2014年11月1日土曜日

「こころ」6 ~何の「覚悟」か

 「覚悟」について考察する授業展開例は去年さんざん考えて書いたので、詳細に論じようということならそれをまるごと引用するしかないのだが、それはこのブログという場にふさわしいとも思えないので、やはりここでは今年の授業の様子を記録するという意味合いから、あくまで今年の展開を記しつつ、必要に応じて上記の一部分を引用するという形で書いてみる。

 42章でKが口にする「覚悟」という言葉をめぐる考察は、「こころ」を授業で扱う上で最も重要なポイントの一つだ。
 最初に問うのは

  •  ①会話の時点での「覚悟」の意味(42章)
  •  ②翌日「私」が考え直した「覚悟」の意味(44章)

である。実際には②から考える。文中にそのまま「お嬢さんに対して進んで行くという意味」と書いてあるからだ。続いて①を問うと、多少の揺れはあるものの、おおよそ「お嬢さんを諦めるという意味」であるという答えを引き出せる。
 読めば「わかる」はずのこうした確認をした上で、通常問われるのは、なぜこのように「私」の解釈が変化したか、だ。だがそれは単なる確認に過ぎない。何らの考察を含んでいるわけではない。もちろん、「わかる」ことと「説明できる」ことの間には大きな懸隔があるから、「説明せよ」と問うこと自体は国語の授業として大いに意義あることだ。だがそれは「こころ」を読解していくという行為として意義あるわけではない。
 それよりもここで問いたいのは、この「覚悟」という言葉が、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか、である。この問いは、きわめて興味深い上に、今後の展開に参考となる重要な知見を与えてくれるという意味で扱う意義のある重要な問いである。
 だが、そもそも生徒にはこの問いの意味が理解されない。問いを投げた上で、信頼できる生徒に答えてもらうと、彼が何とか答えているのは、どうして正反対の意味に解釈が変わったのか、である。まあやはりそうなるだろう、とは思う。そのまま、そちらに問いを移して展開する。まず①は文脈からそのまま了解される。確認のために42章、問題の「覚悟」という言葉が最初に口にされる「私」の台詞について確認する。
君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。
この「平生の主張」とは何か? 無論「確認」程度の質問である。「精進」でも「道」でも「学問」でも「信条」でも「道のためにはすべてを犠牲にすべきものだ」でも「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」でも良い。これらの「主張」を「どうするつもりなのか」と問われれば、「心でそれを止める覚悟」は「主張」を貫くために「お嬢さんを諦める覚悟」ということにならざるをえない。
 ではなぜそれが翌日反転したか? ここでの「確認」は翌日、44章の
Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。
の「一般」「例外」とは何か? という問いである。だが、豈図らんや、これが一筋縄ではいかないのだった。やはり実際の授業はこちらの想定を超える。生徒は「一般」は「精進」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だというのである。なるほど、直前の「平生の主張」についての「確認」が、文脈を無視して「一般」「例外」という言葉に結びついてしまうのである。さんざん読み返しているこちらほど、生徒は文脈を把握しているわけではない。ある程度の長さで前後を読み返させる必要があるのである。さて、生徒の答えを否定して、正しい読解が提出されるまで粘り強く待つ必要はある。だが一方で「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメかを示す必要もある。なぜだめか? とは問うてみるものの、これは高度な問いの部類に属する。上記部分の後の次のような一節に注目させる。
私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると中略以降と矛盾するからだ、と言える生徒はいないでもない。
 さてでは「一般/例外」は何なのか? 別に難しい問いではない。やはり「確認」に過ぎない。「果断に富んだ/優柔な」である。ただちに「優柔な訳」とは何か? と問う。「K」の「平生の主張」が恋に進むことを妨げているからだ、という解答を用意して待っていると「Kは勉強一筋で生きてきて、恋愛に慣れていないから」というような微妙にずれた答えがどこのクラスでも返ってくるところでズッコケル。まあそこはこちらも微妙に修正して先に進む。上記「例外」に「優柔」を代入すると論理的に整合することも確認する。
 さて、ようやく先ほど問題だと述べた「『覚悟』という言葉は、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか?」という疑問に戻る。これは「どのような『正反対』に変わったのか?」や「どうして変わったのか?」という問いではない。だが真に驚くべきなのは、この言葉がどのような微妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが無理なく設定されているか、である。ここが解説されている指導書を見たことはない。恐らく問いとして発せられる授業展開もほとんどないだろう。そもそもそこに疑問を見出すという発想が浮かぶことがほとんどないだろうからだ。だがここで考察に値するのはまさしくこの点なのである。
 「どうして正反対の意味に解釈しうるのか?」という問いは、その問いの意味がほとんどの生徒に理解されない。そこでたとえば「いいよ」といった台詞が、文脈次第で「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にも「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にもなることを示した上で、唯一の文脈に置かれているにもかかわらず正反対のどちらの意味にも解釈できる不思議について考えさせていく。
 すると予想外に「心でそれをやめる覚悟」の「それ」が示すものが曖昧だからではないか、というような案を提出した生徒がいた。そう、「K」の口にした「覚悟」は「私」の台詞を受けているのである。
「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
問題はこの「心でそれをやめる覚悟」がなぜ正反対の二つの意味に解釈しうるのか、である。ここから先は一昨年の授業の際に思いついた発問である。
問 「心でそれをやめる」の「それ」とは何か。ここを「……ことをやめる」と言い換えたときの空欄に、適切な動詞を入れ、それが①と②に言い換えられることを説明せよ。
 これには考える、悩む、迷うなどの答えが想定できる。
 まず「考えることをやめる」と言い換えれば、「お嬢さんに進んで行く」という解釈の生ずる余地はすでにある。「考える」ことをやめて「行動に移す」のが「K」の言う「覚悟」だと「私」は考えたのである。
 次に「悩むことをやめる」と言い換えると、なおさら二つの解釈が自然に生ずる。「悩むのをやめる」ためには、悩みの種であるお嬢さんを諦めてしまうのが一つの方途であり、悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに進むのが、もう一つの方途であるからだ。
 さらに「迷うことをやめる」ならば、論理はさらにはっきりする。「お嬢さんを諦める」ことともに「お嬢さんに進む」こともまた「K」にとって「迷うことをやめる」方途の一つである。選択肢のどちらを選ぼうとも、「迷うことをやめる」結果になる。
 こうして「K」の言う「覚悟」は「私」によって、正反対の解釈に分岐したのである。
 授業では「正解」を確認することに意味があるわけではないから、このような説明自体を生徒に要求すべきである。そしてこのような解説は、なんら「理解」を深めているわけではない。「わかる」ことが目的なのではなく、「説明しようとする」ことがここでの学習の目的である。
そしてこの学校でも、我慢強く待っているうちに想定通り「考える」「悩む」「迷う」が提出され、それぞれのクラスで誰かがこうした説明に辿り着く。そうした者を教室全体で賞賛してこの一連の学習は一段落である。

