2014年11月30日日曜日

週末

 そういえば前にも同じ題名の記事があったような。
 週末のことをまとめて書いておく。こういうのは単に自分のための日記。
 時々触れていた息子の入試は(まあ本人はこんなところで公の場にさらされたくはないだろうが)、木金で終了。とりあえず。本人曰く、入試本番はめっちゃテンションが上がって楽しかったというのだから豪胆と言おうか前向きと言おうか、なんともはや。聞くと、小論文のテーマと彼の書いた内容にはズレがあるような気もして安心はできないのだが、本人に後ろ向きな感情が湧いていないらしいことには安心。結果が出るまではさっさと切り替えて一般試験用の勉強を続けている。大したものだ。

 土日に新人戦の県大会だが、土曜の午後は東京で二つの会議を梯子する。その移動の途中で明治神宮外苑の銀杏並木を縦走して、駅までを遠回りしてしまった。もう日が落ちていたから、銀杏の黄葉もライトアップされていたのだが、そこら中でそれを撮影している人がいて、なるほどと思い、私も。










それにしてもここまでひどいとは、ガラケーの画面ではわからなかった、とは言い訳だが、センスのないのにもほどがある。
日曜日に天台のスポーツセンターの敷地で撮った「名もない」銀杏並木の方が、よほど綺麗に撮れてる。
 こちらが東京に出て娘1のところに泊まっている間、娘2と妻は金沢で「ざぶん賞」(「ザ文章」ではない)とかいう作文コンクールの授賞式に出席していた。「募集する文は、海や水に関わることであれば、環境問題に限らず安全、文化などテーマを広く選べること、また表現方法も作文や童話、詩、手紙など選択できます。」というのだが、どうも主催団体がどんなものなのかわからないところが怪しい。一応文科省や環境省が後援ではあるのだが。
 だが帰ってきて様子を聞くと、授賞式はそれなりだったようで、出品作品の娘の文章にプロのアーティスト(というか大学の先生:千葉千司:文星芸術大学美術学部・准教授)が絵を付けてこんな額に入っていたり、
入賞作品がちゃんとした文庫本になっていたりする(いかにもの「文集」の体裁でないところが)のをみても、なんだが金がかかっている。さすがわざわざ金沢くんだりまで授賞式だとかいって千葉の人間を喚び出すだけのことはある。珍しい経験に本人は喜んでいたが、こちらも嬉しい。授賞式が終わるまで読ませてもらえなかった肝心の入賞作品は、これで初めて読んだのだが、侮れない。すまん、侮っていた。申し訳ない。これほどとは。
 帰ると、「一人暮らし」モードだったという息子は家から一歩も出ずに勉強していたのだと。
 というわけで子供の自慢話二題。

2014年11月25日火曜日

『孤独な嘘』『婚前特急』

 忙しい時間の隙間を縫って、ハードディスクの残量がカウントダウンになりつつあるのを気にして、録画されている映画を観る。
 『孤独な嘘』(「Separate Lies」監督:ジュリアン・フェロウズ)は「アカデミー賞スタッフによるサスペンス」という触れ込みに釣られて観てみると、監督はこれが初監督作品なのだった(プロデューサーや出演者がアカデミー賞受賞者のようだ)。それが後で調べてわかって驚くほど、堂々たる画面構成で、演出で、編集の、格調高い映画だった。すっかりベテラン監督の風格だと感じたのだが。
 が、お話としては、あれでいいのか! という不全感が強い。自分に置き換えて納得できる範囲を超えている。交通事故で人を死なせて隠蔽したままでいいのかとか、妻の不倫をあのように容認したままでいいのかとか。もちろんサスペンスでもない。それは許すとしても、ああ共感も感銘もなく、映画的表現のレベルの高さだけが際だつ作品をどう受け止めたものか。


 一方、日本映画の『婚前特急』(監督:前田弘二)もまた、偶然にも初監督作品だった。なおかつこちらも、あれでいいのか! という不全感が強い。『孤独な嘘』同様、こちらもネットでは「納得できない」コールが激しいが、むべなるかな。吉高由里子が、気の迷いのように浜野謙太と結ばれてしまうのが、どうみても結局気の迷いのようにしか感じられなくて。それなりに納得できる面もあるよ、とかいう余地の無いほど、ハマケンの演じる男はどうしようもないと思うんだが。
 でもなおかつ、悪くない映画だった。吉高が可愛かったとかいうのも認めてもいいが、『孤独な嘘』などとはあまりに対照的な日本映画的、手作り感が。
 それと、途中のワンシーンがあまりに印象的だったのに驚いた。ハマケンのアパートに向かう吉高が街を歩くシークエンスが長々と挿入されているのだが、この街の風景が、なんだかこの世のものではないような感じなのだ。視界に人影がなく、強い風が街路樹や吉高の髪を靡かせる。ふてくされたような、放心したような表情で、体を投げ出すように歩く吉高の感情も、言葉で掬いきれない複雑なもののように感じられる。吉高からかなり遠い向こうにある樹のざわめき方からすると、あの風はロケ当日に偶然なのか狙ってなのか、実際に吹いていたのだろうと思うが、それがどうしてあんな違和感を感じさせるのかわからない。太陽の位置も判然とせず、「朝」だとか「昼」だとか「夕方」だとか名づけられるような、どういう時間帯だとも言えない。
 そしてそうした街角を望遠で平面的に捉えておいて、手前に吉高の脚が焦点の合わないまま表れたかと思うと、低い位置に置かれたカメラから遠ざかるように奥に向かって歩くにつれて平面的な街に嵌め込まれるに焦点が合っていく。それでも縮尺から、奥行きはあるようにも見える住宅街は人影が絶えて、遠くの方で樹がざわめいている。
 こういうカットが撮れるのは「センス」によるものか。それとも私が知らないだけで定番の技法なのか。いずれにせよこのカットだけでハマケンも許す。
 ところでハマケンって、在日ファンクのあの人か!

