2018年10月25日木曜日

『ダーク・シティ』-迷宮のような夜の街の手触り

 異星人侵略物のSFなのだが、それで要請される超能力バトルやサスペンスなどには大した感銘はない。それよりもこの映画の価値は、ひたすら、題名通り暗い街並のもつ湿った空気感を描いたことによる。その空気感の中で、生き物のように伸びたり絡み合ったりするビルが林立する街並を描き出したことによる。
 サスペンスに価値がないとはいえ、ビルが変形しながら迫ってきて、隣のビルに衝突する際に挟まれてしまう恐怖は確かにサスペンスフルではあったが、それは逃走劇のサスペンスというより、不条理な悪夢を観ているような感覚だった。
 同じ時間が繰り返されることや作られた街が島のように宇宙に浮かんでいるビジュアルなどは、確かに『ビューティフル・ドリーマー』にそっくりだが、あの映画のようなディストピアと表裏一体のパラダイス=ユートピア感はなく、ただ永遠に朝が来ない街の閉塞感が描かれる。
 それがあればこそ、最後にそこから出て明るい海辺が開けるシーンの開放感は強烈だ。たぶんそのシーンだけを切り取って観ても、まるで観光CMのような凡庸な映画の一場面に過ぎないのだろうが。
 そしてそこで、暗い街で夫婦であった二人が、女性の方だけが記憶を失った状態で出会う。ハッピーエンドには違いないものの、その失われた記憶の分だけ感ずる喪失感が切ないエンディングだった。
 決して手放しで面白いとは言いかねるが、奇妙な手触りが印象的な映画ではある。

『湯を沸かすほどの熱い愛』-うまい映画だが誇大広告

 宮沢りえ演ずる母親が病気で死ぬ話だということはわかっている。きっと「感動ポルノ」なんだろうとは思うが、評価もされていることだし、具体的にはどう描くんだろうという興味があった。
 さて、予想を大きく違えているわけではない。そして予想通りには感動的だった。
 とりわけ、杉咲花ずる娘が、初めて生みの母親と対面する場面では、今、あの伏線が回収されたんだとわかってハッとさせられたところに、だからこそ宮沢りえ演ずる母親の愛情が感じられて感動的でもあり、加えて対面する二人の演技があまりに見事で、ここを撮りあげただけで、この映画が作られた価値はあると感じた。
 演技については、杉咲とともに数々の女優賞を獲った宮沢りえの演技も見事だったが、妹の子役の演技も見事で、これは演出のうまさだろうな。

 総じて感動的でもあり、伏線を張ってちゃんと回収する、うまくもある映画だったのだが、いくらか気になった点を二つ。

 ネットでは絶賛と激しい拒絶反応の両極端がかまびすしいのだが、批判の集まっているポイントの一つである、序盤のイジメに対する物語上の扱い方には確かに違和感があった。序盤だったから、これはダメな映画なのかも、とさえ思った。
 イジメに対して「逃げちゃダメ」というのは、一般的には間違った対処だ。娘が解決のためにとった行動も適切だと思えない。およそ非現実的で映画的な奇矯を気取った、あざとい物語作りだと思う。
 とりわけ学校が、あんなあからさまなイジメに対して無作為であるはずがない。こういう描き方をされると、リアリティの水準が落ちてがっかりする。
 だが結局問題なのは母親の対処の仕方だ。あの、どうみても間違った対処は、それが間違っていることがわかってあえてあのように描いているのならば、それも選択の一つかもしれないと、最後まで観てから思えてきた。
 暴力団に対抗するのに警察の力を借りるのとは違うのだ。たかが学校の中でのできごとは、本人の力で解決すべきものだと考えるのは一つの方針かもしれない。もちろん一般にそれが難しいことはわかっている。それでも、大人が介入して解決できないほど難しいケースばかりではない。だから中学生くらいならば、現実的な解決の方法を考えるべきなのだ。解決しないでいるのは知恵と勇気が足りないだけ、というケースは多いはずだ。
 もちろん「知恵と勇気」をすべての中学生に要求するのがそもそも難しいのだが、だからといってそれを要求するという姿勢が一概にダメだということにはならない。
 問題は、そこに立ち向かう本人に対する援助はするが、問題の解決に親が直接関与しない、という方針であることを、本人に感じさせておくことだ。
 でもまあ、解決策の方法についての相談はしてもいい気はするが。実際に勇気を出すのはどうしたって本人にしかできないとしても。

