2016年12月25日日曜日

『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を

 とりあえず何やらゾンビ物らしいと観てみる。B級であることは恐らく間違いない。邦題がどうみてもB級なセンスだ。それどころかC級の可能性も大いにある。
 だが、予算はともかく、邦題のセンスも日本の配給会社のセンスだからともかく、映画は創意工夫だから、まずは観てみないと。思いがけない拾い物をしたような気になれれば幸いだ。なにしろとりあえずホラーが観たいのだ。気軽に、気楽に。
 始まってみると、ざらざらした画面の質感がホラーにふさわしい雰囲気を醸し出している。暗く、不気味な、いかにものアイテムを陰影のあるアップで映す、とかいうのではなくて、疎らな雑木林を映す画面が、どういうわけだか精細とは言い難い粗さを感じさせる。古い映画だというわけでもないのに。さびれたアメリカの郊外、という感じの。こういうのが楽しい。
 まあ実際にはカナダ映画だというし、映画紹介によると島らしいのだが、ともかく昔、囚人の収容施設(そういうのを普通「刑務所」というだが、それらしい建物が写らないところが低予算だ)があったらしい人の訪れない(陸の?)孤島で繰り広げられる一夜もののゾンビ映画。
 そこに、登場人物の若者たちが法医学を学ぶ学生だという設定が加わる。これは効果的か。ちっとも。こんな特殊な設定が何かストーリー上の展開に活かされるような工夫をされているかというと、とてもそうは言えない。妙なものだ。最初の死体検分の研修の様子は妙によくできていたのに、それがゾンビものというジャンルに活かされたりはしない(わずかにヒロインがゾンビから逃れる時に、複数の薬品を混ぜた液体を「武器」として使う場面があるくらい)。例えばゾンビを捕獲して「検分」してみるとかいう展開は当然考えられても良さそうなのに。
 だがまあそこは残念ではあるが、妙な違和感を感じさせる設定ではある。キャンプに来た若い男女のグループです、とかいうのと違って、お、工夫されてるかも、という期待を抱かせてはくれる(結局はずすんだが)。
 特殊メイクはかなりよくできていたし、そこそこのハラハラ感もあるのだが、もちろん手放しで絶賛するには遠い。だが腹立たしいような印象もなかった。なんだか、もっと工夫のしようがあるのに、という残念さと裏腹の可能性が、そう悪くない印象を残しているのは、観ているこちらの心理状態に因るかもしれない。タイミングによってはその工夫のなさに腹を立てるかもしれない。

 それにしてもどこが「人造人間」だったのだ。ゾンビが人為的な原因で発生したことを「人造」ってこたあないだろ。原題の『13Eerie』(13の気味悪さ?)も日本語にしようがないとはいえ。

2016年12月23日金曜日

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作

 前にマンガ版を読んでいた。タイム・ループという設定が面白いことは、前に『トライアングル』について書いたとおり保証済みなんだが、やはりそれも料理次第。マンガ版は連載を追っている途中で飽きてしまったのだが、さて映画はどうか。
 これが実に面白くて、さすがハリウッド、さすがトム・クルーズとうなってしまった。監督は『ボーン・アイデンティティー』のダグ・リーマンときけば、なるほどと納得。
 そういえば、もちろん良くできていた『Mr.&Mrs. スミス』は、物語としてはがっかりだったのだが、今作については物語としても、タイム・ループ物の楽しさを充分に表現していた。
 繰り返してその経験をしているから、他の者に先んじて展開を知っていることの優越感を描いたり、かと思えば「これは初めての展開だ」と主人公に言わせて、その試行錯誤のサスペンスやワクワク感を観客に伝えたり。
 例えば一回目の経験で死んでしまう仲間を、二回目では救おうと試みて自らも死んでしまい、三回目は見捨てる、とか、三歩進んで一呼吸待って先へ進む、とか、試行錯誤の過程に多くのアイデアが盛り込まれてるのは、さすがハリウッド、チームで制作しているらしい脚本の練られ方をしている。

 そういえば最近、劇団キャラメルボックスの『クロノス』の脚本を素人劇団の舞台で見たばかりなのだが、あれもタイム・リープの物語なのだった。事故死する思い人を救おうと何度も過去にタイム・リープする物語。ループではなくリープなので、主人公の時間は経過してしまうばかりか、戻るときに反動で遥か未来に跳ばされてしまう、とかいう設定が付随している。
 で、これがなんとも酷い物語なのだった。それはその劇団の演出の問題なのか、脚本自体の問題なのか(まさか梶尾真治の原作の問題だとは思いたくない)。演出の問題としては、人物の感情の表出がいちいち不自然に劇的で、物語、場面の論理に即していないことが何とも気持ち悪かったのだが、脚本の問題としては、なんともはや、タイムリープについての工夫があまりに浅はかに感じられて、それと比較したときに、ハリウッド映画の層の厚さを思い知らされるのだった。

 映画終盤がどうも尻つぼみという印象があるのは否めない。ループできなくなって、死のサスペンスが増すかというと、逆に、死んだらおしまいということは、これ以降は、主人公は失敗しないということだと思えてしまって、逆にサスペンスの強度が下がる、という指摘は宇多丸さんによるものだが、卓見である。

2016年12月16日金曜日

『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない

 巨匠ウィリアム・ワイラーだ。上手い映画だとはわかっている。
 だが、ジャック・レモンの哀愁溢れる演技とかいうのに、どうも世評に言われるほどの魅力を感じない。
 シャーリー・マクレーンが可愛いのは認める。だが不倫の果てにあっさり自殺未遂をするに至るほどの葛藤が描かれているように感じない。
 一方にコメディ映画としてのスタイルを保ちつつ、そうした深刻さが同居している物語をどう受け取って良いのか。当惑したまま観終えてしまった。
 それはたぶん、アメリカ映画というものに対するリテラシーの問題なのだろうとは思う。そもそもの設定である、上司の不倫のホテル代わりにアパートを貸す、という設定についていけない。大学生の友達くらいなら、そのどろどろした葛藤についても想像が及ぶ。だが大企業の管理職が、部下のアパートをホテル代わりに使うことが、どうして相手の女性に受け入れられているのかがわからない。「ボロアパート」という形容から、そうした女性にとっても、そこが密会の場所として満足できるものではないらしいことがうかがわれるのに、どうして6人もの上司がそうした習慣を実行しているという物語を受け入れられるのだろう。それが「そういうこともある」ことなのか、「異常なこと」なのかがどうもよくわからない。
 ラストのハッピーエンドがどうもハッピーに感じられずに、どうも後味が悪い。

2016年12月8日木曜日

『グラスハウス』 -質の低いサスペンス

 サスペンスというのだが、『スクリーム』的なサイコスリラーではなく、むろんホラーでもなかった。単に財産目当てに後見人に命を狙われる姉弟、という。
 豪邸を舞台に、徐々に恐怖が…とかいう紹介に乗ってみたが、どうにもならなかった。これをそこそこ楽しめたとかいう人がいるのが信じられない。そこら中説明不足だし、そのわりにシンプルな筋立てでひねりもないし。人物の描き方も一面的かと思えば混乱しているし。魅力的にも見えないし。

 ところで物語中の時間間隔がどうも掴みにくいのにも参った。カットが変わって次の場面が、前からどれくらいの時間を隔てているかがわからないのだ。前の場面とつながっているのかと思えば、いくらか経っていたり、そのいくらかがよくわからなかったり。
 だが考えてみれば、観客は物語中の時間の流れと全く異なった時間で映画を観ているのだ。それなのに、カットの変わり目で時間が連続しているのか、数分が経っているのか、数時間なのか、どうやって解釈しているのだろう。
 自分で作ってみればその難しさもわかるのだろうが、ともあれ、商品として出回っている作品としてはそのあたりの情報の伝え方が怪しいのは、やはり低い評価をせざるをえない。

2016年11月27日日曜日

『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが

 なんだかそれほど面白くなりそうな予想ができなくて長いこと手を付けずにいたのだが、放送してるのを見つけて。でも始まってみると監督はヤン・デ・ボンだし、脚本はマイケル・クライトンだし、スピルバーグが制作だし。超豪華制作陣だな。
 素直に面白かった。ハラハラドキドキは充分に盛り込まれていて、娯楽作品としては申し分ない。危険に飛び込みたがる連中の高揚感はよく描かれている。ロマンス要素はまあどうでもいい。縒りを戻すヒーロー&ヒロインは吊り橋効果なんじゃねえかとも思うし。有名な「牛」は、なるほど印象的だった。当の牛にしてみれば酷い目に遭ってるんだろうが、どうにも惚けたおかしみがあって。「あ、また牛!」「さっきのと同じ牛だと思うよ…」とか。
 まあでもそれ以上のものではないな。何かがひどく印象に残るというようなものでは。「アトラクション・ムービー」というのは確かにそんな感じ。

『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か

 とりあえずホラー映画を観たくて。伊藤潤二のマンガが適切に映画化できるとは思えないが、とりあえずホラー映画になってればいいか。だが伊藤潤二のマンガはそもそもホラーではあるまい。怖くなどない。奇想漫画とでもいうべきものだ。全体があの線で埋め尽くされた画面でなければ、あの奇想は現前すまい。精密なアニメなら、あるいはそれらしいものは作れるだろうが、それはホラー映画ではあるまい。実写映画でホラーを作ろうとして、だが伊藤潤二のマンガを原作とすることにはほとんど意味はない。
 で、結局『首吊り気球』は悲惨なコメディになっていた。合成の特撮では、怖いわけもなし、といって奇想が現前するはずもなし。程度の低い悪ふざけにしか見えなかった。
 オムニバスとしてそれぞれが独立した作品だから、清水崇の『悪魔の理論』は、特撮ではなく、人間の心理サスペンスを描いて良かった。
 三宅隆太の『天井裏の長い髪』は、テレビドラマのクオリティで、どうでもよかったが、この人、ラジオで宇多丸と実に奥の深い映画談義をしているのだ。あの造詣で、作品はこれか、というこの落差はなんなのだろう。

2016年11月26日土曜日

『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ

 最初のNHKの放送がもう20年前のことだが、今観るとどんな感じなのだろうと、深夜の映画枠でなぜか2本立てで放送されているのを録ってみた。
 オープニングのERの戦場のような描写を観て、これは一人で観るのはもったいないと、当時一緒に観ていた連れ合いを誘って観る。
 当時は、とにかく毎回見事な脚本に圧倒され、アメリカの映画文化の層の厚さ、システマチックなドラマ作りのノウハウの蓄積に感嘆していたのだが、今観ると、演出やらカメラワークやら編集やらといった技術的な面でも圧倒的なのだった。
 「戦場のような」(劇中でははからずも「地獄のような」という表現が使われたが)、という比喩は、忙しさを戦いに喩えているわけだが、忙しさとは同時並行的に事態が展開しているということだ。一人の人間のやるべきことがいっぱいある、ということではなく、複数の患者の治療が同時に行われていて、それぞれのER(エマージェンシー・ルーム)がフル稼働している様子を、カメラが自在に動き回りながら描写していくのだ。その中に笑いあり、痛みあり、ドラマあり、キャラクター造型あり、シチュエーションの解説あり、恐ろしく情報量の多いシークエンスが冒頭から続く。その脚本といい、演出といい、編集といい、役者陣の質の高さといい、到底日本の制作陣には実現できないだろうと思われる。
 その中で、20年前のアメリカの現実が、今の日本には当時より身近に感じられる。
 とはいえ、アメリカと日本の間には、宗教や銃に対する距離に大きな隔たりがあるから、同じような状況になるとは言えまい。
 そして映画・ドラマ作りの層の厚さも、一向に縮まる気配はないのだった。

2016年11月20日日曜日

『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する

 『わが母の記』も重厚な作りだったが、これも、画面全体がとにかく重厚だ。これくらいに作ってくれると、とりあえず歴史の勉強にでも、と観る気になる。太平洋戦争の終結を宣する詔勅がどのように作られ、どのように告げられたのか、そこにかかわる人々がどのように思い、行動したのか。ドラマとしてもドキュメンタリーとしても見応えがあるに違いない。
 さて、実際のところどうか。
 充分と言っていい程度に満足した。
 会議での決定にいたるプロセス、そこに持ってくる各大臣・閣僚の背後のしがらみからくる力関係が、もちろん史実・事実だとは言わないが、いかにもありそうに描けている。そういうことはきっとあったろうと想像される。それぞれがどこにこだわり、どこで面子を保ち、どんなに信念を貫こうとし、何を守り、何を諦めたか。
 もちろんそれは会議の決定だけでなく、その会議に影響を及ぼす周囲の状況であり、会議の決定によって影響される人々の思いでもある。
 こうした混乱と人々の努力の果てに、少なくとも現在の形での今の日本があるのだと思うと、神妙な気持ちにもなる。

 さてこうした評価とは別に、ものすごく感動的だったというわけではむろんない。よくできていた、というようなひどく不遜な言い方で肯定しているだけだ。そして、面白さはたぶん原作の面白さであり、事実の面白さでもあるのだろう。
 映画としては役所広司の阿南陸相の人物造形は卓抜していたし、松坂桃李の畑中少佐も(「ゆとりですがなにか」で俄然、好感度の増したとはいえ)、かつての毛嫌いからすると、熱演が嫌みでもなくうまいと感じられた。
 ただ話題の本木の昭和天皇は、感嘆するほどではなかった。ああいうふうに演ずれば、ああいう感じにはなるだろ、という感想しかなかった。本物みたい、まるで本物、とかいう評があるようだが、本物の裕仁天皇を、我々の誰が知るというのか。ついでにいえば、確かに終戦時の昭和天皇は、今の本木よりも若かったのだが、我々のイメージの昭和天皇といえばすっかりお爺さんのイメージであり、やはり本木では若すぎる。
 もちろん、気品ありげに見える本木の演技は、それなりに高貴なお方に見えて悪くなかった。ただ、特別な演技には見えなかったというだけだ。

 ネットではえらく評価の高い岡本喜八監督作はまだ観ていない。こちらもいずれは観たいという期待が高まった。

2016年11月18日金曜日

『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念

 『その男 ヴァン・ダム』で突如好意的な印象を抱いたジャン・クロード・ヴァン・ダムの映画。香港マフィアに妻を殺されたフレンチ(?)マフィアの用心棒、ヴァン・ダムが復讐する、という、ただそれだけの映画。
 ストーリーは「ただそれだけ」だし、そのわりにあちこち意味もなく説明不足でわからないところもあり、お話しとしてはどうにもならないが、そのお粗末さと不釣り合いに画は意識的に撮られていた。暗い画面が、一応の映画内世界を現出させていた。カット割りもスタイリッシュだった。ヴァン・ダムはシブく撮られていた。
 カー・アクションにバイク・アクション、ガン・アクションに、(これなくしてはヴァン・ダム映画たりえない)カラテ・アクション。それぞれに質は高い。
 充分ではないか? こういうのを求めるなら。
 妻を殺された男の嘆きが名演だというネット評は認める。拷問シーンのエグさも話題だ。だがまあ、そういうのを求めているわけじゃないしなあ、という感じではある。ヴァン・ダムに好意的にはなったが、ファンというわけではないのだった。
 アクション映画として求むらくは、手に汗握る、スピード感のある、ドライブ感のある、爽快な展開とカタルシスかなあ。そういう方面に手をかけようという気はなさそうな映画ではある。そこが一番、金も手間もかからないはずなのに。

2016年11月11日金曜日

Suchmos

 ホンダの VEZELという車のCMの曲がやたらといいぞと思って調べると「Suchmos」というバンドだそうだ。こういうのが直ちに調べられるのがネットの便利なところ。
 そしてYouTubeで何曲かを聴ける。どれもいい。今デビューしたばかりというわけでもないのに、知らずに過ごしているのもくやしい。

最初は一瞬Awesome City Clubかと思ったのだった。

そしてSuchmosのYouTubeリコメンドでbonobosというバンドについても知ってしまう。

 これはちょっと傾向が違うかな。

2016年11月1日火曜日

『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界

 『A Song Is Born』という原題は、日本人にもわかる英語なのに、これも映画の華やかなイメージを表したいからという意図なんだろうが、『ヒット・パレード』という邦題がつけられている。あくまで『ヒット・パレード』であって『Hit Parade』ではない。
 こちらはそれが当時の「ヒット」曲なのかどうかは判断できないから、次々繰り出される華やかな曲たちが邦題にふさわしいかどうかは措いておくしかないが、ともあれ音楽的には華やかというか、実に豊かである。
 音楽事典の編纂をしているクラシックの専門家たちが、当時のポピュラー音楽、ジャズに触れていく過程が、教授の一人とジャズ歌手の恋物語とともに語られる。
 監督のハワード・ホークスは他の作品を見ていないが、脚本のビリー・ワイルダーは最近見た『昼下がりの情事』にも敬服した(こちらでは監督も)。この頃のハリウッド映画のすごいこと。世界をまるごと作る手間が、想像も及ばないほどにかかっているような印象が、画面の隅々から感じられる。脚本はよく練られているし、演出も実に気配りが効いているし、セットも豪華だ。
 恋物語としては、ヒロインの心変わりが急で違和感があるが、それはつまりリアリズムではなく「ロマンチック・コメディ」として見るべきだということなんだろう。それならそれで多幸感のある世界が見事に造形されている。
 そしてこの映画ではなんといっても音楽が楽しい。戦後すぐのアメリカのジャズ事情は、これほど豊かだったのだ。俳優としても教授役の一人を演じているベニー・グッドマンや、実名で登場するルイ・アームストロングやトミー・ドーシーなどの錚々たるメンバーのセッションの楽しさは、画面に登場しない伴奏で歌うミュージカルと違って、画面の中の生演奏の豊かさだ。しかも「譜面なんかない」(劇中の台詞)、まっとうなジャズの楽しさだ。
 それとともに、そうしたジャム・セッションの楽しさだけでなく、音楽事典編纂の設定から導かれて、ジャズの歴史をたどるくだりも楽しかった。史的な正当性がどの程度保証されているのかは測りかねるが、変遷の果てにあのジャズの豊かさがあるのかと、展開毎にハッとしたり、あらためてしみじみ感じ入ったり。
 ヒロインのヴァージニア・メイヨは、たとえばオードリー・ヘップバーンのような、万人を否応なく引きつけてしまうような魅力のあるキャラクターでも美貌でもなかったが(吹き替えかもしれないが)歌声は実に魅力的だった。

