2015年4月30日木曜日

『ボクたちの交換日記』(監督:内村光良)

 よせばいいのに観てしまった。
 センチメンタルで悪くないお話だとも思う。むしろ素人監督としては、意外に真っ当に作ってるなあ、と感心していた。
 「小品」ならばこういう味わいも許す。だが2時間近い映画では手放しで高評価はできない。単なる「センチメンタルで良い話」では。
 とりわけ、最後近くの伊藤淳史の演技は、あれだけうまい役者を使っておきながら、やはり演出の方向が間違っていると思う。最近のドラマで満島ひかりや瑛太の演技をすごいと思うときの「強い感情の放出」は、何も取り乱して絶叫するとか怒鳴るとかいう大げさな演技によって観客に感じ取れるわけではない。丁寧なリアリティの積み重ねと抑えた演技によってバネが圧縮されるようにして放出されているはずだ。
 終盤で、ゴミの中から題名の「日記」を探す場面、手当たり次第に半透明のゴミ袋を破いて、目指す日記をみつけるとその場で読み出し、あろうことかその場で返事さえ書く。だがその場には、ゴミの収集係が複数名、脇で立ち尽くしているのである。
 現実にはあまりにも不自然と感じられる行動をとらせてしまうと、そこに強い感情を乗せても、観客には共感できない。むしろ散らかったゴミを片付ける係の人の怒りを想像して、そちらに共感してしまう。映画の物語の動向とまるで関係なく。
 そんなふうに観客の気を散らすのは、どうみてもマイナスだと思うのだが。
 徒らに「ドラマチック」を狙って余計なことをするな! という感じである。

2015年4月29日水曜日

映画版『寄生獣』

 もちろん期待はしていない。山崎貴に期待していないのだが、あの『ALWAYS 三丁目の夕日』や『永遠の0』の、映画人による高評価は何なのだろう。もしかしてヒット作を生む監督は、それだけで業界から大事にされるということなのだろうか。『リターナー』だけは、息子の小さい頃に一緒に見て、面白かった記憶があるのだが。
 で、実に予想通りのつまらなさだった。
 原作を、3話読み切りだった最初の短期連載の時から読んで、大いにハマってきた十数年来のファンには、いくつかの改変がどうにも納得できない。深夜に放送しているアニメも、1話だけ見て、どうにも情けなくなってしまったのだが、どうしてわざわざ原作を変えるのが、よりによってつまらない方向なのだろう。原作をそのまま、ひたすら良心的にアニメにした『虫師』のような素晴らしい仕事は、しかしクリエーターには軽視されてしまうのだろうか。
 改変が、虚仮威しに「すごい」と言わせたいのだろうという意図が見え透いている演出に傾いて、あの、愚直にリアリティを追った原作の凄さを損なっている。例えば島田をしとめた石くれの遠投を、どういうわけで弓で射るという演出にするのか。あそこは、寄生獣の細胞によって能力の高まった新一とミギーの共同作業として、あの遠投に説得力と凄みを感じたのに、弓なんて、新一の能力を感じられないばかりか、どうして突然、弓道の達人になれてしまうのかも、ミギーの細胞がどうして糸状になってまであの強度を保てるのかも納得できない。
 原作と違うところをいちいちあげつらって、だから駄目だというつもりはない。原作が、読む者を否応なく興奮させていく力をどうしてもっているのか、むしろ謎ではある。その分析にこそエネルギーを使うべきかとも思う。とまれ、改変にケチをつけなくても、そもそも、島田の校内での凶行とそれによって起こるパニックの演出はなぜあんなに平板なのか。
 あ、それはそういえば、テレビ放送用のカットのせいなのか?

