2019年12月30日月曜日

2019年のテレビドラマ・テレビアニメ

 今年はクドカン脚本の大河ドラマ『いだてん』を1年間見通した。大河ドラマを見通したのは山田太一の『獅子の時代』と、堺屋太一原作の『峠の群像』以来30年振り。
 情報を入れてなかったので、大河ドラマ史上最低視聴率なのだと終わってから知った。クドカン作品としては『ゆとりですがなにか』の密度には並ばないが、オリンピックの歴史について学ぶことができたり、何度かはとても感動的だったり、ものすごい人の力でできてることが想像されたり、良い作品だったと見做すことにためらいはない。
 それにしても単独でも最低視聴率を更新した第39回が、一方で「神回」と呼ばれているなどというのも皮肉なことだ。確かに39回は神回だった。実に密度の高い、実に感動的なエピソードの並んだ回だった。
 最終回も実に感慨深い。さまざまなことが思い出されるのは、これだけの時間を共に過ごしたと思える大河ドラマ連続視聴ならではの感慨だし、紆余曲折あって実現した東京オリンピックはとりわけ閉会式が感動的だったし、「富久」に重ねた後半の構成も見事だった。
 それぞれの競技の帰趨なぞも描けばどんどん膨らむことは間違いないが、そうもいくまい。女子バレーは前からの引きでいくらか言及するとはいえ。ということで嘉納治五郎にからめて柔道競技を描いて欲しいとは個人的な期待だったが、残念。
 なるほど、大河ドラマを見続ける層のニーズには合わないということがあるのか。これほどの作品なのに。残念なことだ。

 『同期のサクラ』も、1話の途中から観始めて(後でネットで冒頭から観直した)、最後まで毎週楽しみだった。
 何話かは確実に感動的だった。笑わない主人公が、各回の最後辺りでほんの一瞬笑う瞬間に、毎回心が動かされた。
 だが、同時に毎回「私には夢があります」で始まる定型の台詞は見るに堪えないと思っていた。ドラマ的な誇張が、こちらの許容範囲を超えて白けてしまう瞬間だった。
 終わり近くなるとこの「白けてしまう」瞬間がドラマ全体に増えてきて、最後は残念だった。「同期」がテーマのこのドラマで、その仲間の絆が、強調されればされるほど白々しく思えてしまう。残念ながらそこに共感できるほどのエピソードの積み重ねはなかった。
 細かいことだがとても気になったことがある。
 このドラマは「空気を読まずに正論を吐く」主人公のキャラクターが核心にある。それ故の衝突の連続が物語を引っ張るのだが、例えば街角で歩きスマホをしている人を注意する際に「やめていただけると助かります」と言うのが気持ち悪いと毎回思っていた。歩きスマホをやめるべきだと考えるのは自分が「助かる」ためではないはずだ。「やめなさい」ではいくらなんでも高飛車で、視聴者の共感を得られないと考えて、こういう言い方になったのだろうとは思うが、一方で論理の一貫性がなくなってしまうことが。
 それともまさか、「やめるべき」だと考えるのが自分の性分に過ぎず、それに合わせてもらうことは自分にとって「助かる」というだけであることを自覚してそのように言っているのか。

 今年、1クール見続けたアニメがどれくらいあるかとWikipediaで調べてみると…
「荒ぶる季節の乙女どもよ。」「ガーリー・エアフォース」「賭ケグルイ××」「歌舞伎町シャーロック」「鬼滅の刃」「キャロル&チューズデイ」「ケムリクサ」「荒野のコトブキ飛行隊」「コップクラフト」「PSYCHO-PASS サイコパス 3」「さらざんまい」「女子高生の無駄づかい」「続・終物語」「進撃の巨人3」「厨病激発ボーイ」「Dr.STONE」「どろろ」「ナカノヒトゲノム」「ノー・ガンズ・ライフ」「BEASTARS」「ブギーポップは笑わない」「モブサイコ100 II」「約束のネバーランド」「Revisions リヴィジョンズ」「ワンパンマン」「警視庁 特務部 特殊凶悪犯対策室 第七課 -トクナナ-」
 うわっ、わりとある。50音順だから、年の最初の方のは結構懐かしい。
 さて、今年ばかりこんなことを振り返ってみたのは、最近終わった第4クールの『BEASTARS』が素晴らしかったからだ。
 制作のアニメ会社・オレンジは『宝石の国』も素晴らしかったが、『BEASTARS』ではもう一段階レベルアップしている。CGくささがなくなって、セルアニメに近い画の柔らかさと、セルアニメには難しい細密さとが同居している。
 何より素晴らしいのは演出の繊細さで、場面によっては原作よりも、ある瞬間の「劇」的な情感が増してさえいる。
 シーズン2もあるらしい予告だったので、楽しみ。

 上記の中には、見続けはしたものの、ほとんど宿題のようにいやいや片付けたものもある。
 上記以外に言及しておきたいのは、7話まで放送されてから、もう一度1話から再放送をするという謎の放送となって年を越す『バビロン』だ。7話は、正直、ここまでやって大丈夫かと心配になる展開で、その翌週から再放送になったので、やっぱり問題になったのかなあ、などと心配になった(サイトでは続けて新年に放送するようだ)。このままいけば傑作の予感なのだが、野崎まどは「正解するカド」が最後に残念なオチになったので、期待半分不安半分。

 それから、2話まで観てやめた『星合の空』が、とても心を動かした。悪い意味で。
 どうでもいい作品はどうでもいい。だが赤根和樹は『鉄腕バーディー DECODE』のアニメーションが素晴らしく、この『星合の空』も期待して見た。
 確かにアニメはクオリティが高い。軟式テニスを題材にしているのだが、フォームもスピード感もいい。
 だが演出がひどい。これがまた、どういうわけだ、と呆れるようなひどさなのだった。なんだかちょっと良い感じのドラマ的描写が、あまりに文脈のバランスやリアリティを無視して描かれるのだ。この気持ち悪さは『同期のサクラ』にも通じるのだが、あちらはドラマ的誇張をどれくらい受け入れることができるかという視聴者の好みとのマッチングによって許容できたりもするのだろうが、このアニメの気持ち悪さを受け入れることのできる人はいるのだろうか。
 同時に、この作品は監督のオリジナル脚本でもあり、物語としての辻褄や整合性、リアリティに対する余りの意識の低さが、演出のひどさと完全に同期している。単なるスポーツ物ではなく青春期の心の揺れを描こうとしているらしいことや、「毒親」などシリアスな問題を扱っていて、それが充分な繊細さで考えられていないところが一層無惨に感じられる。
 2話でやめたあと、何かの間違いだったのだろうかと11,12話を観てみたのだが、印象は変わらなかった。大会における試合が描かれる2話だったのだが、劣勢からの逆転が、どういう必然性によって起こっているのか、まるでわからない。
 もちろん現実の勝負の帰趨は偶然と実力によって淡々と決まる。だからリアルに描こうとするなら「偶然と実力」以外の必然性はいらない。
 だが物語としてはそこに物語的な必然性を与える方が面白いはずなのにそれはなく(少なくとも説得力のある形では)、一方で「形勢が逆転する」という物語的な要請にしたがって試合が展開しているだけで、それが「実力」を反映しない「偶然」に拠るものだという描かれ方をしていない。ならば必然性が必要なはずだが、それはない。というか「形勢が逆転する、という物語的な要請」自体が「必然性」になっている。こういうのを「ご都合主義」というのだ。
 「物語」や「人間」に対する認識の浅さとアニメーションの質の高さが、驚くべきアンバランスで同居している。ある意味すごいアニメだ。

2019年12月26日木曜日

『監禁探偵』-物語構造の破綻

 我孫子武丸がシナリオを書いているマンガが原作なのだということは、観終わってから知った。
 前半は楽しいぞと思いながら見ていた。謎とサスペンスに満ちた矢継ぎ早の展開に加えて、監禁されている夏菜演じるヒロインが、「安楽椅子探偵」ならぬ「監禁探偵」として事件を推理しつつ、監禁している側の主人公との立場を逆転してむしろ優位に立っていく過程は、気の利いた会話とヒロインの魅力で、かなり楽しかった。
 前半の推進力は殺人事件の犯人が誰かという謎だ。そこに、さらなる推進力としての、明らかにダリオ・アルジェントの「サスペリア2」からの引用である、鏡に映る女がからむ。同時に殺された女の背景を探る、制限時間を設定された探索行動が物語を引っ張る。これらがどんな真相に収斂していくかと期待していると、まるで呆れた決着を見るのだった。女の背景が殺人事件に全く関わりがない上に、「鏡の女」の正体も、まるで唐突でなんの驚きもない(まるで何もないことに驚くくらいに)。この肩すかしは、ドンデン返しの快感というよりは、呆気にとられるばかりだった。これは完全に脚本の構造の破綻だ。「サスペリア2」もどきの犯人の設定も、オマージュだかリスペクトだか、そのわりに原作の精神をまるで表現していない無残なモノマネだった。
 夏菜が魅力的だっただけに残念。

2019年12月18日水曜日

『新感染』-健闘の韓国産ゾンビ映画

 『打ち上げ花火』アニメリメイクを劇場で観たときに近日上映としてポスターで見て以来、いつか、と思っていた。今回は特にきっかけもなく、レンタルの棚で見つけて。日本産のまともなゾンビ映画として『アイアムアヒーロー』と比べたくなってしまう韓国産のゾンビ映画。出来としては『アイアム』よりやや上、というところ。
 設定としては軍施設からのウイルスの漏洩で、感染した生物がゾンビ化してしまうというシンプルなもので、「走るゾンビ」系。
 多くの場面を列車内に絞ることで、サスペンスを盛り上げつつ予算規模を抑えることに成功している。とはいえ、一旦降りた駅で、すっかりゾンビ化した軍隊に出くわすあたりのスピード感も悪くなかった。このあたりは「走るゾンビ」ならでは。一カ所に集中して「走る」瞬間に、ゾンビが「盛り上がる」ように描かれるのは『ワールド・ウォー・Z』を思い出させた(もちろんあのレベルには精緻に描かれるわけではないが)。
 愛する人を守りつつ戦う勇気と、別れの痛み、生き残る人々の醜さ、など描かれるべき要素は充分に描かれて、そのクオリティが高いので、良質なゾンビ映画だと言っていい。
 家族愛が過剰に喧伝されているが、それもまた上記のクオリティのうちの一つ。
 それよりも、ターミナル駅で、転覆した列車の車両が隣の列車に倒れかかって、その隙間で閉じ込められた主人公達の頭上には、車両の中のゾンビが蠢いている、といった画や、動く列車にしがみつくゾンビたちが折り重なって塊になったまま列車に引きずられていく画など、新鮮な絵作りができていたところに感心した。
 一方で『アイアムアヒーロー』の時に感心した、パニックの「方向」がわからずに、街全体がパニック空間と化すような描写はなかった。列車だけに、「方向」が限定されて。

 ゾンビと戦う描写を見ながら考えてしまった。マ・ドンソク演ずるタフガイの活躍はすこぶる心強かったり愛しかったりするのだが、ああいう戦い方は本当はゾンビにはできないよなあ、と突っ込みたくもなる。
 人間は痛みに対して恐れる、怯むという反応をするし、決定的に自分の体が損壊してしまうことを避けたいはずから、それをあてにして戦えるが、ゾンビにはそうした怯みは期待できないのだ。だから物理的に押しのけるしかない。だが「走るゾンビ」系ではそれは難しいはずで、まるで人間相手に戦っているようなこの映画の描写は、都合が良すぎる。
 合理性を求めることに汲々とするわけではないが、それを考えた上での物語作りをすることが作品の質を上げると思うんだが。

2019年12月17日火曜日

『死の谷間』-静かな週末物語

 核戦争か核開発の事故かで放射能汚染された世界で、地形的な影響からか、汚染から守られた谷間で一人生き残っている女性と、その谷にたどり着いた二人の男の物語。
 人類絶滅もしくは人類消失物のディストピア映画でありながらSSSでもあるという、好物のジャンル×2の設定に、レンタル屋の棚で見かけて即決。
 ものすごく面白かったかと言えばそうでもないが、良い映画だったとは言える。
 一人で生きることの孤独と、仲間ができた喜び、それが女性一人と男性二人というバランスによって不安定になっていくサスペンスが、手堅いタッチで描かれる。
 そしてその不安定さゆえに再び二人にならねばならない喪失感と、引き換えに訪れる安定感はドラマとしての確かな手応えを感じるものだった。
 人類消失物の定番の魅力ポイントは人気のなくなった街中の風景だが、舞台を山中に移していることでそれが観られないのは残念だった。とはいえ、低予算映画としての工夫としてはやむをえないところ。
 代わりに谷の自然の美しさが印象的だった。

2019年12月15日日曜日

『サクラダリセット 前後編』-まあこんなもん

 もちろん期待はしていない。原作の素晴らしさは7巻全体で評価すべきであり、前後編に分かれているとはいえ、3時間半で表現できるはずもない。テレビアニメは24話×20分、約8時間かけてなんとか表現しているのだ。アニメとしての表現には見るべきものはなかったが、それでも丁寧に原作の凄さを伝えていた。
 で、こちらの映画版は、いくつかのエピソードを完全に省略しているにもかかわらず、それでもまるで尺が足りない。まるで説明されていない能力者と能力が重要な役割を果たしているのはどういうわけだ。一体何を理解させるつもりなのか。
 というわけで期待通りだった。
 いやそれでも本当は期待したい。原作の精緻な構造を伝えることができなくとも、河野裕の文章の感触を伝えることはできないのか。その素晴らしさを映画としての語りで表現することはできないのか。
 単なるストーリーの絵解きになっていて、かつストーリーさえ描き切れていない。

 平祐奈は、ポスターで見ると春埼美空なのかと思っていたら、相麻菫だった。いや、黒島結菜とキャスティングが逆だろ。
 と思っていたら、前編の最後に相麻菫が蘇って、台詞を聞くと、なるほど、これだから春埼美空にするわけにいかなかったのか、と思った。
 と思っていたら、後編では喋る。春埼美空の方が喋らない。じゃあ、やっぱりこっちを平にすればいいじゃないか。黒島の相麻にいっぱい喋らせればいいじゃないか。
 玉城ティナの村瀬は、ばっちり嵌まっていて見事だったが。

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

 最初の方を観て、一人で観るのが惜しくなって家人を誘って観た。
 老いて認知症になったサッチャーの現在と、若い頃から首相時代までの彼女の人生が並行して描かれる。
 大いに満足してネットで見ると日本人には必ずしも評価が高くない。確かにサッチャーの伝記映画としては食い足りないんだろう。
 だがそこではないのだ。メリル・ストリープの演技と、映画としての描写力で、どこもかしこも芳しい。若き日の、夫からのプロポーズの場面やら、ラストの別れは大いに泣かせるし、政治家としての決断の厳しさも孤独も、老いの孤独も心に迫る。映画を観ることの素晴らしさに溢れている。
 その中で考えていたことを二つ。
 フォークランド紛争の戦闘命令について、アメリカから苦言を呈される。大使は「自分は戦争に行ったことがある」というが、それに対してサッチャーは「自分もずっと戦ってきた。男達の中で。」と返すのだが、女性の社会進出にともなう困難と戦争の悲惨を同列に並べて、サッチャーの決断を勇気あるもののように描くのは違う、と感じた。まさかサッチャーさん本人がそんなことは言ってはいないだろうから、これは映画的な演出の失敗だと思う。

 もう一つ、気になったこと。冒頭から画面に登場して主人公と会話をする夫が、本人にしか見えない幻想であることが観客にわかる展開は、以前書いたことがある映画的映像トリックだが、これが全体を通して重要な構造なのだった。ずっと以前に死んでいる夫がそこにいるかのような主人公の振る舞いは、単なる認知症による妄想というだけではなく、半ばわかっていてそうしているようにも見える。夫の遺品の整理がなかなかできないでいる、という現実は認識されているようだからだ。
 映画の結末は、想像の中の夫に別れを告げて遺品を整理することで、残された日々に前向きになる、ということなのだろう。これはすこぶる感動的なのだが、この転換がどうして訪れたのかが一度観てもわからなかった。そうなると単なるご都合主義的ハッピーエンドに見えかねない。何らかの必然性を納得させて欲しい。
 夫の妄想は、老境の孤独の慰めであると共に、そうした現実を受け容れ難いことへの桎梏を表現しているようにも見える。中盤で、想像の夫を必死に否定しようとしているからだ。
 これが結末の夫との別れに至る転換点は、若い頃からの人生の回想が首相を辞めた時点まできたときだ。伝記的な回想と映画としての物語の終わりをシンクロさせている、というだけなのだろうか。もう一つ、必然性のようなものは見出せるのか。
 様々な立場の対立が政治にはある。それは単なる正誤の対立ではなく、別の価値や方策の対立なのだからやむを得ない。そうした対立に基本的には勝ち続けてきたサッチャーが、最終的には支持を減らして首相を逐われるのだが、そうした敵対する相手を想像の中で、想像の夫と共に「臆病者」と繰り返し罵倒する勢いのまま、遺品の整理へとなだれ込む。
 この展開はどういう必然性なのだろう。
 妄想とはいえ、そうした思いを他人に向けて言葉にして表すことで自分自身が納得したからだ、というのが家人の解釈だが、これはつまり言うことを言ってすっきりしたから、ということなのだろうか。
 対抗してこちらも無理に理屈をつければ、政治的対立者を「臆病者」と罵って後、さて、夫は既にこの世になく、自分もまた老いさらばえていることを認めない自らこそ「臆病者」だと気づくことで、一歩を踏み出したのだ、という解釈はどうだろう。
 遺品の整理のカットは勢いもあって高揚感があり、その終わりに夫の妄想が消えていく場面は切ない。そして翌朝の彼女は何歳かは確実に若返ったように見える。結婚時には「皿洗いをして終わるような女にはならない」と言っていたのと対応して、紅茶のカップを洗う姿に朝の小鳥の鳴き声がかぶる。
 すこぶる感動的だ。

2019年12月11日水曜日

『人狼ゲーム インフェルノ』-期待には届かず

 偶然にもデスゲーム映画が続いたのは偶然だ。あちらはマンガのセット販売をブックオフで見つけて読んだのと、こちらは去年テレビで楽しみに見た『人狼ゲーム ロストエデン』の再放送をまとめて観て、懸案だった劇場版を観てしまおうと思ったことによる(それにしてもこの再放送は、去年から今年にかけて蜿々とやっているが、一体何回目だ。それだけ需要があるのか)。
 それにしてもデスゲーム系の物語としてはこの二つの間に「リアル鬼ごっこ」をはさんだ3作がエポックメイキングな3作品と言っていいのかもしれないが、その中では「リアル鬼ごっこ」には思い入れがない。まあ原作未読のまま映画だけ観て評価するのは『バトルロワイヤル』の例からすると不当なのだが。

 さて、テレビシリーズから続けて観て、過去作に比べて何らかの感慨があったかというと、残念ながらなかった。テレビシリーズでは、これまで描かれたことのない、クローズドサークルの外、警察や学校が描かれるのは『SAW』的な物語の立体化かあるいは、それぞれの人物が掘り下げられるかと期待されたのだが、時間をかけた割にそうでもなかった。なぜだろう。不思議と言えば不思議だ。
 時間をかけてエピソードを積み重ねると、それだけその登場人物に対する思い入れが深くなり、その生死にそれだけ心を動かされるようになる。だから時間をかけられるのはそれだけ有利なはずだ。
 結局、それぞれの人物に思い入れさせるようなエピソードが描けていないということに尽きる。友情も、愛情も、生活への慈しみも、どうにも「足りない」。これでは長さがそれだけでもつ利点が生かせない。充分な手応えとして感じられない。
 そうはいっても長い時間を2回もつきあったせいで、もしかしたらこれからも時々思い出したりする気もするが、とりあえず期待ほどの感動はなかった。
 とはいえ若手俳優陣の演技は相変わらず良い。このシリーズのどれもがそうだ。この点の演出は悪くないらしい。やはり脚本の練り込みが問題で、これを企画集団で何とかするという手はないのだろうか。
 ドラマとしての弱さとともに、パズルとしての魅力が相変わらず出てこないのも。

2019年12月8日日曜日

『バトルロワイヤル』-やはり良さがわからない

 『少年チャンピオン』で2000年から5年にわたって連載された田口雅之のマンガ版は、時々目にしてなかなかよくできているぞと思っていたのだが、最終的にどれくらいの長さになるかわからず手を出さずにいた。
 最近、ブックオフでまとめて売っていたのを見つけて買って、通して読んで、大いにのめりこんだので、その勢いで映画を観直してみる気になった。
 一度観たことはある。その時は感心しなかった。なんでこんなチャチなドラマが評価されるのかわからん、と思った。原作の感動のかけらもないのはどういうわけだ、と思った。
 さて、十数年ぶりに観直してどうだったかというと、やはり変わらないのだった。一体何が見落とされているのか。評価する人は一体何を見ているというのだ。
 原作とマンガ版は、生き残るために級友を殺すという決断をすることに対する葛藤と、そうして大切な人が一人ずつ死んでいく痛みが強度のある構成で描かれていて、やはりドラマとしての感動があるのだ。
 そして、死んでいく者の抱えているドラマが丁寧に描かれていることで、その死に読者が思い入れてしまうことにも成功している。
 こういったドラマの要素はほとんど『Walking Dead』のクオリティに匹敵する。
 だが、この映画にはそれらが何もない。単純に長さが足りないということは厳然たる事実として大いなる制約ではある。しかしそれは映画のもっている条件なのだから、それでなんとかするしかないのだ。そうでなければ映画化なぞしなければいい。連続ドラマにすべきなのだ。
 しかし謎なのは、このようにまったく空虚に感じられるこの作品が、日本ばかりか海外でも高い評価を得ていることだ。何が心を打つというのか。
 ただ、原作に全くない要素として突如挿入されるビートたけしの教師とヒロインの交流が、異様な異化効果を生んでいるとは言える。
 とはいえ、そんなことで、なんだか良い映画のように思わせるのは邪道ではないか、と原作に思い入れのある者としては納得できないのであった。

2019年12月7日土曜日

『JOKER』-予想を超えない

 娘の希望で映画館で。2時間あまりの映画体験を集中するには居間のテレビよりやはり映画館。
 前評判どおり、良かった。
 が、前評判の予想を超えなかった。
 もともとは心優しい男が、絶望が募って、ついには狂気に至る、という流れはレビューでわかっていた。そしてそれはうまく描かれている。
 虐げられた者の暴発は、一方ではカタルシスでもあり、一方では絶望の相互作用の悪循環にも転落する。だが、それは予想の範囲内でもある。快感と不快感のない交ぜになった混沌のまま物語は進んでいくが、もっと予想外の、しかし緻密に組み立てられた展開にならないかと、高望みしながら観ていて、そして結局そうはならないまま終わったのだった。
 もちろん、同じアパートの住人である黒人女性との関係が、どこからか妄想であるらしいことが示され、結局どこからかがわからないといった描写や、最後の病院のシーンも、そこまでの展開が妄想なのかもしれないという可能性を示唆するから、これは作劇上の大いなる工夫ではある。
 だが主演のホアキン・フェニックスの演技のレベルに匹敵する程の物語の起伏とは思えず、つまりはホアキン・フェニックスだのみになっている、と感じたのだった。
 もちろんホアキン・フェニックスは素晴らしかった。あの不気味な体型とダンスは、何だかわからない感情で心をざわめかせる。
 だが感情のありかたは「絶望と暴発」という以上の複雑なものとは感じられなかった。その意味で「わかる」。
 のだが。