2016年10月16日日曜日

『大脱出』 -考えるのが億劫な

 脱獄ものについては以前書いたが、そんな連想で見てみると、これが、ひどいとは言わないが決して感動的でも面白くもない。スタローンにシュワルツネッガーじゃ、どうなっても勝つに決まっているとしか思えなくて。
 最初の顔見せの脱獄はそこそこ考えられた設定で、なかなか良くできた脚本の映画なのかと思ったが、本編の監獄がどうにも甘くて、本気でハラハラできない。
 怒る気にはならないが、熱を込めて語りたい気にもならないこういう映画を観たときに、それでもここだけは掟として破らずにいるブログの記事をどう書くか、考えるのがなんとも億劫で。

2016年10月9日日曜日

授業で詩を読むことは数独を解くことに似ている

 珍しく詩を教材として扱って、あらためて思うのだが、基本的に国語科の授業として読む上では詩も小説も評論も、古文も漢文も、やることは要するにテキスト解釈なのだった。
 たとえば「永訣の朝」をやっているときに、「賢治の宗教観とかを扱うんですか」と知り合いの教員に聞かれて、それが自分にはあまりに想定外だったことに感慨を覚えた。考えもしなかった。なるほど、そういう発想もあるのか。一般的には。
 あるいは「永訣の朝」にこめられた兄の悲痛な思いを切々と語って、生徒を泣かせる教員がいるという話も最近聞いた。なるほど、そこまで作品に感情移入して読むのは確かに豊かな鑑賞体験に違いない。
 だが前者のような読みは、作品の外部に広がる「知識」の準備を教員に強要し、後者のような授業は、教員に役者じみた芝居っ気が必要となる。
 どちらもそれが有益な体験となる場合もあろう。だが筆者はそうした方向を選ばない。それは個人的な適性の問題でもあるが、一方で、そうしたやり方が「国語」の授業の目指す方向であるとは思えないからだ。
 前者のような授業は生徒に、詩そのものに対峙するのではなく詩の周辺情報を集めることが詩を「正しく」読むことだという誤解を、後者のような読みは、結局、詩を「気分」で読むことが正しいのだという誤解を、それぞれ蔓延させる。
 そう、最近も上記とはまた別のベテラン教員から「詩は分析するものではない」とか、はたまた別の教員からも「詩の解釈は人それぞれで良い」というようなお決まりの見解が語られるのを聞いて、激しい脱力感と憤りを感じた。
 それは、あるレベルではそうであろう。分析を目的として詩を読む必要はないし、詩の解釈が限定的であることは散文ほどには保証されていない。
 だがまずは国語科授業である。ここは詩の鑑賞をするより、言語的訓練をする場である。それに鑑賞は、まっとうなテキスト解釈が保証されて、その上でやればいいし、その上でやるしかないはずだ。
 そのテキストを、まずはまっとうな作法で解釈すること。そこには広く「常識」としての「知識」だけを携えて、あとは徒手空拳で臨むしかない。その「常識」だけは生徒に保証すべきである。だが、普通の人が知るはずのない、例えば作者に特有の事情などをそこに持ち込む必要はない。それを事前に手にしていることがかろうじて授業を成立させるしかないような国語の授業など、もはや「国語」の授業ではない。

 たとえば「弟に速達で」の読解にあたって、辻征夫についての予備知識は、まったく用いていない。そもそもまるでない。
 だが我々があるテキストにふれるときには、基本的には手持ちの知識でその文字列に対峙するしかないのだ。
 どれほど誠実にテキストに対峙するか。授業ではそうした姿勢でテキストに向き合ったときにひろがる世界を生徒ともに体験したい。

 その時、詩を読むことは数独を解くことに似てくる。
 詩の言葉は散文に比べてテキスト自体の情報量は少ない。だがそこには、表に表れている情報を整合的に含み込むことの出来る認識の構造があるはずだ。書かれている数字から、純粋に論理的な推論を用いて空白の枡に入る数字を見つけ出すように、現前する詩のテキストから、それが組み込まれているはずの構造を推測しつつ、書かれていない言葉を補完するのだ。
 むろん数独そのもののような唯一解にはたどりつかないだろう。語り手が30才まで何をしていたかも、語り手を北に向かわせる「小さな夢」が何なのかも、確定できるほどの情報量は提示されていない。数独としては解が複数になってしまう、不完全な問題である。そういう意味で詩が解釈の自由度の高いテキストであるのは確かだ。
 だが、解くという努力を放棄して安易に「自由な解釈」や「情緒的な鑑賞」に陥るのは、間違いなく詩に対する不誠実である。

 それでも、詩というテキストを読解する行為は不思議だ。一見「不誠実」とは思われない語り口の次のような読解が、しかし筆者の読解とはまるで違った「構造」を背後に想定してしまうのだ。
 このブログ主は第一聯を次のように語る。
「おばあちゃん」にあまり会っていない弟なのだ。「おばあちゃん」から離れて、弟は遠方に住むのだろうか。その距離や時間的な空白の中には、淋しさや郷愁などが、薄い靄のように流れているのかも知れない。と同時に、疎遠な印象が、どっしりと弟の前に隔てとなって聳えているかのようである。
まるで違う印象を抱いている筆者には、こうした印象が詩のテキストから生成されることがどうにも不思議に思える。
 弟が「疎遠」であれば「最近会ったか?」とは聞かない、と思う。確かに「あまり会っていない」のかもしれない。だがそれはとりたてて「疎遠」というほどのことはない、通常の成人の親子関係の範囲であろうと感ずる。生まれた孫についての会話を電話でしていて、その後、直接会ったかどうかが、語り手には確認できていないだけなのだ。「あったか?」という問いかけはむしろ、会っていてもおかしくはないことが前提されているように思われる。
 さらに次のように言われると、戸惑いはいっそう激しい。
「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」と呼ばれるのは、どんな時だったろうか。「ノブコちゃん」が子供だった頃のことを良く知っている人たちが、多分そう呼び慣わしているのではなかったか。遙かな昔の時間が、すぐ目の前に迫るかのような呼び名なのである。つまり「ノブコちゃん」という呼び名は、遙かな昔を現前させることで、現実の距離や空白の時間をすっかり埋めてしまい、重層性を現前させる力をそもそも持っている、と言って良い。
筆者には、ここに「『ノブコちゃん』が子供だった頃のことを良く知っている人たち」が想起される理由がまったくわからない。単に母親を「ノブコちゃん」と呼ぶ、兄弟と母親の「今どきの」関係性が感じ取れるだけだ。
 母親を「ちゃん」づけする成人した息子たちは、30才まで定職に就かずに母親を心配させた息子たちである。そしてまたその母親はそういう息子を育てた母親である。いわゆる戦後の新しい家族的なスタイルとして、母親を「ちゃん」づけで呼ぶ習慣のある息子たちと、友人のような母親の関係を、ここは想像すべきではないのか。
 こうした解釈もまた「詩の解釈は自由だ」というお題目で許容されるのだろうか。
 かりにそうだとしても、それを許容することよりも、その妥当性について議論することの方が有益な「国語」の授業たりうることは間違いない。

辻征夫「弟に速達で」の授業3-夢見る一族

Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。
承前

 誘導のため、さらに考える糸口を与える。
Q 「おれ」は三十才まで何をしていたか。
「正解」はない、と言っておく。自由に想像していい。
 自由に、とはいえ、文脈に齟齬をきたさない範囲であることが条件である。「定職」には就かず母親に「しんぱいばかりかけた」というのだが、これを今風に「ひきこもり」だったのだと考えるのは不適切だ。短期労働か、今風に言えばフリーターででもあったものかはともかく、はずしてはならない条件として、少なくとも何かしら「夢」を追っていたのだと考えるべきであろう。そう考えてはじめて、三聯がこの詩におかれていることの意味がわかるからである。
 生徒には具体的にイメージさせる。

  • ミュージシャンになりたくてバンド活動していた。
  • 俳優になりたくて劇団に所属していた。
  • 起業家を目指して会社設立を企画していた。
  • NGO組織でボランティア活動をしていた。
  • 小説家を目指して投稿を繰り返していた…。

 これは一人「おれ」だけではなく、弟もそうなのである。そのことが「ノブコちゃん」に「しんぱいばかりかけた」ことを語り手は自覚している。だからこそ定職について給料で買った贈り物に母親が喜んだことを印象深く覚えているのである。

 次の考察に進む前に、時間をとってゆっくり展開するつもりならば、次の問いを投げておいてもいい。
Q 「おれ」は北に何をしに行くのか。
詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい、と言い添える。

  • 流氷の軋むオホーツク海を見る。
  • 見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。
  • 大雪山頂から石狩川を見下ろす。
  • オーロラの空の下に立つ。
  • 脱サラして北海道で牧場を営む。

 むろん「何をしに行くか」に率直に答えるのなら詩の中に「はるかな山と/平原と/おれがずっとたもちつづけた/小さな夢を/見てくる」と書いてある。だからこの問いは「小さな夢を見る」という表現がどのような想像を許容するかをはかる思考を促しているのである。
 さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。どこまでの想像なら詩の論理に齟齬をきたさないか、という検討はむろん有益である。この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。
 ともかくもこれらが筆者の言うところの「小さな夢」であり、それは、三十才で定職に就くときに一旦は密かにしまっておいたものだということを確認しておく。この四聯を踏まえて、三聯の「三十才」までの過ごし方が想像されるべきなのだ。そしてそれを再び追うことを決意させたのは、母親の、孫への命名にこめられた願いである。

 さて、「夢を追う」というキーフレーズが提出されたことで、詩の論理を追う手掛かりができた。二聯と四聯の内容を「夢を追う」というフレーズを使って言い換えてみる。

二聯 祖母が孫に「はるか」という名を提案している
   →祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している/願っている。
四聯 伯父が、自分の夢を見るために北へ行くと宣言している
   →伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している/願っている。

 こうした言い方に沿って、三聯を言い換えるとどういうことになるか。

三聯 息子が定職に就いたことを母親が喜んだ。
   →息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。

 母親が孫に「はるか」という名を提案していることを聞いたとき語り手が「老眼鏡」を思い出すのは、息子が「はるか」な「夢」を見ることをやめた時に喜んでいた母親の姿を連想したからである。母親はかつて息子が定職に就いて「夢」を見ることをやめたとき、そのことを喜んだのだった。
 そう考えてみると、このプレゼントが老眼鏡であったことにも、いささか穿ち過ぎの解釈ができないこともない。老眼鏡とは遠くではなく目の前を見るための道具である。「夢」を追っていた二十代の終わりに定職に就くにあたって、「おれ」が贈ったのが、目の前を/現実を見るための道具としての老眼鏡であったことは何か象徴的だと言えなくもない。
 「なぜ思い出したか」はこのように言えるとはいえ、まだこの詩の中で三聯が果たしている役割については一貫した論理が見えていない。その点についてさらに考える。
Q 整合的な二聯と四聯にはさまれた三聯の不整合をどう考えるか。
つまり、
 二聯 祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。願っている。
 三聯 息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。
 四聯 伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。願っている。
という流れを納得できるように追う論理を問うのである。

 さて、三聯をはさむ詩の論理展開についての最終的な生徒の意見を聴き、それらを検討しつつ、最終的には以下のような筆者の読みを語る。

 母はかつて息子が「夢を諦めた」ことを喜んだはずなのに、今は生まれたばかりの孫に「夢を追う」ことを願う。そして息子はそうした母親の願いを聞いて、自らももう一度「夢を追う」ことを決意し、あわせて姪にも、母親と同じ願いをかける。
 つまりこれは、懲りない一族の物語なのである。
 母は確かにかつて「夢」を追ってなかなか定職に就かない息子達を心配したが、考えてみれば息子をそのように育てたのはとうの母親自身である。彼女は息子達が「夢を追うのを諦め」て定職に就いた時に喜んだはずなのに、今また性懲りもなく孫にも「遠く」を見ろと願っている。
 それを知った「おれ」に生じた感慨はどのようなものか。
 つまり「おれ」は、母が「はるか」という名を考えたことを聞いて、かつての自分の生き方を、母親から肯定されていると感じ取っているのである。「おれ」は母親に「しんぱいばかりかけた」が、そんな生き方を、母親は否定してはいなかったのである。それを「おれ」は、「はるか」という命名案に感じ取る。夢を追っていた日々を、母親がどのような目で見ていたか、今あらためて感じているのである。
 「おれ」がこの命名に寄せる感慨はそのようなものだ。
 そして定職について母親を安心させはしたものの、「おれ」も相変わらず「小さな夢」を「ずっとたもちつづけ」て、今また北へ旅立とうとしている。そして母親と同じく、姪にも「夢」を見続けろとけしかけるのである。
 連綿と続く夢見る一族の性。
 これはそうした懲りない一族の詩なのである。

 結局、読み取った詩の主想は最初に読んだときとそれほど違いはないかもしれない。この詩は相変わらず「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」のある、何かしら好もしい詩である。
 そして一連の授業過程を経てあらためて感じ取られたこの親子に流れる血のつながりもまた、おなじように「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」という印象である。
 それでも、考察によって、詩を構成している論理が目に見える形で浮上してくる瞬間は、筆者にとって、ほとんどカタルシスといっていい、興味深い認識の転換であった。
 「弟に速達で」はそうした仕掛けが期待できるという意味で、きわめてすぐれた教材である。

2016年10月8日土曜日

辻征夫「弟に速達で」の授業2-なぜ老眼鏡を思い出すのか

 承前

 詩という形式は、そもそもが「わからない」ことだらけである。単に情報量の少なさに加えて、散文に比べて、素直に意味をとらせないこと自体に、詩という形式の独自性があるとさえいっていい。
 だからともすれば「わかる」こと自体を放棄してしまう一方で、わかったつもりになって看過してしまう部分も生じがちである。
 さて、もう一つ、さらに気づきにくい違和感について指摘し、生徒とともに考察してみたい。次の問いは、この詩における三聯の意味である。
Q 第三聯が、この詩に置かれている意味は何か。三聯はこの詩の中で何を語っているか。
この詩に書かれていることを次のようにまとめてみる。

一・二聯 ① 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案する
  三聯 ② 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す
四・五聯 ③ 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける

 書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜ①に続いて②が語られるのか、またそれが③に続く脈絡は、わかったようでわからない。
 ①と③の関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからである。だがそこに②を挟む脈絡とはなんだろう。
 この問題意識は、恐らく生徒には理解されにくい。上記の問いを投げかけても途方にくれるばかりだし、「脈絡がわからない」という、問う側の問題意識がそもそも共有されそうにない。「わからない」とは思わない、と言われてしまえばそれまでだ。
 そこで問題を微分する。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。
「なぜ思い出したのか」を説明するということは、それを思い出させる契機が何であるかを明確にし、それと老眼鏡の想起の因果関係を説明するということだ。その契機を明らかにすることで①と②の脈絡を捉えようというのである。何が「おれ」に老眼鏡を思い出させたのか。
 しばらく考える間をとってから、次の問いを加える。
Q 「おれはすぐに」とは、何の直後なのか。 
①の何事かに続いて②が起こったことが「すぐに」だと述べられているのである。その因果関係を捉えるうえで、何と何が連続しているのかを明確にしておきたい。
 ところが実はこれは案外に即答の難しい問いなのである。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
 契機はむろん「はるか」という名である。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
 もっとも、生徒から「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えが出てくる可能性もある。間違っていない。その場合は「誰から、いつ聞いたのか」という問いに切り替える。
 二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「そうだな」という伝聞の助動詞からすると、間接的に語り手に伝えられている。つまりその場に語り手は同席していない。②は母親が「いった」時に起こったことではないということだ。
 この命名が話題に上った電話とは、たとえば娘の誕生を弟が母親に報せた電話である。当然おめでた自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母親はひそかに暖めていた命名案を息子に提示したということだろうか。
 そのことを語り手が知ったのはまた別の機会である。母親と語り手がそれより後のどこかで電話でか直接にか、会って話しているのだろうか(もっといえば、母親と語り手が同居している可能性も想定していい)。
 あるいは命名案のことを弟に聞いた第三者(たとえば弟の奥さん)が語り手にそのことを話した可能性もある。少なくとも弟からではない。この件を語り手も知っていることは弟にはまだ知らされておらず(「いったのか電話で」と聞いているのだから)、そして一聯「さいきん/おばあちゃんにはあったか?」から、その後弟と母親が会ったかどうかは語り手には不明である。
 つまり、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨?)したということを、後から母親あるいは第三者から聞いた直後「すぐに」ということになる。
 ではなぜ語り手はこの話から老眼鏡を連想したのか。
 だがこうした疑問も、一聯の「おばあちゃん/ノブコちゃん」の言い換えが必要だった理由などと同じく、読者にとっては読み進める詩句のすべてが新情報だから、何はともあれそれを解釈しようとする構えにとっては疑問として意識されにくい。だからまずは生徒に、これが疑問である、つまり因果関係はそれほど自明ではないことを確認する必要があるのである。
 実際に生徒から出された説を列挙してみる。

  • a 「遠くに見える」からの連想で、見るための道具としての「老眼鏡」が思い出された。
  • b 母親を話題にのせるとき、その外観上の特徴として「老眼鏡」がイメージされた。
  • c 孫が生まれたことから、母親の老齢が実感され、そこから「ゆるゆるになったらしい」「老眼鏡」が連想された。
  • d 母親が孫に贈る名前を、あれこれ考えていたのだろうという想像が、自分が母親に老眼鏡を贈ったときにもあれこれ苦労して考えていたものだという連想に結びついた。
  • e 孫娘はいわば母親にとっての贈り物であるという認識が、自分が母親に贈った老眼鏡の連想に結びついた。

