2019年1月10日木曜日

『リセット』-あまりに期待外れ

 人間消失物のSSSで、監督は『マシニスト』のブラッド・アンダーソンだというので借りてみたのだが、これは失敗。先にネットで評判を確認しておけばよかった。
 部分的には、絵的にも演出的にも、充分観られるレベルだと思ったのだが、観ていても楽しくならない。
 影もしくは暗闇が迫ってくると人間が消失してしまうのだが、見せ方がワンパターンで工夫がない。主人公たちがなぜ助かっていて、それでも消えてしまうときにはどうして消えてしまうのかの法則がわからない。残った数名の行動も不自然すぎて感情移入できない。
 DVD付録のスタッフインタビューではしきりと「深い映画」的な自己評価なのだが、到底それほどとは思えず、この印象は最近では『モンスターズ 新種襲来』のメイキングの印象とあまりに似ている。宗教的な暗示などを読み取ると面白いのだとか、『モンスターズ』ならば戦争の愚かしさを描いているのだとか、まずホラーとか怪獣物とか、本筋の物語として面白いと思えなければ、それ以外のところで勝負してどうする? と思えてしまう。

2019年1月8日火曜日

Kはその時、何をしていたか 4 仮説1に対する疑義

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 話し合いの中で、反対する者の意見を取り上げるのは無論のこと、敢えて仮説1(「自殺の準備」説)に対する反論を考えさせるのも意味がある。

 問   仮説1に根拠を挙げて反論せよ。


 まずは、この晩から実際にKの自殺が決行されるまでの十日あまりの空白をどう考えればいいのか、という点である。この間、Kの自殺の意志はどうなっていたのか。Kがこれ以降の数日間に、たびたび隣室の「私」の眠りの深さをうかがっていたという様子もない。名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。
 そもそも、この晩にでも自殺しようと考えている者が、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは不自然である。襖を閉めたままでも確認はできる(三十八章では「私」とKは襖越しに会話を交わしている)。
 この反論に対しては、Kの自殺の決行が、「私」が目を覚ますかどうかに拠っていること自体に、Kの迷いを見る解釈が新たに提出される。つまり、目を覚まさなかったら決行していたが、むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期することを(つまり「私」に止めてもらうことを)どこかで望んでいた、というのである。
 だがこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと、先のA、Kの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間で不整合を生ずる。
 そこで解釈に微妙な修正を加えて「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」という解釈を提示する者が現れる。これならばこの夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、訪問がこの晩のみのものだった理由もつく。Kは「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。
 ただしこの解釈を支持するならば、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な想像を諦めることになる。
 いずれにせよ、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのである。
 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろ四十八章でKがなぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、四十三章の解釈と関連させて考えなければならないのである。そのとき、四十三章で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を「隣室の友人の眠りの深さを確かめた」ものだと解釈することの妥当性が問われる。
 仮説1「自殺の準備」説に対する疑義は、この段階では以上のように詳論しなくてもかまわない。生徒の意見も、仮説1しか挙がらないわけではない。議論の展開の頃合いをみて、問②の解として例えば以下のように選択肢を提示する。

a 今晩自殺するつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
b いずれ自殺をするつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
c 何らかの話をしたかった(が話し出せずにやめた)。
d Kの言葉通り、特別な意味はない。