 ところで、どういうわけか、主人公の行為が社会に伝染していく過程が描かれないのは大いなる不満だった。不全感がある。社会が主人公の意図を曲解しつつ、結局は同じ不満によって暴発していく過程は、相似形のはずである。言葉だけ「支持者がいる」と語られるが、街角にピエロは映されるが、それが社会的な狂気として描かれるカットが挿入されるわけでもなく、だがクライマックスでいきなり大規模な暴動として描かれるのは、まるでテレビ放送でカットでもされたのかと思うくらいの不全感だった。

P.S.
 途中の展開全てが妄想だったという解釈もあるというネット評を見て、なるほど、街角で見るピエロもまた妄想なのかもしれず、そういう意味で途中の小規模暴動は描かれないのだ、という可能性もあるかと再考。

2019年11月18日月曜日

『パズル(原題『Ruin Me』)』-ありがちなビデオスルーのホラー

 同名の邦画もあるらしいが、こちらは『Ruin Me』という原題のB級洋画ホラー。原題ではわかりにくいとはいえ、『パズル』的要素はごくわずか、おまけにジャケットも内容を全然反映してないじゃん、とはネットでも散々言われていることではあるが、ビデオスルーの低予算ホラーにありがちな。
 ホラー映画っぽいシチュエーションを楽しめるキャンプという企画に参加してみると、ほんとに連続殺人が起こって…という、まあありがちかもしれないが愉しいジャンルではある。テレビドラマとしては合格点かもしれないというくらいには愉しかった。
 が、まあもうちょっとヒロインに可愛い女優を選べなかったかと、不思議ですらある。

2019年11月15日金曜日

『金融腐食列島 呪縛』-クオリティは高いが満足度はいまいち。

 原田眞人監督作品ということで、期待しつつ。
 情報量が多い、というか避けようもなくわかりにくい。この感じは『関ヶ原』にも通じる。が、『関ヶ原』よりはよほど観られる。
 メガバンクの、再生へ向けての若手の奮闘を、臨場感も緊迫感充分に描いている。
 しかし、この手の群像劇で、問題の複雑さや微妙さ、男の決断の重さなどを描くには、横山秀夫原作の、例えば『クライマーズ・ハイ』や『64』の、どちらかといえば映画よりもNHKのドラマの方が上か、とも思う。これは原作の問題。
 映画としていつもの原田クオリティだが、いくつかの場面で、いささかお芝居が過ぎる、とも思った。雨の中をスーツで走る、とか、上層部に若手が詰め寄るときに、周囲をぐるぐると歩き回る、とか。
 ドラマティックであることと重厚感が反作用する。
 ということでクオリティは高いが満足度はいまいち。

2019年11月13日水曜日

『Get out』-受け止める姿勢作りに失敗

 黒人男性が、白人の女性の実家に招かれて感じる居心地の悪さが描かれているらしいとの事前情報で観始める。「出て行け」とは、白人コミュニティから主人公が言われる台詞かと予想される。
 なるほど、よくできている。ものすごく面白かったとは言わないが、監督による解説音声で観直してみると、あれこれ、よく考えられているのだった。伏線が細かく張られていて、気が利いている。
 微妙な居心地の悪さを演出するのもうまい。
 題名も、ダブルミーニングが効いているから、これがわかりにくいからと妙な邦題にしなかった判断は良かった。
 だが充分に恐いとは思えなかった。よくできているのに、なぜだろうと考えてみると、つまりどういう映画なのかが最後近くまでわからず、受け止める構えができなかったのだ。
 一方でそれが売りでもある。どんでん返しとしては、ジャンル毎ひっくり返す力業を狙っている。
 だが、ホラー映画として「安心して」見られない分、怖がって良いのか、観客としての姿勢が決めきれない。
 そこには、基本的な設定の荒唐無稽さのレベルに戸惑ってしまった、ということもある。オカルトなのかサイコなのかは、受け止める姿勢に大きな影響を及ぼすのだ。どちらでもないトンデモ設定に戸惑ったまま最後まで観てしまった。
 といってネタバレされてから観るのもなあ。

2019年11月6日水曜日

『ドリーム・キャッチャー』-意外と好きな人が多いらしい

 観たことがあるという記憶はある。が内容は思い出せない。こういうのが面白いはずはないのだが、それを確認するために観てみる。
 やはり面白くない。確かにネットで褒める人がいる、ダディッツの母親の場面は感動的だったし、「記憶倉庫」の映像化も良かった。森の中を動物たちが走る画も綺麗だった。
 だがやはり、主人公グループのうち半分が活躍するでもなく死んでしまうとか、軍人二人がエイリアン退治に関係なく殺し合ってしまうとか、不満が多すぎる。それに意味あるように描かれているわけでもなく、単に物語上の不備としてしか感じられない。満足感に乏しい。
 とはいえ、テレビ放送はかなり多くのカットをしているので、ノーカットで観れば物語的な欠落感はもうちょっと軽減するかも。
 それにしても子供時代の場面は、なんと『It』であることか! 『スタンド・バイ・ミー』でもあるんだろうけど、やはり去年観た『It』と重ねてしまった。いじめっ子どもから、いじめられている子を助けて仲間にする主人公グループ。なんでいじめっ子はアメフト選手なんだろう? スティーブン・キングのコンプレックスか何かか?

2019年10月31日木曜日

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』-「スーパーマン」映画の不満

 ザック・スナイダーの「スーパーマン」映画、『マン・オブ・スティール』の続編なのだが、結論としては『マン・オブ・スティール』と同じ不満を感じた。スーパーマンと対立するバットマンやレックス・ルーサーJr.の動機も、充分に説得的とは感じられなかったし。
 ということで見所はバットマンと悪漢達の大立ち回り。バットマンの重量感とスピード感が素晴らしい。

2019年10月17日木曜日

『エスケープ・フロム・LA』-B級の味わい

 ジョン・カーペンターはもちろん『遊星からの物体X』だが、『ゴースト・オブ・マーズ』も、低予算ながら妙に盛り上がって面白かった覚えがあるし、テレビ放送なら。
 前世紀の映画にしてはCGががんばっているとはいえ、『ブレード・ランナー』のような、それより遙か前の映画があれだけの画面を作っているところをみると、やっぱりジョン・カーペンターってのはB級映画職人なんだろうなあ、と思う。
 でもやはり職人なのだ。なるほど、映画ファンが喜びそうな要素はいっぱいある。荒廃した未来のL.Aの街は、『ブレード・ランナー』よりは安っぽいとはいえ猥雑な映画的わくわく感を湛えているし、カート・ラッセルはふてぶてしい魅力で溢れかえっている。ステルス・スーツだとかいう黒い皮みたいな袖なしシャツもコートも決まっている。
 どういうわけで出てくることになったのか謎なピーター・フォンダと謎の波乗りをするところも、実にB級映画的高揚感だ。怪しい臓器売買業者(役所かも)も、これでもかと撃たれる銃もB級の味わいだ。地球上から電気的なエネルギーを無効化してしまうという無茶な結末も、カート・ラッセルの無茶ぶりによって成立しているが、とんでもない大災害、大惨事を引き起こしたはずで、そんなのどうでもいいと思えるところがB級だ。

2019年10月14日月曜日

『トーナメント(原題「Midnighters」)』-小品として満足

 TSUTAYAの棚で予備知識なしにパッケージの紹介だけで選ぶ。どうもSSSらしいのと、どこやらの小さな映画祭であれこれ受賞しているらしいのと、監督が「ウォーキングデッド」の監督だというので決める。
 さて、やはり低予算で作られている感じはありありだが、悪くない。必要なサスペンスは盛り込まれているし、許しがたいような不自然な登場人物の行動や演出はない。何よりラストのドンデン返しが見事で、こういう小品としては満足のいく鑑賞後感だった。
 それにしても毎度、邦題なのに英語という謎の販売戦略。ネットでも「どこがトーナメント」だというつっこみと、パッケージが内容とまるで違うという突っ込みが満載だが、まあ作品が良ければいいんじゃない? 邦題も、終わりまで見ると、ぎりぎり『トーナメント』とつけたくなった思考はわからないでもない。
 ところで結局わからないままの場面が二つあったのが気になった。

・主人公の夫が、死体の歯をハンマーで欠いて取り出す
・ロッジで荷物の受け取りを待っている間に、ロッジの前に自動車が意味ありげに止まる

 回収しきれなかった伏線だろうか。それなら編集の段階でカットしてもいいんだろうし。そうするとこちらが読み取れてないだけか。それはそれで許せない気もするし。

 ところで、「ウォーキング・デッド」の監督だという件は調べてみると意外なことがわかった。どうせ各話監督が違うんだから、フランク・ダラボン以外は知らないうえにどの人も立派な仕事をしている、というくらいにしかわからないのだが、本作の監督ジュリアス・ラムゼイが監督しているのは、シーズン4の12話「本気の杯(「Still」)」という、とりわけ好きで、観直してさえいるというエピソードだった。
 このエピソードに敬意を払うということで本作を観る価値は充分にあったのだった。

2019年10月5日土曜日

『ブレード・ランナー』『デンジャラス・デイズ』-映像と物語の落差

 むしろメイキングである『デンジャラス・デイズ』を観たくて、いつぶりかはわからないが多分3回目である『ブレード・ランナー』を観る。
 前に観た時に比べても、その歴史的な意味や影響力についてはわかっているつもりだったのだが、そのつもりであらためて観てみても映画的な感興はさして変わらなかった。 
 確かに世界観や画面の密度には目を瞠るものがある。この画面に収められた世界を作って、撮影しているのか、と思うと、すげぇなあ、と素直に思う。
 だがその「感心」は、当時観た人の感じた革新性への衝撃とは随分違うはずだ。それはもうデフォルトになってしまっているのだ。物心ついたときから未来は『ブレード・ランナー』的だったような気がしている。
 いや、そんなはずはない、とも言える。「暗い未来の映画」といえば1973年の『ソイレントグリーン』だが、あれは確かに『ブレード・ランナー』の濡れた街並とは随分違った未来像だともいえる。
 それでも公開の1982年以前から、ピカピカの未来都市に代表されるような未来像ばかりが刷り込まれていたわけでもない。大友克洋の「AKIRA」だって1982年連載開始で、それが全く未知の未来像に感じたかといえばそうでもなかったような気がする。それとももうそれを忘れているだけなのかもしれないが。
 だから人間ドラマ(「アンドロイドドラマ」と言うべきかもしれないが)に寄せて観ると、それほどの感興はないのだった。ハリソン・フォードのデッカードは、やたらもってまわった表現しかしなくてどうにも共感できないし、ルトガー・ハウアー演ずるロイは、物腰こそやたら魅力的だが、物語的な人物造型は観念的に過ぎる。
 最後のデッカードとロイの対決も、最近『ジェイソン・ボーン』シリーズを観たばかりなので、モタモタして実に観念的だ。勿体つけて重々しい空気は出しているが、スピード感も緊迫感もなく、行動としても現象としても不自然で実感できない。
 肝心のデッカードとレイチェルの恋愛はあまりに唐突で共感できないし、ロイがデッカードを殺さないで死ぬラストも、やはり唐突に感じた。物語は細部の積み上げで必然性を感じさせるものじゃないのか?

 さてお目当ての『デンジャラス・デイズ』はやはり興味深いのだった。メイキングの方が本編より面白いのはよくある話。
 もちろん「メイキング」がそれのみでは成立しないのも確かで、本編があってこその「メイキング」の面白さではある。小田和正の『緑の街』が『いつかどこかで』より面白かったのもしかたないのかもしれない。

 そして『ブレード・ランナー2049』を続けて観ようと思って、勢いが足りない。

2019年10月3日木曜日

『花とアリス殺人事件』『花とアリス』-横溢する映画的魅力

 たまたま乙一によるノベラズ『花とアリス殺人事件』を読んで、映画の方を観直したくなって、ついでに何年ぶりだかわからない『花とアリス』まで続けて観た。
 どちらも話としてはどうということもなく、初期の、物語の辻褄に気の利いた仕掛けをして見せる映画ではないのだが、どこもかしこも良い画と良い演出と良い演技がひたすら続く、映画としての快楽に満ちた映画だった。相変わらず。
 仕掛けも、ないことはないのだが、そこで感動するというわけでもなく、それよりもやはりそこら中に満ちた映画的魅力が強い。それは例えば蒼井優の魅力でもあるのだが、それを画面に定着できているところが岩井俊二のすごいところだと言うべきなのだろう。
 それにしても物語としてはどうも腑に落ちないところはいろいろあって、もっと考えると楽しめるところがあるのかもしれないとは思う。『殺人事件』の方の、湯田君がクラスの女子に婚姻届を配りまくっていたエピソードとか、『花とアリス』の「ナメクジ」とか「祭で見る幻」とか「海岸で拾った(別のトランプの)ハートのエース」とか「落研の先輩の高座が観客からブーイングになる」とか、どう考えたら良いのかよくわからない描写が、それなりに意味ありげに描かれるのを、それなりに解釈するともっと面白いのだろうか。大体こういうのは、岩井俊二が話すのを聞くと、本人なりには何らかの必然性があるような説明をするのだが、そういうのを聞いても、それほど大した「意味」ではないことが多いのだが。

2019年9月29日日曜日

『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

 公開当時から楽しみにしていたが、ようやく。期待に違わず愉しく観られた。いかにも金がかかっていない映画がこんなふうに愉しく創れるのは嬉しい。
 基本はアイデアと演出、そして演技。
 ホラーはルールがどうなっているかが命だが、それが最初に明言されるのが好ましく、物語が進行するにしたがって追加のルールが明らかになっていくのもいい。「それ」は歩くだけ、姿を変える、他の人には見えないなどに加えて、頭を銃で撃つと一時的に止められるが、すぐにまた復活する、とか。物理的な存在である、とか。
 といって、結局その正体が説明されないのもいい。合理的な説明は、納得できるようにされればそれもいいのだが、本作では合理的な説明など無理なようにルールが設定されている。これを無理に説明したらそれもしらけるだろうし。
 ただ映画全体は、それを象徴的に解釈しようとすればできそうなように誘導しているとも言える。明らかに性的な要素が盛り込まれている。「それ」を他人にうつす方法に性的接触を用いるとか、「それ」が裸だったり薄着だったり、主人公に対する近所の少年の窃視が何度も描かれたり。
 だから「それ」が性病の隠喩なのではないかと推測されたりする。監督がそれを否定しているのは、「それ」の正体を限定する気がないというなのだろう。映画の中で説明していないのもそのつもりだからなのだろうし。
 一方で「それ」は「死」の隠喩なんだろうという説もあるが、もちろんそれは適切で、そもそもホラー映画の怪物は言ってしまえば全部「死」の隠喩だ。もちろん「それ」はとりわけ「死」の特徴に合致する。ゆっくりと確実に近づいてくる。結局は逃れられない。
 といってそう解釈できるから面白いというわけではなく、やはりその怪物の設定が面白いかどうかだけが映画としての価値で、本作のサスペンスはその設定に拠っているのだ。
 ただ歩いてくる、という設定があるせいで生じているサスペンスが、これほどまでに全編を緊張させているのは本当に見事だ。カメラが登場人物たちを中心から外すたびに、観客は背景に注視してしまう。そしてそこには何もなかったり、あるいは逆に登場人物たちにピントが合っている時に、背後に「それ」が近づいてきていたり。
 しかもそれは絶望的な恐怖ではなく、対処可能なレベルであることが重要である。明確なルールがあると、それに対処することができるから、主人公の、そして主人公達の戦いが意志的に描かれる。ジェイソン・ボーンのように高いレベルではなく、高校生らしい間抜けさで、だが決して不快なほどの愚かさではなく彼らは戦う。

 物語の愉しさ以外にも魅力的だったのは、とにかく近所や公園の紅葉した木々や、アメリカ郊外の寂れた住宅地の街並みが実に画になるように撮られていたこととと、主人公の幼なじみの男子が、主人公に向ける気遣いと周囲の男に向ける嫉妬の眼差しが極めて確かな演技と演出で描かれていたことだ。監督の映画作りの力量を感じさせる細部だった。

2019年9月28日土曜日

『ボーン・レガシー』-すごい創作物

 『ボーン』シリーズではあるんだろうが、どういう位置づけなのかは知らずに観始めて、主演がマット・デイモンではなくなったが、それはジェームズ・ボンドなんかと同じく、役者が変わってもジェイソン・ボーンなのかと思いつつ観続け、観終わって調べてみると別人なのだった。しかも時間軸的に前作に被っているのだった。
 それにしても作戦名とか組織名とかが把握されていないから、誰が何の思惑で動いているのかわからず、そこらあたりもよく考えられていそうな感触ではあるが、鑑賞対象にならない。
 それでも恐ろしく良く出来ていることはありありと感ずる。これで前3作の二人の監督のいずれでもない別の監督作だというのだから、相変わらず米国映画の層の厚さよ。画面のいちいちが緊密な完成度で、役者の演技からカメラワークから編集のテンポから、弛緩したところがまるでない。
 こういうのに馴染んでいると『牯嶺街少年殺人事件』のすごさがわからないのだ。別な基準で判断しなくてはならないのだろうに。
 そして物語の大枠がわからないうえでどこを楽しむかといえば、危機回避のサスペンスだ。巨大な権力が主人公を抹殺しようとしている。それに抗って逃げ延び、時に戦う。
 最初の無人機の爆撃に対抗するシークエンス、ヒロインを殺害しに来た数名の工作員との邸宅を舞台とした戦い、ラストの街中でのカーチェイスを含む、主人公と同等の能力を持っていると思われる工作員との戦いなど、『ボーン』シリーズに共通する、驚異的な判断力と身体能力で、ほとんど絶望的と思える状況から脱出するサスペンスとカタルシスという物語要素を、本作でもいかんなく現前させている。
 ここがすごいところなのだ。監督が替わったというのに。もっとも今回の監督は前作までの脚本には関わっていた人物ではあるので、そのレベルが維持できているということもあるのかもしれないが。
 何にせよ、すごい創作物を観た感動がある。

2019年9月23日月曜日

『マッチポイント』-人間ドラマとして感情が動かない

 『ブルー・ジャスミン』以来のウディ・アレン映画。だが感触はまるで違う。『ブルー・ジャスミン』のようなほろ苦でユーモラスな要素はなく、シリアスでサスペンスフル。
 映画としては、プロローグのテニスのラリーの1球がネットに当たって真上にあがり「どちらに落ちるかは運」というナレーションとともにストップモーションになるところに目を奪われるのと、それが殺人の証拠を隠蔽する場面の指輪を川に投げ捨てるところに重なるところがうまくて唸る。手すりに当たった指輪はどちらに落ちるんだろうと思っていると手前に落ちるところから、これが殺人発覚につながるんだろうと思っているとそれが逆にはたらく結末がドンデン返し的意外性を感じさせるから、脚本的には巧みだということになるんだろう。
 だが不倫の相手を殺してしまう主人公に全く共感できなくて参った。なんなんだ、この支離滅裂な行動は。
 映画としてどうであれ、人間ドラマとして感情が動かない。

2019年9月12日木曜日

『牯嶺街少年殺人事件』-「名作」がわからない

 4時間という長丁場を何度かに分けて観たのだが、こういうのはもちろん良くない。評判の高さのわりにおもしろくないのだが、面白くないから続けて見られないのか、続けて見ないから面白くならないのか。
 観終わってネットで評価を見ると、印象とあまりに違うので、これはやはり見方が悪いのかともう一度観てみる。二度観ると、あちこちがちょっとずつ面白くなってくる。
 やはり闇と光のコントラスト。主人公達が夜間部の生徒だから頻繁に場面に現れる夜の校舎。闇の中から投げ出されるボール。夜の嵐の中で繰り広げられる惨劇。
 とはいえ、評価されているような台湾社会や家族、思春期などのドラマが胸に迫ってくるかといえば、そうでもなかった。上手い役者はいるのだが、肝心なところで若い役者が大根なままシリアスなドラマを見せるのがどうにも興ざめで。なぜそこはそのままでいいのだろう。
 結局、問題のヒロイン殺害にいたる心理にも共感は出来ず。ここが痛みとして共感できなければだめなのだ。たぶん。

2019年9月11日水曜日

『ポノック短編劇場 ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』-山下明彦作品のみ

 『メアリと魔法の花』を観たのがちょうど1年くらい前になる。そのスタジオ・ポノックの第2作がこれ。15分前後の短編3編の併映で、1編目が『メアリ』の米林宏昌作品。
 先日の細田守と同じく、駄目であることを確認するために観ているような心構えになっているが、結果として予想を外していない。
 1話目の米林宏昌も2話目の百瀬義行も、優秀なアニメーターであり、演出も手慣れた表現にはなるのだが、いかんせん物語の浅さがむごたらしいほど。なぜ本人に脚本を書かせる? そこまでお話はどうでもいいから、アニメでさえあればいいとの企画なのか?
 そうすると演出も、それが目指す情感がどこにあるのかもわからず、心を動かすようなことにはならない。1話で言えば子供たちの健気さや父親の力強さが、まったく型どおりに描かれるが、それは物語が型どおりにしか進行しないということでもある。
 アニメ的には、蟹に対する山女魚(?)の大きさと、さらに上空(水面上)から降臨する鷺のスケール感が圧倒的だが、まああれも現実的なスケール感としては不自然で、なぜいっそ架空の世界でないのかが疑問。
 蟹を擬人化して描くのも、他の生物が擬人化されないのはお約束として受け入れるとして、途中に別の蟹が数匹、擬人化されない蟹のまま描かれるのはまったく意味不明で、何事かと思った。
 2話目の卵アレルギーの少年の話も、生活に不便を抱えながらも生きていく健気さが描かれているんだろうなと思って見ていると、最後に手違いで食べてしまった卵入りアイスで危険な状態になるところが物語的なクライマックスで、だからといって結局大丈夫だったというだけの、物語的に何事も起こらない、見事に「なにもない」作品だった。
 おそらく扱いが最も地味な3話目の『透明人間』だけは、充分観るに値する作品だった。画面の隅々まで、新しいことをやろうという気概に満ちている。1,2話の、手慣れた場面を描くだけのアニメーションとはまるで違う。
 山下明彦というアニメーターが関わってきた作品リストには、錚々たるジブリ作品もあるが、テレビの方でも特筆すべき作品があるとも思えず、監督としてはほとんど初作品なのだった。いるところにはいるのだ。人材が。とはいえ、このまま脚本を書いて長編を期待していいのかというとそれはまたどうだろう、という感じではある。