 いずれもそれなりにわからないでもない。このような解釈のアイデアが生徒から提出されたときは、なるべく「なるほど」という反応をしておく。そのうえでそれぞれの解釈について検討する。
 aについては、老眼鏡が近くを見る道具であることと「遠くに見える」の齟齬がひっかかる。
 bについては、老眼鏡が常にかけているものではないことから、外観上のイメージを代表しているものと考えることに疑問がある。あるいは、そもそも語り手が母親と直接会って命名の件を聞いたのだとすると、この説明は成り立たない。
 cは、単に「孫の誕生」ではなく「命名」の件を母親から聞くことと連想の因果関係が明確でない。「孫の誕生」→「老齢」の連想ならわかる。だがここでは「命名」→「老眼鏡」という連想である。この因果関係はやはりよくわからない。
 そして、a、b、cいずれも③に続く脈絡が不明で、②の内容がこの詩の中に置かれている充分な理由を説明してはいない。
 また、a、b、cの解釈は「老眼鏡に」焦点があっている。それに対してd、eは、「老眼鏡」そのものではなく、それが「はじめてのおくりもの」であったという点に重心が置かれている。つまりa、b、cでは「老眼鏡」の出自は問題ではなく、単に「ノブコちゃん」が買ったものでもかまわないことになる。それに対してd、eでは「おくりもの」がたとえばネッカチーフなどでもかまわないことになる。
 どう考えるべきなのか。
 d、eは「はじめてのおくりもの」であったという点から連想の機制を説明しようとしている。それぞれなかなか巧みな考察であり、授業では称賛に値する。だが筆者の考えでは、これはいわば考え過ぎである。そうだとすると、そうした読みに読者を誘導する情報が、ほかに詩中に示されるはずだからである。それが書かれていないことが不自然だと感じられるのである。
 ではなぜ「おれ」は「はるか」という名から「老眼鏡を 思い出した」のか。

続く

2016年10月7日金曜日

辻征夫「弟に速達で」の授業1-「おばあちゃんとは」の謎

 平成26年度から高等学校で使用されている明治書院の「高等学校 現代文B」を、本校では昨年度から採択している。27年度の3年生が1年間だけ使って、その下の学年は2学年から使っている。今年はその学年が3年に進級して、こちらはもう一度3学年の授業を受け持ち、同じ教科書でもう一度授業をすることになった。
 そして今年の1年生が来年から2年間使って、それでこの教科書は改訂となる。
 昨年の授業で手応えを感じたいくつかの教材について、昨年度の終わり、3月から4月にかけて、まとめてみようと思い立った。昨年の今頃には、そんなつもりはなかったのだが。
 それは、教材の汎用性の乏しさにもよる。それらの教材は、この教科書の、この版にしか収録されない可能性の高い教材だろうと思われる。
 だが今年、もう一度授業をしてみて、まだ2年は使われる可能性のあるこの教科書の教材を使った授業について、やはり記録にとどめておこうという気になった。二つの学年で扱ってみて、やはりやるに値する教材であり、授業であると感じたからだ。
 以下、辻征夫「弟に速達で」、恩田陸「オデュッセイア」、小川洋子「博士の愛した数式」を取り上げた授業について、2年分の知見をもとにまとめてみる。
 最初は、昨年、「永訣の朝」をとっかかりに目覚めてしまった詩の授業である。


   弟に速達で
                                                            辻 征夫 

さいきん
おばあちゃんにはあったか?
おばあちゃんとは
ノブコちゃんのことで
ははおやだわれわれの

まごがうまれて
はるかという名を
かんがえたそうだなおばあちゃんは
雲や山が
遠くに見える
ひろーい感じ
とおばあちゃんは
いったのか電話で

おれはすぐに
すこしゆるゆるになったらしい
おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した
あれはおれが 三十才で
なんとか定職についたとき
五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ
おれのはじめてのおくりもので
とてもよろこんでくれた
なにしろガキのころから
しんぱいばかりかけたからなおれやきみは

じゃ おれは今夜の列車で
北へ行く
はるかな山と
平原と
おれがずっとたもちつづけた
小さな夢を
見てくる
よしんばきみのむすめが
はるかという名にならぬにしろ
こころにはるかなものを いつも
抱きつづけるむすめに育てよ

北から
電話はかけない


 辻征夫「弟に速達で」を授業で取り上げて何ができるか。
 そもそも国語科の授業で、ある教材を読むことの意義は、ともかくも生徒がそれを読むという機会を作る、というだけで既に存在する。だから、韻文でも散文でも、詩でも小説でも評論でもコラムでも、読むだけでも意味はある。
 さらにそれ以上に授業に意義があるとすれば、一人で読むのとは違った何らかの認識の発展が生徒の裡に起こること以外にはない。「弟に速達で」を授業で取り扱うと、一人で読むのとは違った、どのような認識が、どのような過程を経て生徒の裡に生成されるのだろうか。

 授業で読み込むまで、個人的には、この詩に、とりわけてわからないところはない、と思っていた。そして何かしら好もしい印象を抱いた。
 全ての教材が、特別な解釈を必要としているわけではない。ただ読めば「わかる」文章もある。読者それぞれにその文章を受け止めればそれでいい、といったような。
 それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益である。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。
 だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。どんな感じ? と聞いて生徒自身にその印象を語らせ、どこからそんな感じがした? とその機制を分析させる。
 もちろんそれは容易なことではない。難しければ、例えば教師自身がそれをやってみせるだけでもいい。
 この詩には、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがあると思う。そうした印象を感じさせる要因を思いつくまま挙げてみる。
 「ははおやだわれわれの」の、不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何カ所もある)。
 「ははおや」を「ちゃん」付けで呼びながら弟に「きみ」と呼びかけること。
 「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。
 夢を見るために北へ向かうという子供っぽさと「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと詩を断ち切る鮮やかさ。
 こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、有り体に言えばいわゆる「鑑賞」であり、それは本来、詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。恐ろしくて、そうおいそれと一高校教師にやれるものではない。我々は国語の授業を主催する者ではあるが、創作家ではない。
 そうではなく、何か語ることがあるとすればそれは作家の伝記的事項だったりするのだろうが、高校生に「辻征夫」がどんな詩人で、文学史的にどのように位置づけられるか、などと語ることにとりたてて意味があるとも思われない。あるいはこの詩がいつごろ、どのような状況で創られたものかを知ることは、いくらかはこの詩の理解に資するところがあるかもしれないが、そのようにしてこの詩を理解することはそもそもそれほど意味のあることでもない。右のような「鑑賞」も、なんら「教える」べき内容でありはしない。

 だから詩を読む。テキストから得られる情報を検討する。するとわかったつもりになっていた詩句にも新たな発見がある。教師自らが読み返しながら更新されていく「読み」を意識化して授業として展開する。読んでわかること以上の認識を生徒の裡に生成するために「問い」を仕掛ける。
 一読後、右の「印象」以外に最初に問うのは、ここに登場する人物の関係である。
Q 一聯から二聯の始めに登場する人物の関係を整理せよ。
これを理解させたいわけではない。読み取らせたいだけだ。
A 「ノブコ」の息子である「おれ(語り手)」と「弟」、「弟」の娘(はるか?) 
黒板には家族図(樹形図)の形で板書する。



 「一読」だと、この関係がすんなりわかる者とわからない者に分かれるから、話し合いをさせる。先にわかった者がわからない者に説明する。わかった者の自尊心を擽る。
 一読ではわからなかった者がいるとしても、ここまではすぐに「わかる」べきことである。「問い」によって、ここまでの理解を揃える。
 問題は次の問いである。
Q なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があったのか。ここから何がわかるか。
読者側から言うと、詩の各行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われてさらに驚く。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。驚きとともに一瞬混乱はするものの、だが母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではないから、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
 そして「わかる」ことによって見過ごされてしまう。
 三行目「おばあちゃんとは」は、よく考えると奇妙である。「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は特殊である。聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりは普通しない。
 だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、それを解釈していく中で、その不自然さに気づきにくい。「おばあちゃんとは」が、まるで読者に対する解説であるかのように受け取ってしまう。だがこの特定、言い換えは、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定だからである。
 とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な場面であるということだ。それはどんな場合か。

 「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ、という意見が生徒から出る。
 だがこれは無理である。「はるか」にとっての「おばあちゃん」とは「ノブコちゃん」ともう一人、弟の奥さんの母親である。だが、語り手にとっては彼女は血のつながらない他人だから、それを「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。

 では「はるか」にとっての曾祖母が存命中ならばどうだろう。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ、という解釈である。
 これは論理的には可能な解釈である。だがそのように考えるのは不適切である。書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと考えるべきなのである。書かれている情報を整合的に包括する解釈を考えるべきなのだ。

 では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か。
 この「問題」はいささか抽象的に過ぎて考えるためにはとりとめがないから、必要に応じて誘導も必要かも知れない。たとえば「そもそも自分の母親を『おばあちゃん』と呼ぶのはなぜ? どんな場合?」と、わかりきったことをあらためて聞く。そう、孫がいる場合である。とすると…。

 この言い直しが示しているのは、つまり「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだということである。
 今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。
 だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのである。
 そこから、語り手には子供がまだいないこと(既婚/未婚の別は不明だが)、「はるか」に兄姉はいないこともわかる。語り手と弟に他に兄弟がいるかどうかは不明だが、彼らにも恐らく子供はいないということになる。

 この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのである。
 こうした読解は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みである。

 さて、昨年の授業で思いついたのはここまでだった。
 だがその時から気になっていて、その後、考えているうちに自分なりに答えにたどり着いたと思えた点があって、今年はそこまで授業を展開できた。
 次のような疑問である。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。

 この項、続く。

2016年9月25日日曜日

『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品

 賊の侵入によって囚われの身となる婦人を描くという、設定だけはまるで『アウトブレイク』のサスペンス映画。原因が夫で、妻が美人で、子供が1人、3人一緒に巻き込まれてしまうあたりもまるでそっくり。
 題名の「セルラー」というのが携帯電話を意味するらしいことは、その頃、携帯に縁の無かった身にもなんとなくわかる。携帯電話でたまたまつながった若者に助けを求め、電話でやりとりしながら救出の方策を探るあたりは、家族だけで犯人グループと対峙する『アウトブレイク』に比べて広がりが生まれる設定だ。
 ただ、その設定のせいで前半はやや、やり過ぎの感が否めない。肝心の若者の人物造形が不愉快に軽すぎるのも残念。
 だが中年の警官が事件に巻き込まれて、結局大活躍したり、全体に起伏の大きく複雑な展開をコンパクトに収めている脚本は、実に良くできていると感じた。
 というわけで『アウトブレイク』のような不満はなく、むしろ面白かったといっていい。『パニック・フライト』ほどに手放しで絶賛といかないのは前半の問題だな。
 演出も手慣れたもので、安心して観られる。監督の デイヴィッド・R・エリスというのは、『ファイナル・ディスティネーション』シリーズを2本監督している人なのか。
 ジェイソン・ステイサムが悪役だったのだが、やはり肉体派なのは変わらない。無名時代かと思いきや『トランスポーター』シリーズの一作目よりは後の作品なのだった。

『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー

 魔法の出てこない「シンデレラ」のアナザー・ストーリー。
 完璧な美人、というわけではないドリュー・バリュモアをシンデレラにキャスティングするあたりで意図は充分わかる。一方的に王子に選ばれるわけではなく、そしてパーティーの一目惚れによってではなく、意志の強さや聡明さを王子に納得させつつ、関わりを持たせる過程を通して、皇太子妃に成り上がる「シンデレラ・ストーリー」を描こうとしているわけだ。
 王子が、ダニエル(シンデレラ)の嘘を知って心変わりをする展開が、物語の要請する、障害のための障害に過ぎないように見えてしまうことが興醒めなのは残念だが、全体には気持ちの良いエンターテイメント映画。まるでディズニーだと思ったが20世紀フォックスなのか。

2016年9月23日金曜日

『セッション』 -とにかく上手い 面白い

 どこかで観ようとは思っていたが、娘のリクエストで、放送を待たずしてとうとうレンタルで(まあ話題作だからいずれ放送もされるんだろうなとは思うが)。
 実はそんなに予備知識がない状態で観た。まあ音楽学校の生徒と鬼教官がぶつかりあって、ある種の成功を収めるんだろうだろうとは思っているくらい。とりあえずそのトレーニングがとても厳しいらしいとは聞いていた。
 とするとこれは『ロッキー』とか『ベストキッド』とか『がんばれベアーズ』とか『シコふんじゃった』とか、枚挙にいとまないスポ根パターンか。確かに面白い映画もいっぱいあるな。
 だが、思い出したのは『シャイン』と『ラスト・キング・オブ・スコットランド』だった。
 音楽へののめり込み方と、そこにひろがる音楽の高みの見せ方は『シャイン』並みの強度をもっていると感じた。
 一方、話題の鬼教官でアカデミー賞をとったJKシモンズの演技は、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』のフォレスト・ウィテカーがウガンダのアミン大統領を演じたときの怖さを感じさせた。フレンドリーな態度で安心させておいて豹変する。そうするともう穏やかなときも安心していられない。いつ豹変するかわからないという狂気がひたひたと横溢している感じがつきまとって、観ているこちらが緊張してしまう。
 連想される二つの映画との共通点に限らず、とにかく上手い映画だった。カット割りから編集が場の空気を劇的に感じさせるし、役者の微妙な表情の演出や編集に、感情の機微が細やかに感じ取れるよう作られている。
 そして、あとからこの映画が、20代の監督のデビュー作で、比較的低予算の映画なのだと知った。あの強烈なJKシモンズも、他には特に有名な映画もないような役者なのだと知った。なんてこった。
 それであの完成度であの演技? 後半の車の追突シーンなども、映画としての見せ方は恐ろしく上手い。どうなっているんだ。
 面白いなあ、と思って見続けて、最後はやっぱりスリリングでかつカタルシスも充分。良い映画だった。

 にもかかわらず菊地成孔が批判していたらしい話をきいて、長いその『セッション』批判を読むと、それはそれでなるほどそういう見方もあるかと思う。町山智浩との論争は大いに楽しんだ。
 そのうえで基本的には面白かったと素直に言いたい。

 描かれているスパルタ式の音楽教育が正しいものだとは、むろん思えない。そもそもその必要性を熱く語って、やっぱりこの人は良い人なんじゃないかと思わせておいて落とすあのわけのわからない復讐劇は、フレッチャーがほんとに音楽教育のことを真摯に考えているのかどうかを疑わせる、わけのわからない展開だったが、その前の、「必要性を熱く語る」ところのやりとりが、ちょっと面白かった。
 プレッシャーをかけなければチャーリー・パーカーはチャーリー・パーカーたりえなかったのだと語るフレッチャーに対して、不必要なスパルタ式によって、多くのチャーリー・パーカーが挫折したんじゃないかと反駁する主人公に「チャーリー・パーカーは挫折しない」と語るフレッチャーの理屈は、うん、そうだよなと思いつつ、論理的には単なる結果論なのだった。
 むろん本当は「チャーリー・パーカーは挫折しなかった」という結果から、「その可能性のある者は挫折しない」という命題を引き出すのも、「チャーリー・パーカーの才能はプレッシャーによって引き出された」という推論から、「プレッシャーがなければ才能は引き出されない」という結論を得るのも、いずれも論理的には無理がある。顚倒している。
 それでも、フレッチャーの語る可能性もまた否定できないのであって、そこに賭ける教官としての信念は、どうも否定できないと感じた。
 町山智浩は、そうではなくてあれは単なる才能ある若者を潰そうとしているだけだと言うのだが、どうもそういうふうには見えない。にもかかわらず最後の舞台のあの展開はなんだよ、というのが誰もが感ずる「つっこみどころ」であるのは間違いないのだが。

 そういえばもう一つ物申したい気になるのは『セッション』という、邦題なのに英語、というまたしてもわけのわからないパターンで流通しているこの映画が本当は『Whiplash』という題名であることは、始まってしばらくのキャプションでわかって、なんだこれはと思ったのだが、劇中挿入曲の題名でもあり、内容的にも実にぴったりなこの単語が日本人にわかりにくすぎるのは確かなことだ。
 だからといって『セッション』はありか?
 もちろん「セッション」というのは単に「合奏」という意味だから、内容的にハズしてはいないのだが、それにしてもチャーリー・パーカーを引き合いに出して語られるジャズ論がビッグバンド・ジャズなのは残念だった。なぜインプロビゼーションを重視するモダン・ジャズじゃないんだろ。映画の内容的には「セッション」が「ジャム・セッション」であることの方がよほど、説得力があると思うのだが。
 もちろんそれは演奏の質をさらに要求するから、もはやそれは「無理」だとも言える。だれがチャーリー・パーカーのように、バディ・リッチのように演奏できるものか。
 だが「大学で教育される白人によるジャズ」に対する菊地成孔の敵視には、日頃から深く同意している身としては、この映画の「ジャズ」がビッグバンド・ジャズだったことには大いなる遺憾の意を表したい。

2016年8月29日月曜日

『ある子供』 -何が欠けているのか

 「パルム・ドール」といえばカンヌ映画祭の最高賞だが、米アカデミー賞と違って、こちらは未見の作品がほとんどだ。基本、エンターテイメント映画しか観ないせいだ。
 だからテレビ放映で「パルム・ドール」と宣伝されて、ようやく見てみた。ベルギー・フランス映画だというのだが、例によってヨーロッパ映画である。バスの中、街角、部屋の中、そこら中が異様に冗長な「間」の取り方で描かれる。そしてあの煤けた画面。どうしてこういう空気感がデフォルトなんだろ。

