2015年2月28日土曜日

『昼下がりの情事』

 ビリー・ワイルダーは、同じオードリーなら『麗しのサブリナ』、モンローなら『七年目の浮気』を見ているはずだが、はっきりとたどれるほどの記憶はない。だが知られた「巨匠」だ。観始めてすぐに、こういうのが「映画」だよなあと(まあ『Mr&Mrsスミス』のときにも似たようなことを書いたが)、ハリウッドの厚みを思わされるのだった。映画としての「うまさ」を、当然のように日本映画では真似のできないレベルで見せてくれるのだった。
 もちろん、この間の山田太一の言葉のとおり、邦画のどんなカットにだって、相応の手間がかかってもい、プロの技術によって成り立っていることも想像できる。だが同時に、邦画というのはいつも映画全体は、素人くさい、学生映画の延長のような匂いを残していることも確かだ。
 それが、あるレベルのハリウッド映画は、歴史の厚みとでもいうしかないような、到底どうやってそれを創造しているのか想像もできないといったふうな「映画」的空間を実現しているのだ。それは日本のCG映画がまだはるかに及びもつかない3DCG映画だったり、派手なカーアクションだったりもするが、たとえばこの映画のような小粋なコメディでさえ、その細部にまで映画的美意識が行き渡った演出が、どうにも邦画には真似できないと思わされてしまう。
 それは台詞回しだったり、カット割りだったり、編集だったり。たとえばカメラでいえば、パーティー会場の人並みを縫って歩くゲーリー・クーパーをカメラが追う。パンしてオードリー・ヘップバーンが画面に入ると、今度はオードリーに近づいていくゲーリーと、その動線上に待ち受けるオードリーを画面に収めながら、その中央に画面の焦点が集まる。アップになっていくオードリーの姿の鮮やかさはどうだ。おそらく周囲に比べてピントがそこに合っていること、いくぶん照明が強いこと、周囲が動いているのに対して静止していることなどが相俟ってそうした効果が生まれているのだろうが、ともかく、そういうのがなんともはや「映画」なのだった。
 でもまあ、こういうのは老後の楽しみにとっておいた方がいいのかもしれない。すごいことはわかるが、こういう物語を今、求めているわけではないというか。
 それにしても1957年というと、オードリー・ヘップバーンが28歳、ゲーリー・クーパーが56歳。いくら往年の色男とはいえ、こんなふうにオードリーが惹かれていく設定に無理がないか?

2015年2月23日月曜日

『Mr.&Mrs. スミス』

 こんな大作で、ブラピにアンジーの共演だというのに、何の映画か知らずに最初の所だけ観て、ああこのレベルの映画かあ、と最後まで観てしまった。こういうハリウッド映画の文体は、どうにも日本では真似ができない。シーン毎の金と手間とアイデアの注ぎ込み方が真似できないのだ。日本ではかろうじてアニメくらい(まあそれも押井守が『攻殻機動隊』で実現しているのと、宮崎駿くらい)。
 ウィットに富んだ会話やとにかくこれでもかというほどど派手なアクション。
 だがしかし、この間の『ツーリスト』同様、それでどうした? という印象を拭えない、どうしようもないドラマの軽さに落胆したのも確か。『ツーリスト』ほどひどくはなかったものの。アンジェリーナ・ジョリーは、うまいし魅力的ではあるものの、毎度同じ人にしか見えない。
 ダグ・ライマンは『ボーン・アイデンティティー』シリーズが素晴らしいのだが。

2015年2月22日日曜日

『そして父になる』2 「ミッション」の意味

 承前

 子供を血縁に従って取り替えるという選択については、映画の中で「100%の家庭がそうする」と言っていたから基本的にはそういうことなんだろう。現実的なデータを無視してこのような台詞が書かれているとは思えない。そして、自分だったらどうするかと言えば、やはり同様の選択をするだろうと思う。
 それは何も「血か時間か」というような二択ではない。
 そもそも「血」と「時間」は二択として選択が可能な条件を備えていない。「時間」が「これまで」と同様に「これから」も存在し、その中身も一定でないような可変的な要件であるのに対し、「血」は決定的である。遺伝形質の表現の濃淡(子供がどのくらい親に似るか)などということではない。「似ている」などというのは程度問題、つまりアナログだが、「血のつながり」は「ある」か「ない」かというデジタルな要素だということだ。
 「それまでその子と過ごしてきた時間」ももちろん「あるかないか」ではある。だがもう一人の子供との時間もまた同様の可能性として「ある」ことが可能である。それまでの6年間が掛け替えのないものであるのと同様に、これからの時間も掛け替えがないはずである。それらを対置することが可能なようには、血のつながりの「ある」と「ない」とは対置できない。親子という関係が、基本的にはその築き方に応じて可変的であることを認めても、「血のつながり」があるかないかは後から変更が可能な要素ではないということだ。
 つまり、子供の「でき」や親子の関係といった現在の状況に対して、仮に不満があったとして(不満のない親子などあるのだろうか?)、自分の関わり方については反省もし、自分の責任を認めて今後の努力も可能であるのに比べて、「血(別な人間の遺伝子)」に対する不満にはどのような解消もできない、ということだ。
 もちろん実の親子に不満がないというわけではないし、養子であっても円満な親子関係になることもある。だから野々宮家の子供が慶多であってもいいかもしれないが、同様に琉晴であってもいいはずである。とすれば、ありうべき禍根(大いにありそうな危惧)の重大さを考えると、子供を血のつながりに従って収まるべき所に収める方がいいと考えることには相応の妥当性がある。
 真木よう子演ずる斎木家の母親・ゆかりが、福山に「本当の子供ではないとわかっても愛せるか」と問われて「愛せるに決まってる」と答えるシーンの迫力によって真木は恐らくアカデミー賞最優秀助演女優賞を獲ったのだと思われるが、しかしそれならば「本当の子」もまた同様に愛せるはずである。ゆかりが慶多を抱きしめるシーンはどうみてもそのことを示している。

