2014年10月31日金曜日

『魔法にかけられて』『フィッシャー・キング』

 リアルタイムで書けなかった。今週火曜日に、録画されていた「魔法にかけられて」を娘と観た。大ヒットした、あれね、とか思って侮っていたので、最初の方だけ観てやめようと思っていたのだが、いや、ディズニー、侮れない。娘と一緒に観てるというシチュエーションがまた曲者だ。こういう脳天気にハッピーなミュージカルは、一人では観る気にならないかもしれないが、誰か、しかも無邪気に面白がることに貪欲な彼女と観ると、どうにもハマってしまうのだ。いやあ、満足した。
 あとでネットでみると、低評価の人の感想はまるで共感できないわけではなく、私とてもシチュエーション次第では同じような感想を抱かないとも限らない。
 ただ個人的には、現代に迷い込んだ異邦人、というモチーフには奇妙に心惹かれるものがある。前半部に引き込まれたのにはそういう理由も確かにある。これが何を意味しているかは俄には判じがたいが、「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」で書いた「センス・オブ・ワンダー」ということかもしれない。

 もうひとつ、1991年の公開当時から気になり続けていた「フィッシャー・キング」(監督:テリー・ギリアム)を何回かに分けてようやく見終わった。ロビン・ウィリアムズの追悼特集のような放送だったんだろうが、確かに良い役者だったよなあ。映画は、PDSTの表象であるところの赤騎士に辟易した他は、細部までよく作り込まれた良質な作品だった。横から覗き込んでいた息子が「音楽の使い方で引き込まれる映画だ」と評していた。
 たぶん、悲惨なことになりそうな不安を常に感じさせておいて、それに対する希望や救いをそれよりほんの少々多めに用意しておくところが絶妙な映画なのだと思う。
 ところでロビン・ウィリアムズは「グッドウィル・ハンティング」に次いでブログに二度目の登場。そしてヒロインのアマンダ・プラマーはなんと「新しい靴を買わなくちゃ」などという日本映画に続けて二度目の登場なのだった。

2014年10月27日月曜日

「敵はリングの外にいた」

 フジテレビの「ザ・ノンフィクション」の10月26日放送「敵はリングの外にいた」をテレビ欄で見つけて、なんか気になると録画した。どうも観たい。夕飯の後に部屋に戻る前の息子とちょっとさわりだけ、とか思いつつ見始めたら結局最後まで一緒に見てしまった。面白かった。後で息子も「やっぱ、面白いドキュメンタリーって面白いんだね」と言っていた。
 女子プロレスに興味はないし、ファンだったこともない。だが同い年(だと今回初めて知った)の長与千種とダンプ松本の現在には興味があった。一世を風靡して、濃密な時間を生きていた人が、世間から忘れられたように生きる現在がどんなものか、気になった。社会問題を真剣に考えさせるようなタイプのドキュメンタリーの持っている重さってのあるのだろうが、そうではなく、ここにあるのは有り体に言ってやはり「人間ドラマ」なのだ。それを、恐らくは長い時間をかけて丁寧に取材して、その何気なくも貴重な瞬間の数々を映像に残してきたディレクターは、良い仕事をしたと思う。

 そういえば、昨日一日がかりで編集した、こっちは歴史の一断面について心に刻むべきドキュメンタリーである「Japanデビュー アジアの”一等国”」は、やはりそれだけの鋭さで生徒たちの心に跡を残したような気がするし、苦労した編集も、全編を観ている同僚に絶賛されて、昨日の苦労が報われた。ま、番組そのものはNHK(外部の制作会社?)の労作なんだけど。

「Japanデビュー アジアの”一等国”」他2題

 明日、1時限で見せるためにNHKスペシャルの「Japanデビュー アジアの”一等国”」を40分程度に編集するのに、一日がかり。戦前の台湾統治の歴史を辿ったドキュメンタリーだが、番組の方向は確かにネトウヨの餌食になることを避けられない、今や懐かしいにおいすらする左翼的なバイアスがかかっている。一面的に日本統治の負の面が描かれる。それでもこうした歴史を口頭で語ってもとうてい浸透していくとは思えないので、せめて映像とともに生徒に提示したい。視聴記録プリントまで作って、1時限のために一体、何時間費やす?

 月曜日に学校の図書室で、開架に並んでいた窪島誠一郎の「絵をみるヒントを」ぱらぱらとめくり、面白そうではないと思ってやめた、この本の後書きに水上勉の息子である由が書かれていた。
 今日、随分前から断続的に読み進めていた「生きるかなしみ」(山田太一:編)の末尾に収録されている水上勉の文章を読んだら、この窪島誠一郎のことが「生き別れになっていた息子」として登場していて、窪島誠一郎も水上勉を全く縁のない読書生活の中でこんな偶然の符合が起こったのを不思議に思った。

 録画した「東京JAZZ」のアーマッド・ジャマルのカルテットの演奏を、今日で3回目に(最初に一人で、次に娘と、今日は息子と)聴いていたら、突然腑に落ちる感覚がおとずれた。最初の時は曲の構成がわからないので、インプロビゼーションがどんどん逸脱していくと、もう何が何だかわからなくなっていた。2回目の時に、これは13分もの演奏の間、ただ4小節のテーマがひたすら繰り返されているだけなのだと気付いた。
 そして3回目の今日は、インプロビゼーションで演奏がどれほど逸脱しようとも、背後でその4小節が流れつづけているのだと思いながら聴いてみた。すると、最初の時にはわけがわからない(コード感も調性感も小節の区切りの位置も、すぐについていけなくなる)と思っていた演奏が、俄かに「わかる」ように感じられた。テーマのメロディーやコード進行をスキーマとして、逸脱していく音の距離感がつかめるようになったのだった。
 情報を枠組みに捉えることこそ「理解」という現象なのだ、という話。

2014年10月24日金曜日

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』『すべてがFになる』

 何の予備知識もなしで見始めたすーちゃん まいちゃん さわ子さん(監督:)は大いに満足。気力がなくてレビューはしないが、たぶん間違いなく原作(益田ミリの4コマ漫画)の力であるとともに、監督もキャストもこの映画の空気感を作るのに、良い仕事をしたと思う。同じレストランものといえば、前に書いた『幸せのレシピ』が連想されるが、なるほど、どちらもストーリーはどうでもよくて、細部の描き方のうまさで見せる映画だ。
 それにしても、真木よう子や寺島しのぶがうまくても今更驚かないが、柴咲コウのキャラクターがなんとも上手い造型で良いなあと思ったら、原作ではこれが主役なんだな。
 これは原作も読んでみねば。

 そういえば『すべてがFになる』のテレビドラマ版も、朝刊で突然知って第一話を予録して観たが、とりあえず原作に対する思い入れに落とし前をつけなきゃなるまい、という動機だけで期待などできるはずもあるまいという予想通り、安っぽいドラマだった。あの薄っぺらいテレビ特有の画面は、テレビマンの矜持だとどこかで読んだことがあるが、いったいそんな矜持をどうしたいというのだろう。あんな物語を日常(だがテレビドラマという作り物じみた非日常)的な画面で見せて何をねらうつもりか。とりあえず、であれ、映画的な異空間を作ってこそはじめて、あの外連味けれんみたっぷりの「ミステリー」の異空間に視聴者をもっていけるんじゃないのか。でなければ、原作の絵解きに過ぎないあんな緊張感のないお芝居を見せてどうしたいというのか。

2014年10月23日木曜日

「こころ」5 ~テーマと「自殺の動機」

 まずは通読、曜日の確定と、全体を把握するところから入っていった。それが終わって、さて冒頭から順に精読…などという展開にはならない。さらに続く展開も「全体の把握」である。生徒に指示するのは、「テーマ」と「Kの自殺の動機」を考えよ、である。通常、最後の考察に当てるべき課題だが、ここは通読後、精読前にやっておくことに意味がある。現状の読みを確認させたいからだ。そして、精読前だからこそ、こちらの誘導に因らない、生徒の生の読みが露呈するところが、授業として面白くなる要因となる。
 さて「テーマ」などというと構えてしまうに違いない生徒たちに言って聞かせるのは、例によって私の「テーマ」観だ。以前書いた文章を引用する。
 小説の主題を考えるという行為は、そのテキストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。生徒に主題を考察させるときには、たとえば「どんな話か」を他人に語るうえで、粗筋よりも、もう少し抽象的な言い回しをしてみよう、それが「主題」だ、と解説してもいい。長々と粗筋を語るより、端的に、つまり作者は何が言いたいかというと…と語ってみる。それがその小説の主題である。
 さて、では「こころ」はどんな小説か。
たとえば、次のような「テーマ」案が提出される(あるクラスで発表された「テーマ」をおおよそ再現してみる)。