2015年4月20日月曜日

映画5本

 『見えないほどの遠くの空を』について書き倦ねて1ヶ月ほど経ってしまったという事情は前々回書いたが、それで滞っていた間の映画鑑賞について、まとめて記す。まとめてかまわないくらいに、書くことが思いつかない。

『風立ちぬ』(監督:宮崎駿)

あらゆるメディアに批評が出回りすぎて、今更感想が言えない。初期ジブリのように、問答無用に「面白い」とは言えないが、感動的だと感じたのも確かだ。子供向けとは思えないのだが、一緒に観ていた高校生も中学生も面白かったと言っていた。だがその面白さが、これと指摘できる形では意識できないのだ。
 ただ、『見えないほどの遠くの空を』を観た直後にこれを観たことが何やら妙な偶然ではある。堀越二郎こそ「遠く」を見続けた人ではないか。

『エヴァンゲリオン 劇場版Q』(監督:庵野秀明)

前がどうなっていたのかとか、全然思い出せないまま、とりあえず決着をつけなければという義務感で観るのだが、とにかくわからない。たぶん、前作を見直してもわからない。とにかく凄い作画のオンパレードであることだけはわかる。だが、物語的にも、アニメーション的にも、何が何やらわからない。画面の中で動いているものが、どういう状況のどの部分なのか、どういう全体像の物体のどの部分なのかがわかるように描かれているのかがそもそも怪しい。
 もちろん例によって「AC」(アダルト・チルドレン。当時の言い方では。その後の言い方では「厨二」)全開の台詞回しは、ひたすら鬱陶しい。映像演出と言いこの台詞回しと言い、観客に対する嫌がらせを意図的にやっているのではないかというのは、あながち邪推でもない気がする。

『サブウェイ123 激突(The Taking of Pelham 1 2 3)』(監督:トニー・スコット)

よくできたパニック・サスペンスだが、どうも、主演のデンゼル・ワシントンが『アンストッパブル』を連想させるなあと思っていたら、監督が同じだった。調べてみるとデンゼル・ワシントンでは『デジャヴ』も観ている。『エネミー・オブ・アメリカ』も観てるな。だが『トップ・ガン』は観てない。そうか、トニー・スコットという監督は『トップ・ガン』の人か。
 さて、映画としてはよくできてはいる。デンゼル・ワシントンもジョン・トラボルタも文句なくうまい。が、脚本がどうにも。ラストへ向けて、どんな予想外の展開が待っているのかと期待していると、何も起こらずに終わる。うーん、もったいない。こんなにうまく映画を撮る人なのに。

『ネスト(原題:The New Daughter)』

なぜ英語の題名なのに、同じ英語で邦題をつける? そして、どちらにせよ、あまりにわかりやすく映画の内容を予想させて、本当にその通りなのだ。
 ケビン・コスナーだというのに、なんだこのB級感は。家族のドラマかと思いきや、そのままクリーチャーもののホラーなのだった。それなのに、あの家族の葛藤は必要? あった方がドラマに厚みが増すということもあるんだろうが、どうにも不整合のまま。
 肝心のクリーチャーは、宇宙からやってきた生物とかいう設定ではないのに、今までどうやって生きてきたのか、全く不明。そして、姿を現すまでは凶暴そうなのに、姿を現すと気持ち悪いが、弱い。どうにもならない。

『ももへの手紙』(監督:沖浦啓之)

『人狼』は、やはり押井守の世界に引っ張られてそれなりの面白さがあったのだろうが、『もも』ではすっかりジブリだ。『トトロ』だの『千と千尋の神隠し』だの『もののけ姫』だののモチーフが見え隠れして、まるで新味はなし。台風の近づいてくる雨雲や風の描写などがすばらしいアニメーションではあったが、『ネスト』と続けて一緒に観ていた娘も一言「つまらない」だった。結局、脚本なのだ。ここでもまた、毎度のことながら。
 これだけのアニメーション・ワークが、『エヴァンゲリオン』同様、単なる贅沢な蕩尽に終わっている。そしてそれが快感になっているわけでもなく、ひたすらもったいなくて、残念。