 だが今問題にしたいのは、どちらが「正しい」選択なのか、ではない。自分だったらどうするか、でもない。この映画の描く結論がどちらであるか、だ。
 この映画の結末は単に「取り替える」という選択が間違っていたのだということを示して、この後、慶多を再び野々宮家に戻すことを暗示しているわけではないと思う。
 それよりもむしろ、「取り替える」という選択に伴う「困難」を描くことで、親子という関係の掛け替えなさを逆説的に描いているのである。「父になる」ことは、遺伝子の複製によるのではなく、子供との関係によって「父」という役割を引き受けることによって可能となるのだ、と。
 もちろんこのできごとが慶多との日々の掛け替えのなさをあらためて良多(福山)に思い知らせるとともに、それはすなわち良多に、それまでの自らの父としてのあり方を見直させるきっかけにもなっているのだから、この「困難」は、これからの琉晴との関係を築くことに対して良多が誠実になることで解決していく方向性が示されているのだと考えられる。
 野々宮家を抜け出して一人で斎木家まで帰ってしまった琉晴が、引き取りにいった野々宮家の車の中で見せた横顔は切なかった。
 そして、多くの観客を泣かせたであろう、新しい家庭に馴染んできたかに見えた琉晴が、流れ星への願い事を聞かれて「パパとママの所へ帰ること」と答え、すぐに顔を覆って「ごめんなさい」と言うシーンもまた、琉晴の痛みが観客に理解されつつ、それが乗り越えられる可能性を感じさせるからこそ感動的なのだろう。この「ごめんなさい」の後に、尾野真千子演ずる野々宮妻・みどりの「どうしよう、琉晴が可愛くなってきた」という台詞と共に、慶多への罪悪感が語られる。これは、大人たちが抱えている「困難」を描きつつ、それを乗り越える可能性が開かれていることを表現しているとしか思えない。
 したがって映画が、単に「困難」を避けて「元の鞘に収まる」ことで事態の収拾を図る方向を指し示していると解釈する必然性はない。

 では「ミッションなんかもう終わりだ」はどうか?
 これはどうみても、慶多が斎木家に行くことを指す「ミッション」を「終わり」にすることを意味している。そう宣言して子供と抱き合ったシーンに感動しておいて、しかしそれは一時の気の迷いで、やはり冷静になってみれば、やはり実子を引き取るのが良いと判断するのだろう、などと解釈することは難しい。
 ネットでは、この「ミッション」を「ミッション=向こうの家に行くこと」ではなく「ミッション=パパやママに連絡してはいけない」と解釈することで、実子の引き取りを継続したまま、しかし連絡はとりあう、という結末の解釈もありうるという見解も散見されるが、やはりそれはいささか牽強付会と言わざるをえない。「ミッション」はその一部に「パパやママに連絡してはいけない」という条件を含みつつ、やはり基本的には「斎木家に行くこと」自体を指しているとしか思えない。
 とすれば、やはりこの映画は、親子が共に過ごしてきた時間の掛け替えのなさを描くことで、子供の交換をとりやめ、それぞれ元の家族のもとに子供を戻す物語なのだろうか?

 映画では子供の交換に伴って、大人たちの問題とともに、子供たちの問題もまた解決すべき「困難」として描かれている。子供はこの選択・決定において主体的な意思表示をすることができない。それだけに、子供たちの抱える「困難」はいっそう深刻である。
 この、子供たちの身に起こる「困難」とは、一体何か?
 一つにはむろん、新しい家庭への適応である。今までとは違った生活習慣への適応も勿論様々な「困難」をもたらす。とりわけ、明確な教育方針をもった野々宮家に引き取られた琉晴が、列挙された「ルール」を復唱するシーンは、その後の野々宮家での生活の困難をありありと予想させて息苦しい。
 だが、それよりもデリケートで根本的な問題は、自分の親とか家庭とかいった、人格(アイデンティティー)の根拠となるものが根こそぎ変わってしまうことによる自我の混乱をどう受け入れるか、である。子供の取り違えという事案に対する処置として何が正しい選択か、というような「問題」よりも、実はこの状況の子供たちの心情への想像こそが、映画後半の核となっているように思う。
 上記の「ルール」確認の際に、琉晴が野々宮夫妻を「パパ・ママ」と呼ぶよう要求されて「なんで?」と聞き返すシーンがある。「なんででもだ」と答える良多になおも琉晴が「なんで?」を繰り返して食い下がるやりとりは、この混乱の解消の難しさを実感させる。答えに窮して「なんでだろうな」と呟く慶多もまた、子供ほどではないにせよ、同じようにこの混乱を抱えているはずだ。
 この、子供の抱える混乱に対して、映画はどのような解決の方向を示していたのだろうか。

