2022年1月30日日曜日

『ゴーストランドの惨劇』-佳品

 何でウォッチリストに入れたか忘れたのだったが、見放題が終了しそうなタイミングで。

 これはよくできたホラーだった。いささかビックリ演出が多いとはいえ、それを利用したゾクゾク演出も駆使して、恐ろしく怖かった。

 捕まって虐待を受ける姉妹が、脱出する場面の解放感はすごかったが、すぐに暗い森の怖さが戻ってきて、まだまだ物語が終わらないことがわかったりするのもうまい。

 物語の展開としてもドンデン返しと世界の入れ子構造で楽しい。

 そして二つの時間軸で描かれる未来編でヒロインを演じているクリスタル・リードの演技があまりに見事だったのにも感心した。


 幻想の中で作家となっているヒロインが、敬愛するラブクラフト(ラブクラフト本人がパーティー会場に現われるのだから、その時点ではそれが虚構でしかないことが既に観客にもわかっている)に、ヒロインの作品『ゴーストランドの惨劇』を褒められる場面がある。そして「これは傑作だから一字一句変えてはならない」と言われるのだが、これが妙に印象的なので、その意味を考えさせられる。考えてみる。

 おそらくそこで言われている『ゴーストランドの惨劇』こそこの映画、その後でヒロインが行動することで決着する物語なのだ。つまり、幻想のラブクラフトは、幻想を捨てて現実に立ち向かうことを主人公に促しているのだ。

 それを遂行して生還する結末は映画鑑賞の目的にふさわしい満足感を与えてくれた。


 そういえばフレンチ・ホラーの新しい騎手として紹介されていたパスカル・ロジェの監督作なのだった。他のも、機会があれば観てみよう。

2022年1月29日土曜日

『サランドラ』-父権的家族

 ウェス・クレイブンの2作目だというのだが、見るからに低予算映画だった。もちろん低予算であることは映画がつまらなくなることを決定しない。高級感はないものの、カメラワークとか編集とか、それなりに悪くない。といって結局は見るべきものもなく、単につまらない映画だった。どうしたわけか。面白さというのはそれを生み出すことが簡単ではないということなのだろうな、やっぱり。


 荒野に住んで人を襲って食べてしまう奇形の一家と、それに襲われる旅行中の一家の攻防戦なのだが、両方の一家が、やたらと父権的な家庭像として描かれているのがアメリカ的で不思議な感じだった。

 アメリカの映画やドラマを見ると、ハイティーンの子供が出てきても、必ず親の方が大きくなるようにキャスティングをしているように思われるのだが、実際にはローティーンのうちに子供は親の身長に並ぶものであり、日本ではキャスティングの際にそうした身長差に頓着しているように思えない。

 これが忠実に守られて、登場人物の心性としても両家ともにそれを体現しているのが不思議だった。

 と言ってそれに対する何か批評的な映画だというわけではないのだが(批判的といえば、奇形の一家の設定にはアメリカの核実験に対する批判的な要素があるようだが、それが何か批評的な面白みになっているわけでもない)。

『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』-ジブリ的フランスアニメ

 評価の高いらしいフランス産アニメがEテレで放送されていて、特に予備知識もなく観る。なるほど、画はきれいだし、演出も上手いのが始まってすぐわかる。顔の前に垂れ下がった前髪を耳に掛ける仕草とか、祖父の書斎に入って、とおりすがりに触れて回る地球儀など、描写のリアリティが繊細に考えられている。

 物語としても、19世紀のロシア、サンクトペテルブルクの貴族の少女が、祖父の無念を晴らすために北極点を目指すという設定に、ディズニーやらジブリやらの典型的な冒険譚の感触がある。北極圏の航海や、船が流氷により座礁してからのギリギリの旅など、物語的な屈曲も豊富で、良質の物語だ。

 そして日本の我々には、貴族の娘が旅の始めに騙されておいてけぼりになったまま食堂で働くことになる1ヶ月間に、みるみる逞しくなっていく描写に、『千と千尋の神隠し』やら『天空の城ラピュタ』やらのヒロインを重ねて見てしまう。

 ジュブナイルとして良質のアニメ映画。

2022年1月26日水曜日

『(r)adius』-ジャンルの混交の失敗

 半径(=ラディウス)15m以内に入った生物は突然死んでしまうという設定は予告編から明らかにされている。後は主人公が記憶喪失らしいのも。

 原因が不明なのも不穏なのも、雰囲気はシャマランの『ハプニング』を思い起こさせるが、設定は『呪街』に近い。そんなマイナーな日本のマンガを、作者たちは知らないだろうが。