2019年9月1日日曜日

Kiki vivi lily

 久しぶりに、最近知った良い音楽を。
 例によってYoutubeのリコメンドでKiki vivi lilyという、ソロかバンドか、歌手名か曲名かもにわかにはわからないMVを観てみると、これが見事にツボる。
結局ソロのミュージシャン名だったのだが、いやはやおそるべし。「それほどでもない」という曲がない。見事にどれもいい。まずリズムとサウンドが良くて、適度に転調したりテンションがかかったりというコード進行が良くて、そこに乗るメロディが心地良ければ、ボーカルがまたきわめつきに好みである。
 どこかのキャッチコピーには「ブロッサム・ディアリー・ミーツ・ヒップホップ」とあったが、ラップに不感症の筆者も、ヒップホップのリズムは良いと思うし、そこにブロッサム・ディアリーとくれば良くないわけがない。
 だがそれよりも「90’sR&B」とくると、そうかなあ、と思うが、確かに渋谷系というならそうだ。そして渋谷系とは「70年代はっぴいえんど系」の隔世遺伝なのである(80年代をまたいでいるという意味で)。良くないわけがない。

2019年8月28日水曜日

この1年に観た映画-2018-2019

 夏の終わりに恒例の「この一年に観た映画」は以下の通り。

8/14『Identity』-名作サスペンス
8/14『ジェーン・ドゥの解剖』-あの結末は予想外ではある
8/14『残穢』-小説的ホラー?
8/13『マイマイ新子と千年の魔法』-丁寧に丁寧に
8/13『The Visit』-夏の夜の楽しいひととき
7/24『未来のミライ』-期待の細田作品(逆の意味で)
7/24『聲の形』-追悼ではないが
7/18『サマータイムマシンブルース』-映画版が増幅している魅力はほぼない
7/15『祈りの幕が下りるとき』-物語の重みにノれない
6/30『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語
6/16『キングコング:髑髏島の巨神』-怪獣映画のバランスの悪さ
6/10『関ヶ原』-ドラマとして見られない
6/4『ミックス』-古沢良太はどこへ行くのか
5/24『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁
5/19『ラルジャン』-ついていけない
5/19『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たるエンターテイ
5/18『ハドソン川の奇跡』-期待通りであることのすごさ
5/18『ホットロード』-残念な映画化
5/9『蛇の道』-映画的面白さはあるが
5/7『蜘蛛の瞳』-結局妄想なのか?
5/5『君よ憤怒の河を渉れ』-またしても謎のトンデモ映画
5/5『稀人』-頭でっかちの観念映画
4/28『死霊館 エンフィールド事件』-これは凡作
4/21『Eight Days A Week』-今更ながら
4/20『インフェルノ』-申し分のない娯楽映画なのに
4/19『夜は短し歩けよ乙女』-安心の湯浅クオリティ
4/17『お米とおっぱい』-低予算だから腹も立たない
4/7『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画
3/20『GAMBA ガンバと仲間たち』-ここには何もない
3/18『SING』-そつのないエンターテイメント
3/10『ハード・ソルジャー 炎の奪還』-B級そのもの
3/2『突入せよ あさま山荘事件』-安定した映画職人の仕事
3/1『大空港』-堂々たるハリウッド・エンターテイメント
2/24『トランス・ワールド』-SSS低予算映画の佳品
2/14『エクスペンダブルズ3』-まずまず
2/11『ロング・グッドバイ』-楽しみ方がわからない
2/10『ブラッド・ワーク』-意外と真っ当なミステリー
1/14『ディストピア パンドラの少女』-こういうゾンビ映画を観たい
1/10『リセット』-あまりに期待外れ
1/4『アルティメット』-気楽な映画鑑賞
12/30『チョコレート・ドーナツ』-感動作であることは間違いないが
12/26『モンスターズ 新種襲来』-誠実だが図式的
12/22『ラスト3デイズ 彼女のために』-うまいが腑に落ちない
12/18『CODA』-可もなく不可もなく淡々
12/16『シン・ゴジラ』-シミュレーション・ドラマとしての怪獣映画
12/14『アンフェア The End』-シリーズ物なので
11/24『ボヘミアン・ラプソディ』-劇場でこそ観る価値あり
11/11『LOOPER』-満足
11/3『Jellyfish』-苦苦な青春映画
10/25『湯を沸かすほどの熱い愛』-うまい映画だが誇大広告
10/25『ダーク・シティ』-迷宮のような夜の街の手触り
10/12『三度目の殺人』
9/30『メアリと魔法の花』-っぽい情緒だけが描かれる
9/28『ブルー・ジャスミン』-彼女に同情できるか
9/22『スターリングラード』-精緻に戦闘を描く情熱とは
9/16『10クローバーフィールド・レーン』-「精神的兄弟」ねえ…
9/12『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘
9/11『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性
9/3『アリスのままで』-分裂する「自分」
9/3『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく

 上から古い順に並べれば良かった。が、面倒なので直さない。
 昨年からここまでに観た映画は60本。不本意ではある。録画したのが溜まっていく。ブログに感想を書こうという自らに課した務めが、次の映画を見始めるのを阻んでいるところもある。感想も、大抵は1か月後とかになっている。
 とまれ、その中から10本を選んでみた。

7/24『聲の形』-追悼ではないが
6/30『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語
5/24『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁
5/19『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たる
4/7『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画
3/1『大空港』-堂々たるハリウッド・エンターテイメント
11/3『Jellyfish』-苦苦な青春映画
10/12『三度目の殺人』
9/28『ブルー・ジャスミン』-彼女に同情できるか
9/3『アリスのままで』-分裂する「自分」

 『ブルー・ジャスミン』と『アリスのままで』は、アカデミー賞主演女優賞をとった主人公二人の体現する人物像が見事だった。
 『ルーム』もまた主演女優賞だが、こちらは主人公よりも子役の演技があまりに見事だったし、何よりも物語の強さによって印象が強い。
 『Jellyfish』『12か月の未来図』『グリーンブック』の3本はいずれも家族と映画館で観たものだ。やはり映画館で観るという体験が、その体験を特別な物にしているとは言える。その意味では『ボヘミアン・ラプソディ』も悪くなかったが、作品世界への愛着という意味では上記3本を上に置きたい。『ボヘミアン・ラプソディ』『グリーンブック』という、アカデミー賞で数々のノミネートを誇るハリウッド・エンターテイメントに対して、ヨーロッパの小さなプロダクト映画である『Jellyfish』『12か月の未来図』が、同じくらいに強い経験として残っている。
 『大空港』は、隅から隅まで、あまりに見事なハリウッド・エンターテイメントで、これは『グリーンブック』『ボヘミアン・ラプソディ』に比べても圧倒的な量感だった。
 アニメとしては『夜は短し歩けよ乙女』ももちろん良かったが、感動的だったという意味では『聲の形』がやや上だった。これは作品の評価ということではなく、今回の鑑賞に限った、体験としての強さの問題だ。『聲の形』の主人たちのウジウジ加減に比べれば『夜は短し』の主人公の方が遥かに魅力的だし、アニメーションとしてもそれぞれにまったく個性の違った、それぞれに最高級の品質であることから、『聲の形』の方が優れていると言うつもりはない。だから今回について言えば。
 邦画からは、岩井俊二と是枝裕和作品をひとつずつ。二人とも脚本と編集も自分でやる監督として、きわめて作品に対する監督の支配力の強い作品作りをしている。原田眞人の、ほとんどハリウッド映画に匹敵するような、現場が想像できないほど体制として完成された制作と違って、二人はずっと小規模な現場で作業をしている印象だ。だがそこにセンスやら思索やら偶然やらが影響して、なんだかわからない要素の混じった、強い印象を残す作品ができあがっている。『リップヴァンウィンクルの花嫁』『三度目の殺人』どちらも容易には感想が語れなくて、実は『三度目の殺人』は保留にしたままブログに記事さえ書いていない。観直した際に必ず。
 もうひとつ、7月の下旬に『葛城事件』を観たのに、書くのを忘れていたことを、今更ながら思い出した。これは確実にベスト10級だったのだが。

2019年8月19日月曜日

「I was born」を「読解」する 5 -結論を再考する

承前

 さて、以上のような「読解」に基づく「I was born」の授業を参観した、育休明け間もない女性教諭が、腑に落ちないという顔をしている。彼女は、「生む」ことが「自分の意志ではない」という結論に、納得がいかないと言う。生むことはやはりどうしたって自分の意志なのではないか。
 筆者にも、出産を経験したばかりの女性の実感を等閑視することはできない。上記の結論は、若い男性詩人の観念的な生命観に過ぎないのだろうか。あるいは筆者の理屈をこねまわした浅薄な読解に過ぎないのだろか。
 実は生徒の中でも、上記の結論に異を唱える者はいる。
補 この詩が「生むことは自分の意志である」ことを主張していると考えることは可能か。
ここで、問Eで考察した夫婦の選択について思い出そう。母体の危険をおしても子供を「生む」という選択をすることへの葛藤について、読者の目はつい詩中に登場する父親に向けられてしまう。
 だが、あらためて考えればこの選択はまぎれもなく、まずは妻の選択であるよりほかにない。妻が生むと言わずに夫が母体の危険をかけた選択をするなどということはありえない。
 このことは、自らの命をかけて子供を生むことが、まさしく「意志」であることを示している。
 結論はとうに出ていたのだ。
 「生むことは自分の意志である」とすれば「生まれる/生む」という対比は「自分の意志ではない/意志である」という意味で「対立」だということになる。第五聯と第六聯は逆接しているのだろうか。
補 第六聯が「生むことは自分の意志である」ことを示していると考えると生ずる矛盾を指摘せよ。
父親が話の中で蜉蝣に亡き妻を重ねていることは間違いない。蜉蝣と妻は隠喩/象徴関係になっている。先ほどの対比関係で言えば「類比」である。この蜉蝣の話を、どうすれば「生むことは自分の意志だ」ということを表わしているのだと読むことが可能なのだろう。あきらかに母親との「類比」を示しているこの蜉蝣にも「意志」を認めるべきなのだろうか。
 だが蜉蝣は上述のとおり、個体の生命維持よりも生命の循環に殉ずるという母親のありようを示している。先ほどまではここから「生まれることと同様に生むこともまた自分の意志ではない」という文脈を読み取ってきたのだった。これが問Eから導かれる「生むことは意志だ」という帰結と矛盾するのである。
 いや、ここにこそ「対立」を読み取ればいいのだろか。虫には自分の意志はないが、人間は自分の意志で選択するのだ、と。
 だが蜉蝣の卵が掉尾の「白い僕の肉体」と重ねられていることは明らかだし、詩全体の論理としても、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」の前で虫と人間を区別することは、この詩のメッセージにそぐわないように思える。
補 「生むことは自分の意志である」という認識をどのように結論づけたらよいか。
ここから辿り着くのは、つまり「生む」という行為は、自分の意志を否定することを自分の意志で選び取ることなのだという奇妙な結論である。
 ことは自らの生命の否定という悲劇の大きさに関わるまい。子供が生まれてから親が強いられる経済的負担、時間的制約、あるいは自らの未来の可能性の喪失など、何らかの引き替えなしに子供の誕生という現象はありえない。親自身の何らかの犠牲を引き受ける覚悟なしに「生む」という選択はできない。
 つまり、一人の個人の選択に委ねられた自由をなにがしか放棄する、つまり自分の意志を捨てることである。
 それ以上に、生まれてくる子供の健康は、なにがしか確実に運命の手に委ねるしかない。つまり自分の意志ではどうにもならないことを受け入れるしかない。しかし紛れもなくそれは自分の意志でそうするのである。
 「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いに答えるならば、以上の認識を息子に伝えようとしているということになるのだが、むしろ父親自身がそのような厳しさと重さをあらためて受け止めていると言うべきである。
 問Aに答える形で言い直すなら、息子の「生まれることは自分の意志ではない」という言葉に、父親は「では生むことは意志なのだろうか」という自問自答とともに蜉蝣のありようを提示している、ということになる。必ずしも肯定か否定かを結論づけるような論理が父親の中で明確になっていると考えなくとも良いのである。そしてこの問いの答えは上記に見たとおり肯定でも否定でもあるのである。
 Bの父親の感情としても、先の「生命に対する敬虔な思い」は変わらないとしても、同時に一般論としての「生命」ではなく、そこに殉ずることを選択する妻の意志をあたらめて感じ取っているのだと考えると、言葉の裏に秘められた父親の感慨の深さがあらためて感じられる。
 そして、こうした選択にまつわる「意志」の問題が「生まれる」側に無関係でいられようか。確かに「生まれる」ことは「自分の意志ではない」としても、自分の意志を捨てることを選択する意志によってこの世に生まれた子供は、そのことを知って「生まれる」=「生きる」ことを自らの意志によって選択しなおすことを託されていると受け止めるべきなのではないか。

 実はここまで考えてから調べてみると、作者吉野弘自身が次のように述べているのである。
 そうして私は以前長くこだわっていたことの意味を、一瞬理解しました。決定的だった心像は、蜉蝣の卵です。それは、ひとつの意志でした。生み出されるというひとつの宿命の心像でありながら、それは、みずから生をうけようとしている意志の心像だったわけです。(『詩の本Ⅰ 詩の原理』筑摩書房)
 母蜉蝣の体内を満たす卵を、詩人は明確に「意志の心像」として描いているのだ。「宿命の心像でありながら、…意志の心像だった」と、相反する両面を見ているのである。
ここまでの読解は第六聯を母蜉蝣と少年の母、つまり「生む」側について語っているという把握に基づいて、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」という対比を構成していると述べた。
 だが第六聯を、卵について語っているのだと把握したとき、第五聯と第六聯はどちらも「生まれる」側について語っているのだという一貫性のもとに「意志ではない/意志である」という「対立」を形成する文脈によって接続しているということになる。
 だが卵を「意志の心像」として読むためには、やはり上記のような読解が必要だったのであり、そうでなければ卵に形象される意志とは、単に親の命を食い尽くす貪婪なものでしかない。
 だが、「生まれる」側の意志とはあくまで「生む」側の意志を引き受けるものとしてある。

 「I was born」には、「生む/生まれる」ことは自分の意志を超えた、生命の循環という自然の摂理に殉ずることであり、しかしそれをまぎれもない自分の意志によって選ぶことの厳しさと重さを少年が引き受けるドラマが描かれている、というのが以上の「読解」による帰結である。
 こうした結論は、冒頭近くで提示した「命の重さ」をテーマとした詩である、という読解と違いはない。
 にもかかわらず、以上のような読解を経ずに導き出される「命の重さ」とはもはや同じものだとは思えない。
 最初に提示したのはいわば「道徳」的お題目である。だがそれが間違っているとは思えないのに、一方で何かが違うという予感だけがある。その予感を跡付けるのが、詩を「読解」するという、読者による主体的/能動的行為である。
 そのとき、出来合いのレッテルに過ぎなかったお題目に、血が通う。
 この詩を道徳教材として安直に「教訓」を引き出すことも、文学作品として曖昧に「鑑賞」することも、間違っているというよりは意味がない。国語科授業的な「読解」を経てこそ、道徳/文学/教材という対立を超えたところでこの詩に出会えるのである。

2019年8月18日日曜日

「I was born」を「読解」する 4 -大きな問いに答える

承前

 前回「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」という認識から、少年にうちに発生した「文法上の単純な発見」がどのように切り出せるかを文法的に考察した。それは少年の認識と父親の認識のズレを明らかにしたいという狙いからだった。
 ではこの「不思議」は父親にはどのように受け止められたのか。あらためて中心となる二つの問いについて考えてみよう。
 先ほど確認したようにB「父親の感情」についてはAから推測するしかない。まずはA「『文法』と『蜉蝣』をつなぐ論理」を明らかにしなければならない。
 ここからがいよいよ核心である。できる限り生徒に任せ、粘り強い考察と話し合いによって「論理」をつむぐのを待ちたい。
 とはいえ生徒たちが端緒を捉え損なって議論が進まない様子が見えたら、手がかりを与える必要もあろうし、議論が活発に行われているとしても、その後で全体で議論するためには考察の方向性をしぼって論点を明確にする必要がある。
 例えば五・六聯の脈絡は逆接か順接か、などという選択肢を示してもいい。あるいは論理関係を示す次の四つの型、(1)対立関係、(2)同値関係、(3)因果関係、(4)付加関係、などを示してもいい。いわば(1)は逆接で(2~4)は順接だ。
 さらに誘導する。

補 第五聯と第六聯の主題を、対照的な言葉で表現せよ。

 これはこれで難しい問いである。「聯の主題」という言い方にもうなじめない。「それぞれの聯は、言ってしまえば何の話?」などと聞いてみる。むろん「文法」と「蜉蝣」である。だがこれでは「対照的な言葉」ではない。では?
 いよいよとなれば、「第五聯は〈生まれる〉についての文法的な考察だ。では第六聯は?」などと誘導する。第六聯では蜉蝣の産卵が主題となっている。とすれば、第五聯と第六聯の主題は「生まれる/生む」という対比関係にあるといえる。
 読解の為に文章中の対比要素を読み取るのは、文章読解の基本的な技術である。「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があるというのが筆者の持論なのだが、この詩における「生まれる/生む」という対比はどれにあてはまるだろう。

補 第五聯「生まれる」と第六聯「生む」はどのような関係で対比されているか。

 「生まれる/生む」という対比を「対立」「類比」「並列」という関係の型でそれぞれで言い換えてみよう。

・対立 「〈生まれる〉ことは…だが〈生む〉ことは…である」
・類比 「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも…である」
・並列 「〈生まれる〉や〈生む〉は…である」

 「類比」と「並列」を区別しなくてもかまわない場合もある。「類比」は異なったカテゴリーに属する二項に共通性を見出して並べる対比であり、「並列」は最初から同一のカテゴリーに属する複数項をまとめて論述する対比である。ここでは「生まれる」と「生む」は「異なったカテゴリー」とも「同一のカテゴリー」ともつかないから、ここでは「類比」と「並列」を区別しなくともよい。
 この「…」に代入できる内容を詩の中から抽出するのである。
 だが実は選択肢はそれほど多くない。この詩の、散文詩という形式がいくらかその選択肢を見えにくくしているとはいえ、言葉の絶対量が少ない詩というテキストの形式が、必然的に選択肢の幅を狭めている。第五聯の言葉をつぶさに検討していけば、どの言葉が第六聯にも適用できるかはわかる。「受身」もしくは「自分の意志ではない」である。これらの言葉を第六聯に適用したときに、父親の言葉はどのようなものとして解釈できるのか。
 先ほどの対比形式にあてはめてみよう。

・対立
「〈生まれる〉ことは受動だが〈生む〉ことは能動である」
「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないが〈生む〉ことは自分の意志である」

・類比・並列
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも受身である」
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも自分の意志ではない」

 補 「生まれる/生む」という対比は「対立」か「類比・並列」か。

 とはいえ本当はこのように迂遠な手続きを踏まずに、生徒を信頼して問Aを粘り強く考えさせるべきではある。第五聯と第六聯をつなぐ論理とは何か。だがそうして自由に考えさせ、話し合わせたうえで、このような誘導をすることは、やはり生徒の思考に刺激を与え、討論を活発にするのは確かである。選択肢は対立を鮮明にするからである。
 さて、筆者に最初に見出された文脈は「類比」だった。「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないんだね」と言う息子に父親は、「〈生む〉という行為もまた自分の意志ではない」と言っているのだ。
 どういうことか。
 「自分の意志」の最も根源的なところに位置するのは「生きたい(死にたくない)」という欲求である。
 一方、父親が語る母蜉蝣は「口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり」であり、「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる」ような存在である。こうしたのありようは、個体の生命維持を最優先する原則からすれば不合理である。自ら生きたいと思うことが「自分の意志」ならば、蜉蝣にとって「生む」ことは確かに「自分の意志ではない」のである。
 ならば「生む」という行為は何によっているのか。これを先ほどの「文法的な発見」の考察を使って問うてみる。「生む」ことが受身だとすると、少年の「正しく言う」に従えば「生ませられる(「生む」の未然形+使役「せる」の未然形+受身の「られる」)」である。この場合の為手は何なのか。

補 母親に子供を「生ませる」ものは何か。

「運命」「宿命」「神」の他、「子供」というアイデアも出る。子供は母によって「生まれさせられ」、母は子供によって「生ませられる」のである。
 一方、父親の言う「目まぐるしく繰り返される生き死に」とは、生命の循環という、言ってみれば「自然の摂理」とでもいったようなものである。詩の論理から言えば、「生む」ことは自らが生きることを放棄して、自然の摂理に殉ずるということなのである。したがって母は「自然の摂理」によって子供を「生ませられる」。
 問Aについての結論は、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」がいずれも「自分の意志ではない=受身」であるという「類比」関係によって結ばれている、ということになる。
 とすれば問Bはどういうことになるか。
 問Fで考察したとおり、息子の言葉は、彼にその意図がなかったとしても、「文法上の単純な発見」にとどまらない生命の真実とでもいうべき認識に届いている。これが父親に届いていないはずはない。これが、先ほど墓前であらためて思い起こした妻の死と、それに結びつく蜉蝣のエピソードについて、あらたな意味を与えたのである。
 つまり父親はここで、妻の死を、自然の摂理に殉じたものとしてあらためて捉え、「自分の意志」を超えた摂理のうちに循環する生命の、それゆえの崇高さを息子に伝えようとしているということになる。
 このような思考に、レッテルとしての感情語を安易に貼り付けることは難しい。
 それでもかろうじて詩中から挙げるならば「淋しい(詩集再録時は『つめたい』」「せつない」「息苦しい」「痛み」などの言葉はどれも、「近代的個人」がもつという「自由意志」などを超越した自然の摂理の前で、命をつなぐことの厳しさ、重さを受け止めた思いを反映している。生命に対する敬虔な思いでもあり、問Eで考察した、自らの選択の結果としての妻の死を受け止めるための器をあらたに受け止めた感慨でもある。
 これらは、それを話す父親の心情の断片であり、同時に聞かされた息子の心情でもある。
 そしてまた読者にもその認識が手渡されているのである。