  • 三角関係
  • 人間の心の闇
  • 恋か友情か
  • 友人を死に追いやった罪悪感

 実はこれらは最初に観た「Rの法則」の解説に影響を受けている。たぶん上記のようなフレーズが番組中に飛び交っていた。だがむろんそれらは一般的な「こころ」理解のありようを反映しているともいえる。それらを適切に提出できた生徒たちを誉めるべきだろう。
 ここで、しばしば使う手なのだが、文庫本を数社、数種類並べてその裏表紙の惹句を読み上げる。また「国語便覧」の「こころ」の紹介を読み上げる。さて、これらに共通して使われている言葉は? と聞く。「エゴイズム」である。一応これが「利己心」とか「自己中心的」などという意味で理解されていることを確認し、上記の「テーマ」と並べる。
 一方、「Kの自殺の動機」である。これも以前書いたものを引用する。
  まずは一読した限りで、「K」はなぜ自殺したのだと思うか、と単純に聞いてみる。次々と指名しながら生徒の発言を場に提出させて、それを整理していく。つまり類似したものは一緒の項目でいいのか、別の要素を含んでいるのかを問い直すなど、細かいやりとりを通して生徒の考えていることを明らかにさせながら、いくつかの「死因」をパターン化して板書する。例えば次のような「死因」が生徒から提出される。
①お嬢さんを失ったから
②友人に裏切られたから
③自分が道に反したから
④「私」に対する復讐
⑤「私」に対する気遣い
  生徒から出尽くすところまでこうした項目を列挙して、次の問いは、こうした項目のうち、どれがどのくらいの割合で「K」を死に追いやったと考えるのか、である。つまり、例えば①と②と④が、2対5対3くらいの割合だ、などと「K」の「死因」としての重みを量らせるのである。これは問題をいたずらに矮小化しているように見えるかもしれないが、生徒自身がまだ「K」の抱える問題を「真面目」に考えてはいない段階での、自身の捉え方を自覚させることが目的である。
さて、やっぱり実際に授業をしてみるとこういう想定通りにはいかない。①から⑤まで、クラスによるとはいえ、出てくる。だが例えば「自分への罰」という「動機」が提出される。何についての罰? と訊くと、「精進の道を逸れたこと」という。それならば③と同じだ。だが、同じ「罰」という言い方で「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」というような意見が出るのである。両者はどう違うか? 「道を逸れたこと」なら恋を自覚してからだが、「気持ちに気付かなかった」なら自殺の直前、二日以内のことなのである。なるほど。面白い見解だ。そして大いに鋭い。
 次に「テーマ」と「動機」を見比べさせる。黒板を左右に分割してそれぞれ生徒から出た意見を列挙しておくのである。馴染みの良いものと悪いものがある、それはどの組み合わせか? と問う。質問の意図しているところのわかりにくい問いだ。何とか発言する生徒の見解を誘導して形にする。
 実はさっきの「テーマ」はひと続きにまとまられるだろ、と指摘しておく。「三角関係」における「恋か友情か」という迷いの中で友人を裏切った「人間の心の闇」にひそむ「エゴイズム」と、その結果として「友人を死に追いやった罪悪感」によって絶望する「私」の「こころ」を描いた小説、とか。
 こうした把握は①や②とは馴染みが良い。というよりむしろKの自殺の動機を①や②と捉えたところから把握された「物語」なのである。実際にうちの生徒には①②を動機と考える生徒の割合が高かったのだが、③を考えている生徒も少なくはない。だがそうした「動機」の把握は上記のような「テーマ」把握とは馴染まないことを指摘しておく。「動機」が③ならば、「友人を死に追いやった」などという事実は存在しないからだ。「友人を死に追いやった」と「私」が思い込んでいるのは、Kの自殺の「動機」を①②だと思っているからだ。
 今回の新説「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」ならば、ある意味で「私」がKを「死に追いやった」と言えないこともない。さて、これは後日検討。

 ここまで1時限ちょっと。さて次からいよいよ精読である。だが冒頭からではない。「覚悟」という言葉の検討からである。

2014年10月21日火曜日

「議会占拠24日間の記録」「台湾アイデンティティー」

 中間考査も明日で終わって、明後日からはまた授業が始まってしまう。授業自体は楽しみで、いくらでも時間がほしいのだが、この猶予に追いつこうと思っていた授業記録は結局書けないまま、授業の方が先へ進めばまた書きたいネタは生まれ出るんだろうし。もどかしい。
 歯医者の予約を入れていたんで早くに帰って、治療が済んで家に戻ると、修学旅行の事前学習用の企画を考える。台湾の学習に「台湾アイデンティティー」(監督:酒井充子)と、NHKの「Japanデビュー」と、同じくNHK・BSのドキュメンタリー「議会占拠24日間の記録」のどれをどの順で見せるか検討。「Japanデビュー」はこの週末にようやく見終わって、日本と台湾の関係を考える上では是非見せたいと思いつつ、1時限で見せることの可能な長さにどう編集するか、容易な作業ではないと保留。今日は「台湾アイデンティティー」を、これもまたようやく見終えて、しごく好意的な印象をもったのだが、編集に関する時間の見当に二の足を踏んで、とりあえず明後日向けに「議会占拠24日間の記録」で行こうと決めた。
 録画した5月に観て以来、二度目だが、やはりものすごく面白いドキュメンタリーだ。時間的にも小規模なカットでいける。テーマは台湾と中国の関係やら現在の台湾の情勢についての学習だが、何より、台湾の人々が実に素朴な「民主主義」を現実に生きていることを見せたいと思った。そこここで、学生が、市井の人たちが政治について車座になって熱く議論を交わす。こういう素朴さは今の日本では実現することが難しい。どうしたって頭でっかちの観念的「民主主義」擁護になってしまう気がする。
 だが私の感ずる「面白さ」は、そうした理念より、学生による立法院(議会)立て籠もりを、具体的に体験するように想像できたことによる。行政府への要求をどこまで貫けたら撤退するかといったリーダーの決断や駆け引き、立て籠もりにあたってのチームの役割分担など、その顛末はまるで映画のような「面白さ」だった。とりわけ、撤退を宣言してから二日間でバリケート封鎖を解いて議会場を掃除して外へ出るという学生たちの振る舞いには拍手喝采だ。それぞれが日常生活に戻っても、この24日間の経験を生かしていこうとする「成長物語」まで、どこまでも良くできた映画のようだった。
 だが「台湾アイデンティティー」も諦めてはいない。「議会占拠24日間の記録」が、ある事件の顛末を追った「映画」のようなドキュメンタリーだとすると、「台湾アイデンティティー」はさまざまな人生の断片が、さまざまな思いの強度によって語られることに引き込まれる、ドラマのようなドキュメンタリーだ。結局感動的なところは台湾という特殊な状況によるものというより、普遍的な夫婦愛や親子愛だったりもして、台湾の学習になるか? というためらいもないではないが。

2014年10月19日日曜日

「ごめんね青春!」「昨日のカレー、明日のパン」、ビッケブランカ

 このクールのアニメは「寄生獣」も2話でやめてしまったし、「四月は僕の嘘」も絵が綺麗なのは特筆すべきだが、見続けるかどうかはまだなんとも。
 それより宮藤官九郎の「ごめんね青春!」恐るべし、だ。なんなんだこのハズレのなさは。多くのドラマは、新聞のテレビ欄でいくら広告しようとも主演俳優の名前しか書いていないというのにクドカンは満島ひかりより錦戸亮よりも先に名前が掲げられる。それもむべなるかな。
 ところでこのドラマに個人的に受けた点。
 舞台が我がふるさと(の隣の隣の市の)三島市だ。どういうわけでこんな地方都市が選ばれたのか謎だ。舞台のモデルになっているのは私も併願した日大三島なんだろうなあ。三島での高校生活は結局実現しなかったが。昨日買ったばかりの「うなぎパイ」が話題に出た時には、娘と顔を見合わせてしまった。
 もうひとつ。授業のシーンでトリンドル玲奈が持っていたのは、私の関わっているあの書籍だった。エンドクレジットには協力として出版社名が出ていたから、編集部が知らないはずはないのだが、この間の会議では話題に出なかったなぁ。ところで高校3年という設定で「国語総合」はなかろう、などとは学校関係者しか思わないだろうが。