2015年4月19日日曜日

『見えないほどの遠くの空を』2 ~テーマ 

承前

 もう一つは、この映画の語ろうとする「テーマ」についてである。
 そう、この映画はあからさまに「テーマ」を語る。映画どころか、監督がツイッターで語っている。しかも何本もの連続ツイートで、喋る喋る。いいのか、監督が自作についてこんなに饒舌で? これはどうみても地雷ではないのか?
 『見えないほどの遠くの空を』では、世界不況が深刻化し、グローバリゼイションが進み、情報が世界を埋め尽くす中、遙かかなたを目指すということは可能なのか、というテーマを赤裸々に語りたいと思ったのである。
『見えないほどの遠くの空を』の主人公は、絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きるのか。あくまでも未来を<遠くを>目指すのかで逡巡している。そんな古典的なテーマを描きたかった。
主人公が大学の映画サークルで作ろうとした『ここにいるだけ』は、「絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きる」というメッセージをのせた映画だ。それに対して反対していたヒロインが語るのは「あくまでも未来を<遠くを>目指す」べきという主張である。ヒロインは、幽霊になってまで主人公の前に現れて、そうした主張を繰り返す。
 こうしたテーマの対立は、なんだかとても懐かしい。70年代的だと言ってもいい(60年代的?)。学生運動に象徴されるような理想主義と、三無主義に象徴されるような現実主義。ある時期まではどうみても「立派」な理想主義が幅をきかせていたのが、それに対するカウンターとしての現実主義が、それこそ文字通りのリアリティを持って若者の共感を勝ち得るようになったときの感触は、何となく子供心に感じていたような気がする。
 それはそのまま次のミレニアムまで主流であり続けて、だから主人公は『ここにいるだけ』を撮ろうとしている。そうした認識が優勢であり続けることの理由はわかる。社会が複雑になればなるほど、社会に対する無力感は増すばかりであり、そうなれば「ここ」がいいのだと言うしかバランスはとれない。
 その中で「遠く」を目指すというテーマは新鮮、というより反動的だ。ただそれはかつてのような「理想主義」ではなく、劇中では「パンク」と表現されていた。ヒロインの言うところの「もっとめちゃくちゃでいいのに」だ。
 そういえば日常を指向する四畳半フォークと破壊を指向するパンクが同じく70年代に台頭したことは、それぞれ同じように「理想主義」への、別方向の反動だったのだろうか。

 さて、こうしたテーマの提出に対して私が最初に連想したのは、樹村みのりの1974年の短編「贈り物」だった。劇中で語られる「ここにいるだけ」のプロットは、まるで「贈り物」なのだった。
 あの人が残したのはそうした切符だった。もちろんそれは天国いきの切符ではない。あの人からわたちたちに手わたされた時、それは意味をかえてしまった。
 あの人が残したのは、夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符だった。
監督の榎本憲男の歳から考えて、樹村みのりも「贈り物」も、知っている可能性は充分ある。そして、そうだとすると、彼は70年代から引きずってきたであろうそうしたテーマへの現時点での解答として、あえて「天国」を目指すと宣言しているのだ。
 カウンターはいつも新鮮だ。差異こそ情報なのだから、反対側に移動した時に境界を超える瞬間は、精神に刺激を与えてくれる。夏の冷房も冬の暖房もそうした快感だし、オバマ大統領の「Change」も、政治家がよく口にするマニフェスト、「改革」も、中身が何だかわからなくても、何だか良いことのようなイメージだけがある。
 『見えないほどの遠くの空を』がこうしたテーマを語るのも、そうした反動が、ともかくも魅力的に見えているということではないのか?
 だが、それを表現するのに、会社を辞めるというのはどうなの?
 主人公は大学を卒業後、映像制作の会社に入って、クライアントの依頼に従って不本意な作品制作をしている。そこで「幽霊」に出会って映画のテーマとなる「見えないほどの遠くの空を」目指し続けるべきだという主張を聞かされ、その後、会社を退職する。
 この展開を見ながら、はからずもつい最近「MOVIEラボ」で岩井俊二がしていた話を思い出してしまった。岩井俊二も同様に映像制作会社で、クライアントの要求に従う「仕事」をしながら、徐々に自分の造りたいものを実現させていったというのだ。
 それができないこの映画の主人公に、どんな「遠く」を目指すことが可能だというのか? 見当もつかない。どんな希望も見出せない。
 もちろんそうした認識は映画の中でも、友人の口から表明されてはいる。曰く「インドにでも行くつもりか?」。「インドに行く」が「遠くを目指す」ことへの揶揄だとしても、にもかかわらず、この主人公はバイトをして金を貯めて、アメリカくらいには行きそうである。それは「インドに行く」ことと大同小異ではないのか?
 