2019年8月16日金曜日

「I was born」を「読解」する 3 -文法的に考える

承前

 本筋から些か逸れるが、興味深いやりとりが期待できるので、少々寄り道する。
F 第五聯「文法上の単純な発見」とは何か。
これは読者にとって「謎」とは感じられないかもしれない。だがこの問いに適切に答えることは案外に難しい。
 たとえば「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」「I was born が受身形であること」といった表現で「文法上の単純な発見」を語ることはできない。問うているのは、「文法上の単純な発見に過ぎなかった」と限定されている認識である。「これはまだ序章に過ぎない」といえば、「これからの長大な展開」が想定されているし、「幻想に過ぎない」といえば、「現実」が想定されている。「~に過ぎない」は、言外の想定を背後に隠している。
 「文法上の単純な発見に過ぎない」という限定は、少年の認識を父親の認識から区別しているのだといえる。では父親が息子の言葉から読み取った認識とは何か。
 さしあたってそれを、いわば生命の神秘や真実といったような「哲学的な真理」とでも呼ぶべき認識だとしよう。だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」、あるいは「人間は生まれさせられるのだ」などという原文の表現は、「文法上の単純な発見」と「真理」が混ざっていて、そのままでは前者がどのようなものなのかを語ることはできないのである。
 「文法上の単純な発見」と「哲学的な真理」が混ざっている、あるいは重なっているとしたら、同一の表現のまま父親はそれを「哲学的な真理」として、少年は「文法上の単純な発見」として捉えたのだと考えればいいのではないか。
 だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」のどこが「文法上」なのか。
 では「I was bornが受身形であること」か。これなら「文法上」だ。
 だがこれは先生から「教わった」ことだ。この時彼が「発見した」ことではない。
 では先生から教わった文法上の決まりが、この時実感を伴ったと言っているのだ。
 だが「実感を伴った」とか「腑に落ちた」という感覚を「発見」と表現するのは違和感がある。
 一方で、少年が「やっぱり I was born なんだね」と言うときの「やっぱり」には、前からそうではないかと思われた何事かがあらためて確認できたというニュアンスがある。必ずしも明確な認識でなくとも、その時に「言われてみれば…」という、それに既知の感触をみとめたことを示すのが「やっぱり」という副詞である。
 つまり、この時の少年におとずれたのは「文法上」の認識でありかつ「発見」されたものでありかつ既知の感触も持っているのだ。それをどのように表現すれば「文法上の単純な発見」であると見なすことができるのか。
 いくつかの補助的な問いを用意しておいて、必要に応じて投げかける。
補 「I was born さ。受身形だよ。」とはどのような意味か。
厳密には国語の問題ではないではないが、補助的に確認しておく。
 英語における受身形=受動態は「主語 + be動詞 + 過去分詞」の形で表される。
 「was」が「be動詞」、「born」が「bear(産む)」の「過去分詞」である。したがって「I was born」は英語における受動態の文型である。
 もちろん少年が「発見」したのはこのことではない。「やっぱり」というのは「I was born」が受身形であることによって、前からそうではないかと思われた別の何事かがあらためて確認できたと言っているのである。その「何事」とは何か。
補 何が「やっぱり」だと言っているのか。
ここでもやはり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」こと、と言いたくなる。間違いではない。ここから「文法的な発見」を切り取るにはどのような表現が必要か。
 日本語における誕生を表す動詞「生まれる」が「I was born」と同じく受身形であるということである。「生まれる」が受身形であることは「文法的な発見」である。
 「英語を習い始めて」と始まり、「やっぱりI was bornなんだね」と語られるとき、「文法上の発見」とは、何か英語に関わる事柄に限定されて捉えられかねない。もちろん「発見」の端緒に英語の表現があることは確かだ。だがここで少年が「発見」した認識は、むしろそれまで慣れ親しんできた日本語に潜んでいた秘密である。だからこそ「やっぱり」と表現されているのである。
 あるいは「やっぱり I was born なんだね」に表れる、英語表現が受身形である「訳」がわかったのがこの時の「発見」なのだとしても、それは「真理」が英語の「文法」と直接に結びついたということではなく、あくまで日本語の「生まれる」の文法的な認識を経由することで生じた認識だと言わねばならない。
 だがこの「発見」は正しいか。「生まれる」は本当に「受身形」なのか。
補 「生まれる」が受身形であることを文法的に説明せよ。
 さしあたって「れる」が受身の助動詞のように見えるとは言える。このことを「文法」的に考えてみよう。
 比較の為に第六聯の最後の「死なれた」について言及しておこう。第六聯の最後の「死なれた」に含まれる「れる」は何か。
 品詞分解するならば、ナ行五段活用動詞「死ぬ」の未然形「死な」+「れる」の連用形+過去の助動詞「た」である。助動詞「れる・られる」が「受身・自発・可能・尊敬」の四つの意味を持つことは中学校で習っているし、日本語話者ならば自然にわかることだ。
 「死なれた」の「れる」は、少々わかりにくいが、消去法で「尊敬」である。わかりにくいのは、亡き妻に尊敬表現を使うことの妥当性、自然さにひっかかるからだ。だが、「受身」だととるには「お母さんが…死なれた」ではなく「(我々が)お母さんに…死なれた」でなければならない。「自発・可能」とは考えられないから消去法で「尊敬」だと考えられる。
 「生まれる」はどうか。例文を用いて確認してみよう。

a1 母が私を叱る。
b1 私は母に叱られる。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母に愛された。

a3 母が私を見る。
b3 私は母に見られる。

 aの文を受身形(受動態)に言い換えるには、主語と目的語「Aは(が)Bを」を入れ替えて「Bは(が)Aに」の形にし、述語の動詞(五段動詞「叱る」、サ変動詞「愛する」、上一段動詞「見る」)の未然形に受け身の助動詞「れる・られる」を接続して述語におく。
 「生まれる」という動詞は、この時の述語の形、「生む」というマ行五段自動詞の未然形「生ま」に受身の助動詞「れる」を接続した形と形態的に同じである。
 だが「生む」で右と同様の操作をしてみると、この動詞の特殊さがわかる。

a4 母は私を生んだ。
b4 私は母に生まれた。

 b4は、形式的に同じ操作をしたはずなのに、自然な日本語表現とは言い難い。無理にでも解釈しようとすると「私は母になる為にこの世に生まれ出た」というような意味としてかろうじて読めなくもないが、それでは意味がかわってしまう。
 同時に、「叱られる」「愛される」「見られる」が明らかに「動詞+助動詞」だと感じられるのに対し、「生まれる」は一語の自動詞と感じられる。「生まれる(うまる)」のような古い言葉では、語源的にも「生む」が先にあって、その受身形としての「生まれる」が徐々に一語化したというような変遷をたどることはできない。
 だから受身形であることを「僕」が示そうとすると「生まれさせられる」と言い換えなくてはならないのである。
補 「生まれさせられる」を文法的に解釈せよ。
 ラ行下一段動詞「生まれる」の未然形+使役を表す動詞「させる」の未然形+受身の助動詞「られる」である。
 「走らせる」などの使役形では「走る」のは相手である。自分が「生まれる」の行為主である以上、「生まれさせる」のは自分でない、自分を対象とする誰かである。端的には母親かもしれないし、産科医かもしれないし、それ以外の何かの抽象概念かもしれない。
 「生まれる」という行為が誰かの使役によって為されているのだと示し、その相手の行為を受動することで子供の「生まれる」という行為の受動性を示すのが「生まれさせられる」という使役受身表現である。
 誕生という事態が受身であることを「正しく言う」には、このようにもってまわった言い回しが必要だと感じられるのである。

 以上のことから「生まれる」という動詞は、文法的な操作による受身形と全く同じ形態をしながら、日本語の使い手にとっては、他の受身形とは何かしら違っているという認識もある、とひとまずは言える。
 一方で、受身文への変形も、操作によっては、「生まれる」がそれほど不自然でない文をつくることもできる。先ほどの「Bは(が)Aに」の「に」という助詞のニュアンスを、作用の方向性をはっきり示すように「から」「によって」と言い換えてみる。

a1 母が私を叱った。(a3 母が私を見た。)
b1 私は母から叱られた。(b3 私は母から見られた。)
b4 私は母から生まれた。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母によって愛された。
b4 私は母によって生まれた。

 b123「動詞未然形+受身の助動詞」の場合と同じ操作で作ったb4は、日本語として間違っているとはいえない。もちろん誕生が「母から」「母による」ことは当然すぎて、かえって言うことが不自然ではある(「生まれる」という、一見受身の助動詞「れる」を含んでいるように見える動詞の特殊性も、そこから生じたのかもしれない)。だが少なくとも先の単なる「に」の言い換えのように別の意味になってしまうわけではない。
 つまり、「生まれる」は語源的にも口語文法的にも「動詞未然形+受身の助動詞」であると言い切ることはできないが、一方で見かけ上は受身としての形態的特徴を持ち、意味的にも受身の意味合いを持っているのも確かなのである。
 ここまで考えて再び問う。「文法上の単純な発見」とは何か。どう答えたらいいのだろうか。
例1 「生まれる」という動詞が、「受身形」の形態的特徴をもち、意味的にも「受身」であること。                                  
 英文法を学ぶことによって、少年がもともと感じ取る可能性をもっていた右のような認識が、語る言葉を得たのである。そこから、次のような言い方もできる。
例2 誕生という事態が、英語・日本語どちらも「受身形」で表現される(受身形でしか表現できない)ということ。
 これが、「文法上」であり「発見」であり既知の感触ももっている、この時の少年の認識である。
 ここでは、「文法上の単純な発見」を「哲学的な真理」から切り離すにはどのような表現が必要かを考えてきた。この過程は「I was born」という詩の読解というより、国語科の学習として意義がある。
 そしてこの考察は少年と父親の認識のずれについても考える手がかりを与えてくれる。
 だが、こうして表現された「文法上の単純な発見」は本当に「に過ぎない」と言うほど「無邪気」で「単純な」認識なのだろうか。
 この発見を少年に促したものは、境内ですれ違った妊婦から得た「世に生まれ出ることの不思議に打たれ」るという心理状態である。それを受けての「発見」は「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳」と表現されている。「〈生まれる〉という言葉が まさしく〈受身〉である訳」ではない。
 つまり「文法上の発見」は「生まれる」という語の不思議さであるとともに、そのまま不可避的に「生まれる」という現象の不思議さをも少年に感じさせずにはおかないのである。大人である読者もまた、少年の言葉から既に父親が感じたのと同じような「真理」の感触を感じ取ってしまうし、まして再読の際には、もはやこの詩が全体として訴えているところの「生き死にの悲しみ」まで含めて理解してしまう。
 つまり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」とはそうした「真理」と「文法上の単純な発見」が混ざった形で表現されているのである。

2019年8月15日木曜日

「I was born」を「読解」する 2 -小さな「読解」を体験する

承前

 さて、大きな読解に臨む前に、小さな読解を体験しておく。前述の「部分的な関連性」である。
C 第三聯、すれ違う女の腹を見ることを、「僕」はなぜ「父に気兼ね」するのか。
日本人としては、他人をむやみにじろじろと見るもんじゃない、という躾はそれほど珍しいものではないから、そうした躾を「僕」も受けているとすれば、この「気兼ね」には特別な不思議はない。とりわけこうした気遣いがマナーとして求められるのは、相手が何かしら通常の状態から外れていると思われる時である。奇妙な風体であるとか奇矯な振る舞いをしているとか、あるいは老人、障害者。つまり相手が何らかの社会的弱者であるほど、そうした気遣いが必要とされる。妊婦は、そうした文脈で気遣いを必要とする対象だろうか。
 確かに妊婦は全く通常の状態(誰にも共通する状態)ではなく、しかも保護されるべき存在である。これをいたずらに好奇の目で見ることは控えるべきである。
 だがこの詩でわざわざ言及される「気兼ね」は、この詩の文脈に沿って理解される必要がある。「英語を習い始めて間もない頃」から、「僕」は中学生であろう。そうした年頃の男の子と父親の関係として、性に関する話題が微妙に忌避されることはありうる。つまり、相手に対する関心を隠したい心理として、老人や障害者とは違った、性を連想させる対象として、妊婦に対する関心を隠すべきではないかという心理が、「僕」にはたらいていると考えるのが自然なのではないか。
 さらに、この詩のテーマが、先走りして言ってしまえば「生命」である以上、妊婦は生命誕生の象徴であり、それを単なる興味関心の対象としてではなく、崇高なものとして敬虔な態度で相対しなければならないという無意識の配慮が少年にはたらいているとも考えられる。そのような配慮が父親に理解されるだろうかという危惧がこの「気兼ね」に表れているのかもしれない。
 整理して示そう。

a 一般的なマナー違反にあたることを危惧して。
b 性的な話題に対する父親との距離をはかりかねて。
c 「生命」を扱う際の態度への配慮から。

 aは詩の外部にある「常識」の文脈において「気兼ね」を考えている。bは詩の設定と一般的な親子関係に文脈を見出そうとしている。cは詩全体のテーマとの照応関係で理解しようとしている。
 こうして、細部の表現を、文脈の中で捉えるのが「読解」である。

 次の問いはどのような「読解」を生むか。
D 第二聯、僕と父はどのような事情で寺の境内を歩いていたか。
これは、わざわざ問いとして立てなければ読み流されてしまい、注意深く読んだ者だけがそれに気づく、というような設定についての「読解」である。
 二人は、亡き母親/妻の、盆の墓参をしたのである。これは、頭から第二聯に読み進めた時点では考えつくことのできない解釈である。第六聯の終わりに母の死という情報が読者にもたらされ、それと「夏」と「寺」という情報が結びつくことで、初めて思いつくことができる。第二聯という冒頭近い箇所に、終わりで解決する伏線が張られていたということになる。
 詩の冒頭近くの「或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと」という状況設定を、読者はほとんど読み流してしまう。ドラマが展開するまでは読者の注意はそれほど喚起されない。それを有意味化する情報は後から知らされ、その時にはもう冒頭近くの情報を忘れてしまっている。再読の際に、全体の情報を参照して、「夏」と「寺」という情報の提示を、意味あるものとして読むことで、初めてこうした解釈が生まれる。こうした思考こそ「読解」である。
 この解釈は、詩全体の解釈に何をもたらすか。
 既に詩の冒頭から、少年と父親と念頭には、亡き母親/妻が想起されているのである。二人の間には存在しない母/妻を巡る微妙な緊張があるということである。以下のやりとりも、そのような心理状態を前提として解釈しなければならない。
 「僕」の思考のあれこれも、妊婦に端を発したというよりも、もともと想起されていた母親から、ゆき違う妊婦への関心が喚起されたと考えるべきである。読者の中ではこの妊婦が最終的に亡き母のイメージに重なってくる(この詩の鑑賞の中には「この女は母の亡霊である」といった評言さえある)が、少年にとってはそれは当然の思考回路なのである。
 同時に、例えば先ほどの「気兼ね」についても別の解釈の可能性があることに気づく。妊婦を見ることで、自分が母親を恋しがっていると父親が心配することを「僕」は気にしているのではないか、という解釈(d)である。
 この解釈の妥当性は、この時の二人に、亡き母親/妻が共通の想起対象として認識されているという状況を意味あるものとすることで保証される。一方で、「僕」と父親の間で母親の話題が普段どのように扱われているかという情報が詩の中にないため、それを確信するほどの妥当性はない。ともあれ先の問Cに対する第四の解釈dは、実は多くの読者に支持される説得力を持っているはずだ。
 また、「僕」の言葉を聞く父親も、そこから妻の死を連想したわけではない。亡き妻が先に念頭にあり、そのうえで「僕」の言葉を受け止めたのだ。そのような前提であらためて詩全体を解釈しなければならない。
E 第六聯、父親が、「(蜉蝣が)何の為に世の中へ出てくるのかと…ひどく気になった」のはなぜか。
「気になっ」て友人に話したからこそ、友人が蜉蝣を拡大鏡で見せてくれたのであり、物語の展開を用意するための理由付けになっているという意味で必要な記述であるため、ここにそれ以上の意味を見出さなければならないような謎は感じない。だがここにも「なぜ」と問うてみることで読み過ごしていた「読解」が可能になる。
 「生まれてから二、三日で死ぬ」蜉蝣が「一体、何の為に世の中へ出てくるのか」という疑問とも慨嘆ともつかぬ関心は、それから間もなく息子を産んですぐ死んでしまった妻と結びつけて解釈しなければならない。物語の展開上の必要のための動機としてではなく、父親の心理として、どのような事態がその「問い」を胸に宿らせたのか、と考えると、結果としての妻の死から遡って次のような想像が可能である。
 妻の死が出産に因るものであることは、母親の隠喩になっている蜉蝣の生態からも明らかである。そしてこの「問い」を抱いているのは、妻の臨月の時期である。すると次のような事態が考えられる。そこでは医師から、出産に伴う母体の危険が夫婦に告げられていたのではないか。
 とすると子供の誕生をとるか母体の安全をとるかという厳しい選択に夫婦が直面して、母体の危険をおしてでも出産するという選択を二人がしたということになる。その選択に対する迷いが、蜉蝣の生の意味を父親に問わせているのではないだろうか。
 こうした想像は単なる穿ち過ぎだろうか。もちろん妻の死があらかじめ可能性を予見されたものであることを排他的に根拠づける決定的な論理はない。その死が不慮のものであっても論理的な齟齬はない。だが「ひどく気になった」というテキスト内情報を有意味化するには、そのように考えるのが合理的であることは確かである。問題はこうした解釈がどれくらい「腑に落ちる」か、である。
 つまり父親は、抽象的な生の意味を問う関心に基づいて蜉蝣の雌の卵を見たわけではなく、妻の命をかけた選択の迷いを胸に抱いて見ているのである。そうした問いに対して、蜉蝣はどのような答えを与えたのか。
 これも、後からわかる情報との関連性を想定する「読解」の思考の好例であり、この認識によって、父親の思考をたどる上で重要な手がかりが得られるのである(以上の父親の疑問をめぐる解釈は、一緒に教材研究をした際に同僚の教諭に教えられた。問CやDはいわば定番の解釈に基づいているが、Eについての解釈は目にすることが少ない。しかも詩全体の解釈にかかわる重要な認識である)。

2019年8月14日水曜日

『Identity』-名作サスペンス

 言わずと知れた名作サスペンス。3回目か4回目か。
 サスペンスフルではあるが、それがミステリーなのかホラーなのかサイコなのかオカルトなのかがわからない。だがわからないなりに嵐のモーテルに閉じ込められた人々に襲いかかる連続殺人、という趣向がもう楽しい。
 そしてよく考えられた脚本に手堅いキャストと、言うことなし。
 これ以上は書かずとも人に任せる。  →こちら

『ジェーン・ドゥの解剖』-あの結末は予想外ではある

 監督の前作『トロール・ハンター』が見たいのだが、行きつけの2軒のレンタル屋にない。
 で、これも予告編で気になってはいたので、この機会に。
 『残穢』とはもう画面の感触がまったく違っていて、彼我のこの差が悲しい。いや、ジャパニーズ・ホラーにはそれなりの味わいがあっていいのだろうが、とにかく続けて見ると、邦画のあまりのみすぼらしさが悲しいのだった。
 というわけでこちらは堂々の映画的ルックス。『トロール・ハンター』は自主映画的POV映画ではなかったのか? あちらのCGもちゃちかったのでは?
 で、監察医が死体の解剖をしているうちに襲われる怪異、という設定がどこから発想されたものやらもう謎だ。どこに決着するのかも見ていてわからない。
 見ていると、あ、これは妄想・幻想オチなのかとか、いや物理的攻撃があるか? とか、どこにいくのかわからないところがサスペンスではある。
 で、結局あの結末は予想外だったが、それに心から満足したかというと微妙。だが、悪い映画ではなかった。

『残穢』-小説的ホラー?

 夏の夜にジャパニーズ・ホラーを。この後、一晩で3本観ることになる、最初の1本。
 だが観始めてすぐに、「不気味な黒い影」のCGがちゃちいのにいやな予感が。なぜ? キャストからしてそこそこメジャーな映画じゃないのか、これ?
 題名からわかるとおり、呪い(死の穢れ)が残っているっている話なんだろうと思っていると、そのとおりだ。呪いの連鎖と言えば「リング」と「呪怨」だ。そしてこれは貞子と伽椰子の出てこない「リング」「呪怨」なのだった。では何が恐いというのか。恐くない。関係者が次々と死んだと知らされるのが不気味ではある。が、主要な人物は死にそうもないし、やっぱり死なない。恐くない。
 そしてクライマックスに至っても、冒頭のちゃちいCGの黒い影と、顔に墨を塗った人間が「怨霊」なのである(炭鉱の事故で死んでいるので)。ふざけているのか?
 ということで一体何を目指して作られたのかわからない映画だったが、原作は小野不由美の山本周五郎賞作品なのだった。評価を見る限り、これは面白い小説なのだろう。ということは、この、小説としての面白さを映画で醸し出すことに失敗しているのか、こっちが映画的ホラーを求めていたのが間違いだったのか。「ドキュメンタリー・ホラー」とか言ってるからなあ。

2019年8月13日火曜日

「I was born」を「読解」する 1 -問いを立てる

 吉野弘の散文詩「I was born」の父親は、息子に向かって、なぜ唐突に蜉蝣の話をするのか。その話によって何を伝えようとしているのか。
 だがこのように問うことは間違っている。

 長い間、教科書の定番教材であり続けている吉野弘の「I was born」は、なによりも、読むだけで生徒の心に強い印象を残すことが期待される魅力的な詩として、是非生徒に触れさせたいと思わせる作品なのだが、実は読解の楽しさが期待できる、授業教材としてすぐれたテキストでもある。
 読解とは、テキスト内の情報に、ある構造を想定する思考である。部分的な関連性であれ、全体的な一貫性であれ、テキスト外部への敷衍可能性であれ、テキスト内の情報がある文脈の中に位置付けられたと思えたときに「読解」が成立する。
 「I was born」を「読解」したとき、そこに何が見えてくるか。

