2018年5月26日土曜日

『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別

 ナタリー・ポートマン演じる弁護士が略奪愛によって事務所の先輩弁護士の後妻に収まるところから、継子とともに新しい家族を作り上げられるのかが問われる。
 映画に安っぽいところはない。こうした人間関係を描くドラマとしては、エピソードの置き方にしろ人物の描き方にしろ、充分にうまい、といっていい。
 継子との間に生まれる連帯や父親との和解、乳児を死なせてしまったという罪悪感から救われる過程や、その際に元妻が見せる誠実さとか、物語的カタルシスを感ずる展開はある。
 それでも結局面白かったかと言えばそうではない。結婚生活は結局破綻する。上手くいかない現実の苦さを誠実に描いているのはわかるが、観客としては、基本的にはうまくいくことを描いてほしい。
 うまくいかないことのやむを得なさをぎりぎりで描くことに、観る者ともども巻き込まれてしまうような映画体験なら、それもまた良いのかもしれない。
 だが、いかに本当らしく描かれていても、まあそういうふうにうまくいかないことはあるだろうという、いわばアッサリと思わざるをえない感じはなんだか残念なのだ。

 ところで、子役のチャーリー・ターハンは、『ウェイワード・パインズ』で中学生くらいになって主要登場人物として、なんだか妙に好感の持てる役者になっていた。

2018年5月23日水曜日

『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない

 子守り(The Sitter)のために雇った若い女性が、その家の主人に対するストーカーだったという、まったくそれだけの話。
 家庭内における、常軌を逸した人の恐怖といえば『ルームメイト』とか、最近では『The Visit』だが、もちろん比ぶべくもない。
 無論それほどの期待をしたわけではないが、こういう、まったく予備知識のない、しかも放送枠的に基本的にB級だろう作品に、思いがけない拾い物があることを期待しても、まあほとんどかなえられないことはわかっていたのだが。
 もちろん問題は脚本だ。あまりのひねりのなさが残念ではある。やはりもっと工夫を凝らしてほしいと素朴に思う。
 といって時折お目にかかる、腹立たしいほどのひどい作品などではない。こういう、明らかに低予算のB級映画でさえ、例えば『ソロモンの偽証』くらいのグレードの邦画よりも、はるかに「まとも」にできているのだった。出演者の演技も、演出も。
 どこかしらの配給会社が買うだけのレベルではあるということなのか、米映画の地力なのか。

2018年5月12日土曜日

『パシフィック・リム』-ひたすら想定内

 新作公開と、『シェープ・オブ・ウォーター』のアカデミー作品賞受賞に乗せてテレビ放送。実は初めて観る。
 さすがに映像は手間のかかり方といいイマジネーションといい、すごかったのだが、それはまあ最初からそこを期待している以上、想定内で、しかも物語がまた想定内なのだった。想定内であることすら既に想定内なのだ。それはもう、最初からベタな怪獣映画、巨大ロボット映画をやりたいのだからそうに違いないのだが、やっぱりなあ、という感じ。
 そこらじゅうが観たことのあるいろんな映画だの特撮テレビ映画だのアニメだのの感触なのだが、映像の凄さとドラマの浅さのアンバランスは、最近でいえば『言の葉の庭』の感触と似ている。
 『スーパーマン』映画の時にも感じたのだが、スケールが大きすぎると、活劇が肉体的な実感を超えてしまって逆に無感覚になってしまう。そのくせ、物理的なありえなさばかりが気になって。
 巨大ロボットの手がビルのフロアを横切っていくのをビル内部から写した映像と、芦田愛菜のあまりのうまさがわずかに映画的な感銘。

