2018年9月3日月曜日

『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく

 アニメ版の公開にあわせて、去年の実写版を放送。原作を読んでいないんだが、映画であれマンガであれ小説であれ、機会があるときに触れておくか、というくらいの動機で。
 さて、どうだったかというと、半ば予想通りの軽さは、アマゾンレビューにあるような低評価の言うところに大いに納得するしかない。確かに浅薄で類型的だ。そのことを言い募れば、こちらも類型的なディスりになってしまう。いかにもの「携帯小説」という、すでにその呼称が差別的だという評がぴったりなのだった。ラノベよりもあきらかに下で、アマゾンでは「感動ポルノ」という絶妙な形容が頻出しているところをみると、それもよく知られた表現なのだろうか。良い得て妙だ。
 確かにお話はご都合主義に過ぎるし、実写映画の主演たちは美少女美少年すぎる。
 にもかかわらず、これが多くの人々の感情をいやおうなく揺さぶってしまうのもよくわかる。「ポルノ」としてよくできているということだ。
 恋人ではない相手との泊まりの旅行というのは、現実に不可能な行為ではないのにほとんどの人々にとって絶望的に起こらないイベントとして、強く感情に訴える。もちろん修学旅行や卒業旅行やその他、グループ旅行の中で、部分的にそれに近い経験はしうるのだろうが、それを増幅させたものとして万人の心に訴えるのだ。
 恋人でない、という条件がミソで、恋人ならばありふれた出来事になってしまうから、これほどの強い訴求力はない。
 このシークエンスを観ながら思い出したのはジブリアニメ『海がきこえる』だ。ほぼ2年前に、十数年ぶりに観直して高評価を新たにしたこの映画でも、恋人ではない高校生の男女が旅行するという展開があり、この描写がまた素晴らしかった。

 さて、そんなに批評的にならずに楽しめばいいということなら楽しかったのだが、いかんせん、難病物として話が進んでいながら唐突に通り魔に遭うってのはどういうわけだ? あの展開は無論予想外だから、それを「衝撃」などと受け止めるのなら、それもまた作品享受の価値としてはそれなりの訴求力を生んだのだろうが、まあすれっからしで理屈っぽい筆者などには到底納得できない。単なる露出、意味もない艶場(ポルノでいうところの)ではないかと思ってしまった。

 そこへいくと柳本光晴の「女の子の死ぬ話」は、若い友人の死をどう受け止めるかを、友人としての視点で描くだけでなく、読者がそれをどう受け止めるかを読者に迫ってくるという意味で、真っ当な「文学」だった。

 映画としては、原作にない12年後の展開を入れたことが評価されているらしいが、これも「ありがち」に過ぎて感心しなかった。もちろんこの物語全体がひたすら「ありがち」な要素の寄せ集めなのだから、単純にそこから生じる効果だけが問題なのだ。
 もちろん、後日談を描くということは、本編を一気に回想の枠組みに閉じ込めて、いやおうなくノスタルジアを発生させる。その意図はわかる。
 だがそこで描かれる「現在」は、あの物語を経由した12年後の主人公の在り方としてバランスが悪すぎると感じた。ああいう自分を受け入れて、それなりの歳のとり方を見せればいいのに、若い時と同じように自分を受け入れられずに机の中に辞表を忍ばせるという描き方をなぜするのか。小栗旬が達者だとしても、脚本と演出の人物造型に納得できない。
 一方の北川景子は物語にとって単に存在価値がない(これももちろん役者のせいではない)。手紙で泣かせる必要があっての登場であることはわかるが、その手紙に心を打たれず。

 本編の方のヒロイン、浜辺美波は「いやおうなく」可愛くてどうしようもない。だが同時に一本調子であざとく感じた。現実感がない。現実感がないほどの可愛さだ。役者が、ということではなく、人物造型が、だ。
 それに比べて北村匠海の主人公は、暗さと不器用さの混じった人物造型が見事で、この人物がこのように描かれていなかったら、この映画の価値はほとんどなくなるだろうと感じた。これが「ゆとりですがなにか」のあの人物と同一人物なのか!? 北村匠海がうまいのか? 演出がここだけは良かったのか? もうちょっと他の作品で見てみないと判断できない。

p.s 既にずいぶん前に彼を絶賛していたのだった!

0 件のコメント:

コメントを投稿