいのか、まるでわからないまま後編に流れ込むのはどういうわけだ。事件に何か謎の部分がありそうには思えない。警察が自殺と結論した転落死事件を、殺人ではないかなどと疑う要素は観客にはない(登場人物たちにはあるらしいが、観客から見れば、単に噂話に振りまわされる愚かな人にしか感じられない)。そしてそのどんでん返しがあるのではないかという期待もさせない。それでいったいどんな「想像もできない真実」があるのだろうと、逆に期待してしまった。
 そして見事に裏切られた。驚くようなことは何も起こらないのだった。いじめの当事者を告発する場面の激情も、いじめられていた者の保身による偽証も、とりわけ緊迫感を感じさせるようなものではなく、裁判の首謀者による自己告発が結末に訪れるに至っては、何をベタな自己憐憫の茶番だ! と怒りさえこみあげた。
 しかもそんなことで、このどこまでも茶番な裁判が、何事か良かったのだと満足気に受け止められているようなのだ。どこが? 何をしたかったのかという動機もわからないまま盛り上がって実行に移された裁判だったが、どこにカタルシスを生ずるような展開を認めればいいのかわからなかった。
 だがネット評では、原作からしてすでにそうらしいのだ。では一体何を期待して映画を観ればよかったのか? ともかくも人間ドラマ? それにしてはこの監督はあまりに「人間」を描けないのだった。
 そして、どこの観客がこれに面白さを感じているのだ。「キネ旬」8位って、なんだよ!?