2019年1月15日火曜日

Kはその時、何をしていたか 8 「墨の余りで書き添えたらしく見える」

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 仮説4「Kの遺書は自殺の決行よりも2週間近く前の、上野公園の散歩の夜に既に書かれていた」という解釈を検討するにあたって問題になるのは、四十八章で遺書を見た際に「私」が「最も痛切に感じた」と語る「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現である。生徒もこの記述を巡って意見を交わしている。その様子が見られたら全体で問題を確認する。

 問   この記述についてどう考えるべきか。


 四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる生徒もいる。だがそうした発想は因果が逆転している。まず遺書を四十三章の時点で書いたと仮定し、そのうえでその時点で「もっと早く」とはいつのことかなどと考える必要があるのではなく、そもそもこの「文句」だけが自殺した「土曜の晩」に書かれていると考えるからこそ、それ以外の部分が四十三章の時点で遺書が書かれていたという解釈が発想されたのである。Kが遺書を書いていたという解釈を人為的に誘導したから、このように不自然に不必要な脇道に逸れただけである。転倒した本末を元に戻して議論を続ける。
 実は授業で最初にこの解釈を聞いたときには受け入れ難かった筆者が、その時ただちに反証として挙げたのは、この記述をだった。この「文句」はどうみても自殺の直前に書かれたものに違いあるまい。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない、と反論した。生徒たちもこの記述を、仮説4を否定する根拠として指摘する。
 だが、考えているうち、否定するための根拠として挙げたこの形容こそが、この部分とそこまでの部分の書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられることに気付いた。つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。
 発想の転換のためには、どう考える必要があるか。ここでの要所は「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎないのだと気づくことである。つまり「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら事実ではないのである。「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであると繰り返していた筆者自身がそれを忘れていたのだった。
 この認識を生徒に理解させることはきわめて重要である。
 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の部分はもっと以前に書かれたものであっても構わないのである。

 問   「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか。


 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  ① それ以前の文章に比べて墨が薄い。墨がかすれている。
  ② この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
  ③ 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような調子である。
  ④ そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが幾分崩れた口語調になっている。

 もちろん①を思い浮かべることは必須である。「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態は①である。だが②~④のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。②も視覚的イメージとして想像されてもいい。③はある程度の分析的思考が必要である。④については授業者による解説が必要である。この遺書は巻紙に毛筆で書かれており、時代背景とKの性格から考えて「候文」で書かれていると考えられる。そしておそらくこの部分だけが言文一致体だったのだ(「三四郎」の中に〈母に言文一致の手紙を書いた〉という記述があるのは、それが正式ではないことを表している)。これはそう指摘しなければ生徒にはわかるはずがないので、授業者が、できれば「候文」の書簡を実例として示して指摘してしまう。
 だがこうした①②「外見」や③「内容」や④「文体」による差異によってこの文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。だから、この部分について授業で考察するにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。
 もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは非常に重要であり、そしてそれはかなり難問でもある)。だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。
 これもまた冒頭で述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。

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