2014年11月24日月曜日

小論文3

 夜中までスライドショーの編集で、今日は部活に行って、で、帰って夕飯のカレーを作ってから今日の分の小論文指導を。今日だけで4本。この週末に13本だ。正味20時間くらい? それに対する指導時間も10時間くらいは費やしているか。
 だが問題文を読んでいると寝てしまって、なかなか頭に入ってこない。昨日書いたとおり、もうあれこれ言う余地のないものもあるが、それでもせっかくだから誤字を探したり、微妙に主述の乱れているところをみつけて指摘したりもする。今日の4本の中には問題文の読解を失敗していて、致命的だったものもあるし、問いに十分答えることなく紙幅の尽きてしまっているものもあるが、ともあれ、こうして一つ一つ、次に「使える」定見が増えていくことは大いなる成果だ。半分くらいは前に展開したことのある論旨の使い回しになりつつある。テーマの範囲がある程度決まった小論文の対策として、数をこなすことの成果はこれだ。
 だが本当は、高校時代、授業中などに読んだ評論などが、同様に使える「パターン」「定石」となるのが好ましい。多くの高校生にはそこまで授業の成果を自分のものとすることがないままで、いざ小論文に使えるのはワイドショーのコメンテーターの受け売りくらいだったりする。惜しいことだ。教科書に収録されている評論の受け売りができれば上出来なのに。

2014年11月23日日曜日

小論文2

 いよいよ本番が目前に迫ってきた息子は、金曜日から今日までの三日間で計9本もの小論文を書いてきた。1本1時間半としても単純に合計すると13時間半。問題選定の時間も含めるともっとかかっているはず。なんという集中力。
 で、次々とこちらに持ってくるのだが、これを、1本2~3時間かけて検討している時間は無論無い。こちらもここんとこ修学旅行のビデオ編集とスライドショー作りに膨大な時間を取られていて、寝不足の毎日。結局1本あたり1時間も時間をとれていないで、最低限の検討会をこなしていく。彼も初期の頃より格段に練度が高くなってきて、もうそれほど駄目出しをする余地がなくなっている。というか、文章の完成度は恐ろしく高い。同時にたまたま、それほど考える余地のない問題が続いているともいえる。考えているうちに新しい認識が訪れるスペクタクルが展開されるわけでもない。手堅くまとめているという印象のものが多い。この段階ではこれで良しとするか。
 三連休の明日はさらに2~3本書いてくるんだろうな。あと何本見られるか。どこまでつきあえるか。

2014年11月20日木曜日

オペラ

 今年の芸術鑑賞会はなんとオペラ。ほんとかよ、と思っていたら、本当にオペラだった。しかも「カルメン」。ただしフルオーケストラは無理で、ピアノとパーカッション2台。でも役者たちは本格的にうまかった。
 だが、やはり起き続けてはいられなかった。そんな状態で感想を言うのも不遜だが、やはりどうにも入り込めなかった。歌の部分は台詞も聞き取れないし、物語が感情移入できたりスペクタクルだったりすることもなく。
 だいたい昔からミュージカルもだめだった。この間のJersey Boysなどは、劇中ではっきりと演奏をするという設定で演奏するのだから、全く問題はないのだが、お芝居の一部として、台詞を歌ってしまうような演出には全然ついていけない(たしかタモリもそんなことを言っていた)。オペラも同様だった。
 申し訳ない。良い観客ではありません。