2018年5月10日木曜日

『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか

 『The Visit』の「三つの約束」も、どうしてそんな本編とかみあわない惹句を宣伝に使うのかわからないが、この邦題もどうしたことか。もちろん原題の『HUGO』で日本公開するのは勇気がいる。マーチン・スコセッシというだけで問答無用に期待させてしまうほどの映画受容の土壌は日本にはない。となると多少なりとも内容を想像させるような邦題を、ということなんだろうが、だからといって、ヒューゴ、別に発明してないじゃん、という観終わった観客のつっこみをどうするつもりなんだろうか。配給会社の担当者。
 スコセッシといえば最近では『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』、その前は『ギャング・オブ・ニューヨーク』、その前は『ディパーテッド』か。『タクシー・ドライバー』を観なおそうと録画したのだが失敗して3分の2くらいのところで突然録画が切れていて、はっきりした感想が固まらないのだが、まあとにかくいずれも『HUGO』の感触とつながらない。強いていえば『ギャング』の、街一つを映画のために作ってしまう、人工的な世界観が近い感触だとはいえる。
 それでも、冒頭のリヨン駅構内、とりわけ壁の中の、おそらくCD処理を混ぜた長回しとジェットコースターのようなカメラ移動は、とにかく映画の視覚的効果を追究することに執心していて、ドラマを描こうとしているようにみえる『タクシー・ドライバー』の監督のものとは思えない。
 どうも妙だとは思っていたが、映画情報によるとスコセッシ随一のビッグ・バジェットで、しかも3D映画だというではないか。なるほどそれであの世界観。視覚効果。
 ではドラマの方はどうかというと、それほど感動するようなものでもなかった。批評家の評価が高いらしいが、これは映画中に溢れる映画への自己言及的愛情のせいではあるまいか。
 物語中では、こだわる対象が絡繰り仕掛けと本と映画と、どうもバラけたように感じられて、今一つその思い入れに乗れなかった。狙いはわかるんだけどなあ、という感じ。
 映画への自己言及と言えば『The Visit』のPOV手法を用いて、主人公たちを映画作りをしている少女に設定するのも、シャマランの自己言及だが、どちらかというとそちらの方に共感もし、映画的にも大いに楽しめたのだった。

 調べてみると邦題は、原作本がすでに『ユゴーの不思議な発明』と邦訳されていて、映画もそれに倣ったということなのだろう。映画らしいいい加減な邦題、と思ったのだったが。出版業界もか。それとも原作ではそれなりの「発明」が描かれているのだろうか。

2018年5月8日火曜日

『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー

 M・ナイト・シャマランの、最近作の一つ前の、低予算スリラー。
 映画宣伝に掲げられている「三つの約束」が意味不明で、映画会社め、余計なノイズを入れやがる、と些か腹立たしいが、それは映画の罪ではない。
 POV手法に対する個人的な好感は、作り手の工夫がストレートに感じられるからだ。こんな時までカメラを回すのかよ、とか、そんなに都合よくカメラの視界に重要なものが映るかよ、とかいう突っ込みは、厳しくはすまい。
 この映画については、白石晃士的なフェイクドキュメンタリー的な面白さはないが、怖い目に遭う本人達(姉と弟)の心情に感情移入できるという意味で臨場感を増す効果はある。
 そうなればもう面白い。充分に怖いし、その状況に対峙する姉弟の健闘も好もしい。
 『サプライズ』ほどのハードアクションは期待するでもなし、比較としては『ドント・ブリーズ』だが、これはさすがに結末の波状攻撃で『ドント・ブリーズ』が上手だったが、そもそもこれは『ドント・ブリーズ』が特別にすごいという話であって、『The Visit』のエンディングはそれとは違って、これもまた出色の後味の良い終わりだった。

 それにしても、宇多丸さんの言う通り、これは子供の成長を素直に描くという点では『アフター・アース』とまったく同じテーマの、いわばジュブナイル映画だったのだが、あちらのつまらなさに対するこの映画の面白さはいったい何事だ。
 ユーモアのあるなし、というのは無論大きいが、『アフター・アース』に描かれた成長が、あまりに観念的であったことが大きいと思われる。あちらでは乗り越えるべき敵が強大過ぎて、恐怖から目を逸らさないとかいう実行命題が非現実的なのだ。だから課題の解決による成長が観念的にしか感じられない。
 それに比べるとこちらは、充分に対峙可能な恐怖であり、しかも充分に怖い。むしろ『アフター・アース』の恐怖に比べて現実的であるだけに一層怖い相手に勇気を振り絞って対峙するという行為が、説得力のある成長を感じさせるのだ。

2018年5月3日木曜日

『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ

 第二作を観たのが比較的最近だったりもして、テレビ東京の「午後のロードショー」を録画したのが間違いだった。じゃあレンタルだったら良かったというとそうでもないのだろうが。
 どうやら作品自体の評価も、1、2作目よりも低いらしいが、片手間で観ているこっちの鑑賞態度の悪いことを棚に上げても、放送上のカットの問題は大きい。テレビ放送だという配慮で、問題のシーンをカットしてしまって、この映画の味わいを損なっているのは間違いない。悲惨さの即物性がユーモアにさえ感じられるという、このシリーズ独特の味わいが。
 あちこちが映画自体の編集と、放送上の編集が相まって、映画の中の現場で何が起こっているということなのか、よくわからない状態になっていて、どうにも感情移入できなかった。
 観てすぐに記事を書くのはめずらしいのだが、それだけ書くことがないのだった。