2015年12月24日木曜日

『パニック・フライト』(監督:ウェス・クレイブン)

 テレビ番組表によると、いかにもなB級サスペンス映画的な紹介だったのだが、監督がウェス・クレイブンときいて観てみる。
 するとこれがまたすばらしく面白い。放送時間にして正味1時間ちょっとで、ここまで次から次へと展開するサスペンス映画を作る手腕は、さすがの職人芸だ。
 主人公が、親族を人質にとられて要人暗殺の片棒を担がされるという設定は、奇しくも最近『ニック・オブ・タイム』で見たばかりだが、あれよりもはるかに面白かった。こんなにも似た設定なのに。
 ネットでは毀誉褒貶あって、犯人が愚かすぎるというのだが、そういう人が「~すればいいのに」という可能性は、ちゃんと封じられているように思えるのだが。それができない理由はちゃんと説明されていて、だから主人公はちゃんと苦労せざるを得ず、だからちゃんとサスペンスが生まれている、と思うのだが。『ニック・オブ・タイム』も、苦境から逃げるのが難しいのは確かだが、といって主人公を使った暗殺などがそもそも大いに失敗しそうで、はなから計画に無理がある、という感じだが、こちらはそうした無理もないと感じた。
 なぜ原題と違う英語の邦題をつけるのかと思ったら、そうか、『フライト・プラン』の二番煎じを狙ったのな(なおかつジョディ・フォスターつながりで『パニック・ルーム』の二匹目の泥鰌も狙っているのか)。よし、それを見逃しても、劇場未公開なのはどういうわけだ。まあ劇場に見に行ったりは決してしないだろうけど。それでも、『フライト・プラン』のようながっかり感を感じさせないだけ、テレビで観るには満足度の高い映画だった。
 『フライト・プラン』といい『ニック・オブ・タイム』といい『パニック・フライト』といい、ネットでは犯人の計画の杜撰さを揶揄する声がかまびすしいが、この中では本作が最も納得感が強く、とすればあとはそのサスペンスの盛り上げ方と解決の爽快感が勝負だ。つまるところ『スクリーム』くらいには面白い。というか、密度からすると、『スクリーム』シリーズ中でも屈指の(いや、全作含めても「屈指」だが)面白さだと言っていい。

2015年12月11日金曜日

『狩人の夜』(監督:チャールズ・ロートン)

 1955年の映画だから、もちろんカラー映画が当然の時代に、あえてモノクロ映画である。そのせいもあって、「こんな古い映画なんだから」と、最初から評価の基準が低くなっている気もするが、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い』や大作『風とともに去りぬ』が1939年だから、ハリウッド映画はもう充分、今の評価基準でうけとめていいのだろう。
 いや、妙な魅力のある映画だった。「カルト映画として人気」という評価なのか。なるほど。美しい映像が頻出してドキッとする。川底に沈む車の座席に座った女の死体がやたら綺麗に見える夢のようなシーンはネットでも誰もが触れているし、子供たちの川下りのシーンに絡む生き物やら、昼だか夜だか分からない作り物の空だとか、悪夢のような、童話のような、妙な世界だった。
 二枚目のロバート・ミッチャムが狂気のシリアル・キラーを演ずるのだが、この牧師がやたらと登場する女性を惹きつけてしまい、そのことを本人も承知の上で利用しつつ、実は(当然と言えば当然だが)女性を憎んでいる、という設定が、魅力の一つではある。だが、どうもよくわからない。信仰心が本物のような嘘くさいような、金に執着するのもどうして必要な設定なのかわからない。そしてリリアン・ギッシュの老女の、一筋縄ではいかないキャラクターも、もちろん魅力的ではありつつ、どのあたりで捉えたらいいのか、落とし所がわからない。
 すごい映画であることは間違いないのだが、どうも捉え所が安定しない。

2015年12月6日日曜日

陽月メグミ 2

 先日YouTubeで見つけて驚いた「陽月メグミ」さんのライブが東京であるというので(大阪在住の人だそうだ)行ってきた。この週末の、めずらしく余裕のある日程が幸いだった。
 京王線明大前駅近くの「One」。入ってみると狭い狭い。客は満員で10人ちょっとというところ。ステージまで2mといった距離のカウンターに座って、演奏を堪能できた。
 「最初にボサノバを何曲か」と言って、一曲目が「イパネマの娘」で、オッとなった。スタンダード中のスタンダードが最初にきても不思議はないというより、素人向けにわかりやすくという配慮だろうけれど、オッというのは、先週の日曜日に、こちらもライブでやった曲だったからだ。あちらはビッグバンド用にアレンジされたものを、なんとかシンプルにシンプルに、ボサノバ本来のサウンドに戻そうと音を削って削って、ようやく納得できるものにしたのだが、こちらはガットギター弾き語りという、由緒正しいボサノバだった。ボサノバをビッグバンドでやるなんて、ボサノバへの冒瀆だと思う。
 メグミさんのライブは、多くはボサノバテイストのアレンジだったが、2ステージの1曲目とラストのジャミロクアイといい、ライブではそれなりにダイナミクスのある演奏もまたエモーショナルで良いのだった。You-tubeよりもずっと良かったのは、臨場感というだけでなく、多分、ライブという場で力を発揮する人だからだと思う。
 2ndステージのラストのJamiroquai「Virtual Insanity」


 昨夕、家を出てくるときに歩道橋の上から、夕空をバックにした富士山のシルエットがくっきり見えて印象的だったのだが、今朝の帰りに、駅のホームの延長上に、これまたくっきりと冬の富士山が見えていてびっくり。千葉県の印旛郡から見た富士山はこの距離にして見えるかという大きさが驚きだが、東京の世田谷から見ると、単に大きくて驚く。
 こういうとき、スマホだとそれぞれの写真を撮っておいてここに載せて比べられるのだが、ガラケーゆえそんなことをする発想が浮かばない。

2015年12月4日金曜日

『アジャストメント』(原題:The Adjustment Bureau)

 『リプリー』に続いてマット・デイモン主演映画を。
 歴史を陰から操ってきた組織「The Adjustment Bureau(調整局)」によって決められてしまう運命に抗って、自分の力で愛する女性との運命を実現させる下院議員をマット・デイモンが演ずるSF映画。
 よくできてる。監督のジョージ・ノルフィって、ただもんじゃねえ、と思ったら『ボーン・アルティメイタム』の脚本家だというのだが、だからといってこの監督としての熟練度はなんなんだ。
 途中まで、先の展開に対する興味をかきたてる吸引力がものすごいんだが、最後まで観ると、SF設定に対する期待は、実はそれほど満足させられない。SFというか、「謎の組織」は、結局「神の率いる天使たち」でしかなく、何やら最近観た『運命のボタン』やら『コンスタンティン』やらを思い出してしまった。SFといいながら、結局愛の力が勝つって結末については『エターナル・サンシャイン』を思い出したり。観ながら『運命のボタン』を思い出したのは、途中に出てくる、「神の世界」に属するらしい図書館が、『運命のボタン』に出てきた場所と同じではないかと思ったからでもある。調べれば有名な図書館なのかもしれない。ネットでも二つを連想で結びつけた人が多いことが確認できる。エンターテイメントとしての「わかりやすさ」「すっきり」度はこちらの方がはるかに高いが。
 愛の力が「運命」を乗り越える、というコンセプトにしても、そもそも主人公がヒロインに惹かれてしまうという、基本的な物語の原動力が前世の因縁だかの「運命」らしく、結局それって運命に操られているってことじゃないか? 相反する「運命」同士の拮抗に過ぎない?
 展開も映像も実に良くできた映画なのに、結局、物語に打たれることなく終わってしまうのは残念だった。

2015年12月1日火曜日

『リプリー』

 観始めてしばらくして、これは『太陽がいっぱい』じゃないかと思っていたら、はたしてそうなのだった。
 とはいえ、『太陽がいっぱい』を観たのはもう何十年前のことか、主人公が友人を殺し、ラストシーンでその犯罪が明るみに出て破滅するという展開だけしか覚えてはいないのだが。
 ところでこちらは文句の付けられない、すべてがうまい映画だった。ストーリー展開が巧みなのは原作がそうなのだろうが、演出から演技から編集からロケハンから、見事なものだった。
 だが後味は悪い。『太陽いっぱい』の因果応報的結末はそれなりの完結感があるのだが、それに比べて『リプリー』のこの、いきなりな終わりはなんだ?
 もちろん放送枠のカットの問題もあるんだろうが、終わってから調べてみると、そもそもこの物語はピカレスク・ロマン(悪漢小説)で、この後もリプリーが犯罪者として生きていくというのが原作の流れなのだそうな。ウィキペディアの紹介を見る限り、『リプリー』の暗さからは違和感のある続編だなあ。
 というわけで主人公が破滅する方がまだ後味はいいといえる。

 マット・デイモンのうまいのは今更言うまでもないが、アカデミー賞にノミネートされたジュード・ロウはもちろん、ケイト・ブランシェットやグウィネス・パルトローなど、脇も豪華。
 

2015年11月27日金曜日

『ニック・オブ・タイム』(監督:ジョン・バダム)

 幼い娘を謎の二人組に人質にとられて、知事の暗殺を命じられる会計士という役どころの、まだ若いジョニー・デップはまあどうでもいい。
 それよりクリストファー・ウォーケンだ。暗殺を計画する側の悪役なんだが、贔屓目に見ているせいか、どこかで真相が明らかになると、実は良い人だったりするんじゃないかという期待をしていたが、結局そんなどんでん返しはなくて、やっぱり単なる殺し屋だった。しかも杜撰な計画を実行にうつしているところが、冷酷な殺し屋の魅力もなくて残念。
 やたらと時計が映されるなあと思っていたら、だいたい映画のリアルタイムでドラマが進行しているって設定なのか。どうもそういうスリルがなかったのは、計画の最中にバーで飲んでいたり、かくたる宛もなく靴磨きを頼ったり、緊迫感に欠ける展開が目立ったからだ。
 ジョニー・デップ映画のこの印象は、そういえば『ツーリスト』以来だ。

2015年11月24日火曜日

『ラスト・キング・オブ・スコットランド』

 フォレスト・ウィテカーといえば『バンテージ・ポイント』の良い人ぶりが印象的なんだが、アカデミー主演男優賞を獲ってるとは聞いていた。それがこの映画に違いないと見当付けて観た。観始めて、これは間違いないと思って、後で調べてみると豈図らんや、そうであった。
 ウガンダの独裁者、イディ・アミンに関わることになったイギリス人医師から見たアミンの独裁ぶりを描く。
 なんといってもウィテカー演ずるアミン大統領が怖い怖い。
 もちろん、怖いだけなら主人公はウガンダに残ったりしなかった。アミンは魅力的でもあるのだ。豪放磊落な言動が背後に猜疑心に苛まれる臆病な人格と同居していて、容易に独裁者的な非人間的な振る舞いに転換しそうな気配を常に漂わせている怖さが、見ていてスリリングなこと。

 映画自体は危機をくぐりぬけて脱出という結末のカタルシスを感じさせながら、アミン独裁が終わるわけではないという後味の悪さも残す。哲学的なテーマに感じ入るというわけでも、精緻に組み上げられたストーリーを堪能するといった映画でもなく、手放しで満足はせず、良くも悪くもウィテカーの演技の圧倒的な映画。

2015年11月10日火曜日

『見知らぬ医師(原題「WACOLDA」)』(監督ルシア・プエンソ 2013年)

 古い映画なのかと思って観ていると、一昨年の映画か。物語が1960年のパタゴニアなのだが、画面の古びた空気がほんとに60年代の映画なのかと思わせる。
 その空気感の美しいこと。キタノ・ブルーじゃないが、前編、青みのかかった画面に、背景には峰峰に雪を残した山脈がいつもあって、パタゴニアらしい風が吹いている。
 物語はナチスドイツの将校、ヨーゼフ・メンゲレの逃亡時代を描いた実話に基づく。
 だが哀しいかな、どう受け取ればいいのか、結局分からなかった。感触から言えば、そんなにいい加減に作られているようには思えないのだが、どういう物語として構成されているつもりなのかがわからないままだった。きっとこちらの読解力不足だ。
 謎めいた場面があったりするわけではない。象徴的表現に満ちているわけでもない。もちろん、原題にもなっている人形が、メンゲレの人体に向ける視線の隠喩になっていることはわかるのだが、それがわかって、さて、メンゲレが実は冷酷な非人間的な人物として描かれていたのかどうか、よくわからない。少女に対する治療が、実は実験だったのかどうかもわからない。どっちかとして描かれているんだろうけど。
 解釈するための枠組みがどうも用意できないのだ。困ったものだ。もしかしたらものすごく面白い映画だったりしたのだろうか。安っぽい感じはまったくなかったのだが。

2015年11月1日日曜日

『セクター5 第5地区』(原題:VAMPYRE:NATION)

 邦題が「第9地区」のパクリであることは、別に隠そうとはしていないだろうが、まるわかりである。「第9地区」のエイリアンがヴァンパイアになった、吸血鬼特区のお話。
 もちろんこの邦題からわかるとおりB級である。だが低予算映画がつまらないとは限らない。アイデアと志次第だ。だがどちらもあまりなかった。まじめにこの映画のつまらなさを論ずるサイト、ブログは偉いと思う。そんな情熱はわかない。いっそ怒りを覚える、という動機で書きたくなるわけでもない。金がかかっていることは間違いないのに、残念なことだ。
 ついでに、ゾンビとともに、ヴァンパイアというのも、素材としては面白いかも知れない、とも思った。どちらも人間が「なる」ものとしての両義性があるからだ(原ヴァンパイアみたいなものもいるらしかったが)。さらにウィルス感染で単なる巨大吸血蝙蝠と化した、元ヴァンパイアを交えての三つどもえという設定は、描き方次第で面白くなるだろうな。
 残念なことだ。

2015年10月31日土曜日

『アルカトラズからの脱出』(監督:ドン・シーゲル)

 この間、題名を挙げたもののいまいち記憶がないなと思っていたのだが、観てみると、そもそも観た覚えがなかった。いや、記憶に残らなかっただけかもしれない。
 アルカトラズ刑務所からの脱獄映画だとは、題名から知れる。知っていて観ている。そのつもりで期待し、かつ名作と評判が高い映画なのだが、ひたすら地味だった。別に派手であってほしいというわけではない。でも、何を楽しめばいいのか。
 いや、考えれば「良い映画」的要素はいっぱいあったような気もする。キャラクターはそれぞれ立っているし、囚人同士の友情やら、憎たらしい所長の鼻を明かす爽快感もある。脱獄の計画の段階のサスペンスはもちろん丁寧に描かれている。
 にもかかわらず、結局、これで終わり!? 的なガッカリ感で終わった。言葉に挙げて数えられるほどには、それぞれの要素が面白さにつながっているように思えなかったのだ。脱獄にかける執念や、その能力の高さということなら『破獄』や、同じアルカトラズを舞台にした『ザ・ロック』の方がよほど見応えがあったし、刑務所での悲喜こもごもをドラマとして描くなら『ショーシャンクの空に』にはるかに及ばない。
 脱獄にともなうサスペンスがあった、といいつつ、どうにも計画がうまくいきすぎて呆気ないという感じがしてしまうところと、クリント・イーストウッドが、どうしても脱獄したいという動機を強く持っている人物に感じられない、というところに問題があるような。
 どうしても出たい、だが困難だ、という葛藤の原動力となる双方の力が、いずれも弱く感じたのだった。
 ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドといえば『ダーティー・ハリー』だが、あれに比べてもよほど地味だ。

2015年10月27日火曜日

秋刀魚

 台湾の漁船が公海上で乱獲するから日本の近海で秋刀魚が不漁だと何度かニュースで見ていたので今年は機会がないかと思っていたら、まずまずの安い秋刀魚が出回っているので、今年も秋刀魚の煮物を作る。小ぶりのが5匹で200円くらいになったら。
 かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
 うまい。

2015年10月19日月曜日

陽月メグミ という人

 連日の「永訣の朝」論はちょっと息切れして、お休み。

 先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。


2015年10月17日土曜日

『96時間/リベンジ』(原題: Taken 2)

 前作『96時間』も面白かったから、前向きな気持ちで見ることができた(後ろ向きな気持ちで観るのは、もう駄目だろうという予想を確認するために観るようなときだ)。
 良かった。期待を裏切らない出来だ。
 元CIAの特殊工作員、リーアム・ニーソン演ずるブライアンの強さはもうほとんどスティーブン・セガール並で、安心感があるのはいいのだが、ありすぎるとサスペンスがなくなる。だが基本的に、ストーリーの展開にサスペンスがあるから、「負けない」だろうとは思うが「間に合う」かどうかが、やはり観ていてドキドキする。楽しい。ドキドキさせながら、着実に敵を倒し、目的に向かっていく爽快感がある。途中、全くダレることのない緊密に構成されたストーリー展開は見事だった。
 この間の『ザ・バンク』で効果的だったイスタンブールの街並みは、ここでも味わい深い迷宮感を出していた。
 まあ、結末は予定調和で、何か凄いものを観たとか、感動的だったとかいうことはないのだが、確実に面白い映画を観た、という感じではある。
 リュック・ベッソンは、やっぱりはずさない。

2015年10月13日火曜日

「ハイキュー!」2期、Esperanza Spalding

去年の秋に熱弁した「ハイキュー!」の続編が放送開始。実はこの間に生徒に原作漫画を借りて、先まで展開を知っている。だからもうアニメーションによってその物語を味わうことができるかどうかだけが、先を見続けるかどうかの動機だ。1話を見る限り、やはりアニメーションは素晴らしい。ほとんど観るものがなかった前期に比べて、今期は『終物語』はじめ、いくつか期待。

 「ハイキュー!」同志の娘はまた、エスペランサ・スポルディング(Esperanza Spalding)の良さがわかる同志でもある。

2015年10月11日日曜日

『オブセッション ~歪んだ愛の果て』

 ネットで見た面白そうな映画の題名と混同して、観てしまった。作りがちゃちだとか、辻褄が合わなくてイライラするとかいうことはないのだが、面白かったとも言えない。思い込みの激しいストーカーにつきまとわれる恐怖、というただそれだけの映画。それとて『危険な情事』のグレン・クローズのように、ホラー映画として見られるくらいの熱演、演出でもあれば面白くもなろうに、お話としては去年観た『ルームメイト』と同じように、展開はまるで予想の範囲内で、演出に感嘆すべき点もない。
 主演はあのビヨンセだよなあ、と思っていると、公開時は全米1位のヒット映画なのだそうだ。まあビヨンセに興味はないので、映画は凡作という以上の感想はない。
 とすると、勘違いした方の映画は、はて、なんといったか。

2015年10月10日土曜日

『運命のボタン』(監督:リチャード・ケリー)

 ここ2~3年のうちに観たことは明瞭に覚えている。コメディかと思って観始めると意外とシリアスな話だったという記憶はある。ボタンをめぐる選択を迫られる話だった。大金が手に入るが、どこかで誰かが死ぬというボタンを押すかどうか?
 例によって、観たはずなのに先が読めないのは良い映画であったはずはないのに、そのことを確かめるためだけに観た。どのシーンも、まるで見覚えがない。だがその映画を一緒に観たことは娘も覚えている。この印象の薄さは何事だ。キャメロン・ディアスが主演で、明白にB級な映画だというわけではないというのに。
 じきに見覚えのあるシーンも出てきた。だがそれも単発で、とにかく先が読めない。次々と謎が提示され、風呂敷はひろがっていくばかり。どうなる? と思うと、まるで納得のないまま終わる。よく考えれば合理的な説明はつくのか? 多分つかない。キリスト教的な寓意があるとはネット上の解釈に見られるが、まあそれを認めるとしても、映画として細部が納得いくほどの整合性をもっているとは到底認められない。
 これもまた、完成に至るまでどうして最後まで誰も止めなかったのか不思議な映画だ。