 選択肢を整理して、一度、どれを支持するか全員に挙手などで聞いてみても面白い。その上でそれぞれの説について、賛否の根拠を挙げて話し合う。
 cのような意見も生徒から挙がる。これも厳密には「私に何か言いたかった」と「私から何か聞きたかった」と分かれるのだが、abのように分けずに「話したかった」とまとめてしまってもいい(分けてもいい)。cについては、では何を話したかったのか、そしてなぜ話すのをやめたのか、といった当然の疑問に答える必要がある。
 dという選択肢も今後の授業展開のために挙げておく。そもそも皆がdに納得できないからこそ、こうした授業展開が可能なのだが、といってdの解釈が否定されているわけではない。他の選択肢について、明確に納得しがたい理由が挙がるのなら、やはりdを認め、その上でこのエピソードの「意味」を考えるという方向もある。
 だがやはり生徒の支持はabに集まるし、議論はabをめぐって行われるだろう。実際に「こころ」論者の多くもaかbを、あまり明確には区別せずに支持しているように思われる。
 だがabについての筆者の見解を言えば、冒頭に述べたとおり筆者はこれを支持していない。筆者も「覚悟」を「自己処決の覚悟」と解釈しているが、だからといってKがこの晩にそれを実行に移そうとしていたとは考えない。右に挙げたような疑問が解消されないという理由もあるが、その最大の理由は、この段階でKが自殺しようとしていたと考えるのは、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってからKが自殺するという展開にいたるドラマツルギーと整合しないと考えるからである。Kがこの晩すでに自殺を実行に移そうとしていたのだと考えることは、その後の「私」の裏切りにいたる物語の展開の意味を無効にしてしまう。
 だからといって、それはKの自殺の動機を、友人の裏切りによる失恋だと想定しているということでは毛頭ない。Kの自殺の基本的な動機は、上野公園でKの口から語られる自らの「弱さ」への絶望だろうし、だからKがこの時点で「自殺の覚悟」を口にする必然性はある。ただ、Kがこの晩にそれを実行に移そうとしていたと考えるのは物語の因果律に則していない。これではKの自殺は単に「現実と理想の衝突」ということになってしまう。だがそうでないことは、教科書には収録されていない五十三章に「それ(「現実と理想の衝突」)でもまだ不充分でした」と明言されている。Kの自殺は「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に」決行されたものだと考えなければならない。つまり自殺が決行された土曜日に初めてその条件が整ったのである。したがって、この晩にKが自殺しようとしていた(a)と考えるのは物語の論理からいって無理である。
 それでは、これが「覚悟」=「自己処決の覚悟」という言葉がKの口から語られた晩のエピソードであるという展開上の必然をどう考えればいいのか。
 確かに、Kの声が「落ち着いていた」のは、Kが自身の懊悩の決着の行方について、〈覚悟〉を宣言することで(あるいは自覚することで)、今現在の迷いにとりあえず決着をつけたことを意味しているのだと考えられる。
 ならばそのまま、Kはこの晩にでも自殺をしようとしていたのだと考えるべきだろうか。そうではない。「覚悟」とは、自己矛盾にけりを付けるために自己処決という手段を胸に秘めているという自覚を語った言葉であって、ただちに実行するつもりだ、と言っているわけではない。ただちに実行に移す「決意」や条件が整い次第実行に移す「予定」ではない。Kはこの時点ではまだそれを実行するに至る契機を得ていないのである。
 「覚悟」はこの日のうちにKの中で確認されている。だがそれを決行するには、Kが奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の件を聞き、なおかつその後「二日あまり」沈黙のまま過ごすことが契機として必要なのである(この「二日あまり」の重要性については別稿にゆずる)。
 ではb説はどうか。Kが襖を開けて声をかけるのは、隣室の友人の眠りの深さを確かめるためであり、それはやがて実行に移すつもりの自殺の障害の有無を確認するためである、という解釈は、先に挙げた反論にもまして、何より理に落ちすぎていて、かえってこの晩のKの「心理」として腑に落ちない。それこそ「この時のKの気持ちを考えてみよう」とでも言いたくなる。
 ではcdの両説のいずれを採るか。いずれも、積極的に支持することが難しいのは、それらの解釈が魅力的でないという以上に、それではこのエピソードの意味が、結局はっきりしないからである。

2019年1月6日日曜日

Kはその時、何をしていたか 3 第1の仮説

問① このエピソードの意味は何か。

問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 引き続きKの意図についてしばらく話し合いをさせてから聞いてみると、冒頭に述べたように「自殺の準備として隣室の友人の眠りの深さを確かめようとした」という意見が生徒の間では大勢を占める。これは謎めいた行動の「意味」としてふさわしい解釈であり、かつそのまま「エピソードの意味」としても納得できる。

①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
②の仮説1 自殺の準備として「私」の眠りの深さを確かめようとした。


 注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、生徒が既にKの自殺が決行される四十八章までを読んでいることが前提で、さらに先に授業展開の中で、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己処決=自殺の「覚悟」であるという認識が教室内で共有されている必要がある。それを認めなければ、この解釈は発想されない。
 そうした前提があった上で、この解釈が支持される大きな理由は、次の二点と整合するからである。

A 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という形容
B 翌朝「私」に対してKが「近頃は熟睡できるのか」と問う


