2017年1月28日土曜日

『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化

 ネット、ラジオ、はてはテレビなど各種メディアの絶賛を喜ぶ応援団的心情は、むろん原作のファンだからである。物語は知っているから、ネタバレを恐れず、映画評のたぐいを漁って、その絶賛をわがことのように喜んだ。
 そしてとうとう映画館で鑑賞である。2年半も映画館に来ていなかったというのに、2週間で3本目である。機会が作れるタイミングだったということもあるが、やはり音響と没入感の点で「そのうちテレビで」とは違う体験として観ておこうと思ったのと、クラウド・ファウンディングに乗り遅れた後悔をメセナ気分で果たしたいということでもある。応援の気持ちを行動で示そうと。

 さて、映画については多くを語らない。賞賛の言葉は既に世の中に満ち溢れている。
 そして原作についても、語るのはしんどい。そのすごさはいくらでも強調してあまりあるが、それを批評するのは、あまりにハードルが高い。いわく、日常を細やかに描くことで戦時下の庶民にとっての戦争を描く。確かにそうである。だがそれ以上のことを付け加えるのは難しい。
 もっとも印象的だった指摘は、斎藤環のこの映画の題名の英訳が「In this world~」ではなく「In this corner~」だという話だ。「この」は「世界」ではなく「片隅」にかかっているのかもしれないのである。この物語の目指す方向を捉えるために心に留めておく意味のある指摘である。

 さて感想のみ。
 岡田斗司夫が、この映画で泣きたくても泣いてはいけないと言っていたが、冒頭で、海苔を届けるお使いに船に乗り込む子供時代の「すず」が画面に出てきたとたん、いきなり目頭が熱くなってしまった。こういう反応はむろん原作を読んでいるからだが、これは原作の「すず」が魅力的なキャラクターでもあり、アニメーションとして優れた造型でもあり、そして能年玲奈のすごさでもある。
 いやはや、能年玲奈はすごかった。うまいんだかなんだかわからないから、あれはああいう存在なんだと思うしかないが、ともかく、「あまちゃん」の天野アキがそうだったように、「すず」もまた、観ているうちに、そういう存在がそこにいるとしか思えなくなってしまうのだった。その無垢と向日性。だからこそ、時折見せる怒りや悲しみが一層胸に迫る。

 帰って原作を読み返そうと書棚を探すが上巻が見つからない。とりあえず中・下巻のみ読み返して、なるほど、これはアニメ化する価値のあった仕事だと腑に落ちた。
 それは無論、能年玲奈の存在も大きいのだが、監督もまた大きな仕事をした。
 原作を越える映像化作品(そもそもマンガは既に「映像」でもある)はほぼ無いといって間違いないが、この映画については、「越える」とは言わないが、それでも映画化するにあたってふくらんだ物語の機微がことごとく味わうに足るものに感じる、価値あるアニメ化だった。
 ことあるごとに聞こえてくる「徹底的な調査」は、既にこうの史代が原作で行っていることではあるが、それに負けずに片淵監督が行った「徹底的な調査」もまた、間違いなく作品に厚みと立体感を与えている。そこから生まれる背景美術の豊かさといい、音響からカメラワークから編集、当然アニメーション自体と、諸要素のレベルがことごとく高い。映画が単に原作の絵解きに終わっているわけではなく、あらたにそれ自体として高いレベルに結実している。
 とりわけ監督の仕事として大きいと感じた場面を特に二つ挙げる。
 一つは爆弾の炸裂で大怪我を負って間もない空襲の場面。警報が鳴り響く中、防空壕に避難するにも緩慢で、どこか投げやりにさえ見える「すず」の背後で、屋根を突き破って焼夷弾が部屋の中に跳び込む。束の間の静止の後に、怪我をした体で布団を焼夷弾に被せて消火する「すず」は、その行為全体から怒りをにじませているように感じられるのだが、原作を読んでみると、そこでは単に慌てて消火しているだけのように見える。
 もう一つは、それより少し後、空襲から避難する場面に登場する鷺である。映画ではまるで隠り世から目前の庭先に舞い降りたように見えた鷺だが、原作ではまるで平板で白茶けて見える。鷺が戦争に関わりなく、そこから飛び立つ存在として象徴的に描かれているのは原作も同様なのだろうが、その表現は映画においてずっと深く観る者の心に沁みこんでくるように感じた。
 どちらも原作とは違った何事かを描いているわけではないのだが、こうして丁寧に展開されることでその重要さがより受け手に届くように描かれていた。

 諸要素と言えばコトリンゴの音楽ももちろん良かった。
 「悲しくてやりきれない」も原曲に対する愛着はまるでなかったのだが、コトリンゴの手にかかれば、かくも、というほど魅力に溢れている。ましてエンディングの「たんぽぽ」の素晴らしさ!