 導入として吉野弘の別の有名な詩に触れたり、散文詩という形式に触れたりするのも有益だ。しかるのち「読解」へ向かう思考を始めるための最初の問いは次のようなものである。
問 この詩の中で、最も大きな謎は何か。何がわかればこの詩がわかったと感じられるか。
 思考を開始するためには問題を明確にすることが有効だ。というより、問われて答えることより、問題を発見することこそ重要である。だからどんなテキストを教材として取り上げた際にも、まずこうした問いを生徒に投げかける。
 様々なレベルの問いが発想される。容易に答えられる、もしくは最初から答えが想定されている問いから、答えようのない問いまで。
 例えば「作者はこの詩で何が言いたいか」「この詩のテーマは何か」は問題系が広すぎる。「何が言いたいか」「テーマは何か」はすべてのテキスト読解に適用できる問いだ。だから問いとして間違っているわけではないが、ここでは、このテキストにおいては何を考えることが「言いたいこと」「テーマ」を明らかにすることになるのか、と問うているのである。
 とはいえ詩は、その言葉そのものが現前であるような言葉のありようなのだから、本文を離れた「言いたいこと」を抽象化することは、詩を読むという行為から離れてしまう。このような読解を揶揄して、「言いたいこと」を言いたいのなら詩を書かずに「言いたいこと」を書けばいいのだ、などとよく言われる。それはそうだ。だが、そうした理想的な詩の享受を教室という場で実現することは難しい。方法論も定かではないそうした理念は、テクストの曖昧な読解を出来合いのテーマへと結びつけるばかりで、結局かえって理念に反することになりかねない。
 一方、文学鑑賞ではなく言語学習としての国語科授業を行っているのだから、「言いたいこと」を抽象化することが有益な学習行為なのだと考えられるならばやってもいい。
 だがこの詩の「言いたいこと」はわからないのか? それこそが謎なのか?
 こう言ってはどうか。この詩の「言いたいこと」は「命の重さ・尊さ」だと。
 そう言ってみると、これが外れているようには思えない。同時に、そう答えられることがこの詩がわかったということになるとも感じられない。
 それでも、なぜ「命の重さ」が作者の「言いたい」ことだと考えられるのか、と問うことには学習の意義がある。そのような観念が詩の中からどのようにして抽出されるかを考えることは国語科の学習として有益だ。
 一方で生徒は往々にして「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」といった言い方で「謎」を語ろうとする。確かにそれらが既にわかっている、という感触はない。それらは「謎」として読者の前にある。
 だが実はこの問いはこの詩を「読解」する上で有効ではない。
 試しに生徒に聞いてみよう。するとこれも「言いたいこと」「テーマ」と同様に「命の重さ」へ収斂してしまう。その時読者は、父親の言いたいことが詩そのもののメッセージであると見なしている。ならば先ほどと同様、なぜ父親が「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのか、と問うてみよう。
問 この詩が読者に、あるいは父親が息子に「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのはなぜか。
 こうした問いに対するありがちな回答は次のようなものだ。
 息子の言った「人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」は、一見したところ誕生への不満否定とまでは言わないまでも感謝の不足として受け取られかねない。「生まれたくて生まれたんじゃない。生んでくれなんて頼んだ覚えはない」は安手のドラマの非行少年が口にするお決まりの科白だ。父親はこうした息子の発言に対して、親の犠牲を示すことによって、命は親から引き継がれたものだからそれだけの重みがあるのだ、と息子の生命への軽視をたしなめようとしたのだ。
 説明できてしまった。謎は解けた。
 これが国語科授業で示される一般的な「I was born」の解釈である。あるいは道徳の授業かもしれない。
 こうした理屈を立てることはそれほど難しいことではない。だがこうした説明がこの詩の読後感に釣り合っていないのは明らかである。例えば、「興奮」した息子の言葉は、むしろ嬉しそうであり、そこに生の軽視や不満、親への糾弾の響きを父親が聞き取ったりはしないはずだ。だから読者はそんな理屈でこの詩を読んだりはしない。説明の為の思考が、読者の中で起こった「読解」と乖離してしまうのだ。
 確かに、この詩から受ける感銘は「命の重さ」を感じるということだ、と言っても間違いではない。だが「命の重み・大切さ」という表現は、あらかじめ用意された道徳的価値を表すお題目である。そうしたフレーズが想起されることもまた、テキストをある構造=文脈に位置付けているのだから冒頭の言い方で言えば確かに一つの「読解」ではある。だが詩のテキスト内情報を充分構造化することなしに、出来合いのお題目を引用してすますことと、この詩を読解するという行為との間にはなお大きな隔たりがある。
 にもかかわらず、この詩の「謎」はここにあるという感じは確かにする。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」はやはりにわかにはわからない。そしてこの問いに「命の重さを伝えたかったから」といった答えを対応させても、その「謎」が解けたという感覚はない。だがその答えが明らかに間違っているとも思えない。「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」という問いに対して「命の重さ」という答えを対応させるのも同様である。答えは間違っていないのに謎が解けたとは感じられない。
 つまり、論理のたどり方が間違っているのである。
 そもそも「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という二つの問いの仮の答えとして上に提示した論理は、実際の読者の思考の順序と逆である。aは五聯「少年による文法の話」から、bは六聯「父親による蜉蝣の話」から考えるべきであるように見える。また実際にもまず少年の話を聞いてから父親が話すのだから、説明の際にabの順になるのは、テキスト上の情報提示順としても出来事の生起順としても自然である。
 だが読者はbを考えてからしかaを考えることはできない。五聯は、それを聞いた者が一義的に何かを言いたくなるような話ではない。だから読者は五聯から直接aを考えたわけではなく、六聯から「b 何を伝えたいか」を抽象化し、それが五聯と対応することを確認する、という順序でしかabの問題を考察することはできないのである。
 そのようにして読者は六聯から「命の重さ」というメッセージ(b)を抽出し、それを導き出した要因(a)を五聯から考え、そこに論理を組み立てる。そしてそれを説明の段階でabの順に並べ直す。それが上述の説明である。
 だがこれでもまだ正確ではない。六聯は一義的に「命の重さ」という観念を抽出できるほど単純なテクストではない。蜉蝣の生態を語る父の言葉には「悲しみ」「つめたい(初出では「淋しい」)「せつなげ」といった形容があるものの、それを「命の重み」などという観念に変換することはできない。一旦そうした観念が立ち上がってしまうと、それは自明なことのように錯覚してしまうが、その内容からだけなら、蜉蝣の生態の「不思議さ」でも「壮絶さ」でも、生命の「儚さ」でも「貪婪」でも、さまざまな「観念」をそこに対応させることができる。母の死の真相についての衝撃もまた、安易な観念への変換を拒絶する。
 だから六聯からのみ父の言いたいことを考えることは、本当はできない。
 第五聯で語り手自身が「その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。」と問うている。だがこの答えは詩の中で語られることはなく、父は脈絡の不明な蜉蝣の話を始める。息子の話はなぜ父に「驚き」を与えたのか。またその「驚き」とはどのようなものか。その「驚き」が蜉蝣の話を父親にさせる動因となっているのは明らかだが、その正体が第五聯から読み取れるわけではない。第六聯で蜉蝣の話をしたこととの論理的な対応から遡って推測するしかない。
 結局「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」という〈原因〉は五聯に求められるべきであるように思えるが、それは六聯で実際に話されたことから遡って考えるしかないし、「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という〈メッセージ〉は、六聯に表出しているのだが、それは五聯に呼応することでしか意味を確定できない。つまり五聯と六聯は、相互に意味づけ合っているのであり、どちらかが先に単独で何かを意味しているわけではないのである。
 したがって、立てるべき問いは次の通りである。
A 第五聯「文法上の発見」と第六聯「蜉蝣の産卵」はどのような論理でつながっているか。
B この時の父親の抱いている感情はどのようなものか。
 生徒の立てる問いの定番が「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」であるのなら、授業者の問いの定番は「この時の『僕』と父親の気持ちを考えてみよう」である。登場人物の「気持ち」を問うのは小学校以来の国語科授業の定番ともいえる展開だが、「気持ち」という言葉の曖昧さはそのまま読解の曖昧さを招き寄せ、さらにそれを語る言葉の貧しさにつながってしまう(だから実際には授業者は滅多にそんな問いを発しない。教科書などの手引きやテスト問題がそれを出題するだけである)。
 せめてこれを「心理」と言い換え、いささかなりと読み取るべきこと、語るべきことを明らかにする。登場人物の「心理」とは、「思考」と「感情」のことである。何を考えているか、どんなことを感じているか、である。
 そして父親の「思考」も「感情」も、六聯の記述からb「息子に何を伝えたいのか。」を一義的に読み取れはしないし、といって五聯から性急にその原因を探そうとしても見つかるわけではない。
 Aの問いは、父親の思考を跡づけることであると同時に、作品として成立しているテキストの文脈を、読者として読み取るということでもある。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形では前述の通り考察の論理が自覚されないまま道を逸れてしまううえ、父親の意図や感情が混ざって焦点がぼやける。これをBとして切り離し、Aは文脈の論理を追う。父親の思考も感情も、「なぜ話したか」「何を伝えたかったか」もすべてこの、文脈の論理から推測するしかないのである。
 とはいえ文脈の論理は、父親自身にも無意識であって構わない。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形ではつい父親の「意図」を考えてしまうが、Aで問うているのは必ずしも明確に「意図」されたものとは限らないのである。そして後述するように、父親はその論理を明確に諒解したような「意図」を持って蜉蝣の話をしたわけではないのだと筆者は考えている。さらには一般的にいえば作者にすらそうした論理が無自覚であっても構わない。それは読者がこのテキストを「読解」するうえで想定する論理のことである。そうした論理が登場人物や作者に自覚されたものであるかどうかは、併せて考えるべき問題であるとともに、区別して考えるべき問題である。
 一方でBの「感情」はまた難物である。「気持ち」を問う発問が貧しくなりがちなのは、感情を表す語彙が限られているからである。喜怒哀楽では人の感情のありようの微細な綾を表すことはできないと感ずるから、しばしば「…という複雑な感情」などという曖昧な言い方しかできないことも多いのだが、それでもまずは表現しようと考えてみることで読解が促される。この時の父親は喜んでいるのか怒っているのか悲しんでいるのか(少なくともそう書いてあるからには「驚いている」のではあろうが)。その感情のあり方は、第五聯と第六聯をつなぐ論理とどのように整合しているか。

『The Visit』-夏の夜の楽しいひととき

 またしても帰省した子供たちと録画した映画を観る。二晩で5本。長くは書くまい。
 とりわけ本作は昨年観たばかりだし。
 相変わらずうまい脚本とうまい演出にうならされ、たっぷりのサスペンスを堪能した。二度目だからサプライズもなし、恐怖も、先がわかっているから半減しているはずなのだが。
 夏の夜の楽しいひととき。

『マイマイ新子と千年の魔法』-丁寧に丁寧に

 『この世界の片隅に』の前からいくつかの受賞歴やロングラン公演で本作が話題になっていることは知っていた。なるほど良い作品だ。丁寧に、丁寧に作られたアニメーションは、その画面を見ているだけで気持ちが良い。背景美術も動きもデッサンも演出もカットも。
 物語的にも、都会からの転校生を田舎に受け入れる時に、主人公の妄想癖を使うところやら、後半のシリアスなドラマにも、主人公の吹っ切れた性格を物語の推進力とするところなど、巧みだ。
 ただ、この生きづらそうな性格をどう収めることやらと思っていたら、最後に出てきた父親が大学の研究者で、それなりに現実に着地していきそうな成り行きが見えて一安心。

2019年8月11日日曜日

清水邦夫「楽屋」-演劇にとどまらないメタファー

 知人の主催する劇団の、昨年の第一回公演に続いて、今回第二回公演となる舞台を観てきた。三日間の公演の、二日目に都合が良かったので観たのだが、あまりに面白かったので、三日目の最終公演にもう一度観た。
 演目は井上ひさしの「化粧」と清水邦夫の「楽屋~流れさるものはやがてなつかしき」の二本立て。いずれも楽屋を舞台にしたこの二つの演目を並べて一つの公演としているところが気が利いている。
 さて、「化粧」も熱演だったが、二日間観る気になったのはなんといっても「楽屋」が面白かったからだ。
 素人劇団なのだが、「楽屋」に登場する4人が、それはそれは見事な演技だった。彼女たちがいわゆる劇団員ですらないような、まったくの素人であることが信じられないほど、凝縮された強い感情を舞台上で放出していた。彼女たちが賞賛に値することは言うまでもないが、それを実現したのは演出の力であることも間違いないのだろうと思われた。
 そして面白いと思わせるには脚本が優れていなければならないのはもちろんだ。後から調べてみると、累積上演回数が日本一だという有名戯曲なのだが、まあ見事な脚本だった。さまざまな感情の綾が複雑に入り組んで表現される。その中には嫉妬や怒りや鬱屈や絶望といった負の感情が入り乱れているのだが、最後の最後で、ぎりぎりの希望を寄せ集めて前向きになる結末が感動的だった。
 物語に登場する4人の女優は、演劇に関わること、もっと言えば舞台に立つことの恍惚と、その裏返しの鬱屈を体現する。いつか舞台に立つことを夢見て化粧を続ける万年プロンプターの女優予備軍たちも、自分が舞台に立つべき者だという妄想にとりつかれたメンヘラの女優の卵も、ベテランとして舞台に立ち続けることで何かを捨てることを選んだ女優も、そうした強い感情を観客に伝えてくる。
 だが2回目を観て、これが単なる演劇にまつわる物語ではないように思えてきた。人前に立つことの恍惚と負担も、いつか自分が活躍することを夢見ながら、実際にはそうした舞台に立つことが叶わない多くの人々と、自分たちで出来ることを始めようと思うにいたる結末も、人生そのもののメタファーではないか。
 この物語がこれほど心を打つのはそうした普遍性のせいだ。

 ところで、後から調べてみると、実際に舞台に立っている女優以外の三人は「亡霊」なのだそうだ。上記メンヘラ女優も、物語の途中で死んで、結末では亡霊になっているのだ、と。二回観ても気づかなかった。
 もちろん非現実的な存在であるように描かれているともいえる。だが一方でそれは演劇的な誇張だと思えば思える。そういえば生きている人間には彼女たちが見えていないという描写がある。だがそれも殊更に無視しているぞというアピールをしているという意味だと思っていた。
 演劇はリアリティのレベルが自由だから、それをどのレベルで受け取って良いのかがわかりにくかったのだ。
 では結末を希望と捉えたのは、いささか性急だったか。いや、それでもかまわないのか。

2019年7月24日水曜日

『未来のミライ』-期待の細田作品(逆の意味で)

 細田守作品には『バケモノの子』以来、最初から否定的にしか構えられない。実は『バケモノの子』も観ているのだが、このブログの原則を破ってそれについての記事を載せてないのは、あまりにいろいろと文句ばかりがあって、それを丁寧に言うには時間がかかると思って避けているうちに時間が経ってしまったのだった。単に「つまらなかった」とだけ言うのも芸が無いし。
 これは以前の細田発見の頃の興奮が過剰な期待を生んで、『おおかみこども』以降の作品への反発を喚んでいるのである。
 『おおかみこども』も『バケモノの子』も、どうして駄目だと感じたかを言うことはもちろんできる。だが初期の細田作品がどうしてあれほど面白かったかを言うのは簡単ではない。「鬼太郎」の細田演出話や『ぼくらのウォーゲーム』が、今観ても突出した面白さをもっていることに比べて、ここ『おおかみこども』『バケモノの子』が駄目なのは脚本のせいであることははっきりしている。

 そして今作である。やはり脚本は細田守である。逆の期待が働いて観始める。すると主人公の声の配役でもう萎える。上白石萌歌が悪い役者だとは言わない。キャスティングが間違っているというだけだ。星野源の父親も良くない。どうみても意識されている『となりのトトロ』の糸井重里の父親も、うまいとは言い難いが、それでももはやああいう人物がいるとしか思えなくなっているのに、こちらの父親は人工的にしか感じられない。
 主人公のくんちゃんもそうだ。人工的な「こども」にしか見えない。声の問題だけではない。演出の問題だ。こどもってこうでしょ、という作為だけが見え透いてしまう。
 たぶんこれは筆者だけの感じではないと思う。脚本の駄目さが演出にまで影響してしまうのは不思議な話だが、そこには関係があるとしか思えない。
 これは個人的な見方になるが、下のこどもが生まれて赤ちゃん返りする幼児、というのがもう思い当たらない。そういう現象が世の中にあるのは知っているから、それ自体を否定はしないが、下のこどもに当たってしまうにしても、それはもっと隠微な形をとるんじゃないかと思う。我慢した上で自分を責めるように表れるとか、罪の意識を伴って下の子をいじめるとか。くんちゃんの描きようはあまりに単純にわがまますぎる。葛藤もない。
 物語としても、未来の妹に会うという設定は魅力的だが、それが何をもたらしているかわからない。こども時代の母親とか曾祖父の若い頃だとかと過ごす一時が、単純に言えば成長をもたらしているのだと描きたいに違いないのに、そのような論理が見えてこない。
 未来の自分に会う場面があるが、成長して、こどもである自分を客観視できるようになっているはずの自分は、幼児の自分と同レベルで言い争いをしてしまう。これが物語の論理にとってどういう意味があるかはおそらく考えられていない。それらしい情報が読み取れないからだ。あれは単にコミカルな場面として演出されているはずだ。
 こういうノイズがどうにも不愉快。階段の上り下りにも不自由する幼児のいる家でコンクリート打ちっぱなしの階段が何の手当もされていないのはなぜかとか、最初に未来の妹と会うのはなぜ屋根のある植物園なのかとか、未来の東京駅の遺失物係はなぜロボットのようなのかとか、それを認めるとしてもやつの周りをチョロチョロする時計の顔をした小さな駅員は何なのか、とか。そこに意味があるわけでもなく、印象的でもないノイズが不愉快である。

 心に響くドラマなどちっともないが、アニメのレベルだけはやたらと高い、というのがここ2作の細田作品だったが、今作ではアニメ的にもそれほど高く評価できない。作画はむろん良いのだが、カメラワークや編集などに光るものがあるようには感じなかった。これは最近『聲の形』を観たばかりなので、その差がはっきりと感じられるのだった。
 それでも印象的だったのは、こども時代の母親と会う雨の街の古びたたたずまいと、戦時中に戦艦が撃沈されて曾祖父が投げ出された海の深さだ。ここだけは本当に成功している。過去の積み重ねのうえに今の自分たちがあるという、この物語のメッセージも、物語的にはまるで伝わらないが、この画だけがそれを伝えている。

『聲の形』-追悼ではないが

 帰省した娘と、以前途中から観たことのある本作を、冒頭から通して。
 原作も読んでいるので、同じ感想の所はある。なぜあの人たちはああも感情過多なのか、といううんざり感。主人公二人の自殺未遂に、まるで共感できない。
 一方で、作画は終始見事だった。美術も動きも止め画としての人物も。
 そして、感情過多にうんざりするのと相反して、細やかな感情を実に見事に描き出していることにも感心した。山田尚子は『氷菓』中の1話の演出が他の回に比べて平板だったことから評価が低かったのだが、本作を見る限り、やはり優れたアニメーション作家だと思わざるをえない。
 そして、前回後半だけ観た時と同じく、文化祭の人混みの群衆全員の顔に貼り付けられた×印が一斉に剥がれ落ちるカットは、作画といい、間といい、実に感動的だ。
 このタイミングで本作を観たことに、特別に先日の事件の追悼というような意味はないのだが、この作品に関わった何名かの命が失われたこともおそらく間違いないのだろうと思うと、やはりいたましい。

2019年7月18日木曜日

『サマータイムマシンブルース』-映画版が増幅している魅力はほぼない

 もう3回目になるが、ちょっと必要があって。
 前に2回観たのは、最初に観たときにその構造の複雑さに感心したからで、本作の魅力の基本はやはりそこだと思う。タイムスリップという仕掛けを導入することで、伏線とその回収という王道の「物語の綾」が複雑に描き出される。
 だが今回は元の舞台の映像も見て、脚本も読んで、物語の構造がわかってきたこともあって、役者の演技とか本広克行の演出に対する関心も高まった。
 そうしてみると、あの、舞台劇的な間の作り方などはやはりなんとも面白い。軽薄な連中が悪ノリしていく空気感は実に舞台劇的だ。
 一方で本広克行の演出のレベルはやはりその程度だよなあ、とも思った。
 元の演劇のノリが発揮されているところは充分面白いのに、映画版のオリジナルのギャグはちっとも面白くない。大学の用務員さんとか映画館のもぎりとか風呂屋の番台とか、まるで生きていないし、佐々木蔵之介がタイムループの説明をしているのに、みんながまるで聴いてない、などというギャグのどこが面白いのか。あの説明こそ、この物語の面白さを感ずるべきところではないのか。
 リモコンが壊れる場面の「ピタゴラ」的連鎖を映画的に見せるカットも、残念ながらまったく生きていない。
 真木よう子が出ているなんて、今までまるで意識していなかった。あれほどの女優の能力がまるで発揮されていない。
 全体として、映画版が増幅している魅力はほぼない。
 ただ、過去を変えてはいけないことに気づいて、さあ大変! となる場面だけは、物語が動き出すワクワク感がうまく演出されていて、ここだけは舞台では出せないダイナミズムだと思った。

2019年7月15日月曜日

『祈りの幕が下りるとき』-物語の重みにノれない

 東野圭吾の「新参者」シリーズは前作の『麒麟の翼』も見ているはずが、全く面白くなかったように思う。というか観たという記憶はあるのだが、内容がまるで思い出せない(もはや観たという記憶が錯覚なのか? いや違う。観てる)。
 それで、宣伝文句はまあそういうものだとは思いつつ、感動的だというふれこみの本作を、性懲りもなく観てみる。
 だがやはり面白くない。
 物語的には、複雑な事件の真相が徐々に明らかになる構成など、見事な作りにも思える。だがそれにわくわくするとか感動するとかいうこともなかった。頭ではそう思う、というのと感情が一致しない。
 たぶん、登場人物の誰にも感情移入してないせいだ。事態が展開しても、それに対する喜怒哀楽が起こらない。なぜだろう。さだかにはわからないが、感触としてはこちらの不真面目な鑑賞態度とともに、やはり演出の問題なのだろうとは思う。演出がなんだかテレビドラマ的で、それと物語の重さが釣り合っていない。テレビドラマならばもうちょっと日常に寄り添った物語の感情レベルで入り込もうとするのだが、本作は妙に深刻なドラマで、そのわりには作り物じみた手触りが白々しい。
 映像的にはモチーフになっている橋を川から見上げる構図が面白かったのと、川岸の小屋が燃えるのを対岸からとらえる構図が面白かったが、これだけで「良い映画だった」とも言えないし。
 それでもネットの評価では「感動した」の声がそれなりにあがっているのが妙ではある。どうなっているんだろうな。ああいうのは。 

2019年6月30日日曜日

『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語

 観終わってから、感想を書くのが気重で、ずいぶん時間がかかってしまった。まともな感想になる気がしなかったからだ。どうも感想が形にならない。結局今も。
 岩井俊二は、初期のテレビドラマがどれも文句なしに「面白い」と言って済ませられるのに比べて、『スワロウテイル』以降の映画はどれも、それをどう受け止めて良いのか、割り切れるような理解ができない。とりわけ『リリィ・シュシュのすべて』と本作。
 映像的には、毎度、これがなぜ「良い画だ」と思えるのかわからないが、そこここに良い画が表れる。うまいなあと感心する。編集のテンポも多分そうなのだろう。必ずしも奇を衒っているとも思えないのに、なぜこう毎度手触りの良い映画的な画面が連続するのか。
 もちろんそれは環境ビデオのような風景描写ではなく、人間が現れて演技をしている「物語」部分においてこそだ。それだけ、人間を描くのが巧みだということだ。とりたてて重厚な人間ドラマを見せるわけではないのだが。
 本作の綾野剛やCoccoの見事な演技も、いかに本人たちが良い役者だとはいえ、演出がだめならこうは見えないはずだ。今まで大根だと思っていた黒木華さえ、今回はうまいと思った。
 それでも、この物語をどう受け止めて良いのかがよくわからなくて感想が言いにくいのは依然として変わらない。たぶん、さまざまなことをくぐりぬけて、主人公はこれから前向きに生きていきます、といった終わり方なのだろうとは思うが、それがどういう種類の解決なのか、成長なのか、よくわからない。その前の様々な展開がどう作用しているかもわからない。多分まとまったことを言うためには本格的な考察が必要で、それでも成功するかどうかわからない。
 とりあえずCoccoと、その母親を演じたりりぃのキャラクターが際立って印象的であることは言を俟たないが、その痛々しい人物造型が、岩井の脚本に拠るのか演出に拠るのか、本人たちの演技に拠るのかがわからない。もちろんどれもであるのだろうことは疑いない。
 綾野剛の、正邪両面を見事に兼ね備えた人物造型も。
 映像が良くて、人物造型が印象的で、これでもう充分? いやいや、物語がどうも評価できずに、記事にするふんぎりがどうもつかないのだ。

