2016年7月31日日曜日

『エクスペリメント』 -傑作独映画の劣化リメイク米映画

 「スタンフォード監獄実験」を元にしたドイツ映画『es』のリメイク。『es』というのはなぜか邦題で、原題は『Das Experiment』というから、米映画の『エクスペリメント』はそのまま英訳だ。
 『es』は2回見ている傑作で、こういうのも一種のソリッド・シチュエーション・スリラーだから、好物のSSS漁りの一環としてリメイクの方も見ようとは思っていた。

 さて、エイドリアン・ブロディとフォレスト・ウィテカーというアカデミー主演男優を揃えて、そんなに安っぽい映画は作るまいと期待したのだが、残念、安っぽかった。誰かがブログで、アメリカというのはなぜヨーロッパの傑作映画をわざわざ劣化リメイクするのか、と書いていたが、うーん、うまいこと言う。
 話はすっかりわかっているから、もうひたすら「よくできているか」という観点から観てしまう。あちこちで、あれあれ? と思う。なぜこう説得力のないことをするのか。いたずらに扇情的になるのがいいはずはない。こういうことは誰にも起こりうるかも、と思わせることができるかどうかが命じゃないのか?
 そこをはずして、そんなわけないじゃん、と思われてしまったら、いくら衝撃的だとか恐怖だとか狂気だとか言っても虚しいはずだ。Wikipediaの「スタンフォード監獄実験」の概説を読むだけでも、あちこちにリアルに引き戻すバランスをとるエピソードがあったことが見て取れるのに、映画ではそうした描写が見られない。あるいは『es』との比較を検証するサイトがあるが、そこで指摘されている差違も、どうしてそこをそう変えるのかがちっともわからない。それを描かなければリアリティが欠けてしまうことは明白なのに。
 暴力の発生はともかく、人死にが出て、それでも直ちに実験が中止されないなんて、あまりに変過ぎる。『es』と違って、こちらでは実験主催者が描かれないのだが、恐らく意図的に「監視カメラの向こう側」を描かないようにしたらしいことが、リアルさを失わせているのだ。それである種の不気味さを演出したいのだろうが、こういうことをして観客の恐怖を煽っても、白けるばかりだ。この映画は、ありうるかもしれない狂気を描くからこそ怖いのではなかったか。

血肉湧き踊る

 京急電鉄の社長がテレビで、自社の列車に乗っていて、路線がJRと併走する区間で、JRの列車が隣に並んだときは「血湧き肉踊る」と言ったのは、さすが鉄道マン、社長という立場になってすらこんなことを言うか、と大いに面白かったのだが(京急は列車の速度が速いのでJRと併走すると追い越すのだそうな)、録画を巻き戻してその台詞を聞き直してみると「血肉湧き踊る」と言っているのに気づいて二度笑った。
 「血湧き肉躍る」な。

2016年7月13日水曜日

『死霊館』 -王道ホラーの佳品

 「しりょうかん」で変換すると、当然のことながら「資料館」になるわけだ。この邦題はなんとかならんかと思うが、原題の「The Conjuring」ではなんのことやらわからんし。
 それでも『ソウ』のジェームズ・ワン監督作というので見てみたのだった。
 内容的には、どうにもありふれた幽霊屋敷物であり、どこにも題名をつけるうえで手がかりになるような特徴がない。『死霊館』もむべなるかな。
 主人公の一人、パトリック・ウィルソンは『レイクサイド・テラス』で見たばかりだし、子役の一人、ジョーイ・キングに見覚えがあると思ったら『ホワイトハウス・ダウン』で大活躍した女の子だった。主人公とも言えるヴェラ・ファーミガは去年『マイレージ、マイライフ』で、最近『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』でも見た女優だ。
 俳優が豪華な割には、映画全体は低予算で作られている感じだが、それはホラー映画にとってまるで不利な条件ではない。ホラーは演出とアイデアがすべて。
 アイデアの方は『ソウ』のような切れ味はなかったが、演出は悪くない。実に怖い。しかもスプラッターのような残酷趣味は伴わないところが好感がもてる。
 娘と観ながら、これは良いという時の基準は「奥ゆかし」だった。扉の陰が怖いのだ。反対に、これはちょっと、と思うときの印象を表現するなら「あさまし」か「むくつけし」だ。悪霊が、いかにも怖ろしげな形相で害意を露わにした姿を画面に晒してしまうのは、下品で無風流で無粋で見苦しい。
 洗濯物を取り込んでいると、にわかに雲がたちこめて辺りが暗くなり、風が強くなって、とりこもうと近づいたシーツが激しい風で吹き飛ばされる。直後、主人公の脇で何かに巻き付くように静止して、そのシーツの中に何者かの肉体の存在を感じさせたかと思うと、さらに吹き飛ばされて屋敷の窓に貼り付く。さらにそれが飛ばされた後で、窓の中で動く気配。こういう演出こそ粋で奥ゆかしいのだ。
 ということで後半は、展開が「エクソシスト」そのままになり、なおかつ結局、悪魔払いよりも家族を思う母の愛が悪霊に勝つという結末にがっかりしつつも、ホラー映画としては十分に楽しめた。

