2018年9月30日日曜日

『メアリと魔法の花』-っぽい情緒だけが描かれる

 録画してから観るまでに間が空いたのは、それだけ期待していないからだが、一方で観始めるハードルも低いんで、そのバランスで観てしまった。
 冒頭の、赤毛の魔女の脱出のシークエンスは、意外によくできているんで感心した。ジブリアニメのレベルと変わらないじゃん、と思いつつ、もちろんジブリ過ぎて、二番煎じのそしりはまぬがれない。いきなりの脱出から墜落まで、まるで『ラピュタ』じゃん、とか。
 それでも、確かに良くできてはいるのだ。例えば冒頭のシークエンス。火災が起こっているらしい大きな建物を映すショットからカメラが下がって、動きのある人物を捉えてそこをアップしていくと主人公が追手から逃げている。壁の外を移動していくと足元の石垣が崩れて、慌てて手近な石垣に掴まった手元に袋が提げられているのが見てとれると、そこにカメラの焦点が絞られて、追手の「花の種を持っているぞ」という説明の科白がかぶる。大胆でスピード感のあるチェイスから、一瞬の止め画の「魔女」のアップは、意志の強そうないい顔をしている。そこから空中の逃走劇の果てに地上への墜落と魔女の花による森の異常成長。ジブリアニメ的期待を煽るのに充分成功している。
 だがその後は、観ていてもどうにもわくわくしてこない。こないままに映画が終わる。短く感ずる。中身がなかったなあ、と思う。
 だがアニメーションのレベルは最後までずっと高い。絵も、動きも、美術も、ジブリアニメのレベルを落としてはいない。だから画面を見ている分にはよくできた映画に見える。
 だが物語のレベルは低い。ストーリーの起伏も、人間ドラマも、部分的な演出も。
 宮崎駿がすごいのは、あれだけ優れたアニメーターでありながら、脚本家としても、人間を描く演出家としてもすごいからだ。米林監督はおそらく優れたアニメーターなのだろうが、人間を描ける演出家ではなく、この映画は優れた脚本家を擁することもなかった。
 惜しいことだなあ、と心底思う。ジブリ映画に対する期待から結局ヒットするのだが、このレベルの映画がビッグ・バジェットで作られ、多くの子供がこれを親と映画館で(あるいはお茶の間で)観るのは悲しいことだ。子供の頃に、ワクワクして、それでいて人間に対する深い洞察の得られる映画を観るという経験をすることが出来ないというのは。

 具体的にケチをつけ始めるときりがない。人物の背景も描かれないし、人物同士の絆が形成される過程が描かれているわけでもないのに、情緒的な感情の交流は唐突に描かれる。犬が妙なデザインで登場したかと思うと別に物語に絡まない。物語に重要な「使い魔」の役割に収まる猫は可愛くない。どうしてそういうデザインにするのかわからない。おそらく意味あり「げ」にするためにわざわざ歪なデザインをしていて、それが生きていない。
 人間を描くのも、こうした「げ」が基本原理だ。かつて魔女の花の種を盗み出した魔女であった大叔母さんは、階段に落ちている魔女の花を見つけて、それがアップになった後でようやく「これは!」と驚くし、囚われの身となったメアリに飛び掛かって「この魔女め!」と叫び、メアリに「ピーター」と呼ばれてからようやくピーターは相手がメアリであることに気付く。いずれもそのことに気づくのが不自然に遅い。お芝居のリズムがまるっきり大根なのだ。もちろんこれは人間の振る舞いの自然さよりも、アニメ的な情緒を描くことに頭が使われている演出のせいである。
 ドラマツルギー的にも同じことがいえる。主人公が森に入っていくことから物語に巻き込まれるのだが、そこに誘う二匹の猫が揃って目の前に現れた途端、主人公は「あんたたち恋人だったの!」と言う。どういうわけでその二匹が雌雄で、どういうわけで恋人と判断されているのかはわからない。
 猫たちがどういう必然性で主人公を魔女の花の在処まで誘ったのかもわからない。魔女の花に対して猫たちは警戒心を剥き出しにする。それが何かの異常事態を表していることを示していることはわかるのだが、猫たちにとって魔女の花がどういう脅威なのか、どうしてそこに主人公を誘ったのかはわからないままだ。
 つまりどこかで見た物語の情緒は描かれるのだが、そこに必然性を与えるドラマツルギーとしての因果律は考えられていないのである。
 だから、異界への往還やら脱出劇やら救出劇やら勇敢な冒険やら、思い返してみると大活劇として充分なストーリーラインは存在するのに、どうにもそれが面白くはならない。
 マダムと博士の最初の実験の失敗の犠牲者のその後とか、森の入口でメアリと喧嘩をして別れた後のピーターが後悔して森に引き返す場面とか、それが描かれれば物語が深みを増すはずの要素が描かれない(もしかして放送時のカット?)。

 作品としての思想には、人間の手に余る科学技術批判があるらしい。監督自身がそう発言しているとのことだ。明らかに原発事故の隠喩と思われる実験の暴走が描かれるのだが、こうした思想の表現も結局「げ」でしかない。
 原発の問題は、例えば受益者が社会全体であることや、事故に至る背景に組織の論理に人々が流されてしまうことなのに、マダムと博士をいわば悪役・敵役として描いてしまうことで、問題をまるっきり原発の問題とは別次元にしてしまう。にもかかわらず「人間の手に余る科学技術批判」という情緒だけは描いているつもりなのだ。

 いかん。きりがないと言っていたのに、ついやってしまった。ないものねだりってのは虚しいことだとわかっているはずなのに。

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