 その日暮らしをする若いカップルに赤ん坊ができて、とりわけ親になった自覚のない父親がその赤ん坊を売ってしまう。「ある子供」とは赤ん坊を指しているのかと思いきや、父親となった若者を指しているのだった。
 さて、「社会派ドラマ」という紹介だったのだが、確かにかの国の社会状況が描かれているのかと思って観る必要があるんだろうな。同じような「子供」たちは日本にも珍しくはないのだろうが、あのくらいに窃盗や、路上で小銭をせびることが日常だったりはしない。
 そして、「赤ん坊を売る」というルートに、あの手の若者がおいそれとアクセスする機会も、日本にはないんじゃなかろうか(いや、知らないだけか?)。
 そういう違和感を越えて、普遍的な人間ドラマとして感動的に観られるかというと、またそれも難しいのだった。ああいう、子供を作っておきながら大人になってはいない「子供」を描こうとする意図も、それがわずかに成長する姿を描こうとする意図もよくわかる。そして映画は全体として間然するところなくよくできている。
 だが、あれが上映される会場にいて、見終わった直後にスタンディング・オベーションする観客の一人になるだろうという気持ちはどうにもわからない(たぶんカンヌ映画祭ではそういう感じだったんだろうという想像する)。
 映画としてすごいものを観たとも、すごい物語を体験したとも思えない。
 こういうギャップをどうしたものか。鑑賞する姿勢として何が欠けているのか、こちらに。

2016年8月28日日曜日

『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画

 始まりこそ、SF的映像美のあまりの完成度に感嘆して、これは『ゼロ・グラビティ』並みじゃねえか! とも思ったのだが、聞けば実写だという乗り物や住居はいいのだが、CG合成のドローンが結構にチャチいシーンを見てからそこのところもちょっと冷めた。
 そうなるともういけない。物語は実に謎の連続で引っ張られる…ということになっているんだろうが、どうもありがちなSF物の焼き直しの連続から一歩も出ていないので、最後まで特に感心することもなく観終えてしまった。
 確かにあちこち、これはサスペンスフルな展開のはずだ、とかここは伏線が回収されて、ああそうか! と思わせるつもりなのだろうとか、ここは感動的なはずだ、とか、あれこれの面白さをしかけようとした意図はわかる。だが安っぽくすまい、とか、面白くしよう、とか、考えていても、実際には必ずしも面白くなるわけではない。その「面白さ」が実現するにはもう一歩のなんらかの才能だか偶然だかが必要なんだろう。残念ながらそれは実現していない。
 わずかに、主人公のトム・クルーズ演じるジャックの、物語前半におけるパートナー、ヴィクトリアの、ジャックに妻がいたことがわかる中盤の不安や悲しみが胸に迫ったのだが、後半はすっかり本妻のジュリアがヒロインになってしまって、観客はヴィクトリアにとって残酷な「ハッピーエンド」が訪れる結末に感動しなくてはならない。だが、報われないヴィクトリアに落ち度があったような描写や、後半にその悲しみが思い出されるようなバランスの配慮が見られないのも残念だ。救われない不全感がある。

 さて、ジャックがジュリアやわずかに残った人類を救うために自己犠牲になったあと、残されたジュリアと娘のもとに、ジャックのクローンがあらわれる結末は、感動的なハッピーエンドのつもりなんだろうが、ネットで見ると、ここに引っかかりを感ずる観客が多いようだ。主人公のジャック49号は死んでしまったのに、ラストで現れた52号がその代わりになるのか? という疑問と、52号以外のクローンはどうなっているのか? という疑問があるためだ。
 後者の疑問についてはこんな動画も作られている。
 だが、封じられていた記憶を蘇らせたのは49号だけだったのだろうし、52号は49号との接触で記憶を蘇らせたということなのだろうから、他のクローンは自分の持ち場以外の場所を「汚染区域」として、それぞれの担当区域以外に出て行かないまま、テットの破壊後に死んでしまったと考えるべきなのだろう。したがって上記の動画のようなことが起こらないという一応の理屈は立つ。
 もうひとつ、クローン52号は49号の代わりになるのか、という点については、ジュリアとジャックの関係は、そもそもこの映画中の物語の前、60年以前にできあがっているのだから、観客がいかに49号に思い入れていても、ジュリアにとって49号と52号の違いはそれほど大きくないのだと考えられる。
 この結末については萩尾望都の「A-A’」を思い出した。再び会えた愛しい相手がクローンであることは、それが新しい出会い(関係を築いた相手は死んでしまって、出会う前のコピーであるクローンと再会する)であってさえ、かくも感動的でありうる。まして上記の通り、52号が49号の代わりに帰ってくることは、ジュリアとその娘にとって十分なハッピーエンドたりうる。
 さすがにこの結末はヴィクトリアの悲しみとともに胸に迫るものがあった。映画全体の評価を著しく高めるほどではないにせよ。

2016年8月24日水曜日

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの

 アルフォンソ・キュアロンだし、アカデミー賞総なめだし、大ヒット作だし、ハードルは思い切り高い。
 だがそれを越えるだけの出来であることは確かだ。文句の付けられない緻密な脚本とサンドラ・ブロックの演技、そして何より、恐るべき撮影技術。
 『トゥモロー・ワールド』も恐るべき撮影技術に驚嘆して、それでも物語に不満が残った作品だったが、こちらは物語としても間然するところがない。サスペンスもドラマ性も。
 デブリによるステーションの破損で宇宙漂流する危機に陥った主人公がいかに生還するか。物語はこれだけの、これのみのシンプルな骨格に拠っている。
 最初のシークエンスで、宇宙空間に漂流することの恐怖はたっぷり演出されている。あとはそこからの生還が、いかに強いカタルシスを生むかだ。
 その点でもよくできていたと思う。次から次へと襲う困難をひとつひとつ克服して地球に向かう。
 着陸用のユニットが着水して、沈み始める。あれ、ここまできてこのままでは溺れ死にしちゃうじゃないかと不安に思うと、水中の映像の画面に蛙が横切る。淡水! 意外と水深は浅い。水底を蹴って水面に浮かび上がる。無重力状態に慣れた体にのしかかる重みにあらがって立ち上がる主人公を下から見上げる構図で、主人公が確かな足取りで歩き始めたところで「Gravity」のタイトル。
 そう、オープニングでタイトルが出たときに、あれ!? 「Zero Grabity」は原題ではなく邦題なのだと知って驚いた。確かに邦題が『重力』では内容が想像しにくい。『無重力』となれば宇宙を舞台にしたSFなのだとわかる。
 だが原題は『重力』なのだ。それが無い状態がどれほど人間を不安にさせるか。それを取り戻したときの安堵。見終わって納得感は強い。
 これだけの映画としての完成度を見ればアカデミー賞の監督賞だとか撮影賞だとかいうところはむべなるかな。作品賞だっておかしくはないと思うが、そこを逃す、作品全体としての強さに結局は欠けるところがあったのも確かだ。
 とりわけ乗り切れなかったのは、宇宙空間のスケール感に対して、人間の出来ることはもっと限られてしまうのではないかという疑いをすてきれなかったからだ。あちこちの場面でそんなことは物理的に可能なのか? と疑ってしまった。いくつかのサイトで見ると、こうした描写については、科学的にはありえないというコメントがあるそうで、やっぱりそうか。
 これがあると、先日の『スーパーマン』と同じように、「結局大丈夫なんだろ」と、いわばタカをくくるような気持ちになってしまうのだ。ここがサスペンスを盛り上げ損なっているところ。だからラストの着水にこそドキドキしてしまったりするのだ。ここでは我々の知っている物理感覚でいいんだよな、と思って。

2016年8月23日火曜日

この1年の映画 その2

 うっかり更新が滞っているうちにブログ開設二年となった。去年の今頃にも、一年目の映画について振り返ったので、今年も。
 ブログに記録しようとすることが映画を観る動機となっている面もあったため、一年目は意識して観ていたようなところがある。二年目はさすがにちょっと息切れ。かつ、ブログの記事を書くこと自体が時間的な負担になっているところも否定しがたい。観てから、それについて書くまでに、いつも時間的な隔たりがある。
 そういうわけで、2014年の8月の開設から一年で観た映画は75本だったが、2015年の今頃から今にいたるまでに観たのは以下の60本。

『ザ・バンク 墜ちた巨像』
『誰も知らない』
『英国王のスピーチ』
『ショーシャンクの空に』
『GODZILLA ゴジラ』2014年版
『オカルト』
『ノロイ』
『運命のボタン』
『オブセッション ~歪んだ愛の果て』
『96時間/リベンジ』
『アルカトラズからの脱出』
『セクター5 第5地区』
『見知らぬ医師』
『ラスト・キング・オブ・スコットランド』
『ニック・オブ・タイム』
『リプリー』
『アジャストメント』
『狩人の夜』
『パニック・フライト』
『桐島、部活やめるってよ』
『ワルキューレ』
『ウルトラ・ヴァイオレット』
『キリング・ミー・ソフトリー』
『フローズン・グラウンド』
『単騎、千里を走る』
『コンテイジョン』
『シックス・センス』
『127時間』
『ショコラ』
『GONIN』
『ギャング・オブ・ニューヨーク』
『クラウド・アトラス』
『クロール 裏切りの代償』
『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』
『永遠の僕たち』
『0:34』
『シャイン』
『ライフ・イズ・ビューティフル』
『Friends after 3.11 劇場版』
『わらの犬』
『エンド・オブ・ザ・ワールド』
『ホワイトハウス・ダウン』
『メランコリア』
『ゲーム』
『アルティメット2』
『リトルダンサー』
『奇跡の人』
『スーパー8』
『ウェールズの山』
『ザ・ビーチ』
『その男 ヴァン・ダム』
『マン・オブ・スチール』
『レイクサイドビュー・テラス 危険な隣人』
『死霊館』
『エクスペリメント』
『スイミング・プール』
『リード・マイ・リップス』
『コワすぎ! 劇場版』 
『海がきこえる』 
『ブレイクアウト』

 この一年の折り返しのあたりから、記事のタイトルに、映画のタイトルとともに、ちょっとした見出しをつけることにした。ちょうど『シャイン』からだ。そこまでは監督やら原題やらを付け加えたり付けなかったり。こうした工夫も、自分の印象を明確にしておくにはいくらか役に立つ。
 去年のように長い考察を加えた映画はない。比較的長い考察は『桐島 部活やめるってよ』について書いた記事だが、これは主に批判であって、作品としての思い入れはそれほどない。
 では思い入れのある映画はどれか。昨年にならって10本を選ぼう。上記60本には、初めて観たわけではない、折り紙付き「名画」もあるので、ここは初見映画に限定して挙げる。

『ザ・バンク 墜ちた巨像(原題:The International)』
『オカルト』(監督:白石晃士)
『狩人の夜』(監督:チャールズ・ロートン)
『パニック・フライト』(監督:ウェス・クレイブン)
『127時間』(監督:ダニー・ボイル)
『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』(原題:『Nothing But the Truth』)
『シャイン』 -無垢である痛みと幸福
『ライフ・イズ・ビューティフル』 -ホロコーストと幸福感
『エンド・オブ・ザ・ワールド』 -「終末」に誰と過ごすか
『ホワイトハウス・ダウン』 -不足のない娯楽大作

 とにかく印象に残ったもの、という基準で選んだが、その印象はさまざまだ。『シャイン』『ライフ・イズ・ビューティフル』あたりの、初めて観るが、名画であることは「折り紙付き」の映画もある。
 『ホワイトハウス・ダウン』『パニック・フライト』は、制作規模に大きな差があるものの、どちらも堂々たるエンターテイメントで熱狂させてくれた。
 『オカルト』『狩人の夜』は、映画史上の重要度においては大きな差があるものの、どちらも奇妙な味わいが印象深い、怖くはない恐怖映画だった。
 『127時間』『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』は、やはり制作規模にも、監督の力量にも大きな差があるとは思うが、どちらも緻密に作られたお話と、主演俳優の演技に感心した。
  『エンド・オブ・ザ・ワールド』は、凄い映画、とは思わぬものの、思い出すと奇妙な愛おしさを感ずる映画だった。「懐かしい終末」というのは、70年代SFへのノスタルジーに付されるコピーか。
 そして、総合的な評価としては『ザ・バンク』に最も圧倒された。脚本も演出も演技も、すべての要素が圧倒的だった。
 番外として『その男 ヴァン・ダム』を挙げる。これもなかなかに愛おしい映画だった。

2016年8月14日日曜日

『ブレイクアウト』 -残念なサスペンス映画

 原題の『Trespass』(不法侵入)では何のことやらわからんから、またしても邦題なのに英語という。
 先にネットで評判を見ておけば良かった。ニコラス・ケイジにニコール・キッドマンという顔合わせに「巨匠のしかける予測不可能なサスペンス」とかいう煽り文句で観てしまったが、ネットでの評判はすこぶる悪い。ジョエル・シュマッカーは量産監督としては悪くない仕事をしているんだろうが、こういうのを「巨匠」と呼ぶのはどうもなあ。
 なるほど、展開は次から次へと「予想」するより先に動いていくから、退屈する暇はないが、といって、先のことを「期待」したりさせていないから、サスペンスもさほどないし、カタルシスもない。
 強盗に押し入られて夫婦が捕まっている状態で、娘がこっそりパーティーに行くために家を抜け出しているから、自由に動ける娘をどう使うかはストーリー上の重要な要素なのに、帰ってきてあっさり捕まる。ある意味で「予想」を裏切っているが、むろん悪い意味でだ。
 総じてそういった展開が続いて、やはりニコラス・ケイジにニコール・キッドマンが助かるのはお約束だから、どうもハラハラした挙げ句のカタルシスには至らない。
 腹立たしい日本製のバカ映画と違って、金もかかっているし、それなりにストーリーテリング上も工夫をこらそうという意志は見えるのに、結局うまくいっていないことを制作途中で誰かが指摘して軌道修正できないのか、腹が立つというより残念な気がする作品である。ニコール・キッドマンの美貌には感嘆したが、それだけで高評価する気になれないのは、映画がやはり総合芸術だからだ。

2016年8月13日土曜日

『茄子』 -なぜ「ジブリブランド」にしないのか

 『海がきこえる』の流れで、娘と観た。しかも『アンダルシアの夏』『スーツケースの渡り鳥』二作続けて。
 「ジブリ作品」ではないが、この濃厚なジブリ臭は、監督の高坂希太郎がやはりジブリ作品にかかわる常連アニメーターだからである。
 だが「だからである」で済ますには似過ぎである。なぜジブリで権利を買い取って、ジブリブランドで売らないのか。高坂希太郎がジブリ関係者だからって、制作会社が違っては、スタッフも違うからしょうがないんだろうけど。もったいない。
 まあいい。作品としては面白いに決まっている。黒田硫黄である。しかもかなり忠実に、丁寧に作っている。かつ『スーツケースの渡り鳥』は原作をかなりふくらませてオリジナル作品として成立させつつ、原作を損なってはいない。原作の飄々とした空気は、漫画というメディアの文法の賜物を、黒田硫黄が充分に使いこなしたうえで生み出したものだが、メディアの違うアニメーションでは、それはそれで、アニメーションの良さを十全に発揮する高坂の仕事が見事だ。

2016年8月11日木曜日

『海がきこえる』 -ジブリの佳品


 しばらく前に、子供たちとシネコンの入口の、差し渡し30メートルはあろうかという看板絵に描かれた歴代ジブリ作品の主要人物たちを見ながら、制作順はどうなるんだろうとか、ランキングを作るならどうなるかという話をしたのだが、その時に、自分の中ではどうやら『海がきこえる』が意外と上位なのだということを発見したのだった。
 かつ子供とは観ていないのだということもわかったりしたのだが、六本木ヒルズで開かれている「ジブリ展」に行ってきた娘と、十数年ぶりとかいう感じの『海がきこえる』を観てみようということになった。
 観始めると、やっぱり素晴らしい。隅々まで丁寧に描かれた美術も作画も、それだけで観るに値する。
 だがそれをいうならジブリ作品はどれもそうだ。ちっとも面白いと感じない最近のいくつかの作品だって、アニメーションとしての技術はいつも高く、ハードルが高すぎるのが低評価の理由だという、ありがちな相対的悪印象に過ぎないのではないか。逆に20年も前の『海がきこえる』は期待値が低い分だけ、よくできてるじゃないかと評価が甘くなっているだけでは?
 どうもそうではない。おそらくこちらの期待との相対評価の問題というより、作品としての完成度の問題なんだろう。描こうとしている物語や、それを描くための細部の演出、アニメーションとしての技術的レベルが、バランスよく高いというのが、『海がきこえる』という作品がこのように好印象に感じられる理由であるように感じられる。
 最近のジブリアニメの低評価は、基本的に物語の弱さであり、細部の演出の弱さであり、アニメとしてのレベルの高さは、それだけを鑑賞して好印象を抱くにはアンバランスなのだ。
 そこにはむしろ、なんだか不快感さえ生じてしまいかねない。
 それに比べて、派手なアクションも実験的な表現もない『海がきこえる』は、その世界構築に関して過不足無く、となれば物語のありようを好ましく思えるかどうかだ。
 それが好ましいのだ。ちょっと不器用で、ぎこちなくプライドを守って、自分らしくあろうとし、手探りで関係を築こうとする高校生たちのありようが。
 そして、ありえないような異世界の体験ではなく、だが普通にはない、だが現実には起こりうる(超自然的ではないという意味で)劇的な体験が、なんとも懐かしくも羨ましい。