2014年11月15日土曜日

カスタマー・レビュー

 Amazonから届いた北園みなみとウワノソラを一通り聞いて、カスタマー・レビューに投稿。

北園みなみ『PROMENADE』
 わかった。天才だ。認める。作曲・編曲に、演奏だって? このレベルで鍵盤楽器もギターもベースも弾けるって、どういうことだよ。
 そもそもLampから辿り着いたのだが、Lampやキリンジ、流線形や青山陽一あたりを挙げておけば、北園の音楽の心地良さは想像して貰えるだろうか。
 それにしても、SoundCloudの音源から聴いている者としては、例えば「ソフトポップ」などは原曲である「Dorothy」と比べて、実に音数が増えてその一音一音がセンスの閃きに満ちているし、録音もそれなりに金のかかった贅沢な感触になっているのだが、それでも「Dorothy」はそれはそれで良い。さらにチープな「Dorothy」のDEMOバージョンですら、既に充分に良い。やはり根っこのところで既に天才なのだな。
ウワノソラ『ウワノソラ』
 北園みなみのリコメンドに誘われて聴いてみると、これは好みだ。北園みなみやキリンジのような「天才」に圧倒されるわけではないが、このまま精進してLampのような陰影のある曲が増えてくることを期待したくなる好感大のグループ。世代的には「あっぷるぱい」に近いが、印象としてはadvantage Lucyに近いか。
 多くは16ビートのギター・カッティングに乗せた、トニックやサブ・ドミナントを基本、メイジャー7thにするという、日本ではシュガー・ベイブに始まって、ゼロ年代には流線形が、2010年代にあっぷるぱいが継承してきたるキラキラしたポップ・ソングたち。細かい転調が散りばめられているのもこの手のジャンル好きには嬉しい曲作りだ。流線形のクニモンド氏の歳ならこうした70年代風のサウンド作りも腑に落ちるが、どうして90年代に生まれた彼らがこうしたサウンドを生み出しているんだろう。とはいえadvantage Lucyでさえ、結成から20年近く経っているなんて聞くと、時間の感覚が混乱してしまう。
 というわけでオールタイムで聴ける、いわゆるエバーグリーン・ミュージックです。
 ものんくるの『南へ』の一番乗りをしようと思っているうちに見てみるともう3人のレビューが載っていて、出遅れた。といっても、何が書けるかちっとも思いつかないのだが。

 高野文子の『ドミトリーともきんす』も、買って読んだら、やはりなんらかの感想を言わねばなるまいと思うのだが、数年ぶりに『棒がいっぽん』など読んでみると、どうにも語り口がみつからずに途方に暮れてしまう。やはり「よくわからないけどあきらかにすごい」のだった。

2014年11月13日木曜日

「こころ」7 ~「進む/退く」

 前回の「覚悟」をめぐる考察は、ともすれば「覚悟」という言葉にこめられた「K」の真意は何か? という点を直ちに問題にしがちだが、その前に、「覚悟」という言葉がどのような機制によって、「私」によって正反対の意味に解釈しえたのか? という問いの重要性について、再び強調しておきたい。
  単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。「~する覚悟」の空欄部分に代入されるべき適切な行為は、前後の文脈のどこかに示されてあるはずであり、また、他の部分との整合性がとれるはずである。だからこそ「覚悟」は最初、当然のように「お嬢さんを諦める覚悟」だと読者に理解されるのである。だが、同じ文脈に置きながら、それが「お嬢さんに進む覚悟」の意味にも解釈されうるよう、周到に調整された設定と文言にこそ、読者は驚嘆すべきである。
  だが、さらにこれが「K」の真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの凄さは、一般には理解されていないはずだ(言ってしまえば、ほとんどの国語教師にも)。だからこそ、「私」の解釈とは違って、「K」の言う「覚悟」は自らを処決する覚悟なのだと、あっさりと、尤もらしく語ってしまう。そしてだからこそ、ともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟」でもあると同時に、とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られるのだ(某指導書のように)。
  だが、「お嬢さんを諦める覚悟」があるのなら「K」は死を選ぶ必要はないはずである。「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを処決する覚悟」は両立しない。
 あるいは「卒然」から、この時「私」が口にした「覚悟」という言葉によって、「K」は「卒然」自殺を「覚悟」したのだ、などとする解釈もしばしば目にするが、これも「覚悟」という言葉の重みに釣り合っていない。「明確でないにせよ何らかの形で処決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」と呼んでわかったつもりになっている読みの甘さも、多くの評者に見られる不徹底だ。
  「K」の言った「覚悟」はやはり自ら死を選ぶ「覚悟」である。だがそれはいささかも「お嬢さんを諦める覚悟」でありはしないし、方向の明確でない曖昧な「覚悟」でもないし、この時に「卒然」浮かんだものでもない。「K」はそもそもお嬢さんのことなど話してはいないし、方法はともかく決着点としての死を明確に意識したうえで、以前からその「覚悟」を胸に秘めていたのだということが納得されるためには、以下に示すような手順で読解していく必要がある。 