 良多が斎木家を訪れた際に、「ただいま」を口にする琉晴に、ごく自然に「おかえり」と応ずる斎木父・リリーのやりとりとは対照的に、慶多は良多を避けるように外へ飛び出したかとおもうと、追いすがる良多に「パパなんかパパじゃない」と言って背を向け続ける。この慶多の反応に、観客はそれほど戸惑うことはない。むしろ、ある強い必然性が感じられる。
 それまでの描き方からして、教育志向の強い野々宮家における琉晴よりもよほど、柔らかい空気に包まれた斎木家における慶多のストレスは少ないはずである。とするとこれは、慶多が野々宮家に戻ることを拒否していることを示しているのだろうか。
 むろんそうではない。では何が慶多に、かつての父親への拒否の姿勢をとらせているのだろうか。
 自分が親に「棄てられた」と感じている慶多が、その心の傷の深さの分だけ親を拒絶しているのだろう、ととりあえずの解釈はできる。だが、単に慶多は父親を拒絶することで「棄てられた」という痛みを修復しようと(復讐しようと)しているのだろうか。

 野々宮家では、それが子供に勇気の必要な何かをさせるときの合い言葉として、それを「ミッション」と呼ぶことが通例になっているらしいことが、前半の「お泊まり」(交換の前段階としての一泊の交換宿泊)の際に示される。これが、その行為を「強くなる(大人になる)」ための「任務(ミッション)」なのだと呼ぶことによって子供のプライドにうったえ、それを遂行することに自己肯定感をもたせる効果を狙っているのだということはすぐに感じ取れる。
 だがこの約束には、おそらくもう一つの意味合いがある。それは、それが「ミッション」という「虚構」であることによって、その「現実」の苛烈さに直面することに対するクッションになる、という効果である。
 それぞれの子供を相手の家庭に行かせるのが、一泊のお泊まりならば「ミッション」という虚構を受け入れることで、子供もまた耐えることができる。回数を重ね、期間もおそらく数日間などと延長されて慣れてくればなおさらだ。
 だがいよいよ交換となれば期限はない。その時もまた「ミッション」という言葉によって、良多は慶多を送り出す。「いつまで?」と聞かれて「決まってない」と答える父親に、子供はこれがこれまでの「ミッション」とは違うことを感じとっている。
 その時慶多の感ずる不安は、「ミッション」の終わり、つまり親が迎えに来てくれるのがいつなのかわからないことによる、諦めることも希望を持つこともできない宙吊りのままであるというところに一番のポイントがある。この最終的な取り替えが、それまでのお泊まりと違うのは、どのように自分のアイデンティティーを形成していくかについての決定が無期限で延期されることによって、子供が不安定な状況に置かれ続けることなのである。

 いささか、自らの経験を思い出してみる。
 子供たちが小さい頃、怖かったことの一つは、子供を「待たせる」ことだった。幼児の時間感覚がこちらと同じように構造化されているとは思えないうちは、子供を「待たせ」て親が子供の視界から外れることは虐待に等しいような気がしていた。親が近くにいないことに対して子供が感じているであろう不安や不便を想像したり、その不安が取り返しの付かない事態をもたらすかもしれない懸念を想像すると、いてもたってもいられない感じがした。
 拷問を効果的にするテクニックの一つは、終わりがいつであるかを対象者に知らせないことだという。終わりがわかっていれば、いくらかなりと、その終わりを「待つ」ことでそれに耐えることもできるが、その終わりが示されていない苦痛に耐えるのは難しい。
 子供が成長するにつれて時間の感覚が共有されていき、「待つ」という未来の時間に対する想像の持続力が子供の中で醸成されていく(ように思われる)につれ、こうした子供及び親の不安も解消されていく。「ちょっと待っててね」と言って子供の不安が抑えられるようになるのは、親にとっても実に有り難いことだった。
 「明日になれば」と言って、そうした未来を想像できるようになった子供は、それを支えに今日を生きられる。

 慶多が父親であった良多を拒絶する理由は何か?
 それはおそらく、「待つ」ことについての不安の裏返しなのだ。
 慶多はこれが期限のある「ミッション」ではないことを感じつつも、そのことを確信することがまだできずに宙吊りになっている。そしてそれに決着が着くことをとりあえずは恐れてもいる。「もうお前はうちの子じゃない」という宣言は聞きたくはない。
 といってその宣言を聞くまでは、パパとママに棄てられたのではないかという不安は、絶望を経た諦めによって新しい希望(斎木家の子供として生きること)へと向かうこともできずに、父との約束である「ミッション」によって宙吊りのまま延長されてしまう。
 だから、慶多の父親への拒絶は、自分が拒絶されることを恐れる不安の表れであるとともに、単に自分を棄てた親への拒絶を示しているのではなく、宙吊りの不安への抵抗であり、もっといえば新しい自分のアイデンティティーを宣言しているのではないか?
 そう考えると、「ミッションなんかもう終わりだ」という言葉は、慶多を宙吊りにしていた呪縛から慶多を解き放つという良多の側からの宣言なのだ、という解釈が可能になる。つまり「ミッション」という虚構によってではなく、これからは本当に斎木家の子供として生きていっていいんだと。
 したがって、「6年間はパパだったんだよ」と言われた慶多は、だからこれから元通り、野々宮家で暮らそうと言われているのだと感ずるわけではなく、そうした父親の言葉によって安心することで、あらためて新しい環境を受け入れ、「斎木慶多」として生きていけるようになっていくのである。