 この二点はKの意図が不明であることとあわせて、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味をにわかにはわからなくさせている。
 さらに一点、考慮すべき重要な点がある。四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。

C 見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。


 ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることは明らかである。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。
 こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。
 Bの「近頃は熟睡ができるのか」は「私」の眠りの深さを知りたいことをそのまま示しているし、Aについても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。
 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったかもしれないのである。この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。

 ここまでの議論は、むろん根拠を挙げての意見の応酬によって徐々に明らかになることがらである。ABC三点はいずれも、生徒が根拠として指摘する。
 問題はこの解釈で生ずる不都合である。仮説1は論者の中でも定説だし、実際に多くの生徒の支持を集める。だが反対する者がいないわけではない。筆者もまた冒頭に述べたようにこの解釈に首肯しない一人である。

Kはその時、何をしていたか 2 「エピソードの意味」と登場人物の心理

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。

 「こころ」第三部「下」の四十三章の深夜のエピソードにおけるKの行動を「自殺の準備として隣室の友人の眠りの深さを確かめようとしたもの」だとする解釈は、多くの論者に支持されていると言っていいと思う。生徒に考えさせると、やはり同様に考える者は多い。だが筆者はこの解釈に首肯しない。
 本稿はこのエピソードを扱う具体的な授業の展開についての案を示し、その中でこのエピソードの「意味」を論ずる。
 このエピソードは「こころ」を授業で扱う上で避けて通れない。このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。このKの謎めいた行動について、読者はある種の納得を必要とする。このエピソードは何のために挿入されているか。そこでまずストレートにこう問うてみる。

問① このエピソードの意味は何か。


 「エピソードの意味」という問いの趣旨は、それだけではむろん生徒には伝わらない。考えたいのは、この謎めいたエピソードをどう読み解いたらいいのか、である。そこでなぜこのエピソードが語られる必要があるのか、読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか、など、必要な言い換えをして問いの趣旨を理解させる。
 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報は存在しない。だから原理的にはすべての記述、表現、展開が腑に落ちるものでなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。
 だがこういう時往々にして授業者はKの「心理」を問うてしまいがちである。「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。そこまで情緒的に流れないとしても、Kが何のために「私」に声をかけたのか、という「意図・思考」を問うことには充分な必然性があるように感じられる。このエピソードが「意味」ありげに感じられるのも、何よりもまずKの感情や思考、つまり「心理」がわからない、と感じるからである。
 ここでのKの心理はむろん「わかる」べきである。同時にそれは「このエピソードの意味は?」という問いのうちにおいて考えなければならない。これら二つの問いの層/相の違いを自覚したうえで、それらを関係づける必要がある。
 だからまずこれからの考察の目標が問①にあることを明示し、その趣旨を理解させた上で、それと整合的であるように以下の問について考えていく。

問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。

授業者がこのように問うことに、生徒も授業者自身もなんら不審を抱かない。このくだりを一読した読者には、Kの意図が「わかる」とは思えていないからだ。だからそれは何らかの解釈を要求する、考察に値する問題であると感じられる。
 生徒に話し合わせ、そこで出された意見について発表させる。その検討がこの後の主たる授業展開である。だがその前に確認しておきたいことがある。

 問 K自身は何と説明しているか。

K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された真情があるはずだと深読みしてしまう。
 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然であるように感じてしまうからである。これはなぜか。

 問 Kの言葉をなぜ信じられないか。

夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。生徒はとりあえずそう答える。
 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。なのに「何でもない」とは思えないのは、「ただ~だけ」と限定される理由が十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないからである。「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むシークエンスがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」である。つまり、Kの心理・意図はこのエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのである。
 また、小説読解の作法といった観点から分析をするならば、このKの言葉が正直な説明であると読者が信じられない理由の一つは、「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現が、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できるからである。「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」とあるように、読者とともに「私」にとってもKの心は「わからない」。この「わからない」が、Kの言葉を額面通りに受け取ることを留保させる。これもまた「こころ」のテーマである意思疎通の断絶を象徴的に示した映像である。