2016年7月10日日曜日

参院選

 ふとしたことから東京で立候補している三宅洋平の選挙演説をYouTubeで追っかけていて、先週末には生で体感しようかなとも思って娘を誘ったのだがノらず、結局YouTube観戦のまま参院選当日となった。演説のバックで流れる生演奏がやたらと良いので、生で聴きたかったのだが。
 結果の落選については、残念ではあるが、まあそういうものでもあろうと思う。
 さて、熱心な支持者はこの結果にも陰謀論を唱えるのだろうか。
 得票数について不正が行われたと主張するのは典型的なトンデモ陰謀論だから無視するとして、連日の「選挙フェス」が大手メディアで取り上げられないことについては、三宅陣営自身が「陰謀」を主張していた。「これだけの盛り上がりで当選しないはずはない。」と。
 これがどこまで正しいか、わからない。メディアとしては、ニュースとして取り上げるほどの盛り上がりではないのだと主張できる。事実、当選圏内には到底届かない票数で落選したではないか。
 だから、ニュースで取り上げなかった大手メディアが、後ろめたいことのない公明正大な理由を述べることが可能であることは認める。
 だがそれでも、メディアが面白がって取り上げることによって、ある潮流が起こりうる可能性は大いにありそうなことでもある。メディアは、その気になれば三宅洋平を国会議員にできたはずだ。
 つまり「支持が広がらなかったから取り上げなかった」のではなく「取り上げなかったから支持が広がらなかった」のではないかという疑いは、それほど無理のない感触として信じられる。
 とすればメディアがそれをしなかった理由は何だ。
 そこにはやはり「陰謀」の感触があるようにも思われるのだ。
 だがそれは、特定の「ある筋からの圧力」である必要はないかもしれない。現場の記者、デスク、編集権を持つディレクター、プロデューサーが、自分の保身の為に三宅洋平を取り上げることを自粛した可能性は大いにある。それが、実際には存在しない「陰謀」の感触を生み出しているのかもしれない。

 とはいえ、三宅洋平が支持を集めるとしたらそれも一時のポピュリズムでもあろう。実際に改憲派がこれだけの支持を集めているのも事実なのだ。信じがたいことに。
 だがそのリアリズムを想像することも可能ではある。時としてやはり自民党を支持するのが現実的だろうな、という気は大いにするのも事実だし。
 だからといって安倍的リアリズムなんて、やはりそれはそれで妄想じゃないかと基本的には思う。


2016年7月9日土曜日

『レイクサイドビュー・テラス 危険な隣人』 -確かにビデオスルー

 隣にサイコパスが引っ越してきて、徐々に相手の狂気に脅かされる恐怖…とかいうパターンなんだろうと思っていると、まあそのとおりではある。
 が、サイコパスは引っ越してきた側ではなくて、引っ越してみると隣に住んでいたのがサイコパスだった…というパターンだった。しかも物語の最初はそちらのサイコパス側の視点から描かれていたから、最初のうちには、引っ越してきたあいつらが…と観客は思ってしまう。一種のミスリーディングによる意外性。
 一方で、その「サイコパス」たるサミュエル・L・ジャクソンは、最初のうちなかなかにユーモアも良識も職業意識も頼り甲斐もありそうで、とうてい問題がありそうには思えなかった。ただつきあうには面倒だと感じさせる違和感も微妙に描かれていて、隣人同士の対立がエスカレートする過程は巧みに描かれていると感じた。
 それには二つの要因が付加されている。
 一つは黒人差別の問題だ。人種間の対立、とくに被差別側が加害者側になることが一種の説得力を生んでおり、単なる「サイコ野郎」ではないキャラクター造型を可能にしている。
 もう一つは、折しも起こった山火事が、徐々に迫ってくるという設定だ。これがカタストロフとシンクロして、悲劇への傾斜に説得力を与えている。
 ということで、安っぽくはないのだが、だからといって何かものすごく爽快感とか感動があるというものでもなく、これがビデオスルー作品だというところには実に納得がいくのだった。

2016年7月8日金曜日

『マン・オブ・スチール』 -スーパーマン映画の不可能性

 スーパーマン映画に興味はなかったが、ザック・スナイダーには興味はある。『300』『エンジェル・ウォーズ』と見て、映画を手放しで賞賛する気にはならなかったが、映像の斬新さには目を瞠った。『Dawn of the Dead』のリメイクがデビューだというのは後から知った。本家に及ぶべくもないとはいえ、悪くないリメイクだった。
 だがまあ、今回も映像の凄さに感銘が比例しない。
 「悩めるヒーロー」像は今さら新しくない。最近は「スパイダーマン」シリーズ、ちょっと古くなると「エヴァンゲリオン」、物心ついたときから平井和正がそういうのを描いていた。そこにスポットがあたっているようだが、そうしたテーマが深められているようには思えない。
 ではストーリーが、波瀾万丈、スリルとサスペンスでドキドキするか? ヒロインとのロマンスにドキドキするか? 笑えるか? ほのぼのするか? 感動するか?
 しない。
 スーパーマンの物理的な、数値的な巨大さを描けば描くほど、スリルはなくなっていくというこのアンビバレンス。格闘を見ていても、どれが致命的なのかの実感がまるで湧かない。どうせいくら激しい物理的負荷を受けても無事なんだろ、と思えてしまう。
 街が激しい破壊を受けて、一体何十万人が死んでるんだろうと思われるのに、直接には死者は描かれない。死にそうになる人物が描かれるが、だからもうサスペンスはない。この状況で今更なんだ? と思ってしまう。
 だから、たぶんスーパーマン映画を面白く描こうとするなら、ドラマにしては駄目なんだろう。ひたすら豪快で爽快なヒーローの活躍を描くしかないんじゃないかと思う。