2016年8月9日火曜日

『コワすぎ! 劇場版』 -モキュメンタリーの縮小再生産

 どうも『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版』というのが正式名称らしいが、長いよ。
 『オカルト』が楽しかった白石晃士監督作品だが、なんたるチャチさ。相変わらず『ムー』要素満載のモキュメンタリーだったが、単に『オカルト』の縮小再生産になっていると感じた。
 足を踏み入れると発狂して行方不明になるという山奥の村があって…というから祟りだの呪いだのという幽霊系オカルトかと思いきや、秘密の兵器研究が行われていた旧日本軍の軍事施設があって、UFOが出てきて、タイムリープによるタイムパラドックスが起こって…。「怖すぎ」というより「やりすぎ」だな。
 とりわけ、後半に頻出するCG合成が耐え難い。『オカルト』のときも、そこについて行けないものを感じたが、今回はそこがまた「やりすぎ」なのだった。どうみてもチャチい合成で首が飛んだり異空間に迷い込んだりするのは、どうしたって「コワ」くなりようがない。
 だが、そういうことをやりたいってことなのか? これは。
 いや、シリーズを通してみていると、レギュラーメンバーの背景がわかって、もうちょっと違った面白さを感じられるのかもしれないが。

2016年8月7日日曜日

『リード・マイ・リップス』 -よくできた仏映画の味わい

 前回の『スイミング・プール』(英仏映画)といい、ヨーロッパ映画というのは、ハリウッド製の米映画と実に手触りが違う。字幕で観たから、登場人物の喋るフランス語も、いちいち「映画みたい」と感じられる英語と違って日常に地続きのドラマを感じさせる。その意味ではどちらかといえば邦画に近いくらいだ。
 だが、こんなふうによくできた映画は、やはり邦画にはほとんどない。難聴のオールドミスOLが、教養のない保護観察中の若い男と接近することで少しずつ「女」の顔を見せ始める人間ドラマも巧みに描かれていたし、足を踏み入れてしまった犯罪がもたらす危機をいかに脱出するかはサスペンスたっぷりに展開した。
 たぶんもっと集中して観て、身を寄せ合うように生きる二人に感情移入していければ相当に上等な映画体験になったはずなのだが、残念ながらこちらの集中力が足りなかった。「よくできた映画」とかいうのは残念な感想だ。

 若い男が、借金返済の代わりに、バーテンとして働かされることになる展開があるのだが、その働きぶりは、慣れないオフィスワークに比べてずいぶん手際が良い。その演出は見事だ。カメラワークも演技も。
 ネットの感想に、この働きぶりについて「水を得た魚のように生き生きとしている」という感想と、ほぼ正反対の、「弱い立場の者はこき使われるしかない」という感想があって、面白かった。同じ場面を見て思うことの差よ。
 働きぶりは意図的に丁寧に描写されているように見えるから、そこは必要な情報なのだろう。ここはオフィスワークとの対比によって、この若い男が多少は魅力的に見えるべきところなのだろうと思うが。

2016年8月6日土曜日

『スイミング・プール』 -観客の解釈を誘う謎映画

 ずいぶん上手い映画だと思いつつ、あれこれの謎めいた描写の訳がいつわかるのかと思っていると、最後はむしろ物語全体がなんなんだかわからずに終わって呆気にとられ、もう一度、早送りしいしい見直してしまった。それでもわからない。おかしい。わかるはずなのか?
 で、調べてみるとこの映画、監督が解釈を観る人に委ねるとか言ってるし、観た人もあれこれと解釈するサイトがいくつも見つかるという映画なのだった。そうか、解釈していい前提なのか。「現実」の範囲内で解釈しようとするから無理なのであって、映画の中で起こっていることの中に「虚構」を認めていいタイプの映画なのか。
 そのつもりでもう一回見直さないとならないということになるんだが、まあ、そこまでの気はない。結局、すっきりいくというものでもないそうだし。
 それよりも、隅々まで上手い映画だった。たとえばシャーロット・ランプリングの表情は、一分の隙もなく見事な演技と演出の賜物だと感じた。
 それから、写っているものが明らかに写っているものそのものではないと感じさせる描写があちこちにある。たとえば、二階のベランダから見るプールサイドの人物達がそのままプールサイドを歩いていくと、二階からは木陰に隠れてしまう位置に移動することになるのだが、そのままその樹をしばらく写していると、それは、その木陰で何事かが行われていて、しかもそれに観客の欲望が向かうことを促しているのだと感じられるようになる。
 意図的な暗示であり、これを狙ってやってるのだから上手いものだ。
 もうひとつ。朝になると、プール水面にシートがかけられている。プールサイドで不穏なことが起こったらしいことが暗示され、主人公がおそるおそるシートを巻き取る過程が描かれる。プールの真ん中あたりにシートを下から押し上げる何物かのふくらみが認められ、そこに死体があることを観客に期待(危惧?)さてつつ、シートがそこまでめくられると、下から姿を現すのはビーチマットだ。
 こういうふうに観るものの想像や感情をコントロールする。上手い。

2016年7月31日日曜日

『エクスペリメント』 -傑作独映画の劣化リメイク米映画

 「スタンフォード監獄実験」を元にしたドイツ映画『es』のリメイク。『es』というのはなぜか邦題で、原題は『Das Experiment』というから、米映画の『エクスペリメント』はそのまま英訳だ。
 『es』は2回見ている傑作で、こういうのも一種のソリッド・シチュエーション・スリラーだから、好物のSSS漁りの一環としてリメイクの方も見ようとは思っていた。

 さて、エイドリアン・ブロディとフォレスト・ウィテカーというアカデミー主演男優を揃えて、そんなに安っぽい映画は作るまいと期待したのだが、残念、安っぽかった。誰かがブログで、アメリカというのはなぜヨーロッパの傑作映画をわざわざ劣化リメイクするのか、と書いていたが、うーん、うまいこと言う。
 話はすっかりわかっているから、もうひたすら「よくできているか」という観点から観てしまう。あちこちで、あれあれ? と思う。なぜこう説得力のないことをするのか。いたずらに扇情的になるのがいいはずはない。こういうことは誰にも起こりうるかも、と思わせることができるかどうかが命じゃないのか?
 そこをはずして、そんなわけないじゃん、と思われてしまったら、いくら衝撃的だとか恐怖だとか狂気だとか言っても虚しいはずだ。Wikipediaの「スタンフォード監獄実験」の概説を読むだけでも、あちこちにリアルに引き戻すバランスをとるエピソードがあったことが見て取れるのに、映画ではそうした描写が見られない。あるいは『es』との比較を検証するサイトがあるが、そこで指摘されている差違も、どうしてそこをそう変えるのかがちっともわからない。それを描かなければリアリティが欠けてしまうことは明白なのに。
 暴力の発生はともかく、人死にが出て、それでも直ちに実験が中止されないなんて、あまりに変過ぎる。『es』と違って、こちらでは実験主催者が描かれないのだが、恐らく意図的に「監視カメラの向こう側」を描かないようにしたらしいことが、リアルさを失わせているのだ。それである種の不気味さを演出したいのだろうが、こういうことをして観客の恐怖を煽っても、白けるばかりだ。この映画は、ありうるかもしれない狂気を描くからこそ怖いのではなかったか。

血肉湧き踊る

 京急電鉄の社長がテレビで、自社の列車に乗っていて、路線がJRと併走する区間で、JRの列車が隣に並んだときは「血湧き肉踊る」と言ったのは、さすが鉄道マン、社長という立場になってすらこんなことを言うか、と大いに面白かったのだが(京急は列車の速度が速いのでJRと併走すると追い越すのだそうな)、録画を巻き戻してその台詞を聞き直してみると「血肉湧き踊る」と言っているのに気づいて二度笑った。
 「血湧き肉躍る」な。

2016年7月13日水曜日

『死霊館』 -王道ホラーの佳品

 「しりょうかん」で変換すると、当然のことながら「資料館」になるわけだ。この邦題はなんとかならんかと思うが、原題の「The Conjuring」ではなんのことやらわからんし。
 それでも『ソウ』のジェームズ・ワン監督作というので見てみたのだった。
 内容的には、どうにもありふれた幽霊屋敷物であり、どこにも題名をつけるうえで手がかりになるような特徴がない。『死霊館』もむべなるかな。
 主人公の一人、パトリック・ウィルソンは『レイクサイド・テラス』で見たばかりだし、子役の一人、ジョーイ・キングに見覚えがあると思ったら『ホワイトハウス・ダウン』で大活躍した女の子だった。主人公とも言えるヴェラ・ファーミガは去年『マイレージ、マイライフ』で、最近『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』でも見た女優だ。
 俳優が豪華な割には、映画全体は低予算で作られている感じだが、それはホラー映画にとってまるで不利な条件ではない。ホラーは演出とアイデアがすべて。
 アイデアの方は『ソウ』のような切れ味はなかったが、演出は悪くない。実に怖い。しかもスプラッターのような残酷趣味は伴わないところが好感がもてる。
 娘と観ながら、これは良いという時の基準は「奥ゆかし」だった。扉の陰が怖いのだ。反対に、これはちょっと、と思うときの印象を表現するなら「あさまし」か「むくつけし」だ。悪霊が、いかにも怖ろしげな形相で害意を露わにした姿を画面に晒してしまうのは、下品で無風流で無粋で見苦しい。
 洗濯物を取り込んでいると、にわかに雲がたちこめて辺りが暗くなり、風が強くなって、とりこもうと近づいたシーツが激しい風で吹き飛ばされる。直後、主人公の脇で何かに巻き付くように静止して、そのシーツの中に何者かの肉体の存在を感じさせたかと思うと、さらに吹き飛ばされて屋敷の窓に貼り付く。さらにそれが飛ばされた後で、窓の中で動く気配。こういう演出こそ粋で奥ゆかしいのだ。
 ということで後半は、展開が「エクソシスト」そのままになり、なおかつ結局、悪魔払いよりも家族を思う母の愛が悪霊に勝つという結末にがっかりしつつも、ホラー映画としては十分に楽しめた。

2016年7月10日日曜日

参院選

 ふとしたことから東京で立候補している三宅洋平の選挙演説をYouTubeで追っかけていて、先週末には生で体感しようかなとも思って娘を誘ったのだがノらず、結局YouTube観戦のまま参院選当日となった。演説のバックで流れる生演奏がやたらと良いので、生で聴きたかったのだが。
 結果の落選については、残念ではあるが、まあそういうものでもあろうと思う。
 さて、熱心な支持者はこの結果にも陰謀論を唱えるのだろうか。
 得票数について不正が行われたと主張するのは典型的なトンデモ陰謀論だから無視するとして、連日の「選挙フェス」が大手メディアで取り上げられないことについては、三宅陣営自身が「陰謀」を主張していた。「これだけの盛り上がりで当選しないはずはない。」と。
 これがどこまで正しいか、わからない。メディアとしては、ニュースとして取り上げるほどの盛り上がりではないのだと主張できる。事実、当選圏内には到底届かない票数で落選したではないか。
 だから、ニュースで取り上げなかった大手メディアが、後ろめたいことのない公明正大な理由を述べることが可能であることは認める。
 だがそれでも、メディアが面白がって取り上げることによって、ある潮流が起こりうる可能性は大いにありそうなことでもある。メディアは、その気になれば三宅洋平を国会議員にできたはずだ。
 つまり「支持が広がらなかったから取り上げなかった」のではなく「取り上げなかったから支持が広がらなかった」のではないかという疑いは、それほど無理のない感触として信じられる。
 とすればメディアがそれをしなかった理由は何だ。
 そこにはやはり「陰謀」の感触があるようにも思われるのだ。
 だがそれは、特定の「ある筋からの圧力」である必要はないかもしれない。現場の記者、デスク、編集権を持つディレクター、プロデューサーが、自分の保身の為に三宅洋平を取り上げることを自粛した可能性は大いにある。それが、実際には存在しない「陰謀」の感触を生み出しているのかもしれない。

 とはいえ、三宅洋平が支持を集めるとしたらそれも一時のポピュリズムでもあろう。実際に改憲派がこれだけの支持を集めているのも事実なのだ。信じがたいことに。
 だがそのリアリズムを想像することも可能ではある。時としてやはり自民党を支持するのが現実的だろうな、という気は大いにするのも事実だし。
 だからといって安倍的リアリズムなんて、やはりそれはそれで妄想じゃないかと基本的には思う。


2016年7月9日土曜日

『レイクサイドビュー・テラス 危険な隣人』 -確かにビデオスルー

 隣にサイコパスが引っ越してきて、徐々に相手の狂気に脅かされる恐怖…とかいうパターンなんだろうと思っていると、まあそのとおりではある。
 が、サイコパスは引っ越してきた側ではなくて、引っ越してみると隣に住んでいたのがサイコパスだった…というパターンだった。しかも物語の最初はそちらのサイコパス側の視点から描かれていたから、最初のうちには、引っ越してきたあいつらが…と観客は思ってしまう。一種のミスリーディングによる意外性。
 一方で、その「サイコパス」たるサミュエル・L・ジャクソンは、最初のうちなかなかにユーモアも良識も職業意識も頼り甲斐もありそうで、とうてい問題がありそうには思えなかった。ただつきあうには面倒だと感じさせる違和感も微妙に描かれていて、隣人同士の対立がエスカレートする過程は巧みに描かれていると感じた。
 それには二つの要因が付加されている。
 一つは黒人差別の問題だ。人種間の対立、とくに被差別側が加害者側になることが一種の説得力を生んでおり、単なる「サイコ野郎」ではないキャラクター造型を可能にしている。
 もう一つは、折しも起こった山火事が、徐々に迫ってくるという設定だ。これがカタストロフとシンクロして、悲劇への傾斜に説得力を与えている。
 ということで、安っぽくはないのだが、だからといって何かものすごく爽快感とか感動があるというものでもなく、これがビデオスルー作品だというところには実に納得がいくのだった。

2016年7月8日金曜日

『マン・オブ・スチール』 -スーパーマン映画の不可能性

 スーパーマン映画に興味はなかったが、ザック・スナイダーには興味はある。『300』『エンジェル・ウォーズ』と見て、映画を手放しで賞賛する気にはならなかったが、映像の斬新さには目を瞠った。『Dawn of the Dead』のリメイクがデビューだというのは後から知った。本家に及ぶべくもないとはいえ、悪くないリメイクだった。
 だがまあ、今回も映像の凄さに感銘が比例しない。
 「悩めるヒーロー」像は今さら新しくない。最近は「スパイダーマン」シリーズ、ちょっと古くなると「エヴァンゲリオン」、物心ついたときから平井和正がそういうのを描いていた。そこにスポットがあたっているようだが、そうしたテーマが深められているようには思えない。
 ではストーリーが、波瀾万丈、スリルとサスペンスでドキドキするか? ヒロインとのロマンスにドキドキするか? 笑えるか? ほのぼのするか? 感動するか?
 しない。
 スーパーマンの物理的な、数値的な巨大さを描けば描くほど、スリルはなくなっていくというこのアンビバレンス。格闘を見ていても、どれが致命的なのかの実感がまるで湧かない。どうせいくら激しい物理的負荷を受けても無事なんだろ、と思えてしまう。
 街が激しい破壊を受けて、一体何十万人が死んでるんだろうと思われるのに、直接には死者は描かれない。死にそうになる人物が描かれるが、だからもうサスペンスはない。この状況で今更なんだ? と思ってしまう。
 だから、たぶんスーパーマン映画を面白く描こうとするなら、ドラマにしては駄目なんだろう。ひたすら豪快で爽快なヒーローの活躍を描くしかないんじゃないかと思う。

2016年7月3日日曜日

『その男 ヴァン・ダム』 -粋なヴァン・ダム讃歌

 どこかで、ジャン・クロード・ヴァン・ダムが自分自身を演ずるセルフパロディの映画があると聞いたことがあって、放送予定で見つけて、これか、と。
 ヴァン・ダムに特に思い入れはなく、代表作のあれやこれやも観ていないんだが、比較的最近『エクスペンダブルズ2』で重要な役どころをやっているのをみて嬉しくなったものだった。
 さて映画は、冒頭の長回しから比較的よくやっているぞと感心しないでもないんだが、微妙にグダグダだなあと思っていると長回しの最後にヴァン・ダム自身が「全然駄目だ。俺はもう47歳だ、ああいうのは無理だ」と言うという見事な落とし方をする。ファンだというタクシー運転手のおばちゃんに言いたい放題言われて口ごもるやりとりや、郵便局強盗立てこもり事件をある程度まで見せておいてから、もう一度時間を巻き戻して同じ事件を内側から描いてみせるなど、映画としてかなりうまい。単なるおふざけの映画ではない。
 単なるどころか、まるでシリアスな映画なのだった。確かにあちこちは笑えると言えないこともないのだが、それよりはるかにシリアスでペーソス溢れる映画なのだった。
 それはそうだ。かつて売れっ子のアクション・ムービーのスターだった男が中年になって、出演作がB級映画ばかりになって、娘の親権を争う裁判で負けそうで…悲哀に満ちた設定ばかりだ。
 そしてその中でヴァン・ダムが、最後の最後でヒーローとなるかというと、一瞬なるかと思いきやそれは幻想で、現実にはやっぱり悲哀に満ちた、でもわずかなハッピイエンドでしめる、という、映画自体にも、そしてヴァン・ダムにも、大いに好意的な気分を残して終わる映画なのだった。

2016年7月2日土曜日

『ザ・ビーチ』 -パラダイス創造の失敗

 『28日後…』の、『127時間』の、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイルだから、評判の芳しくないことは何となく知ってはいたが、ここはとりあえず観てみることにした。
 確かに映画としてはやはりものすごくうまい。ダニー・ボイルである。こういうふうに「映画」の文体を確立している人ではあるのだ。
 だがそのダニー・ボイルにして「失敗作」と言われる要因は諸々あると言わざるを得ない。
 ディカプリオに興味はないから、むろんそこを期待して観ているわけでもない。ヒロインとの恋愛エピソードは、はっきりと邪魔である。いるのか? あれ。
 「狂気」とか言う単語が聞かれる映画のことだから、『蠅の王』的な、孤島におけるコミュニティの崩壊を描くストーリーなのかと思っていると、まあそうではあるのだが、そこのところは詰めが甘いお話ではある。
 では、映像を見るしかないか。確かに『127時間』も映像はきれいだった。『28日後…』を最初に観たときも、ホラー映画なのに、この映像のきれいさは何なんだとびっくりした。まして『ザ・ビーチ』はそれが売りのひとつである。だがそのために観るか? 環境ビデオでもあるまいに。