 結局「6年間はパパだったんだよ」という台詞を含む最後の斎木家訪問のシークエンスは、「血のつながりよりも過ごしてきた時間の方が大切だ」というテーマを示して、子供たちを元の家に戻すという結末を暗示するために必要だったのではなく、それまでのアイデンティティーの変更を暴力的に要求されたことによって傷ついた子供たちをどう癒し、新しいアイデンティティー形成の場に軟着陸させるかというケアとして必要だったと考えるべきなのではないだろうか。
 とすれば、やはりこの映画の結末は、それぞれの血のつながった親の元で子供たちが暮らしていくという物語の行く末を示していると考えていいはずだ。
 もちろんそうした結末は、「結局血のつながりが大事なのだ」という結論をなんら意味してはいない。「6年間はパパだったんだよ」は、一緒に過ごしてきた時間こそが「親子」を作るのだという認識に他ならない。だとすれば、良多自身の「親子」に対する認識が変わったことによって、慶多との日々の掛け替えのなさが一層証しだてられたとともに、今後の琉晴との関係のあり方が変わることを予想させる結末だと考えることに、なんら無理はないのである。

p.s.
 「ミッションなんかもう終わりだ」→野々宮家に帰ろう。
ではなく、
 「ミッションなんかもう終わりだ」→本当に斎木家の子供として生きなさい。
という解釈が可能であることについては、結構考えた末の発想だったので、密かな自信とともに息子に訊いてみると、奴は一瞬考えてたちまちに思いついてしまったのだった。口惜しい。

2015年2月19日木曜日

『そして父になる』1 あの結末はどちらを意味しているか

 是枝裕和の作品を最初に観たのは『誰も知らない』がカンヌ映画祭で話題になった2004年からずっと後、2012年のテレビドラマの『ゴーイング・マイ・ホーム』だった。最初の一部分を観ただけで、その台詞回しも演出も、画面がフィルム的な質感になっているのは差し引いても、凡百のテレビドラマとはまるで違うことは明らかで、充分に観るに値するものであると即座に感じた。とはいえ連続ドラマとしてずっとワクワクと楽しみにしていたとは言い難くて、予約録画したものも結構溜めてしまったりもしたが、最後までそのうまさに感心させられ続けた。
 そして去年『歩いても 歩いても』にまたしてもやられて、すっかり是枝監督の評価は最高レベルで定まった。脚本と編集も本人がしていることといい、作品がこのレベルで並ぶことといい、岩井俊二とまではいわないが、すごい映画作家がいるものだと、このあとまだ観ていない作品を観るのが楽しみだと思っていた。
 さて、第66回カンヌ国際映画祭、審査員賞の『そして父になる』である。『歩いても 歩いても』も、主演がともに阿部寛という以上に、なんだか『ゴーイング・マイ・ホーム』に似ているぞと思ったが、今度もまたデジャブだ。三作とも主人公が「りょうた」で、父親役は『ゴーイング・マイ・ホーム』と同じ夏八木勲だった。主人公と父親の確執も、どれも似たような設定になっている。樹木希林も『歩いても』と『そして』に共通している。そういえば『歩いても』でも、阿部寛と、再婚した妻の連れ子の「血のつながらない親子」がテーマの一つになっていたが、『そして』はそれが主要なテーマになっている。
 もちろんニュースなどで事前に予備知識は入ってしまっている。6歳まで育てた子供が、新生児のうちに病院で取り違えられていたことがわかったという設定のドラマであることは最初からわかっている。スポットなどで福山が「6年間はパパだったんだよ。できそこないだったけど、パパだったんだよ」とか言ってるシーンは繰り返し見ている。スピルバーグがえらく気に入って、ハリウッドでリメイクするというのもニュースで見た。リリー・フランキーの演技が高く評価されているとも聞いた。

 なるほど佳い映画だった。螺旋階段を吹き抜けから俯瞰するカットや、川の中程に鎮座する大岩をバックに福山と子役が話をするカットや、アーケードが大きく覆い被さる商店街とアーケードから外れた古い商店の佇まいなど、映画として良い画をしっかと画面に収めているし、役者たちの演技も(とりわけ子役も)不足なく演出されている。リリー・フランキーが福山を殴るシーン(スピルバーグが絶賛したという)の微妙な空気も実に良かった。
 そして無論、脚本も実に良い。テーマを作品として仕上げるために必要なアイデアを充分に盛りこむバランスの良さはさすが、と感心させられる。こことここが感動ポイント、という仕掛けもちゃんとある。
 それでも、作品としては『歩いても 歩いても』ほどの「凄さ」は感じなかった。これは不満ではない。満足している。だが予想を超えるほどの特別な何かは感じなかった。これはいささか期待のハードルが高いから仕方がないのだ。
 だが、考えさせられてしまった。無論、取り違えられていた子供を元通りに取り替えるか否か、言い換えれば、親子とは血のつながりか一緒に過ごしてきた時間か、という作品の主要なテーマについては考えないでいられるわけがない。その選択の難しさこそがこの作品の肝であることは間違いないのだし、それを難しいと感じさせるだけ、そのバランスには細心の注意が払われている。当然取り替えるよなあ、とか、今まで通りがいいに決まっている、とかいった安易な選択を誘導するようには描かれていない。その上で、二組の夫婦は子供を、本来の血縁に従って交換するという選択をして、その困難にそれなりに誠実に立ち向かう(とりわけ主人公の福山が)。

