問① このエピソードの意味は何か。
問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。
引き続きKの意図についてしばらく話し合いをさせてから聞いてみると、冒頭に述べたように「自殺の準備として隣室の友人の眠りの深さを確かめようとした」という意見が生徒の間では大勢を占める。これは謎めいた行動の「意味」としてふさわしい解釈であり、かつそのまま「エピソードの意味」としても納得できる。
①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
②の仮説1 自殺の準備として「私」の眠りの深さを確かめようとした。
注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、生徒が既にKの自殺が決行される四十八章までを読んでいることが前提で、さらに先に授業展開の中で、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己処決=自殺の「覚悟」であるという認識が教室内で共有されている必要がある。それを認めなければ、この解釈は発想されない。
そうした前提があった上で、この解釈が支持される大きな理由は、次の二点と整合するからである。
A 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という形容
B 翌朝「私」に対してKが「近頃は熟睡できるのか」と問う
この二点はKの意図が不明であることとあわせて、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味をにわかにはわからなくさせている。
さらに一点、考慮すべき重要な点がある。四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。
C 見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。
ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることは明らかである。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。
こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。
Bの「近頃は熟睡ができるのか」は「私」の眠りの深さを知りたいことをそのまま示しているし、Aについても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。
そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったかもしれないのである。この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。
ここまでの議論は、むろん根拠を挙げての意見の応酬によって徐々に明らかになることがらである。ABC三点はいずれも、生徒が根拠として指摘する。
問題はこの解釈で生ずる不都合である。仮説1は論者の中でも定説だし、実際に多くの生徒の支持を集める。だが反対する者がいないわけではない。筆者もまた冒頭に述べたようにこの解釈に首肯しない一人である。
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