 あと、ピラミッドはばかばかしくて感動的とは思えなかったし、ラストの「オチ」は気が利いているとは思いこそすれ、それも感動的ではなかった(といってネットで見られるような拒否反応が起こったりもしなかった)。それよりも、最後に題名が画面に現れた瞬間の「そういうオチかあ!」という軽いカタルシスの方が勝った。
 だが、である。肝心の「湯を沸かすほどの熱い愛」って、映画の中でどう描かれていたっけ? わりと普通の母親の愛情だとしか思えなかったが。
 題名詐欺だ。誇大広告だ。

2018年10月16日火曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 6 -相対化の果てに

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう
「逃避行」は完全なこの世界からの脱出ではなく、翌日の「水曜」には二人は「町に戻って」くる。既に主人公の救いを感じている聴き手は、その軟着陸に安堵する。
 だがこの詞=詩が聴き手に与える最大の衝撃は、2番に入って「僕」が登場することによる。
 何事かと思う間もなく「あの子」と名指される者が「姉がいたなら」と語られるにおよんで、聴き手は1番における「パートナー」「クラスメイト」が、2番では語り手になってしまったことを知る。
 この語り手の交代は、この歌の世界に何をもたらすのだろう。
 ドラマを動かし始めたのは主人公の鬱屈だったはずだ。彼はそうした主人公の鬱屈からずれたところにいることによって、彼女の鬱屈を相対化し、その閉塞感に風穴を開けたはずだった。そうした相対化の果てに、ついには主人公を第三者としてしまうのである。
 そうした、主人公を外から眺める眼差しが、主人公の内向する眼差しを解放する。
 そして無論その眼差しは、安易な同情や慰めなどでありはしない。彼女がどんな思いで「逃避行」を実行したかに我関せずと、自分は「制服に着替えて学校へと向かう」。その日常的な振る舞いが、この物語に健全さを担保する。
休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう
だからといって冷淡だというのではなく、彼は昨夜の彼女の様子を思い出してもいる。
 「海みて泣いてた」という彼女の姿を「奔放」と表現するセンスもまた見事なものだ。そんな、ドラマみたいなことをホントにやっちゃうのかあ、すげえなあ、とらわれてないよなあ、自由だなあというあっけらかんとした賞賛である。
 そしてそんな「奔放さ」を「ちょっと笑えた」と突き放してもいる。「笑える」という評言は、ともすれば「嘲笑」のニュアンスとして侮蔑的に使われることも多い表現だが、一方で文字通りの「笑うことができる」、つまりユーモラスであるという意味で使うこともできないわけではない。
 ここで彼が主人公の「海みて泣いてた」姿を「笑えた」と表現するのは、そのどちらのニュアンスも含んでいて、そこに「ちょっと」とつけくわえることで、そのどちらのニュアンスをもやわらげている。つまり、主人公の鬱屈や閉塞感に対して切迫感や悲壮感を感じて、救おうとしたり逃げ腰になったりするのではなく、それを相対化することによってその重さを軽減するのである。
 そしてその距離感のまま、「姉がいたなら」という近しさで彼女を感じてもいる。それが「別の世界」であろうとも、この精神的姉弟がこの世界にいることは神の御業である。

 主人公の閉塞感によって語り始められた物語は、クラスメイトのバランス感覚によってその鬱屈が相対化され、この世界に在ることの肯定に軟着陸する。そうしたハッピーエンドの物語が、別世界への想像によって生ずる現実への喪失感とともに、ある切なさを伴って語られる。
 見事な物語世界の創造である。 

2018年10月10日水曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 5 -「ここにいる」ことの肯定