 それでもいくらか面白かったのは、「楽園」を維持するために何を選択しなければならないかについて、意外とシリアスに選択を迫られるところだ。だがこれが「意外と」と思われるくらいには全体が甘いということなのだが。
 やはりお話の浅さが致命的なのだ。人死にを出しておいて、しかもそこにはっきりと関わっておいて、ラストの日常への復帰がハッピーエンドのように描かれるのは何事だ?
 こんな風に安易にあの閉鎖的なコミュニティが存続できるなんて現実的じゃない、と感じさせていると、ちゃんとそれが崩壊する、という現実感覚くらいはいくらか認めてもいい。だがそれをラストでノスタルジックに描くのはどうみても駄目だ。
 そういう意味では、例えば文化祭前夜を延々繰り返す『うる星やつら ~ビューティフル・ドリーマー』や、夏休みを延々繰り返す『ハルヒ』の『エンドレス・エイト』は、終わりが約束された非日常であるからこそ、それがパラダイスのように描かれるのを、ノスタルジックに描くことを許されてもいた。
 たぶん、『ザ・ビーチ』も、前半のコミュニティと孤島の生活が、後からノスタルジィを感じさせるくらいに魅力的に描かれることが意図されていたはずで、単にそれが失敗したということなのだろう。
 パラダイスの創造に失敗したのは、サル(コミュニティのリーダー)というより、映画の制作スタッフである。

2016年6月15日水曜日

『ウェールズの山』 -上品なイギリス映画

 第一次世界大戦後のウェールズ。
 イングランドの測量士が訪れて、地元の人々が「山」と信じている「土地の盛り上がり」を測量し、それが地図の習慣によれば「丘」であることを告げる。土地の人々は誇りにかけて、それが「山」と呼ばれるところまで盛り土すべく、土を桶に入れて列をなして頂上に登る。努力の結果、測量士はそれを「山」と認める。
 それだけの話。
 始まったとたん、その語り口のうまさにニヤニヤさせられる。風景と音楽の美しさ。登場人物のやりとりの軽妙さ。
 ヒュー・グラントの、軟弱だが人の良さそうな好青年ぶりも、実直な牧師もいい。
 が、後へ行くほどどうでもいい感じになってしまった。
 こういうのは、観ている側のこっちの受け入れ状況のせいかもしれない。映画の罪ではなく。

2016年6月8日水曜日

『スーパー8』 -尻つぼみな高品質エンターテイメント

 公開当時、評判の良かったこの映画を、機会があれば観たいとずっと思っていた。といってレンタルするでなし、放送の機会に録画してようやく。
 題名は8人の超能力少年のことでもあるかとか思っていたのだが、8mmフィルムのことなのな。映画少年たちの自主映画作りという設定は、それだけで映画ファンの感情移入を誘う。
 加えて、見始めてしばらくの列車事故のシーンで「おおっ!!」となり、その後の緊張感のある展開も、青春映画としての甘酸っぱさも、レベルの高いエンターテイメント映画だと興奮していた。
 だが、モンスターの姿が露わになるのと比例して(反比例しているのか?)、つまらなくなっていく。ラストはすっかりがっかりして終わった。
 問題の「物体X」が、憎むべきモンスターであることと同情すべき宇宙人であることのバランスの収まりが悪い。どちらでもあることのアンビバレンツが精妙に描かれているというのではなく、単にどっちつかずでしかない。同情するにはモンスターとして憎むべき行為をさまざましているのに、宇宙に帰れて良かったと素直に喜べない。憎むには、打ち倒すカタルシスがあるわけではむろんなし。
 しかもその結末に向けては、サスペンスもなにもなくなっていくばかりだし。
 なぜだ?

2016年6月1日水曜日

『奇跡の人』 -すごい演技者の競演

 娘が、ここのところ「ガラスの仮面」の「奇跡の人」編あたりを読んでいて、じゃあ、本家を観ようということで、舞台版は未見だが、久しぶりの『奇跡の人』、映画版。だが舞台版も映画版の二人がオリジナルキャストだというので、カメラワークはともかく、ほとんど舞台を観るようなつもりでいいんじゃなかろうか。
 サリバン先生役のアン・バンクロフトがアカデミー賞を獲っているのは知っていたが、ヘレン役のパティ・デュークの方もそうだったのは、今回初めて知った。二人の演技がすさまじさには納得の受賞なのだが、そもそも、舞台劇という出自がその演技レベルを要請しているのだろうとも思う。
 ついでに「奇跡の人」が、三重苦を克服したヘレン・ケラーを指しているのではなく、そうした「奇跡」をもたらした人、サリバン先生を指しているのだということも今回初めて知った。だからアカデミー主演女優賞はアン・バンクロフトで、パティ・デュークは助演女優賞なのだった。
 
 クライマックスの、例の井戸の場面の直前、躾が成功したかに見えたヘレンが、食卓についてナプキンを何度も床に落とすシーンで、わざとヘレンをカメラに背を向けさせたままにするカメラワークはスリリングだった。表情が見えない分だけ、その意図をはかりかねていると、サリバンが「私たちを試している。様子を見ているのだ」とその行為を解説する。なるほど、と思うとともにそのあとの展開をドキドキして見守ってしまう。
 あれは舞台でも同様に観客席に背を向けた配置でテーブルに着席しているんだろうか。だとしたらそれもすごい演出だし、映画オリジナルだとしたらやはりすごいアイデアだ。

2016年5月29日日曜日

『リトルダンサー』 -『シャイン』の影に脅かされ

 評判の高い映画だったから、素直に絶賛できない。だがもちろんいい映画だった。主人公の父親につられて泣きそうになった。
 だがどうしても『シャイン』と比べてしまうのだった。貧しい労働者の家庭の子供が、天与の資質を見いだされてバレエと音楽のそれぞれの道に進んでいく物語だ。時として父が障害となり、オーディションやコンクールでの評価に怯え、やがて栄光を手にする物語。
 だが『シャイン』に見られる父と子の葛藤や、破滅的にそれに引きつけられていくすさまじさは、『リトルダンサー』にはなかった。どちらも描かれているというのに。
 ミュージカル映画としてのダンスシーンも、主人公の茶目っ気のある少年のキャラクターもすこぶるいい。『シャイン』の影に脅かされさえしなければ。

2016年5月22日日曜日

『アルティメット2』 -筋肉礼讃アクション・ムービー

 サブタイトルを「マッスル・ネバー・ダイ」というのだが、何? 「筋肉は決して死なない」?
 そのとおり、筋肉礼讃系のアクション・ムービーだった。すぐに脱ぐ。必要あるのか? というほど脱ぐ。着てた方が擦過傷だの切り傷だのを防げるだろうに、脱ぐ。
 まあそれはいい。プラスでもマイナスでもない。そしてアクションはすこぶる質が高い。ジャッキー・チェン以上じゃねえの? ってほどのカンフーアクションと、主演の一人、ダヴィッド・ベルの専門、パルクール(フリーランニング)を取り入れたアクションは見応えがあった。
 リュック・ベッソンの脚本は、ものすごく手がかかっているとは言わないが、それなりにそつなくできていて、まあそもそもそれを当てにして観たのだが。

 ギャングのグループが協力して大統領府へ乗り込むくだりは、なんだかいくつかの日本のマンガの味わいを思い出してしまった。大好きな『暴力大将』(どおくまん)とか。
 もうひとつ。
 フランス大統領のキャラクターがなかなかよかった。極端で薄っぺらな悪党のような黒幕でも、悪党に操られるだけの無能な政治家でもない、ちゃんと理想を語る大統領が、こんなアクション・ムービーに出てくることの違和感を感じさせるくらいにはよく造型されたキャラクターだった。脚本も演出も演技も、それぞれにうまく働いたのだろう。

2016年5月18日水曜日

『ゲーム』 -デビッド・フィンチャーの力業

 随分以前に「日曜洋画劇場」だったか何かで途中から観始め、あれよと引き込まれて、観終えて感嘆のため息をつくというのは、岩井俊二を最初に観た『フライド・ドラゴンフィッシュ』の時と同じだった。観終えてから岩井俊二の名を知って、その後、過去の作品を漁ったり、それ以降の作品を追っかけたりと同様に、デビッド・フィンチャーの名前も後から知った。もしかしたら『エイリアン 3』の方が早かったかもしれないが、『セブン』よりも前だったのは確かだ。
 それ以降のデビッド・フィンチャー作品は、最新作以外は全て観ている。どれもはずれがない。
 だが見直そうと思って探すと『ゲーム』はTSUTAYAにない。版権を持っている会社が再版をしないから、あまり出回っていないらしいのだ。
 それで何年も、見たいと思いつつ時折探しては諦めていたところ、衛星放送で放映したのだった。ようやく。

 今回は娘と観たのだが、最初から観たのは始めてだったのだが、やっぱりよくできた映画だった。いちいち画面に力がある。
 展開も、次から次へと意外な出来事の連続で、不気味な雰囲気があり、疑心暗鬼あり、どんでん返しありで、同調していると感情が振り回される。
 オカルトなのか人為なのか、陰謀なのかゲームなのか、最後まで疑い、迷う。

 それでも、観終わって娘が不満を口にするのを否定もできない。やはりやり過ぎではないか、と。確かに率直に言ってそう言わざるをえない。ちゃんと計画されて、隅々まで配慮されていると本当に言えるのか? 不慮の展開にはならない保証があるのか? なおかつあれだけ大がかりで、あのくらいの「生まれ変わった」感が得られておしまいというのがゲームの報酬というのは納得できるのか?

 肝腎のそこについても充分な満足がほしいのはやまやまだが、とにもかくにも、怒濤の展開に繊細な演出、鮮烈な画作りと、デビッド・フィンチャーの力を確認することはできたのだった。

2016年5月15日日曜日

『メランコリア』 -「漠たる不安」の延長としての終末感

 「終末物」ということで名前を知っていた『メランコリア』をレンタルで。
 惑星「メランコリア」が地球に衝突することで生命が死に絶えるという、この間の『エンド・オブ・ザ・ワールド』と同様の、堂々たる「終末」を描く物語なのかと思っていた。つまり精神的な「終末」ではないのだろうと思って見たのだが、これがまたとびっきり「精神的」なのだった。大体、終末をもたらす惑星が「メランコリア」ってなんだよ。憂鬱が、鬱病、気鬱ぎが地球を滅ぼすのか。
 だがそうなのだった。どうやら「メランコリア」は地球に衝突するらしいのだが、それに対応する世間の対応は、ネットの情報がわずかに紹介されるだけで、人々が特別な振る舞いをしているような描写はない。主人公の周囲で、若干の食糧備蓄をする様子にふれる程度。
 そもそも映画全体が、舞台となる豪邸の周囲に出て行かない。その中で限られた関係者しか登場しない。
 だから、「終末物」に期待される、人気のなくなった街、とかいう風景は出てこない。
 それで、どうだったかというと、ずいぶんうまい映画だとは思ったが、好きにはなれなかった。描かれるのはひたすら主人公姉妹二人の「メランコリア」なのだった。第一部の妹・ジャスティンは最初から鬱病という設定らしく、しかもそれが何に由来するものか不明だし、第二部の姉・クレアは、一応「惑星メランコリア」による滅亡が不安の原因ではあるのだが、「惑星メランコリア」の存在はどうみても「不安」それ自体の象徴なのだから、やはりその由来は不明だ。
 とすると、とにかく映画全体がわけもわからずメランコリックでしかないのだった。それに対する周囲の苛立ちはたとえば(こんなところになぜ『24』のジャック・バウアーをもってくるのか謎だが)キーファー・サザーランドがうまく表現していて、そういう、人物を描く描写は至極真っ当な映画に見える。
 だが結局、それでどうなんだ、という気がしてしまうのだった。現代における漠たる不安を描いているのだ、とかいうのはありふれた文学のテーマだ。それを今更?
 なにがしかの希望が見えるか、郷愁としての「終末感」を描くか、というのがとりあえず筆者の求める「終末物」なのだった。

2016年5月8日日曜日

『ホワイトハウス・ダウン』 -不足のない娯楽大作

 ホワイトハウスを占拠するテロリストグループに、たまたま巻き込まれた警官が単身、闘いを挑む…と、どこかで聞いたような設定のハリウッド謹製娯楽大作。
 そのまんま『ダイ・ハード』じゃん、と思っていると、まあ似ていること。それでいいのか、ローランド・エメリッヒ。
 だがその面白さたるや、期待以上。次から次へと迫り来る危機と、それを小分けにして克服していく展開の連続。スリリングな展開に、娘と観ながら、思わず歓声をあげてしまう。さすがエメリッヒ。
 伏線の張り方も、節々に配置されたユーモアも、どんでん返しも見事だ。良い脚本だなあと思っていると、ジェームズ・ヴァンダービルトという脚本家は『閉ざされた森』『ゾディアック』というきわめて高評価の作品の脚本を担当している。なるほど。良い仕事をしている。
 文句のつけようのないほど面白い映画なのだが、結局『ダイ・ハード』がオールタイム・ベストテン作品であるようには、最高級の評価をするところまでにはいかない。
 主人公のチャニング・テイタムは、ブルース・ウィリスほどの深みのあるキャラクターではなかったし、悪役のジェームズ・ウッズも、アラン・リックマンほどの魅力はない。それは単に役者の力量というだけでなく、脚本と演出の問題だ。
 テイタム演ずる主人公ジョン・ケイルの行動原理が、「娘を守る」と「大統領を守る」という、わかりやすい単細胞な感じだったのに対し、ウィリス演ずるジョン・マクレーンは、警官という責務に誠実であろうとしつつ、それが動機だからこそ、巻き込まれた不運に「しょうがねえなあ」とぼやきながら闘っている感じが大人だった。
 ジェームズ・ウッズも、シリアスな動機でテロを起こすにしては、その主張が十分に主人公の正義と拮抗していないし(なんせ主人公の側も単細胞だから)、主張自体に無理がありすぎる。アラン・リックマンのクールな悪党の方が、健全な市民の職業意識として排除すべき充分な説得力のある敵役だ。
 まあそうした味わいはいわば「余録」ということで、全体としてよくできた、堂々たる娯楽大作として不足はない映画だった。

2016年5月5日木曜日

『エンド・オブ・ザ・ワールド』 -「終末」に誰と過ごすか

 一時期、「終末物」の映画を続けてみたいと思っていた時に『メランコリア』などという、文字通り憂鬱そうな人類滅亡映画のことを知ったが、その時にはこの映画のことはひっかかってこなかった。たぶんその時に見たブログらは、暗い雰囲気の映画を紹介していたのだろう。確かに『エンド・オブ・ザ・ワールド』のタッチは明るい。ウィキペディアの紹介では「SFロマンチック・コメディ」だ。
 それでも、主人公の車のフロントグラスに自殺者が降ってくるし、ヒッチハイクしたドライバーは殺し屋を雇って自分を殺させるし、街では暴動が起こっているし、「終末」感を出そうというお約束的描写はある。が、もうすぐ終末、という絶望感とか狂気とか、予想されるほどの(あるいは期待するほどの)暗さがないのは呆気ない感じだった。主人公が、それらの終末的バカ騒ぎに乗れない、生真面目な、あるいは醒めたキャラクターだというのは好意的に思えるのだが、周囲との落差がもうちょっと出ないとなあ、という不満はあった。
 それと、決定的な不満は、主人公二人が互いを「掛け替えのない存在」として認めるまでの期間が短かすぎるだろと感じられてしまうところだ。ここは本当に難しいところだと思う。ロード・ムービーとしては、旅の道連れが互いの存在に浸食し合うような過程が描かれるべきだし、描かれていると思う。それはむしろ、うまいとさえ思う。
 だが、そこにはもっと節度が必要のようにも思う。もう状況的に互いしかいないという状況で、とりあえず目の前の相手に対して誠実であろうとする、という努力のような形で二人が最後の時を過ごすように描いて欲しいと思ってしまった。あんなふうに唐突に相手を「最愛の人」と言ってしまうのは、安っぽい「吊り橋効果」なんじゃないか、と。
 映画の制作陣が『エターナル・サンシャイン』と重なっているというのだが、この印象はそういえば『エターナル・サンシャイン』のラストにも感じた。そこまではいいのだが、「愛こそすべて」みたいになってしまうラストが説得力には欠けて、がっかりしてしまう、という感じ。
 物語の核となる、二人の関係の描き方がこんな感じだったから、全面的に賞賛する気にはなれないでいたのだが、細かい設定を把握していない気もして、冒頭からとばしとばし、早送りも交えて見直してみると、印象はだいぶん違ってきた。良くできた脚本に、演出も案外巧みなのだった。
 映画としては、どうあがいても日本映画が敵わないようなハリウッド的制作態勢の賜物といったタイプの「映画力」があるわけではないが、一度目の時にも感じた、細かい伏線の張り方とか印象的なエピソードの作り方のうまさがあらためて感じられて、映画全体の印象はかなり肯定的になった。主人公のハーモニカを物語中の重要な場面にさりげなく配置して、その由来がわかったときに、ああそうかと思わせる、とか、家政婦の移民らしいおばさんや実直に仕事をする警官の登場、海岸で過ごす夢のようなひとときの描写とか、豊かな映画力に溢れた映画だったのだ。

 そういえば見直してみたとき、原題の『Seeking a Friend for the End of the World』が、冒頭近くの壁の貼り紙にさりげなく書かれていたのに初めて気づいた。やはり、これがテーマなのだ。そうだとすると、終末に家族と過ごすという絶対的肯定的選択肢以外の選択をわざわざする主人公二人の選択の必然性をどう納得させるか、という点についてのみ、配慮は認めるもののいささかの不満は残る。が、映画全体の印象はすこぶる良い。