 40章、「私」と「K」の会話の始まり近くに次の一節がある。
彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
  この「進む/退く」はそれぞれ何を意味しているか?  これが「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」というような解答を用意しているだけなら、単なる「確認」に過ぎない。問題は、どうしてそのような解釈が妥当だと考えられるのか、である。したがって、そう考えられる根拠を述べよ、と問わないことには、「確認」する意義もない。その先に何らの展開も準備されていないからである。とはいえこの問いもまた生徒には簡単にはその意図するところが理解されない。
  「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルの存在を前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、「前」に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのである。それはどこに書いてあるのか?
 質問の意図がわかってきたところで、40章の「恋愛の淵に陥った彼」という箇所を挙げる者も多いが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではないとして、それだけで充分な根拠とはみなさない。ではどこを挙げればいいか。挙がりにくければ場所を指定して探させる。
  近いところから直ちに挙げられる根拠は次の通りである。
 「彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした」 「こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです」(40章)
「私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです」(41章)
  このうち41章は「K」が「進む/退く」と口にするより後なので、40章の該当箇所を読んだ時点で「進む/退く」が「恋に」の意味であると読者が理解する根拠にはならないが、再読する読者の存在も含めて「進む/退く」の解釈を支える根拠の一つであると考えていい。
 さて、ここまでで、結局「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈でいいんだな、と意味ありげに念を押しておく(こういう教師の態度に生徒は敏感に反応する)。
 そのうえで41章の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連の「K」の人柄についてのひとくだりの解説中にさりげなく置かれた「精進」「道のさまたげ」「彼が折角積み上げた過去」「Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する」などの表現を指摘する。板書しておいて再考を促し、意味ありげな沈黙を置く。というか、種明かしなど、こちらから決してしてはならない。だれかが然るべき結論に辿り着くまで待たねばならぬ。
  これらの表現から導かれる結論とは、「進む/退く」とは「今まで通りの道を進む/道を退く」という解釈である。当否は後回しにしても、ここまでの誘導に従えばそうした結論に辿り着くのは難しくはない。
  これは上の「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈と、「前後」の方向性がほぼ反対を向いている。これら相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?
  どうも何もない、自然な読者は間違いなく「お嬢さんに」という意味で「進む/退く」を解釈するのだから「道を」などという解釈が所詮無茶な穿ち過ぎなのだと考える人はいるだろう。が、授業という場で教員が意味ありげに提示した解釈だから生徒は粗略に扱う訳にもいかず、とりあえず検討せざるを得ない。そう考えてみると「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かってとも言っていないのだから、それを補う根拠がありさえすれば、その解釈はどうとでも成立するのである。
  どっちかと惑わせるために、「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してその一節を朗読して聴かせる。つまり、
K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」
私「退こうと思えば退けるのか」
というやりとりを次の二つの解釈で読んでみせるのである。
K「このままお嬢さんに突き進んでいいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」
私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」
K「今まで通り精進を続けていればいいか、道を棄てていいか、それに迷うのだ」
私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」
 それなりに説得力があるように、多少の芝居もしてみせる。クラスの中でそれなりに信頼を集めている何人かの生徒の意見が二つの解釈の間で分かれればしめたものだ。どっちが妥当であるというために、どんな根拠を提示すればいいのか、生徒たちは考える。
  とはいえ、この「どちらか」はつまるところ決着がつかない。つけるつもりはそもそもない。だから、潮時を見て、この二つの解釈のそれぞれの妥当性をどう納得すればいいか、という方向に思考を修正する。あるアイデアが思いつけば、この問題は解決するよ、とアドバイスしておく。
 さてここからが問題だ。この問いの明確な「答え」に誰かが辿り着くまで待つことはこの授業展開の必須条件なのだが、この「誰か」がすんなり出ないときはどうするか。今年度の4クラスでは2クラスが比較的早い段階で「答え」に辿り着いた。クラスの中で誰か一人がそこに辿り着けばいいのだ。だが残る2クラスではまだ「どちらか」に引きずられて、なかなか目差す「答え」に辿り着く者が表れなかった。
 誘導するか保留にして先に進むか。
 たとえば難航したクラスでは保留のまま先へ進んだ。次の展開は「私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。」の「退く」をそれぞれの解釈によって言い換えることである。誘導で何とかなりそうだと思えたクラスでは「この文章はそもそも日記なのだから」という「語り手」という存在に着目する意見が出て(結局その段階では辿り着かなかったものの)、そこがヒントになることを強調して待った。
 この問題に対する「答え」とは、つまり「K」は「今まで通りの道を進む/道を退く」という意味で「進む/退く」と言ったのだが、「私」がそれを「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味で受け取ったのだ、という解釈である。二つの解釈はどちらもそれぞれに正しい。二人はお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話を続けているのである。