 だが、「考えさせられた」ポイントはそこではない。映画のテーマ自体を自分の問題として「考えさせられた」ということとはちょっと違うのだ。
 事前の予備知識からは、この映画のテーマは「血のつながりよりも一緒に過ごした時間が『家族』を作るのだ」という「家族観」なのだと思っていた。テレビCMで語られる「血のつながりか、愛した時間か。つきつけられる選択」というコピーとともに流れる映画の一場面、福山雅治の「6年間はパパだったんだよ」という台詞は当然そういう文脈で解釈することになる。だから、つまるところ結局、それまで育ててきた子供を育てるという選択に結末する映画なのだろうと思っていた。
 だが、エンドロールが始まったところで、あれっと思わされた。これはそんなに方向性のはっきりした結末ではないのではないか?
 確かに上記「6年間は…」の台詞の後、福山雅治演ずる野々宮良多と、それまで育ててきた子供、慶多が抱き合う。だがその後で、慶多が野々宮家に帰ったことを示すようなイメージカットを置いたりせず、リリー・フランキー演ずる斎木家に両家族が一緒に入っていくところで映画は終わっている。つまり慶多が野々宮家に戻ることは明確には描かれていないのである。となると、そのまま斎木家に残るという可能性は消去されたわけではない。これは、物語のこの後の帰趨を敢えて描かないことで、映画が、この選択に明確な結論を出すよう結末をつけないという意志の表明ではないだろうか。つまり筆者には、映画は、敢えてどちらの選択が正しいのだとも観客を誘導しないようにふるまっているように見えたのだった。
 だが、直截その場面が描かれていないからといって、映画のエンディングより後の展開がそこまでの物語の論理を無視してどう転んでもいいというわけではない。当然、そこまでに描かれた物語の論理に従って、映画の後も展開するのだろうと考えるべきである。とすると慶多は当然、野々宮家に戻ることになると考えるべきなのだろうか? 「子供が元の家に帰る」という結末だと当然のように考えてしまうことには、本当に相応の妥当性があるのだろうか?
 気になってネットであれこれ論評を読んでみると、どうやら大勢はやはりこの結末を「元の家に帰る」ことになったのだと受け取っているようである(もちろん、この結末は観る者に判断を任せるものだと受け取っている人もいる)。
 そう考えたい理由はわかる。映画の中で慶多は「野々宮慶多」として描かれる場面の比重が圧倒的に高く、観客は主人公である福山の野々宮家で育った慶多に、より大きく感情移入してしまうからである。慶多と良多の親子関係の復活こそ、あるべき姿であるように観客には感じられる。
 さらに、多くのサイトで「子供の気持ちが大切」というような言い方をする人も多い。二人の子供はそれぞれに新しい家庭に適応しようとしつつも、やはり元の父母を恋い慕っている。その姿はいかにも哀れで、そうなれば元通りにしてあげたいと考えるのが人情だ。
 観客がそういう方向性に誘導されているというだけでなく、劇中に明らかにそうした方向性を指示しているように解釈できるシーンがある。
 先述のテレビ・スポット「6年間は…」のシーン、福山と慶多の会話は、植え込みを挟んだ二本の道路を二人が並行して歩きながら植え込み越しに交わされるのだが、やがて二本の道が合流するところで二人が抱き合う。これは一見したところ、斎木家と野々宮家に分かれていた二人が再び合流する、つまり慶多を野々宮家に連れ戻すことを映像的に表しているのだと考えるのが、正しい映画的読解力のようにも思える。
 さらに上記シーンで、野々宮が慶多に「ミッションなんかもう終わりだ」と言う。これは斎木家の子供として過ごすことを「大人になるためのミッション(任務)」と慶多に言い聞かせていたことを受けているのだから、「斎木家での生活=ミッション」を「終わり」にするということは、つまり慶多を野々宮家に連れ戻すことを宣言していることになる。
 そして前述のコピー「血のつながりか、愛した時間か」は、言うまでもなく後者こそ本当の家族の証だと言っていることは疑いえない。となれば、慶多が野々宮家に戻るのがこの結末の後の展開としては自然な想像であると考えるのももっともである。
 にもかかわらずやはり、ラストシーンはどちらかに決着をつけないように描いているのだと筆者には感じられた。同時に、個人的には子供を交換するという選択の方に一票を投じたい、と思った。
 なぜか?

