2016年6月15日水曜日

『ウェールズの山』 -上品なイギリス映画

 第一次世界大戦後のウェールズ。
 イングランドの測量士が訪れて、地元の人々が「山」と信じている「土地の盛り上がり」を測量し、それが地図の習慣によれば「丘」であることを告げる。土地の人々は誇りにかけて、それが「山」と呼ばれるところまで盛り土すべく、土を桶に入れて列をなして頂上に登る。努力の結果、測量士はそれを「山」と認める。
 それだけの話。
 始まったとたん、その語り口のうまさにニヤニヤさせられる。風景と音楽の美しさ。登場人物のやりとりの軽妙さ。
 ヒュー・グラントの、軟弱だが人の良さそうな好青年ぶりも、実直な牧師もいい。
 が、後へ行くほどどうでもいい感じになってしまった。
 こういうのは、観ている側のこっちの受け入れ状況のせいかもしれない。映画の罪ではなく。

2016年6月8日水曜日

『スーパー8』 -尻つぼみな高品質エンターテイメント

 公開当時、評判の良かったこの映画を、機会があれば観たいとずっと思っていた。といってレンタルするでなし、放送の機会に録画してようやく。
 題名は8人の超能力少年のことでもあるかとか思っていたのだが、8mmフィルムのことなのな。映画少年たちの自主映画作りという設定は、それだけで映画ファンの感情移入を誘う。
 加えて、見始めてしばらくの列車事故のシーンで「おおっ!!」となり、その後の緊張感のある展開も、青春映画としての甘酸っぱさも、レベルの高いエンターテイメント映画だと興奮していた。
 だが、モンスターの姿が露わになるのと比例して(反比例しているのか?)、つまらなくなっていく。ラストはすっかりがっかりして終わった。
 問題の「物体X」が、憎むべきモンスターであることと同情すべき宇宙人であることのバランスの収まりが悪い。どちらでもあることのアンビバレンツが精妙に描かれているというのではなく、単にどっちつかずでしかない。同情するにはモンスターとして憎むべき行為をさまざましているのに、宇宙に帰れて良かったと素直に喜べない。憎むには、打ち倒すカタルシスがあるわけではむろんなし。
 しかもその結末に向けては、サスペンスもなにもなくなっていくばかりだし。
 なぜだ?

2016年6月1日水曜日

『奇跡の人』 -すごい演技者の競演

 娘が、ここのところ「ガラスの仮面」の「奇跡の人」編あたりを読んでいて、じゃあ、本家を観ようということで、舞台版は未見だが、久しぶりの『奇跡の人』、映画版。だが舞台版も映画版の二人がオリジナルキャストだというので、カメラワークはともかく、ほとんど舞台を観るようなつもりでいいんじゃなかろうか。
 サリバン先生役のアン・バンクロフトがアカデミー賞を獲っているのは知っていたが、ヘレン役のパティ・デュークの方もそうだったのは、今回初めて知った。二人の演技がすさまじさには納得の受賞なのだが、そもそも、舞台劇という出自がその演技レベルを要請しているのだろうとも思う。
 ついでに「奇跡の人」が、三重苦を克服したヘレン・ケラーを指しているのではなく、そうした「奇跡」をもたらした人、サリバン先生を指しているのだということも今回初めて知った。だからアカデミー主演女優賞はアン・バンクロフトで、パティ・デュークは助演女優賞なのだった。
 
 クライマックスの、例の井戸の場面の直前、躾が成功したかに見えたヘレンが、食卓についてナプキンを何度も床に落とすシーンで、わざとヘレンをカメラに背を向けさせたままにするカメラワークはスリリングだった。表情が見えない分だけ、その意図をはかりかねていると、サリバンが「私たちを試している。様子を見ているのだ」とその行為を解説する。なるほど、と思うとともにそのあとの展開をドキドキして見守ってしまう。
 あれは舞台でも同様に観客席に背を向けた配置でテーブルに着席しているんだろうか。だとしたらそれもすごい演出だし、映画オリジナルだとしたらやはりすごいアイデアだ。