(別の世界では) 二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

「別の世界では」という仮定は言うまでもなく、冒頭から瀰漫している現状への閉塞感の裏返しとして想像されたものである。そこでは「二人」が「姉弟だったのかも」と想像される。救いとしての「弟」が実現する世界への想像が、ここでも主人公を救う。同時にそれは手の届かない世界への憧れであり、現実に対して抱く喪失感でもある。
 さて、主人公とクラスメイトが姉弟であったかもしれない「別の世界」は「砂漠に閉ざされている」かもしれないという。「霧雨」と対極的なイメージとしての「砂漠」が「別の世界」の脅威として設定されているが、ここでもそれは「霧雨」同様、世界を「閉ざ」すものである。
 だがそこには「弟」たる彼がいる。それならば、そんな世界でも「大丈夫」なのだ。
 なんという「弟」への信頼。

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう
 そして一転して続く詩句ではわたしたちが「ここにいる」ことが確認される。現状への閉塞感から「別の世界」が希求されたはずなのに、いや、だからこそ「ここにいる」ことが確認されねばならない。別の世界への想像は、あくまで「ここ」への着地のために必要な手がかりであったはずである。
 そして「ここにいる」ことは「神様の気まぐれなその御手に掬いあげられ」た結果である。「神様の気まぐれなその御手」が「運命」の謂いであることは明らかだが、それがここでは逃げ出したい桎梏であるのか、言祝ぐべき僥倖であるのか。
 もちろんここまでの論理は、この詩句が表すものが、自分たちが今この世界にいることの肯定であることを示している。運命という神様は「気まぐれ」であろうとも、気まぐれであるからこそ、自分たちがこの世界にいることが何らかの悪意によるものではないことを信じられる。
 そしてその在り方は「掬いあげられ」たものである。「掬う」が「救う」の連想に通ずるのはもちろん、「掬う」というその無造作な手つきが、そうしてこの世界に在る自分の存在への諦念と、それゆえの平穏を用意しているのである。
 無論こうした「諦念」は、希望の挫折として強要されたものではなく、「逃避行」の実行と、それに同行する「弟」の存在によって、主人公の腑に落ちるように訪れたものだ。

2018年10月4日木曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 4 -「弟」という救い

承前
  サービスエリアで 子どものようにはしゃぐ
  クラスメイトが呑気で わたしも笑う
  弟がいたなら こんな感じかも
  愚かしいところが とても似ている

 逃避行のオートバイは高速道路に入り、二人はサービスエリアに立ち寄る。彼にとってこのツーリングはむろん深刻なものではなく、そして高校生が高速道路に乗ることが日常的であるわけでもないだろうから、彼が「はしゃぐ」のも無理はない。
 そうした彼を「子どものように」とか「吞気」とか言う「上から目線」な言いぐさは、それに続く「弟がいたならこんな感じかも」という感想に着地するのだが、こうした彼の無邪気さが主人公にとって救いになって「わたしも笑う」。自分の抱えている鬱屈から彼が救い出してくれるわけではなく、共感を寄せるでもなく、むしろ他人の鬱屈に頓着しない彼が、主人公の閉塞感を相対化することで結果的に主人公を救っているのである。
 そうした、「王子様」でも「ヒーロー」でもなく、ただ傍にいながらマイペースに振る舞い続ける同行者が「弟」になぞらえられるという、この隠喩としての「弟」のイメージは新鮮だ。
 2番で「姉」と表現されることから、主人公は女の子である。主人公と彼の関係が姉と弟になぞらえられることはどんな意味をもっているか。
 パートナーが同性の兄弟であった場合、「姉」にしろ「妹」にしろ、主人公にとって直截に上下関係になりかねないから、こうした絶妙な距離感が生じない。
 「親」は私を救っても支えてもくれるかもしれないが、同時に抑圧するかもしれない。そもそもの「気が狂いそうな」状況こそ、「親」という存在がもたらしているものではなかったか?
 そして「兄」では主人公を救ってくれそうではあるが、同時にそこに生ずる依存心が主人公のバランスを崩してしまうかもしれないのだ。
 だからこそ「弟」である。彼を「上から目線」で見ながら、その吞気さにつられて笑ってしまうというバランスが、彼女をその閉塞感・鬱屈から救うのである。
 なおかつ、本当の肉親である弟がいつでもこんなふうにさりげなく私の救いになるわけではないから、クラスメイトとして設定され、なおかつそれが「弟」というイメージで語られる、というこの屈折した表現の驚くべき絶妙さは、本当に見事だ。
 だから「愚かしい」もまた愛情の裏返しである。弟を愚かしいと表現することで彼女は救われる。
 それにしても「弟がいたならこんな感じかも」と言っておいてそれが「可愛い」や「頼りになる」ではなく「愚かしい」と表現されることにもニヤリとさせられつつ、それに続く「愚かしいところがとても似ている」に驚かされる。「弟がいたなら」といっている以上、弟はいないはずなのに、「とても似ている」では弟の存在が前提されてしまっているからだ。すっかり、弟は実在することになっていて、その確定的な属性は「愚かしい」ことなのだという。「弟」というのはすべからく「愚かしい」ものであるべきなのだ。
 こうした論理の飛躍と、その断定された前提が、しかし聞く者にあたかもデジャブのように腑に落ちる措辞には本当に驚嘆させられる。