 もうひとつ、木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」は、一話の後半を録り損ねて観られなかったのだが、2話まで観たところ、すこぶる良い感じ。この良さも「ごめんね青春!」同様、まだ言葉にならない。願わくはテレビ的な中途半端なコメディっぽさや感動ものっぽさを狙った演出などせず、淡々と脚本をリアルなお芝居で見せて欲しい。それでも木皿泉的ユーモアはにじみ出るだろうし、それでこそ、この奇妙な不穏さや悲しみを背後に隠した穏やかな空気はいっそう生きるだろうに。

 You-Tubeで見つけた新人。
ビッケブランカ『秋の香り』
ビッケブランカ『追うBOY』
あまりの完成度にびっくりしたのだが、なんとなく清竜人を「Morning Sun」(Youtubeにはカバーしかないみたい)で知ったときのような予感もある。その後、興味をなくして、今は聞いていない、という。

2014年10月18日土曜日

浜松

 ハママツ・ジャズ・ウィークに一日がかり。往復9時間ほどのバスの車中の寝られること。
 日録にさえなっていない。
 

2014年10月17日金曜日

『Xファイル ザ・ムービー』『新しい靴を買わなくちゃ』

 連日の「こころ」報告がなかなかハードなのだが、実は前回までの「曜日を推定する」の後にもう3時限くらい進んでいて、その間だってまとめておきたい、残しておきたい要素はいろいろあり、去年あれだけ考え、書いたにもかかわらず、やっぱり授業をやるということはそうした机上の想定内にはおさまらない様々な思考を強いるのだった。いや、これまでも、それぞれの生徒を相手に、その時々で精一杯のものを開陳して見せていたつもりだが、いつだって次の授業は、前回の「精一杯」を超える。
 だが、中間考査をはさむので、今後の展開には猶予があるから、今日の所はお休み。

 ポリシーとしての映画視聴記録。
 「Xファイル ザ・ムービー」は、こういうジャンルが好物な私の嗜好に敬意を払って録画したが、いやあ、見終わるまでに長いことかかった。よくできている。ちゃちな感じはない。が、いかんせんTVシリーズを観ていない者が観るもんじゃないよなあ。
 「新しい靴を買わなくちゃ」は、なんだか懐かしいような切ないような気分になった。そういう気分になるのを目的とした嗜好品としてのお伽噺ということで納得しないと、ネットのレビューの低評価の人たちのように「ふざけるな」という感想になってしまうんだろうな。やっぱり。一方でAmazonのカスタマー・レビューの意外なほどの高評価もどうしたことか(ネットでは、けっこうな割合で監督を岩井俊二と勘違いしている人が多かった。岩井俊二:プロデュースに坂本龍一:音楽ってのは豪華だ。肝心の脚本・監督の北川悦吏子は、有名な有名なトレンディ・ドラマの諸作品を一つも観ていなくて、なんの思い入れもないが)。
 でも、「お伽噺」としては良かった。それと、ヒールの折れた靴、折れたヒールというのが、主人公たちの隠喩になっているという、わかりやすい構図に、とりあえず気づけたのは嬉しかった。

 ああそれにしてもレビューも面倒でできない。
 このクールで見始めた木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」と、宮藤官九郎の「ごめんね青春!」についても書き留めておきたいが、時間がとれず。だがこのままにはすまい。

2014年10月16日木曜日

「こころ」4 ~曜日を推定する③

 前回、お嬢さんとの結婚を申し入れる奥さんとの談判が開かれたのが月曜日であると結論するまでの過程を辿った。この過程で、Kが自殺した土曜日と談判のあった月曜日が、それぞれどの記述からどの記述までに対応しているかを確認することも重要である。生徒の苦手とするのは、ある程度の長さの文脈を一気に把握することだ。いま目で追っている文章が前後の文脈の中でどのような位置にあるかを捉えることは、文章を読む上で決定的に重要である。「土曜日」「月曜日」という認識が、どの長さの文章を把握する際に必要な枠組みなのかを意識させたい。
 「土曜日」の始まりは前回確認した46章の「五、六日経った後」だ。ここから所収の47章の終わりまで土曜日の深夜が続いている。
 一方「月曜日」の始まりは、前回の考察にしたがえば44章の「一週間の後」から46章の終わりまでである。その日のうちに「仮病を使って」から「談判」、神保町界隈の彷徨から夕飯までが語られる。
 さらに長いのは教科書所収の40章の冒頭「ある日…」から43章後半部の「しかし翌朝になって」の直前「私はそれぎり何も知りません。」までの一日である。生徒はページをめくりながら「ここもまだ同じ日かぁ。長え!」などと言って確認している。3章半に渡るこの部分に、重要な情報の詰め込まれた上野公園の散歩や、真夜中の謎めいたKの訪問が含まれる。はたしてこれはいつのことなのか?
 考えるべき点は44章の「二日経っても三日経っても」と「一週間の後」の関係である。これは前回の47章「二三日」と「五六日」の関係と同じく、始点を同じくする同一の時間経過を含む期間であると考えていいだろう。根拠は「一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって」の「とうとう」を指摘すればいいだろうか。「とうとう」はその前に経過を前提する副詞である。これが「二日経っても三日経っても」という途中経過を受けていると考えるのが自然である。
 ではその始点はどこだと考えればいいか? この「一週間」は、「私はいらいらしました。…私はとうとう堪え切れなくなって」から、奥さんへの談判の「機会をねらってい」た期間だと考えられるから、始点はそう思うようになった「私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞」いた日、つまり「覚悟」について考え直した、上野公園の散歩の日の翌日である。とすれば、奥さんとの談判を開いたのが月曜日という前回の結論から遡ること「一週間」、前の週の月曜日がそれである。
 では40章の冒頭「ある日」はその前日ということになるが、これで全ての曜日を確定したと考えていいだろうか?
 意味ありげな沈黙をしばし続けて、どう? と促してから問うと、ちゃんと考えている者はそうではない、と答える。「ある日」の続きは「私は久しぶりに学校の図書館に入りました。」である。つまりこれが日曜日ではありえない。では土曜日か月曜日か? 二択だと迫ると、翌日であるところの「その日」は、「同じ時間に講義の始まる時間割になっていた」とあることから平日であるとの論拠を指摘する生徒が現れる。つまり40章の「ある日」が月曜日、翌日43章の「その日」が火曜日なのである。では「いらいら」と「機会をねらっていた」のは「一週間」ではなく六日ということになる。だがここは数年後に書かれた遺書によって回想された過去だということを考えれば「六日後になって」などと正確な日数を書く方が不自然である。物語が大きく動く「ある日」から数えておおよその期間として「一週間」と書くことの自然さは当然認めていいはずである。

 長い推理過程を経て、教科書収録部分の曜日が確定した。前回の板書に沿って確認するなら、

  • 40~42章 月曜 ① 「ある日」~上野公園の散歩
  • 43章         ② 真夜中のKの訪問「もう寝たのか」
  • 43~44章 火曜 ③ 「その日」~「覚悟」について考え直す。
  • 44~45章 月曜 ④ A 奥さんとの談判を開く。
  • 47章   木曜 ⑤ B 奥さんがKにAの件を話す。
  • 47章   土曜 ⑥ C 奥さんからBの件を聞く。
  • 48章   土曜 ⑦ Kの自殺

ということになる。
 以上の設定を、漱石が計算していたかどうかを怪しむ向きもあろう。これは穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか? だがこうして考えてみた感触では、漱石は充分にこうした設計をした上で書き進めているように思える。48章に唐突に登場する「土曜日」という曜日の指定は、翌日の奥さんや下女の行動に制限を与えるための設定だと考えられるが、そこから遡る出来事の曜日は、明確な時間経過の計算に基づいて設計され、不自然でない程度の日数の明示によって読者の前に提示されているように感ずる。
 また、曜日制については明治の改暦後であることから前提して構わないはずだが、帝国大学の図書館が日曜日に開館していないかどうかについては確認はしていない。だがそこまで厳密でなくても構うまい。問題は文中に記された情報から可能な限り整合的な設定を読み取るという読解~考察の過程にあるからである。