  さてそろそろこの先を続けるのをやめようか。どこまで書くかずっと迷っていたが、きりがない。この先の展開については既に然るべきところで公開していることでもあるし、同じ事をまるきり同じ手間で書いているばかりになってしまっているのに、いささかの徒労感も覚える(でも文章は今まるっきり書き下ろしているのだ)。
 だがやはり少々つけ加えておきたい。上の「答え」については、これまで、ある程度の数の国語教員に対して提示しているのだが、それに対する二つの反応に今まで驚かされてきた。
 一つは、それってもちろんそうだよねえ、という反応である。もともとそう思っていた、殊更に言い立てるような特別な解釈ではない、というのである。
 って、ええっ!? わかってたの?
 私自身が先のような結論に至ったのは、「こころ」を最初に読んだ高校生の頃からどれほどか読んだかわからないほどくりかえし読んだ末の、ある時に他人の教示によって導かれた可能性を検討していくうちに不意に訪れた、いわゆる「コペルニクス的転回」とも言える認識の転回によるものだった。そしてここを転換点として「こころ」は全く別の小説として新たな相貌を現したのだった。それが、そもそもそうなんじゃないの、などど当たり前のように受け取られていい解釈とは思えないのだが。
 前からそうだと思ってたっていう人はそれが「こころ」の解釈として特殊な部類に属する、少数派であることを自覚してはいないのだろうか。ほとんどの人は上のような解釈には至らずにこの部分を読み流しているというのに。そして、この部分をそのように読むことがどれほど劇的な読みの変更を読者に迫るかに気づいているのだろうか。というか、そもそもこの部分について、こうした授業展開をしているのだろうか。
 もう一つは、上の解釈を知った上で、やはりそうは思えない、という反応である。やはり「進む/退く」は「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」と考えるべきであり、「精進/道を捨てる」などという解釈は採れない、というのである。これもまた、ええっ!? である。一度でもこうした解釈の可能性を知って、それを本気で検討してみれば、ここはもうそのようにしか読めないと思うのだが。
 実はどちらの反応の人ともちゃんとその点について話したことがなく、「当然」と言う人も「納得できない」と言う人も、どう考えてそのような不可解な反応になってしまうのかがわからない。私が話す機会があったのは、半ば強引に首肯させられてしまっているに違いない生徒たちや、本当に納得してくれる教員ばかりなので。
 うーん。興味深い。知りたい。どうなんだろ。ほんとのところ。

2014年11月12日水曜日

高野文子

 最近、新聞の書評で高野文子の12年振りの新刊が出ていることを知って驚いたのだが、今日、大修館の出している『辞書のほん』というフリーマガジンで連載されている穂村弘の対談「よくわからないけど、あきらかにすごい人」の今月号のゲストが高野文子だったのを見つけて再度びっくり。
 高野文子は卒論でも言及した、思い入れのある存在なのだが、連載名の「よくわからないけど、あきらかにすごい人」は、ほんとうに高野文子のためにあるような形容だ。未読だが先月号のゲストが萩尾望都で、彼女が「自分以降のマンガ家ですごい人は?」と訊かれて高野文子と即答したのだそうだ。おお! 萩尾望都にそう言わしめる高野文子はやっぱり「すごい」が、まあ多くのマンガ読みがそう思っているのも間違いない。そして高野文子も萩尾に導かれてマンガを描き始めたのだとか、自分に近い存在は樹村みのりだと言っていたりするのを読んで感慨に耽る。樹村みのりもまた私にとっては大学生の頃からの最重要作家なのだった。
 高野の新刊『ドミトリーともきんす』もいつ買うかは単に時間の問題で、買わないという選択肢はないが、さて、読むのは怖い。読んで「面白かった」とかいう腑抜けた感想を書く訳にもいかないだろうし。とりあえず『棒がいっぽん』と『黄色い本』を読み返して、準備体操をするか。

 昨日注文した北園みなみの『PROMENADE』とウワノソラの『ウワノソラ』がもう配達されてびっくり。amazonnおそるべし。ルルルルズも注文してしまえばよかったか。

2014年11月11日火曜日

『麒麟の翼』『ヒッチャーⅡ』、ウワノソラ、ルルルルズ

 『麒麟の翼』は「ガリレオ」シリーズもそうだが、それなりに謎のピースが嵌っていく後半へ向けて快感もあるものの、感動はない。阿部寛のお説教は「誰も守ってくれない」の佐藤浩市を思い出させたし、松坂桃李の暑苦しい演技は「ツナグ」の悪夢再びというような気がして見たくなかった。うーん、原作読んでもおんなじような感想になるのかなあ。

 『ヒッチャーⅡ』は、あまりの駄目さに感想を書く気力も湧かない。これこれが充分に言いたいことを言ってくれている。むしろこれらのブログ主の分析力や文章力がすごい。気合いもすごい。両方のブログ主ともに「ヒッチャー」第一作については傑作との評価なので、そちらは機会があれば観よう。
 ところで殺人鬼のジェイク・ビジーって俳優がどうも見覚えあるなあと思ったら、『アイデンティティー』のあの護送される犯罪者か! しかも「ヒッチャーⅡ」と同じ年の映画なのか、あの傑作は。

 ということで映画は2本ともはずれだったが、音楽の方は良いのを見つけて満悦。
 北園みなみがとうとうメジャー・デビューということで早速amazonで注文。そこでリコメンドされているウワノソラとルルルルズに一聴惚れ。

