2015年9月30日水曜日

『オカルト』(監督:白石晃士)

 白石晃士の映画は初めて。「フェイク・ドキュメンタリー」とか「モキュメンタリー」とか言われるスタイルでホラー映画を撮っている人として有名なのだということを知って観てみようと。
 この間の『誰も知らない』は、「ドキュメンタリー・タッチ」ではあったが、ジャンルとしての「モキュメンタリー」ではなかった。「モキュメンタリー」というのは、一応の建前は、「これはドキュメンタリーです」ということになっているフィクション作品のことだ。是枝裕和監督は劇場映画以外にもテレビ番組のドキュメンタリー作品もあって、だからこそ『誰も知らない』は、「~風」ではあっても、モキュメンタリーではない。はっきりとフィクションなのだ。にもかかわらず「実話に基づいている」という情報も付随するから、その実話の重みを引き受けて、なおかつそこにフィクションとしての想像力が生きている、とは言い難いという不満もあった。元になった事実をいたずらにセンセーショナルに変えてしまうセンチメンタリズムを求めているわけではなく、むしろ実話の重要な要素の重みが曖昧にぼかされてしまう反対方向のセンチメンタリズムが残念だった。
 といってもちろん、あれをモキュメンタリーにすればよかったと言いたいわけではない。その必然性がそもそもない。実話をヒントにしたフィクションということでまったく構わない。
 一方、白石晃士の『オカルト』は、「事実に基づいている」わけではない。純然たるフィクションで、そもそもエンターテイメントたるべきホラー映画である。だが手触りとしては「ザ・ノンフィクション」などのドキュメンタリー番組に近い。白石晃士自身がディレクターとして登場して、そのドキュメンタリー番組(映画なのかテレビ番組かはわからないが)を作っているのだ。
 海外のモキュメンタリーならば、「POV(主観視点)物」と重なった形でいくつかの作品を観ている。先日触れたばかりの『クローバーフィールド』、『REC』は良くできたイタリア映画だったし、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は大御所ジョージ・A・ロメロだ。もちろんブームの先陣を切った『ブレアウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』『フォース・カインド』などなど。
 だがそれらの作品に比べても、『オカルト』は格段に変な作品だった。どこへ向かっていくのか予想できない。どのくらいやるつもりなのか予想できない。「ドキュメンタリー風」を装うなら、あまり現実離れしたことはできないはずではある。その「あまり」の程度が事前に予測できない。うまいなあ、まるで本当にドキュメンタリーみたいだなあと思わせる、細部まで計算された脚本と演出、役者の演技が見事だ。だが、そこに「オカルト」な要素が入ってくる。といって、どの種類の「オカルト」なのかが事前にはわからないから、どこまでやるんだろ、と呆気にとられながら観てしまう。
 これが「ホラー」だと、心理的な描写と恐ろしげな映像の挿入で、予想の範囲内の展開になるのだろうが、実はホラー映画だと思って見ていると、まるで怖くない。グロテスクな映像もないし、怖い顔も出てこない。だからこそ、どこまでやるのかの予想が立たないのだ。
 そして実際にどこまでやってしまうのかというと、あれよあれよと『ムー』なのであった。幽霊やUFO、異次元に神のお告げ、古代遺跡に神代文字…。
 枠組みの揺らぐ感覚と予想を裏切り続けるという目眩で面白く観たのだが、最後の異次元は、あれは要するに「地獄」ってことなんだろうなあ。ネットではあれを擁護するような意見もあったが、私にはあれは蛇足に思えた。そこまでのモキュメンタリー様式をぶちこわしてしまうのは(もちろん意図的なのだろうが)、勿体ないと思われた。80年代の大林宣彦の悪ふざけは不快だったが、その感じを連想してしまった。最後まで「ザ・ノンフィクション」で終わって欲しかった。

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