 野田洋次郎が、スナックみたいな店でピアノを弾くために一瞬映るのと、『カメラを止めるな』で全面に出てきた「無名」俳優が、本当に一瞬だけ映ったのは、観ながら思わず「あっ!」と言ってしまった。

2019年6月16日日曜日

『キングコング:髑髏島の巨神』-怪獣映画のバランスの悪さ

 『君の名は』を観に劇場に行ったときに予告編を観て、こういうの、映画館で観ると楽しそうだなあと思っていた。さて、テレビではどうか。
 まあそうなるとやっぱり脚本なんだよなあ。そこは残念ながら特別なものではなかった。先の展開に手に汗握るというようなことはなく予定調和で。というかむしろ予定調和的に手に汗握らされたが、まあ予定調和的には大団円になるのだろうと思うからそれほどのサスペンスはない。
 主役のトム・ヒドルストンがちっともかっこ良くないのも、本人のせいではなく演出のせいだし、物語のせいだし、ヒロインのブリー・ラーソンも、別に何でもなかった。可憐だとか凜々しいとか。
 むしろキングコングが雄々しくてかっこいいのは狙い通りなのかもしれないが。
 怪獣映画は、ただもう逃げ回るしかない災害のようなものとして怪獣を描くか、戦うべき敵ととして描くかで物語の方向が大きく変わる。『シン・ゴジラ』は災害でありながら、日本国としてそれに立ち向かうというスタンスにリアリティがあった。
 一方『モンスターズ』や『トレマーズ』などは、現実的な対抗手段を工夫する余地があった(そもそも怪獣としても適度にサイズが小さい)。
 このあたりはゾンビ映画で、ノロノロゾンビか走るゾンビかという選択にも関わる問題だ。対抗するなら対抗すべく釣り合った要素を人間側に用意しないとならない。ノロノロゾンビなら工夫次第で生き延びられそうだという期待を、走るゾンビならば、とにかく逃げるサスペンスを。
 だがキングコングほどの怪獣で、かつ孤島に孤立した部隊では、立ち向かいようもないことが明らかなのに、それでも戦う気満々な男たちを描くから、見ていてそのリアリティのなさにがっかりしてしまう。怪獣が、災害として逃げ回ることしかできないような対象として描かれていることと、人間の振る舞いが物語の論理として撞着しているのだ。
 そういう意味でこの怪獣映画のバランスの悪さには残念に思わずにいられない。
 こういう据わりの悪さは、スーパーマン映画で、スーパーマンのすごさを描くほどに、人間の振る舞い方にリアリティがなくなる問題とか、「ディストラクション・ベイビー」が「暴力の狂気」を描くことに失敗している件などと同じだ。

2019年6月10日月曜日

『関ヶ原』-ドラマとして見られない

 ここ3年くらい、原田眞人の作品にはいつも感心させられてきたので、これも見られるんだろうというくらいの期待はしていた。題材的には、教養講座のような関心はあるが、作品として見たい! というほどの興味はなく。
 さて始まってみると、期待通り上手い上手い。秀吉役の滝藤賢一がこんなに上手い役者だとは知らなかったが、これも確かな演出力あっての演技なんだろうと思わせる。役者の所作も切れがあるし、画面の重厚感も、安心の原田眞人品質だ。
 にもかかわらず、『日本のいちばん長い日』『突入せよ あさま山荘事件』のように、大きな事件に関わる人々のそれぞれの動機や必然が絡み合う物語としての重厚感が感じられない。
 主人公の石田三成の言う「義・正義」がわからない。わかるように描かれているのを読み取れないだけなのか? 描かれているように感じないのだが。その裏返しとして、対抗する徳川家康の論理に一理を感じないのも。
 おまけに、ヒロインに有村架純を迎えるのは興行的にはしかたがないのだろうし、悪い役者ではないのだが、いかんせん、関ヶ原という大事に臨んで、石田三成が一女忍者にこだわっているバランスの悪さが、見ていてうんざりしてしまうのだった。
 ネットでの評価に頻出するように、とにかく合戦の趨勢と各軍勢のせめぎ合いの論理がわからないことも、どうにも大きな瑕疵であることを否定しがたいのだが、なにより主人公の人物像がわからない上記二つの欠点が覆いようもなく、人間ドラマとして見られなかった。

2019年6月4日火曜日

『ミックス』-古沢良太はどこへ行くのか

 前作『エイプリルフールズ』があんなだったから期待はしていなかったが、『キサラギ』評価に対する落とし前というような意味で観てみる。
 が、ちっとも面白くない。「面白さ」がないというのは、ある意味では仕方がないともいえる。「面白さ」は個人的な感情で、それが喚起されるかどうかは幸運に頼るようなところがあるともいえる。
 だが、面白くなっているはずだ、という確信あるいは自信はあるべきである。ただでさえテレビでくり返しCMを流すような娯楽映画なのだ。「面白さ」を追求していない「芸術映画」ではないのだ。
 一方で「これは駄目だ」と思えるような安っぽさや志の低さは、意識して無くすことはできるはずだ。もちろんそれとてさまざまな制約との妥協の程度の問題でもあるのだが。
 さて本作は、まず古沢脚本に、ほとんど工夫の跡が見られない。ほんのわずかの伏線もないとは言わない。だが、2時間程度の映画を観ることの報酬として充分なほど、作り物を見せられる快感があるわけではない。物語は、まったくのところ予定調和であり、途中の紆余曲折、挫折、葛藤までが予定通りだ。
 そして演出もまた安っぽさ全開だと思ったら『エイプリルフールズ』と同じ監督なのだった。そしてテレビの『リーガル・ハイ』の監督でもあるのだった。
 これはやはり、テレビドラマに求められるノリと映画のそれは違う、ということなのか?
 例えばクライマックスの大会決勝戦の最後の場面、決勝点が相手に入って試合が終わり、主役の2人が静寂の中で見つめ合って抱き合って、それから観客の一人、遠藤憲一が立ち上がって拍手を送り出すとスタジアムの観客が次々とスタンディング・オベーションになる、という、およそ馬鹿げた演出を、どういう感情をもって見れば良いのだろうか。実際に感動的な試合の結末は現実のスポーツにいくらでもあり、それはこんな馬鹿げた演出のように起こったりはしない。決勝点が決まった直後、それが感動的ならば観客は直ちに大騒ぎしている。映画の観客はスポーツの試合の観客とは違うのか? 違う感動が映画の観客には期待されているのか?

 ということですっかりがっかりだったのだが、古沢良太、『デート』までは悪くなかった。『コンフィデンスマン』を見ていないのは、うっかりのチェックミスだ。問題は映画の方なのか? 『GAMBA』もひどかったし。

2019年5月24日金曜日

『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁

 大した予備知識なしに、確か高い評価を得ていた作品だったはずだと思いつつ録画しておいたのだが、ちょっと最初の方だけ観てみようと思って観始めたら、遅い時間だったのにもかかわらず最後まで観てしまった。ものすごく面白かった。
 主演のブリー・ラーソンがアカデミー賞で主演女優賞をとっているというから、少なくともそのような人間描写がされている映画であることは間違いないという信用ができる。そういえばここ1年でも『アリスのままで』『ブルー・ジャスミン』とアカデミー賞主演女優賞映画を2本観ていてどちらもすこぶる面白かったのだった。『グリーンブック』のマハーシャラ・アリの助演男優賞受賞も、確実にそうした人間が映画の中に描かれていることは間違いないわけだ。それだけでも映画全体のドラマ性が評価ができるはずだ。
 とはいえ、『ルーム』に関して、恐るべきはジャックを演じた子役のジェイコブ・トレンブレイだった。この映画については、彼に感情移入することが最大の感動的映画体験だ。
 狭い「部屋」に閉じ込められた母子の生活を追う前半の展開から、徐々に事情が観客に明かされていく。母はティーンエイジャーだったときに拉致されて納屋に監禁され、そこで子供を生み、その子ジャックが5歳になったところから映画が始まっているのだった。
 母親が子供に語ることでそうした事情が観客にもわかるようになるのだが、そうした事実を子供は受け容れ難い。世界の変化に対する本能的な恐れである。粘り強い説得を通して、母は脱出計画を実行する。
 ジャックによる脱出の実行が前半の山場で、これはこれですこぶるサスペンスフルであり(ジャックを助ける警官の判断の的確さ、迅速さも心地良い)、そしてすこぶる感動的でもある。「世界」が一気にひろがる感覚である(今すぐに連想されるのは旧アニメ版『冒険者たち』で密航の翌日に甲板からガンバが初めて海を見る場面や、『進撃の巨人』の主人公たちが初めて海を見る場面や、『暗いところで待ち合わせ』小説版の、主人公が外に出る場面などだが、こうした感動は探せばあちこちの物語から拾えるに違いない)。
 だがここがまだ映画の半分ほどの時間であることに不審を覚える。あと半分は何を描くのだろう?
 もちろん、7年振りに戻る日常への復帰は容易なことではないのだ。肉体的にも精神的にも、社会的にも。本人にとっても家族にとっても。様々なものが失われたことを知らされ、それを受け入れていかなくてはならない。そうした困難を描くのが後半の展開であり、そこでは母親の苦悩とともに、子供が外の世界に適応していく様子が描かれる。
 そして物語最後に、もう一度「部屋」を訪れた際に「この部屋縮んだの?」とジャックが言うのは、ベタなセリフではあれ、これは間違いなく実感なのだろうとも思う。
 そして思い至る。この映画の特殊で極端な設定によって我々が受ける感動は、実は普遍的な子供の「成長」に拠るものなのである。
 もちろん主演の母親が見事な人物像を成していたことは間違いないし、物語はそこにも充分な重みを置いているのだが、やはり感動の力点は息子のジャックだ。
 「部屋」が象徴しているのはしばしば「子宮」に喩えられる母子の密着状態であり、そうした子供時代から、子供は徐々に外の世界に触れ、それに適応していく。そこに広がる世界への冒険と、同時に幼児期への喪失感を伴う郷愁がこの映画の感動なのだ。
 最後の場面で部屋の中のさまざまなもの(洗面台・椅子・クローゼット…)に「さよなら」と告げるのは、冒頭にやはりそれらに「おはよう」と呼びかけていた場面と対になっているのだが、これは幼児期への訣別と郷愁を象徴する場面として実に感動的だった。
 そういえばうちの子供たちが小さかったときに、マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本『おやすみなさいおつきさま』をくり返し読んで聞かせたものだが、あれは子供にウケていたのか、親が気に入っていたのかわからない。今考えてみると、ナレーションが部屋の中のいろいろな物に「おやすみなさい」といいながら、頁をめくるたびに画面が徐々に暗くなっていくこの本は、世界が人間とそれ以外に分かれたれていない幼児の世界への郷愁に満ちていたのだった。 

2019年5月20日月曜日

『ラルジャン』-ついていけない

 ロベール・ブレッソンの遺作でカンヌ映画祭で監督賞というのだが、とにかくわからない。同年のカンヌ映画祭監督賞がタルコフスキーの『ノスタルジア』だというのだが、こちらが一向に古びたものと見えないのに、なんだが冒頭から大昔な感じがする。にもかかわらず映画は昭和末期、バブル経済までもうすぐの時期なのだ。なんだか時間感覚が混乱する。
 どうして役者にこんなに棒演技をさせてしかも画としても平板で、なおかつカットのつなぎもぎこちなく感じられる映画が何かすごいものと言われているのかちっともわからない。
 それでもいくつかの映画評に目を通してみるが、それらが衝撃を受けているポイントにちっとも共感できない。
 そしてなおかつ、そのように描こうとしているという意図がちっともわからない。そういえばこのわからなさは最近見たばかりの黒沢清だ。黒沢はもちろんブレッソンっぽさを意識しているのだろう。演技のつけ方にしろカットのつなぎかたにしろ。
 それでも、黒沢清のわからなさは多分意図的だから、わからなくてもいいのだろうと思わせもするのだが、ブレッソンの方はそう判断して良いのかもわからず、といって感情が動いたりもしない。
 くり返し見る必要があるのだろうか。

2019年5月19日日曜日

『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たるエンターテイメント

 GW中に娘の住んでいる近くの映画館で観ようと試みた際は客席が予約で埋まっているという予想外の事態に断念し、あらためて家の近くの映画館で。こちらはさすが田舎というか、公開後二週間だからというか、遅い上映時間のせいか、まるっきりガラガラだった。
 さて、映画はなんと2本続けてこれもまた神保哲生と宮台真司の対談で先に聞いてしまっているのだった。そしてそれ以上の見方ができるわけではないのだった。
 だが映画の全体はそれでいいのかもしれない。これは確かに「そういう」映画だ。それは宣伝用の映画の紹介の時点でわかっていたことだ。
 半世紀ちょっと前のアメリカ、特に南部における黒人差別がテーマになっていて、一方に、自身もある程度は差別される立場にあるイタリア系移民トニーと、高度な教育を受けた黒人ミュージシャン、ドンの友情を描く。もうこれだけである。ただそこにLGBT問題まで絡めるとは思わなかったが、そこまでやって、いかにものアカデミー作品賞だ。
 そして、これは後からわかったのだが、監督はコメディ作品が得意な監督なのだそうだ。なるほど、2時間を超える映画で、始終笑えた。しかもそれはギャグというよりもハートウォーミングな笑いで。
 最初の爆笑は、車の中で「本場」ケンタッキーフライドチキンを食べるところ。手掴みでフライドチキンを持つのを嫌がるドンにトニーがチキンを押しつけるのは、悪気のないトニーの無神経さと無邪気さで、それに釣られて、まあ悪くないと思わされるドンの変化もいい。骨を窓から投げ捨てるのが「決まり」だというのに釣られていく感化もいい。そういう映画だ。
 だが空容器を投げ捨てるのを見てギョッとするのは観客だけではない。ある意味では「自然物」である鳥の骨と違って、それはアリなのか? との疑念が湧いたところでドンの呆気にとられた顔でカットが変わって、バックしてきた車のドアが開いて、そのゴミを拾う。
 さすがにそれは許さないドンと、そのこだわりには従わざるを得ないトニーが、そうしてお互いに妥協点を探りながら、お互いが変わっていくのだ。
 このエピソードには伏線がある。SAの無人売店で売り物の石が地面に落ちているのをトニーが拾い、それをドンが咎める、というエピソードが先に置かれているのだ。それは泥棒だと言うドンは、地面に落ちていたのを拾っただけだというトニーの主張を受け入れずに金を払いに行くよう命ずる。雇い主に逆らえずに金を払って戻ってきたトニーに、正しいことをする方が気持ちがいいだろう、と言うドンに対し、それじゃあ意味がないんだよと毒づくトニー。つまりトニーはその石が金を払ってでも買いたいのではなく、「落ちていたのを拾っただけ」という言い訳で自分の物にできる「得した」感を得たかっただけなのだ。
 このドンの妥協なき潔癖感があって、車を戻してのゴミ拾いがある。不満気なトニーの顔も文句も想像できるが、それは映さない。その演出の見事さに笑わされつつも正しいことが行われることはドンの言うとおり「気持ちが良い」。
 そしてその石の方も、二人の友情の証として最後まで重要な小道具として使われる。アカデミー賞では作品賞と共に脚本賞も獲っているのも納得の、実にうまい語り口だ。

 一方、アメリカでは「白人の救世主」「マジカル・ニグロ」といったステレオタイプの物語であるとの批判があるそうな。なるほど、日本人には意識しにくいが、アメリカ映画的な文法に馴染んでくるとそうした見方ができ、なおかつそれが意識しにくいという問題があるのか。
 だが、そんなステレオタイプとしてドンとトニーを捉えるには、二人とも血が通ったキャラクターとして魅力的でありすぎる。そもそも「白人の救世主」と「マジカル・ニグロ」は同居するものなのか? 矛盾するんじゃないのか? 一方だけが描かれる時が問題なんじゃないのか?
 『チョコレートドーナツ』でも、その時代のゲイ差別はこんなにひどかった、という糾弾が現代の我々の鑑賞にほとんど関係がないように、アメリカの人種差別が背景にあっても、それは知識としては必要だしこの映画を通した学びもまたあるのだが、これらの映画はそうした社会批判的視点によって感動的なのではなく、もっと普遍的なものだ。
 お互いに距離を縮めながら変わってゆく二人が友情を結ぶ。それを周囲が許容する。実にわかりやすく幸せな映画なのだった。

 ところで、主役の一人、ヴィゴ・モーテンセンは『ロード・オブ・ザ・リング』の時は、まるで『ウォーキングデッド』のダリル(ノーマン・リーダス)かと思わせるロン毛のイケメンだったのだが、こちらはまるでピエール瀧だった。ほんとうにそのままピエール瀧が演じても良さそうな人物だった。 

2019年5月18日土曜日

『ハドソン川の奇跡』-期待通りであることのすごさ

 「ハドソン川の奇跡」として知られる、航空機のハドソン川着水事故後の顛末を描く。
 先に神保哲生と宮台真司の対談で聞いていたので、映画の見方もそれに沿ったものになってしまい、期待通りではあるのだが、それ以上に心揺さぶられるというようなこともなかった。
 だが期待通りに面白いというのはすごいことでもある。
 『大空港』的な航空パニック&「グランドホテル」物として観られる部分ももちろんあるのだが、それよりも中心は主人公の職業意識であり、そのような人物像が不足なく描かれているだけで大成功である。原題の『Sully』は機長の愛称なのだった。
 中盤がその不時着の顛末なのだが、同じ場面がクライマックスでもう一度再生される。国家運輸安全委員会の公聴会で、ドライブレコーダーの音声を聞く場面に合わせて、同じ映像をコラージュするのだ。最初は「あれっ? 同じ映像だ、さっきと」と戸惑って、この構成は瑕疵なのではないかとも思えたのだが、考えてみるとそのようにしかできないのかもしれない。
 中盤でその顛末を描くときには、離陸前から始めて乗客などの抱えるドラマまで描き、事故後の救出活動まで充分に見せ、映画的にも一定の見せ場を作っておく。
 そして問題の208秒(離陸してから不時着まで)がどのような意味を持つかについてあらためて観客に報せるには、もう一度同じ場面を見せる必要があるのだ。
 一度目は、全員救出という事故の結果を知ってしまっている以上、言わば観客は気を抜いている。サスペンスも半減である。
 だがそうした結果に至るには機長のプロとしての判断と技術と、副機長の協力があってこそなのだ。それが結果から見た予定調和としてではなく、「それは本当に正しかったのか」という審判の場において見直される必要があったのだ。
 満足度の高い作品である。

『ホットロード』-残念な映画化

 尾崎豊とは同世代だが、デビュー時からああいう感性が嫌いだった。なのに、支持層を同じくするだろうと思われる紡木たくの作品には激しく心揺さぶられてきた。
 そこに能年玲奈である。期待など微塵もしていないが、いわば落とし前をつけるように観てみる。
 それにしても尾崎豊支持層が、今のEXILE TRIBE支持層につながっていることを今更ながら思い知らされるのだが、その間に連続性はあったのだろうか。意識していなかったから実感としてわからない。
 そしてもちろんEXILE TRIBEに対する共感も関心も微塵もないから残念ながら面白くはない。原作の、関心のない部分でできている映画だった。もちろんそういうのを求める層があるのならしょうがないのだが。
 それにしても能年がそうした支持層に嵌まるのだろうか。無理があるとしか思えなかったが。
 紡木たくの作品の魅力は、この世代の「どうしようもなさ」を自覚的に描いていることがわかるところだ。視点の多角性と主人公たちの感性にのめりこむように繊細に描くことと同居している。そうした視点があってこそ、まるで共感のできない尾崎豊的感性も、ようやく許容できる(本当に尾崎豊的なのかどうかは実はわからないが)。その時、その切羽詰まった息苦しさや切なさにも共感できるのだ。
 映画では利重剛の演ずる教師にわずかにその視点の多角性が託されているが、いかんせん分量として足りず、むしろその視点すら主人公側からは「あちらがわ」として描かれているように感じる。原作では、作者がそうした多角的な視点から物語を捉えていることが充分わかるからこそ、主人公たちの認識がいたずらに視野の狭いものであることから救われているのに。
 ということで予想通りであり、能年玲奈という才能+この時期の可能性が可惜失われていくここ数年が残念でしょうがない。

2019年5月9日木曜日

『蛇の道』-映画的面白さはあるが

 『蜘蛛の瞳』とセットで1枚のBDに収録されているのでお得感がある。企画としてもシリーズなんだろうと思わせるし、主人公の哀川翔が同じ名前で、しかも娘を殺されているという設定も同じ(まるで同じ世界というわけではないが)。
 さてこちらの相方は香川照之で、冒頭から上手い上手い。恍惚となった表情やらそこから現実に引き戻される表情やら徐々に狂気に囚われていく表情やら。もちろんやり過ぎ感はある。だがそこまで含めての芸の力として楽しめる。一方の哀川翔は終始無表情で、これは人物造形がそうだからいいのだが、二人の演技力に相応な人物造形ではある。
 香川照之演じる男の娘が殺されて、その復讐を哀川翔が手伝っているのだが、最後には、闇組織のスナッフ・ビデオ撮影によるものだったらしいことが示され、香川照之もその組織の末端であったらしいこと、哀川翔の娘もその犠牲になったらしいことが明かされる。哀川翔の行動動機も、その復讐のためらしいということらしい。
 だがこうした大筋はともかくとして、やはりわからない要素がそこらじゅうにちりばめられるのは毎度の黒沢節だ。もちろん最も目立つのは、哀川翔が「仕事」と称している私塾のような活動で、何だか訳のわからない数学だか物理だかの問題を解いているのだが、ここに表れる天才少女がことさらに印象的に描かれているのがわからない。殺された子供たちと関連させて理解すべき何かの象徴なのかと考えるべきなのだろうと思いつつ、考えることに甲斐があるかどうかわからず。
 それでもあのわけのわからない方程式描写を採用するにいたった脚本の高橋洋的、監督の黒沢清的納得があるはずではある。それが純粋に「解釈を拒む」という意味でのナンセンスなのかどうかが確信がない。

 ところでお話としてはわからないところがいっぱいあるものの画的な面白さ、映画的な面白さは『蜘蛛の瞳』同様にあちこちに見いだせる。
 冒頭の坂道からしてすでに何だか不安定でどきりとする。車が移動するにつれて展開していくカーブの風景とか。
 廃工場や、大きなタンクに挟まれた細い道に車が入っていく画とか。そういえば『蜘蛛の瞳』でも坂道は何度も印象的に登場したし、林の中を駆けていく登場人物を移動カメラで追ったシーンは見事だった。
 そういうのを楽しめば良いのか? 黒沢映画。

2019年5月7日火曜日

『蜘蛛の瞳』-結局妄想なのか?