 それにしても、「あまちゃん」では、故郷を離れている時に故郷を襲った3.11の悲劇を知ることなる岩手出身の少女を演じ、『この世界の片隅に』では嫁ぎ先にいる時に8.6の惨劇を知ることになる広島出身の少女を演ずることになる能年玲奈という女優は、なんと不思議なめぐりあわせの主なのだろう。 


2017年1月20日金曜日

『シカゴ』 -ミュージカル仕様

 物語を享受する際、基本的に、お話の文脈を追うのが主たる受容態度ということになってしまうのだろう。ミュージカルは苦手だ。歌やダンスをそれ自体で楽しむということができず、お話が展開しない時間がもどかしくなってしまう。
 観ながら、これがアカデミー作品賞? と思ってしまい、だがそれでも見続けているとそれも納得だと思い直す。音楽やダンスが見事なのは無論だが、それを映すカメラワーク、現実のドラマとの交錯を挿入する編集、映画としてのうまさにはやはり舌を巻く。
 それでも特に楽しいとか感動するとかいう感情が湧かない。キャサリン・ゼタ・ジョーンズだって、『幸せのレシピ』の時の魅力はないし(にもかかわらずのアカデミー助演女優賞)、主人公のレネー・ゼルウィガーに好意的にもなれない。ああいうのがコケティッシュで魅力的に見えるものなのか?
 成功に取り憑かれた、それもとりわけショービジネスの世界でのサクセスに貪欲なのは、やっぱりアメリカの病理だよなあ、と思う。あれで、殺されてしまった男に対する同情はないのか? もちろん痛い目に遭うのは同情の余地がないが、といって殺されるほど? そこいらあたりが、物語のリアリティがミュージカル仕様なのだった。法廷劇としてももちろん見られはしない。あくまでミュージカル仕様。マスコミとそれに踊らされる大衆批判、とかいうテーマも、本気とは思えない。
 映画館で、さあ、ショーを楽しむぞ、という構えで観ると楽しめる映画体験になるのだろう。録画したテレビ放送を、分割して見たりするもんじゃない。

『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画

 前回のIMAXで映画館づいて、久しぶりに帰省した娘と、翌日が休日になるという前回の娘と、レイトショーに出かけた。
 何が観たいということではなく(観たいというなら『この世界の片隅に』だが、ほど近いシネコンでは上映が終わってしまっていた)、現在上映中の映画を調べてみたところ、なんだかわからないホラーくらいしか、観てもいいと思える映画がなかった。もちろんホラーは歓迎ではある。念のため、と評判を確認してみると、宇多丸さんがずいぶんな高評価らしいという情報があったので、それなら、と。

 さて、ホラーという分類ではあるが、設定をきくかぎりオカルトではないらしい。それならスリラーかサスペンスではないかとも思ったが、ジェイソンだって、『スクリーム』シリーズだって、まあホラーということにはなっている。
 始まってもその情報のまま話が進んでいくようで、これでほんとに面白くなるのか心配になる。もちろん語り口はそつなく、映画として駄目な感じはしないが、いかんせん、舞台の広がりがなく人数も少ない。一軒家の中で、「怪物」に対峙するのは3人だけ。一人ずつ死んでいくには人数が少なすぎる。これで保つのか?
 いやはや、杞憂であった。最初の段階で1人が死ぬのはお約束だ。それが危機の度合いを設定するのだから。となれば残りは2人が死ぬか生き延びるかがサスペンスを支えるしかない。そしてそのサスペンスを、2人は存分に支えきったのだった。二階から地下室まで使った家の中を縦横無尽に舞台として、2人が逃げまくる。

 この映画におけるサスペンスを生む仕掛けは、いうまでもなく、「盲目の軍人」という設定である。たとえば相手が大怪獣であったり悪魔だったりすると、こうした意味でのサスペンスは生まれない。太刀打ちしようがないからだ。大怪獣相手にはただただその災害が及ばないことを願うしかなく、悪魔には恐怖は感じてもサスペンスは感じない。
 それに対してゾンビは、演出が適切ならば充分なサスペンスを生む設定である。こちらの工夫で対処が可能であり、方策を誤れば死に至る存在だからである(だからこの間の『人造人間13号』のようにゾンビの数が少なかったり、「走るゾンビ」だったりすると、よほど設定や演出を工夫しないと、サスペンスは生じさせにくい)。
 そこへいくと「盲目の軍人」という設定は、ゾンビのような「丁度良さ」をもっている。単体での戦闘力が敵わないとしても、発見されないように振る舞う可能性を残している。だから精一杯、頭も勇気も振り絞って、なおかつ幸運を祈って身悶えするように観てしまうのだ。
 途中そのアドバンテージを帳消しにする場面展開があって、そこではそれこそサスペンスの度合いもぎりぎりまで引き上げられる。ここは映画館の暗闇の中で観るしかない。明るいリビングで観てはだめである。昼間のリビングなどもってのほかである。
 映画は、1時間半にいたらぬサイズの中に、とりわけ後半に怒濤の展開を、これでもかという調子で詰め込んで、満腹のうちに終わった。その完成度の高い脚本と緻密な演出に脱帽である。

