2017年3月24日金曜日

『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー

 ヒッグス粒子発見にいたる、欧州原子核研究機構(CERN)の、加速器による陽子衝突実験を追ったドキュメンタリー映画。科学の最先端の、素粒子物理学の世界をちょっとだけ覗いてみたいというしたごころと、よくできたドキュメンタリーならば面白いに違いないという期待で。
 面白かった。
 実験へ向けての期待の高まりや実験失敗の落胆、成功の瞬間の湧き立つような昂揚感。
「パーティクル」とは素粒子のことだそうな。素粒子物理学に関わる学者たちの熱狂(「フィーバー」)が、丁寧に描かれている。
 理論物理学者の、抽象的に宇宙全体を捉えようとする認識の遙かさも、実験物理学者の、具体物の中からデータを拾い上げて抽象へつなげようとする力強さも、実に緻密にカメラが追っている。そして科学者たちの、それぞれチャーミングな素顔も伝わってくる。
 取材に手間をかけているのか、編集が巧みなのか、ある出来事の最中に、映画が追っている関係者が、それぞれどんなふうに振る舞っているかを、同時にカメラが捉えているように見えるのだが、それがドラマチックで、見ていても引き込まれる。
 時折、画面がふいにCG合成になって、物理的な概念を動きで見せてくれるのも楽しかった。

 そして、一般のニュースでも真面目に追っていなかった、この実験の意義も、ちょっとだけ感じ取れた。宇宙の構造を説明する根本の理論、その大きな、対立する二つの仮説を証明するデータがとれるかどうか、数十年に及ぶ研究が実を結ぶかどうかという瀬戸際で、結局、対立する仮説のどちらに与することもなく、といってどちらを否定することもないデータが得られた、という結末もなんともドラマチック。

2017年3月11日土曜日

『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画

 『La La Land』はアカデミー作品賞本命と言われて、結局最優秀賞を逃したが、こちらは日本アカデミー賞最優秀作品賞。
 さてこれが、映画館で観る『La La Land』ほどに面白かったのだった。小さなテレビ画面で観ても面白い映画。テレビ画面の中にも「世界」を作れる映画。物語を楽しむ映画。映画館に観に行きたいとは思わないが、いずれ必ずビデオレンタルして観たいと思わせる映画。
 でも結局そう思っているうちにテレビ放送で観てしまった。

 生徒に娘を殺された中学教師が犯人に復讐する、という話の設定は知っていた。だが序盤で犯人が特定されてしまい、そこを謎として引っ張っていく物語ではないのかと意外に思っていると、なるほど、『告白』とは、主人公一人が事件について語るだけでなく、登場人物それぞれがそれぞれの視点から事件を語る物語なのだった。
 いわゆる「藪の中」物。
 物語の中のさまざまな要素が、視点を変えると別な意味を露わにする。事件自体も緩やかに展開していく。
 アカデミー賞では『悪人』に俳優賞を独占されてしまったが、脚本賞と監督賞を獲った挙げ句の作品賞は当然だと思われる(というか『悪人』の面白さがわからなかった)。ミステリーという、作品の要素の絡み合いの妙こそが魅力の物語の枠組みを、これほどの精妙さで仕立て上げる脚本と演出と編集が何よりすごいのであって、人間ドラマに見所があるわけではない。そもそもが「イヤミス」の称号をつけられるほど、登場する人物も不愉快だし事件の顛末も後味が悪い。とりわけ橋本愛演ずる美月の顛末は、それでいいのか、という程の後味の悪さだった。
 だからいたずらに文学的に味わおうというのではなく、作り物の見事さに感心するべきなんだろう。松たか子の悲しみがいくら見事な演技とともに胸に迫ったとしても。
 
 ところで、岡田将生が『告白』『悪人』で助演男優賞をダブル受賞しているが、どちらも見事な汚れ役であっぱれだった。もちろんどちらも演出の確かさの問題でもある。

 後からわかって驚いたこと。
 原作は、もともと最初の、女教師の「告白」で完結した短編だったのだそうだ。なるほど。映画は、それを序章とした長編の扱いだから、あれ、ここでわかっちゃうの? と意外に思ったのだった。
 それよりも衝撃的だったのは、エンドロールを見ていたら、そこに能年玲奈の名前を見つけたことだ。あの、不自然に暗い教室では、誰が誰やらわからないので、まったく気づかなかった。
 さて冒頭から早送りで見てみる。最初の牛乳を飲む数人の生徒のアップの一人がどうやらそうだと思われる。カットはほんの一瞬、台詞はなし。後の方でいくら探しても見つからない。
 しかも、なんたることか、これがそうだろうと一旦は思った女の子が実は違っていた。それくらい確信はなかったのだが、ネットで当時の写真を見ると、別のカットの女の子がそうなのだ。言われてみれば確かにそうだ。だが予備知識なしで見ても絶対気づかない。じゃあ、最初にそうかと思ったのは結局誰だ?
 まったくどうでもいい話ではある。映画の出来にまるで関わりがない。だが不思議なことに、HDに録画されているこの番組のサムネイルが、能年玲奈なのである。映画の中のほんの一瞬のその画面。
 録画番組のサムネイルは、録画の最初の場面ではないのか?