 もちろん、ここまで確認したのは、あくまで「K」の言う「覚悟」を、「私」がどう解釈したかであって、それは「K」の「覚悟」ではない。「K」の言う「覚悟」が上のどちらでもないことを示す表現を指摘させると、勘の良い生徒が「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」を挙げる。それに「卒然」「私がまだ何とも答えない先に」などの表現を指摘して、「私」の解釈した「覚悟」と「K」の言う「覚悟」がすれ違っていることを確認しておく(「卒然」「独り言」「夢の中の言葉」は、「K」の心理に注意を集める表現として読者に意識されがちだが、同時に、意思疎通の齟齬を読者に知らせるサインなのである)。では「K」の言う「覚悟」とは何の覚悟か? と聞くと、やはり少数ながら「自殺する覚悟」であることを感じ取っている生徒はいる。そしてさらにこの時点で、その根拠を明晰に語って見せた生徒の見解を以下に挙げて、この項を終える。

 彼女(女子生徒である)によれば、上野公園の散歩の夜の「K」の「もう寝たのか」という謎めいた訪問と自殺の晩の「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています」は関連づけて考えるべきであり、とすれば「K」にとって自殺の意志はこの時既にあり、昼間口にした「覚悟」こそそれを示しているのである。そもそも「K」の遺書はこの晩に書かれ、そして「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える」「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だけが、自殺を決行した土曜の晩に書され足されたものなのだ。

 結論としてはこの見解には首肯しかねる。「墨の余りで書き添えたらしく見える」という描写は、本文に続くこの最後の文句が一連のものとして書き足されたものであることを示している。したがって遺書全体が、やはり土曜の晩に書かれたものであると考えるべきだと思う。だがここまでの整然とした推論を説明してみせた生徒がいたことは記録しておきたい。

追記
 最後の、遺書をいつ書いたのかについては、後刻再考した。この生徒の慧眼には感服である。

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