 長くなりそうなので一旦投稿。

2015年2月14日土曜日

『リーガルハイ スペシャル2』

 去年の11月に放送したものだが、ようやく観た。テレビシリーズの1期も2期もすばらしかった古沢良太脚本。古沢作品は既に連続ドラマの『デート』が始まって1ヶ月以上経つが、こちらは録画しておいて、娘の受験が終わったらまとめて観るつもり。どうも録画番組の消化に追われる。
 テレビドラマってのは映画と違って連続で、何時間もの時間をかけて描くところに価値が生まれるのだとは山田太一の主張だが、同じ作者の単発のスペシャルものが、連続のシリーズに比べて出来が悪いのは単に作り手の怠慢ではなく、何かそうなる必然的な作用があるんだろうか。『TRICK』なぞに顕著なように。
 ということでこれもあまり感心しなかった。1期の、村の老人相手への古美門研介の罵倒(といいつつ敬意を込めた鼓舞)も、2期の、岡田将生演じる若い理想主義的な弁護士への罵倒も、堺雅人の高いテンションにつられつつ、やはりそれだけの言葉の力をもっているからこその感動だったのだが、この「スペシャル」の最終弁論ではそこまでの感動を引き起こせなかった。理由はわかる。対抗する価値が充分な強度を持っていないからだ。
 村の老人たちがある種の俗物さや無力感をもっていることに充分なリアリティがあるからこそ、それを覆す古美門の弁舌が強い力を持ちうる。若い弁護士の理想主義が充分な説得力をもっているからこそ、それに対置する価値をぶつけて、物事の多面性を強引に現出させてしまう古美門の言葉が強く聞き手を揺さぶるのだ。
 今回の「スペシャル」では古谷一行演ずる病院長が、権力欲に駆られた俗物に過ぎないように見えて同時に実は「科学の進歩」という価値を表現する存在でもあったというのが、このドラマに特徴的なコペルニクス的転換なのだが、最後のドンデン返しに向けてその「真実」を支える充分な伏線が張られていない。たとえば院長の俗物振りとともに、それだけではないぞと感じさせる面を些細なエピソードやカットで予め見せておく必要があるはずだ。
 同時にそうした価値観の転換をぶつける一方の価値を代弁する役割の大森南朋演ずる弁護士の論理が、どうみても充分な説得力をもたない、視野の狭い人情主義を絶叫するしかないのも残念だった。ここが強い力で対抗しないと、堺雅人の素晴らしい弁舌が充分な力を発揮できないではないか。大森の演技が熱いのも大森のせいではなく(脚本と演出のせいで)白けるばかりだった。
 古谷一行や大森が極端に描かれてしまうのは、テレビ屋の悪い習慣のような気がする。確かに『リーガルハイ』には笑いも価値のうちだし、古美門は極端な描き方をされてもいい。だがそれに対立する価値はあくまで充分に説得力をもって描かれるからこそ、クライマックスの古美門の弁舌の真っ当さに感動が生まれるのだ。

2015年2月13日金曜日

『トライアングル 殺人ループ地獄』

 前に一度言及したが、うまくタイミングが合って息子と観ることができた。CMが夏のものだった。ブログ開設の直前あたりに録画したものだ。

 「ループ物」と呼ばれる作品群がある。小説でもマンガでも映画でもゲーム(やりはしないが)でも、多分多くの愛好者がいて、日本でも外国でも次々とそうしたモチーフの作品が作られている(ネットにその手のサイトがいくつもあるし、『世にも奇妙な物語』でもそう分類される話がいくつもあるそうだ)。「涼宮ハルヒ」の「エンドレスエイト」、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、北村薫の「ターン」、『ミッション:8ミニッツ』『バタフライ・エフェクト』『シュタインズ・ゲート』『ひぐらしのなく頃に』…。忘れがたい印象を残すいくつかの作品とともに、繰り返す時間が一度きりの、「ループ」まではいかないタイムリープを含めれば、ほとんどのタイムマシンSFもいれて、このジャンルにくくられる作品は枚挙にいとまない。
 「エンドレス・エイト」の「夏休み」や「ビューティフル・ドリーマー」の「文化祭の前日」など、終わって欲しくない時間が永遠に繰り返されるのは、明らかにある種のユートピア願望だろうし、たとえそれが楽しい時間でなくても、繰り返される閉ざされた時空間のイメージは、「人類消失物(もしくは「人類滅亡物」)」(これも数えれば枚挙にいとまない)のイメージとともに、逆説的なユートピアのイメージを横溢させている。
 あるいはその世界(あるいは「セカイ」)が心地良いものでないとしても、物語は、料理のしかたで面白くなることが約束されたシチュエーションだといっていい。物語構造の原型が魅力的であるだけに、作り手としてはアイデアの盛りこみに意欲が湧くし、受け手はサスペンスや懐かしさ、切なさなどの感情を揺さぶられやすい。
 勿論料理次第だ。この映画が面白かったのも、そうしたループ物の王道のもつワクワク感を充分に感じさせながら、部分的には意外な新味をもたせたり、丁寧な伏線の張り方をしたりと、誠実に面白い映画を作ろうとしているからだ。
 B級感満点のどうしようもない邦題にもかかわらず、いやはやどうして、今回見直してみてもやはりよくできていた。CGの粗さも気にならないどころか、むしろ妙に画が綺麗だぞと思えたのは、モニターが画面の小さい古いブラウン管テレビだったせいかもしれない。あるいはこちらが積極的に美点を数えようとしていたか。
 毎度ストーリーの説明をしないこのブログの原則に従ってここは省略バージョン(というか、詳しいストーリー説明をするブログが世の中には多いが、あの親切心はすごい。だが説明しないにもかかわらずネタバレは厭わない極悪)。
 クルージングで難破したところに通りがかった豪華客船に乗り込むと、人気がない。お、この感じは『ゴースト・シップ』だ、と思っていると幽霊船なわけではなく、殺人鬼が銃で襲って来る。予想外だ。しかも、あっとゆう間に主人公以外の登場人物が全て殺されてしまうのはさらに予想外の展開だ。こういうのは時間をかけて一人ずつというのが定番のはずだが。
 こういうのは、いわゆるSSS(ソリッド・シチュエーション・スリラー)だ。これもまた好物である。
 さて、序盤で一人になってしまって後はどう展開するのかと思っていると邦題にある「ループ」に入るわけだ。題名を忘れていると、お、こいつは「ループ物」だったのかとわかって、いやがうえにも期待が高まる。だが、となればもちろん殺人鬼が主人公自身であることは予想はつく。だが2巡目に入っても殺人鬼になる様子がないのに不審に思っていると、さっきと違うパターンに展開するから、まるで同じ繰り返しではないルールなのかとわかってくる。さらにこのループ構造が単純ではなく、自分が殺人鬼の立場になるまでループ3回を経るというのがこの映画の捻りの利いているところだ。客船の中に3人の「自分」が同居しているのだ。
 さて一通り伏線を回収し終えて、ループも経験し尽くしたと思ったところでまだ映画の終了まで時間がある。どうなるのかと思っていると、ほとんど物語の主要部分と関係ないかと思われたオープニングの場面につながるのである。またしても予想外の展開に、全く予想外の結末。おー、ここまで捻っているか!