2017年3月10日金曜日

『La La Land』 -圧倒的な演出力

 『セッション』のデイミアン・チャゼル監督作品ということで、新作のニュースの時から気に留めていたのだが、その後、アカデミー賞レースで大注目となった。先日の映画館通いの際にも、予告編で観るたび、これはいずれ、と思っていたのだが、タイミングが合って娘と出かけられることになった。

 さて、冒頭のハイウェイ・ダンスからもうすっかりやられた。なんという圧倒的な演出力なのだ。縦横無尽に空間を移動するカメラの前で繰り広げられる歌とダンスのあまりのクオリティ。
 どれほどの手間がかかっているのだろう。ワン・カットに見えるだけで実際にはあちこちに巧妙な切れ目があって、いくつものカットをつないでいるのかもしれないが、それにしたところで各カットをどう撮るか、構想するだけでも膨大な手間がかかっているように思える。さらにそれをつないで、長い長いワン・カットに見せるよう、全体を構成するのだ。
 そしてできあがっているこのシーンは、偉大な創作物を見せられる目も眩むような感動と多幸感に満ちている。

 もう一カ所、夕暮れのロサンジェルスの街を見下ろす丘の上で繰り広げられるダンス・シーンも、観ながら昂揚感にとらわれたのだが、それがどこからもたらされるのか、分析はできない。ポスターやCFなどに使われる二人のポーズのシンメトリィなども実に見事だが、だからなんなんだ。それがどうしてこういう昂揚感につながるのかわからない。
 ただ、先日の『シカゴ』も、やはり見事な創作物だと思いつつ楽しめなかったのに比べて、『La La Land』がそれに成功しているのは何故なんだろうとは思う。物語のドラマ性は、さすがに『シカゴ』よりも『La La Land』の方が確かだが、それよりもこの興奮は映画館で観るというシチュエーションに拠っているのだろうか。

2017年3月9日木曜日

『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は

 NHKの番組の合間に、ずいぶんとかまびすしく宣伝をするのだが、まあ鶴巻和哉だし、スタジオカラーだし、とりあえずちょっと。
 と思って最初の海戦のアニメーションがあまりに良くできているので興奮して、一人で観るのもなんだし、娘を誘って、録画した前後編を通しで観た。
 アニメーションは、1時間半の最後までクオリティを落とすことなく、テレビアニメのレベルじゃないだろ、これ、という出来だった。
 が、面白かったとか感動したとかいうことがあるかというと、そんなこともない。
 それはやっぱり脚本の問題なのだ。舞城王太郎は未読で、例の「文圧」を味わっていないうちに評価するのは保留にすべきだが、とりあえずこのお話に関してはだめだった。
 そもそも龍の歯を通して死者が生まれ変わるという設定の必然性がわからない。合理的であらねばといっているわけではなく、その面白さがわからないのだ。
 龍という存在のいる世界はいい。龍はあまりに偉大で神秘的で、何やら「世界」のメタファーのようでもある。その歯に湧く虫歯菌を退治するのが「龍の歯医者」と呼ばれる職人集団の設定もやはり何やらのメタファーじみている。彼らは皆、一度死んで龍の歯から生まれ変わったという。何やらメタファーだか象徴だかに満ちているような気もするが、何のことかわからない。さりとてわからないなりに惹かれるものがあるというわけでもない。村上春樹がそうであるようには。
 さらにそれが龍の歯医者になるためには、もう一度生まれ変わる儀式のようなものを経るのだが、その二重の生まれ変わりにも何の意味があるのやらまたしてもわからない。そのわからなさは、何か深いものがあるのだろうという感触を感じさせないで、単に腑に落ちない気持ち悪さだけがあるのだ。
 全体に宮崎駿の『もののけ姫』と細田守の『ぼくらのウォーゲーム』感が満載だったが、この食い合わせも悪かった。クライマックスの虫歯菌のカタストロフィはまるで『もののけ』のダイダラボッチだったが、ダイダラボッチが善悪ではなく単なる自然のメタファーであるようには描かれない。なんだか反戦思想のメタファーのようでもあり、それなのに反戦思想が大量虐殺を行ってしまう矛盾も気持ち悪い。大惨劇が起こったというのに、それをまるで考慮しない中途半端な和解とハッピーエンドもどきが描かれるのも気持ち悪い。
 贅沢なアニメ技術の無駄遣い、と以前書いたのは何についてだったか。

2017年3月5日日曜日

『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景

 テレンス・マリック作品はこれまで未見。ただでさえ寡作なうえに、テレビ放送には不向きな、非エンターテイメント系の作品を作る人、というイメージ。だがその作品の評価が高いことは聞いていたので、機会があれば、と観てみた。