2015年10月3日土曜日

『ノロイ』(監督:白石晃士)

 『オカルト』に続いてもう一本、白石晃士。『オカルト』の前作らしいが、なるほど、「モキュメンタリー」という形式についての試行錯誤の最中、という感じで、『オカルト』でその成果が発揮されるとして、まだまだ『ブレアウィッチ・プロジェクト』の真似をしてみました、という域を出ない。
 「実話」だという話を半信半疑で見たりするともっと面白いんだろうが、もうすっかりフェイク・ドキュメンタリーを見るつもりでいるから、そうしたジャンルとして、またホラーとしての出来だけが評価の対象となる。
 とすればまあ凡作。好きな人は高評価をしているが、アマゾンでは星一つ評価が最も多い。駄作、と口を極めてののしるほどではないと思う。面白さはともかく、頭が悪くて腹立たしい映画も多い中で、やろうとしている方向は見えていた。
 『オカルト』よりは怖かったが、だからといってそれで楽しかったというわけでもない。ホラーの恐怖は基本的には解消して欲しい。それが素直なカタルシスというものだ。

2015年9月30日水曜日

『オカルト』(監督:白石晃士)

 白石晃士の映画は初めて。「フェイク・ドキュメンタリー」とか「モキュメンタリー」とか言われるスタイルでホラー映画を撮っている人として有名なのだということを知って観てみようと。
 この間の『誰も知らない』は、「ドキュメンタリー・タッチ」ではあったが、ジャンルとしての「モキュメンタリー」ではなかった。「モキュメンタリー」というのは、一応の建前は、「これはドキュメンタリーです」ということになっているフィクション作品のことだ。是枝裕和監督は劇場映画以外にもテレビ番組のドキュメンタリー作品もあって、だからこそ『誰も知らない』は、「~風」ではあっても、モキュメンタリーではない。はっきりとフィクションなのだ。にもかかわらず「実話に基づいている」という情報も付随するから、その実話の重みを引き受けて、なおかつそこにフィクションとしての想像力が生きている、とは言い難いという不満もあった。元になった事実をいたずらにセンセーショナルに変えてしまうセンチメンタリズムを求めているわけではなく、むしろ実話の重要な要素の重みが曖昧にぼかされてしまう反対方向のセンチメンタリズムが残念だった。
 といってもちろん、あれをモキュメンタリーにすればよかったと言いたいわけではない。その必然性がそもそもない。実話をヒントにしたフィクションということでまったく構わない。
 一方、白石晃士の『オカルト』は、「事実に基づいている」わけではない。純然たるフィクションで、そもそもエンターテイメントたるべきホラー映画である。だが手触りとしては「ザ・ノンフィクション」などのドキュメンタリー番組に近い。白石晃士自身がディレクターとして登場して、そのドキュメンタリー番組(映画なのかテレビ番組かはわからないが)を作っているのだ。
 海外のモキュメンタリーならば、「POV(主観視点)物」と重なった形でいくつかの作品を観ている。先日触れたばかりの『クローバーフィールド』、『REC』は良くできたイタリア映画だったし、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は大御所ジョージ・A・ロメロだ。もちろんブームの先陣を切った『ブレアウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』『フォース・カインド』などなど。
 だがそれらの作品に比べても、『オカルト』は格段に変な作品だった。どこへ向かっていくのか予想できない。どのくらいやるつもりなのか予想できない。「ドキュメンタリー風」を装うなら、あまり現実離れしたことはできないはずではある。その「あまり」の程度が事前に予測できない。うまいなあ、まるで本当にドキュメンタリーみたいだなあと思わせる、細部まで計算された脚本と演出、役者の演技が見事だ。だが、そこに「オカルト」な要素が入ってくる。といって、どの種類の「オカルト」なのかが事前にはわからないから、どこまでやるんだろ、と呆気にとられながら観てしまう。
 これが「ホラー」だと、心理的な描写と恐ろしげな映像の挿入で、予想の範囲内の展開になるのだろうが、実はホラー映画だと思って見ていると、まるで怖くない。グロテスクな映像もないし、怖い顔も出てこない。だからこそ、どこまでやるのかの予想が立たないのだ。
 そして実際にどこまでやってしまうのかというと、あれよあれよと『ムー』なのであった。幽霊やUFO、異次元に神のお告げ、古代遺跡に神代文字…。
 枠組みの揺らぐ感覚と予想を裏切り続けるという目眩で面白く観たのだが、最後の異次元は、あれは要するに「地獄」ってことなんだろうなあ。ネットではあれを擁護するような意見もあったが、私にはあれは蛇足に思えた。そこまでのモキュメンタリー様式をぶちこわしてしまうのは(もちろん意図的なのだろうが)、勿体ないと思われた。80年代の大林宣彦の悪ふざけは不快だったが、その感じを連想してしまった。最後まで「ザ・ノンフィクション」で終わって欲しかった。

2015年9月27日日曜日

『GODZILLA ゴジラ』2014年版

 なんというタイミングか、フランク・ダラボンが脚本に参加しているという(ただしノークレジット)『GODZILLA ゴジラ』2014年ハリウッド版が放送された。途中まで観て寝落ちし、翌日続きを録画で観た。
 映像的には、どうにも日本映画には真似の出来ないスケール感を出していて見事だったが、ほんとにこれ、フランク・ダラボンが脚本に参加してるの?
 もしかしたらテレビ放送用のカットの問題かもしれないが、どうにも描写不足で話が展開していく。画としてのスケール感はあるが、ちゃんと物理演算しているかどうか怪しい動きがあるように感ずる描写もしばしば。
 何より、どこを楽しめばいいのかわからない、という物語展開。眠くて感情移入できなかった可能性もあるが、かろうじて頭で追っていた限りでは隅から隅までお約束な展開で終わったとしか思えなかった。ゴジラがなぜ別の怪獣を攻撃して、まるで人類を守っているかのうように見えるのか、渡辺謙が「調和をとりもどそうと」的なことを言っていたが、それだけ? どうしてゴジラがそれをするかの理由は語られないまま。テレビ放送用のカットのせいか?
 というわけで、特別怪獣映画にマニアックな情熱のない者には楽しめなかった。平成ガメラシリーズや『クローバーフィールド』の方がずっと面白かった。というか『クローバーフィールド』は名作と言っていいと思うが。

2015年9月25日金曜日

『ショーシャンクの空に』(監督:フランク・ダラボン)

 初めてではない。
 例の『ウォーキング・デッド』の最初のシリーズの監督・脚本がフランク・ダラボンだということと、最近観ていた『アンダー・ザ・ドーム』の原作がスティーブン・キングだということで、同じ原作者、監督といえば『ミスト』『グリーン・マイル』『ショーシャンクの空に』だろ、という話題になった。悪名高いバッドエンド映画の『ミスト』は子供たちも観ていて、悪評は定着しているが、『ショーシャンクの空に』はそんなことはないと言って、この際だから観てみようと言うことになった。
 久しぶりだが、やはり隅々まで面白い。印象的なエピソードが次々と連続して、2時間20分がまるで長く感じない。基本は抑圧とそこからの解放によるカタルシスだが、最大の抑圧は当然、無実の罪で収監されているという状態で、脱獄が文字通りの解放というわけだ。だがそれだけではなく、刑務所内でのさまざまな抑圧に対して、主人公が創意と工夫と勇気と意志の力で乗り越える各エピソードに、それぞれカタルシスがある。原作が良いのか、監督自ら脚色したシナリオがいいのか、実に上手い。演出ももちろんだが。
 今回とりわけ印象的だったのは主人公の「不撓不屈」だ。モーガン・フリーマン演ずる先輩囚人が「希望は毒だ」と語るのは、現状認識として、またその限りでの処世術として有効だ。男色の囚人や看守への服従を受け入れるか、囚人としての生活を希望のないものとしてただ過ごすか。何より、無罪放免の希望を捨てられるか。
 そういえば、脱獄物はどれもこの「不屈」がどれほど強く観る者の心を揺さぶれるかが勝負だとも言える。スティーブ・マックイーンのタフぶりと明るい「不屈」が印象的な『大脱走』『パピヨン』、絶望感がとりわけ強いだけに、刑務所を脱出するラストの主人公のステップが感動的な『ミッドナイト・エクスプレス』、『アルカトラズからの脱出』のクリント・イーストウッドの寡黙な「不屈」に比べ、同じアルカトラズ収容所からの脱出を描いた『ザ・ロック』が、映画としては面白かったが、感動的とは言えなかったのは、やはり絶望との闘いが描かれないからか。日本では、吉村昭の原作も素晴らしいがNHKドラマの『破獄』も緒形拳演じる主人公の「不屈」ぶりが感動的だった。
 そして『ショーシャンクの空に』のアンディを演ずるティム・ロビンスの素晴らしい演技。「不屈」の代償として独房に入れられることになろうとも、希望を捨てないことに浮かべる満足の笑み。アカデミー賞ではモーガン・フリーマンが主演男優賞にノミネートされているが、どういうわけだ。主演男優賞はティムで、モーガン・フリーマンが助演男優賞を受賞すべきだった。
 だが、考えてみると、絶望に陥りそうな状況に希望を見出す「不撓不屈」は、程度はどうあれ我々の日常にも問われているものだ。我々は常に、にわかには「絶望」とは見えないものの、多くの希望を諦める虚無主義と闘って生きているはずだ。刑務所はそれを拡大して見せてくれているだけだ。
 だからこそ、主人公の貫いた不撓不屈が、あれほどまでに心を打つのだろう。

 アカデミー作品賞のノミネートと宣伝されているものの、受賞ではないというからには受賞作が気になる。調べてみると『フォレスト・ガンプ』なのだった。なるほど。主演男優賞はトム・ハンクスなわけだ。
 もちろんあれも良い映画だったが、どちらと言えば『ショーシャンクの空に』だろうなあ。だが、刑務所を脱獄してメキシコへ逃亡する主人公を描く映画よりも、現代アメリカ史を舞台にアメリカン・ドリームを描く『フォレスト・ガンプ』がアカデミー賞にふさわしいのはやむをえない。

2015年9月22日火曜日

更新停滞

 更新が停滞している。3週間更新がないのは、ブログを始めてからの1年間にはなかったことかもしれない。
 当ブログ最大の約束事である「映画を観たことは必ず書き留める」が発動しなかったせいでもある。3週間、映画を観ていない。毎晩、なにかしら片付けなければならない用件があって、2時間をとることができない3週間だったのだ。書くことがなかった、のではなく、書こうと思えば書くべきことはあれこれあったのだが、時間がとれなかったのだ。
 昨年は演劇部の公演のことなど書き留めた文化祭が三日前に終わった。去年にもまして実にいろいろあったのだが、そのうちのどの部分を取り上げるかの判断がつかない。重要なことはプライベートに触れざるを得ないし、重要度の優劣もつけにくい。文化祭が終わって、解放感に浸って、さてたまった映画を観ようと思ったが、寝てしまった。寝不足が続いていたのだ。その後は、待ち構えていた娘と『ウォーキング・デッド』の続きを観て過ごした。相変わらずすごいが、前に書いたとおりでもある。
 というわけで今週末には何かしら観よう。映画鑑賞記録の再開を期して、久々の更新。

2015年8月28日金曜日

『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーパー)

 娘が夏休みの宿題で、なんらかの意味で「歴史物」といえる映画を観て、その背景となる歴史とともに感想を述べるというレポートの題材として、『英国王のスピーチ』を選んだ。以前一度観ていて、内容を知った上で選んだのだ。夏休み終盤のこの時期についに観るというので、ついでに一緒に観る。

 物語は、第二次世界大戦の開戦時に英国王だったジョージ6世が、吃音を克服して、ナチスドイツへの宣戦布告のラジオ放送によるスピーチをするまでを描く。
 アカデミー作品賞受賞作だ。面白いことはわかっている。前に観た時も面白かった。感動的でもある。そこらじゅうが面白い。
 中心となるのは言語療法士とジョージ6世の吃音克服の訓練なのだが、無論これは単なる機能障害に対する訓練ではなく、吃音の原因として映画の中で描かれている精神的な緊張の緩和をどう実現するか、という問題である。そのために、早口言葉や体操などの肉体的な訓練もする。それが精神の緊張の緩和に資するならば。
 だが主人公の英国王とともにもう一人の主人公といってもいい言語療法士のライオネル・ローグが、それまで解雇された何人もの、正式な資格を持った言語療法士と違ったのは、吃音の克服の鍵が機能的な訓練にあるのではないことを理解していたことだ。英国王を特別視せずに、王宮ではなく自身の自宅である治療院での治療を了承させ、後の英国王を愛称で呼び、友人として振る舞う。吃音の原因は王子としての生育歴、あるいは王族としてふるまわなければならない現在の状況にあることを見抜いていたのである。
 とすれば、吃音の克服は、機能訓練による快復とか上達などではなく、すなわち端的に、コンプレックスの克服にほかならない。生来の左利きやX脚を矯正され、厳しい父親に抑圧された過去を持つ自分を告白し、王族としての重圧に押しつぶされそうな現在の自分を受け入れ、自然に生きることが、どもらずにしゃべれることに結果するのである。
 ここが、この物語を、数多あるスポーツ映画の感動に、少しばかりの上乗せをしている。というか、むしろ共通点は多いといっていい。「ロッキー」「がんばれベアーズ」「ザ・ベスト・キッド」「シコふんじゃった」「ウォーター・ボーイズ」…、弱者が頑張って練習して勝ちました、というパターンのスポーツ根性映画は枚挙にいとまない。面白い映画は面白い。『英国王のスピーチ』も、実はそうした、頑張ったものが報われ、祝福される幸福を描いた映画だ。
 そしてその描き方が充分にうまければ、物語は感動的になる。もちろん充分にうまい。だが、これがアカデミー賞で作品賞に輝くには、さらなるプラスアルファが必要だともいえる。
 前述の『ロッキー』もまたアカデミー作品賞受賞作だ。おそらくそこには、「頑張ったスポーツ映画」としての感動に加えて、「貧しい労働者であるイタリア系移民の成功」という、アメリカン・ドリーム物語の体現が要因となっている。
 そして『英国王のスピーチ』の場合は、クライマックスのスピーチが、ナチス・ドイツに対する宣戦布告の国民放送であるという点で、その成功に、単なるスポーツ映画における大会決勝戦の勝利とは違った意味合いを見ているのだろう。
 今回見直して印象深かったシーンの一つに、ヒトラーの演説のニュース映像を見ながら、主人公が「演説が上手い」と評する場面がある。主人公はその前に国王の戴冠式を成功裡に過ごしており、だからこそ国民を熱狂させるヒトラーの演説を、羨望でもなく嫌悪でもなく、単に感心してみせることができている。そしてそれはヒトラーのような狂信的な熱狂に人々を巻き込むのとは違った形で、主人公の語りかけが人々のうちに静かにしみ入っていくようなクライマックスのスピーチの成功を際だたせる。
 そしてもうひとつ、今回見直して印象深かったのは、前に観た時には、クライマックスのスピーチを、大会決勝戦における9回裏2アウトで迎えた主人公の打席のように、成功を祈る関係者の視点からのみ見てしまったのに対し、同時にそれ以上に多くの人にとって、それがファシズムに対する自由主義の戦いの宣言だったのだという重みである。
 スピーチの成功は、主人公が幼少期からのコンプレックスや英国王という重圧から自由になって、一人の個人としての彼自身になれたことを意味しながら、同時にそれは自由主義を代表する言葉として、ある理念の象徴になるという二重性を担っていることをも意味している。
 こうした物語の構造が、この映画を数多のスポーツ根性映画を超えるプラスアルファを持った作品にしている。

2015年8月27日木曜日

『誰も知らない』(監督:是枝裕和)

 うまくタイミングが訪れたという感じで、ようやく。
 『そして父になる』が現実の子供取り違え事件をもとにしているように、これは実際に起きたネグレクト事件に基づいて作られている。親に置き去りにされた4人の子供が、マンションの一室で4人で生きていく姿を、2時間20分で描く。12歳の長男を演じた柳楽優弥がカンヌ映画祭で史上最年少の主演男優賞を受賞したことは大きな話題になったから、もう15年近く気になってはいたのだ。
 観ながら、『歩いても 歩いても』で驚嘆したような圧倒的なうまさはない、と思った。だがいかんせん、忘れがたい映画であることは否定しようもない。岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』などと同じような印象である。きっと大嫌いな人もいるが、心を捉えられてしまう人もいる、といった、痛みを伴わずには観られない映画。

 是枝監督作品ということで最初から期待があるから、ハードルは高い。そこからすれば不満はある。編集が無駄に間延びしているように思えるし、何より救いがない。
 安易な救いを描くことは、それだけ作品を軽いものにしてしまう。ではその悲惨が永久に続くというのか? 悲劇的な結末であれ、いずれ事態の変化が訪れることは確実なのだから、そうした展開への予感だけでも描かずに、強い悲劇の後に、緩慢な、永続的な悲劇に戻ったかのような展開に戻ったところで作品世界を終わらせるというこの映画の結末にどういう納得が得られるのかは、やはりわからない。
 元になった事件は、この映画に描かれるよりずっと強い、陰惨な悲劇の後に、とりあえずは悲劇の終了があったのである(むろんそれはまた別の緩慢な悲劇のはじまりであったのかもしれないが)。
 曖昧な書き方はやめよう。実際の事件では、映画における主人公にあたる長男と、その友人の中学生の虐待によって幼児が死亡したそうである(ネット情報を安易に信ずることはできない、のかもしれない。この「現実」は「事実」ではないかもしれない)。これは、こうした事態そのものの帰結としての強い必然性がある展開である。
 だが、映画では二女の死因は椅子からの転落である。むろんそこから死亡という最悪の展開を回避できなかったのは、やはり事態の招く必然ではある。子供たちだけで手をこまねいている事態が、二女を救えなかったのだとは言える。
 だが直接の死因が、子供たちだけの生活が招いたものではないことと、二女の遺体を羽田空港近くの草原に埋めるという展開の感傷性が、悲劇の質を曖昧にしている。現実には幼児の死は虐待死であり、遺体は発見を恐れて隠蔽されたのである。それはこうした子供置き去りという事態そのものの招いた悲劇である。救いはない。
 それなのに映画では、最後の場面で戻っていく、変わらない悲劇的事態が、二女の「埋葬」の儀式とともにまるで甘美なDistopiaのようにさえ感じられてしまう。
 それでいいのか?
 そしてもちろん、子供たちが然るべき機関に保護されたからこそ、こうした事実が明るみに出たのであり、子供たちだけで生き続ける日々は、現実には終わりを告げたのである。

 そもそも、ここに「いじめ」に遭っているらしい女子高生をからめることは物語的な必然を感じるものの、だとすればそれですら事態がこのように変わらないことに、なおのこと苛立ってしまう。『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』などで感じた苛立ちである。バカすぎるだろう、いくらなんでも、というウンザリ感である。
 だがもちろん、こうしたことは高い割合で起こりうること、展開として自然なことでなくてもいいのだとはいえる。普通では考えられないほど愚かな人々の振る舞いを、わざわざ描く物語があってもいい。『シンプル・プラン』なども、そうした、うんざりするような愚かな展開が、アメリカという大国の荒廃を感じさせて巧みだった。
 だとしたら、この女子高生を登場させることの意味はなんなのだろう。救われない者同士の共感が「救い」のように感じられる、先の見えない共同体のありようがともすれと甘美に見えるとすれば、その感傷性はやはり不健全なのではないだろうか。