 ここまでの授業展開はちょうど2時限だった。物語中の出来事の曜日を確定するぞ、と宣言してから最後に冒頭が前の週の月曜日であるという結論に達するまで、中身の詰まった2時限である。尤も、個々の問いを投げかけてから生徒の考察時間を取って結論を出すというサイクルにかかる時間は生徒次第だから、その反応速度によっては1時限でこれを展開してしまうことも不可能ではない。そうすれば、相当密度の濃い、充実した手応えのある展開になるだろう。もちろん、こちらが一方的に説明してしまえば以上の推論過程を10分程度で語ることは可能ではある。だがそんなことに意味はない。問題の発見(「二三日」と「五六日」の関係をどう考えたらいいのか、など)と妥当な結論へ向けての推論過程そのものにこそ、国語科としての学習の意義があるからである。
 そしてそうした過程は、生徒にとっても面白いはずである。あるクラスで結論が出たところで授業が終了した直後、教卓のところへ近寄ってきた生徒が「すっげえ面白かったです。」と言ってくれたのは、そうした手応えがあながち勘違いでもないことを感じさせてくれた。
 そしてこの展開には、面白いだけではない意義があるはずである。むろん、読解の実践学習としての意義は上述の通りだ。だがそれだけではない。これから「こころ」を読む上で、以上の認識はきわめて重要であると考えているのである。なぜか?
 第一に、出来事の起こる順とその経過時間の感覚、そこでの「私」の逡巡がどれだけの期間に渡るものなのかを実感として想像する上で、曜日を確定しておくことは現実的な手がかりになる。
 そしてさらに重要なことは、上記の⑤、奥さんがKに婚約の件を話したのが木曜日だということを確認することの意味である。この出来事は物語の前面には表れることなく、「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という皮肉な記述の裏面で「私」に知られることなくひそかに起こって、それが表面に浮上するのは⑥の土曜日である。そしてその晩にKは自殺する(⑦)。こうした情報の提示は、読者に⑤と⑦が連続して起こったかのような錯覚を起こさせ、その因果関係を過剰に意識させる。Kはお嬢さんと「私」の婚約を知って(また、「私」の卑怯な裏切りを知って)自殺したのだ、と。
 だが実際にはそこには、謂わば盲点になっていてあまり意識されることのない空白の「二日余り」が横たわっているのである。Kの死について考える上で、この「二日余り」の懸隔が意味するものを考えさせる準備として、この「曜日を確定する」という授業過程はきわめて重要であると私は考えている(この「二日余り」の意味については別稿で論じた。このブログでこの先ふれるかどうかは未定)。

2014年10月14日火曜日

「こころ」3 ~曜日を推定する②

 前回に続く「曜日の推定」の展開である。
 47章の、奥さんがKに婚約の件を話した(⑤)のが木曜日であろうという推論を述べた。だが問題は次の段階である。奥さんとの談判はいつ開かれたのか? 47章の「二三日の間」と「五六日経った後」から考えられる結論として生徒の挙げる曜日は木曜日から月曜日までにばらつく。なぜか。⑥の土曜日から遡る日数が、5~9日の間でばらつくからである。最長の九日ならば木曜日で、最短の五日ならば月曜日である。どうしてこんなことになるのか?
 ここからがこの考察の最も肝となる部分である。こうした結論のばらつきを示した上でそうしたことが起こる理由とその決着へ向けて思考を促す。話し合いの中で問題点が捉えられてきた様子が見えてきたら、全体で確認する。
 問題は「二三日の間」と「五六日経った後」の関係がどうなっているか、である。ここが二通りの解釈を生じさせていたために、先のばらつきが表れたのである。「二三日」と「五六日」を合計して最長を九日と考えた者と、合計せずに最短を五日と考えた者である。
 「二三日」と「五六日」は足すべきか、足すべきではないか? 両者は重なっているのか、重なっていないのか? 結論とそこに至る推論の過程を述べよ。
 最初に示した「曜日を推定する」という課題自体は、それなりに物事を筋道立てて考える生徒ならばすらすらと結論に辿り着いてしまう課題に過ぎないのかもしれない。何を正解としてこちらが用意しているかというだけなら、そうした正解者は、学校によっては大半を占めてしまうかもしれない。だが、順を追って、誤解の可能性を提示しながら、それを否定する根拠を考えること、及び自分の推論の妥当性を語ることはそれほど容易ではない。「なんとなく重なっている(重なっていない)ように感じる」では議論にならない。重要なことはこちらからの結論の提示ではなく、生徒に推論の過程を語らせることである(そもそも国語教師の間でもこの件、あるいはこれから述べる結論には異論もある。だからこそ必要なのは「結論=正解」ではなく、推論の妥当性についての議論なのだ)。
 だがそれを語るための手順は自明ではない。ほとんどの生徒は結局本文を未整理なまま辿って「だから重なっている(重なっていない)と思う」と言うしかない。そこで必要に応じて新たな着眼点を提示する。
 「二三日」と「五六日」の起点と終点はどこか? 「二三日」と「五六日」はそれぞれ、何から何までの間隔を数えたものなのか?
 「二日余り」ではこうした疑問が成立しないほど、その始まりと終わりがはっきりしている。「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。」は「奥さんがKに話をし」た日(⑤)から「勘定して見」た日(⑥)の間を数えたことが明らかである。したがって⑥の土曜日から遡って⑤が木曜であると確定できる。だが「二三日」と「五六日」では、話はそれほど簡単ではない。
 「五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。」から、「五六日」の終点が、奥さんが私に、Kに婚約の件を話してしまったことを話す⑥の出来事があった日であることが確認できる。つまり土曜日である。では始まりはどこか? どこから「五、六日経った」と言っているのか? これは「二日余り」のように自明ではない。47章の前半を一掴みに把握する読解力が必要となる。遡っていくと、46章の終わり
 私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。
が始まりであると読むのが適当だと思われる。「どうしたものだろうか」と「考え」たり、「弁護を自分の胸で拵えてみ」たり「Kに説明するのが厭になった」りする逡巡の中で「五、六日経った」ということなのだ。
 一方「二三日」の始まりは「私はそのまま二、三日過ごしました。」とあるように「その」が指している部分、つまり上の引用部分「私がこれから…」である。とすれば「二三日」と「五六日」の勘定の始まり、起点は同一ということになる。したがって両者は重なっている、足してはならない、と考えるのが妥当である。
 これで一応の結論は出た。Kが自殺した土曜日から遡ること「五六日」前に私の逡巡が始まったのであり、それはすなわち奥さんとの談判を開いた日(④)に他ならない。とすれはそれは日曜か月曜である。だがこの二つの可能性は容易に一つに結論づけられる。なぜか? 気付く生徒が現れるまで待つ。誰かが気付く。「仮病を使って学校を休む」からには日曜日ではない。したがって月曜日なのである(現在の曜日制はグレゴリオ暦を官庁が採用した明治6年から始まっているから、「こころ」の舞台である明治三十年代には当然日曜は学校が休みだったと考えていい)。つまり④の月曜から⑥の土曜までは実は5日だったということになるが、遺書という場でそうした日数を正確に限定することの不自然さを思えば、ここに「五六日」という曖昧な表現が使われていることは全く自然なことである。
 だが、それでは「二三日」の終わりはいつなのか? 「2、3…5、6」と「五六日」を数えていく途中過程ということであり、殊更に終わりがいつなのかは問題にすべきではないのだろうか?
 だが実は「二三日」と「五六日」が重なっているか重なっていないかは、両者を区切る切れ目、カウンターをリセットして日数を数え直すエポックメイキングな何かがあると認めることができるかどうかの問題なのである。とすれば「二三日」は「私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。」とか「私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。」とかいう記述をもって終わりの区切りをなしているのであって、実はそれこそが「五六日」の始まりではないのか。とすれば両者が重なっていると結論するのは早計だったのではないか?
 そうではない、というのが私の解釈である。「二三日」という勘定は「二日余り」との関係で考えるべきであり、前者の「三日」と後者の「二日」を足したものが、月曜から土曜までの「五日」なのである。とすればその「三日」目には何があったか?
 先の「立ちました」とか「立ち竦みました」に匹敵するような区切りの候補となる記述として、四七章の前半には「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という記述がある。これこそ逡巡の過程における、月曜から数えて「三日」目、木曜日の思考だったのではないか? そう考えると、なんのことやらここではわからない「二三日」という途中経過が俄に意味ありげに見えてくる。結局この「考え」は「立ち竦」んだことによって実現しないのだが、「私」が「奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考え」たちょうどその頃、まったく皮肉なことに、まさに奥さんは「私」の知らないところでKにそのことを話してしまっていたのである。