Kはその時、何をしていたか 1 執筆の経緯 

 ちょうど4年前に、その年の授業における驚くべき新発見として「遺書を書いたのはいつか」という文章をブログに書いた。そこでは、Kの自己処決の際に「私」が読むことになる「私」宛ての「手紙」は、それより12日前の晩に既に書かれていたものだ、という解釈を提示した。
 とはいっても、「発見」したのは筆者ではなく、その年に授業を受け持った二人の生徒である。彼らの解釈は最初、突飛で考え過ぎな「トンデモ」解釈に思えて、筆者には受け容れ難かった。
 ところが考え直しているうちに、否定するための反論として当初筆者が挙げた根拠が無効であることに気づいた。その後はむしろ考えるほどにそうした解釈の妥当性が納得されてきた。
 それでも4年前には、面白いがまだ確信するには至らず「保留」というところに留まっていた。
 その後このアイデアは、公にして他人の批正を求める価値があると思えるほどに確信を強めていった。そしてさらに授業においては、こうした解釈をただ紹介するだけではなく、上野公園の散歩の夜のエピソードを授業でどう扱うかという授業展開の中にこの解釈を位置づけて、もう一度まとめ直そうと思い立った。それで今年、このブログよりは人目に触れるであろう、教員を対象とするある機関誌でそれを「実践報告」として発表することにした。
 ところが、その機関誌の発刊と同時期にちょうど今年度担当の授業がそのあたりにさしかかっていて、同じ学年の授業を受け持っている若い先生方と授業計画を立てていたら、その文章を読んだその先生が「で、授業ではどうしたらいいんですか?」と言うので驚いた。自分ではすっかり実用的な授業案を書いたつもりでいたからだ。だが原稿提出以来しばらくぶりに読み返してみると、なるほどこれでは駄目だ。その文章を読んで教材の解釈はわかるとしても、若い先生方が授業をどう展開していいかがわかるようには書かれていないのだ。
 筆者自身が授業をするなら、基本的な解釈の方向性が見えていれば、自分が考える過程がそのまま授業展開になる。だから文章を書いている最中は、つい教材の解釈に筆が走ったことに無自覚だった。
 むろん、授業でどう展開するかは、各現場で考えるべきだとも言える。生徒も授業者もさまざまだ。それぞれの現場に合わせて適切な問の形もそこに割く時間もさまざまであるはずだ。他人の実践報告がそのまま実行できるわけではない。
 だから他人の参考に供するには教材解釈を提示するだけでいいのだ、という考え方もある。
 だが、どのような問いをどのような順序で発していくかというアイデア自体は、やはり若い先生方には提示する価値があるはずだし、生徒が実際にどのように反応するか、という例を示すことも参考に供するはずである。
 また、授業計画を他人と練る上で、自分なら行き当たりばったりでやるところも、見通しを持った展開として構成し直した。そして、そうした工夫をこらした授業はそれなりにやはり面白いのである。もちろん別な構成でも別な面白さはあったのだろう。行き当たりばったりでも、面白くはなる。授業は生き物だ。
 それでも、練り上げた計画的な展開と、その実際を記録したくなった。そこで、一連の授業の後で、一度発表した文章を、今度こそ「実践報告」の形で書き直した。授業の流れに沿って具体的な問いの形を示し、そこでの生徒の反応についてもなるべく具体的に記す。
 本当はこれを、若い先生方が読むかもしれぬその機関誌に載せたかったと思うが、まあ仕方ない。ここに載せて、また再利用の機会を待つ。

2019年1月4日金曜日

『アルティメット』-気楽な映画鑑賞

 前に第2作の方を観ていたので、気楽に観られるのはわかっている。しかもリュック・ベッソンの脚本だから、それなりに楽しいことも期待できる。
 パルクールによる逃走劇もカンフーアクションも楽しい。ギャングをやっつけ、権力者の陰謀を暴き、とお決まりのカタルシス。
 ま、正直、パルクールの動画をYoutubeで見るのも似たような楽しさなのだが。
 これが、今年最初の映画か!

2019年1月3日木曜日

TENDRE

 新年早々、こういう発見がある。再生していたビデオを止めて、ちょうどその時に放送されていた、新人アーチストを次々と紹介しているらしいテレビ番組で一瞬で耳を持って行かれた。
 最近 Nulbarich にも感心していたのだが、

まとめて聞くまでにはのめり込めなかったが、こちらはあるだけ聴きたいと思った。
 TENDRE 個人ユニットだそうだ。
 調べてみると LUCKY TAPES などと同じレーベルのミュージシャンだって。
「Rallye Label」すごいの揃えてるな。