 そもそも、最初に主人公の語る「ここにいるだけ」が、まるで樹村みのりの「贈り物」もどきでありながら、やはりそれが「擬き」にすぎないところが、カウンターのテーマを説得力の欠けたものにしている。
 「ここにいるだけ」のラストで、劇中の主人公は、ヒロインに向かって
けれどこれからは、お前と一緒に、小さくても確かなものの中に幸せを見つけようと思うんだ。それができたら勝ったようなものさ。
と語って、ヒロインの肯定を待つ。監督の「ここにいるだけ」はこの台詞を肯定する意図を持って作られようとしていた。それにヒロインが異を唱えるのだ。そこから、あくまで「遠く」を目指すべき、というこの映画のテーマが語られるのだが、その前に、待て、なんだこの安っぽい台詞は。「勝ったようなものさ」って、何事だ、このチャチい言葉遣いは。
 この台詞が「贈り物」の「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならない」の緊張した美しさに対峙しうるはずもない。「贈り物」の語っている生きる姿勢は、裏側に「浅間山荘」の狂気を湛えた日常に生きることのぎりぎりの決意なのだ。
 もちろん、この映画の最終的な姿勢が「勝ったようなものさ」を否定するところにあるのは承知している。だが、否定するつもりだから最初から安っぽくていいのだと監督(兼脚本)が考えているとすれば大勘違いだ。バランスするカウンターは、強ければ強いほど互いを高め合う。安い台詞を否定しても、こちらが軽くなるばかりだ。
 だから結局ヒロインの語る「見えないほどの遠くの空」も、J-Popの「ここではないどこか、今ではないいつか」を連想させてしまう。あまりに空疎なこのフレーズに比べれば「今ここで生きる」の方がまだしも健全な気がしてしまうのだ(そういえば神田沙也加の曲に、この定番フレーズに「だがそれはどこなんだろう」という突っ込みを入れている歌詞があって、ちょっと感心したことがある)。

 以上、もやもやとした観捨てておけない感じを語ろうとして、どうも批判ばかりを並べてしまったが、それでもこういう映画に対する基本姿勢は、「観捨てておけない」である。どうも気になる。こういうのはやはり一種の愛情と言うべきなんだろう。

 ところで、出ている役者をみんな「無名」と表現したが、渡辺大知は最近複数回テレビで見たし、主演の森岡龍が、再放送している「あまちゃん」に、主人公・アキの父親役・尾見としのりの若い頃の役で出ていたことを知って、なんだかこうしてひそかに世界はつながっていくのか、と妙な感慨を抱いたり。

2015年4月18日土曜日

『見えないほどの遠くの空を』1 ~映像トリック

 観た映画のことだけは書き留めておこうというのがこのブログの基本ルールだ。
 実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
 ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。

 観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
 この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
 ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
 だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。

 そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
 だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
 だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。

 それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
 ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。

 画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
 そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
 『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
 このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
 こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
 画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
 奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
 そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
 『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
 だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
 さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
 『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
 『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
 さて、『見えないほどの…』ではどうか?
 まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
 上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
 『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
 さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
 だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
 それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
 例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか? 
 あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
 結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。