 借り物のBDを予備知識なしに観始めると、なんとなく演出やら編集やらのリズムに覚えがある。なんだこれは、と思って途中で止めて調べてみるとやっぱり黒沢清だった。とはいえ、寺島進やら大杉漣やらの出てくるヤクザ映画だから、北野武的でもある。ダンカンも重要な役どころだし。
 というか、場面とか物語的な展開の唐突さが北野的でもあり、黒沢的なのだった。映画中何度も、あ、結局殺しちゃうのか、となる。この唐突さが北野映画の「映画的」なところではあるのだろう。異化効果と言ってしまえば何でもありという感じでもあるが。
 さて、面白かったかというと微妙なところではある。この違和感がどのように自分にとって必要な感覚なのか。多分、割り切れる解釈を可能にしてはいないのだろうから、あんまり考察してもしょうがないのだろうと思うのだが、ではこの訳のわからなさをどこまで受け止めるべきか。よく考えられたうえでそのように描かれているのなら考える甲斐もあるのかもしれないが、たぶんそれほど意味はない。
 冒頭で主人公が、娘を殺された復讐のために誘拐犯を拉致して拷問し、殺して埋めたらしい様子が描かれるが、人体らしき、布を被せた人体大のテルテル坊主様の物体が、主人公を脅かすようにしばしば画面に登場する。それ以降の悲惨な展開も、この潜在的不安が導因となっているように見える。
 ところがあらかたの登場人物が死ぬと、主人公は日常に(以前とは違う形ではあれ)復帰するように見え、それとともに、殺して埋めたはずの、娘の誘拐犯が生きていることが示され、テルテル坊主の布がはずれて中から棒杭が表れる。
 これはそこまでの展開が妄想だったことを示しているように見えるのだが、途中の展開が、振り返ってみればそう描かれていると思えるようには描かれていない。結局なんなんだ?

 主人公の哀川翔ありきの企画なのかも知れないが、何をやっても哀川翔にしか見えないこの演技力のなさをどう評価すればいいのか。浅野忠信が評価されるのがわからないのと同様のわからなさ。演技の「うまさ」とは別の存在感というのだろうが、わかったようなわからんような。

2019年5月5日日曜日

『君よ憤怒の河を渉れ』-またしても謎のトンデモ映画

 原作の西村寿行は中高生の頃に好んで読んだ小説家のひとりだという思い入れがあったり、高倉健の映画はなるべく観ておきたいとも思ったりして録画したのだが、いやはや。やれやれ。
 見終わってから調べてみると、中国で8億人(!!)が見たとかいう、数字は信じ難いがまあそれなりにヒットしたのだろうという映画なのだった。数が信じ難い以上に、このトンデモ映画が、どういうわけか結局作られてしまうのが毎度の映画産業の不思議なのだった。
 どうにかして面白くしようとしてうまくいかない、というそれなりに事情のわかる(『稀人』のような)パターンと違って、こんな馬鹿げた誰かの思いつきをなぜ誰も止められなかったのかがわからないという不思議。
 ツッコミどころが満載なのはネット上でさんざん言われ尽くしているので繰り返すのも空しい。
 にもかかわらず、健さんや原田芳雄や中野良子が素晴らしい演技を見せているのは驚くべきことだ。演出がひどいと、良い役者でも良い演技ができないという例は枚挙に暇ないのだが。
 物語を支配している論理が人間を浅くしか捉えていないと、描かれる人間も浅くなってしまう。
 だというのに中心となる3人は、物語上の人物造形がいかに浅くても、そこにそういう人物がいるのだと思わせる自然な演技や、思いがけない微妙な感情の発露をを手堅く実現したりする。
 それだけでも観る価値はあったとまでは言わない。やはりどうにもくだらない。よもや原作(未読)はこんなことにはなっていまいな。

『稀人』-頭でっかちの観念映画

 いくつかの気になっているアニメにかかわっている小中千昭の脚本で、本人のサイトでも特別な扱いになっている作品でもあり、清水崇が監督ならば観る価値があるかと思ったのだが、結果的には大した価値はなかった。
 恐怖とは何か、がテーマになっているらしいのだが、恐怖とは何かを考察するホラー映画というメタ構造が何かしら映画的に効果的かというとそういうわけでもなく、退屈なナレーションが大量に投入されるばかりで、画で見せる魅力には乏しい。考察も、何かしら興味深いところに届いているとも思えず。
 といって、小中がこだわっているらしいクトゥルー神話やカスパー・ハウザーなどのモチーフそのものに心惹かれるでもなく。
 唯一心を動かされたのは、わけのわからないトンデモ話だと思っていたらそれが主人公の胡乱な認識による現実の事態のある写し絵かもしれないという可能性が示される瞬間だが、しかしそれもナレーションによって示されるばかりで、この辺りも映画としてやはりチャチい。惜しい。低予算だからしょうがないというべきか。アイデアが足りないというべきか。

 それにしてもサイトの小中の文章を見ると、作者は作品に対して距離を作るのが難しいんだなあ、とあらためて思わされる。なんだか作者と映画の主人公(塚本晋也がハマっている)が重なって見える。作品の現実が見えておらず、そこに思い入れを重ねて見てしまう。
 このテイストなら、頭でっかちにしか感じられないこの映画より白石晃士の方がよほど「狂気」を感じさせて面白い。

2019年4月29日月曜日

全日本柔道選手権大会2019

 「平成最後の」全日本柔道選手権大会は、近年になく楽しかった。
 原沢は真面目そうな人柄が好もしいものの、申し訳ないが彼や王子谷のような最重量級が準々決勝で負けたところが、俄然優勝の行方を興味深いものにして、中でも毎年勝ち上がりが楽しみな加藤博剛があれよと決勝まで上がったのには興奮させられた。
 加藤は2回戦、3回戦と50kg以上の体重差がある相手に一本勝ち。とりわけ注目の最年少出場、スーパー高校生の斉藤立との対戦は、正直、まあ斉藤だろうなあ、斉藤はどこまで勝ち上がれるかなあ、と思っていたところ、あれよと関節をとって相手を前転させて後ろ袈裟で抑えるというお手本のような展開で、今年もベスト8に進んだ。
 次も次も見たいと思っていると、準々決勝の支え釣り込み足も、ちょっとめったに見られないような見事な決まり方で相手を宙に舞わせ、準決勝も巴で一本勝ちと、すべて一本で決勝に上がる。
 一方のウルフ・アロンも全て投げ技による一本勝ちで決勝まで上がってきた。しかも100kg級の選手が、最重量級の王子谷や小川を投げきってだ。文句のない決勝の対戦だ。
 加藤の柔道の楽しさは、大抵の場合加藤の方が軽いということと、時折笑顔の見られるリラックスした戦いぶりだ。
 決勝のウルフは手堅く戦って体重差で勝ったようなもんだが、加藤ともども本当に見事な戦いを見せた二人だった。

2019年4月28日日曜日

『死霊館 エンフィールド事件』-これは凡作

 第一作の『死霊館』はなかなか面白くて、以前「佳品」と表現したのだが、こちらは凡作と言っていいと思う。展開的には想定の範囲内のことしか起こらず、演出的にもそれほど目新しいものはなく。
 例えば心霊現象が、それを疑う人には信じられないことがもどかしくなるような展開にもできたろうに、関係者のほとんどが、疑いようもない怪奇現象にあっさりと直面してしまい、観客的には疑いようもないにもかかわらず、疑う人はそれでも疑う。疑う人の疑いに観客は共感もできない。
 もちろんこれは心霊現象なのか心理現象なのか狂言なのかと観客が自問するような作品は最初から目指されてはいないのだが。
 あるいは恐くないかと言えば恐いのだが、それは専ら恐いメイクをした「悪霊」が迫ってくるのが生理的に恐いのだし、脅威もほとんどポルターガイストによる物理的な危険だ。しかも、肝心なところでは決して致命的な危険は感じないような演出になってしまっている。史実に基づいて、ということなのか、あるいは子供たちを血祭りにあげるわけにはいかないから、まあしょうがないのかもしれないし、ともかくもホラー映画としてはあまり効果をあげていない。

2019年4月21日日曜日

『Eight Days A Week』-今更ながら

 偶然にもロン・ハワード監督作品を二作続けて。そしてこちらも細切れに。
 まあビートルズのドキュメンタリーだから、続けなくてもいいだろ、と思っていたのだが、後半まとめて観てそれなりの感銘もあった。今まで十分知っていると思っていた、ビートルズの社会的影響力を、今更ながら(ちょっとだけ)実感したり、そこでの4人がどんな思いでツアーから離れていったか、とか4人の結束がいかに彼らを救ったか、とか。その後で彼らの心がどんな風に離れていったか、というところまではこのドキュメンタリーでは扱っていないが、そのあたりは『Let it Be』の映画版を再び観たいものだ。
 その一部分となるべき屋上ライブは、これまで観たことのある映像とちょっと違った。リマスター? カットも違うような。これは観る価値があった。

2019年4月20日土曜日

『インフェルノ』-申し分のない娯楽映画なのに

 『ダヴィンチ・コード』『天使と悪魔』とも、娯楽映画として充分な面白さだったのだが、これもまた、同様に豪華なロケと絵作り、緊迫した展開でみせるとはいえ、どうも既視感を覚えてしまい、緊張感がなく終わってしまった。ついでにいえば娯楽映画の悪いところで、録画したものを観るのに、細切れに観てしまって感興を損なうというパターンにはまってしまった(こちらが悪いのだが)。
 そうなると展開のご都合主義が目についたりして、サスペンスも半減。本人の危機も世界の危機(バイオテロによる人類粛清)も、本気でハラハラしない。トム・ハンクスにアクションをさせる必要はないのに。謎解きの興味で引っ張っていって欲しいのに、そこはむしろついて行けないほど急展開で、わからないことだらけだから、真相がわかってもむしろ拍子抜け。
 「扉の前では興味深いことが起こる」とかいう気になる箴言が語られるのだが、これが、真意をつかめないままで深みを与えるには至らず。

 冒頭でテロ首謀者が塔から飛び降りて死ぬという展開は『機動警察パトレイバー the Movie』だ! 残念ながら帆場の持っていた神秘性は、本作のゾブリストには感じられない。単に極端な人、というくらい。
 謎の組織の幹部を演ずるイルファン・カーンが格好良いのだが、何で観た人かと調べてみると、NHKのドラマ『東京裁判』でパール判事を演じていたあの人だ!

2019年4月19日金曜日

『夜は短し歩けよ乙女』-安心の湯浅クオリティ

 『四畳半神話体系』のつもりで見始めると、主人公の浅沼晋太郎が星野源なぞになっているのは許しがたいという感じがするが、ヒロインの坂本真綾が花澤香菜になっているのは許せる。まあ違う物語なんだから、声優まで同じにしては混同してしまうということもあるが、確かにあちらの「明石さん」とこちらの「黒髪の乙女」は違う人物で、なんといってもこのヒロインのキャラクターがこの映画の大きな魅力なのだった。
 もちろん坂本真綾がやればまた違う魅力があったのだろうが、花澤香菜の声は、あの真っ直ぐで天真爛漫でそのくせエネルギッシュなヒロインを見事に生きたものにしていたのだった。
 もちろん湯浅政明の奔放なイマジネーションには圧倒されるし、森見登美彦の軽妙な調子も心地良い。
 そして、物語の最後まできて、これが一夜の物語だと言われた時の時間感覚の揺らぎが起こす眩暈がなんとも素晴らしい。約90分と、決して長い映画ではないのだが、めまぐるしいイメージの奔流に、長い時間が経ったような錯覚に陥るのだ。
 これがまた、調べてみると原作では1年間の物語が一夜の出来事として再構成されているのだそうだ。上田誠か湯浅政明か、良い仕事をした。

2019年4月17日水曜日

『お米とおっぱい』-低予算だから腹も立たない

 『カメラを止めるな』の上田慎一郎監督の初期の長編。この世からお米とおっぱいのどちらかがなくなるとして、残すならどっちか、というテーマで議論をする4人と、見届け人として部屋の外に待つ老人の男の、キャストは5人のみの密室劇。
 事前に情報として知っていたとおり、『12人の優しい日本人』オマージュ、というかパロディである。ほとんどそのままの役割分担に演技プラン。そこに新しい何物も足してはいない、と感じた。
 ばかばかしいことに開き直っている、というのは別に褒め言葉ではない。議論が知的に展開されるわけでもないし、議論から、それぞれの人物の背景が明らかになっていくにつれて引き込まれていくようなドラマがあるわけでもなく、パロディとしてのメタドラマに感心するでもなく、つまり特に何に感銘することもなく。
 でもここまで自主映画として低予算だと、特に腹も立たない。これは重要なことだ。面白くない映画に腹が立つのは、それが金と時間と多くの人の手間のかかった結果だからだ。
 低予算でも良い映画はできるのだろうし、『カメラを止めるな』も低予算をうたってはいるが、いやいや、あちらはちゃんと撮られている。それに比べてこちらのちゃちいことは覆うべくもない。そして結局のところこれは、上田監督の才気は感ずることができるが、残念ながらエンターテイメントとしては金の取れるものとは言いがたい代物だった。
 だがこういうのは作り上げることが重要なのだ。これがあってこそ『カメラを止めるな』があるのだろうから。

2019年4月7日日曜日

『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画

 朝、突然家人に誘われて、『ハンナ・アーレント』以来6年振り(?)の岩波ホールに。
 『12か月の未来図』という題名は後から知ったのだが、とりあえず、エリート校に務める主人公の教師が教育困難中学に送り込まれる話なのだと。面白そうではある。しかも主人公の先生、国語の先生だという。さて、どうなることやら。
 映画が始まってみると、フランス映画ではあるが、ヨーロッパ映画独特の、画面から既に荒んでいるような暗さがない。東京国際映画祭で観たJellyfish』も画面の感触がアメリカ映画と変わらない印象だったが、こちらはさらに。
 そして物語としても、コメディタッチで描かれる展開は文芸的というよりかなり「物語的」である。サイトでは「ドキュメンタリー風」とも評されていて、最初のうち、やたらと画面が揺れる手持ちカメラ風な画面が「ドキュメンタリー風」なんだなと思っていたが、観ていると結局カット割りもどんどん劇映画的になっていく。この感じははっきりいって、どこかで見たことがある。いくらか「金八先生」的でもあり、実は最近たまたま読み返した、ちばあきおの「校舎裏のイレブン」にもそっくりである。
 パーティーで出会った政府の教育関係機関(日本の文科省的な)の職員だという若い美人に食事に誘われ、期待しながら出かけていくと、役所の施策として、ベテラン教員を「郊外」の教育困難校に派遣する事業への協力を求められてしまう。下心の後ろめたさと、大臣が登場する大がかりな事業の規模に断れずに、1年間の派遣依頼を受けてしまう(この辺の展開の描き方がハリウッド映画っぽい)。
 もちろん本意ではない。浮かない顔で「郊外」に赴くと、そこはいわゆる「スラム」的な場所のあるような移民の多く住む地域なのだった。学校の様子は、アメリカ映画でよく見る雰囲気で、いかにも都会のエリート校に勤務する主人公には、そのガチャガチャした雰囲気は眉をひそめたくなるだろうと思わせる。
 そして、まるでアメリカ映画の中の学校みたい、と思わせるのは、アフリカ系の生徒の多いことによる。なるほど、「郊外」の問題とは移民の貧困の問題なのか。
 真面目な主人公が生徒の名前を覚えようと、夜、自宅で四苦八苦するのも、なるほど名前がアフリカ系だからだ。それでも、それをやろうとする真面目さが救いである。この誠実さが、結局この映画を明るいものにしている。誠実故の挫折が物語を暗くすることだってありうるのだろうが、教育は、大体のところ、誠実に取り組む方が良い結果を生むのだ。
 それでも、パンフレットにあるように「来たるべき日本の教育問題にヒントを与えてくれる」というより、日本の現場の経験からすると、まったく我が事のような「あるある」なのだった。生徒の雰囲気も職場の雰囲気も。フランスでは移民の問題かも知れないが、日本にも地域格差があるから公立中学校は同じような事態にもなりうるし、高校などは学力で「格差」化しているから、問題はまったく共通している。
 そうした問題の解決のヒントになるのは、教科横断型の学びであり、アクティブ・ラーニングだったりするのも、まるで日本の流行だが、これもつまり世界的な潮流だということだろうか。
だからこそ、物語は、コメディタッチに笑わされながら、最終的には事態の好転と別れの寂しさで、実に気持ちの良いエンターテイメントだった。「文科省 特別選定作品」「厚労省 推薦作品」でありながら!
 
 そのうえでいくらかの考察。
 主人公はカリスマ教師ではない。特殊な能力があるわけでも人並み外れた献身があるわけでもない。何か奇跡のような教育活動が行われるわけではない。
 こうした教育を題材とする物語ではしばしば、熱意ある若い先生と、現状を諦めた現状維持に汲々とする、もしくは教条主義的に硬直したベテラン教員との対立が描かれる。もちろん主人公は若い教員であり、若い教員こそが生徒の理解者であり、その熱意が事態を好転させるのだ。
 若い先生の熱意は無論歓迎されるべきだが、現実にはこの映画にあるように、出口の見えない事態に挫折することにもなりかねない。
 だがこの映画では、成功の鍵は上記の誠実さであり、肩書き通りの「ベテラン」故の経験値なのだ。いくらか劇的な事件の起伏はあるものの、基本的には事態の好転は、地道な取り組みと、ちょっとした工夫の積み重ねが、そしてそれを可能にする教養と経験が事態を好転させるのだ。
 これには納得させられるとともに、深い共感を覚える。
事態の好転のキーになるのが「学習性無気力」(だったか?)という概念である。挫折を何度も経験するうちに無気力になってしまうという、動物実験をもとにしたこの概念を妹から聞いた主人公は、それまで嫌悪感だけで見ていた生徒の現状をそうした観点から捉え直し、といって劇的に変わるわけではないが、粘り強い取り組みを再開する。
 この「学習性無気力」は、生徒の現状にだけ適用できる概念ではないのかもしれない。
主人公が主人公たる成功に至ったのは、少々意地悪く見れば、任期が1年だということによるとも言える。
 期限のない教育活動の中で、若い先生方はいわば「学習性無気力」に陥りやすいとも言える。主人公は(もちろんベテラン故の経験と誠実さが必須だったとはいえ)1年で終わると思えばこそ、生徒の反発を招いても規律を守ろうとしつづけたり、新しい取り組みを工夫することができたのだ。
 生徒の「学習性無気力」を回避するのは教員の役割かもしれないが、教員の「学習性無気力」を回避するのは誰の仕事なんだろう。とりあえず若い教員の「学習性無気力」を救うためにはベテラン教員がその経験に基づく、有意義な教育活動の実例を見せるるか。
 もちろん現実にはベテラン教員の「学習性無気力」だって、実例には事欠かないのだが。

 最後のしんみりした別れの場面が、いくぶん情緒的に流れそうになったとたん、そこに子供たちの遊ぶボールがとびこんでくる動的なカットには思わずうなってしまった。映画的な技量の高い監督だと感じた。

 ところで、チケットだけ早めに押さえて、ひさしぶりの神保町は、書泉グランデで時間つぶし。何年ぶりかわからないが、コミックコーナーに行くと、その充実した品揃えに感動する。ネット通販のなかった学生時代には、時折訪れては、他では買えない品物を買ったものだったが、今日、棚に近藤ようこの『仮想恋愛』があったのを見て感激して買ってきた。
 近藤ようこは、第一短編集である『月夜見』のうちの一編を卒論で取り上げたりもして、当時手に入る作品を買い集めたものだったが、第二作品集である『仮想恋愛』だけは手に入らず、数年間本屋に行くたび探し続けたのだった。
 近藤ようこ作品は年を経るにつれ特に感興のわかないものばかりになって、新作を買うことも、『仮想恋愛』を探すこともなくなっていったが、初期のものには良い思い出がある。『月夜見』も現在は古書相場では数千円だし、当時の『仮想恋愛』も手には入らないが、初期作品集ということで3年程前に再販されたのは、どこかで聞いた気もしていた。そしてついに実物を手にしたわけだ。
p.s
 読んでみると、悪くはないが圧倒されるような輝きはない。やはり第一作品集である『月夜見』は、荒削りでありながらそれゆえの稀有な輝きを実現していたのだ。

2019年3月20日水曜日

『GAMBA ガンバと仲間たち』-ここには何もない

 原作『冒険者たち』は小学校の4年生くらいの、生涯ベスト級の読書体験だったし、その入口となったアニメ『ガンバの冒険』は、やはり生涯ベスト級でもあり、かつ44年前のアニメというハンデをものともせずに現在観ても一流の作品だというのに、「構想15年」という訳のわからない煽りと古沢良太の脚本に期待をこめて観てみると、もうなんともはや無残な代物なのだった。
 ここには何もない。
 現在の技術でアニメ化しました、というような感心させられるような要素が全くないというのも驚くべきことだ。CGにしたから何なのだ。『SING』を観たばかりで、そのセンスの差には呆然としてしまう。キャラクター・デザインには好き嫌いがあるだろうからどうでもいいが、イタチの動きがあんなに不自然な出来の悪いロボットのようなことにどういうメリットがあるのか。むしろ44年前のアニメこそが、そのセンスの良さに驚くべき代物だったのだとはいえ。
 期待されるのは、子供向けのTVアニメだった『ガンバの冒険』に対して、原作が現前させる文学性を表現しうる、映画としての作品性なのだが、古沢良太の脚本は、まったく何も表現していない。ラスト近くの戦いにおける原作改編部分は旧アニメの焼き直しだし、旧アニメが落としてしまった、ダンス対決や朗唱対決などの文学性は今回も表現されず。
 ボーボの死は、旧アニメで表現されなかった最大の「文学的」見せ場だったのだが、今回表現されたそれは、何の感動も引き起こさない無残なもので、これはまあ演出の問題でもある。それの何がどうして感動的なのかについて、真摯な考察も誠実な分析もない(ように見える)再アニメ化が、どうして実現してしまったのか。原作が冒涜されてしまったと感じるのはノスタルジーに固執する頑迷さだということも往々にしてあるのだが、ここには何もない、というこの感覚が間違っているとは思えない。 

2019年3月18日月曜日

『SING』-そつのないエンターテイメント

 傾きかけた劇場の支配人と、音楽ショーのために開いたオーディションに集まった、それぞれに事情を抱える応募者たちが、劇場の再興をかけて一夜のショーを開く。
 米映画らしい、起伏のあるストーリーテリングに、適度に笑わせるギャグを入れつつ、ちゃんと人情話で泣かせる、そつのない脚本。擬人化された動物のCGの動きもユーモラスで、面白い映画だと言って良い。
 といって手放しで絶賛できるような感動はなかったが。
 たぶん劇場で観ると、音楽にもうちょっと感動できる。吹き替え陣は演技だけでなく歌も歌える人たちで、音楽ショーの感動は、やはり音楽そのものの力で起こるものでもある。大音量で聴くと違う、というのは『ボヘミアン・ラプソディ』で最近体験したばかり。

2019年3月10日日曜日

『ハード・ソルジャー 炎の奪還』-B級そのもの

 ジャン=クロード・ヴァン・ダムを観ようと思ってしまうのは『その男 ヴァン・ダム』の好意的印象からだが、ああ、やはりB級だった。「なんとかソルジャー」とかいう代表作があったなあ…と怪しいうろ覚えの記憶があったのだが、『ユニバーサル・ソルジャー』にあやかった邦題なのだった。「炎の奪還」という副題も、日本語としてどうなの、というひどいセンス。確かに人質の「奪還」が映画の主題なのだが、「炎の」って何?
 といって原題の『6 Bullets』では意味不明だし。人身売買による子供の代金が「銃弾6発」だった、というのだが、これは何かの隠喩なんだろうか? わずかな金額、というなら6ドルでよかろうに。6発の銃弾が物語的に意味を持っているような様子もなかったなあ。
 ついでに落ちぶれた主人公は肉屋をやっているんで、物語中で敵方から「ブッチャー」と呼ばれるのだが、これが何か効果的とも思えないし、娘を誘拐される父親が総合格闘家という設定も、何の効果があるかわからなかった。
 うーん、無い物ねだりをしてもしょうがないか?

