2018年10月1日月曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 3 -冴えないパートナーの肖像

承前

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから
さて、続く詩句の中で「逃避行」と表現されるのが、最初の「家出」の言い換えであることは直ちにわかる。同時に、最初の考察によって想定された「閉塞感」からの脱出が主人公の欲しているものだという納得も訪れる。だがこの日常からの「逃避」を、主人公は独りでは行わない。
 かねて「計画」していた「家出」には「パートナー」がいるのである。家出が計画されたものである以上、「彼」の存在もまた、予め計画に組み込まれたものだ。
 彼をパートナーとして選ぶ条件として大きな要素は「オートバイを持っていた」ことである。家から離れるにあたって、徒歩や自転車、公共交通機関は想定されていない。大学生では「家出」にならないだろうから、この主人公たちが高校生(ぎりぎり早熟な中学生)だろうと想定されるというのは前回の考察によるが、とすれば我々の常識からすると「オートバイ」のもつ適度な反社会性は、日常性からの脱出たる家出の手段としてふさわしい。
 だがその持ち主たる「クラスメイト」には、反社会的なパーソナリティーの持ち主というには似つかわしくない「冴えない」という形容が冠せられる。冴えない男子生徒をパートナーとして選ぶところに、またもや主人公の躊躇いや怖れがほの見える。本当に反社会的な相手との、全面的な社会からの離脱を望んでいるわけではないのだ。
 さて、彼のパーソナリティーは「冴えない」だけではない。もう一つ、彼が「逃避行のパートナー」として選ばれた理由は、彼が「無口」だからである。
 この「無口」であることと「オートバイを持っていた」ことという、パートナーにふさわしい二つの条件を語るときに「~うえに」という大仰な接続によって並列されていることが、巧まざるユーモアを生んでいる。
 「~うえに」とは、並列された両者を、同時に強調する。一つだけでも大変なことなのに、というニュアンスを感じさせる。
 つまり読者は、彼って「無口」なのよ、逃避行のパートナーにうってつけでしょ! と宣言され、それを共通前提とされてしまうのである。「オートバイを持っていた」ことは確かに逃避行に好都合である。だが「無口」なのはどんな善き事なのか。それを我々はいつ了解したというのか。
 むろん「無口」なことは美徳である。主人公は、この家出の動機やら経緯やらについて、彼がしつこく聞いてきたりはしないだろうと期待しているのである。自分の思い、自らの抱える鬱屈を誰かに伝えたいわけではない。話してしまえばそれが他人にとっては、もしかしたらつまらぬものでしかないかもしれないということに、主人公は自覚的である。それでも主人公は話してしまうかもしれない。だが、それに尤もらしい気の利いた返答などしてほしくはないのだという、前もって示された密やかな拒絶に、主人公の躊躇いや怖れがほの見える。それがパートナーに「無口」であるという条件を要求する。
 そうした躊躇いや恐れは、くりかえすが、自分の姿を客観視するバランス感覚でもある。この距離感が心地よい。

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