ウワノソラ - Umbrella Walking ルルルルズ 『All Things Must Pass』 MV

他にも↓


2014年11月10日月曜日

『エクスペンダブルズ』12

 「3」が公開されるのにあわせて「エクスペンダブルズ」の「1」「2」が地上波や衛星で複数回、テレビ放送されてる。前にあんなことを書いた義理もあって、録画しておいたものを観る。休みにまかせて一日で2本とも。
  いやはや「やり過ぎ」感はキャスティングだけにとどまらない。アクションも、これでもかという「やり過ぎ」感に満ちている。いや、面白かったけどね。ストーリーはそれなりに起伏に富んでいてハラハラしたり、ワクワクしたり、機知に富んだ会話にニヤリとしたり、悪くない。何よりアクションのレベルの高いこと。ジェット・リーのカンフー・アクションはまあ当然として、ジェイソン・ステイサムの合気道風な動きとナイフ捌きを混ぜた殺陣はうまかった。爆撃やら銃撃やらカーアクションやら、これでもかの天こ盛りで、わずか数秒のカットにどれほどの手間と金がかかっているんだろうというようなアクションが、湯水のように流れ去って、目が追いきれない。勿体ない。贅沢というにも気が引けるほど、「勿体ない」というべき密度。
  それにしても、あの仲間の命と敵方の命の重さの、あまりの不均衡をどう受け止めたらいいのか。敵は全くシューティングゲームの的でしかない。それを薙ぎ倒す快感を認めるべきなんだろうと思いつつ、それを等閑視して、仲間の死を悼んで良いものか。とするとどうしても人間ドラマが弱くなるんだよなあ。
 ところでランディ・クートゥアが主役メンバーの一人として出演しているのは嬉しかった。敵方の肉体派ラスボスを倒す重要な役どころを割り当てられているとは。一方でノゲイラ兄弟は、かろうじて画面の中に認められるだけであっさり死んでいく敵方の兵士の一人。それもまた勿体ない。

2014年11月9日日曜日

帰朝、『Jersey Boys』

 台湾の話は無し。書き出すときりがないし。
 それより行き帰りの機内で『Jersey Boys』を観た。これは良い映画だった。クリント・イーストウッドにハズレなし。何より音楽が良かった。まあミュージカルなんだからそこを外す訳にはいかないが。忍び込んだ教会ではじまる合唱や終演後のクラブではじまるセッションの素晴らしいこと。そして、ミュージカルの苦手な私にも、ラストシーンのダンスにはこみ上げるものがあった。あれを原作のように舞台でやられるとどうなんだろう。映画では奥行きのある画面でストリートを歩きながらダンスするという様式美があって、その進行に物語の時間の流れがシンクロして再生されるような印象があるんだが、観客席から観て平面的な空間で繰り広げられる舞台劇のダンスでもそういう印象が表現できるんだろうか。
 ドラマとしてももちろん面白い、感動的なものだが、ふと、こういう、栄光と挫折という人間ドラマということなら、この間の「敵はリングの外にいた」なども同様の面白さだったよな、とか連想してしまう。それにしては金のかかり方が桁違い。それだけに「敵は…」は良い仕事だったということだが。
 ところで、「ジャージー・ボーイズ」という邦題を聞いたときは「Jazzy Boys」(「Jazzy」=活気のある・派手な・けばけばしい)なのかと思ったが、出身地のニュージャージーに因んでの「Jersey Boys」なんだそうな。それにしても「Jazzy」って、「ジャズっぽい」って意味で使っていたが、「ジャズ」ってのがそもそもそ「派手な・けばけばしい」なのか。日本語の「かぶく」だな。「歌舞伎」の語源になってる。

 飛行機の中ではもうひとつ、「Lucy」の最初の30分くらいを観たが、舞台がさっきまでいた台湾だったのが妙な偶然ではあった。

2014年11月5日水曜日

明日から

 明日から台湾で4日ほどブログお休み。まあ毎日更新ではないから特に珍しい空白でもないが。「こころ」シリーズの更新も、準備はしていたのだが果たせず。ブログらしく旅の記録なぞする予定もなく、帰朝してから何事もなくまた更新するんだろうな。

2014年11月2日日曜日

 『88ミニッツ』、散歩

 『88ミニッツ』なる深夜映画を録画。サスペンスだかホラーだかという宣伝だったのだがどんなのか不明だったので、休日の徒然に午前中から観てみる。何だか妙な急展開で裁判シーンになって、証人で出てきたのがアル・パチーノだったので、あれ、こいつはちゃんとした映画なのかいなと思い、続けてみてみると、とりあえず謎で物語を引っ張る。車を爆破したりして、妙なところで金がかかってもいる。題名の「88ミニッツ」が、殺人予告のあった途中から、映画と物語中の時間をシンクロさせるという例の手法で描かれるのだとわかって、興味も引かれる。
 だが、結局バタバタしたまま強引に終わるB級サスペンス映画だった。ネットでも口々に「登場人物が把握しきれないうちに終わる」「人物に思い入れも持てないうちに殺される」と、やっぱり、な感想だった。それにしてもあちこち謎だ。冒頭でアル・パチーノと一夜を共にした女が、朝、全裸でY字バランスをしたまま電動歯ブラシで歯磨きをして登場するんだが、この衝撃的な登場が、何ら意味をもっていないのが凄い(さらにどうでもいいが、行きずりの女がどうして電動歯ブラシを持っている? 家主の歯ブラシを勝手に使ってる?)。この女、後で「出張ホステス」だったことがわかり(原語は何だ? コールガールか?)、その後で殺されてしまうんだが、連続殺人犯のトレードマークの、ロープで片足を吊すという殺し方が、ちょうどY字バランスを逆さまにしたポーズのようにも見えるが、その伏線かと考えるのはあまりに無理矢理か?