2016年7月3日日曜日

『その男 ヴァン・ダム』 -粋なヴァン・ダム讃歌

 どこかで、ジャン・クロード・ヴァン・ダムが自分自身を演ずるセルフパロディの映画があると聞いたことがあって、放送予定で見つけて、これか、と。
 ヴァン・ダムに特に思い入れはなく、代表作のあれやこれやも観ていないんだが、比較的最近『エクスペンダブルズ2』で重要な役どころをやっているのをみて嬉しくなったものだった。
 さて映画は、冒頭の長回しから比較的よくやっているぞと感心しないでもないんだが、微妙にグダグダだなあと思っていると長回しの最後にヴァン・ダム自身が「全然駄目だ。俺はもう47歳だ、ああいうのは無理だ」と言うという見事な落とし方をする。ファンだというタクシー運転手のおばちゃんに言いたい放題言われて口ごもるやりとりや、郵便局強盗立てこもり事件をある程度まで見せておいてから、もう一度時間を巻き戻して同じ事件を内側から描いてみせるなど、映画としてかなりうまい。単なるおふざけの映画ではない。
 単なるどころか、まるでシリアスな映画なのだった。確かにあちこちは笑えると言えないこともないのだが、それよりはるかにシリアスでペーソス溢れる映画なのだった。
 それはそうだ。かつて売れっ子のアクション・ムービーのスターだった男が中年になって、出演作がB級映画ばかりになって、娘の親権を争う裁判で負けそうで…悲哀に満ちた設定ばかりだ。
 そしてその中でヴァン・ダムが、最後の最後でヒーローとなるかというと、一瞬なるかと思いきやそれは幻想で、現実にはやっぱり悲哀に満ちた、でもわずかなハッピイエンドでしめる、という、映画自体にも、そしてヴァン・ダムにも、大いに好意的な気分を残して終わる映画なのだった。

2016年7月2日土曜日

『ザ・ビーチ』 -パラダイス創造の失敗

 『28日後…』の、『127時間』の、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイルだから、評判の芳しくないことは何となく知ってはいたが、ここはとりあえず観てみることにした。
 確かに映画としてはやはりものすごくうまい。ダニー・ボイルである。こういうふうに「映画」の文体を確立している人ではあるのだ。
 だがそのダニー・ボイルにして「失敗作」と言われる要因は諸々あると言わざるを得ない。
 ディカプリオに興味はないから、むろんそこを期待して観ているわけでもない。ヒロインとの恋愛エピソードは、はっきりと邪魔である。いるのか? あれ。
 「狂気」とか言う単語が聞かれる映画のことだから、『蠅の王』的な、孤島におけるコミュニティの崩壊を描くストーリーなのかと思っていると、まあそうではあるのだが、そこのところは詰めが甘いお話ではある。
 では、映像を見るしかないか。確かに『127時間』も映像はきれいだった。『28日後…』を最初に観たときも、ホラー映画なのに、この映像のきれいさは何なんだとびっくりした。まして『ザ・ビーチ』はそれが売りのひとつである。だがそのために観るか? 環境ビデオでもあるまいに。

 それでもいくらか面白かったのは、「楽園」を維持するために何を選択しなければならないかについて、意外とシリアスに選択を迫られるところだ。だがこれが「意外と」と思われるくらいには全体が甘いということなのだが。
 やはりお話の浅さが致命的なのだ。人死にを出しておいて、しかもそこにはっきりと関わっておいて、ラストの日常への復帰がハッピーエンドのように描かれるのは何事だ?
 こんな風に安易にあの閉鎖的なコミュニティが存続できるなんて現実的じゃない、と感じさせていると、ちゃんとそれが崩壊する、という現実感覚くらいはいくらか認めてもいい。だがそれをラストでノスタルジックに描くのはどうみても駄目だ。
 そういう意味では、例えば文化祭前夜を延々繰り返す『うる星やつら ~ビューティフル・ドリーマー』や、夏休みを延々繰り返す『ハルヒ』の『エンドレス・エイト』は、終わりが約束された非日常であるからこそ、それがパラダイスのように描かれるのを、ノスタルジックに描くことを許されてもいた。
 たぶん、『ザ・ビーチ』も、前半のコミュニティと孤島の生活が、後からノスタルジィを感じさせるくらいに魅力的に描かれることが意図されていたはずで、単にそれが失敗したということなのだろう。
 パラダイスの創造に失敗したのは、サル(コミュニティのリーダー)というより、映画の制作スタッフである。