 これ以上のストーリー説明はやめる。2点ほど、今回気づいたことを。
 題名の「トライアングル」は、このての映画にありがちな「英語なのに邦題」かと思いきや原題だ。主人公が難破するクルーザーの船名が「トライアングル」なのだが、もちろん題名に付けるなら、そちらの船名ではなく、謎の客船(幽霊船かと思われた)の「アイオロス」にすべきじゃないのか? と思う。といって船の難破にかけて、かの「バミューダ・トライアングル」を連想させようとしている様子もない。では船名という以上に何が三角形なのか?
 おそらく、船上でのループが3回で、3人の自分が追いかけっこをするという小さなトライアングルと、クルーザーと客船と自宅という三つの舞台をループする大きなトライアングルが入れ子になっているという物語の構造を表現するものとして「トライアングル」が題名として選ばれているらしい。なるほど。

 もう一つ。登場人物の一人の死体が何十体も「溜まっている」映像は衝撃的で、映画の中でも見所の一つだ。だが、あんなことが起こるなら「ループ」にはならない。出来事の痕跡がそのまま残るのならば、主人公たちが客船に乗り込んだ際の船内の状況がどんどん変わってしまう。
 同じように、下水溝に落としてしまうペンダントや同じ内容の何枚ものメモの散乱も、ループを表現しつつ、その物語構造を主人公に(あるいは観客に)気づかせていく物語の「神」からのヒント/手がかりのようなもの、あるいは幾度もの殺人がこの船上でループしていることを象徴的に表している、いわば心象風景であって、物語世界の基本ルールからは外れていることを受け手としては無視しなければいけないのだと思っていた。
 だが今回見直して違う見方もあるかもしれないと思い直した。このループは、前回と同じでなければならないという縛りがないのが「基本ルール」らしい。とすると、その誤差が、謂わば吹き溜まりのように船内の目立たないところに少しずつ蓄積していくという隠れた基本設定があるということなのではないか?
 だが船内の食堂の食べ物が短時間で腐っていた描写などは、やはり「実はこの船は長いことループし続けているのだ」ということを表現しているだけで、設定的な整合性はないのかもしれない。本当に時間がループし続けているとしたら「実は長い時間が経っていて」も何もない。ループの外側にあって不可逆的に経過する時間など存在しないのだから。とするとやはりこれらは「基本ルール」から外れた「雰囲気」表現に過ぎないのだろうか。
 とまれ、確かめようもないことなのでこれ以上の考察はやめる。ともかくも工夫の凝らされた脚本と、丁寧な演出で盛り上がるサスペンスに拍手を送りたい。佳い映画だった。

 ついでに、ラスト近くに出てきた学校のチアリーディングの練習らしき風景が妙な印象を残している。ロケ撮影の時に撮影現場の近くで偶然行われていたのが背景に写り込んだだけ、というわけでもなさそうである。その後で物語の動きに従って画面の中にチアリーダーが登場するからである。とすればあれはわざわざ監督がそうしたエキストラを動員して撮影しているのか? 何の必然性があって? 物語的にはまるで必要ないのに。
 なんだかその日常性が、物語の緊張との落差で非現実的な光景のような印象を醸し出しているのだ。何だあれは?
 もしかしたらやはり、チアリーディングの練習風景自体は偶然の背景で、監督の機転でそれを利用すべく、その中の誰かをエキストラに雇ったということなのだろうか?

2015年2月11日水曜日

『網走番外地』

 高倉健の人気シリーズの第一作。こういうのも観てみるか、と、あまり気は進まないものの約1時間半という長さに勇気を出して観てみた。
 なるほど、面白いのだな。それなりに。
 同房の囚人・嵐寛寿郎の重罪人の迫力も、検身所の騒動の熱気も、トロッコのスピード感も、手錠の鎖をレール上で列車に轢かせて切るサスペンスも、映画としては魅力的だ。嫌っていた同房の囚人・権田と、手錠に繋がれたまま逃亡するうちに奇妙な連帯感によって結ばれていく過程なども、ああこのパターンね、という納得がある。最後の、ある種のハッピーエンドもカタルシスだ。
 映画という娯楽が特別なものだった時代には、これはやはり大したエンターテインメントなんだろうと思う。が、今の時代にわざわざ観たいか? 健さんのファンであることは自認してもよいが、この主人公が魅力的か?
 難しい。