2019年3月3日日曜日

『突入せよ あさま山荘事件』-安定した映画職人の仕事

 「浅間山荘事件」の攻防戦を、指揮した佐々淳行を主人公に描く。
 『大空港』の映画力に圧倒されて、こういうのは邦画には無理だよなあと思っていたところ、続けて見た本作に邦画を見直した。スケールとしては比べるのは無理があるが、映画力は負けてない。原田眞人作品はここ3年ほどで『我が母の記』『日本のいちばん長い日』と、それぞれ力のある作品を観て、その度、洋画を見ては彼我の差を思い知らされる邦画のレベルを見直すことになった。ちゃんと映画を撮れる職人が日本にもいるのだと。おまけに役所広司が主演だから、安定感も抜群。
 立てこもっている犯人側の視点が全くないのが難点だという批判はあるだろう。確かにそれをやれば、物語がもっと立体的になるだろうな、という期待もある。
 だが、内部がどうなっているのかがわからないという、警察側からの不安感を描くためには、あえて内部を描かない、というやり方はあるだろう。それを意図しているのかどうかはわからないが。
 警察関係者が主人公ということで、やはりこれも横山秀夫の味わい。困難な作戦に、それぞれの部署のそれぞれの立場の関係者が、それぞれの背景を負って立ち向かう。その複雑さと、それが組み合わさって物事が成就する充実感は大きい。

2019年3月2日土曜日

『大空港』-堂々たるハリウッド・エンターテイメント

 有名なシリーズの第一作ということで放送されたのを機に。雪で機能不全に陥りかけた空港で起こるさまざまなトラブルに対応する空港長や旅客機機長や航空会社社長やスタッフの活躍を描く。
 始まってすぐ、これはまた見事なハリウッド映画だと感心しきり。数多くの登場人物が人物がそれぞれに抱えるドラマをわずかな断片で見せながら、それらをストーリーの中に組み込んでいく。脚本が巧みなら、演出と編集も映画的な技術の粋を極めた観がある。斬新というのではなく、映画的見せ方の手堅さからくる安心感が、物語の緊迫感を損なわない。
 物語に暗さはないのだが、複数の家庭崩壊が描かれるところが時代を表しているのだろうか。70年代パニック映画の嚆矢だというのだが、それよりも人間ドラマの絡み合いの方にこそ見所があった。そういう意味では横山秀夫作品の味わいに近い。
 映画的には、バート・ランカスターやディーン・マーティンなどの主役級には思い入れはなく、むしろジョージ・ケネディが画面に現れると、その安心感たるや、もはや快感ですらある。

2019年2月24日日曜日

『トランス・ワールド』-SSS低予算映画の佳品

 森の中の小屋に迷い込んだ3人の男女。森から出ることもできず、過ごすうち、3人の関係が徐々に明らかになる。クローズドサークルのSSSということで、事前情報まるで無しで借りてきた。
 低予算映画らしい舞台限定の中でも、森の中の小屋というシチュエーションはとりわけ安上がりにできる。だがこの安っぽさはマイナス要因ではない。寒々しい雲の垂れ込めた森の雰囲気は悪くないし、脚本さえ練れていれば、映画は面白くなるのだ。
 物語の大ネタが、最近読んだ辻村深月の「かがみの孤城」と重なったのは偶然とはいえ驚いた。そこが核心で、あとはそれにむけてどうネタをちりばめていくかが、この手のSSSの力の入れどころ。
 観終わった直後は、もっとあれこれ盛り込めそうな設定なのに惜しい、と思ったのだが、早送りで最初から辿ってみるとそういえばあれこれと伏線が張ってあることにあらためて気づき、評価もだいぶん上がった。
 それにしても苦しい邦題。原題の『Enter Nowhere』でも、邦訳して『出口なし』でもジャンルがわからんし、といってどう付けたらいいものか思案してしまう、というのはわからなくもないが。

2019年2月14日木曜日

『エクスペンダブルズ3』-まずまず

 1.2と観てきたので落とし前をつける意味で。
 印象としては2の方が密度が高かった気がするが、3も悪くはない、とも思った。相変わらず、言うのも馬鹿馬鹿しいほどの人命軽視と、あちらの弾は決してこちらにはあたらないという不合理を見ないことにすれば。
 ただ、1,2の時の、おお、この人も出てくるのか! という高揚感(というかやり過ぎ感)がもう感じられなくなって残念。ハリソン・フォードとメル・ギブソンは、この映画の売りである「廃用品」的な扱いとは感じられなくて、最初からそういう映画、という感じになってしまう。
 もっとも初登場のアントニオ・バンデラスはハイテンションが面白いキャラクターで、大いに成功しているが。出てくるだけでクスリと笑えてしまう。
 ともあれ、ラストのビルの爆発から間一髪で逃れる緊迫感などはやはりよくできていると言って良い。

2019年2月11日月曜日

『ロング・グッドバイ』-楽しみ方がわからない

 名高いハードボイルドの名高い映画版。あちこちで言及されてはいるので観た気になっていたがやっぱり観たことなかった。
 終わりまで観て呆気にとられる。どう観れば良いのかわからない。
 菊地成孔と伊集院光の対談でこの映画の見方について教わった。なるほど、物語の結構などを考えてはいけないのだ、と。
 そう思えば、夜の海はドキドキしたし、ラスト近くのメキシコの並木道も良かった。エリオット・グールドが歩いてくるだけでも良いし、遠ざかって行く途中ですれ違うおばあさんとワンステップ踊るところも、映画的に見事な絵作りだ。
 それでも、原作にあるという友情が描かれない映画の「物語」に、何を見いだせば良いのか。70年代的ニューシネマ的頽廃? わからん。

2019年2月10日日曜日

『ブラッド・ワーク』-意外と真っ当なミステリー

 クリント・イーストウッド監督・主演だというのだが、知らなかった。というか、あらためて調べるとイーストウッドって、監督としてこんなに撮ってるのかと驚く数の作品があるではないか。有名どころばかりでなく。
 犯人から警察、というかFBIの特定捜査官への挑戦状つき連続殺人事件があって、その捜査官がイーストウッドだというから『ダーティー・ハリー』かと思っていると、意外なほど真っ当なミステリーとして展開していく(パズラーではないが)。サイコスリラーというより。
 捜査に従って事件の様相が明らかになるにつれ、意外な展開になっていく。サスペンスたっぷりに犯人との対決があって…と堂々たる娯楽作なんだが、ラブロマンスはやり過ぎだとも思う。必要?

2019年1月24日木曜日

Kはその時、何をしていたか 11 授業案を伝える難しさ

 さて、四十三章の夜のエピソードの授業案は、前回までで終了である。だが、授業を終了しての所感を付け加えておく。
 今回の連載の初回に書いたとおり、この授業のために、同学年を担当している若い先生方と打ち合わせをした。ここまでの授業過程が比較的計画的なのはそのためだ(むしろあざといくらいに意図的に仕組んでいる)。筆者がひとりでやるならば、解釈の見当がついた後はもっと行き当たりばったりでもいい。
 だがこうして段階的に仮説を提示していくなどという計画的な授業を行った結果、以上の授業には結果的に3時限をかけることになった。以前の授業では2時限の見当だったから、1.5倍に増量してしてしまったのだが、途中の密度が薄くなったような印象もなく、手応えはたっぷり、といった感じだ。
 筆者の授業では半分以上が生徒の話し合いに時間がとられているのだが、そこを調整することももちろんできる。だが、目的は結論ではなく生徒の思考と検討のための討議そのものなのだから、それが充実している限りは時間をとることも有意義である。
 段階的な仮説の提示は言わばミスリードなのだが、仮説を提示しては「これでいいと思う?」というやりとりに、気心の知れた生徒たちが「またかぁ!」などと言って盛り上がるのは楽しくもあるのだった。

 さて、こうして授業実践の記録を残すことには何の意味があるか。
 最初にも書いたが、授業を構成する授業者も生徒もそれぞれの現場で、その現場に合った授業を作るしかない。だからこうした、誰かの授業の参考に供するようにと残す教材論は、教材の解釈だけを示せばいいのではないか、という考え方もあろう。
 だが、今回の推敲はもともと、教材解釈を述べた「授業実践」が実用的ではなかったことに動機づけられている。
 授業を構想する時は、ある認識を生徒に伝えることを目論んだとしても、そのままそれを説明するのではなく、その認識がどこからもたらされたものか、まず問題意識に遡るところから考え、それを「問い」として生徒に提示する。まず生徒の方が考えていないと、その認識の意味も面白さも充分には受け取れないことが多いのだ。
 だから重要なのは、生徒に考えさせるための誘導であり、「問い」である。
 それにそもそもがその「認識」を生徒に伝えること自身が授業の目的ではない。上記の通り、四十三章のエピソードの意味などを、生徒に理解させることを目的として授業をしているのではなく、テキストの読解や討議そのものが授業の目的なのだ。
 だからこそそれをどう仕掛けるかは、授業実践にとって教材の解釈よりも重要ですらある。

 さて、こうして構想された授業案をもって臨んだ本実践において、授業を実施すること、あるいは授業案を伝えることの難しさを痛感した出来事があった。それは一緒に授業案を検討した若い教員の授業を参観したときのことである。彼らの授業では、四十三章の夜にKが遺書を書いていたのだという「解釈」が、まるで当然のように語られていたのだ。それが最終的な結論ででもあるかのように。
 彼らとは事前の授業計画の中で、どうやって生徒の思考を誘導したらいいか、という展開予定として「私に声をかけるまでKは何をしていたか?」という問いを投げるという打ち合わせをしていた。こう問われれば「遺書を書いていた」というアイデアは発想される。だが問うて生徒がそう答えたからといって、答えた本人だってそのアイデアを本気で信じているわけではなかろう。まずはそのトンデモアイデアを、みんなで半信半疑で検討するところから始めて、検討するうちにホントかもしれないと思えてくる驚きを味わうべきところなのだ。
 だが「遺書を書いてた」と誰かが言ったら、もうそれが既定路線として扱われてしまう。そんな突飛な話はにわかには信じがたい、という素朴な読者の感じ方が無いものとして扱われてしまう。というか、本気で生徒が考えていない時には「信じがたい」という思いすら抱かず、生徒は受け入れてしまうのだ。
 というか、それはつまり本気で受け容れてさえいないということだ。読みが血肉化していないのだ。
 そもそもこの仮説4の解釈は、彼ら授業者が自ら思いついたわけでもない。筆者ですらない。こんなことに普通の読者が気づくはずないということをなぜ忘れてしまうのか。
 似たような驚きは、四十章から始まる上野公園の散歩のエピソードを扱う授業を参観した機会にも経験した。しかもここ3年連続で、3人、それぞれ別の授業者の授業でだ。
 ここでの「私」とKの会話が、実は全くお互いの言っていることを誤解したまま、まるですれ違ったまま交わされているという解釈(別稿参照)を筆者から聞いた3人の若い教員は、3人ともその解釈をそのまま生徒に教えていたのだった。
 最初の年にそうした授業を見て心底驚いたのだが、次の年もその次の年も、それぞれ別の教員が同じ事をするのを見て、それぞれに驚きつつ、問題の根深さをも思い知らされたのだった。
 ここには「ある認識を生徒に理解させることが授業の目的である」という授業イメージが国語科、特に現代文にも適用されてしまうという病弊が存在している。授業を評価する言葉として「わかりやすい授業」などという言い方があたりまえのように通用してしまう。そもそも「わかる」ことが目的ではないという前提は共有されていない。一方で「アクティブラーニング」の大合唱だというのに。
 ここは、テキストから細かい情報を拾い集めてそれを疑問として提示し、その解決策としての「二人の科白はどれも二つの意味で解釈可能であり、それぞれが一方の解釈で会話をしている」というアイデアは、何としてでも生徒に発想させねばならない。しかも問題は、そのアイデアの妥当性について検討することこそ授業の本義だということだ。それは前提でも結論でもなく、俎上に乗せられた仮説である。
 問題は、「何を教えるか」でも「どう教えるか」でもなく、「何をやるか」だ。今回の四十三章の夜のエピソードをめぐる考察も、目指していたのはそれである。
 だが授業実践の記録と称されるものが、教材の解釈を語って終わってしまっていては、結局それが「何を教えるか」なのだと受け取られてしまいかねない。今回の推敲は、だから「どう教えるか」について論じたわけですらない。
 「何をしたか」の記録なのである。

2019年1月20日日曜日

Kはその時、何をしていたか 10 Kは何をしていたか

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 ここまでの、問①「エピソードの意味」、問②「Kの行動の意図」についての考察結果を通観してみる。

 ①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
 ②の仮説1 自殺の準備として「私」眠りの深さを確かめようとした。


 ①の仮説2 物語を展開させるはたらきをする。
 ②の仮説2 Kの言葉通り、特別な意味はない(d)。

 ①の仮説3 自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。
 ②の仮説3 「私」に対して心のつながりを求めている(cd)。

 ①の仮説4 Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。


 先述の通り、①②ともに仮説1は採らない。①については仮説23をいずれも認めたうえで、仮説4こそが最も重要な「意味」だと考えている。②については仮説3のような表現が適当だろうか。
以上、仮説1から4までの授業展開は、必ずしもこの順に展開するわけではない。最初の検討の段階で既に生徒たちの間では1以外の説も同時に検討されている。実際に筆者が授業で最初に4を知った時にも、その生徒は授業の最初期に1と4を合わせた形で提示してきたのだった。生徒の発言に応じて授業は形を変える。こちらで用意している様々な検討事項も、適宜提示するしかない。
 だが少なくとも仮説3「襖の象徴性」については、こちらから参照すべき記述を提示しない限り発想されないはずだし、4については生徒からの自主的な発想がなかったら誘導するしかない。
 その際に、仮説1の否定も、仮説2~4も、それぞれ「正解」であるかのように教えるつもりはない。解釈の一つの可能性として、生徒とテキストを「読む」のである。

 実は「近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。」についてどう考えるべきかについては今のところ確信がない。
 これが最も整合的に解釈できるのは、Kが自殺の機会を得るために「私」の睡眠の状況を確かめているのだという解釈(仮説1)だが、それは先に述べたとおり、採らない。これは、単に懊悩のあまり眠れない自分の状況に対して「私」はどうなのだろうという素朴な疑問を口にしているのだという、つまりこれも、Kにとってはそれほど裏のある言葉ではないのに、「私」が殊更にそこに意味を見出してしまっているという解釈を仮説23ではしていた。
 だが、前の晩に遺書を書いたのだという仮説4の解釈を採るならば、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。

 上野公園の散歩のエピソードにおいて、Kが自己処決の「覚悟」をしていたこと確認することは、欠かしてはならない授業過程である。さらに四十三章の夜のエピソードは、右の解釈を採るならば、Kが自殺した後に「私」が(そして読者が)読むことになる手紙が、実は死の十日以上前の晩に既に書かれたものであることを示唆することで、お嬢さんとの婚約という「私」の裏切りがKを死に追いやったという、ありうべき誤解から読者を救うことが期待されているという役割を負ったものであることを確認することは重要な授業過程である。
 だが一方で、奥さんから婚約の件について聞かされることは、Kが自殺を決行するための契機として必須であり、あくまでこの晩の自殺決行の可能性をこのエピソードに見てはならないというのが筆者の主張である。
 そしてこの解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。
 果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。
 これは自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間や、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間のKについて想像することの必要性と同程度の必要性をもっているであろうか。それについて右にようにあえて想像することは妥当だろうか。
 その妥当性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。
 Kはその時、確かに生きていた。

Kはその時、何をしていたか 9 サインの数々

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定して、それでもKがこの時、遺書を書いていたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか。
 先に仮説3に伴う疑問点として保留した、宵の口に「迷惑そう」にしていたKがなぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか、またそのときの声が落ち着いていたという変化がなぜ生じたのか、という点について仮説4から考えてみる。
 この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは同時に、「覚悟」を実行に移すべく心を決めているからこその「落ち着き」なのだというa「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。
 だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。
 Kが宵のうち「私」を疎ましく感じていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを処決する「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。
 そうしたKが夜中には「落ち着いていた」のは、「覚悟」の証としての遺書を書き終えたからだ。だがそれはただちにそこに書かれたことを実行に移そうという差し迫った行動予定ではない。自己確認の証である。
 それを書き終えた今、Kには、その手紙を託すべき隣室の友人のことが気にかかる。彼は安らかに眠っているのだろうか。ふと思い立って襖を開け、声をかける。といって何を話すあてもない。
 このように考えると、問②については仮説3のとおり「私に対して心のつながりを求めている(cd)」というのが最も妥当だろうか。
 また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。
 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、Kは遺書を書き終えたからこそその声が「落ち着いていた」のだと考えるのは、相対的に強い納得が得られるとは思う。
 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。
 また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。
 また四十八章で遺書について「お嬢さんの名前だけはどこにも見えません」と書いてあるのは、むろん「私」が考えるように「Kがわざと回避した」ということではなく、「私」がそう解釈したに過ぎない。ここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」は「私」の推測であるという区別を生徒に理解させなければならない。これもまたKの苦悩がお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものであることの証なのだが、遺書が書かれたのが婚約成立前であるとすれば、遺書にお嬢さんの名前がないことがわざわざ示されているのは、Kの自殺が「私」の裏切り――お嬢さんへの失恋などと無関係の「覚悟」に基づいたものであることを読者にさりげなく注意喚起しているのではないか。
 考えてみると、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたことを読者に知らせようとしているように思えてくる。
 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか(筆者もまた自ら気付かなかった一人である)。しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を自殺の決行のための偵察であると解釈すること(ab説)に付随して発想されたことは間違いない。そしてそれについて、筆者は否定的なのである。
 そしてこのわかりにくさ、気付きにくさが、仮説4を突飛なものと感じさせてしまう。なぜそんな無理矢理な解釈をしなければならないのか。生徒にもこのわかりにくさの理由を問うてみよう。

 問   仮説4はなぜこんなに読者にわかりにくいのか。


 なぜ読者が気付きにくいかというと、「こころ」の物語が「私」の視点からのみ語られているからである。そのようになら生徒もすぐに答えられる。
 さらに、「なぜこんなにわかりにくく書く必要があるのか。」と問うてみよう。これに答えられなければ、やはりこの解釈は徒にこねくりまわした突飛で不自然なものとみなされてしまうだろう。
 答えは、語り手である「私」に真相を悟られないようにするため、である。
 「こころ」のドラマは、こうした真相に「私」が気付かないことによって成立している。「私」とKの心のすれ違いこそが「こころ」という作品の核心である。
 だが「こころ」という物語はあくまで「私」という語り手によって語られなければならない。読者は「私」の認識を通してしか、何の情報を受け取ることもできない。読者にわかりやすいように伝えるとしたら、当然「私」にもその事はわかってしまう。それではドラマが成立しない。
 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気付かれないように、それでいて読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきである。
 むろん、大学生当時の「私」には気付かなかったが、遺書を書いている「私」はその真相に気付いたことにすることもできる。だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が真相を説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。
 遺書が四十三章で書かれていることは、わかりにくい必要があるのである。

2019年1月15日火曜日

Kはその時、何をしていたか 8 「墨の余りで書き添えたらしく見える」

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 仮説4「Kの遺書は自殺の決行よりも2週間近く前の、上野公園の散歩の夜に既に書かれていた」という解釈を検討するにあたって問題になるのは、四十八章で遺書を見た際に「私」が「最も痛切に感じた」と語る「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現である。生徒もこの記述を巡って意見を交わしている。その様子が見られたら全体で問題を確認する。

 問   この記述についてどう考えるべきか。


 四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる生徒もいる。だがそうした発想は因果が逆転している。まず遺書を四十三章の時点で書いたと仮定し、そのうえでその時点で「もっと早く」とはいつのことかなどと考える必要があるのではなく、そもそもこの「文句」だけが自殺した「土曜の晩」に書かれていると考えるからこそ、それ以外の部分が四十三章の時点で遺書が書かれていたという解釈が発想されたのである。Kが遺書を書いていたという解釈を人為的に誘導したから、このように不自然に不必要な脇道に逸れただけである。転倒した本末を元に戻して議論を続ける。
 実は授業で最初にこの解釈を聞いたときには受け入れ難かった筆者が、その時ただちに反証として挙げたのは、この記述をだった。この「文句」はどうみても自殺の直前に書かれたものに違いあるまい。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない、と反論した。生徒たちもこの記述を、仮説4を否定する根拠として指摘する。
 だが、考えているうち、否定するための根拠として挙げたこの形容こそが、この部分とそこまでの部分の書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられることに気付いた。つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。
 発想の転換のためには、どう考える必要があるか。ここでの要所は「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎないのだと気づくことである。つまり「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら事実ではないのである。「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであると繰り返していた筆者自身がそれを忘れていたのだった。
 この認識を生徒に理解させることはきわめて重要である。
 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の部分はもっと以前に書かれたものであっても構わないのである。

 問   「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか。


 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  ① それ以前の文章に比べて墨が薄い。墨がかすれている。
  ② この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
  ③ 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような調子である。
  ④ そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが幾分崩れた口語調になっている。

 もちろん①を思い浮かべることは必須である。「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態は①である。だが②~④のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。②も視覚的イメージとして想像されてもいい。③はある程度の分析的思考が必要である。④については授業者による解説が必要である。この遺書は巻紙に毛筆で書かれており、時代背景とKの性格から考えて「候文」で書かれていると考えられる。そしておそらくこの部分だけが言文一致体だったのだ(「三四郎」の中に〈母に言文一致の手紙を書いた〉という記述があるのは、それが正式ではないことを表している)。これはそう指摘しなければ生徒にはわかるはずがないので、授業者が、できれば「候文」の書簡を実例として示して指摘してしまう。
 だがこうした①②「外見」や③「内容」や④「文体」による差異によってこの文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。だから、この部分について授業で考察するにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。
 もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは非常に重要であり、そしてそれはかなり難問でもある)。だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。
 これもまた冒頭で述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。