 さて初マリックはどうだったかというと、これがどうにも困った。
 とにかく説明がない。20世紀初頭のアメリカ。兄妹に兄の恋人を加えた若い3人がテキサスの農場で麦刈りの季節労働者として働く…というのだが、時代背景は冒頭の工場や農場の様子、最後近くに出てくる兵士から見当をつけるしかないし、農場がテキサスであることはわからない。ネットで調べて、テキサスかぁとぼんやり思うだけである。この三人の背景もわからない。戦争孤児ということなのかもしれない。アメリカ人が観れば、その辺りは明瞭だということなのだろうか。
 サム・シェパード演ずる、若い農場主も、どうして家族がいないのか、説明されたりはしない。
 大まかなストーリーや、それを動かす登場人物の心の動きなどが観客にわかるだけの描写は入れているのだが、その語り口は、実に淡泊で寡黙、見慣れたエンターテイメント系の物語とのあまりの違いにとまどう。
 同時に、自然の風景や動物などのショット、人物を写した短いショットなどが随時挿入されるのだが、それが必ずしも物語上の「意味」を指し示しているわけではないのだ。主人公の横顔でさえ、あるときはなるほどここは恋人と農場主の関係に対する嫉妬の感情を表しているのだろうなどとわかる時もあるが、まるでわからない時も多い。感情というだけでなく、物語上の「意味」、それがそこに挿入される必然性がわからないのだ。
 それでも、映画としてはそれでいいのだという確信で作っているのだろうという感触はある。というか、意図的にそうしていることもわかる。ストーリーを形作る人間ドラマは、手堅い愛憎劇ではあるがそれほど深遠なものでもない。
 それよりなにより風景だ。とにかく美しい光景だ。この映画が語られる時に誰もが触れる、アルメンドロスの撮影だ。
 これがもう全編、ミレーだったりアンドリュー・ワイエスだったりと、呆れるほどの美しさなのだ。
 農場で過ごす1年あまりは、恋人が農場主に見初められてからの優雅な日々の前、過酷な労働の日々でさえ、その美しさから「天国の日々」に思える。貧しさの中でこそ輝く美しい瞬間に満ちている。

 最後の悲劇の展開は「天国の日々」を完結させるために必要なんだろう。後味は良くないがそれは「天国の日々」の輝きの代償だ。
 結末の、妹の寄宿舎からの脱走も、相変わらずの説明不足で、今後がどうなることやらわからない。だがそもそも、どうして物語上このエピローグが必要なのかがわからない。ここはわかるべきところなのだろうか。
 何やら妙に印象的ではあるが。

 印象的と言えば、印象的このうえないテーマ曲はどこかで聞いたことがある。音楽がエンニオ・モリコーネというから、この映画のテーマとして聞いたことがあるのかと思ったら、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「水族館」なのだった。

2017年3月1日水曜日

『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画

 というわけで『グエムル』で、怪獣映画ツアーはひとまず。

 10年前の映画だが、観たのはいつだろう。息子が途中で怖くて観られなくなったという記憶があるので、相当前かと思ったが、公開直後ということはなく、ビデオレンタルだったから、その息子は中学生くらいにはなっていることになる。そんなに怖い映画か?
 だがとりあえずTSUTAYAではホラー映画の棚にある。『クローバー・フィールド』はアクション映画の棚なのに。『モンスターズ』はSFの棚だ。

 最初にこの映画を観たときに何よりびっくりして、かつ好きな場面は、怪物に連れ去られた中学生の娘を捜す家族が、捜索に疲れて川縁の売店兼住居に戻って、4人でカップラーメンを食べるシーンだ。
 疲れ切って、口も聞かずにラーメンをすする父親の後ろから、誰かの腕が見えたと思ったら、行方不明の娘が唐突に、だがおもむろに姿を現して、テーブルの食べ物を漁る。父親から始まって、祖父、叔父・叔母が次々と彼女に何かを食べさせる。
 トーンが変わったとかいうこともないから、実はここにいました、という展開なのか、幽霊だとかいった表現なのかもわからない。皆、視線も合わさず言葉も発せずに黙々と食事を続けることに違和感を抱いたまま見守っていると、場面が変わって、彼女は怪物の巣らしき下水溝のようなところで目を覚ます。
 やっぱり。

 観直すと、相変わらずとても変な映画なのだった。
 10年前としてはなかなかによくできたCGの怪物が襲ってくるパニック描写は緊迫感も充分だし、怪物の巣らしき下水溝からの娘の脱出作戦は、起伏に富んだ脚本の巧みさとサスペンスフルな演出が見事だし、家族愛が妙に切なく描かれているかと思えば、その家族の駄目さ加減は、ほとんどコメディのようだ。基本的には駄目な家族が、娘を救おうとするヒロイックな活躍を見せるクライマックスに拍手を送るべきなのだろうが、最も感動的なのは、娘の叔母を演ずるペ・ドゥナが怪物の巣のある場所を目指して橋の下を疾走するいくつかのカットをつないだシークエンスだ。
 音楽もなかなかなのだが、この場面のカットはどれも恐ろしく美しい。巨大な橋桁の鉄骨や、広い川幅を豊かに流れる水の量、闇を照らす照明、薄明るくなっていく川縁の空気が、威容ともいえる迫力でありつつもどこか懐かしい気もする印象的な光景の中を、人目を避けて、夜、朝まだき橋桁の下、川縁の草むらを疾走するペ・ドゥナの息苦しいほどの必死さが切ない。