 映画的なうまさは、あえてドキュメンタリーのように見せる手法を採ることによって抑制しているのかもしれない。もちろん、ちびたクレヨンが絶望的な閉塞感を感じさせる、とか、やはり是枝監督の映画作家としての手腕は垣間見えるのだが。
 それにしてもあの間延びした編集はなんなのだろう。
 だがあの長さにつきあうことが、この子供たちの置かれた状況の閉塞感を観客がいくらかなりと共有するために必要なのだともいえる。
 だからこそこれは間違いなく忘れがたい作品なのだが。

2015年8月26日水曜日

『ザ・バンク 墜ちた巨像(原題:The International)』

 ずいぶん前から録画されたままHDにあった。2度ほど、最初の方を見てはやめたのだが、これはなかなかの映画だぞという感触があって、だからこそ、時間のないときには観られないと思い、留保していた。
 さてようやく観たのだが、いやはやすごい映画だった。
 冒頭と題名から、銀行の不正を調査する捜査員たちのクライム・サスペンスだと思っていたのだが、そのうち話が大きくなってポリティカル・サスペンスといった趣になってきたかと思いきや、途中にはド派手な銃撃戦の描かれるアクション映画にもなる。
 犯罪捜査のレベルでも、主人公の、クライブ・オーエン演ずるインターポールの捜査員と、ナオミ・ワッツ演ずるアメリカの検事が、ドイツ、イタリア、アメリカの刑事らによる協力を得て捜査を進めていく過程がテンポ良く描かれ、それだけでも第一級のクライム・サスペンスだと言える。
 凄いレベルの脚本だなあと思っていると、事件の決着は、単に銀行の不正の立証と犯罪者の逮捕というレベルではすまされないことが明らかになってくる。相手は複数の国の政府、軍、多国籍企業、犯罪組織といった「国際的」なレベルであることがわかってくるのである。捜査妨害はもちろん、暗殺どころか公然と銃撃戦まで起こして都合の悪い証人や関係者を消そうとするし、一国の司法では裁けない対象なのである(題名が『The International』なのはそういうことだ)。
 主人公たちは二つの選択を迫られる。一つは、この先に、自らの安全どころか家族の安全が保証されない、というよりはっきりと危険であるのがわかっていて捜査を続けるか。
 もう一つは、これが通常の司法の枠内では裁けない以上、どう決着させるか。上からの命令に従って諦めるか、法に則らない形で、自らの信ずる正義を遂行するか。
 二つ目の選択については、破滅型のインターポール捜査員がそのまま突き進むのだが、一つ目の選択については、同じその捜査員が、協力者である家族持ちのアメリカの検事を、捜査から手を引くように説得するのである。この選択の現実性を考えたとき、検事は捜査から手を引く。
 だがこれが苦い現実追認に終わらぬよう、映画のラストでは彼女が新たに国際犯罪捜査の責任者になったというニュースが挿入されたりもする。

 捜査員や銀行関係者、政治家たちが過不足なく描かれるのに対し、重要な役どころである暗殺者のキャラクター造型が、狙いはわかるもののもうちょっと、という残念なところで終わっているのは、期待水準が高すぎる。なまじ暗殺者の「心の闇」を描こうとしているのがわかるからこそ、「ちょっと浅いんじゃないか」という印象にもなってしまう。
 だがいくらかでもそれが描かれるからこそ、敵対する主人公と暗殺者が、巨大な敵を相手に図らずも共闘してしまう成り行きには喝采を送りたくなる。結局、脚本といい演出といい、おそろしくうまい。

 お話作りだけでなく、とにかく映画としての演出が、もう隅から隅までおそろしくうまい。冒頭で、雨の街角で捜査員が毒殺されるシークエンスを観ただけで、これは並の監督じゃないぞと思わされる。構図といいカットの切り替えのテンポ感といい。
 舞台として、おそろしく映画的に面白い建築物が次々と出てくる。問題の銀行やインターポールの本部の近代的な壮麗さ。トルコのイスタンブールのブルーモスクや周辺の街並みの迷宮感。
 中でもニューヨークのグッゲンハイム美術館はその造型だけでも面白いのに、その中で繰り広げられる銃撃戦は、これでもかというアイデアに満ちあふれて、本当に圧倒される(そのさなかに、さっきの主人公と暗殺者の共闘の場面で喝采!)。
 そして、銃撃戦でも見られる視点の上下のバリエーションの豊かな、立体感のある空間の描き方も、たぶんこの監督の持ち味なんだろう。街角での暗殺者の追跡劇のシークエンスでも、走るクライブ・オーエンを追っていくカメラが徐々に上昇していくと思ったら、問題の車が止まっているであろう大通りに出たところで、通りをやや俯瞰する高さから、信号待ちで停まっている車両の群れを写して止まる。その動きが、その後に続く、車両の群れから問題の暗殺者の乗る車を特定するまでのサスペンスの予感と同期して、はっとするほど印象的だ。

 クライブ・オーエンは、去年「トゥモロー・ワールド」で顔を覚えたのだが、その前に「ボーン・アイデンティティー」の暗殺者で見ているのか。相棒の検事はずいぶん美人の女優だが、誰だっけと思っていると「リング」のナオミ・ワッツだった。
 監督のトム・ティクヴァは、これが初めて。覚えておこう。

 1年間に観た映画を振り返る記事の後、最初に良い映画を観た(まあ、狙って観たのだが)。

2015年8月23日日曜日

今年のライブ 2015

 前記事で、ブログで1年間触れてきた映画について振り返ったあとの記事は、今年のライブのことだ。そもそも当ブログの二つ目の記事が去年の恒例ライブのことだった。
 今年はメンバーの復帰や加入などで音楽的な幅が出てきたことと、PAが比較的安定して耳に優しかったことで、それなりに聴ける音楽が披露できたかと思う。少なくとも演奏している側は楽しかった。

 というわけで今年のセットリスト。去年より5分短い45分で8曲。

1.強く儚い者たち(Cocco)
2.にじいろ(絢香)
3.小さな恋のうた(モンゴル800)
4.Sunshine Girl(moumoon)
5.おわりのはじまり(くらげP)
6.たしかなこと(小田和正)
7.中央フリーウェイ(荒井由実)
8.星のかけらを探しにいこう(福耳)

 こちら、クロスフェードのダイジェスト。


2015年8月22日土曜日

1年間で観た映画、テレビドラマ

 1年前に『マレフィセント』の感想を書く場が欲しくて突発的に始めたブログが、何とかここまで続いた。これはひとえに「観た映画については書き残す」と決めたからだ。
 日々の生活の中でどんな重要なことがあろうが、あれこれ言いたいことがあろうが、ブログに書くわけではない。それをするといきなりプライベートに触れてしまって、ネット世界との距離が測れなくなる。
 それでも時折は書き残したいと思うこともあって書きはするのだが、それはとりわけ重要だからという基準で選ばれた話題だというわけではない。書く手間とプライバシーに抵触しないこととを勘案しながら、かつ書くだけの時間的余裕がその後、数日のうちに訪れたというタイミングの問題でもある。
 そんなふうに基準が曖昧だと、とてもこんなふうにあても実りもない行為は続かない。SNSは相手のいることだから、その応答の中で続くこともあるだろうが、まあある種のSNSとはいえ、ほぼ個人日記に近いこんなブログを続けることは難しかったはずだ。
 というわけで映画だ。このルールがかろうじてこのブログを、放置、消滅というありがちな成り行きから救っている。といってもちろん、世の多くのサイトのように、ちゃんと世の人々に読ませようという気のない、映画の内容をほとんど紹介しない記述は、あくまで自分の備忘録にしかなっていないのだが。

 というわけで1年経ったら振り返ってみようと思っていた、1年間に観た映画。単に自分のために以下に挙げてみる。75本。

『マレフィセント』
『のぼうの城』
『グッドウィル・ハンティング』
『華氏451』
『誰も守ってくれない』
『ウォンテッド』
『幸せのレシピ』
『Xファイル ザ・ムービー』
『新しい靴を買わなくちゃ』
『台湾アイデンティティー』
『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』
『魔法にかけられて』
『フィッシャー・キング』
『88ミニッツ』
『Jersey Boys』
『エクスペンタブルズ』
『麒麟の翼』
『ヒッチャーⅡ』
『孤独な嘘』
『婚前特急』
『ハルフウェイ』
『大鹿村騒動記』
『武士の家計簿』
『劇場版 タイムスクープハンター』
『アウトレイジ ビヨンド』
『エターナル・サンシャイン』
『清須会議』
『ダークナイト ライジング』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『鈴木先生』
『猿の惑星 創世記』
『劇場版 銀魂 完結篇』
『名探偵コナン 史上最悪の2日間』
『コンタクト』
『ウェス・クレイヴン's カースド』
『PARTY7』
『TRICK 劇場版 ラストステージ』
『ツーリスト』
『網走番外地』
『トライアングル 殺人ループ地獄』
『そして父になる』
『Mr.&Mrs. スミス』
『昼下がりの情事』
『川の底からこんにちは』
『Tightrope』
『見えないほどの遠くの空を』
『風立ちぬ』
『エヴァンゲリオン 劇場版Q』
『サブウェイ123 激突』
『ネスト』
『ももへの手紙』
『寄生獣』
『ボクたちの交換日記』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『人狼ゲーム』
『塔の上のラプンチェル』
『世界侵略: ロサンゼルス決戦』
『ファミリー・ツリー』
『かぐや姫の物語』
『はじまりのみち』
『おとなのけんか』
『アパリション-悪霊-』
『生贄のジレンマ』
『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』
『ルームメイト』
『ダレン・シャン』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『シンプル・プラン』
『エイリアンズVS.プレデター2』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』
『LAST7』
『ミッション・インポッシブル』
『コンスタンティン』

 75本というと5日に1本くらいか。もちろん、まとめて3本くらい観る週末があったり、3週間くらい観られない時もある。
 さて、こうして並べてみるとランキングしたくなるのが人情だ。だが、こういうのは観たタイミングによって評価が公平でないことは承知している。そのうえであえて順位をつけずに10本を選ぶなら、以下の作品たち。

『幸せのレシピ』
『Jersey Boys』
『エターナル・サンシャイン』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『おとなのけんか』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』

 心温まるドラマ『幸せのレシピ』『Jersey Boys』、SFとして出色だった『エターナル・サンシャイン』『トゥモロー・ワールド』『ラスト・ワールド』、シチュエーション・スリラーというよりコメディーとしてよくできていて楽しかった『パーフェクト・ホスト』『おとなのけんか』、堂々たるエンターテイメント『沈黙の戦艦』『閉ざされた森』など、玉石混淆の中で確実に光る玉もあった1年だった。
 そして『トライアングル』『そして父になる』『見えないほどの遠くの空を』の3本はいくらか考察を加えたりして、その意味でもとりわけ印象深い。

 今年は『ウェディング・マッチ』による坂元祐二の再発見から『問題のあるレストラン』に熱狂し、そこから『最高の離婚』『Mother』などの連続ドラマを見直したり、古沢良太の『デート』、宮藤官九郎の『ごめんね青春』、木皿泉の『昨夜のカレー、明日のパン』などもあって、テレビドラマも面白いものの多い一年だった。『64』の完成度にも驚いた。

『コンスタンティン』(監督:フランシス・ローレンス)

 キアヌ・リーブス主演のエクソシスト物…などというより、神と悪魔の対立の図式の中で両義的な存在、いわゆるトリックスターたる「コンスタンティン」というダーク・ヒーローの活躍するアクションムービー。
 テレビ欄には「ホラー・サスペンス」って書いてあったんだけどな。
 キアヌが『マトリックス』シリーズの後に、シリーズ化を目論んだ作品だとか、『ハリー・ポッター』シリーズのスタッフだとか、ハードルの上がる惹句を先に聞いてしまうから、こんなもんかと思ってしまう。アメリカ映画の辛いところ。
 ビルのフロアにうようよと集まった半悪魔連中に聖水を浴びせるのに、ビルの貯水槽に聖水を混ぜて、スプリンクラーを作動させるとか、白スーツのサタンやパンタロンのガブリエルのキャラクターとか、面白いアイデアはあるんだが、いかんせん、脚本が浅い。
 フランシス・ローレンスは『アイ・アム・レジェンド』の監督なのか。愛しのディストピア映画として、もちろんゾンビ映画としても忘れることのできない一本ではある。もちろんあの結末にはまったくがっかりだったのだが、前半の、人気のなくなった廃墟のニューヨークの街並は実に良かった。「ダーク・シーカー」の設定も、単なるゾンビや、より設定の近い「28日後」のウィルス感染者に比べて、面白くなりそうな設定ではあるのだが、それをぶちこわす結末に失望した。
 ところが、調べてみると、この映画はもともと別の展開で終わるよう作られていて、そちらならば充分納得できる結末であるように思われる。それで観ていれば評価も今より高い一作になっていたかもしれない。惜しいことだ。モニターテストに参加した見る目のない観客のせいで。尤もその後は『ハンガー・ゲーム』なども録っているそうだから、ヒットには恵まれた大監督ではあるのだが。

2015年8月20日木曜日

『ミッション・インポッシブル』

 ああまた! 観始めてから、これは観たことがあるぞという記憶が甦るパターン。そして決定的に先が読めるほど覚えてもいない、という。そしてなおかつ、大物俳優演じる彼が黒幕だったというオチだけは覚えている、という。
 『ミッション・インポッシブル』は、シリーズの1から4まで観ているのだが、これが一番面白くなかったように感じた。ブライアン・デ・パルマにして!
 たぶん、悪い映画ではないんだろう。最初の作戦の失敗までは、画面作りにしても、さすがデ・パルマという奥行きを感じさせたんだが、最後の、高速列車の壁面にすがりついて、トンネルの中に入ったヘリコプターと闘うアクションなどは荒唐無稽に過ぎて白けてしまった。20年近く前だと、これもそこそこ見られる「ド派手なアクション」ってことになるのかいな。

2015年8月15日土曜日

『ウォーキング・デッド』

 娘が常に続きを観たがっているが、こういうことは年寄りは気が長くなっていて「そのうち」がすぐに何年にもなる。だが若者はそういうわけにもいかないので、折を見てとうとうシーズン4を観始める。
 驚嘆する。脚本も演出も入れ替わっているだろうに、どうしてレベルが落ちないのだろう。毎回面白い。第4期だというのに。
 このドラマの面白さは「選択の難しさ」の前で立ち止まる人々をぎりぎりまで真摯に描くことによって成り立っている。ゾンビの徘徊する世界という設定がそうしたドラマ作りを可能にしている。生き延びるために優先しなければならないことは何か? それが、我々の日常などよりはるかにシビアに、それだけ増幅された形で「難問」として目の前につきつけられる。安易な正解はない。だから選択した後で煩悶する。はたしてそれが正しかったのか悩む。
 その選択の結果の残酷さに震え、幸運に震える。
 毎回そうした状況設定をきっちり作り上げてくるスタッフに脱帽。

2015年8月14日金曜日

『LAST7』

 『FIN』『ラスト・ワールド』の流れでDistopia物、あるいは終末物を観たくなった。ゾンビ物は基本、それなのだがここはゾンビをはずして、それ以外の終末物をと、一度観たことがある『LAST7』を見直す。
 ロンドンの街から人々が消失して、主人公ら7人だけが人影のない街をさまよう、という大好物の設定(そういえば前エントリで熱く語った『遠すぎた飛行機雲』も、設定こそ戦時下だが、作品世界の空気はほとんどこうしたDistopia物のそれだ。むろんあの作品のテーマがそれだけでないことは論じたとおりだ)。
 だが、これまたネットではとびっきりの悪評なのだ。
 わかった、認める。確かに大した工夫もない。結末のカタルシスもない。オチの説明は『FIN』ほどの突き放し方はしていないものの、納得できるとはいいかねる。その点は、脚本の段階で物語が練り込まれて、結末に深い納得が得られる『ラスト・ワールド』などとは比べものにならない。
 それでも、それほどの不満はなかった。まず人気のない街中を少人数で歩くというシチュエーションを、とりわけ才気溢れるとはいえないまでも決してチャチには見えない映像で見せていたし、個々の場面の登場人物の言動や展開に、作り手の頭の悪さにいらいらさせられるような不自然さも感じなかった。確かに無駄にフラッシュバックの回数が多いとか、無駄にグロいとかいう不満はある。物語の広がりもない。
 だがまあ、これは人類消失もののSFではないのだ。そう誤解させるパッケージは罪だがそうでないことを知った上でこういう世界を楽しむには悪い出来ではない。確かに『FIN』のように、違和感の強い世界観を意図して構築しているのが感じられるような魅力もないのだが。

NHK杯全国高校放送コンテスト

 現在は関係していないのだが、気にはなっていて、毎年夏になるとテレビ放送をチェックしている。NHK杯高校放送コンテストの全国大会。娘と、ちょうど帰省していた息子も一緒に観る。彼らも、ここ数年来観ているので、それなりに通時的な評価もできる。
 そのうえで、今年は、とりわけテレビドラマ部門で、不愉快な放送視聴となった。理由は単純に、こんなひどい作品が全国の頂点なのかと、納得のできない不全感が残ったことだ。本当に、このレベルが全国から集まった作品の上位3作品なのか?
 本当にそうなら、今年の高校生たちがたまたまそうだったのだ、ということなのかもしれない。昨年の青森工業高校の作品は悪くなかった。好感がもてた(それでも下記の理由で、納得はしきれないのだが)。
 だが例えば、放送されて観ることのできる上位3作品の中の順位にも不信感はある。この三つでこういう順位かぁ…と腑に落ちない思いが残る。ドキュメンタリーは、ほとんど横並びだよなあ、と思いつつ、とりわけ掘り下げが浅いと感じていたものが優勝だったりするし、ドラマはそもそもが全国の上位3作品がこれか、というがっかり感があるうえ、その中でも許しがたいほどひどいと感じられたものが準優勝だったりする。
 もちろん、受容の感覚(つまり「好み」)は哀しいほどに人それぞれだ。流行の歌や芸能人に嫌悪感を抱いたり、自分の大好きな物に世人のほとんどが無反応だったりするのは子供の頃からの習いだ。
 そして、多少なりとも客観的・理性的であるはずの「評価」も、これまた驚くほど人それぞれでばらつくものだと思い知らされる経験も枚挙にいとまない。それはこのブログに映画の感想を書く度に、ネット上での評価とのズレを思い知らされて、承知していることではある。
 だが、ある映画が面白いと感じられるかどうかは、その日の体調や前日の過ごし方や、鑑賞前の期待値などによって大きく上下するものだろうが、コンテストで順位をつけるという行為が、こんなに「人それぞれ」でいいのだろうか。それとも単に、審査員と我が家の評価が食い違っているというだけのことなのか?