2017年1月17日火曜日

『君の名は』 -IMAXの力か

 突然映画館に行こうという話になった。昨年末から、「君の名は」が年明けにあらためてIMAX上映されるという情報を得て、夏以来スルーしていた超話題作を、今更、のこのこと観に行ったのだった。
 もちろん新海誠には最初から思い入れがある。といって、何事によらず、そのうち、と思っていて「思い入れがある」という言葉とは裏腹に、ここまでの5作品のうち、最近の2作を観ていない。必ず観るつもりはあるが、あくまで「そのうち」である。もちろんビデオレンタルだ。
 だがそんなことを言わずに映画館に行こうと思ったのは、IMAX鑑賞に、他の、テレビモニターで作品を見るだけのいつもの「映画鑑賞」とは違った体験を期待したからだった。平日に休みになった娘を誘って、レイトショー。
 考えてみると、映画館に行くのは、このブログを始めるきっかけになった『マレフィセント』を観て以来である。それ以外はことごとくテレビ放送かレンタル・ビデオなのだ。

 さて、IMAXである。いきなりスクリーンが大きくて圧倒される。予告編が始まる。3Dではないのに、その立体感と音響による臨場感に圧倒される。こいつはいい。レイトショーで、さすがの超話題作も場内はガラガラだ。もうちょっと前の列にすれば、真横の視界にぎりぎり他人が入るのも避けられたのに。惜しいことをした。
 映画本編の鑑賞時間中で最も心をゆさぶられたのは、雲を突き破って頭上に落ちかかる彗星を下から見上げる一瞬の光景だった。その絶望感とスペクタルは、映画作品本体の力なのか上映技術の力なのか。「見上げる」という構図に自分が置かれているという臨場感と容赦のない重低音に体を物理的に揺さぶられる体験。揺さぶれているのは体か心か。

 さて、作品については、くだくだしく言うには準備がなさ過ぎる。面白いことは言を俟たない。映像は素晴らしいし、脚本もよく練られている。入れ替わりのどたばたは楽しかったし、憧れの東京生活は高揚感に満ちていて、主人公たちがようやく会えた場面は感動的だった。そこへ被るRADの曲も単なるBGMではなく、むしろ映画の方がプロモ・ビデオのようである。音楽的な昂揚がある。

 さてこれだけのレベルの作品にしてなお不満がある。全体の高評価を認めつつ、書き留めておく。

 主人公の一人、瀧のキャラクターがわかりにくい。そこに充分な場面なりエピソードなりを費やしていないからだ。描かれるのは三葉の岐阜の生活と、三葉の東京生活ばかり。これは、映画の尺という問題だけではないはずだ。だから二人が惹かれ合っていくことに、充分な共感ができなかった。そこにいたる変化が描かれず、あるとき突然、相手に惹かれ合っているということになっていた。感情移入しにくい。

 後半、災害からの避難に奔走しているはずの長いくだりに、何カ所も、緊迫感の損なわれるアニメ的感情過多表現がはさまれる。何を暢気に。何百人も死ぬかどうかの大惨事を避けられるかどうかの瀬戸際だというのに。
 アニメ的と言ったが、最近観た二つの演劇にも同じような感じを抱いた。そちらでは演劇的な軽みや激情が、場面の論理に合わないのに白けたり苛立ったりしたのだった。仲間同士で軽口たたいてドジっ子なボケをかましあっていると、なんとなく「可笑しな」空気が醸し出されたり、顔を歪めて台詞を叫ぶと、なんだか「劇的」であるような気がしたり。だがそれが物語の論理に整合しているかは吟味されていなくて。
 『君の名は』も同じような、アニメ的「空気」を醸し出すような演出が優先されていて、それが物語の要請する緊迫感を阻害していると感じた。でもそこが面白かったり感動的だったりする場面なのだ、おそらく。宇多丸のよく言う「~げ」というやつだ。「面白げ」「感動げ」とかいう。「~あり気(げ)」という時の「げ」。
 これを入れることで観客の支持を期待するのは、「商品」としては当然なのだが、「作品」としてはありか?
 残念だった。