2015年2月8日日曜日

『NONFIX』「“変わり者”と呼ばれて ~“見えない”障害と生きる~」

 優れたドキュメンタリーに出会う喜びは優れたエンターテインメントに出会う喜びと同じだろうか。エンターテインメントよりも高尚だ、と言いたくもなるが、たぶんそう変わらない。
 きっとさまざまな優れたドキュメンタリーを日々見逃しているんだろうが、時折、偶然の出会いで、この間の「マザーズ」や、前に書いた「敵はリングの外にいた」などの面白いドキュメンタリーに出くわすこともある。
 『NONFIX』という番組は、1989年に始まったというから、ほぼ私が勤めだしてからと同じ四半世紀続いていることになる。始まった頃のことを覚えている。ネットに記録が見つからずに確認できず、名前を挙げることはできないが、いくつか印象的な作品を追いかけて観た。
 だが普段マメにチェックしているわけでもないから、最近は滅多に観ることがない。いつ以来かわからないが、偶然見つけて興味を引かれて「“変わり者”と呼ばれて」を録画した。アスペルガー症候群を扱っているという。
 アスペルガー症候群といえばむろん、自閉症を扱った「君が僕の息子について教えてくれたこと」を連想する。あの番組も実に興味深く、かつ感動的だったが、今回のこの番組も面白かった(「面白い」という表現に、またしても不謹慎かもという懸念がよぎる。内容がハッピーなものであればそう表現しても許されるのだろう。だが多くのドキュメンタリーはそれほどメデタシメデタシとはならない。それでも、この「面白さ」には対象を蔑視するようなものでは決してないことを確信し、あえて「面白い」と言いたい)。
『アスペルガー症候群』
一説には日本人の100人に1人がこの脳の障害を抱えるともされる。
「ひとつのことに徹底的にこだわる固執性」
「場の空気が読めない」
「予想してないことが起こるとパニックになる」(フジテレビのHP)
100人に1人といえば、2クラス半に1人くらいはそうだということになる。誰なんだろうとか、我が身やら家族やらを振り返って、その特徴を考えたりする。「見えない障害」なのだ。安直な判断はできない。
 ともかくもそういう状態があることを知ることが、ある現実に対する理解の助けるになることは確かだ。そういった「効用」もあるとはいえ、それよりもまずとにかく「アスペルガー症候群」という事象が興味深いのだった。本人が充分に明晰に内面を語ってくれるから、その不思議なありようがいくらかなりとうかがい知れる。過剰なまでに論理的で明晰な思考に、一部がぽっかりと盲点になってしまう。そんなことがわからないはずはないのに、とこちらには思われることが、本人にはわからない。不思議だ。「君が僕の…」の時ほどのワンダー感はなかったが、それでもしみじみと不思議だ。
 そしてもちろん、良いドキュメンタリーは感動的なのだった。そこはエンターテインメントと同じ、「そういう風に作っている」ということは間違いないのではあるけれど、その感動が、やはり観ているに過ぎない私などを免罪してくれる気もするのだった。

2015年2月3日火曜日

『ツィゴイネルワイゼン』、映画の話

 「岩井俊二のMOVIEラボのホラー映画特集は、とりわけ関心の強いジャンルだけに、興味津々で見てしまった。エポックメイキングな作品のほとんどは観ているから話もわかるが、なかでもホラー映画の系譜などを辿ったりすると、漠然とした風景がみるみる形を定かにする快感がある。ロメロの『ゾンビ(Dawn of the Dead)』の社会的意味などは、まあ聞いた事のある話ではあったが、あらためてその名作であることの意味合いに納得したりして。
 ところで冒頭で岩井俊二が「ホラー映画といっていいかどうか…」といいながら、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を挙げたのはびっくりした。
 『ツィゴイネルワイゼン』は何度も観ている映画であり、印象も強い。前任校の遠足で鎌倉を訪れた際には、映画の中で何度も藤田敏八が通る「釈迦堂の切り通し」に行きたくて、一人で鎌倉駅から歩いて、立ち入り禁止の切り通しに忍び込んで隧道をくぐったりした。
 しかも最近読んでいた山田太一の『逃げていく街』に「ツィゴイネルワイゼンの夜」というエッセイが収録されていて、これが突出して素晴らしい文章だったのだ。エッセイではあるけれど、どうみても意識的に『ツィゴイネルワイゼン』の世界、空気を再現しようとしている文章で、3回くらい読み返してしまった。
 そこへ岩井俊二である。

 ところで、上記のエッセイ集で、かつて映画会社で助監督をやっていた山田太一が、映画について書いたり語ったりする事に慎重になるという趣旨の事を書いている。
その理由は…一つは、映画についての物言いは、つくる労力に比べて、どうも軽すぎてしまうという傾向にある。…下らないワンカットでも結構大変だってことを知っている。
そうだよな。それはそうだ。だからこそそのワンカットが「下らない」ことを惜しむし、価値あるカットだとしても、それが「下らない」物語を成立させることに奉仕しているにすぎないことを惜しむのだが(むろんこのブログの感想など、まさに軽い、ということは承知のうえで)。
 ということで最近の映画評あれやこれやが辛口であることの自己正当化。

 ところで宇多丸の映画評はやはり楽しくて、今日も車の中で『Stand By Me ドラえもん』の酷評を楽しく聞いていた。山崎貴映画は「下品だ」との評に、作品を観ていないこちらも快哉を叫びたくなったりして。とはいえ、高評価の場合も楽しいのだが。しばしば「作り手の志が高い(低い)」という言い方をするところが、実に腑に落ちるのだ。