テレビドラマが放送されていた2011年はまだ東北大震災から1ヶ月余りしか経っていなかったなんて、今ではまるでその時の感じが思い出せないのだが、ともかく一緒に観ていた息子と共に、当時テレビ放送されていた連続番組としては毎週、最も楽しみにしていたのははっきりと覚えている。原作は「ヨルムンガンド級」だから、丁寧につくりさえすれば間違いはないのだが、観始めてすぐ期待以上だと興奮した。エンドロールを見ると脚本はまだ「リーガル・ハイ」で評価を不動にする前の(しかし『キサラギ』で期待絶大の)古沢良太だし、画作りがどうみてもテレビドラマではなく映画のそれだった。長谷川博巳も面白い役者だと思ったし、生徒たちも総じてうまい。とうとう来春からNHK朝ドラの主役になってしまう土屋太鳳も、この時に初めて知った。
それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。
おーー懐かしい響き!
返信削除監督は多分、、助監督かな?
ザ・ヤングデイズの編集だぜ
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