 コンテストの結果に納得できる、つまりあの作品(あるいはパフォーマンス)はすごいと素直に納得できれば、負けた悔しさも来年へのモチベーションも健全でありうる。それはコンテストを通じてその分野の発展を図ろうとする目的のために必要不可欠の条件のはずだ。
 だがそれよりも何よりも、コンテストの結果に納得がいかないことは、コンテストの参加者にとって悲劇である。外から見ていくら不全感だの不愉快だのいったところで、参加者当人の思いの激しさには無論及ばない。
 そのことが想像できるからこその「不愉快」なのである。

 こういう思いを、今回よりもずっと強く抱いたのは実際に、関わった作品をもって参加した平成22年のNHK杯放送コンテストの全国大会のときのことだ。その時には、煩悶のあまり、まったく縁のない(同じ年の全国大会に参加していた学校という点ではある種の縁もあるとは言えるが)学校の放送部宛に手紙を書き送ってしまった(学校の公式アドレス宛にメールで送ったのだった)。
 ただ、上記のような不愉快を解消したかっただけだと言っても間違いではないのだが、同時に、それはその「当人」たちの感じているであろうそれをいくらかでも晴らしたいと勝手に思ってもいたのでもあった。「不愉快」自体がそこから生じてもいるからだ(本当に独りよがりの「勝手な」思い込みだが)。
 それはこんな手紙だった。


 突然お便りします。某県の高校で放送に関わっております。先日のNHK杯放送コンテストの決勝のNHKホールで貴校のテレビドラマの主演の女の子を見かけ、思いあまって声をかけてしまった者です。
 NHK杯そのものは、高揚したお祭気分で過ごしたうえ、幸いにも本校は作品がひとつ決勝に進出し、3日間、楽しかったと言ってもいいのですが、直後に感じていた後味の悪さが、今に至るも、ずっと心にひっかかったまま、今も折に触れて思い起こされます。テレビドラマ部門の審査結果についてです。
 昨年のNHK杯も3日間、準々決勝からテレビドラマを追っていたのですが、準々決勝会場で青森東高校「転校ものがたり」と、松山南高校「ねえさん」を見た時の驚きは忘れられません。
それ以前のテレビドラマ部門出品は本校の過去の入賞作も含めて、所詮高校生が頑張って作ったもの、の域を出ませんでした。もちろん、作品をひとつ形にすることの労力はわかったうえで、物語にせよ映像にせよ、「これはやられた」と思わされるようなものにはお目にかかったことがなかったのです。一昨年の小野高校「この指とまれ」なぞも、そうした意味で、労作だとは思うものの、とても一般の鑑賞に堪えるような「作品」ではありません。
 それが「ねえさん」の、見るものの心をつかむ力と、「転校ものがたり」のあらゆる要素における完成度は、完全に「作品」としてその出自を問わずに享受できるレベルでした。この二作品に、準決勝会場で見た沖縄開邦高校「保健室の住人」を加えた三作品は、完全に他作品と段違いの力をもっており、昨年のNHK杯決勝は、テレビドラマ部門については、その意味できわめて納得できる、いわば「当然」という印象で発表を聞いていました。その中でも完成度の点で図抜けている「転校ものがたり」が優勝であろうとは予想していたのですが、審査結果を聞いたときは、むしろ自分の判断と審査員の判断が一致したことに安堵したものでした。
 今年度もまた準々決勝からテレビドラマ会場に居座って、玉石混淆の作品群につきあったのですが、私のいたA会場で青森工業高校「Tais-man」を見た時の驚きは、昨年の「ねえさん」「転校ものがたり」に匹敵していました。このレベルの作品が去年に続いて出てきたのか、と。
 夜、宿でB会場の上映作品を録画してきた生徒達と、いくつか印象的だったという作品を見た際、北海道の小樽潮陵高校「椅子」と貴校の「遠過ぎた飛行機雲」に、やはりうならされました。とりわけ「飛行機雲」の、戦時下の高校生という設定もさることながら、前半で二人が飛行機雲の正体を知らないという設定が明かされるやりとりの時点で、これは尋常じゃないぞ、と居ずまいを正され、その後、最後まで、その世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が尋常なレベルではない作品の力に圧倒され続けました。
 準決勝会場では、当然のように進出した「椅子」「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」をあらためて見直しながら、これは昨年驚かされた「転校ものがたり」らのレベルに肩を並べていると思っていました。あえて言うなら「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」の二作品が「転校ものがたり」と同等のレベル、「椅子」と「美術室のアイツ」がそれに次ぐレベル、以上4作品とそれ以外の作品との間にも大きな開きがある、というのが二日間見終わっての感想でした。
 決勝会場では、昨年の結果に対する信頼から安心して、上記4作品のうち3作品が決勝に進出しているものと、当然のように思い込んでいました。それが、あの結果です。信じがたい、という驚きとともに思い出されたのは、準決勝の審査員の選評です。
 貴校の作品が優良賞にとどまったのは、おそらくその完成度の高さゆえです。選評において審査員のNHKディレクターの中村氏は「映画っぽい作品が多かったという先生方の感想」があったという趣旨のことを最初に述べていました。それが第一声だったのは、おそらくこうした意見が審査結果を左右したことの表れです。中村ディレクターが個人的にそれについてどう考えているかは、あのコメントの中ではわかりませんでしたが、審査員団全体として、テレビドラマの審査においてわざわざ「映画っぽい」という感想を述べるのは、作品の、「作品」としての完成度(完結性というか)をとりわけ意識した上で、それを肯定的にか否定的にか判断していることの証左です。
 そのうえで、今年度の準決勝審査員は、「映画っぽい」作品より、高校生が作る「テレビドラマ」を上位に置きたいと考えたのです。商業ベースにのせても評価できる完成度の高い作品より、あくまで「高校生らしい」、未熟な作品の中から入賞作を出したかったのです。
 これは、私にはきわめて不健全な判断であると思われます。もちろん、完成度の高い「映画っぽい」作品より、「高校生らしいテレビドラマ」を選ぶという立場も、理屈としてはありうるのでしょう。放送活動は報道活動であり「作品」づくりの場ではないのだ、とか、完成された作品より未完成な作品の方が可能性を残している、とか、そもそも高校の放送活動は教育の一環なのだ、とか。
 あるいは単に「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」の方が好きだ、とシンプルに思う審査員が多かったのだとすれば(ちょっと信じがたいのですが)、それはそれで仕方がないとも言えます。人の「好み」はいかんともしがたい。しかし、何らかの「評価」をするという意識があって、「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」を高く評価したのなら、その批評眼の欠如は驚くべきものです。
 一方でおそらく私には、高校の放送活動というものへの思い入れが欠如しているのです。私は単に私を感動させてくれるものを見たい(聞きたい)。破天荒な未完成が面白いならそれもまた良し、です。プロの作るテレビ番組にはない「高校生らしさ」が面白いなら、結果オーライです。それが面白いなら。
 でも単に未熟さや稚拙さでしかない「高校生らしさ」や、映画に嫉妬しているだけの「テレビドラマらしさ」をことさらに持ち上げて、完成度の高い作品を排除しようとする心理が、高校放送に携わる審査員に働いたように思われてならないのが、この審査結果に感じる後味の悪さです。
  私が「不健全な」といったのは、生徒達が真摯に自分達の作品を作り上げようとするとき、それが自分達にはまったくあずかり知らぬ「高校生らしさ」という要素の有無によって評価されてしまうという事態です。作品は、単に自分にとって面白ければいい。最終的な評価者は自分だけだ(もちろんスタッフは複数いるので、それぞれにとっての「自分」ですが)、と信じて、より良いものを誠実に、真摯に作っていくしかない。その果てに、多くの人が認める「良い」作品が生まれるのではないでしょうか。そのことに誠実であり、なおかつ特別な才能のある者がスタッフにいた幸運なチームが、結局「良い」作品を作り上げるのではないでしょうか。そうした幸福な作品を、素直に讃えるコンテストでなかったことが(今年のテレビドラマ部門については)、残念でなりません。
  決勝進出の三作品については、「美術室」は前述のとおり、それなりに納得のできる質の高さをもっていて、なおかつ「高校生らしさ」を備えていました。決勝に進出した時点で、これが優勝であるのは納得されるところです。しかし同テーマの作品としては2008年の優秀賞、青森県立田名部高等学校の「壁」の方が力があると思います。
 「空色レター」は、ソツなく作ってくるなあと、悔しく思いました(「悔しく」というのは、それなりに手が届く、という感触を含んでいます。「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」にはそのような対抗意識の生まれる余地がありません)。
 「恋文」は「なんでこれが?」というのが感想です。むろん好感の持てる作品であるのは間違いないのですが、準決勝進出作品の中でこれが抜きん出ているとはとても思えません。よって決勝進出三作品にもかなりの開きがあるものと思われ、結果の順位は納得のいくものでした。
 貴校の「遠過ぎた飛行機雲」は、本当に素晴らしかった。先に述べたように世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が、です。どんな才能の持ち主がいるのだ、と驚嘆したのですが、それもそれを支えるスタッフあっての作品です。ごくろうさま。そしておめでとう。このように「幸福な作品」を生み出せたことに対して。
 主人公二人以外の誰の姿もないあの作品の世界が、思い起こす度になんだか郷愁のような懐かしささえ感じさせます。高校生が素直に夢を語ることの困難と、困難故の安穏を、戦時下という設定で描いたあのテーマは、実はそっくりこの現実の抱える困難の裏焼きではないか、と考えるのは穿ちすぎですか?
 二週間以上も過ぎてまだもやもやと晴れないもどかしさをつらつらと書き綴ってしまいました。審査員に向かって言いたいことではありますが、こういうのは当人たちに向かって言っても仕方がないのが世の常です。せめて素晴らしい作品を作った皆様に、こういう感想を抱いた参加者が、きっといっぱい(とりあえず私の周りにも)いるのだということをお伝えしたくて筆を執りました。
 またお互い、良い作品を持ち寄って、来年もお会いしましょう。
佐賀県立有田工業高校 放送部様

 このメールを出してしばらくして学校に連絡が入った。所用で上京するこの放送部の顧問の先生が、上京のついでに面会したいというのだった。
 思ってもみないことだった。

 2時間ほど、あれこれと高校放送業界のことやら、「遠すぎた飛行機雲」その他の作品のことなどお喋りして、ついでに有田工業高校放送部の作品集DVDをいただいたのだが、今回、久しぶりに、DVDに収録されている「遠すぎた飛行機雲」を見直してみた。
 もう何度観たかしれない。やはり素晴らしい。本当に奇跡的に素晴らしい。そしてそれは単なる偶然のような「奇跡」ではなく、まぎれもなく部としての力の集積でもあり、真摯で誠実な努力と、あまりに真っ当な技術力の賜物なのだった。
 これが上記のような評価をされるNHK杯とは、いったいどこに向かっているのか。

2015年8月9日日曜日

『閉ざされた森(原題「Basic」)』監督:ジョン・マクティアナン

 ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンというのだから安い映画ではなかろうと観始めた。軍の訓練を舞台にしてはいるが、戦争物ではなく、サスペンスというか、結論を言えばミステリーだった。
 いやあ、面白かった。ネットで評価の低い人の言うように、確かにアメリカ人の顔と名前が覚えられなくて話がわかりにくい。が、幸いにも録画して、しかも途中で何度も確認して先へ進めたので、二転三転する真相が明らかにされていく展開の前の段階で、ある程度の人物関係を把握できた。だから、この映画の肝であるどんでん返しは充分に楽しめた。どうもミステリーらしいという情報を先に得ていたのは、この際、ラッキーだった。事件が把握できないまま結論だけ知ってしまったら残念な印象に終わってしまったかもしれない。
 『戦火の勇気』も、戦場を舞台にした、いわゆる「藪の中」もの(関係者の証言が食い違っているから真相が確定されない、という)だった。もちろんあれも面白かったが、『閉ざされた森』はそれ以上だった。結末前のカーニバルを背景としたシークエンスの迷宮感と、大どんでん返しの最終結末が明らかになる時の快感が見事だった。しかもありがたいハッピーエンド!
 もしかしたら、よく考えれば『ツーリスト』同様の矛盾がどこかにあるのかもしれないが、それも次回観る時に探してみようという気になるくらいには大満足だった。誰の作品だ? と思ったらジョン・マクティアナンじゃないか! 『ダイ・ハード』はオールタイム・ベスト10作品だ。『プレデター』の1作目もそうなのか。おまけに脚本のジェームズ・ヴァンダービルトって人は『ゾディアック』(デビッド・フィンチャー監督)の制作と脚本も手がけている。こちらが知らなかっただけで、最初から期待してもいい作り手の作品なのだった。

2015年8月7日金曜日

『エイリアンズVS.プレデター2』

 『エイリアン』シリーズも『プレデター』シリーズも全部観ていて、『エイリアンvsプレデター』も面白かったから、観ない理由はないんだが、観始めるとなんだか見覚えがある。この感じが怪しい。既視感のある場面もありつつ、まるで記憶のない場面が大半という、このパターンは時々あるな。つまり観てはいるが、どうでもいい映画だったというケースだ。
 錚々たる監督の並ぶ『エイリアン』『プレデター』本家シリーズはどれもエンターテイメントとしてよくできた映画ばかりである。『エイリアンvsプレデター』も、『バイオハザード』シリーズのポール・W・S・アンダーソンらしい隙のない物語運びだった。
 何も南極にプレデターの遺跡があるとか、『プレデターズ』のようにどこぞの惑星を舞台にするとかいう大がかりな物語設定にしなければ面白くないというわけではない。地球の、我々のいる街に舞台を置くのはむしろ予算をかけないで良い映画を作ろうという志さえあれば悪くない選択だ。
 そうであればこそ、とにかくも脚本と演出の勝負ではないか。この日常に化け物を放り込んで起こりうる小さなドラマを積み重ねてサスペンスを盛り上げるか、そうでなければやはり物量作戦のロケと特殊撮影だ。どちらも中途半端な本作は、やはりたぶん観たことがありながらもその程度の印象しかない凡作だった。

2015年7月28日火曜日

『シンプル・プラン』(監督:サム・ライミ)

 原作は当時話題だったし監督はサム・ライミだし、見とこうと思って機会がなかった。
 事態が悪化の一途を辿る展開は決して気持ちの良いものではない。むしろ嫌な気持ちがするといっていい。だからこそ、かろうじて、最悪の結末の一歩手前で決着した結末に、いくぶんホッとしたりもして。
 もちろんだからといってハッピーエンドなどではありえない苦い結末の、主人公のアップが、それはそれで映画としては味わい深いともいえる。

 それよりアメリカ映画を観ていると、その生活感覚のずれ方がなんだか不思議だ。あのデカい家に住むのが当たり前で、日本人からすると普通の生活をしているように見えるのに、それでは不満だと感じている。犯罪に踏み込んででも、偶然に手にしたその金を自分のものにしたいという欲求が、日本人にはピンと来ない。
 あれは、「アメリカン・ドリーム」が基準になって「成功」がイメージされているからこその裏返しの悲劇なんだろうと思う。

 それにしても「死霊のはらわた」とも「スパイダーマン」とも全く違うサム・ライミの、真っ当な映画監督としての才能に納得させられる佳作ではある。

2015年7月12日日曜日

『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』

 またしても「TSUTAYAだけ!」。終末物に「バーチャル討論会」とかいう謎の煽り文句に惹かれて。
 始まってみるとなぜか舞台がジャカルタだし、終末物だというのに原題は「哲学者」だし、どういうこと? 登場人物たちはアメリカ人らしいけど?
 なんとインドネシア映画なのだ(見終わってから調べてみると)。となればもう前回の『FIN』同様、アメリカ映画を観るのと違って、CGの粗さにも許容水準がすっかり下がっている(逆にアメリカ映画は映像がどれほどよくできていようが、もうそれがどうした、という気がしてそれ自体をプラスに評価する気になれなくなっている)。

 で、結論を言えば大傑作だった。もうオールタイムで何十作かを選べばそこに加えてもいいと思えるほど満足したのだった。
 物語は、高校の哲学の授業で、核戦争で人類が滅びようとする時、核シェルターで生き延びさせる10人を選ぶとしたらどうする? という思考実験をする、という話。思考実験の中身が劇中劇としてCG合成のSF劇として描かれる。教室の場面がいきなりそこに接続する時の目眩のような感覚も面白いが、都合3回試行される思考実験の劇中劇の意味合いが現実の授業の人間関係と重なり合っていく構成が見事。これは映像とか演出とか演技とかではなく、とにかく脚本のできが素晴らしいのだ。
 この、映画内現実と劇中劇がミルフィーユになっている構成といえば、昨日観たばかりの鴻上尚史の「ハッシャ・バイ」が偶然にもそれで、娘が演出しているので観に行ったところ大感動して帰ってきたばかりだというに、妙な符合だ。
 そしてどちらも、ちゃんとテーマが「わかる」と感じられたところも満足感を得られた大きな要因だ。
 「ハッシャ・バイ」では、簡潔に言うと母親への愛憎、ということになるだろう。自立するために母親の支配から逃れなければならないことと、母親への愛情の間に生ずる葛藤をどう乗り越えるかが物語に方向性を与えている。
 「ラスト・ワールド」では、合理的判断よりも情緒的な判断の方が正しい可能性について、あるいは実学よりも芸術の方が生きる上で必要な場合がある、といったようなところか。これは佐野洋子の『嘘ばっか』の中の大好きな一編「ありときりぎりす」ではないか。きりぎりすの奏でる音楽が最初、雑音としか感じられなかったアリが、ある時、その音楽によって世界が輝くように感じられる場面が感動的なのだが、『ラスト・ワールド』でも終末において音楽の果たす役割が感動的に描かれたある場面では、あやうく泣かされそうになった。
 そして前回の『FIN』との決定的な違いは、ちゃんと物語が落ちているところだ。しかも実に見事な着地だ。伏線は回収されるし、テーマが強調されつつハッピーエンドに終わる。なおかつアンハッピー・エンドの結末までも「思考実験」的リフレインの手法で描かれもし、だからこそこれはハッピーエンドなのだと腑に落ちる。素晴らしい。

 ところでまたしてもネット上の評価は芳しくない。
 「逃した魚は大きいぞ」の批判は実に尤もだと思いつつ、大いなる満足が上回っている。
 「365日で365本 映画を観るブログ」は丁寧な感想を綴って大いに好感がもてる。
 とまれ監督・脚本のジョン・ハドルズはここに記録しておこう。
 

2015年7月10日金曜日

『FIN(邦題「ザ・エンド」』監督:ホルヘ・トレグロッサ)

 TSUTAYAの棚で見つけて、終末物やサバイバル物が好物の嗜癖が反応してしまった。それに『28週後…』のプロデューサーと『永遠のこどもたち』の脚本家という宣伝文句に期待をかけて。
 といいつつ、実はたぶんそれほど期待はしていなかったのだ。「ザ・エンド」だし(なぜ「ジ・エンド」ではないのかは結局わからない)、スペイン映画だし、「TSUTAYAだけ!」というDVDリリース自体がまず怪しいし。
 この、期待値の低さは精神衛生上大変好ましい結果を生む。実に満足したのだった。良かった。良い映画を観た。
 アメリカ映画を観るつもりだと許せないようなCGの粗さも全然許せるし、たぶんドローンによる空撮だって、空撮が入ること自体が予想外だったから、「おおっ! 空撮か!」とか、期待以上のような気がしてしまう。だからといって空撮が効果的であるような場面でもないのだが、そんなことは好印象に覆われてもうどうでもよくなっている。
 スペイン映画といえば最近では「REC」だが、なるほど、あの粗い手触りだ。
 集まった主人公たち数人を残して、どうやら全ての人間が消失してしまったらしい、とか、主人公たちも一人ずつ消えていく、とか、ノスタルジックなディストピアのテイストが満載の展開は、演技やカメラワークを含めた演出が確かならもう楽しくてしょうがない。人物描写も簡潔でいながらリアルな手触りを感じさせるし、スペインの山岳地帯や街並みがえらく綺麗なのも、どうしてこのSFサスペンス映画に!? という違和感を感じさせて良い。唐突な動物たちの、これでもか、という登場も異常で良い。異常なことが、単なる安っぽさや頭悪さと感じられないように作られている時には、それは異化効果となって表れるのだ。
 もちろん、あの、何も伏線を回収しない結末にはがっかりした。ここまで期待させておいてこれか、とは思った。が、それがネット上に溢れる、この映画への呪詛のようには、逆転しなかった。がっかりはしたが、それはそこまでの好感を減退させるものではなかった。もうそこまで楽しんだから、トータルに言って「良かった」でいいじゃん、という感じ。
 そうかあ、みんなそんなにこの映画に怒ったのか。もう散々な言われようなのだ、ネット上では。星一つ半って、何?
 そのなかではこのサイトの詳しいレビューが素晴らしい。

