隣にサイコパスが引っ越してきて、徐々に相手の狂気に脅かされる恐怖…とかいうパターンなんだろうと思っていると、まあそのとおりではある。
が、サイコパスは引っ越してきた側ではなくて、引っ越してみると隣に住んでいたのがサイコパスだった…というパターンだった。しかも物語の最初はそちらのサイコパス側の視点から描かれていたから、最初のうちには、引っ越してきたあいつらが…と観客は思ってしまう。一種のミスリーディングによる意外性。
一方で、その「サイコパス」たるサミュエル・L・ジャクソンは、最初のうちなかなかにユーモアも良識も職業意識も頼り甲斐もありそうで、とうてい問題がありそうには思えなかった。ただつきあうには面倒だと感じさせる違和感も微妙に描かれていて、隣人同士の対立がエスカレートする過程は巧みに描かれていると感じた。
それには二つの要因が付加されている。
一つは黒人差別の問題だ。人種間の対立、とくに被差別側が加害者側になることが一種の説得力を生んでおり、単なる「サイコ野郎」ではないキャラクター造型を可能にしている。
もう一つは、折しも起こった山火事が、徐々に迫ってくるという設定だ。これがカタストロフとシンクロして、悲劇への傾斜に説得力を与えている。
ということで、安っぽくはないのだが、だからといって何かものすごく爽快感とか感動があるというものでもなく、これがビデオスルー作品だというところには実に納得がいくのだった。
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