 ここまでで山を越えた。後は決着までもう一息だが、またしても以下次号に続く。

2014年10月13日月曜日

「こころ」2 ~曜日を推定する①

 前回「要約しながら通読する」という展開について書いたのは、それが「初めての試み」であるような授業展開だったからだが、今回の「こころ」の授業では、そもそも導入の第1回も今回が「初めての試み」だった。一昨年放送されたNHK教育の「Rの法則」で「こころ」が採り上げられた回を編集したビデオを試聴したのだった。雛壇に高校生が並ぶ番組の取っつきやすさと、紙芝居仕立てでざっくりと紹介される内容紹介で「こころ」の粗筋をたどれる簡便さに加え、番組冒頭から早速「友人と同じ人を好きになったらどうする?」と、高校生の関心にコミットしながらも、人口に膾炙した例の方向に「こころ」理解をミスリードしかねない番組作りが、今後の授業展開の方向と対比させやすい、といったいくつかの利点があったのだ。今後読む「こころ」という小説に対する期待感を盛り上げるという意味での感触は上々だったようだ。ビデオをみたこちらのクラスの生徒から他のクラスにも情報が流れたそうで、別のクラスの担当者から「生徒に『例のビデオは見ないのか』と訊かれた」という話を聞いた。そちらのクラスでもその後、見せたそうである。

 そしてそれに続く2回目以降の授業が前回書いた「要約しながら通読する」という展開である。
 さて、今回は通読が終わった後の最初の展開について辿る。

 以前は最初の1時限で通読した後は、2時限目は「テーマ」と「Kの自殺の動機」を考えさせる、という展開だった。一読した直後の捉え方を自覚させるためである。
 だが今回はさらに全体像を捉えさせるために以下の展開をはさむ。これもまた今回が初めての実践である。

 48章で「K」が自殺したのは「土曜の晩」である。では、教科書所収の冒頭40章の「ある日」は何曜日か? これを推定しようというのがこれから展開する考察である。
 まず40章の「ある日」と48章の「Kの自殺」を、間隔を空けて(なおかつ後述する内容を書くための余白を左右のどちらかにとり)黒板の左右に書く。「ある日」とは「図書館」で調べ物をしていたら「K」が訪れて、その後上野公園を散歩することになる日のことだ、と確認しておく。この始点と終点の間にあった出来事がそれぞれ何曜日のことか、可能な限り精確に推定せよ、と指示する。同時に3人前後のグループを作って話し合いながら進めるように指示する。
 これだけで生徒の話し合いはすぐに盛り上がる。せっせとページをめくりながら、これがいつのことで、そこまでにどれだけ間が空いてるはずだから…、と互いに気がついたことを出し合う。
 しばらく自由に話し合わせておいてもいいのだが、時間を短縮する必要があれば、もしくは話し合いに集中していないグループが出てくるようなら、一旦話し合いを中断し全体を集中させて、「ある日」と「Kの自殺」の間に、本文にあった出来事を挙げさせて書き出していく。生徒が挙げる度に、そこまで挙がった出来事のどこの間に書くべきかを確認して、黒板に書き出していく。

  • 40章  ① ある日~図書館
  • 40~42章 上野公園の散歩
  • 42章    黙りがちな夕飯
  • 43章  ② 真夜中のKの訪問「もう寝たのか」
  • 43章  ③ 「その日」~登校途中、Kを追及するが明確な答を得ない。
  • 44章    「覚悟」について考え直す。
  • 44章    仮病を使って学校を休む。
  • 45章  ④ A 奥さんとの談判「お嬢さんを下さい」
  • 45~46章 長い散歩
  • 46章    夕飯の席で奥さんの態度にひやひやする。
  • 47章  ⑤ B 奥さんがKにAの件を話す。
  • 47章  ⑥ C 奥さんからBの件を聞く。
  • 48章  ⑦ Kの自殺

 実際には章番号ではなく、教科書のページや行を付して書き出していく。
 また、実際には全てのクラスで上記が網羅されるわけではないし、上記の出来事の一部を重ねて挙げてしまう生徒もいる。あるいは「出来事」として特定できない記述を挙げる生徒もいる(「胸を重くしていた」とか)。とりあえず上記の①~⑦は少なくとも挙げさせて、書き出しておきたい。
 話し合いがある程度進んでいれば考察の成果を聞いてもいいが、これも短縮と展開の整理のために、こちらで進行して、次の事項を順次確認して、右の板書の左右の余白に書き出してもいい。

  • 44章 二日経っても三日経っても
  • 44章 一週間の後
  • 47章 二三日の間
  • 47章 五六日経った後
  • 48章 二日余り

⑦「Kの自殺」が「土曜日の晩」であったという記述と、上の手がかりから、遡りながら曜日を確定していくように指示する(実際には最初のクラスだけ様子を見るためにフリーの話し合いの時間を設けたが、後のクラスでは上記のような展開で進行を揃えた)。

 さて、最初に確定できるのは⑤が木曜日だということだ。⑤と⑥が「二日余り」と「勘定」されているからである。だがそもそも、ここにつまずく生徒もいる。不審に思って聞いてみると、⑥が⑦と同じ土曜日だと考えていないようである。つまり、奥さんから⑤の件を聞かされた⑥の出来事と、「二日余り」と「勘定」したのが同じ日だと考えていないか、もしくは「勘定」してから「私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心した」「土曜の晩」までに日をまたいでいると解釈しているのである。それらの可能性が全くないとは言わないが、日をまたいでいれば、それを示す記述があるはずだとも言える。「書いていないからといって、ないとは言い切れない」と「書いていないことは、なかったと考えるのが自然だ」は、それが必要なことである場合、後者に分があると考えるべきだろう。
 ちなみに「二日余り」の「余り」というのは何だ? と聞いてみる。「二日余り」に「三日」の可能性を含めれば⑤が水曜日という可能性もあるということになるが、恐らくそうではあるまい。他と同じ「二三日」という表現と違って「勘定してみると」という表現は、それがいつのことだったかが奥さんの話から確定できるということだ。だからこそ「二日余り」という「勘定」が成立しているのである。
 つまり奥さんはそれが端的に「木曜日」か「一昨日」のことだと、あるいは具体的なエピソードととも(あなたが夕方出かけているときに…とか、娘が習い事から帰ってくる前に…とか)に話したのである。とすると、「余り」という表現は、奥さんとKの話が日中もしくは夕方のことであり、「私」が「勘定」したのが夜であることを意味しているのだと考えるのが自然だ。どこのクラスでも、何人かに聞いてみるとこうした推論をする生徒は必ずいる。同意して先へ進む。

 長くなったので(というのは想定内)、以下次号。

2014年10月12日日曜日

別役実、佐原の大祭

 今日は「随筆」ではなく「日録」
 三連休。まず午前中から出かける。英語スピーチコンテストだという娘2を心の中で応援しつつ、娘1の関わる公演を観に東京まで。劇研10月公演。もう4回目の観劇だが、娘は今回も演出も出演もせずに照明オペレーター。
 ここまでも、文句なしと言い切れる公演はなかったが、今回も満足のいく舞台にはならなかった。別役実ってのは期待したいような不安なような、と思っていたが、結局なんだかなあ、という感想に終わった。もちろん(というしかないような)、わけのわからんお話だが、まあそれはすっきりとわかるような話を期待しているわけではない。それでも、辻褄がわからないまでも伝わるべき感情や不条理感がちゃんと伝わればいいんだが、それよりも必然のわからない激情が全面に出て、それで観客を徒に脅しているような絶叫系の演技に出演者が中毒(「依存症」という意味で)しているんじゃないかという疑いを消せなかった。30年くらい前の脚本だそうだが、どうしてまたこれを選んだのやら。次回に期待。
 一旦水道橋まで戻って会議だが、時間が早すぎるから新宿で時間をつぶそうとしてしばらくウロウロしたが、結局どこに居場所を見つけられるでもなく、とりあえず向こうに行ってからドトールででも時間を潰そうと電車に乗ったドアの正面に会議の出席者が座っていてびっくり。新宿駅でこんな偶然ってある?
 夜の会議と飲み会の後でもう一度、娘のアパートまで行って泊めてもらう。舞台の感想やらその他もろもろをお喋りしているうち深夜が更ける。