 さて、こういうワンアイデア(に見える)作品は、その可能性の徹底的な追究と丁寧な演出がものをいう。この設定から起こりうる事態をあれこれと想像して、それをドラマチックに見せる。そして、その渦中にいる人の振る舞いに合理性を持たせる。センスのあるカット割りなどできれば申し分ない。

 

 で、どうだったかというと、悪くない。面白い。薄暗い画面の不穏さも、事態を描写するカットも手際が良い。


 だが半ばまで観て、思いのほかイベントが起こっていないことに気づく。もっとさまざまな事態が起こる可能性を追求してほしいという不満を感じ始める。画面の手触りはよほど上質だが、物語的には『トロールハンター』と同程度の密度に感じられる。

 その後、最後近くなってイベントが起こり始めるのだが、これがなんとも予想外の方向で、しかし楽しくはない展開なのだった。奇妙なSFホラーだった物語が、最後になって急にサイコサスペンスになる。その必然性がまるでわからない。ジャンルの混交が、何か効果的に働いているという感じがまるでしない。どちらも中途半端になっているという感じしかしなくて、混交させる必然性が納得されない。

 終始狂っているような感じの『アルカディア』にはこういう不満を感じるわけではない。あれは本当にジャンルのわからない映画だった。それに比べて本作はもっと一般的なハリウッドエンタテイメントの手触りの映画だから、それを全うしていないことに不満を感じるのだ。どちらの要素もそれなりに悪くはなかったので尚更惜しい。

2022年1月20日木曜日

『ワンダーウォール〜京都発地域ドラマ〜』-脚本と若手俳優

 NHKのドラマとして放送されたときに観て、好印象ではあった。

 それが最近面白かった『今ここにある危機とぼくの好感度について』の渡辺あやの脚本なのだと知って、劇場版を観直す気になった。

 観直しても、印象のあるシーンはまるでなかったが、やはり、現実に流されて諦めてしまうリアリティと、それでも何か大事な物を守ろうとする戦いの切実さの対立は、青臭いながらも爽やかで、前回と同じように好印象だった。

 それ以上に今回は、「ドレッド」が茶を点てるシーンが妙に印象的だった。

 戦いに対して距離を置くドレッドが、熱い議論が交わされる部屋に入ってきて、議論に構わずに、その部屋が以前茶室だったことを確かめようとする。議論している側は怒りをもってその希望を排除する。気易く待つことにしていると、議論が熱を帯びて、むしろそれが行き詰まったときに、壁に積み上げた本が崩れて、壁の掛け軸が姿を現す。茶室だったというのは本当だったのだ。

 次のカットではなんとドレッドが茶を点てる。議論していた面々も、神妙な面持ちで正座をして待つ。ドレッドヘアーのお気楽なキャラクターと茶の落差の可笑しさもあるが、議論の行き詰まりが思いがけない形で落着することにカタルシスもある。

 無理矢理「解釈」すると、あれは、現在の青春の舞台である寮の一室に、今は失われてしまった茶室だった過去が、現在の問題である寮生と大学の対立を超越した「歴史」として突然顕現して、その前に皆が神妙になってしまう、というようなことなんだろうか。

 撮影としては、ドラマ版と、後から劇場版用に撮影したというテーマ曲の合奏シーンが、多幸感にあふれるカット編集だったのに感動した。

 渡辺あやを覚えたのと、岡山天音がこんなふうに中心的な登場人物の一人だとあらためて認識した。それ以外の若手もとても良く、今度どこかで見たらきっと思い出す。

2022年1月16日日曜日

『ほえる犬は噛まない』-レインコートと紙吹雪

 ポン・ジュノの長編デビュー作。

 何映画かわからずに観始める。だが物語が進んでも、何映画かは定かではない。ブラック・コメディだという紹介もあるが、コメディに振り切ってもいない。サイコサスペンスの刑事物だった『殺人の追憶』や、モンスター物であることは観る前から知っている『グエムル』のようには、既存のジャンルには括られない。

 どこへいくのかわからずに見続けていると、いろんなことが連鎖的に起こったり、伏線が回収されたり、どこから発想されるのかわからない展開になったり。

 その中で主人公夫婦の関係に微妙に温かい気持ちになったり、もう一人の主人公ペ・ドゥナと友達の関係にほっこりしたり。主人公では笑えなかったが、ペ・ドゥナについては笑っていいんだと思えて、受け止め方に安心できたし、最後近くの笑顔は、かなり明るい気持ちにさせられた。

 なんといっても子犬を助けるために駆け出すペ・ドゥナを、同じ黄色いレインコートの集団が応援する、紙吹雪舞い散る幻想シーンの多幸感はすごかったが、どうやってあんなシーンを思いつくのか、まったくわからない。

浦上想起

  北園みなみ風でもあるが、それ以上に壊れた音の組み合わせが、しかし途轍もなく美しく心地良い。調和と不協和。緊張と緩和。恐るべき才能。



多分動画も自分で作っているんだろうが、その奇妙なユーモア感覚も楽しい。

「芸術と治療」の歌詞の字幕は、最初に観た時に何度も笑った。

p.s.