 もう一つ。入れ替わりという、「とりあえずは非現実的な」設定をして、後は起こりうる事態の可能性を可能な限り論理的に考察するのが、こういうファンタジーの楽しみの一つであるはずだ。『Death Note』しかり『百万畳ラビリンス』しかり。それがないばかりか、多くの観客の当然の疑問であるはずの、そこは知ろうとするはずだろ、場所なり日時なりを、という突っ込みを避ける言い訳が置かれていないのは杜撰の印象を免れない。
 夢だと思っていたから、そこについての関心がなかったというのは最初のうちで、本人たちが入れ替わりを確信してからは、それぞれの世界についての認識があんなに不確かであっていいはずがない。「惹かれあっていく」というのなら、相手への関心があんなに低くていいわけがない。
 それでも「そういうものだ」ということにするには、その違和感自体を登場人物たち本人に、どこかの時点で自覚し、語らせる必要がある。それをしないのは、観客の目を意図的に曇らせておくに等しい。そんな胡乱な認識を受け入れるのが健全な物語享受のあり方だろうか。

 思いの外、不満を書き連ねたが、もちろん面白いという印象の方が全体としては大きかった。そしてIMAXである。良かった。

2017年1月13日金曜日

『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容

 アカデミー賞作品賞という情報だけで、とりあえず見てみようと。
 主人公が時折見る妄想シーンには辟易したが、それはまあ物語上必要だとして、それ以外には間然するところのない、つくづくうまい映画だった。家族崩壊、メンタルヘルス、LGBT、退役軍人、ストーキング等々、病んだアメリカの病理が次々と散りばめられつつ、それがアメリカン・ドリーム幻想とマッチョイズムの裏返しであることもあからさまに描き出す。
 語り口がうますぎるのは監督の演出によるのかケビン・スペイシーが良い役者だということか、とにかく、場面場面のやりとりに、どんなニュアンスを出したいのかがいちいち的確に表現されている。心からの快哉と苦笑いの違いも、それが的確であることによって、観ていて気持ちが良い。ここでこういう感情の微妙な揺れを表現したいのだろうという丁寧な作り手の意図と、それを現前させる的確な技術。
 最初から主人公が死ぬと予告されていて、それが娘の教唆によるボーイフレンドの手によるものでも、妻の自棄によるものではないのが、不思議に救いに感じられるくらいに、全体として病んでいて、それを映画全体が寛容に受け止めているような不思議な暖かさが感じられる印象の映画だった。

2017年1月4日水曜日

バイオハザード『Ⅳ アフターライフ』『Ⅴ リトリビューション』 -不全感の残る大作化

 ゾンビ映画というジャンルにおけるゾンビは、数が多いことが必須条件である。「走るゾンビ」が邪道に思えてしまうのは、ゾンビというのが、一体一体の活動能力においてではなく、数において脅威であるような存在であるべきだと思ってしまうからだ。そうであればこそ、主人公たち人間の知恵と勇気と機転次第で事態を動かすことができるのだ。
 その意味で『人造人間13号』は、走るゾンビではないのに、出てくるゾンビの数が、物語の開始に先立つゾンビが2~3体、登場人物が途中でゾンビになるのが3体くらいという破格の設定なのだが、これは映画の工夫でも何でもなく、ただひたすら低予算のためである。ゾンビの密度が薄いと、ただでさえ屋外を主な展開の舞台としているのだから、いくらでも逃げようがあるではないかという気がしてしまって、そこでゾンビに出会うことがそもそも確率的に不自然に思えてしまう。
 一方で潤沢な予算を使える『バイオハザード』では、CGも含めてゾンビの数には不自由しない。銃撃戦での火薬の量にも不自由しない。
 だが比較的低予算だったというシリーズ1作目は充分に楽しめる佳作だったのに、2作目以降はどれもイマイチなのは残念なことだ。映画の面白さと予算は別段比例しない。
 4作目の『アフターライフ』と5作目の『リトリビューション』を連続して放送したのでまとめて観てみたら、『アフターライフ』の方は観たことがあるじゃないかと子供に指摘された。そうか、そういえば。それくらいの認識なのだ。
 たしかに『アフターライフ』の、シャワー室での処刑マジニとの戦いとか、ビルの屋上から雪崩をうって落ちるゾンビとか、『リトリビューション』の、施設ごとにアメリカやモスクワや東京が、それを模した仮想現実だという設定で切り替わるところとか、映画的魅力に満ちた場面もないではない。
 だが基本的な物語の文法が雑すぎてのめりこめない。例えば強さのインフレ。撃ち合いになってなぜか味方には弾が当たらない確率的不均衡、感情の浮き沈みに一貫性がない不自然さ。
 『リトリビューション』で、前作の生き残りのルーサーが登場してそれなりに活躍するのは嬉しいのだが、戦いの中で死んでしまったあとに、その死には触れられないとか、1作目で鮮烈な印象を残した隊長ワンがあまりに軽く扱われているとか(コリン・サーモンって、すごくいい役者だと思うんだが)、不全感の残るアンバランスさが、いったいどうしたわけだかと、どうにも支持できない印象なのだった。