 朝は、公演最終日に出かける娘に邪魔にならないくらいに先んじて出て帰る。が、約束があったのでそのまま佐原まで。佐原の秋の大祭の三日目、最終日。
 東大の大学院に在籍中の前任校の卒業生、卓が、佐原高の生徒との合同プロジェクト「さわら まちづくりプロジェクト(SMP)」の活動拠点である「さわらぼ(さわら&ラボラトリ)」を見に来いと言うので、一度は佐原高の文化祭の時に行きそびれたが、今度こそは実行。
 東大のサイト
 佐原高のサイト
 facebook
 評価は保留。感想も微妙。私などがちょっと見てどう思おうがどう言おうが、これから現実に起こる事だけがその成果なのだから、今の段階で門外漢が期待も失望の予感も語るまい。ただ、人の繋がりができていく不思議さに感じ入るところはあった。たとえば私がこの先この活動にどんなふうに関わらないとも限らない。それを拒否するものでもないし。そうなったときにまた、いくらか感じたことがあればあらためてそれを言おう。
 偶然居合わせた私に長いことつきあって、祭やら佐原の歴史やらについていろいろと興味深いお話をして下さった、ほぼ私の父親世代の小高さんに感謝。卓が相変わらず飄々としながらもエネルギッシュで凄いなあと感嘆させられたのも嬉しかったし、もっとじっくりと研究のことなど話したかったが、それはまた後日。
 「さわらぼ」にいるあいだに、前任校の卒業生が通りがかって、気付いてくれた向こうが話しかけてくれた偶然にも(学校と佐原の距離はそうとうなもんだから)驚くとともに嬉しかった。
 大祭の盛り上がりは外部の者には近寄りがたいものがあって、以前は当事者たちの「ヤンキー」っぽさに眉をひそめたくなってしまったものだが、やはりこんなふうに外部から安易な感想を言うのは無責任というものだと思う。それより今日は、こんなふうに子供たち、少年、青年、壮年、老年と各世代が一緒に大掛かりなイベントに関わるなかで、それぞれに上の世代の振る舞いから「世間」とか「社会」とかいったものへの参加の仕方を学んでいく共同体のありようが、そういう関係性を持たない新興住宅地でしか暮らしたことのない私などにはとても貴重でうらやむべきものに感じられたのだった。


 

2014年10月9日木曜日

「こころ」1 ~通読と要約

 昨夜の記事は疲れた。まあ毎度、日をまたいでから、「前日」に投稿するのだが、昨夜はそのままの日付で、書き終えて投稿した。だから、今日のこの記事と同じ日付で二つの記事が並ぶはずだ。「同志」は既に読んでくれたようだ。
 こういうことを平日に続けるのは無理があるよなあ。やっぱり。
 だが、書かずにいるとどんどん溜まってしまうから、下記のような記事も、それほど古びないうちに書いてしまおう。

 寝不足のまま一日過ごしたが、授業はもうずっと楽しくてテンションが高いままだから、学校に行くと辛くはない。
 前回の予告の後、ずっと「こころ」をやっているんだが、最近ようやく「通読」が終わったところだ。そう、とりあえず通しで一回読んだのである。7~8時間かけて。
 今回が初めての試みだが、この「通読」には、以前「舞姫」で使った方法を応用した。一章毎(新聞連載の際の一回分)を朗読した後で、今読んだ章の内容を3文で要約せよ、と指示するのである。必ずノートに書かせる。教科書所収の9章分がそれぞれ3文で書かれれば、ノート1ページに収まるくらいになるはずである。文章表現力のある者は、ある程度の内容を盛りこんだ長い1文を三つ並べることができる。そうして、見事と言っていい要約を書いていた者もいた。だがもちろんそうした生徒は稀である。平均的な生徒は、些末な本文の一部をそのまま抜き出してくるような生硬な文を書いてしまうか、そもそも「要約」という行為の前に固まっている。そこで最初のうちは、なるべくシンプルな文で、誰がどうしたとか、何がどうなったとか言えることを三つ並べなさい、と指示する。その三つの文の脈絡が自分なりに納得できればいい、と繰り返し言う。適当な時間をおいて、「まず1文目は?」と訊く。「わからない」と言わせない。いざとなれば本文の一部を読み上げればいいのだ。もちろんそれでは1章を3文では掬い取れないだろうから、「それで2文目をどうつなげるつもり?」と追及する。
 何人もの生徒を指名しながら、必要に応じて「1・2文目を続けて読んで」とか「3文、通しで」とかいった重ね塗りもして、それぞれの章を20分(理想を言えば15分だが)ほどで読んでいく。
 要約は、できあがった要約文に意味があるのではなく、ただ要約しようとすること、そのことだけに意味がある。こちらが内容をまとめて板書し、生徒に書き写させるなどといった行為は、全く無意味である。ほぼ1500字程度(原稿用紙3枚)の「こころ」1章の文章の内容を三つの塊にしようとするその思考によって、生徒はいくらかなりと内容を把握する。もちろん、発表されていく要約文の適否に対してこちらが評価する言葉を聞きながら、さらに内容を精査していくのである。
 もちろんこうしたやり方で、唯一の模範解答であるような3文が授業という場に提出されるとは限らない。それでも比較的頼りになる生徒に回したりしながら、まずまず妥当と思われる三つの塊を提示しつつ、次々と読み進んでいく。そうするうちに、後へ行くほど、それぞれがそれなりに三つの文を自力で並べるようになっていく。
 例えば、多くの教科書では、Kが自殺する章までを収録しているのだが、この、原作の48章は、どのような「三つ」で把握されるか?

  1. Kが自殺したこと。
  2. 遺書の内容を確かめたこと。
  3. 遺書の内容。

といったところだろうか。もちろん、こういった「内容」を必ず「文」の形で表現させる。どのような主語と述語を選び、そこにどのような修飾語や挿入句を挟むか。生徒は本文を読みつつ、自分の頭でそれを噛み砕こうとする。「私」が「K」の自殺を発見する場面は文章量としてもこの章の多くを占めているから、そうした「私」の行為を文にしてしまうと、1の内容が1文では済まなくなる。「仕切りの襖が開いている」とか「Kの部屋を覗き込む」とか「がたがた震え出す」とか。だがそれでもいい。ともあれ自分で考えることを称揚するのが先決だ。
 また、3の代わりに「遺書を元に戻したこと」を挙げる者がいる。これは実は重要な点だよ、とその着眼を賞賛する。
 こうした「要約」に、ときおり少々の質問も混ぜる。内容把握の為に有用と思われる確認である。それほど深くは踏み込まない。だが、「奥さんとの談判」の日の夕食の席の奥さんとお嬢さんの描写が意味するものについては、つい些か問答を繰り返して考えさせたりして流れを止めてしまったりもした。
 とまれ、これだけでもう中間考査目前である。まだほとんど入口に立ったに過ぎないというのに。
 だが前の学校で「舞姫」を同じように読んだときも、なんとなくただこれだけで生徒が結構面白がっているような感触があったのを意外に思ったのだった。ここまでは全くの準備体操、退屈な時間を我慢して、先に始まるゲームに備える時間だと開き直ってやらせていたからだ。だがやってみるとこちらも何だか毎時間面白いし、生徒もそんな感じである。なんであれ、ともかくも頭を使って次々と課題をこなしながら目前に展開される光景を受け止めるのは、やはりそれなりの面白さがあるということなのだろうか。あるいは、読むという姿勢が、強制であれしかるべく調えられると、やはり小説の魅力自体がそれに触れる者を楽しませるということか。
 だが、本当に面白くなるのはこれからである。