2015年7月8日水曜日

『震度0』 ドラマ版

 横山秀夫原作もので『半落ち』以外に何か、と探したらTSUTAYAにあった。映画かと思いきやWOWOWのドラマだった。
 さて結論を言うと、前述の『64』『クライマーズ・ハイ』に比べるとかなりおちる。テレビドラマ的な安っぽさはない。安い映画、くらいの画面の深みはある。が、そもそもNHKドラマの『64』『クライマーズ・ハイ』が異常なのだ。あのクオリティが。
 同時に、どうやらこれは原作の問題でもあるらしい。未読だが、アマゾンのカスタマー・レビューによれば、私がドラマを観たのと同様の不満を原作小説に対して抱いた読者も少なくないらしい。そしてそれは『64』『クライマーズ・ハイ』では満たされていた魅力である。すなわち、魅力的な主人公の存在である。
 例によって組織の中で翻弄される人々がリアルに描かれてはいる。だが『64』でも『クライマーズ・ハイ』でも、だからこそその中でぎりぎりの選択を迫られる主人公の矜恃が光るのだ。それなのに『震度0』では、主人公が自らの出世コースを守ることを第一義とするキャリアでしかない。そう見えて上川隆也だから、どこやらで格好つけるのかと思っていると、結局そのまま権力闘争(しかも地方の県警内部での)で終わってしまうのだった。警察の正義は? 仕事への誠実さは?
 真相にリアリティを感じなかったのも不満の種だが、これはドラマの演出のせいか不明。
 これも横山秀夫原作ものに対する期待値の大きさ故のやむをえない渋い評価だ。

2015年7月5日日曜日

『ダレン・シャン』(監督:ポール・ワイツ)

 こういう映画のことを書くのはしんどい。それだけは自分に課しているとはいえ、こうどうでもいいと。このあいだの『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』みたいなのは、それはそれで言いたいことがあって、それなりに書きたいとも思うのに。

 原作未読。話題のダーク・ファンタジーに触れとくか、といったくらいの動機で。
 『ハリー・ポッター』も、読めばたぶん面白いのだろうが、映画でしか触れていない。『アズガバンの囚人』はなんといってもアルフォンソ・キュアロンだから面白かったが、それ以外はそれほど愛着はない。
 同様に、「ダレン・シャン」も、原作を読めば面白いのかもしれない(もちろんつまらないかもしれない)。が、まあ映画はこんなもんだろうな。聞けば原作ファンの間でも映画の評判は芳しくないという。続編が作れないほどだというから、この手のシリーズ物としてはひどい部類なのだろう。アマゾンのカスタマー・レビューも、あろうことか星の数が下へいくほど多い。
 いやまあ、それでも映画はそこそこ面白かったよ。原作への思い入れのないぶん、期待値も低い。肉弾戦がなぜかカンフー・アクションになっちゃうアンバランスさは、狙い所のわからん映画だとは思うが。主人公が後半になるにつれて格好良く見えてくるところなぞはちゃんと描けている。でもまあ、満足感のようなものを感ずるのは難しいなあ。やっぱり。
 それにしても重要キャストの一人、ジョン・C・ライリーは最近『おとなのけんか』で見たばかりだというのに、調べてみるまで同一人物だと気づかなかった。うーん、あまりに役柄が離れてて。

2015年7月4日土曜日

the HIATUS

 先々週末にthe band apartとTHE BAWDIESを借りたのを返したのと入れ違いに借りたのはthe HIATUS。
 いい。とりわけ「Shimmer」には驚いたが、こういうのはELLEGARDENファンからするとどうなんだろ。ELLEGARDENは、細美の声とメロディがなければ決して聴かないタイプのリズムのバンドだったが。




2015年6月30日火曜日

『ルームメイト』(原題「Single White Female」)

 今邑彩の「ルームメイト」をひとから借りて予備知識無しに読んで感心していたら、その少し後でそれがベストセラーになっているという記事を新聞で見た。妙なシンクロだと思っているとあれよと映画化と、あろうことか武富健治が漫画化する。映画も好意的な評価を見たりして、いずれは観たいと思うし、武富健治の漫画は連載では追わなかったがこれもいずれは単行本で読もう。
 というわけで『ルームメイト』だが、こちらは20年以上前のアメリカ映画。ルームメイトが実はサイコで…って話だろうとは思っていると、はたしてまったくそのとおりなのであった。そしてまったくそれ以上ではないのだった。悪いところはない。そつなくできている。サイコなルームメイトがじわじわと異常性を表して、とうとう監禁された主人公が反撃に転ずる、というあまりの予想通りの展開は、もうその恐怖の細かい仕掛けと演出だけが頼りのはずだ。これがあまりに凡庸。まったく予想を超えない。せめてどんでん返しがあるかと思っているといきなり放送が終わる(こういうテレビ放送はエンドロールを流さないので)。
 残念。週末に観るべきだった。

2015年6月27日土曜日

『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』

 気乗りはしなかったが、初期OVAやTV版、マンガと旧劇場版3作はもちろん全て観ており、とりわけ『機動警察パトレイバー 2 the Movie』を邦画No1と評価しているからには、何か、落とし前をつけねば、といった感じで観る。
 劇場公開の短編をいくつかと、次の『首都決戦』のプロローグ的なエピソードをテレビの映画枠に収めた放送。

 気乗りしないのは、これまで押井守の実写に総じて感心しなかったからだ。一部で評価の高い『アヴァロン』も面白くなかったし、劇場で観た『紅い眼鏡』ももちろん退屈だった(だが一晩中押井作品を観るという特異な企画で、明け方近くに観ていたラスト近くで妙に感動してしまったから、特別な印象はある)。
 劇場版の押井監督の1,2は上記のように邦画の中でも特別の位置にある。だが、脚本の伊藤和典が書き下ろした1の小説版は、そっくりそのままの小説化であるにもかかわらず、まるで面白くなかったのが、実に興味深かった。映画はもちろん総合評価であり、「脚本も凄い」と思っているにもかかわらず、映画の凄みは、その小説にはまるで感じなかった。2の小説版は押井の手になるもので、こちらは映画とはかなり違った角度から書かれており、これは面白かった(押井の小説は『獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE』も面白かった)。
 これは、映画に対する評価が、結局のところ総合評価でしかありえないことを示している。『バトルロワイヤル』の評価が高いことは原作の力ではなく深作欣二の力なのだろうし、先日の『生贄のジレンマ』も、仮に脚本が練り込まれたとしても、必ずしも良い映画になったとは限らないということだ。

 で、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』だが、期待しなかった分、強い不満も感じなかった。むしろ意外と面白い、とさえ思った。
 それでも、押井守のアニメに比べて、その力のないことは否定しがたい。
 実写映画は、恐らく「現場」が存在することで、とにかく無駄な映像が山のように積み上がってしまうのだろう。最初から描くことでしか存在を許されないアニメと違って、その映像は、作品の緊張感をぐずぐずにしてしまう。アニメの押井作品のような特別な世界を現出させることはない。
 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』がどれほどリアリティを目指しても、それは「実写のよう」になることではないし、『アヴァロン』があえてアン・リアルな映像を作っても、やはり撮影現場の空気感が作品からは感じられて、のめりこめない。
 それでも実写映画を作るのは、やはり制作が楽しいからなのか? 単にオファーがそれなのか? 誰が押井の実写を求めているのか?

2015年6月26日金曜日

『生贄のジレンマ』(監督:金子修介)

 『人狼ゲーム』『王様ゲーム』に続いて、「ソリッド・シチュエーション・スリラー」「バトルロワイヤル」「生き残りゲーム」枠で。
 そういえば深作欣二『バトルロワイヤル』も、かなり以前ではあるが観てる。タランティーノはじめ、外国でも評価が高い映画版は、やはり原作の10分の1も面白いとは感じられなかったが、それでも今思えば、映画的な面白さには満ちていたと思う。こういうのが好きじゃないと映画ファンとはいえないんだろう、とは思う。だが原作の面白さも感動もほんのわずかしか感じられなかったのは、やはり私が「小説」的な面白さに感応しやすいということなんだろう。

 ところで『生贄のジレンマ』である。どこかで原作の書評を見て、面白そうだとは思っていた。映画の監督も金子修介だし、上・中・下という長丁場もむしろ「我慢してつきあったが故の感動(というねじくれた楽しみ)」を感じられるんじゃなかろうかという期待もあって、3巻まとめてレンタルしてきた。
 最初の設定紹介からしばらくは面白くなりそうな期待があった。そう、「生き残りゲーム」ものは「タイムリープ」もの同様、物語を作りたい素人がアイデアを盛り込むには恰好の器なのだ。この設定・ルールで生き残りをそれぞれが考えるとしたら…と考えるだけで、無限にドラマが生まれてきそうだ。
 だが物語が進行するにつれ、これはだめだという感じが強くなってくる。みんな頭が悪すぎる。「生き残るためにしそうなこと」をしている気配があるのは、主要登場人物の周辺だけで、そのいくつかのチャレンジが潰えると、それ以上のアイデアが出てこない。時間が経つにつれて絶望が支配して、誰も何もしなくなる、という展開はあってもいい。だがその前に、時間が経つほどにみんながそれぞれアイデアを思いついて次々と試す、という展開がまず描かれるべきではないか。
 登場人物がみんな頭が悪すぎるというのは、つまり作り手の頭が悪すぎるということだ。あまりにも最初から思いつきそうないくつかの行動以外に、描かれていない場所で描かれていない関係者がそれぞれに生きて、時間を過ごしている、という感触がない。
 これはそこに生ずるであろうドラマの描き方についても同様である。ゲームとしての可能性がまるで考察されていないように、それに巻き込まれた人間達が過ごす時間の中で生きる「ドラマ」が、まるでありがちな学芸会レベルである。しかもやはり主要登場人物の周辺に生ずるそれしか描かれない。どんな端役の人物にだって、誠実に焦点をあてれば息をのむドラマが起こっているはずなのに。こんな極限状態ならば。
 結局、脚本と演出の問題なのだ。脚本は「このルールを生きる」ことの可能性をぎりぎりまで考察し、アイデアを出し尽くすべきだし、演出は「このルールを生きる」ことをぎりぎりまでリアルに想像すべきである。そうすればこんなひどいことになるわけがない。役者陣の演技には大いに失望させられたが、これはつまり演出の問題である。これほどの極限状況におかれた者達がどれほどの振幅で感情を動かすか、その狂気も、(期待することの難しい希望かもしれない)崇高さも、監督がリアルに想像できていないから、若い役者達にそれを要求できないのだ。
 金子修介は学生時代に講演を聴いたことがあり、そのときに制作中だった『1999年の夏休み』はその後観て、印象深い映画の一本だ。『毎日が夏休み』も大好きだし、『平成ガメラ』シリーズも面白かった。その彼にしてこの無惨な作品はどういうわけだろう。
 凡作ができてしまうのはやむをえない。なんであれ「面白さ」を生み出すのは容易ではなかろう。だが、大人が何百人も集まって、こんな惨状を止められないのは、日本の映画制作の問題なのだろうと漠然と思わざるをえない。上記のような高い志をもっていなくてさえ、こんなにつっこみどころ満載な展開、描写はいくらなんでも放置してはいけないんじゃないかという当たり前の良識をもった人間が、なぜ責任ある立場にいないのか。穴の中に落ちた者達が屋上で目覚める必然性はあるのか、とか、死んだ人間の中で、なぜ彼女だけが都合良く生き返るのか、とか、死んでいないのになぜその前に死んだとしか思えない描写を入れるのか、とか、中学生でも不審に思うはずの馬鹿な演出をなぜこれでもかと並べてしまうのか。

 小説やマンガには、最近、生徒に借りて読んで驚嘆した「鳥籠ノ番(つがい)」(陽東太郎)などのように、ルールから派生しうるドラマを、ゲーム的にもドラマ的にも満足できるレベルで展開した作品がいくつもある。「カイジ」「ライアー・ゲーム」「DEATH NOTE」などの堂々たる作品群は、人気、知名度ともに人口に膾炙しているといっていい。だがこれらの名作も、おそらく映画にしてしまえばその面白さは保てないだろうと思うから、映画は観ない。
 上記のような小説やマンガは、少人数(一人)で考え抜く、という作業を経ているのだろうと思う。これが、映画は時間や費用の制限が、「考える」ことよりも優先されてしまうという制作上の事情によって、上のような惨状を生じさせるのだろう。
 だがせめて、脚本を複数人のチームによって練るといった、たぶんゲーム業界やハリウッド映画・ディズニー映画ではひろく行われているであろう方法を、なぜ日本映画は採用しないのか。一人で書かれる脚本があってもいい。だが、この手のシチュエーションものは多面的な考察が命である。せめて「みんなで考える」ことでもしてレベルを保証して、小説のような低コストのジャンルならば「仕方ない」とも思える「無惨」さをなんとか回避してほしいと、他人事ながら思ってしまう。

 それにしても三部作で4時間あまりである。これも自分の責任とはいえ。

2015年6月15日月曜日

the band apartとTHE BAWDIES

 久しぶりにTUTAYAへ行ってみて探してみると、ウワノソラとかルルルズとかChouchouとか、やっぱりない。インディーズはどこまで置くんだろ。ceroがあったが、あれはメジャーなのか。
 で、the band apartとTHE BAWDIESを数枚。


2015年6月13日土曜日

『アパリション-悪霊-』

 時折、無性にホラー映画を観たくなる。どういう欠如に対する欲求なのかわからないので、どういう法則性があるのかはわからない。岸田秀あたりに言わせると、ホラー映画を観たがるのは、自我をわざと不安定にさせないと退屈だからだ、ということなのだが、安定しすぎて退屈な時に観たくなっているのかどうかは、点検したことがないので、とりあえず不明。
 で、そういう時用にと、深夜に放送されていた「戦慄のホラー」とかいう惹句の『アパリション-悪霊-』を録画しておいたのだが、気になって観てしまった。「そういう」時だとも言えないタイミングで。
 だめだった。『王様ゲーム』ほど、作り手の正気を疑うような出来ではないのだが、『パラノーマル・アクティビティ』とどこが違うのかまったくわからない。『パラ』の方が、ビデオ撮影による悪霊の存在確認という新味があって良かったくらいだ。
 悪霊の存在について、いやに大げさな大風呂敷を広げるのも印象が悪い。理屈も強引だし、黒沢清の『回路』っぽい、こちら側の世界が変わってしまったかのようなラストも、言葉でそういうほど、画としては感じられない。
 ジャンクな食べ物をとりあえず食べたい時用にやはりとっておくべきだったか。

2015年6月7日日曜日

『王様ゲーム』(監督:鶴田法男)

 この間の『人狼ゲーム』つながりで、観てみたくなった。好物のSSSではあるが、この出来は到底容認できない。
 アイドルの一人や二人は拒否するものではないが、グループが総出演ということから予想されるレベルというものがある。
 だが、それさえ下回る劣悪な作品だった。こういうのが小説や漫画ならまだわかる。ましてケータイ小説なら不思議はない。コストがかからなければ、どれほど劣悪な作品だって、世に送り出される可能性があることに不思議はない。だが、映画となれば、関わっている人間の数も費やされる金もケータイ小説に比べると桁違いに莫大なもののはずだ。それが、どうしてこのように劣悪なままで完成まで至ってしまうのかは本当に不思議だ。
 誰が観たって、それこそ中学生が観たって、突っ込みどころ満載の、そこら中が破綻しまくった設定・展開・演出のオンパレード。なぜ誰かがどうにかしようと言い出さないのか。言い出していくらかは食い止めてそれでもこの噴出なのだろうか。脚本家は投げ出してしまったのだろうか。プライドも評価も。何が彼をそれほどに自暴自棄にしてしまったのだろう。
 一方で、いくら破綻があったって、面白ければいいのだ、というポリシーも、それはそれで認める。だがどこだ? どこに面白さがあるのだ?
 たぶん、もともと出演者を知っている必要はあるのだろう。キャラクターの掘り下げがまるでないことが、ドラマを全く感じさせない原因なのだが(だからサスペンスも喜びも悲しみもない)、画面に映った姿が、おなじみのアイドルであると感じられる観客ならば、その重ね合わせと、そのギャップとで、キャラクターを把握できるのだろう。つまり一見さんお断りなのだ。
 それにしても、アイドル映画でありながら、とりわけ主演の二人にこれほど魅力がないのもまた不思議だった。どうしてこんなに不自然に濃いメイクをして撮ってしまうんだろう。そういうキャラクターがどこかのファンには求められているとしても、それはどうみても高校生の役ではないはずだ。
 脚本がひどいことは言うまでもないが、映画の責任は監督が負うものだ。どういうわけで黒沢清や清水崇が鶴田法男を評価しているのかわからないが、とりあえず今までも感心できる鶴田作品を観ていないものの、といってそれほどひどい映画だとも思わなかった。だが、こんなにひどいものは初めてだ。これを消せない汚点だとは思っていないのだろうか。本人は。
 もちろん現場には一人ではどうにもならない空気だの流れだの情勢だのがあるかもしれない。どうしたって「面白く」はならないかもしれないし、時としてしょうがないかと諦めも妥協もする場面もあるだろう。だが、これは誰もが看過してしてしまっていいレベルの破綻か?

