2019年1月20日日曜日

Kはその時、何をしていたか 9 サインの数々

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定して、それでもKがこの時、遺書を書いていたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか。
 先に仮説3に伴う疑問点として保留した、宵の口に「迷惑そう」にしていたKがなぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか、またそのときの声が落ち着いていたという変化がなぜ生じたのか、という点について仮説4から考えてみる。
 この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは同時に、「覚悟」を実行に移すべく心を決めているからこその「落ち着き」なのだというa「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。
 だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。
 Kが宵のうち「私」を疎ましく感じていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを処決する「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。
 そうしたKが夜中には「落ち着いていた」のは、「覚悟」の証としての遺書を書き終えたからだ。だがそれはただちにそこに書かれたことを実行に移そうという差し迫った行動予定ではない。自己確認の証である。
 それを書き終えた今、Kには、その手紙を託すべき隣室の友人のことが気にかかる。彼は安らかに眠っているのだろうか。ふと思い立って襖を開け、声をかける。といって何を話すあてもない。
 このように考えると、問②については仮説3のとおり「私に対して心のつながりを求めている(cd)」というのが最も妥当だろうか。
 また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。
 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、Kは遺書を書き終えたからこそその声が「落ち着いていた」のだと考えるのは、相対的に強い納得が得られるとは思う。
 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。
 また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。
 また四十八章で遺書について「お嬢さんの名前だけはどこにも見えません」と書いてあるのは、むろん「私」が考えるように「Kがわざと回避した」ということではなく、「私」がそう解釈したに過ぎない。ここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」は「私」の推測であるという区別を生徒に理解させなければならない。これもまたKの苦悩がお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものであることの証なのだが、遺書が書かれたのが婚約成立前であるとすれば、遺書にお嬢さんの名前がないことがわざわざ示されているのは、Kの自殺が「私」の裏切り――お嬢さんへの失恋などと無関係の「覚悟」に基づいたものであることを読者にさりげなく注意喚起しているのではないか。
 考えてみると、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたことを読者に知らせようとしているように思えてくる。
 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか(筆者もまた自ら気付かなかった一人である)。しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を自殺の決行のための偵察であると解釈すること(ab説)に付随して発想されたことは間違いない。そしてそれについて、筆者は否定的なのである。
 そしてこのわかりにくさ、気付きにくさが、仮説4を突飛なものと感じさせてしまう。なぜそんな無理矢理な解釈をしなければならないのか。生徒にもこのわかりにくさの理由を問うてみよう。

 問   仮説4はなぜこんなに読者にわかりにくいのか。


 なぜ読者が気付きにくいかというと、「こころ」の物語が「私」の視点からのみ語られているからである。そのようになら生徒もすぐに答えられる。
 さらに、「なぜこんなにわかりにくく書く必要があるのか。」と問うてみよう。これに答えられなければ、やはりこの解釈は徒にこねくりまわした突飛で不自然なものとみなされてしまうだろう。
 答えは、語り手である「私」に真相を悟られないようにするため、である。
 「こころ」のドラマは、こうした真相に「私」が気付かないことによって成立している。「私」とKの心のすれ違いこそが「こころ」という作品の核心である。
 だが「こころ」という物語はあくまで「私」という語り手によって語られなければならない。読者は「私」の認識を通してしか、何の情報を受け取ることもできない。読者にわかりやすいように伝えるとしたら、当然「私」にもその事はわかってしまう。それではドラマが成立しない。
 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気付かれないように、それでいて読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきである。
 むろん、大学生当時の「私」には気付かなかったが、遺書を書いている「私」はその真相に気付いたことにすることもできる。だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が真相を説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。
 遺書が四十三章で書かれていることは、わかりにくい必要があるのである。

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