続 アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 予告した「ハイキュー!!」讃の続きを書く。

 前回分析したように、まずは相手方の高度なプレーを描いて敵の「凄さ」を感じさせておいて、次は、その実力差をひっくり返す可能性のあるこちら側、主人公のプレーをどう描くか。
 先述の通り、主人公の一人、日向の武器は爆発的な瞬発力を生かしたワイド・ブロード(広範囲な移動攻撃)なのだが、これも、毎度同じようにアニメ技術だけでそのスピード感や力感を描くだけでは「凄さ」のインフレを起こしてしまう。どうするか。
 まずは後衛にいるとほとんど戦力にならない日向が前衛に回ってくる期待感を、敵のキーマン・及川の「不安」として描く。ローテンションによる日向の前衛交代を「ああ、いやだ」と迎える及川の目からは日向が「ウォームアップ・ゾーンでフラストレーションを溜めた小さな獣」と表現される。そうしたナレーションに被る日向の表情は静止画で描かれ、コートに入る喜びに、憑かれたような白目がちだ。
 こうして期待を高めた上でのお約束のブロードなのだが、これも、単に決めたのではそれこそ「お約束」になってしまうだけだ。だから、ここぞというときには特別な見せ方をしなければならない。今回のアタックでは、例によってスローモーションを交えた緩急のある描写でダイナミックスを感じさせた上で、そのあまりのスピードにブロックが付いて来られないばかりか、相手コートに突き刺さって大きくバウンドした後に、登場人物の何人かのバストショットに息を飲む音声を被せるだけの静止状態を描いて、たっぷり間を取ってから体育館内が一気に歓声に包まれる、という演出で見せるのである。
 もちろんこれとても、そう何度も使える演出ではない。今回限りの使い捨ての覚悟で描かれた演出かもしれない。ともあれ、この「神回」ともいえる23話では、このようにして敵のプレーと主人公側のプレーのそれぞれが、高いレベルで拮抗する「凄さ」を、観る者に感じさせて始まるのだった。

 「ハイキュー!!」はまた、何というか「文学的」なマンガだ。優れたスポーツマンガが文学的になる例は、先述の「ピンポン」も、ひぐちアサの「おおきく振りかぶって」も、新井英樹の「SUGER」も、坂本眞一の「孤高の人」(登山がスポーツかどうかは微妙だが)も、決して類例がないわけではないが、「少年ジャンプ」に載って少年少女に広く読まれているこの作品が、このレベルで「文学」なのは喜ばしいことだと思う。
 スポーツマンガが「文学」であるかどうかは、つまりそれがどれほどスポーツという行為や戦いの意味について、その競技の本質について考察しているかにかかっている。そしてそれを語る言葉が、何というか「文学的」なのだ。
 例えば、この23話でいうと、ラリーの続くシーソーゲームに被せて、応援に来ているOBが次のように語る。
 バレーは、さ、とにかくジャンプ連発のスポーツだから、重力との戦いでもあると思うんだ。囮で跳び、ブロックで跳び、スパイクで跳ぶ。さらにラリーが続いて、苦しくなるにつれて思考は鈍っていく。ぶっちゃけ、囮とかブロックはサボりたくなるし、スパイクも誰か他のやつ打ってくれって思ったこともある。長いラリーが続いたときは酸欠になった頭で思ったよ。ボールよ、早く落ちろ。願わくは相手のコートに。
こうして、観る者(あるいは原作の読者)は、そのラリーを体験する選手の内面に心を重ねていく。こうした心理描写と、なおかつその客観的な考察が、プレーを観る者の思考のレベルを引き上げてくれる。

 それでもやはり厳然と実力差はある。マッチポイントに向けて、じりじりと引き離されていく。むしろ観る者の期待を高めた上で、ここぞというときに主人公のアタックもブロックされる。
 ここで「流れを変える」ためにコーチのとった作戦はピンチサーバーの投入である。コートインするのは試合には初出場の控えの一年生。もちろん彼が個人的に練習時間後にサーブを習いにOBを訪れるエピソードが、以前の回で描いてあってこれが伏線となっている。だがそのサーブはまだまだ決定率も低く、習得過程に過ぎない。はたして物語はこの交代をどう決着させるか。
 まず交代するサーバー本人は意気揚々とコートインするわけではない。それどころか、重要な場面での突然の抜擢にすっかり萎縮している。コートに入る瞬間も、たっぷり間を取って描かれる。白線をまたぐ逡巡を「この線の向こうは違う世界だ」というナレーションとともに描いてから、コートに入った瞬間、熱気が彼の顔を襲い、髪が後ろに流れる「心象描写」が続く。コートに立つ味方も敵も、揺れる炎を背景にして険しい顔をしている。
 だが一方で彼の緊張を描くばかりではない。実はコートに立つチームメイトもまた、初出場の彼の緊張を痛いほどわかっていて、その緊張に感染してしまっていて、だがそれを表には出すまいとしているのである。前述の「険しい顔」は、視点を変えてみるとまったく違った意味合いであったことが明らかになる。
 だがその緊張を彼に伝えまいとみんな必死に平静を保っている。彼の緊張を和らげようとするベンチの控え選手の気遣いや、それでも緊張の余りサーブゾーンでボールをバウンドするうちに自分の足に当てて、コート外にボールが転がってしまう痛々しさを描いてから、またしても先述のようなナレーションによって、この場面でサーバーとして立つことの重みを分析してみせ、観る者の感情移入を促す。
 さて、このサーブは成功するか否か。果たして本当にサービスエースが描かれるのか。
 もちろんこれが反撃のきっかけとなるべく、劇的な決定をさせるという展開もあるだろう。やはりここでもやっぷり間を取って、スローモーションを交えた描写でボールトスからジャンプ、そしてフローターサーブのボールが無回転で飛ぶ様子が描かれる。
 だがこのサーブは、ここまでの期待をまったく無視してネットにかかるのである。ここでも先ほどと同じ、コート内に静止した一瞬をつくって、この結末に呆気にとられる観る者の心情を掬い上げる。
 現実的には可能性の高い展開ながら、これは物語的には、アリなのだろうか? もちろんこの場面で期待に応えられなかった一年生の情けなさと悔しさと、そこから前に踏み出す心理的なドラマを描いてはいる。「すみません!」と謝る彼に、キャプテンの三年生が「次、決めろよ」と声をかけ、彼が泣き顔で「はい!」と答える。観客の女の子が「ピンチに突然出されて、失敗すると引っ込められちゃうんだ」「なんか可哀想…」と呟くのに答えて、くだんのOBが語る。
「ピンチサーバーはそういう仕事なんだ。その1本に試合の流れと自分のプライドを全部乗っけて…、そんで、タダシは失敗した。でも、今ここで自分の無力さと悔しさを知るチャンスがあることが、絶対にあいつを強くする。」
いささか通俗的ながら、やはりきわめて「文学的」である。
 だが、ゲームの展開としてこれでいいのだろうか? ピンチサーバーの投入の失敗で、さらに事態は悪化したのではないか?
 そうではない。彼の緊張にシンクロしていた選手が、この失敗によって緊張から解き放たれて、もう一度集中力と闘志を新たにするのである。「流れを変える」という当初の目論見はこうして逆説的に果たされたのである。

 緊迫した点の取り合いが、テンションの高い描写で続く。こぼれ球を足で拾ったり、レシーブに必死で顔からコートに突っ込んだり、快哉を叫んだり、歯ぎしりしたり。
 それでも相手の総合力の高いことが、遠ざかる及川の背中に手を伸ばす心象描写で描かれる。得点するとすぐ届きそうになるが、相手のアタックが決まってマッチポイントになった瞬間、届かずに宙を掴む。万事休すか?
 相手の速攻を肩口で弾いたボールがふわりと相手方コートに上がる。相手のチャンスだ。ネット際で待ち構える及川が、ダイレクトで押し込もうとジャンプしてくる。コースをコントロールされては、防ぐ手立てはない。スローモーションで及川の手にボールが近づく。
 だがこのシーンは前に観たことがないか?
 そう、及川の手と、そこに近づくボールの間に、下から差し込まれるのは、主人公の一人、セッターの影山の必死に伸ばした片手である。相手方コートに入るボールをワンハンドトスで自陣に引き戻す瞬間、及川の背中に再び手が伸びるイメージが挿入される。
 そしてかろうじて上がったボールに、影山の背後からせり上がってくるのはもう一人の主人公、日向の姿である。コートに落ちていく及川と影山のアップを挟んで、日向の体が画面手前に膨れていく。そしてもう一度、及川のユニフォームの背中を、今度こそ鷲摑みにするイメージが力強く挿入され、そこからはスピードを戻して日向のスパイクが相手コートに突き刺さる。
 ここで、冒頭のプレーが攻守を入れ替えて反復されるのであった。
 そうくるか!
 画面の中の会場の人々とともに、リビングの私と娘も歓声を上げている。
 なんともはや、見事な物語であり、それを高いレベルの演出と作画で見せる見事なアニメーションである。

 こうして長々と書いてきたが、これでも、正味18分ほどのこの回の物語の興趣の全てを掬い上げているとはとても言えない。まだまだ語り足りぬ面白さを横溢させているのである。これを観ている体験を再現しようと思ったら、たぶんまるまる「小説」として書いてしまうしかないような気もする。
 もちろん一方で小説として読むことはこのアニメを観るという体験とは別の体験を読者にさせるに過ぎないのだが。だからブログとしてはその体験を分析し、考察を加えてその面白さを伝えようとしているのだが、果たしてその目的は達せられたのだろうか。