 昼過ぎに運動不足感をおぼえて、自転車で散歩。途中の古い集落で、側溝の端の草地に小さな旗が何本も立てられている光景を不思議に思って写真に撮る。
どうやら「御加護」と書いてあるように見えるのだが、こういうのを何というのか、ネットでも調べられない。水辺であることと、曲がり角であることに何らかの意味合いがあるのだろうと想像されるのだが。子供が側溝に落ちないようにとのおまじないなのだろうか。

2014年11月1日土曜日

「こころ」6 ~何の「覚悟」か

 「覚悟」について考察する授業展開例は去年さんざん考えて書いたので、詳細に論じようということならそれをまるごと引用するしかないのだが、それはこのブログという場にふさわしいとも思えないので、やはりここでは今年の授業の様子を記録するという意味合いから、あくまで今年の展開を記しつつ、必要に応じて上記の一部分を引用するという形で書いてみる。

 42章でKが口にする「覚悟」という言葉をめぐる考察は、「こころ」を授業で扱う上で最も重要なポイントの一つだ。
 最初に問うのは

  •  ①会話の時点での「覚悟」の意味(42章)
  •  ②翌日「私」が考え直した「覚悟」の意味(44章)

である。実際には②から考える。文中にそのまま「お嬢さんに対して進んで行くという意味」と書いてあるからだ。続いて①を問うと、多少の揺れはあるものの、おおよそ「お嬢さんを諦めるという意味」であるという答えを引き出せる。
 読めば「わかる」はずのこうした確認をした上で、通常問われるのは、なぜこのように「私」の解釈が変化したか、だ。だがそれは単なる確認に過ぎない。何らの考察を含んでいるわけではない。もちろん、「わかる」ことと「説明できる」ことの間には大きな懸隔があるから、「説明せよ」と問うこと自体は国語の授業として大いに意義あることだ。だがそれは「こころ」を読解していくという行為として意義あるわけではない。
 それよりもここで問いたいのは、この「覚悟」という言葉が、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか、である。この問いは、きわめて興味深い上に、今後の展開に参考となる重要な知見を与えてくれるという意味で扱う意義のある重要な問いである。
 だが、そもそも生徒にはこの問いの意味が理解されない。問いを投げた上で、信頼できる生徒に答えてもらうと、彼が何とか答えているのは、どうして正反対の意味に解釈が変わったのか、である。まあやはりそうなるだろう、とは思う。そのまま、そちらに問いを移して展開する。まず①は文脈からそのまま了解される。確認のために42章、問題の「覚悟」という言葉が最初に口にされる「私」の台詞について確認する。
君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。
この「平生の主張」とは何か? 無論「確認」程度の質問である。「精進」でも「道」でも「学問」でも「信条」でも「道のためにはすべてを犠牲にすべきものだ」でも「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」でも良い。これらの「主張」を「どうするつもりなのか」と問われれば、「心でそれを止める覚悟」は「主張」を貫くために「お嬢さんを諦める覚悟」ということにならざるをえない。
 ではなぜそれが翌日反転したか? ここでの「確認」は翌日、44章の
Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。
の「一般」「例外」とは何か? という問いである。だが、豈図らんや、これが一筋縄ではいかないのだった。やはり実際の授業はこちらの想定を超える。生徒は「一般」は「精進」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だというのである。なるほど、直前の「平生の主張」についての「確認」が、文脈を無視して「一般」「例外」という言葉に結びついてしまうのである。さんざん読み返しているこちらほど、生徒は文脈を把握しているわけではない。ある程度の長さで前後を読み返させる必要があるのである。さて、生徒の答えを否定して、正しい読解が提出されるまで粘り強く待つ必要はある。だが一方で「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメかを示す必要もある。なぜだめか? とは問うてみるものの、これは高度な問いの部類に属する。上記部分の後の次のような一節に注目させる。
私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると中略以降と矛盾するからだ、と言える生徒はいないでもない。
 さてでは「一般/例外」は何なのか? 別に難しい問いではない。やはり「確認」に過ぎない。「果断に富んだ/優柔な」である。ただちに「優柔な訳」とは何か? と問う。「K」の「平生の主張」が恋に進むことを妨げているからだ、という解答を用意して待っていると「Kは勉強一筋で生きてきて、恋愛に慣れていないから」というような微妙にずれた答えがどこのクラスでも返ってくるところでズッコケル。まあそこはこちらも微妙に修正して先に進む。上記「例外」に「優柔」を代入すると論理的に整合することも確認する。
 さて、ようやく先ほど問題だと述べた「『覚悟』という言葉は、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか?」という疑問に戻る。これは「どのような『正反対』に変わったのか?」や「どうして変わったのか?」という問いではない。だが真に驚くべきなのは、この言葉がどのような微妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが無理なく設定されているか、である。ここが解説されている指導書を見たことはない。恐らく問いとして発せられる授業展開もほとんどないだろう。そもそもそこに疑問を見出すという発想が浮かぶことがほとんどないだろうからだ。だがここで考察に値するのはまさしくこの点なのである。
 「どうして正反対の意味に解釈しうるのか?」という問いは、その問いの意味がほとんどの生徒に理解されない。そこでたとえば「いいよ」といった台詞が、文脈次第で「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にも「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にもなることを示した上で、唯一の文脈に置かれているにもかかわらず正反対のどちらの意味にも解釈できる不思議について考えさせていく。
 すると予想外に「心でそれをやめる覚悟」の「それ」が示すものが曖昧だからではないか、というような案を提出した生徒がいた。そう、「K」の口にした「覚悟」は「私」の台詞を受けているのである。
「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
問題はこの「心でそれをやめる覚悟」がなぜ正反対の二つの意味に解釈しうるのか、である。ここから先は一昨年の授業の際に思いついた発問である。
問 「心でそれをやめる」の「それ」とは何か。ここを「……ことをやめる」と言い換えたときの空欄に、適切な動詞を入れ、それが①と②に言い換えられることを説明せよ。
 これには考える、悩む、迷うなどの答えが想定できる。
 まず「考えることをやめる」と言い換えれば、「お嬢さんに進んで行く」という解釈の生ずる余地はすでにある。「考える」ことをやめて「行動に移す」のが「K」の言う「覚悟」だと「私」は考えたのである。
 次に「悩むことをやめる」と言い換えると、なおさら二つの解釈が自然に生ずる。「悩むのをやめる」ためには、悩みの種であるお嬢さんを諦めてしまうのが一つの方途であり、悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに進むのが、もう一つの方途であるからだ。
 さらに「迷うことをやめる」ならば、論理はさらにはっきりする。「お嬢さんを諦める」ことともに「お嬢さんに進む」こともまた「K」にとって「迷うことをやめる」方途の一つである。選択肢のどちらを選ぼうとも、「迷うことをやめる」結果になる。
 こうして「K」の言う「覚悟」は「私」によって、正反対の解釈に分岐したのである。
 授業では「正解」を確認することに意味があるわけではないから、このような説明自体を生徒に要求すべきである。そしてこのような解説は、なんら「理解」を深めているわけではない。「わかる」ことが目的なのではなく、「説明しようとする」ことがここでの学習の目的である。
そしてこの学校でも、我慢強く待っているうちに想定通り「考える」「悩む」「迷う」が提出され、それぞれのクラスで誰かがこうした説明に辿り着く。そうした者を教室全体で賞賛してこの一連の学習は一段落である。