連想でしばらくぶりに北園みなみを聴き返したら、やはり良いのだった。



2022年1月13日木曜日

『トロールハンター』-やっと観られた

 POV映画ということでいくつかの映画サイトで取り上げられていたが、レンタル店では見つからなくて気になっていた。ようやく。

 何よりフィンランドの山並みが美しい映画だったが、まあそこではない。基本はモンスター・パニックでありホラーだ。

 POVのモキュメンタリーは、本当なのではないかと思わせる仕掛けがミソなのだが、その点では体長数十メートルの哺乳類であるトロールが実はいっぱいいて、政府によって隠蔽されているから人々に知られないという荒唐無稽な設定を本当らしく見せる工夫はあまりなかった。わずかに、本物の送電施設を、これはトロールを閉じ込めるために張った電線だということにしたり、窓の外の牧場の牛を、あれはトロールのエサだと言ったり、といったそのまま現実にあるものを映画に取り入れる工夫は見られるものの、何より、戦いのリアリティが薄い。

 いくつかのトロール登場のシーンも微妙だし、登場人物のキャラクターもそれほど掘り下げられずにいる。作品としてはそれほど大きな満足感はない。

 ただ、最後に出てくる最も大きなトロールの足下を車で駆け抜けるカットはよくできていた。

 


2022年1月12日水曜日

『残念なアイドルはゾンビメイクがよく似合う』-「楽屋」

 一見、舞台劇を撮影したものかと思うような、画面の、セットの、演技の安っぽさだが、ちゃんとカットが切り替わって、それなりの編集もされている。でもまあせいぜい深夜枠テレビドラマくらいのクオリティではある。

 にもかかわらず、実に楽しかった。映画的リアリティは求めなければいいのだ。舞台演劇と映画は、期待されるリアリティの水準がまるで違う。映画で観るとリアリティがない、馬鹿馬鹿しいと思えるのは、その水準を間違えているからだ。

 この映画を映画のリアリティの水準で観れば安っぽいと言わざるをえないが、舞台演劇をカット割りして編集しているのだと思えば、そのリアリティの水準で観られる。

 物語はアイドルを集めてホラー映画を撮っている現場のメイクルームだけで進行する。この「映画作り」という題材と、演劇的に見えるという作りの相互作用がどうも面白い。

 「メイクルーム」と言えば清水邦夫の「楽屋」だ。あのレベルとは言わないが、基本的にはあれと同じ、創作の愉悦や労苦、嫉妬や不安、前向きな希望など、様々な感情が描かれる。

 限定された舞台設定されている割には数の多いキャストが、それぞれに少しずつ背景に物語をもっているという脚本作りもうまい。

 そして、主人公のメイク係のベテランスタッフ的、仕事に対する安定感と、作中映画で主役を演ずるアイドルの前向きなキャラクターが、どちらも決して上手い演技だとは思わないが、にもかかわらず実に魅力的で明るい気分にさせてくれる映画だった。

2022年1月7日金曜日

『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』-爽快

 『幸せのレシピ』からのレコメンドで浮上してきた。

 観始めると、なんとも手際がいい。脚本も演技も編集もテンポが良くて、これは上手い映画だとすぐわかる。そのうちスカーレット・ヨハンソンは出るわダスティン・ホフマンは出るわ、なんだこれはメジャー作品なのかと初めて知る。観終わってから調べて『アイアンマン』の監督だと知ると、これは当然なのだった。

 前半ももちろん面白かったが、後半の、息子が出続けるロードムービー展開が楽しい。いささかうまくいきすぎているとも思いつつ、ずっと幸せな気分でいられる。

 そして、基本的な愉しさを支えているのは、主人公のシェフの明るい性格と裏腹なプロ意識だ。これが念入りに取材もリハーサルもされた見事な撮影とともに、確かなモラルとして画面に溢れているのが心地良い。


 もう一つ、対立が対立としてバランスがとれているのも楽しく見られる大きな要因だ。

 主人公と対立するレストランのオーナーとグルメ評論家が、どちらも単なる「敵役」として一面的に描かれるのではなく、十分にそれぞれの「理」があると思わせる人物像を実現しているのが好ましい。『新聞記者』などのような社会派映画こそそれをやってほしいというのに、「敵役」となればこれだ、というステロタイプが映画の質を落とすことなぜ気がつかない邦画やテレビドラマには、本当に残念に思う。

 そのバランス感覚が、さりげなく描かれる職人の手際が実現した爽快な映画だ。