2016年9月25日日曜日

『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品

 賊の侵入によって囚われの身となる婦人を描くという、設定だけはまるで『アウトブレイク』のサスペンス映画。原因が夫で、妻が美人で、子供が1人、3人一緒に巻き込まれてしまうあたりもまるでそっくり。
 題名の「セルラー」というのが携帯電話を意味するらしいことは、その頃、携帯に縁の無かった身にもなんとなくわかる。携帯電話でたまたまつながった若者に助けを求め、電話でやりとりしながら救出の方策を探るあたりは、家族だけで犯人グループと対峙する『アウトブレイク』に比べて広がりが生まれる設定だ。
 ただ、その設定のせいで前半はやや、やり過ぎの感が否めない。肝心の若者の人物造形が不愉快に軽すぎるのも残念。
 だが中年の警官が事件に巻き込まれて、結局大活躍したり、全体に起伏の大きく複雑な展開をコンパクトに収めている脚本は、実に良くできていると感じた。
 というわけで『アウトブレイク』のような不満はなく、むしろ面白かったといっていい。『パニック・フライト』ほどに手放しで絶賛といかないのは前半の問題だな。
 演出も手慣れたもので、安心して観られる。監督の デイヴィッド・R・エリスというのは、『ファイナル・ディスティネーション』シリーズを2本監督している人なのか。
 ジェイソン・ステイサムが悪役だったのだが、やはり肉体派なのは変わらない。無名時代かと思いきや『トランスポーター』シリーズの一作目よりは後の作品なのだった。

『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー

 魔法の出てこない「シンデレラ」のアナザー・ストーリー。
 完璧な美人、というわけではないドリュー・バリュモアをシンデレラにキャスティングするあたりで意図は充分わかる。一方的に王子に選ばれるわけではなく、そしてパーティーの一目惚れによってではなく、意志の強さや聡明さを王子に納得させつつ、関わりを持たせる過程を通して、皇太子妃に成り上がる「シンデレラ・ストーリー」を描こうとしているわけだ。
 王子が、ダニエル(シンデレラ)の嘘を知って心変わりをする展開が、物語の要請する、障害のための障害に過ぎないように見えてしまうことが興醒めなのは残念だが、全体には気持ちの良いエンターテイメント映画。まるでディズニーだと思ったが20世紀フォックスなのか。

2016年9月23日金曜日

『セッション』 -とにかく上手い 面白い

 どこかで観ようとは思っていたが、娘のリクエストで、放送を待たずしてとうとうレンタルで(まあ話題作だからいずれ放送もされるんだろうなとは思うが)。
 実はそんなに予備知識がない状態で観た。まあ音楽学校の生徒と鬼教官がぶつかりあって、ある種の成功を収めるんだろうだろうとは思っているくらい。とりあえずそのトレーニングがとても厳しいらしいとは聞いていた。
 とするとこれは『ロッキー』とか『ベストキッド』とか『がんばれベアーズ』とか『シコふんじゃった』とか、枚挙にいとまないスポ根パターンか。確かに面白い映画もいっぱいあるな。
 だが、思い出したのは『シャイン』と『ラスト・キング・オブ・スコットランド』だった。
 音楽へののめり込み方と、そこにひろがる音楽の高みの見せ方は『シャイン』並みの強度をもっていると感じた。
 一方、話題の鬼教官でアカデミー賞をとったJKシモンズの演技は、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』のフォレスト・ウィテカーがウガンダのアミン大統領を演じたときの怖さを感じさせた。フレンドリーな態度で安心させておいて豹変する。そうするともう穏やかなときも安心していられない。いつ豹変するかわからないという狂気がひたひたと横溢している感じがつきまとって、観ているこちらが緊張してしまう。
 連想される二つの映画との共通点に限らず、とにかく上手い映画だった。カット割りから編集が場の空気を劇的に感じさせるし、役者の微妙な表情の演出や編集に、感情の機微が細やかに感じ取れるよう作られている。
 そして、あとからこの映画が、20代の監督のデビュー作で、比較的低予算の映画なのだと知った。あの強烈なJKシモンズも、他には特に有名な映画もないような役者なのだと知った。なんてこった。
 それであの完成度であの演技? 後半の車の追突シーンなども、映画としての見せ方は恐ろしく上手い。どうなっているんだ。
 面白いなあ、と思って見続けて、最後はやっぱりスリリングでかつカタルシスも充分。良い映画だった。

 にもかかわらず菊地成孔が批判していたらしい話をきいて、長いその『セッション』批判を読むと、それはそれでなるほどそういう見方もあるかと思う。町山智浩との論争は大いに楽しんだ。
 そのうえで基本的には面白かったと素直に言いたい。

 描かれているスパルタ式の音楽教育が正しいものだとは、むろん思えない。そもそもその必要性を熱く語って、やっぱりこの人は良い人なんじゃないかと思わせておいて落とすあのわけのわからない復讐劇は、フレッチャーがほんとに音楽教育のことを真摯に考えているのかどうかを疑わせる、わけのわからない展開だったが、その前の、「必要性を熱く語る」ところのやりとりが、ちょっと面白かった。
 プレッシャーをかけなければチャーリー・パーカーはチャーリー・パーカーたりえなかったのだと語るフレッチャーに対して、不必要なスパルタ式によって、多くのチャーリー・パーカーが挫折したんじゃないかと反駁する主人公に「チャーリー・パーカーは挫折しない」と語るフレッチャーの理屈は、うん、そうだよなと思いつつ、論理的には単なる結果論なのだった。
 むろん本当は「チャーリー・パーカーは挫折しなかった」という結果から、「その可能性のある者は挫折しない」という命題を引き出すのも、「チャーリー・パーカーの才能はプレッシャーによって引き出された」という推論から、「プレッシャーがなければ才能は引き出されない」という結論を得るのも、いずれも論理的には無理がある。顚倒している。
 それでも、フレッチャーの語る可能性もまた否定できないのであって、そこに賭ける教官としての信念は、どうも否定できないと感じた。
 町山智浩は、そうではなくてあれは単なる才能ある若者を潰そうとしているだけだと言うのだが、どうもそういうふうには見えない。にもかかわらず最後の舞台のあの展開はなんだよ、というのが誰もが感ずる「つっこみどころ」であるのは間違いないのだが。

 そういえばもう一つ物申したい気になるのは『セッション』という、邦題なのに英語、というまたしてもわけのわからないパターンで流通しているこの映画が本当は『Whiplash』という題名であることは、始まってしばらくのキャプションでわかって、なんだこれはと思ったのだが、劇中挿入曲の題名でもあり、内容的にも実にぴったりなこの単語が日本人にわかりにくすぎるのは確かなことだ。
 だからといって『セッション』はありか?
 もちろん「セッション」というのは単に「合奏」という意味だから、内容的にハズしてはいないのだが、それにしてもチャーリー・パーカーを引き合いに出して語られるジャズ論がビッグバンド・ジャズなのは残念だった。なぜインプロビゼーションを重視するモダン・ジャズじゃないんだろ。映画の内容的には「セッション」が「ジャム・セッション」であることの方がよほど、説得力があると思うのだが。
 もちろんそれは演奏の質をさらに要求するから、もはやそれは「無理」だとも言える。だれがチャーリー・パーカーのように、バディ・リッチのように演奏できるものか。
 だが「大学で教育される白人によるジャズ」に対する菊地成孔の敵視には、日頃から深く同意している身としては、この映画の「ジャズ」がビッグバンド・ジャズだったことには大いなる遺憾の意を表したい。