 もちろん、ここまで確認したのは、あくまで「K」の言う「覚悟」を、「私」がどう解釈したかであって、それは「K」の「覚悟」ではない。「K」の言う「覚悟」が上のどちらでもないことを示す表現を指摘させると、勘の良い生徒が「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」を挙げる。それに「卒然」「私がまだ何とも答えない先に」などの表現を指摘して、「私」の解釈した「覚悟」と「K」の言う「覚悟」がすれ違っていることを確認しておく(「卒然」「独り言」「夢の中の言葉」は、「K」の心理に注意を集める表現として読者に意識されがちだが、同時に、意思疎通の齟齬を読者に知らせるサインなのである)。では「K」の言う「覚悟」とは何の覚悟か? と聞くと、やはり少数ながら「自殺する覚悟」であることを感じ取っている生徒はいる。そしてさらにこの時点で、その根拠を明晰に語って見せた生徒の見解を以下に挙げて、この項を終える。

 彼女(女子生徒である)によれば、上野公園の散歩の夜の「K」の「もう寝たのか」という謎めいた訪問と自殺の晩の「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています」は関連づけて考えるべきであり、とすれば「K」にとって自殺の意志はこの時既にあり、昼間口にした「覚悟」こそそれを示しているのである。そもそも「K」の遺書はこの晩に書かれ、そして「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える」「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だけが、自殺を決行した土曜の晩に書され足されたものなのだ。

 結論としてはこの見解には首肯しかねる。「墨の余りで書き添えたらしく見える」という描写は、本文に続くこの最後の文句が一連のものとして書き足されたものであることを示している。したがって遺書全体が、やはり土曜の晩に書かれたものであると考えるべきだと思う。だがここまでの整然とした推論を説明してみせた生徒がいたことは記録しておきたい。

追記
 最後の、遺書をいつ書いたのかについては、後刻再考した。この生徒の慧眼には感服である。