2018年10月1日月曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 3 -冴えないパートナーの肖像

承前

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから
さて、続く詩句の中で「逃避行」と表現されるのが、最初の「家出」の言い換えであることは直ちにわかる。同時に、最初の考察によって想定された「閉塞感」からの脱出が主人公の欲しているものだという納得も訪れる。だがこの日常からの「逃避」を、主人公は独りでは行わない。
 かねて「計画」していた「家出」には「パートナー」がいるのである。家出が計画されたものである以上、「彼」の存在もまた、予め計画に組み込まれたものだ。
 彼をパートナーとして選ぶ条件として大きな要素は「オートバイを持っていた」ことである。家から離れるにあたって、徒歩や自転車、公共交通機関は想定されていない。大学生では「家出」にならないだろうから、この主人公たちが高校生(ぎりぎり早熟な中学生)だろうと想定されるというのは前回の考察によるが、とすれば我々の常識からすると「オートバイ」のもつ適度な反社会性は、日常性からの脱出たる家出の手段としてふさわしい。
 だがその持ち主たる「クラスメイト」には、反社会的なパーソナリティーの持ち主というには似つかわしくない「冴えない」という形容が冠せられる。冴えない男子生徒をパートナーとして選ぶところに、またもや主人公の躊躇いや怖れがほの見える。本当に反社会的な相手との、全面的な社会からの離脱を望んでいるわけではないのだ。
 さて、彼のパーソナリティーは「冴えない」だけではない。もう一つ、彼が「逃避行のパートナー」として選ばれた理由は、彼が「無口」だからである。
 この「無口」であることと「オートバイを持っていた」ことという、パートナーにふさわしい二つの条件を語るときに「~うえに」という大仰な接続によって並列されていることが、巧まざるユーモアを生んでいる。
 「~うえに」とは、並列された両者を、同時に強調する。一つだけでも大変なことなのに、というニュアンスを感じさせる。
 つまり読者は、彼って「無口」なのよ、逃避行のパートナーにうってつけでしょ! と宣言され、それを共通前提とされてしまうのである。「オートバイを持っていた」ことは確かに逃避行に好都合である。だが「無口」なのはどんな善き事なのか。それを我々はいつ了解したというのか。
 むろん「無口」なことは美徳である。主人公は、この家出の動機やら経緯やらについて、彼がしつこく聞いてきたりはしないだろうと期待しているのである。自分の思い、自らの抱える鬱屈を誰かに伝えたいわけではない。話してしまえばそれが他人にとっては、もしかしたらつまらぬものでしかないかもしれないということに、主人公は自覚的である。それでも主人公は話してしまうかもしれない。だが、それに尤もらしい気の利いた返答などしてほしくはないのだという、前もって示された密やかな拒絶に、主人公の躊躇いや怖れがほの見える。それがパートナーに「無口」であるという条件を要求する。
 そうした躊躇いや恐れは、くりかえすが、自分の姿を客観視するバランス感覚でもある。この距離感が心地よい。