 続く。

2015年4月11日土曜日

「読み比べ」というメソッド 10 ~「グローバリズムの『遠近感』」と「『映像体験』の現在」

 上田紀行「グローバリズムの『遠近感』」は、この教科書に載っている最後の評論である。ここでは、授業の様子をいささか実況中継的に記述してみよう。

 一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
 さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
グローバリズムは遠近感を喪失させる
近いことは心に響くが遠いことは心に響かない
恐らく生徒にとってこれはそれほど簡単な問いではない。生徒の解答は、いくらかの言い換えがあるものの、結局片方の趣旨しか言えていないか、二文の趣旨が単に直列されてしまうか、というものが多い。「つなげろ」ではなく「混ぜろ」だ、「代入するんだ」などと誘導しながら時間をかけて考えさせると次第に力のある者が次のような表現にたどりつく。
グローバリズムは、心に響くとか響かないとかいった感覚を喪失させる
  これはこの文章の趣旨として、きわめて的確な把握である。だがくりかえすが、こうした把握を生徒に理解させることが授業の目的ではない。生徒自身が、本文をこうして把握するようになることが授業の目的なのである。把握しようとする思考過程そのものが授業の目的を実現する手段なのである。

 続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
 最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
 「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。

   遠近感あり/なし                                          
      日本/アメリカ                                      
    工業化社会/ポスト工業化社会                              
   生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義    
      モノ/カネと情報                                    
   タイムラグ/瞬時                                          
                /メディア・IT技術、金融自由化

 ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
 二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
 これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
 対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。

「グローバリズムの『遠近感』」
   遠近感あり/なし
  生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
      モノ/カネと情報
                  /メディア・IT技術、金融自由化
   交換不可能/交換可能
  かけがえない/
       本物/複製

「『映像体験』の現在」
  実体験・現実/映像体験
   反復不可能/反復可能
   再現不可能/再現可能

  「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
 だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
 時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
「映像文化」の時代に「アウラ」が消失した。
グローバル化の時代に「遠近感」を喪失した。
  文型を揃えてみれば一目瞭然、両者が似ていることは印象として生徒にも感得される。
 さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
 同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
 コンピューター・ゲームで遊ぶ今日の子供たちは、原っぱで転げ回って風を額に受けたり、木々の香りを胸いっぱい吸い込んだりといった体験なしに、二次元のテレビ画面の中の映像とだけコミュニケーションを交わすといった子供時代を過ごしている。友達と喧嘩して体と体がぶつかり合うといった手応えある体験を知らずに大人になってゆく。「『映像体験』の現在」
 勝ち続けていたときの日本と同じく、アメリカの戦争もこれまで常に自国の外部で行われてきた。だからアメリカ人は、ゲリラを一掃しようと枯れ葉剤をまいてジャングルを破壊し、村々を焼き払うという行為がベトナムの人々にどんな喪失感をもたらすかを、想像することはできなかった。空爆で都市を破壊し尽くすことが、そこに生きる人々にとってどんな苦痛をもたらすことなのかも、自分の身に同じことが起こったらどのような状態になるのかというレベルでは感じることができなかった。「グローバリズムの『遠近感』」
 前者における、風の感触や木々の香り、友達との体と体のぶつかりあいが経験されないことは、後者における、土地や命が失われてしまう人々の喪失感に気づかないことに対応している。「複製・映像技術」は「メディア」に対応し、「二次元のテレビ画面の中の映像」には「遠近感」がない。「映像―対―現実という対立関係」はまだ人々の認識が「遠近感」のうちにあるということであり、「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく」というのは「遠近感」を喪失した現代人の認識を表現しているのである。

 もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
 さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
 シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
 結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。

  このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
 だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
  「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
 だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。

2015年4月8日水曜日

間奏2 桜に雪~cero

桜の散る頃に雪とは参った。
娘の入学式に出るため、珍しくしばらく歩く必要があった(いつも自動車生活なので)こういう日に、雪が降って、恐ろしく寒い。
今日は関東圏発のブログやらツイッターやらでは、この話題がどれほどネットに飛び交ったことやら。

 寒さに震え、家に帰ってからも沈鬱な空気の中で、心を奮い立たせてくれる良い音楽。