 とまれ、とりあえずこの2本の記事を、「ハイキュー!!」鑑賞における同志である娘に捧げる。

2014年10月7日火曜日

ものんくる

 ものんくるのメジャー第一弾『南へ』が、発売前から予約をしていたAmazonから届いた。実は前作の『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のAmazonのカスタマー・レビューは私が第一号で、長らくレビューはその1本しかなかったのだが、さっき見たら2本になっていた。『南へ』も第一号になってやろうと狙ってはいるが、その前にとりあえず聴かねば。とりあえずざっと流して、「良い」とは思うものの、そこそこ読めるだけの感想を言おうとなるとちょっと時間がいるなあ。
 発売されたばかりで、Windows Media Playerで聴こうとすると、まだデータベースにCD情報がアップされていないから曲名が表示されない。そこまで発売ほやほや。

2014年10月6日月曜日

発見(マゼラン的な意味で) Polaris,Predawn,strandbeest

 本屋や図書館は情報が整理されていないから偶然の出会いがあるが、ネットは関心のある情報しか提示されないから、新しい情報に出会わない、といった類の言説を耳にすることがある。昨日、息子の小論文のネタになっていた朝日新聞論説委員の清水克雄の文章もそういう趣旨だったし、今日読んだ黒瀬陽平の文章もそうだった。
 どうだか。
 紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
 確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
 新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?

 ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。

 昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
 たとえばこういうの。

 Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
 さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。

 これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
 北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
 こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
 こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?

 今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
 Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。

 台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?

2014年10月5日日曜日

アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 この9月までの1クールで見ていたアニメは「残響のテロル」と「ばらかもん」だが、それだけでなく、その前のクールからの引き続きで見ていたのが「ハイキュー!!」である。
 4月に新番組が次々と自動的に録画されていくうちに(ハードディスクレコーダーをそういう設定にしてある)、その一つとして録画されていたのが「ハイキュー!!」だった。
 そういう新番組は、片っ端から冒頭の所を見て、特筆すべき特徴のないもの(美少女やイケメンがわらわら出るような学園物やファンタジー)を、ばさばさと消していくのだが、「ハイキュー!!」も、それが「配給」でも「High-Q」でもなく「排球」のことだとわかって、特にスポーツ物を見る動機もないから、即座に消そうとした。
 だがその瞬間、一緒に新番組チェックをしていた娘が「待った」をかけた。彼女はその、「少年ジャンプ」連載のマンガであるところの原作を知っており、予め見る気でいたのだった。一瞬の遅滞でもあれば、ボタンを押して消してしまうところだった。すんでのところで消去を免れた第一話を娘と見ているうち、これは悪くないと、当面様子をみることにしてから半年、結局近年、最も面白いアニメであるという評価で最近放送を終えたのだった。

 原作はちょっとしか読んでないので評価できないのだが、もちろんこういうのは基本的に原作が良いのだろう。原作を超えるアニメはほとんど存在しない。あれほど素晴らしかった「ピンポン」も、その出来に感心して原作を読み返してみると、決して原作を「超えて」はいないのだった(もちろん松本大洋のあの原作のレベルに匹敵するようなアニメを作ったということ自体、湯浅政明をいくら賞賛してもしすぎることはない)。
 だがアニメ版「ハイキュー!!」が素晴らしいことも間違いない。ほとんど毎回、娘と見ていて歓声を上げてしまう場面があり、その回の放送を見終わると「いやあ、面白かった」と言わない回がほぼなかった。アニメーションとしての作画や演出がきちんとあるレベルを保っていないと、こうはいかない。
 たとえば、しばしば感心するのはボールの動き。手前に飛んでくるボールの大きくなるスピードと画面上を移動するスピードで、ボールが飛んでくるスピード感が表現されるんだろうが、これがリアルなのである。また、ボールの回転によって軌道が変わる様子もリアルだ。フローターサーブの、回転が止まって軌道が揺れるところなんかも実にうまい。ボールの表面の凹凸も丁寧に(たぶんCGで)描き込まれている。
 あるいは主人公、日向の特長である瞬発力が観る者にきちんと感じ取れるのも優れたアニメ技術ゆえだ。たぶん、単純な画面に対する横移動だけでスピードを表現しようとしたのではあのダイナミズムは出てこない。画面の奥行きに対する移動、基本的にはカメラに接近する動き、つまり対象物(日向の体)の膨張スピードと、決めポーズで静止するタイミングが適正にコントロールされているから、そのスピード感を実感して観る者の意識が一瞬で引きつけられてしまうのだろう。
 だがこうしたアクションのレベルの高さは、SFでもバトルものでも、感心するようなものが少なくない。先日批判した「残響のテロル」も、アニメーションとしてはよくできていた。だからやはり「ハイキュー!!」の素晴らしさは基本的には物語の持っている強さに拠るのだろう。娘と二人、最も熱狂して見終えた第23話「流れを変える一本」(9月7日放送)を例に考えてみる(すぐにでも書こうと思って、もう一ヶ月も経ったのだが)。

 物語は県大会の三回戦、練習試合の経験のある因縁の相手との試合は1セットずつ取ってのファイナルセット終盤を迎えている。結局は準優勝することになる相手校は強豪といっていい。ラリーが続くとじりじりと実力差が表れる。
 この、「実力差」や「強さ」をどう描くか。現実には「強さ」は総合力の差だろうから、単にこちらがミスするか相手のスパイクが決まるかだ。だがそうして相手が得点するというだけでは何ら劇的な要素はない。だから、何らかの形でその強さが「特別」であることを示さなくてはならない。そこで、冒頭から次のようなプレーが描かれる。
 味方サーブを、後衛に回った敵方のキーマンであるところのセッター・及川がレシーブする。このボールをリベロが上げ、それを及川がバックアタックで決める。
 このプレーが強い印象を与えるのはなぜか。まず及川がレシーブをしたということは及川自身がトスを上げることはできないから、このプレーでは相手方には強い攻撃ができず、こちらのチャンスであるという観る者の期待を、直後に及川自身のスパイクが打ち砕く、という、観る者の感情を上げて下げる力学が効果的に働くことに拠るのである。
 さらに、トスを上げるのがリベロである点にも仕掛けがある。ここでコーチが、素人である顧問教師に向かって解説する(この設定も巧みだ)。リベロはアタックラインの前でオーバーハンドのトスを上げてはいけないというルールがあるのだが、このプレーでは、リベロはラインより後ろで踏み切って空中でトスを上げているのである。「咄嗟にハイレベルな攻撃ができる」「これが強豪…」。
 次のプレーの描写も見事だ。
 味方のスパイクに対する相手のレシーブが、ふわりと味方コートに戻ってくる。レシーブボールが敵側にまで返ってしまうのはむろんミスだから、レシーバーの「しまった」という表情が写され、ボールが上がったところからはスローモーションになる。チャンスである。ダイレクト・アタックを決めるべく、主人公・日向がネット際に跳ぶ。日向のジャンプに「押し込め!」という味方の声が被さる。ネット真上の天井からのカメラワークでボールへ向かう日向の手がボールに近づくのにつれて高まる期待に、ボールに届く直前に、画面下から浮上して、日向とボールの間に挿し挟まれる及川の手が影を射す。及川の手がボールを自陣へ戻すと同時に再生スピードを戻して、後ろから跳んだアタッカーがスパイクを決める。及川の手がボールを自陣に引き戻す時には、スローモーションであるという以上に「ため」のある描写によって、直前の期待を裏切るその一瞬を最大限(しかし間延びしないタイミングで)見せておいて、決着は一瞬で見せる。この緩急の切り替え。
 二つのプレーのどちらも、実際の試合の中では起こる頻度の低い、だが不可能ではないプレーである。いわゆる「必殺技」的な物理法則無視のスーパープレイではない(「リンかけ」の「ギャラクティカ・マグナム!!」的な)。こういう、作者の経験によるものか、丹念な取材によるものか、実に貴重なネタを冒頭に並べてみせ、その醍醐味をアニメーションが十全に描ききってみせる。
 そしてこのプレーの直後に、日向をアップにして、微かに嬉しそうな顔で「すっげえ!」と言わせるのだ。期待はいやが上にも高まる。
(今晩は限界なのでここまで。以下次号