 映画の中でかかるオールディズは素晴らしかった。ヒロインが「最初に買ったレコード」がエンド・ロールで流れるのだが、バカラックのロマンチックなメロディーが切ない。

2016年4月10日日曜日

『わらの犬』 -「暴力」への陶酔

 サム・ペキンパーのオリジナルではなく、リメイクされたもの。名高いオリジナルは未見。オリジナルが名作の評価が定着していると、リメイクが誉められることはめったにない。ネットでも評判は良くない。
 だが監督が、この間観た『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』の監督、ロッド・ルーリーだったので、ある程度の期待はした。
 悪くない、と思う。オリジナルに冠せられる「すさまじい暴力描写」というのがどのくらいなのかわからないが、こちらもそれなりの緊迫感はある。
 ただ、「暴力」というのが、派手なアクションであったり、血飛沫が飛ぶ、いわゆる「ゴア・シーン」だったりを指しているとすると、この映画は凡庸の部類だ。わざわざ「破壊」や「残酷」と区別して「暴力」描写と言っているのは、それに登場人物や観客がどう反応するかによるのだろう。
 「暴力」とは言ってみれば、日常からの、意志に反する逸脱を強制させる力を指すのだろうか。気弱な男だと言っていい主人公デヴィットが、南部の住民との、トラブルの果ての、思いがけない殺し合いの過程で、陶酔するように「暴力」の虜になっていく描写はやはり「破壊」でも「残酷」でもなく「暴力」をテーマにした映画なのだと感じた。
 そしてその逸脱が、やがて復帰しなければならない日常の困難さを予想させ、虚しさとして描かれるラストシーンも悪くない。

2016年4月9日土曜日

『Friends after 3.11 劇場版』 -「岩井美学」の陰に

『Friends after 3.11 劇場版』(監督:岩井俊二)

 震災後1年の時点で公開されたドキュメンタリー。題名にあるとおり、震災復興や原発事故に取り組んでいる人たちのインタビュー。原発事故について言及している人たちは基本的に反原発・脱原発の立場の人たちばかり。まあそうだ。今更原発推進の立場の発言を対置したドキュメンタリーを作ればそれはそれですごいだろうが、そういう人が「Friend」であることは難しいだろうし。
 中でも小出裕章さんの話がひびいたのは多分、本人の長い間の科学的で合理的で真摯な問題への関わりが背景にあるからだ。
 それとFRYING DUTCHMANの「humanERROR」の長回しはすごかった。You-tubeにもいろんなバージョンがあるが、映画中の映像に匹敵するのはこれか。


 レコーディングされたものも、Liveによっても、これほどの力をもたないものがあるのを見ると、吐き出される言葉の力はパフォーマンスそのものに拠っているってことだ。
 作品のテキストだって素晴らしいと思うけど。

 それでも、映像の美しさも、出ずっぱりの岩井俊二自身の深刻そうな顔も、例によって「岩井美学」で、それが問題をバランス良く捉えることよりも、情緒的になんだか真摯な気分にさせることだけにひっぱっているんじゃないかという疑念も拭えない。

2016年4月3日日曜日

菜の花

 スマホユーザーではないので写真なし。そもそも車中から視界に入れるだけで運転を止めたりはしないのだが、利根川沿いの堤防はあちらこちらと菜の花の群生が黄色を散らして、内心、歓声を上げつつ走る。
 駐車場近くまで来てから、空き地に群生を見つけて車を停め、2,3本を手折って母の病室に持参する。

2016年4月2日土曜日

『ライフ・イズ・ビューティフル』 -ホロコーストと幸福感

 見終わって、日本語のエンドクレジットを見るまで、主演のロベルト・ベニーニが監督でもあるとは知らずにいた。役者としてアカデミー主演男優賞は妥当だとして、この巧みな脚本を書き、細部の描写まで見事な作品全体を監督までしているのか。恐るべき才能ではある。
 批判するブログが、ほとんど炎上状態になるほど、万人受けする映画である。前半の、テンポ良く物語が語られつつ、伏線の回収などがアクロバティックに着地するところには、拍手喝采を送りたくなる。くだんのブログの批判は尤もとも感じたが、そういう批判をするほどのリアリティの水準を保証してはいない映画だとも思うので、素直に喜んで観ていた。
 だが後半のホロコーストの展開は、やはり重い。それは『シンドラーのリスト』のような、正面切ってそのテーマを描く物語とはまるで比較できないほど、リアリティのないものではあるが、語り口の軽さとの対比において、やはり充分な負荷ではある。そしてその負荷故にラストの幸福感は実に大きい。

p.s
 上記のブログ上の論争を見ていて、実に示唆に富んでいたのは、あの映画のリアリティの水準は、あの映画が、主人公の視点から描かれたものではなく、主人公の子供の視点から描かれたものだからだ、という、ブログ主に対する反論コメント中にあった指摘だ。
 なるほど。確かにエンディングで近くで主人公は死に、これが「私」(主人公の子供)の語った「父の物語」であることがナレーションによって明示される。そう考えればあのリアリティの水準には納得がいく。
 もちろん物語の語り手は、作品の隅々に渡って統一されたりはしない。あちこちに作者が顔をのぞかせる裂け目がある。あの悪夢のような死体の山はそうした裂け目から一瞬のぞいた「あちらがわ」であるようにも感じられるし、「悪夢のよう」である以上、やはり子供の目から見たホロコーストではあるようにも感じられる。

2016年3月31日木曜日

『シャイン』 -無垢である痛みと幸福

 監督のスコット・ヒックスといえば一昨年『幸せのレシピ』を絶賛して以来だが、そもそも寡作な人でもある。だが良い映画を撮る。とりわけ評価の高いこれが面白くないわけもない。
 アカデミー主演男優賞を獲ったジェフリー・ラッシュもまた、助演男優賞ノミネートの『英国王のスピーチ』以来だが、確かにノミネートのライオネル・ローグ役に比べても、こちらのデイヴィッド・ヘルフゴット役は強烈だった(奇しくも両方とも実在の人物を演じている!)。
 そして演じられたキャラクターは現実のヘルフゴットそっくりだそうだが、それを知るまでもなくその痛みや幸せや情熱や狂気が観るものの胸を打つのだった。そのポイントは恐らく「無垢」が体現できていることだろう。無垢を背景として浮かび上がるさまざまな情感が強烈に伝わってくるのだ。
 その中でも、痛みが描かれるからこそ、いくつかの場面、とりわけ映画の最後に描かれる幸福が嬉しい。

 ところでヘルフゴットの病名については、映画を紹介したブログ類では大抵「心を病み…」などという表現になっているが、ウィキペディアの本人の項では「統合失調症」となっていた。
 だが映画の中の描写では、発達障害(身の回りが片付けられない)のように見えたり、アスペルガー症候群(他人の気持ちに配慮できない)のように見えたりする。とりわけ、トランポリンを跳び続けるエピソードは、まるごと『君が僕の息子について教えてくれたこと』に登場したアスペルガー症候群の男性の行動そのものだった。
 かつてはアスペルガー症候群と統合失調症は混同されていたというが、現在では別の状態だと考えられているという。
 どうなのだろう。

2016年3月30日水曜日

『0:34』(原題:『Creep』) 監督:クリストファー・スミス

 TSUTAYAでDVDを借りて観たのだが、まあ期待はしていなかった。ただ『トライアングル』が大のお気に入りなので、同じ監督が作った映画を観てみたいという興味からだった。
 結果としては残念な映画ではある。が、腹立たしい映画だというわけではない。いや、ネットでは主人公の行動がいちいち腹立たしいという感想も散見されるが、それを否定はしないものの、大きな瑕疵ではないとも思えた。それよりは地下鉄にいる殺人鬼との攻防という設定でやれることをやりつくしていると評価できるほどのアイデアは盛り込まれていないことが残念だった。
 それでも、最終電車が出た後の地下鉄のホームに取り残されて、地上に出るシャッターが閉められてしまい、人気のない地下鉄構内をうろつくという不安感がもう得難い魅力ではある。むしろ形のある殺人鬼が不必要に思われてきさえするくらいだ。
 それからラストで、生き残った主人公がホームレスに間違われる件の描写は、本当にうまいと思う。まだあるかと思わせてがらりと空気を変えて、日常の戻ってきた地下鉄を描く。生死をくぐり抜けてきた主人公のいる場所と地下鉄の乗客のいる場所の落差の大きさが、目眩のような違和感を感じさせる。見事だった。

『永遠の僕たち』(原題:『Restless』 監督:ガス・ヴァン・サント)

 最近もっとも面白い漫画のひとつに、『響(ひびき)』という、天才的な小説を書く才能を持ったエキセントリックな女子高生の物語がある。作者の柳本光晴という人は、前に『女の子が死ぬ話』という、まったくそのままの内容の一巻完結のデビュー作品を、ブックオフで見つけて立ち読みして、妙に感動させられてしまったことがあったのだが、『響』を読み始めて、連載をいくつか経るまで、両者が結びついていなかった。あの、生硬なんだかあざといんだかよくわからない『女の子が死ぬ話』よりも、『響』ははるかにまっとうにエンターテイメントしていて、素直に応援できるのだが、『永遠の僕たち』を観て『女の子が死ぬ話』のことを思い出したのだった。
 こちらも若い女の子が脳腫瘍で死ぬ話だ(『女の子が死ぬ話』は白血病か何かだったかもしれないが)。若くして死を宣告されて、それを受け入れていく女の子とそれを見送る同世代の主人公の痛みがよく描けていて、どちらも美しい物語である。
 が、『女の子が死ぬ話』の「生硬なんだかあざといんだか」という感想が、ともかくも若い、可愛い女の子が死ぬという設定をぬけぬけと物語の核にしてしまうところがまぎれもなく「あざとい」でもあり一方で「生硬さ」とも感じられていたのに対し、『永遠の僕たち』は、映画としての描写力が洗練されすぎて、いまさら「あざとい」と言うのも間抜けに思えるし、むろん「生硬」でもありはしない。彼女の死後、葬儀の際に映画の中の主人公と彼女の思い出の場面のいくつかがフラッシュバックして、それを思い出している主人公が、泣くのではなくむしろ微笑みを浮かべるシーンは、本当に美しくて切ないのだが、なんだか綺麗すぎるとも言える。
 それに比べて以前「生硬」とも思えた『女の子が死ぬ話』は、実は女の子の死を、いくつかの連作短編的な構成で多面的に描いていて、その試みは意外なほど野心的とも思えてきた。
 かように、あれほど大量の資金や人手や手間のかかった映画は、桁がいくつ違うかというほどのローコストの漫画や小説と常に同じ基準で比較されてしまう。

2016年3月20日日曜日

『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』(原題:『Nothing But the Truth』)

 録画した映画がすっかりHDに溜まっているのはいつものことだから、知らない映画であるところの本作は、珍しく事前にネットで評判を見た。好評だ。かなり好意的に紹介されている。ということで録画して、それほど長くもないことだし、と録画したてのほやほやで観る。
 いや、これはアタリだった。期待以上だった。
 情報源を秘匿する新聞記者と、情報源の公開を求める権力の対立は、「ジャーナリズムの社会的意義+表現の自由」vs「国家の安全保障+法律の運用」という鋭い対立をなす価値を双方十分に描き込んでいて、その葛藤は実に堅固で重量感のある手応えを感じさせるものだった。
 脚本も演出も、出演者の演技、とりわけ主役のケイト・ベッキンセイルの演技も見事だった。事態が悪化していく焦燥感やぎりぎりのところで信念を貫き通そうとする意志の強さ。いい加減な安請負をする弁護士を端役で扱うのかと思っていると、これがまた誠実に仕事して、対立構造を支える。マット・ディロンの検事(刑事だったか?)も単なる敵役として薄っぺらい悪役に終わるのではなく、立派に一方の価値を体現しているのだった。
 実際には単なる価値の対立だけではなく、邦題にあるとおり、後者には権力の既得権益を防衛しようとする力が働いていたり、前者には人情がからんでいたり、と不純な要素がはいるのだが、もちろんそれも物語の陰影を深める。
 
 それにしても英題を違う英語に置き換える邦題の付け方はどうしたものだろうか。『Nothing But the Truth』(真実以外の何物でもない)がわかりやすいとは言えないが『ザ・クリミナル』がわかりやすいとも言えない。そこに「合衆国の陰謀」って? カットの関係かもしれないが、それがわかるほどにはその部分は描かれてなかったとおもうんだけど。

2016年3月19日土曜日

『クロール 裏切りの代償』(原題:『CRAWL』)

 TSUTAYAの「ミステリー」の棚で、わざわざ「TSUTAYAだけ!」のコピーのついた、どうみてもB級の映画を選ぶ。何とかいう映画祭で賞を取ったらしいのだが、たぶんB級であることは免れず、だからといってそれがつまらないということにはならない、もしかしたら意外な拾い物にあたるかもしれない、とか懲りもせずに借りてみる。経験上、外れることの方が多いのはわかっているが。
 観てからネットの反応を見ると、5段階で1ちょっとという評価のサイトばかりで、まあやっぱり、ではある。
 殺し屋が、動機もよくわからず、依頼の殺し以外に主人公の女の子をも狙ってきて、彼女が彼女の家が舞台であるという地の利を活かして闘う、という話ではある。一般家屋が舞台の闘いは「スクリーム」シリーズを始め枚挙に暇なく、始まると強い既視感がある。
 それでもまあ、そういうのを覚悟して借りたのではある。自業自得だ。スリルとサスペンスは、ないこともない。いや、ある。楽しい。
 もちろんネットの不評の理由である、そこら中に納得できない不全感があるというのは同感ではある。殺し屋が最後の最後まで、なぜ主人公を狙っているのかわからないという、それをはずしてどうするよ、という中心部が不全なのだ。あれはわざと? それともこちらの読解力不足?
 どうみても作り手の頭が悪いだろ、という怒りとは違って、期待値も低いことだし、怒りはないが不全感はある。

2016年3月2日水曜日

『クラウド・アトラス』(監督:ウォシャウスキー姉弟&トム・ティクヴァ)

 場所も時代も異なる6つの物語が、時空を超えてつながる壮大なドラマ…とか何とか言うテレビ欄の紹介で録画。だが2時間枠を2回分の前後編という長尺で、いつ観られるものやらと思っていたところ、珍しく夕飯後の宵が早い時刻から手空きになったので、ちょっと最初の方だけ、と思って観始めて、結局前後編一気に観てしまった。
 またしても、録画してから観るまでに時間をおいたら、監督も出演者も忘れてしまっていた。チープなのか信頼できそうなのかも、しばらくわからない。どちらとも感じられるような妙な手応えなのだ。役者も、どうもトム・ハンクスみたいな顔の男があちこちにいるなあと思っていたら、前編が終わって、次の週の後編を観始めて、映画紹介の時にそれがほんとにトム・ハンクスだとわかった。それを今更「みたい」と確認もてずにいたのは、現代劇の中で、いつものトム・ハンクスの顔で出てきていなかったからだ。
 「場所も時代も異なる6つの物語」が、細切れにされて、ミルフィーユのように重ねられ、束ねられて語られる。数分ごとに時代も場所もシチュエーションも異なる物語の中に、いきなり飛び込んでしまう。そのうち、それらの物語に共通する人物、小道具、設定があることがわかって、それぞれの物語がつながっていくのがわかる。例えばトム・ハンクスは、それぞれの物語の中で様々な人物を演じているのだなとわかってからは、フォレスト・ガンプばかりを探しているわけではなくなった。かなり特殊なメイクでいろんな人物を演じ分けているのはわかったが、エンドロールの「解答」を見るとそれでも見逃していたのもあり、トム以外の俳優については、もっととんでもなく意外な一人多役があったりもした。
 さて、映画の構成自体は大いに好みだった。どこからどこへ跳んで、そのつなぎにどんな意味を持たせるかは、頭の整理整頓がさぞや大変だろうなあと思いつつ、観ながらワクワクした。未来編の、超高層ビルの間を、細い橋のようなものを渡す逃走劇が、過去編の、帆船の帆柱の上を渡るシーンにつながる。こういうときには思わず、おおっとなる。
 だが、最終的には、どれかの話がものすごく良かったというようなことはないのだった。残念。どれも良かった、くらいの期待をしていたのだが。そして、ミルフィーユ構成も、その細切れの展開が、伏線とその解答というふうにかかわっている部分はそれほどなくて、たんなる細切れの乱雑なミルフィーユに過ぎなかった。
 ものすごく手間をかけて、たとえばチームで構成を練り込む、とかいう労力を惜しんでこれだけの大作を作るのはもったいない。

 ついでに、6編中の3編の監督、ウォシャウスキーは、その珍しい名前で『マトリックス』シリーズだとわかるが、残り3編の監督、トム・ティクヴァが、去年の私的ベスト10『ザ・バンク』の監督であることは、あとから調べるまで思い至らなかった。『ザ・バンク』の時に感じた圧倒的な感じはなかった。
 さらについでに、原作のデビッド・ミッシェルという作家が、ブログをはじめたばかりに取り上げた『君が僕の息子について教えてくれたこと』に登場した「僕」なのだった!