2015年6月5日金曜日

『おとなのけんか』(監督:ロマン・ポランスキー)

 ロマン・ポランスキーだというので観始めると、面白い、面白い。止まらずに一気に観てしまった(ま、それが普通だ)。
 観始めてすぐに娘が「たぶん原作が舞台劇だ」と言うのだが、調べてみるとはたしてそうなのであった。映画化するだけの価値のある戯曲を、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレットというアカデミー女優を揃えて、ロマン・ポランスキーが映画化するというのだから、面白くないわけがない。
 圧倒的な奇想を見せつけられるといった体の物語ではないが、ひたすら室内で繰り広げられる会話劇は、そこここに感情の波立つ微妙な瞬間が連続して、実に見事だ。一部には、ここは笑うとこなのかなあ、居心地の悪い思いをするところなのかなあ、などと迷うところもあったが。テーブルの上に置かれて「高かった」などと話題に上がるチューリップは、あんまりきれいじゃないよなあ、と思っていると、やはり滑稽だと感じるべき代物であるらしいことが展開の中でわかったりする。
 ネットでは「オチがない」とかいう批判もあるが、最後のエンドロールのバックで、「おとなのけんか」を余所に、そもそもの原因となった「けんか」の主の子供たちはもうすっかり仲良くなっているらしい姿が映されているじゃないか。

2015年6月2日火曜日

映画を批評するサイト

 とりあえず映画を観たことだけは欠かさず書き留めるというのがこのブログのルールだが、「観た」だけではあまりに愛想がないので感想じみたものも書き加えることになる。そうなるとそもそも監督だの出演者だのについても調べなくてはならなくなる。結構な時間がかかる。
 肝心の映画の評価についても、やはり他人の意見が気になってみてしまう。世の中にはなんと熱心な(あるいは暇な)人がいっぱいいるのだろうと驚嘆してしまうのだが、映画レビューのサイトは、どれもまずあらすじの紹介をするところから始めるのである。その点はまったく不親切きわまるこのブログでは、そもそもレビューをする気がないのである。
 レビューのための心遣いと共に、やはり見巧者が多いのにも感心させられる。信じがたいほどの熱心さで、観た映画を批評する。このサイトが珍しく気合いを入れた『見えないほどの遠くの空を』『そして父になる』のような記事を、ずらりと並べたサイトも珍しくない。
 今日は、まったく別のリンクからたどって、ずいぶん凄い記事を並べたサイトだなあと感心していたら、それがつい前回の記事でリンクを貼っておいた『はじまりのみち』をとりあげた「k-onoderaの映画批評」というサイトであったことに、途中で気づいた。なんたる偶然。
 『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーション
などは、そのあまりの毒舌ぶりを痛快に思いつつ、その批判には実に納得させられ爽快でさえあった。
 ところがこの筆者が『かぐや姫の物語』についてはえらく高評価なのだった。
『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法
これと、前回リンクした「新玖足手帖が、まったく逆の評価をしているにもかかわらず、そのどちらもに納得させられるところが面白い。アマゾンのカスタマー・レビューなどでも、高評価と低評価のどちらにも説得的なレビューが見出せることがある。面白い。

2015年5月31日日曜日

『はじまりのみち』(監督:原恵一)

 録画されているこれを、例によって何の映画だかわからずに最後まで早送りしてみて、なんだかつまらなさそうだぞとは思ったが最後のエンドロールに、原恵一が監督だとある。消すのはやめて観てみる。
 だがつまらないのだった。観るのが不快なほどではない。というか手堅くも好印象、といった感じではある。だが、面白かったとはいえない。
 だが世評は好意的だという。宇多丸が褒めてる。
 それはもちろん『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』『アッパレ!戦国大合戦』が名作であることは言を俟たない。
 だが『河童のクゥと夏休み』は、期待が大きかっただけにいささか肩すかしの感があったのは否めないし、『カラフル』は、もうはっきりとつまらなかった。アニメーションの技術も演出も手堅く高レベルでまとめてくるのに、面白くはない(とはいえ『カラフル』は下記のような理由で「つまらない」というよりも、納得できない演出に違和感を覚えたのだった。それは「しんちゃん」映画では看過してもよく、それ以外の部分で感動させるから瑕疵とはならないのだが、リアリティを追求するタイプのこういった映画では致命的になる、といった違和感だった)。
 『はじまりのみち』も、浜田岳のキャラクターは良かったとか、主人公が母の顔の泥を拭うシーンは感動的だったとか、そこを褒めるなら異論はない、といった感じではある。だが全体として面白いとは言いかねる。どこを面白さとして提示するつもりなのかがわからん。脚本の段階で、どこかが面白くなりそうだという自信があったのだろうか。
 おそらく、リヤカーで病人を運ぶという「試練」と、木下恵介の映画監督としての再生を重ね合わすという狙いにその期待が担わされているのだろう。だが、どちらもまったく予想の範囲を下回る盛り上がり具合で、だからどうだということもなかったのだった。例えばキリストがゴルゴダの丘まで自らの掛かる十字架を運ぶ、ただそれだけの映画である『パッション』の、そこに込められた熱量などまったく感じられない。そもそも比較が無茶か?
 そうでなくとも、はっきりと意図してこれでもかと引用される木下作品が、どれもこれも本編よりも魅力的なのも困ったものだった。
 というわけで
三角締めでつかまえて
には共感しがたく、
『はじまりのみち』は敗北の映画である
に納得したのだった。

2015年5月27日水曜日

『かぐや姫の物語』高畑勲

 時間ができて、ようやく。
 だが『風立ちぬ』同様、書けない。観ながら、悪くない、場面によっては感動的でもある、さすがにアニメ技術は高い、などと思いながら、やはり端的に「面白い」とは思えなかった。そこら中のシーンに、見覚えのある「物語」の感触ばかりを感じてしまうばかりで。
 手間をかけずにああだこうだと言うよりも、世の中には異常な情熱でそうしたことを考察している人がいるから、素直にリンクをはる。
「新玖足手帖」
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
このブログ主が繰り返し言う「雑」という表現は実に腑に落ちる。あれほど丁寧なアニメーションをつくりながら、物語はかくも「雑」なのだ。
 同時に、あの丁寧で恐ろしく手間のかかっているであろうアニメーションも、例えば最近観ている「響け ユーフォニアム」の京都アニメーションの仕事を観ていると感じる感嘆と、さほど変わりはしないのだ。制作費8年、50億円とかいう劇場映画と、深夜テレビの週刊アニメの仕事が、同程度の感銘を与えるくらいだってのは、いったいどういうわけだ。
 それくらい京アニが良い仕事をしているともいえるが、一方で高畑勲の自然描写や人物描写が、それほどまでに古いということでもある。凝って凝って、金も時間もかけて、それは確かに良いものができているのだが、何か圧倒的なものを見せられたという感嘆もない。山野や草木や動物などの自然描写も、人間の描写も、実に予定調和的なそれに終わっているのだ。
 
 だが、もう一度観ることがあれば、違った感想になるかも知れないという予感もある。もしかしたら、何か違った感情移入の仕方を、主人公のかぐや姫に対してしてしまうかもしれない(だが間違った予感かも知れない)。
 ただとりあえず初見の感想としてふたつほど。
 オリジナル・キャラの幼なじみ「捨丸」と、ラスト近くで再会する場面、捨丸は大人になって妻子もいる身なのだが、これは惜しい展開だと思われた。あっさりと妻子を捨ててしまうかのうような捨丸には、むろん、オイオイとつっこみたくなるが、それよりも、設定自体が惜しい。都で成人したかぐや姫が久しぶりに幼なじみ「捨丸兄ちゃん」に再会すると、彼はまだ青年で、自分の方がもう彼の年齢を超えてしまっていた…という展開を期待してしまったのだが。かぐやの成長が早いという設定からは、そうした展開が可能だったはずで、それはすなわち、都に出て、田舎での「人間らしい(生き物らしい)」生活から隔てられてしまった哀しみ、というこの物語の描きたいらしいテーマに合うような気がするのだが。
 そういえばこの物語は「鄙/都」という対立が「人間界/天上界」という対立の入れ子になっているのだと思われるのだが、このあたりがうまく処理されていたのかどうかがどうももやもやとすっきりしないのだった。

 もう一つ。ラストカットの、天上の人々が去っていく満月に、赤ん坊のかぐやが重なる構図の、あまりのダサさは何事だ? 巨匠のコンテには誰も正直な感想を口にできなかったのか?

2015年5月20日水曜日

『ファミリー・ツリー』(原題:The Descendants)

 例によって、勝手に録画する設定を解除する方法がわからないままに録画されていた映画。放送の冒頭でジョージ・クルーニーが主演ということを知った以外になんの予備知識も無しに観始めたが、結局一気に観てしまった。が、このパターンは、主演のジョージ・クルーニーも合わせて『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」)だぞ、と思っていると、はたして映画もその通りなのであった。『デストロ246』の女子高生の言うところの「『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」。
 そしてまた、それがアメリカでは恐ろしく高評価だったというのも、観終わってから調べてみてびっくり。アカデミー賞の作品賞ノミネート!? 脚色賞受賞!?
 いや、良い映画だとは思った。観始めてすぐに先を観たいと思わせ、そのまま最後までひっぱって、なおかつ感動させてくれた。うまく作ってある。
 だが件の女子高生の言うとおりである。結局そういうことね、という以上のものはないのである。言ってしまえば、あまりうまくいっていない家族が、そのメンバーの死を契機に絆をとりもどす、という映画。そこに先祖伝来の土地を売るかどうかという問題をからめて、「家族」を「一族」に拡大する。やっぱり売らないことにする、とか、扱いのわからなかった娘達ともうまくいくようになるとかいった主人公をめぐる事態の好転もあまりに予定調和だが、まあ不調和を求めているわけでもないから、それはそれで不満があるわけではない。
 ただ、凄い物を観た、という感じにはならないだけ。良い物をみた、という感じではある。

2015年5月19日火曜日

『世界侵略: ロサンゼルス決戦』(監督:ジョナサン・リーベスマン)

 なんというか、「日曜洋画劇場」チックな映画である。いや、放送は「土曜プレミアム」だったが。
 録画しておいて、見始めたら、どうも観た覚えがあることに気づいた。一度観たといってもそれくらいの印象だということだ。もちろんよくできている。膨大なカットの一つ一つが大層な手間と金がかかっているであろうことは想像に難くない。編集も、人間ドラマもそれなりではある。
 が、結局面白くない。どうして地球を侵略してきた宇宙人が、地球人と通常兵器で良い勝負しちゃうんだ。しかも後半になると、味方は決して球にあたらない。最初の方で、いくら撃っても死ななかった宇宙人が、後半はバタバタと倒れる。物量で迫力を出そうとはしているが、結局緊迫感はない。
 意図的だというのだが、宇宙人の侵略を描きながらつまりは戦争映画なのだ。だとすると、あんな脳天気な戦争映画を作って良いと思っている脳天気さがもう許し難い。こういうアメリカ人の精神構造は、ちょっと理解し難い。もちろん「わかってやってる」ってことなんだろうが、やってるうちに、もうちょっと「深み」を描きたいとかいう色気を出したくなったりしないんだろうか。
 主演のアーロン・エッカートは、どこで観た俳優なのかと思っていると、『幸せのレシピ』のシェフか! タフな二等軍曹と陽気なイタリアン・シェフ。確かに顔は同じなのだが、まるで連想できなかった。

2015年5月18日月曜日

Chouchou、ルルルルズ

 昨日は籠もって仕事のような読書のような。で、その間にまとめてChouchouを聴いていた。
 もともと4年以上前の企画だというニコニコ動画の「NNIオリジナルアルバム『&』」(彩さんの「Life」はじめ、好きな曲がいくつもある好企画)の中の1曲、「eclipse」のレベルの高さに驚いてはいたのだが、よく調べずにいてそのまま3年以上が経ち、思い立って調べると、フルアルバムがCDで発売されたばかりなのだった。試聴してみるとどれも良い曲で、以前から懸案だったルルルルズと共に注文すると、もう今日には届いているアマゾンの手際の良さ。
 どちらもネットである程度おとした楽曲を聴けるのだが、いわばメセナ精神で。

 昨日、繰り返し聴いたせいで、とりわけこの2曲が朝からループしているのだった。

ついでにルルルルズも。

2015年5月16日土曜日

『64 ロクヨン』(横山秀夫)

 NHKの「土曜ドラマ」、『64』がすごい。ちょっと驚くほどの出来に思うところあって調べてみると、はたして『クライマーズ・ハイ』の脚本、演出コンビなのだった。やっぱり。大森寿美男脚本に井上剛演出。ついでに音楽は「あまちゃん」でブレークした大友良英ってところも共通。って、あれ、10年前なの!? もう!
 『クライマーズ・ハイ』は原作が先で、後からドラマを観て、その出来にびっくりした。さらに映画も観たのだが、テレビドラマ版は原田真人の映画版に比べてもまったく遜色ないのだった。さすがに原作の情報量は詰め込めないから、やはりそのドラマの重層性は小説には及ばないが、エッセンスは充分に伝わるだけの緻密な演出がされていた。演出が優れていると俳優の演技もそれに見合う水準に引き上げられる。いつも素晴らしい佐藤浩市も岸部一徳も、とりわけ素晴らしかった。

 で、『64』だ。ここでもピエール瀧が、あの電気グルーブのお笑い担当の顔とは全く別人の「鬼瓦」を見事に演じている。劇中で「鬼瓦」と呼ばれるに彼以上にふさわしい配役を見つけることはもはや不可能にさえ思える(映画版では佐藤浩市がやるというのだが、「鬼瓦」にはどうか)。
 むろん役者の演技だけではない。画面の隅々まで演出が行き渡っていて、そこにいる複数の役者が同時並列的に重要な情報を演じている。カットのテンポといい、カメラの切り替えといい、編集も見事で、画面から伝わってくる緊張感がすごい。

 で、いきおいに乗って原作を図書室で借りて、三日で読了した。休日を費やしての強行軍。「第三の時効」も「クライマーズ・ハイ」も、かつて読んだ小説の最高水準だったが、むろん「64」もその期待を全く裏切らない。組織における存在の有り様を問う重厚な人間ドラマとしてはむろん「クライマーズ・ハイ」「半落ち」にひけをとらないし、伏線を張っておいてそれを回収するミステリーとして成立しているところは「第三の時効」並み、つまりこれまで読んだ横山作品としても、単にかつて読んだ小説としても最高の作品の一つだった。
 あらためてドラマの『64』の続きを観てみると、さすがに原作で緻密に構築されているドラマは、全5時間のドラマでさえ省略されている。だが小説を読みながら、登場人物はすっかりドラマのキャストでイメージされていたのだった。

 ところで大友良英の音楽は「あまちゃん」のテーマからは想像できないほど美しいのだが、演出の井上剛は「あまちゃん」の演出でもあるのだった。この重厚な演出もまた「あまちゃん」からは想像できない。そしてピエール瀧もまた「あまちゃん」レギュラーだ。「あまちゃん」でも寡黙な男を演じていたが、あれは電気グルーブのピエールが演じても無理のない、裏にコミカルな味わいを秘めた役柄でもあった。が『64』の三上の重厚なこと。
 ついでに「あまちゃん」でヒロインの父を演じた尾美としのりと、彼の若い頃を演じた森岡龍が、『64』でも重要な役を演じている。森岡龍は『見えないほどの遠くの空を』で覚えたと思ったら、あちこちに出ているのだった。
 こんなところで「あまちゃん」関係者がつながってるとは(でんでんもちょっと出てたな)。

2015年5月8日金曜日

『塔の上のラプンチェル』

 ディズニー版のCGアニメの。
 この間の放送を録画して、それを二晩に分けて観たのだが、こういうのが既に映画に対する冒涜のような気もする(というよりむしろ「当たり前だ!」と言われてしまうかもしれない)。だが読書ではこういった、一部ずつを空いた時間に読み継ぐという享受の仕方が一般的だ。それは、それが望ましいというわけではなく、単に日常生活上の制約にすぎず、本当はやはり「一気読み」がいいのだろうが。
 さて、二晩に分けて観た『ラプンチェル』は、残念だった。最初の晩に娘と「ちょっと」と思って頭のところだけを観ようと思って、あれよと半分過ぎまで観てしまったのだが、それは素晴らしかった。映像も物語もラプンチェルの人物造型も、ディズニー映画の期待を裏切らないレベルで作られていると感じた。逃走シーン(追いかけっこ)の空間構成も見事だった。
 たぶんそのまま最後まで観てしまえば良い気分で観終えることができたのだ。だが、一日おいて後半を観ると、最後まで、気分の高揚を感じることもなく、気がつくと映画が終わっていた。集中力もなくて緻密に考察できるわけではないが、おそらく物語としては後半にそれほど感動的な何かがあるわけではなかったのだ。とりあえずは物語をたたんでおしまい、というだけで。

 一点。むしろ気になったことを。
 ラプンチェルが自分の生い立ちについて気づいてから、育ての親のゴーテルに対していきなり敵対してしまうのに違和感を覚えた。塔から落ちていくゴーテルの姿はデジャブだ。『マレフィセント』で、ステファン王が落ちていく姿が、そのドラマツルギーに対する違和感とともに思い出されたのだった。
 とはいえ、物語の構造は逆転している。「マレフィセント」では、プリンセスは育ての親のマレフィセントと幸せな結末を迎え、実父のステファンは「敵」として城から落下していく。一方「ラプンチェル」では、プリンセスが実の両親の元に帰り、ステファン同様、仰向けの姿勢で落ちていく「敵」を上から見下ろす構図で、育ての親のゴーテルが塔から落下していく。
 乳児誘拐という共通性の上に立って、この育ての親の扱いが正反対なのはなぜか。それはまあ原作の物語がそうなのだから仕方がない。だがそうした差異をよりもむしろ同質性の方が強く印象に残ったのだった。それはラプンチェルの、育ての親に対する執着のなさと、オーロラ姫の実父ステファンに対する執着のなさだ。それはキャラクター造型の問題と言うよりはドラマツルギーの問題だと思う。ステファンに対する、というのなら、昔恋仲だったマレフィセントが、ステファンに対していともたやすく敵対してしまうのも同様だ。どうしてそこにアンビバレントな迷いを描かないのか。
 「マレフィセント」を観たとき、どうしようもなく、その直前に観た「八日目の蝉」を思い出してしまった。これもまた幼児誘拐によって形成された母子関係を描いた物語だったが、二人の関係は、どうしようもない「かけがえのなさ」を孕んでいた。そのことの是非・正否・善悪ではない、唯一性・単独性。人はそれにどうしようもなく縛られるものではないのか。
 だが二つのディズニー映画では、そうした唯一性よりも、単なる善悪の二分割によって、生まれてから十年以上を共に過ごした関係があっさりなかったことになったり、血のつながりや子供時代の関係がなかったことになったりする。
 これがアメリカ文化の何かを意味している、などと大風呂敷を広げるのはやりすぎかとは思うものの、脚本のシステマチックな練り込みとあまりに不調和な拭い難い違和感が不思議なのだった。

2015年5月7日木曜日

『人狼ゲーム』(監督:熊坂出)

 偶然だが『パーフェクト・ホスト』に続いて、いわゆる「ソリッド・シチュエーション・スリラー(SSS)」の一本。好物だ。『インシテミル』(監督:中田秀夫)も、その設定から期待して観て、そのつまらなさに愕然としたものだが(未読の原作は米澤穂信だから、そんなにつまらないはずはないと信じている)、こちらはまあ期待値が低かった分、がっかりはしなかった。
 というよりむしろ、娘とともに大いに楽しんだ。あちこちで一時停止をしながら、真相を推理したりしたのだ。そういう楽しみ方でもしないと、映画そのものがもつ緊迫感やドラマの強さだけでは、やっぱりものたりない。
 もともとのゲームは子供たちと2、3回したことがあるだけで、どこを考えるべきかという勘所がわかるまでに至っていない。だが映画のように、ゲーム内の純論理というだけでなく、メタレベルの外部の論理を前提にすると、考慮しなければならない条件が飛躍的に複雑になることが、ちょっと考えてみてもすぐにわかる。これは時間をかければ「カイジ」や「DEATH NOTE」のような複雑な論理ゲームのドラマ性を追求することが可能な設定だ。
 もちろん、この映画はそこまでの作り込みはされているわけではなかったが、そうなる可能性へ通ずるワクワク感を感じさせてくれたところで、好印象を持ったのだった。
 惜しむらくは、ゲームの外部が存在しているにもかかわらず、登場人物達がいささかすぐにゲームのルールを受け入れてしまう。建物の内部の調査や、脱出方法の検討などが充分に描かれているとは思えない(充分に、である。それなりに描いてはいる)。その「メタ」な論理を物語に組み込むのは、制御が難しいのはわかるが、それをやればこうした「シチュエーション・スリラー」は、いくらでも面白くなりそうなのだが。

 ところで山田悠介が「バトルロワイヤル」をパクって以来か、この手のお話は、小説にしろ映画にしろ、俄かに増えたような気がするのだが、「王様ゲーム」「×ゲーム」「ジョーカー・ゲーム」「生贄のジレンマ」あたり、ちょっとまとめて観てみたくなった。うーん、実現に向けてどこかで時間がとれるんだろうか。楽しそうではある。それぞれは単独ではあまり期待はしないが、こういう企画の上でなら。

2015年5月4日月曜日

『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』

 「『Saw』シリーズのプロデューサーが仕掛ける」という惹句につられて。
 「ソリッド・シチュエーション・スリラー」という言い方も『Saw』か『CUBE』以降、一般的になったが、もともとそういう、金のかからない、アイデアと脚本の練り込み勝負のお話が好きなのだ。邦画のフェイバリット、ベスト3の『12人の優しい日本人』『キサラギ』もスリラーかどうかはともかく、「閉鎖された室内」ものだ。
 どんでん返しの続く展開の意外性は見事だったし、演出も手堅い。主演のデヴィッド・ハイド・ピアースの怪演も素晴らしい。ネットでも皆が触れる、テーブルに飛び乗ってのダンスは娘と繰り返し観て笑った。
 それに比べて室内から外へ出てのラストの展開は評判が悪いようだが、それも悪い印象ではなかった。室内も屋外もどちらも実にうまく描かれ、そうなれば、その落差が映画を立体的にする。途中に挿入される前日譚シーンと警察署内のシーンから既に、単なるサイコ物ではないんだな、と思えて好印象だったのだ。
 そうなれば最後まで「意外な展開」ということで評価できる。
 ちょっとした拾い物、という感じで観終えることのできた佳作だった。

2015年4月30日木曜日

『ボクたちの交換日記』(監督:内村光良)

 よせばいいのに観てしまった。
 センチメンタルで悪くないお話だとも思う。むしろ素人監督としては、意外に真っ当に作ってるなあ、と感心していた。
 「小品」ならばこういう味わいも許す。だが2時間近い映画では手放しで高評価はできない。単なる「センチメンタルで良い話」では。
 とりわけ、最後近くの伊藤淳史の演技は、あれだけうまい役者を使っておきながら、やはり演出の方向が間違っていると思う。最近のドラマで満島ひかりや瑛太の演技をすごいと思うときの「強い感情の放出」は、何も取り乱して絶叫するとか怒鳴るとかいう大げさな演技によって観客に感じ取れるわけではない。丁寧なリアリティの積み重ねと抑えた演技によってバネが圧縮されるようにして放出されているはずだ。
 終盤で、ゴミの中から題名の「日記」を探す場面、手当たり次第に半透明のゴミ袋を破いて、目指す日記をみつけるとその場で読み出し、あろうことかその場で返事さえ書く。だがその場には、ゴミの収集係が複数名、脇で立ち尽くしているのである。
 現実にはあまりにも不自然と感じられる行動をとらせてしまうと、そこに強い感情を乗せても、観客には共感できない。むしろ散らかったゴミを片付ける係の人の怒りを想像して、そちらに共感してしまう。映画の物語の動向とまるで関係なく。
 そんなふうに観客の気を散らすのは、どうみてもマイナスだと思うのだが。
 徒らに「ドラマチック」を狙って余計なことをするな! という感じである。

2015年4月29日水曜日

映画版『寄生獣』

 もちろん期待はしていない。山崎貴に期待していないのだが、あの『ALWAYS 三丁目の夕日』や『永遠の0』の、映画人による高評価は何なのだろう。もしかしてヒット作を生む監督は、それだけで業界から大事にされるということなのだろうか。『リターナー』だけは、息子の小さい頃に一緒に見て、面白かった記憶があるのだが。
 で、実に予想通りのつまらなさだった。
 原作を、3話読み切りだった最初の短期連載の時から読んで、大いにハマってきた十数年来のファンには、いくつかの改変がどうにも納得できない。深夜に放送しているアニメも、1話だけ見て、どうにも情けなくなってしまったのだが、どうしてわざわざ原作を変えるのが、よりによってつまらない方向なのだろう。原作をそのまま、ひたすら良心的にアニメにした『虫師』のような素晴らしい仕事は、しかしクリエーターには軽視されてしまうのだろうか。
 改変が、虚仮威しに「すごい」と言わせたいのだろうという意図が見え透いている演出に傾いて、あの、愚直にリアリティを追った原作の凄さを損なっている。例えば島田をしとめた石くれの遠投を、どういうわけで弓で射るという演出にするのか。あそこは、寄生獣の細胞によって能力の高まった新一とミギーの共同作業として、あの遠投に説得力と凄みを感じたのに、弓なんて、新一の能力を感じられないばかりか、どうして突然、弓道の達人になれてしまうのかも、ミギーの細胞がどうして糸状になってまであの強度を保てるのかも納得できない。
 原作と違うところをいちいちあげつらって、だから駄目だというつもりはない。原作が、読む者を否応なく興奮させていく力をどうしてもっているのか、むしろ謎ではある。その分析にこそエネルギーを使うべきかとも思う。とまれ、改変にケチをつけなくても、そもそも、島田の校内での凶行とそれによって起こるパニックの演出はなぜあんなに平板なのか。
 あ、それはそういえば、テレビ放送用のカットのせいなのか?

2015年4月20日月曜日

映画5本

 『見えないほどの遠くの空を』について書き倦ねて1ヶ月ほど経ってしまったという事情は前々回書いたが、それで滞っていた間の映画鑑賞について、まとめて記す。まとめてかまわないくらいに、書くことが思いつかない。

『風立ちぬ』(監督:宮崎駿)

あらゆるメディアに批評が出回りすぎて、今更感想が言えない。初期ジブリのように、問答無用に「面白い」とは言えないが、感動的だと感じたのも確かだ。子供向けとは思えないのだが、一緒に観ていた高校生も中学生も面白かったと言っていた。だがその面白さが、これと指摘できる形では意識できないのだ。
 ただ、『見えないほどの遠くの空を』を観た直後にこれを観たことが何やら妙な偶然ではある。堀越二郎こそ「遠く」を見続けた人ではないか。

『エヴァンゲリオン 劇場版Q』(監督:庵野秀明)

前がどうなっていたのかとか、全然思い出せないまま、とりあえず決着をつけなければという義務感で観るのだが、とにかくわからない。たぶん、前作を見直してもわからない。とにかく凄い作画のオンパレードであることだけはわかる。だが、物語的にも、アニメーション的にも、何が何やらわからない。画面の中で動いているものが、どういう状況のどの部分なのか、どういう全体像の物体のどの部分なのかがわかるように描かれているのかがそもそも怪しい。
 もちろん例によって「AC」(アダルト・チルドレン。当時の言い方では。その後の言い方では「厨二」)全開の台詞回しは、ひたすら鬱陶しい。映像演出と言いこの台詞回しと言い、観客に対する嫌がらせを意図的にやっているのではないかというのは、あながち邪推でもない気がする。

『サブウェイ123 激突(The Taking of Pelham 1 2 3)』(監督:トニー・スコット)

よくできたパニック・サスペンスだが、どうも、主演のデンゼル・ワシントンが『アンストッパブル』を連想させるなあと思っていたら、監督が同じだった。調べてみるとデンゼル・ワシントンでは『デジャヴ』も観ている。『エネミー・オブ・アメリカ』も観てるな。だが『トップ・ガン』は観てない。そうか、トニー・スコットという監督は『トップ・ガン』の人か。
 さて、映画としてはよくできてはいる。デンゼル・ワシントンもジョン・トラボルタも文句なくうまい。が、脚本がどうにも。ラストへ向けて、どんな予想外の展開が待っているのかと期待していると、何も起こらずに終わる。うーん、もったいない。こんなにうまく映画を撮る人なのに。

『ネスト(原題:The New Daughter)』

なぜ英語の題名なのに、同じ英語で邦題をつける? そして、どちらにせよ、あまりにわかりやすく映画の内容を予想させて、本当にその通りなのだ。
 ケビン・コスナーだというのに、なんだこのB級感は。家族のドラマかと思いきや、そのままクリーチャーもののホラーなのだった。それなのに、あの家族の葛藤は必要? あった方がドラマに厚みが増すということもあるんだろうが、どうにも不整合のまま。
 肝心のクリーチャーは、宇宙からやってきた生物とかいう設定ではないのに、今までどうやって生きてきたのか、全く不明。そして、姿を現すまでは凶暴そうなのに、姿を現すと気持ち悪いが、弱い。どうにもならない。

『ももへの手紙』(監督:沖浦啓之)

『人狼』は、やはり押井守の世界に引っ張られてそれなりの面白さがあったのだろうが、『もも』ではすっかりジブリだ。『トトロ』だの『千と千尋の神隠し』だの『もののけ姫』だののモチーフが見え隠れして、まるで新味はなし。台風の近づいてくる雨雲や風の描写などがすばらしいアニメーションではあったが、『ネスト』と続けて一緒に観ていた娘も一言「つまらない」だった。結局、脚本なのだ。ここでもまた、毎度のことながら。
 これだけのアニメーション・ワークが、『エヴァンゲリオン』同様、単なる贅沢な蕩尽に終わっている。そしてそれが快感になっているわけでもなく、ひたすらもったいなくて、残念。

2015年4月19日日曜日

『見えないほどの遠くの空を』2 ~テーマ 

承前

 もう一つは、この映画の語ろうとする「テーマ」についてである。
 そう、この映画はあからさまに「テーマ」を語る。映画どころか、監督がツイッターで語っている。しかも何本もの連続ツイートで、喋る喋る。いいのか、監督が自作についてこんなに饒舌で? これはどうみても地雷ではないのか?
 『見えないほどの遠くの空を』では、世界不況が深刻化し、グローバリゼイションが進み、情報が世界を埋め尽くす中、遙かかなたを目指すということは可能なのか、というテーマを赤裸々に語りたいと思ったのである。
『見えないほどの遠くの空を』の主人公は、絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きるのか。あくまでも未来を<遠くを>目指すのかで逡巡している。そんな古典的なテーマを描きたかった。
主人公が大学の映画サークルで作ろうとした『ここにいるだけ』は、「絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きる」というメッセージをのせた映画だ。それに対して反対していたヒロインが語るのは「あくまでも未来を<遠くを>目指す」べきという主張である。ヒロインは、幽霊になってまで主人公の前に現れて、そうした主張を繰り返す。
 こうしたテーマの対立は、なんだかとても懐かしい。70年代的だと言ってもいい(60年代的?)。学生運動に象徴されるような理想主義と、三無主義に象徴されるような現実主義。ある時期まではどうみても「立派」な理想主義が幅をきかせていたのが、それに対するカウンターとしての現実主義が、それこそ文字通りのリアリティを持って若者の共感を勝ち得るようになったときの感触は、何となく子供心に感じていたような気がする。
 それはそのまま次のミレニアムまで主流であり続けて、だから主人公は『ここにいるだけ』を撮ろうとしている。そうした認識が優勢であり続けることの理由はわかる。社会が複雑になればなるほど、社会に対する無力感は増すばかりであり、そうなれば「ここ」がいいのだと言うしかバランスはとれない。
 その中で「遠く」を目指すというテーマは新鮮、というより反動的だ。ただそれはかつてのような「理想主義」ではなく、劇中では「パンク」と表現されていた。ヒロインの言うところの「もっとめちゃくちゃでいいのに」だ。
 そういえば日常を指向する四畳半フォークと破壊を指向するパンクが同じく70年代に台頭したことは、それぞれ同じように「理想主義」への、別方向の反動だったのだろうか。

 さて、こうしたテーマの提出に対して私が最初に連想したのは、樹村みのりの1974年の短編「贈り物」だった。劇中で語られる「ここにいるだけ」のプロットは、まるで「贈り物」なのだった。
 あの人が残したのはそうした切符だった。もちろんそれは天国いきの切符ではない。あの人からわたちたちに手わたされた時、それは意味をかえてしまった。
 あの人が残したのは、夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符だった。
監督の榎本憲男の歳から考えて、樹村みのりも「贈り物」も、知っている可能性は充分ある。そして、そうだとすると、彼は70年代から引きずってきたであろうそうしたテーマへの現時点での解答として、あえて「天国」を目指すと宣言しているのだ。
 カウンターはいつも新鮮だ。差異こそ情報なのだから、反対側に移動した時に境界を超える瞬間は、精神に刺激を与えてくれる。夏の冷房も冬の暖房もそうした快感だし、オバマ大統領の「Change」も、政治家がよく口にするマニフェスト、「改革」も、中身が何だかわからなくても、何だか良いことのようなイメージだけがある。
 『見えないほどの遠くの空を』がこうしたテーマを語るのも、そうした反動が、ともかくも魅力的に見えているということではないのか?
 だが、それを表現するのに、会社を辞めるというのはどうなの?
 主人公は大学を卒業後、映像制作の会社に入って、クライアントの依頼に従って不本意な作品制作をしている。そこで「幽霊」に出会って映画のテーマとなる「見えないほどの遠くの空を」目指し続けるべきだという主張を聞かされ、その後、会社を退職する。
 この展開を見ながら、はからずもつい最近「MOVIEラボ」で岩井俊二がしていた話を思い出してしまった。岩井俊二も同様に映像制作会社で、クライアントの要求に従う「仕事」をしながら、徐々に自分の造りたいものを実現させていったというのだ。
 それができないこの映画の主人公に、どんな「遠く」を目指すことが可能だというのか? 見当もつかない。どんな希望も見出せない。
 もちろんそうした認識は映画の中でも、友人の口から表明されてはいる。曰く「インドにでも行くつもりか?」。「インドに行く」が「遠くを目指す」ことへの揶揄だとしても、にもかかわらず、この主人公はバイトをして金を貯めて、アメリカくらいには行きそうである。それは「インドに行く」ことと大同小異ではないのか?
 
 そもそも、最初に主人公の語る「ここにいるだけ」が、まるで樹村みのりの「贈り物」もどきでありながら、やはりそれが「擬き」にすぎないところが、カウンターのテーマを説得力の欠けたものにしている。
 「ここにいるだけ」のラストで、劇中の主人公は、ヒロインに向かって
けれどこれからは、お前と一緒に、小さくても確かなものの中に幸せを見つけようと思うんだ。それができたら勝ったようなものさ。
と語って、ヒロインの肯定を待つ。監督の「ここにいるだけ」はこの台詞を肯定する意図を持って作られようとしていた。それにヒロインが異を唱えるのだ。そこから、あくまで「遠く」を目指すべき、というこの映画のテーマが語られるのだが、その前に、待て、なんだこの安っぽい台詞は。「勝ったようなものさ」って、何事だ、このチャチい言葉遣いは。
 この台詞が「贈り物」の「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならない」の緊張した美しさに対峙しうるはずもない。「贈り物」の語っている生きる姿勢は、裏側に「浅間山荘」の狂気を湛えた日常に生きることのぎりぎりの決意なのだ。
 もちろん、この映画の最終的な姿勢が「勝ったようなものさ」を否定するところにあるのは承知している。だが、否定するつもりだから最初から安っぽくていいのだと監督(兼脚本)が考えているとすれば大勘違いだ。バランスするカウンターは、強ければ強いほど互いを高め合う。安い台詞を否定しても、こちらが軽くなるばかりだ。
 だから結局ヒロインの語る「見えないほどの遠くの空」も、J-Popの「ここではないどこか、今ではないいつか」を連想させてしまう。あまりに空疎なこのフレーズに比べれば「今ここで生きる」の方がまだしも健全な気がしてしまうのだ(そういえば神田沙也加の曲に、この定番フレーズに「だがそれはどこなんだろう」という突っ込みを入れている歌詞があって、ちょっと感心したことがある)。

 以上、もやもやとした観捨てておけない感じを語ろうとして、どうも批判ばかりを並べてしまったが、それでもこういう映画に対する基本姿勢は、「観捨てておけない」である。どうも気になる。こういうのはやはり一種の愛情と言うべきなんだろう。

 ところで、出ている役者をみんな「無名」と表現したが、渡辺大知は最近複数回テレビで見たし、主演の森岡龍が、再放送している「あまちゃん」に、主人公・アキの父親役・尾見としのりの若い頃の役で出ていたことを知って、なんだかこうしてひそかに世界はつながっていくのか、と妙な感慨を抱いたり。

2015年4月18日土曜日

『見えないほどの遠くの空を』1 ~映像トリック

 観た映画のことだけは書き留めておこうというのがこのブログの基本ルールだ。
 実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
 ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。

 観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
 この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
 ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
 だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。

 そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
 だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
 だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。

 それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
 ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。

 画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
 そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
 『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
 このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
 こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
 画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
 奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
 そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
 『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
 だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
 さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
 『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
 『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
 さて、『見えないほどの…』ではどうか?
 まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
 上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
 『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
 さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
 だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
 それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
 例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか? 
 あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
 結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。

 続く。

2015年4月11日土曜日

「読み比べ」というメソッド 10 ~「グローバリズムの『遠近感』」と「『映像体験』の現在」

 上田紀行「グローバリズムの『遠近感』」は、この教科書に載っている最後の評論である。ここでは、授業の様子をいささか実況中継的に記述してみよう。

 一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
 さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
グローバリズムは遠近感を喪失させる
近いことは心に響くが遠いことは心に響かない
恐らく生徒にとってこれはそれほど簡単な問いではない。生徒の解答は、いくらかの言い換えがあるものの、結局片方の趣旨しか言えていないか、二文の趣旨が単に直列されてしまうか、というものが多い。「つなげろ」ではなく「混ぜろ」だ、「代入するんだ」などと誘導しながら時間をかけて考えさせると次第に力のある者が次のような表現にたどりつく。
グローバリズムは、心に響くとか響かないとかいった感覚を喪失させる
  これはこの文章の趣旨として、きわめて的確な把握である。だがくりかえすが、こうした把握を生徒に理解させることが授業の目的ではない。生徒自身が、本文をこうして把握するようになることが授業の目的なのである。把握しようとする思考過程そのものが授業の目的を実現する手段なのである。

 続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
 最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
 「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。

   遠近感あり/なし                                          
      日本/アメリカ                                      
    工業化社会/ポスト工業化社会                              
   生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義    
      モノ/カネと情報                                    
   タイムラグ/瞬時                                          
                /メディア・IT技術、金融自由化

 ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
 二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
 これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
 対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。

「グローバリズムの『遠近感』」
   遠近感あり/なし
  生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
      モノ/カネと情報
                  /メディア・IT技術、金融自由化
   交換不可能/交換可能
  かけがえない/
       本物/複製

「『映像体験』の現在」
  実体験・現実/映像体験
   反復不可能/反復可能
   再現不可能/再現可能

  「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
 だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
 時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
「映像文化」の時代に「アウラ」が消失した。
グローバル化の時代に「遠近感」を喪失した。
  文型を揃えてみれば一目瞭然、両者が似ていることは印象として生徒にも感得される。
 さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
 同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
 コンピューター・ゲームで遊ぶ今日の子供たちは、原っぱで転げ回って風を額に受けたり、木々の香りを胸いっぱい吸い込んだりといった体験なしに、二次元のテレビ画面の中の映像とだけコミュニケーションを交わすといった子供時代を過ごしている。友達と喧嘩して体と体がぶつかり合うといった手応えある体験を知らずに大人になってゆく。「『映像体験』の現在」
 勝ち続けていたときの日本と同じく、アメリカの戦争もこれまで常に自国の外部で行われてきた。だからアメリカ人は、ゲリラを一掃しようと枯れ葉剤をまいてジャングルを破壊し、村々を焼き払うという行為がベトナムの人々にどんな喪失感をもたらすかを、想像することはできなかった。空爆で都市を破壊し尽くすことが、そこに生きる人々にとってどんな苦痛をもたらすことなのかも、自分の身に同じことが起こったらどのような状態になるのかというレベルでは感じることができなかった。「グローバリズムの『遠近感』」
 前者における、風の感触や木々の香り、友達との体と体のぶつかりあいが経験されないことは、後者における、土地や命が失われてしまう人々の喪失感に気づかないことに対応している。「複製・映像技術」は「メディア」に対応し、「二次元のテレビ画面の中の映像」には「遠近感」がない。「映像―対―現実という対立関係」はまだ人々の認識が「遠近感」のうちにあるということであり、「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく」というのは「遠近感」を喪失した現代人の認識を表現しているのである。

 もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
 さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
 シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
 結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。

  このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
 だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
  「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
 だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。

2015年4月8日水曜日

間奏2 桜に雪~cero

桜の散る頃に雪とは参った。
娘の入学式に出るため、珍しくしばらく歩く必要があった(いつも自動車生活なので)こういう日に、雪が降って、恐ろしく寒い。
今日は関東圏発のブログやらツイッターやらでは、この話題がどれほどネットに飛び交ったことやら。

 寒さに震え、家に帰ってからも沈鬱な空気の中で、心を奮い立たせてくれる良い音楽。

2015年4月7日火曜日

「読み比べ」というメソッド 9 ~「夢十夜」と「『見る』」

 漱石は「現代文」における「こころ」の採録率が圧倒的だが、「私の個人主義」や「国語総合」の「夢十夜」も、複数の教科書が採録している。第一学習社「高等学校 国語総合」も「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」を採っている(昔は「第三夜」が採録されていることもあったが、今はどこの教科書も「第一夜」と「第六夜」である)。

 まず枕に「第六夜」を読む。ここではあえて「解釈」をする。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことかを問うのである。
 授業で小説を読むことが「解釈」を「教える」ことだ、などと思っているわけでは毛頭ない。生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることである。だが一般に、小説を読むことが、いわゆる「解釈」することだと考えているわけでさえない。これは後に続く授業過程の伏線である。
 「解釈」への誘導として、明治という時代がどういう時代だったかを考えさせ、そこでの「自分」と運慶の違いを考えさせる。さらに、次の問いを投げかける。
ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
先の、「対比」を設定して文中の表現をどちらに位置づけるかを問う発問と同様、複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからである。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。
  こんな発問を思いついたのは、「第六夜」がしばしば芸術論として語られることに違和感を覚えたからである。運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が語る、
なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。
という表現は、確かにある種の「芸術」論のようにも読める。だがむしろこのように「芸術」を捉えるのは、芸術創造についての神秘思想、神話だと思う。
 それよりむしろ、この表現が意味しているのは、運慶の仕事ぶりが、熟練の職人の技だということではないのか?
 筆者の印象を言えば、この運慶は時代から突出するような形で出現する天才芸術家ではなく、むしろ伝統を形づくる職人集団の先頭に位置する者として描かれていると考えるべきだと思う。運慶と同じように仁王を彫れない理由を、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からだと「自分」は考える。運慶の仕事ぶりが、芸術家としての創作だとしたら「明治の木には」という限定に何の意味があるのか。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の木には」という形容が納得されるのではないだろうか。これはつまるところ、「第六夜」の主題をどう捉えるかという問題である。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。芸術作品と工芸品に区別を付ける必要もないのかもしれない。しかし明治に生きている運慶と仁王を掘り出せない「自分」との違いは、芸術家であるか否かという点にあるのか、職人か否かにあるのか、という選択的な問いは、「第六夜」をどのような物語として読むかに大きな影響を及ぼすように筆者には思える。
 だから「明治という時代はどういう時代だったか」を考えさせることも必須だ。そのうえで、運慶を芸術家として捉えることを否定するわけではないが、どちらかといえば私には、運慶は職人として描かれているように思える、と生徒には言う。それは「第六夜」の主題を「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったものとして捉えるからだ、と説明する。
 といってもちろん、ここでの「学習内容」としてこれを「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、この小説についての、私の納得のありようなのだ、と言っておくのである。これは次につながる「枕」である。

 さて、問題の「第一夜」が、「第六夜」のように、どのような意味であれ、腑に落ちる「解釈」の可能な物語だとは思っていない。この物語は解釈を目的として「使う」つもりではないのだが、考えたり話し合ったりすることに前向きな生徒達であれば、「第一夜」についても、結局この結末は何を意味している? などと聞いてみたくもなる。
  それが「解釈」であるうちは、まだ「枕」である。だが、しばし「枕」で遊ぼう。
 生徒に、次のような問いを投げかけてみる。
途中で数えることを放棄した自分は、どうして「百年がまだ来ない」と思ったり、百年経っていたことに気づいたりしたのか?
物語の因果関係が追える生徒は、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。
 だが、なぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのか。もちろんそれは、擬人化された百合の描写によって、読者にはあっさりと看過されてしまう疑問である。その百合は女の生まれ変わりだと言われれば、疑問を差し挟む余地はない。こうした奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。
 だが、にもかかわらず、本文を正確に読むと百合が咲いたからではなく、「暁の星」が瞬いているのを見て、「自分」は百年が経っていたことに気づいた、と書いてあるのである。これは何を意味するか?
 自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
つまり、百合を女の生まれ変わりだと認識することによって、百年の経過に気づくのではないのである。こうした論理は転倒している。逆だ。「百年はもう来ていたんだな」と気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったことが認識されているのである。
  この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。そのうえでこの描写の意味することを問う。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。これは、この瞬間に夜明けが近づいたことに気づいた、つまり、夢から覚める自覚が生じた、ということを意味しているのではないだろうか。それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。昼に対応する夜も描かれていない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ておらず、「自分」が「暁の星」を見た瞬間にそこまでの「百年」が一夜の夢として完結してしまうのである。
 つまり、「百年」とは夜明け、すなわち夢の終わりまでの期間を意味しているのであり、そこから遡って、女の約束が成就した、つまり百合こそが女の生まれ変わりだったのだ、という論理的帰結(というよりむしろ捏造)が生じているのである。
 この、後から遡って創作されたにもかかわらず、だからこそ強い納得を生じさせる真実の感触こそ、この小説がもつ「夢」の手触りである。

 管見に拠ればこうした解釈は一般的なものではないはずである(とりあえず目にしたことがない)。生徒にはもちろんこうした解釈のあれこれを語って聞かせるだけで、それを「教える」つもりはない。つい寄り道をしてしまったが、やはりこれは「枕」である。ここでの学習課題は、「第一夜」における「描写」の問題について考えさせることである。

 「第一夜」の文体の特徴は、過剰な叙景である。
 意識して読んでみると「第一夜」には異様とも言える頻度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。冒頭の一段落で具体的に見てみる。
 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
  斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない描写である。こうした、前後をつめても読める形容や映像の描写に傍線をひかせる。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 上に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は線引きの難しい問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない(上の斜体と傍線も厳密な区別ではない)。だが、考えさせることで、この小説の文体の特徴を実感する手がかりにはなる。時間をおいて生徒に発表させ、「なるほど」とか「そうかな?」などと検討していく。
  試みにこうした形容や映像的描写を全文から取り除いてみるとわかるが、原文を半分ほどに詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、原文とほとんどかわらないような印象があるはずだ。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で盛り込まれているのである。

 さて、ここまでの過程は、次の課題を提示するための前振りである。
 「夢十夜」を取り上げたここまでの授業過程を、「『見る』」と比べよ、というのである。特に後半で茂木が論じていることと、ここまで「夢十夜」の授業で考えてきたことの間には、何か似たような点がないか? と問いかける。
  既に明らかである。後半の「絵画を見る」ことと、ここでの「小説を読む」ことが相似形なのである。
 我々がものを「見る」ということは、それを「要約」することなのだ、というのが茂木の主張の半分である。それが爪切りや小銭入れであるとか「モナリザ」であると認識することを茂木は「要約」と表現しているが、これは同時に、キャンバス上の絵の具のパターンを女の肖像と「解釈」することである。
 小説を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「要約」(「第一夜」で試みたように)したり「解釈」(「第六夜」で試みたように)したりする。それをしなければ、読んだ小説の文言は、茂木の描写してみせたホテルの一室のあれこれと同じく、「掛け流」されてしまうだろう。
 しかし、「モナリザ」を見る経験がそうした「要約」「解釈」といった「意味づけ」でしかないのだと茂木は言っているわけではない。後半で確認されているのはむしろ「要約」の際に切り捨てられていく「圧倒的な豊穣」もまた「モナリザ」を見るという経験の反面なのだということである。つまり「第一夜」を読むという経験は、それがどんな物語であったのかという把握(「要約」)と同時に、心の表面を流れていく「源泉掛け流しの温泉」の「圧倒的な豊穣」、つまりあの過剰な叙景によって形象され、感触される物語の中の時空間そのものを体験することに他ならないのである。

 したがって、茂木の言っているのが、指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」などでないことも明らかである。それは「絵画」といった限定に留まらない、我々の認識全般についての秘密なのである。

2015年4月5日日曜日

「読み比べ」というメソッド 8 ~茂木健一郎「『見る』」を読む

 「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を括る単元はただ「随想」と名付けられているだけであり、次の茂木健一郎「『見る』」と高階秀爾「『間』の感覚」は「評論三」という単元である。だが、そもそも現在の国語科教科書は「単元」という枠組みにほとんど意味を見出していない(現場の教師も同様である)。昔の「単元」とはある種のテーマ的な括り方がされていたものだったが、今では「小説」とか「詩歌」とか、単に文章のジャンル名を指し示しているだけである(若い教師は「単元」とはそういうものだと思っているかもしれない)。
 そして「随想」と「評論」は、それほどはっきりした境界などない。だから「絵はすべての人の創るもの」が「評論一」で、「『映像体験』の現在」が「随想」に収められてしまうという、何とも奇妙な括り方も、まあ目くじらをたてるほどのことはない。
 ともかく、「花のいざない」を捲って次に現れる茂木健一郎の「『見る』」はどう「使う」ことが可能か。

 「絵はすべての人の創るもの」について、指導書には、
「見る」を学習する際に、もう一度立ち返って読ませたい
と書かれていて、ある種の「読み比べ」が想定されているのだが、実際のところどういった授業展開を想定しているのかは不明である。一方「『見る』」の方には「絵は…」を受けた記述はない。こうした一方通行は、恐らく指導書の執筆担当者が別々であるためだろうが、惜しいことだ。
 もちろん、そうした「読み比べ」をすることにはそれなりに意義がある。両者を比較して気づくのは「人間の目/カメラ」という比較によって、人間の「見る」という行為の独自性を説明しようとする、という論理操作が共通していることだ。といって、この「読み比べ」は、読解過程の全体に渡るほどの射程はない。比較することで認識が深まるような関連性が見出せないのだ。「絵は…」の方は、先に述べたようにいわば受容理論や読者論などに通じる、作品を受け取る側に注目する芸術享受理論を語っているのに対し、「『見る』」は認知心理学的水準が問題にされているからである。
 だがそれを確認するだけでも意味はあることだ。ただ、そうした「読み比べ」に導かれて読解が進むと言うより、読解が進んでからの総括として考察することが可能な「読み比べ」だと言った方がいいだろう。
 そういう意味で「絵は…」と読み比べるならば、使用頻度の高い教科書教材としては清岡卓行の「ミロのヴィーナス(「失われた両腕」「手の変幻」とも)」が手頃だろうか。「芸術」という観点で共通性を考察させることで、両者の文章の核心を捉えることができそうである。
 例えば次の一節などは、「読み比べ」ることが可能である。
ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。「ミロのヴィーナス」
鑑賞がどのくらい多種多様であり、どんなに独特な姿を創り上げるか。それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。「絵はすべての人の創るもの」
芸術が、受け取る側によってさまざまに姿をかえること、そこに芸術の価値を見出すこと。「花のいざない」にも共通したテーマをここに認めることができる。

 翻って、では「『見る』」をどう読むか。「疑問形」を使ってみよう。これも題名を使うと容易である。「『見る』とはどういうことか?」である。もちろん、題名を見ただけでこの変換を考えさせるわけではなく、一読したあとで問うのである。こうした変換は、それが妥当なものであるという感触と相互に支え合って可能になるからだ。つまり、こうした「疑問形=問題提起」を想定するときには、その疑問・問題の答えが文中から見つかるはずだという予想ができているということである。漠然と読むことに比べて、こうした疑問を心に留めながら考えることの間には大きな差がある。問題意識が明確であれば、この文章のキーセンテンスが次の一文であることは、比較的容易にわかる。
    「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。

  さて「対比」はどうだろう。本文を読み進めると、すぐに「脳(に視覚的な記憶を蓄積するメカニズム)/ビデオカメラ(がテープなどの記憶媒体に映像を記録する機構)」という対比がみつかる。「人間の目/カメラ」もしくは「見る/録画する」である。この文章は「『見る』とはどういうことか?」という問題の答えを提示するものであるから、つまり「録画する」にはなくて「見る」にあるものを明らかにすることで論が進んでいくことが予想されるわけである。途中まではこの対比を意識することで、筆者が何を明らかにしようとしているかは読みとれる。
 半ば近くまで読み進めると上の一文が登場する。ここから「視覚的アウェアネス/要約」という対比が読みとれる。これは最初の「見る/録画する」という対比と同一軸上に並ぶか、と問う。並ばない。「視覚的アウェアネス/要約」は対立ではなく、二つ揃って「見る」という体験を成立させているからである。
 「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があると、しばしば生徒に言う。「見る/録画する」は「対立」、「視覚的アウェアネス/要約」は「並列」による対比である(ちなみに「読み比べ」によって併置される対応関係は「類比」である)。
 対比が提示されたら、「源泉掛け流しの温泉」「贅沢な空間性、並列性」「圧倒的な豊穣」「豊穣な喪失」などの表現も、どちらの対比の上下どっち? と聞くことによって、受け止める構えをつくることができる。これらの文言は、教師にとって、恐らく生徒にはわかりにくいはずだ、と感じられる表現であり、だからそうした文言が指し示す「内容」を「教え」なければならないと考える教師はその「説明」に頭を悩ませることになる。
 だが何度か触れたように「わかる」とは、情報の、何らかの位置づけができたということである。だから「どっち?」という選択肢の示された問いの形式は、生徒の思考を活性化させる上で有効である。「どういうこと?」という問いは、それを包括的に考えることこそ高度な要求として学力の高い生徒には投げかけたい問いなのだが、現実にはしばしば、生徒にとって思考の方向が定まらずに無為に流れてしまう。
 それに比べて、座標軸が定まると、考えるべき方向がはっきりする。上下どちらかを考えることは、この対比がどのような要素の対比なのかを考えさせ、同時に該当の表現が何を意味しているかを考えさせる。これらは再帰的に相互に根拠づけられるような思考である。もちろん生徒はそのことを自覚してはいないが。
 例えば「源泉掛け流しの温泉」は文脈上、対比の上項「見る」の側に位置づけられるが、それは「見る/録画する」という対比の対立要素のうち、上項の何らかの属性が「源泉掛け流しの温泉」と表現されることを意味している。そして「源泉掛け流しの温泉」と対比的な表現を考えるならば、例えば「沸かし直しの風呂」とでもいったような比喩になるだろう。こうした思考が、対比の意味と「源泉掛け流しの温泉」という比喩の意味を相互に往還しながら明瞭にしていく。

 さて、読解における「対比」の有用性をもうひとつ。
 「『見る』」の最初の4頁は、「見る」という体験の本質を、認知心理学的水準で明らかにしている、と捉えることができる。では、「モナ・リザ」を題材にした後の2頁は何を言っているのか? 指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」について述べているのだろうか?
 もちろんそれは間違ってはいない。だがそれでは、前半から後半にかけての展開の様相は、充分に必然のあるものとは感じられないはずだ。後半を読んで、「なるほどそうか、芸術というのは奥深いものなのだな」などと納得することが、「『見る』」を読んだことになるのか?
 そこで「視覚的アウェアネス/要約」という対比(並列)によって、前半と後半の関係捉え直してみる。すると、次のように表現することができる。
 まず「見る」という体験が「視覚的アウェアネス/要約」という二つの要素によって成立していることを明らかにしたうえで、最初の4頁は二つのうちの「要約」について重点的に述べ、後の2頁は「視覚的アウェアネス」も重要だということを言っているのである。こんなふうに表現してみると、「『見る』」全体の論理構造が一掴みにできる。
 これは、もう一つの読解ツールである「疑問形」からも納得できる捉え方だ。「絵画という芸術の奥深さ」といった捉え方は「芸術とは何か?」という疑問形に対応している。だが、文章全体の問題提起は「『見る』とはどういうことか?」と考えた方が妥当だろう。とすれば、上記「対比」による捉え方の方がそうした問題提起に的確に対応していることは明らかである。

 国語科授業のメソッドとしての「読み比べ」は教材理解にも有用だが、それのみを目的としたメソッドではない。つまり「読み比べ」をすると文章の内容が理解しやすくなる、と言っているわけはないということだ。そうではなく、有効な国語学習のためのメソッドとして、あるいは授業を構想する際のメソッドなのであり、その過程で余録のように、そこでとりあげた教材文の理解にも有用だと言っているのである。
 したがって、取り上げる文章を教科書収録教材に限定する必要などない。先の「ミロのヴィーナス」についての言及もそれを想定している。
 だが、第一学習社「高等学校 国語総合」には志村史夫「科学の限界」という文章が収録されている。この文中には次のような一節がある。
視覚的に、我々に〝ものが見える〟というのはどういうことなのだろうか。
この、「『見る』」で提起されているのとあまりに似た「問題」は、「読み比べ」に使えないのだろうか?
 残念ながら、それほど有用な「読み比べ」は期待できない。その点は「絵はすべての人の創るもの」同様である。
  「科学の限界」では「見る」ことは次のように説明されている。
物体から反射された〝可視光〟が、我々の視神経を刺激し、その刺激を大脳が認知することで物体が〝見える〟ということになる。
  これは言わば生理学的な水準で「見る」ことを捉えている。先述の通り、「絵は…」は読者論などのような芸術受容理論的水準、「『見る』」は大脳前頭葉における情報処理のような認知心理学的水準が問題にされているのだといえる。そしてそれぞれの文章は相互の水準にまで議論を広げることを目的としていない。そこでは共通した話題が扱われていながら、筆者の関心はほとんど重なっていないのである。両者を重ね合わせることで双方が「腑に落ちる」、という、「『映像体験』の現在」と「花のいざない」のような劇的な体験は期待できない。したがって、そうした考察はそれなりに意味はあるが、授業展開全体にわたる「読み比べ」は構想しにくい。

 「『見る』」と「読み比べ」ることが可能な評論教材としては、例えば大森荘蔵の「見る-考える」(『流れとよどみ』所収)などが想起される。この文章は、「『見る』」と「科学の限界」双方と読み比べると興味深い文章である。茂木「『見る』」と志村「科学の限界」の「読み比べ」がそれほどの有用性を見出せないにもかかわらず、茂木「『見る』」-大森「見る-考える」-志村「科学の限界」と並べてみると、面白いことにそこには濃密な関連性(比較可能性)がありそうには見えるのである。
  もう一つ、思い出すのは小林秀雄の「美を求める心」である。脳科学者である茂木が、全体として「要約」の方に多くの紙幅を割いて論じているのに対し、小林ははっきりと「視覚的アウェアネス」の方を称揚していると言える(もちろん茂木が小林のこの文章を知らないはずはない)。例えば、
見ることはしゃべることではない。言葉は目の邪魔になるものです。
などという一節は、茂木の用語を使うなら、「要約」に拠ってではなく「視覚的アウェアネス」そのものを味わうことが「美を求める」ことだと言っているのである。
 「当麻」の有名な一節、
美しい花がある、花の美しさという様なものはない。
も、「美しい花」が「視覚的アウェアネス」に対応しており、「花の美しさ」(=「観念」)が「要約」に対応しているのである。
 ここまで書いてきて、ここで小林が言う「花」が、世阿弥の「花」であることに突然思い至った。とすれば、これは観世寿夫「花のいざない」につながるはずだ。「花のいざない」―「美を求める心」―「『見る』」とつなげてみれば、そこには「花のいざない」と「『見る』」の「読み比べ」の可能性が浮上してくる。観世寿夫が「花のように舞台に立ちたい」というとき、小林の「美しい花」が念頭に置かれていた可能性は大いにあり得る。

  だがここではこれ以上の考察はしない。
 もう一つ、この教科書内で「『見る』」と「読み比べ」たい文章は、夏目漱石の「夢十夜」である。