2016年2月28日日曜日

『ギャング・オブ・ニューヨーク』(監督:マーティン・スコセッシ)

 これもアカデミー作品賞ノミネートなのか。まあマーティン・スコセッシだし、大作だし、アメリカ/ニューヨークの歴史を描く大河ドラマみたいなものだし、『ショコラ』と違って意外ではない。
 日本のヤクザ映画『GONIN』を観て、その勢いでアメリカのギャング映画を観る、とかいう無定見なノリで観たのだが、人命の軽さという点ではどちらも同様の非日常だった。反道徳というよりは非道徳であって、当然といったふうに殺人が行われる。あれで、日常の道徳観とどう整合しているのかがよくわからん。
 道徳を超えるというだけでなく、アウトローという意味でも非日常だ。法秩序の下でどう扱われるのかが不明なところ。ああいうふうに振る舞う人がいて、完全な無法状態なわけではないし、どう秩序の安定性が保てるんだろう。
 SF設定で、法も道徳も超えた異世界ならともかく。
 でもまあ、あれがアメリカの日常の下に(あるいは我々の住む日本の日常の下に)、一皮剝けばあるということなのかもしれないが。それをひたすらに「非日常」と感ずるところが平和惚けした我々の「日常」なのかもしれない。

 ディカプリオの主人公はともかく、敵役「ブッチャー」が強烈で、誰なんだろうと思っていると、ダニエル・デイ=ルイスだって!? わからなかった。しかもアカデミー賞では、ディカプリオをさしおいて主演男優賞ノミネートだというのは痛快な中にも納得。

2016年2月27日土曜日

『GONIN』(監督:石井隆)

 佐藤浩市はじめ、出演者の若さもあって、まるで「昭和」な空気だが、1995年といえば平成7年。映画の背景になっているバブル崩壊からも随分経っている。連想してしまう北野武のヤクザ映画の中では『ソナチネ』よりも後なのか。
 そう、最初から北野映画と比べて観ようという気が満々で、いわゆる任侠映画やVシネマのたぐいやアメリカのマフィアものと比較するようには観ていなかった。
 そうしてみると、北野映画のようなクールさはなくてかなりねばっこく、しつこく長回しをするなあ、とか、夜の雨と光の加減が綺麗だが、この感じは北野映画にはないなあ、とか、それなりに違いも感ずるものの、むき出しの暴力が痛いような感触と、登場人物の命がどんどん失われていくやりきれなさは似ている。
 好きな物語だとは言えないし、しつこい間の取り方にうんざりする場面もないではないが、スピード感のある演出やカメラワークの編集や上記の照明、そして役者陣の暑苦しい演技も、相当に見応えのあるすごい映画ではある。暑苦しくはないビートたけしの殺し屋はいうまでもなくすごい。

2016年2月20日土曜日

『ショコラ』(監督:ラッセ・ハルストレム)

 たぶん2年くらい前に観たが、娘のリクエストで録画した。面白そうな印象を与えるように話したんだろう。実際、記憶に拠れば観た印象は悪くなかった。ヨーロッパ映画の小品、という記憶だったんだが、実はアメリカ映画で、しかもアカデミー賞に助演女優、主演女優どころか、作品賞でさえノミネートされている。そんなメジャーな作品には見えなかったが。そういえばジョニー・デップが出ているのだった。
 舞台がヨーロッパなのが、ヨーロッパ映画かと思ってしまっていた原因だが、見直してみるとヨーロッパの田舎にロケをしている風景もあるのかもしれないが、村の様子はなんだか作り物めいていて、ディズニーランドの中の街角、という感じにも見える。

 ヨーロッパの田舎の村に流れ着いた母子の開いたチョコレート屋が、やがて固陋な村の空気を変えていく…というシンプルな話で、それはそれで愛すべきお話ではあるが、どうもそれ以上には感じない。アカデミー作品賞というような大層な映画には。
 主人公母子が風に誘われてあちこちを転々とするジプシー的な人として描かれているんだが、それならば最後にこの村に定住してはだめだろう、とも思った。これはいわゆる「来たりて去りし物語」ではなかったのか。ハッピーエンドは嫌いではないが、予定調和の呆気なさもまた不満ではあるのだった。

 ところで。
 ラスト近くに、村の空気が変わったことを示す、若い牧師の説教にこんな一節があった。
『人間の価値を決めるのは、何を禁じるかでは決まりません。何を否定し、拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受け入れるかで決まるのでは? 何を創造し、誰を歓迎するかで…。』
これは素直に感心して喜ぶべき台詞なのだが、映画を観た翌日、ニュースで、米大統領候補、共和党のトランプさんに対するローマ法王のコメントが流れていて、その符合に驚かされたのだった。
 橋を架けようとしないで、そこに壁を作ることだけを考える人はキリスト教徒ではない。

 

2016年2月14日日曜日

『127時間』(監督:ダニー・ボイル)

 『28日後…』はもちろん、『スラムドッグ$ミリオネア』はさすがのアカデミー作品賞で、面白くないわけはない。どちらも、偶然の面白さとは思えず、明らかに監督の力量が並ではないことが感じられたから、この『127時間』も最初から期待している。
 そして期待に違わぬ出来である。
 序盤のアメリカ大陸の雄大な自然の美しさ。
 地下湖へのダイビングなどという、おそろしく印象的なエピソードをおいていること。
 そして肝腎の、身動きできない状態で過ごす127時間をどう描くか。
 これは一種の「ソリッドシチュエーション・スリラー」だから、その設定の中で起こりうるエピソードの発想と、それをどう演出するかに、脚本家と監督、そして役者の演技が否応なく問われる。そしてそれに応えている作品である。
 1時間半というコンパクトな展開で、これだけ密度の高いものを観られれば満足だ。だが、それ以上に想像を超えるものを観た、というほどの感動がなかったとも言える。だがまあ、そんな映画ばかりができるはずもない。良かった。

2016年2月6日土曜日

『シックス・センス』(監督:M・ナイト・シャマラン)

 この名作をまだ観てないという娘と、こちらは3回目くらいかの鑑賞。
 相変わらず面白い。実に面白い。今回調べていて、このトリックの元となる映画があるという町山智浩の指摘で初めて知ったが、シャマランの姿勢はともかく、この映画が面白いのは変わらない。もちろん最初に観たときの、トリック自体から与えられた驚きの強度が圧倒的だというのが大きいが、それだけで、途中の展開や演出に工夫がないとしたら、これほどには面白い映画にはならない(このトリックに関連したことを以前書いた)。
 物語としては、少年の、特殊な能力を持っているがゆえに現実に適応するのが困難であるという「葛藤の解消」がドラマツルギーになるということなのだから、その解消の手立てとしての、死者の願いをきく、というエピソードについては、もう一つ二つ、事例を見たいものだと、今回思った。というか、いくつかあるような錯覚をしていた。一つだけだったっけ。そのエピソードの強度も大したものだが、そこまでの強度はなくとも、もう二つくらい、観客の想像に補わせるようにして、さらっと触れてもいいのに。

2016年2月5日金曜日

『コンテイジョン』(監督:スティーブン・ソダーバーグ)

 4年前に娘と映画館で映画を観ることにして、シネコンに行ってから上映中の映画から選んだのがこれだった。チケットをとってから入場するまでに時間があったのだが、上映時間を勘違いして、上映途中からの入場だった。上映毎の入れ替え制なのだが、館員にかけあって、最初のところを見せてもらった。それが許されるくらい客席はガラガラだった。
 よくできた、面白い映画だったのだが、小学生だった娘にはさすがに難しく、評判は芳しくなかった。
 そこで今回は高校生になった娘と再チャレンジ。

 やはりよくできた、とても面白い映画だった。
 インフルエンザのような接触・飛沫感染の伝染病が世界中に流行する、というそれだけの映画なのだが、その設定、現実に起こる様々な問題、それに直面する人々の人間ドラマ等々が間然することなく描かれている。マット・デイモンが主役なのだと思っていたが、出番のないシーンも多く、むしろ群像劇だと言った方がいい映画なのだった。グウィネス・パルトロー、ケイト・ウィンスレット、マリオン・コティヤールというアカデミー女優が、それぞれまるで主演ではないところも徹底している。
 確かにCDC(アメリカ疾病管理予防センター)の宣伝映画なのではないかという揶揄もあるように、医師や疫学者たちが活躍する映画だが、それはそれ、困難に立ち向かう人々を真っ当に描く物語が感動的でないわけはない。途中で死んでしまうケイト・ウィンスレットの医師も、途中で拉致られてしまうマリオン・コティヤールの医師も、物語の中では良い仕事をしている。
 中でもジェニファー・イーリー演ずるアリー・ヘックストール医師のエピソードは、ワクチン開発に至る自分の体での治験や、医者である父親との別れのシーンなど、最も感動的なエピソードを演じていた。
 だがしかし、高校生の娘はまたしても、いまいち、という評価なのだった。確かに、盛り上がって興奮して笑って、泣いて、という映画ではないけどさ。

2016年1月24日日曜日

『単騎、千里を走る』(監督:張芸謀)

 今度こそチャン・イーモウだ。北京五輪開会式演出の3年前に高倉健を主演に迎えて作られた作品である。
 「巨匠」だと構えて観るほどに複雑な映画でも大層な映画でもなかった。不器用な親子の交流を描いた、わかりやすい人情劇である。感動的だったと言っていい。
 だがまあ、何と言っても中国の景色と高倉健である。アップで、口をもぐもぐさせる表情だけで観る者に強い感情を伝える。寡黙で抑えているからこそ感じる強い感情だ。一方で軽い台詞を話すときも、まるでそういう人が実在しているような気がする。もはや高倉健本人と区別できないような高田剛一という人間が喋っているようなのだ。ある時期からの高倉健は、そういう役柄を選んで仕事をしてきたのだとは思うが、本当にもう高倉健本人がパラレルワールドでいろんな人生を送っているような気がしてしまう。
 ところで日本パートは、明らかに画が青く、中国の風景に比べて現実感に乏しかったが、あれは機材とか空気とかのせいではなく、物語の対比を際だたせるために意図的にやってるんだろうな。寺島しのぶが、本人の実力とは思えない大根芝居をしていたのも。

2016年1月18日月曜日

『フローズン・グラウンド』(主演:ニコラス・ケイジ)

 シリアル・キラーもの、といえばとりあえず観てしまう。特に猟奇的な描写を欲求しているわけではないのだが。同じ設定、テーマのものを比較してみたいという興味が湧くからか。ゾンビものといい、人類消失ものといい。
 それにしても録画したものを続けて観た2本が、奇しくも二週続けてテレビ東京の「サタ・シネ」を観てしまったということになって、なんだか、やれやれだ。それでもまあ『キリング・ミー・ソフトリー』よりは面白かった。なんだか密度があったなあ、と。
 とはいえ、手放しで絶賛はしない。『羊たちの沈黙』を求めているわけではないが、デヴィッド・フィンチャー『ゾディアッック』に比べてその重量感は比較にならないし、捜査の様子を丁寧に描いているという点で比較できる、BBC制作の名作『第一容疑者』に比べても、もちろん軽い。
 とはいえ、別件逮捕の犯人をどうやって落とすか、とか、落ちるまでに家宅捜査で証拠が発見できるのか、とか、それなりにサスペンスの盛り上げ方のうまいところもあって、夜の徒然に観るには悪くない映画だった。いやしかし、夜が徒然なわけでは決してないのだが。

2016年1月17日日曜日

『キリング・ミー・ソフトリー』(監督:チェン・カイコー)

 監督がチェン・カイコーと聞いて観てみたんだが、結果的にはハズレ。そもそもチャン・イーモウと勘違いしてもいたのだが。
 愛情が強すぎるサイコものといえば、つまりはストーカーものだということなのだが、サスペンスの程度としては最近では『ルームメイト』程度で、特筆すべき点はなかった。夜の街に雪が降るのを逆光で捉える映像や、山の風景が綺麗だとは思ったが。

『ウルトラ・ヴァイオレット』(主演:ミラ・ジョヴォヴィッチ)

 とりあえず観ることは観たが、あまりにどうでもよくて書くのが億劫で放っておいた。ミラ・ジョボヴィッチが綺麗だとか、アクションが冴えてるとか、チープな未来社会の映像が魅力的とか、まあ好きな人がいてもいいが、それ以上に多くの人が言っているとおり、どうでもいい。わざわざ罵倒の言葉を考えるのも面倒で、他の人に任せる。
 ただ、こういうことを考える人もいて、うーん、何事も考えようだ。

2016年1月9日土曜日

LUCKY TAPES

 娘と車の中でラジオから流れる曲を聞いて「Lamp!?」と言い合い、だがギターの音が違う、という確信はあったので、曲の終わりには耳を澄ませてバンド名を聞き取ろうとした。だがはっきりしなかった。「ラッキーテーブル」?みたいなバンド名で、曲は「Moon」。
 調べてみると「LUCKY TAPES」というバンドなのだった。
 いや、良い。これがそれなりに話題になって(いるらしいのだが、そうか?)Lampが売れない理由はよくわからないが、ともかく、良い。


そういえば書き損ねていたが、「ブルー・ペパーズ」は既にCDを買って愛聴している。
良い新人バンドが出てくるなあ。

2016年1月6日水曜日

『ワルキューレ』(監督: ブライアン・シンガー)

 有名な(ということらしい)ヒトラー暗殺計画の顛末を描いたハリウッド映画。首謀者のドイツ人大佐をトム・クルーズが演ずる。
もちろん安っぽい映画ではない。計画が成功するかどうかが未定な状況で、それぞれの軍関係者が、クーデター側に付くかヒトラー側に付くかで迷うあたりは面白かったが、結局のところ、ヒトラーはこの計画では死なず、単に暗殺計画者側が大量に処刑されて終わるという後味の悪さと、それ以外の面白さがなかったところで、どうにも印象が薄い。
 例えばヒトラーを暗殺せざるをえないと立ち上がることの「やむをえない」ギリギリの選択とか、計画の細部を詰めていく緻密さとか、成功へ向けてのスリルとサスペンスとか、もちろんどれも丁寧に描かれているのに、どれも圧倒的な感じがしなかった。
 ということでやはり脚本の弱さが致命的。
 ブライアン・シンガーは、『ユージュアル・サスペクツ』が高評価だが、やはりあれは脚本だろう。『X-メン』も1は楽しかったが。

2016年1月1日金曜日

映画『桐島、部活やめるってよ』

 「桐島、部活やめるってよ」という小説が話題になっている頃、題名だけ聞いて、うまいものだと感心していた。「俺、部活やめる」でも「お前、部活やめるのか」でもない。この会話は、「桐島」のいないところで「桐島」以外の者の間で交わされている。しかも「やめるんだって」でも「やめるってさ」でもない。情報がそれほど間接的になっているわけではなく、ほどほどに確度があって、かつそのことが明らかにこの会話の主たちに動揺を与えうる出来事であることが、この語尾のニュアンスから確実に伝わる。これだけの台詞で既にさまざまなドラマの生起を想像させる。

 さて、とうの小説は読んでいない。
 正月に大学生二人が帰省して、久しぶりに家族全員が揃ったところで、夜更かしがてら子供三人とこの映画を観た。日本アカデミー賞の作品賞だから、最初から期待値のハードルが高い。
 同時に、この映画が撮影された時点で、ほとんど映画初出演だった俳優たちが、その後あちこちで活躍するようになり、あの俳優はあの作品で共演しているとか(橋本愛と松岡茉優が「あまちゃん」で、松岡茉優と東出昌大が「問題のあるレストラン」で、とか)、前野朋哉は『見えないほどの遠くの空を』でも映画部員だったよなあ、とか、太賀は、つい最近「超限定能力」(悲しくなるほど質の低いフジテレビの「ヤングシナリオ大賞」作品)で見たばかりだとか、山本美月は「64」の演技が素晴らしかったとか、役柄を俳優の仕事ぶりを評価するように見てしまったところがあって、純粋に登場人物として見ていないところがバイアスとなっているきらいもある。
 そう、すごく高い評価にはならなかったのだ。これがアカデミー賞の作品賞? という落胆があった。
 期待値が高くなければ、それなりに好もしい印象を持てる作品ではある。好きだ、と言ってもいい。
 だがどうも「すごい」という感じにはなれなかった。「うまい」とか「そつない」とは思うが。
 なんだか、わかりすぎるのだ。キャラクター造型も、いちいちの演技も、物語の中での「意味」が、それぞれ言葉で説明できるくらいはっきりしている、いわば底が見えていると思えてしまった。
 むろん、わかるものはつまらない、などと一概には言えない。わかるし、すごいし、感動的でもあるような作品はある。だがこの作品が「すごい」というような感じはなかった。こんな構成、どんな頭で考えているんだ! とか、この画面はどういうセンスで思いつくんだ! とかいう感嘆が起こらなかったのだ。
 わからない映画はわからないことが不満でもあるのだが、わかりすぎるのも不満というのは観客の我が儘だが、まあそれはそういうものだ。

 映画評を書くために、とりあえずネットの評価を一瞥しておくのだが、これがまた絶賛の嵐で、目を通すのにえらく時間がかかってしまった(こういうのは宮崎駿の『風立ちぬ』以来)。
 ブログで映画評をやっているような人には、あれこれ思うところのある映画なのだろうという感じはわかる。だが、クライマックスで「泣いてしまった」という記述が頻出するのには参った。そうか、俺は邪念が多すぎて素直に鑑賞できなかったのだろうかと反省したり。
 だが一緒に見ていた子供達の反応も芳しくなかった。現役高校生にも、最近まで高校生だった者たちにも。これはなんだ? どういうわけだ?
 たぶんあの映画に感動するには主人公である映画部員「前田涼也」(神木隆之介)か原作小説では主人公だという「菊池宏樹」(東出昌大)に思い入れる必要があるのだ。
 そしてそれは表裏一体でもある。スクールカーストのヒエラルキーの最上位と最下位の二人の立場が逆転するところがこの物語のカタルシスなのだから、前田に思い入れて快哉を叫ぶのと、菊池に思い入れて自らの虚無を噛みしめるのとは、同時に観る者に感じ取れるのでなければならない。
 この映画の絶賛と高評価は、こういう人たちに支えられているのだと思われるが、それは社会の大多数ではない。大多数は最上位でも最下位でもない(あたりまえだ)。同時に最上位にいて虚無を自覚してもいないし、最下位にいて充実するものを持たない者が世の中ではほとんどだ。そうした大多数の者が「泣く」ほど、普遍的な「泣ける」映画ではないのだ。
 だからこの映画に思い入れる人というのと、映画についてブログに長い記事を書く人というのが、同じような特殊性を持っている可能性はある。
 あるいはアカデミー賞あたりの高評価は、単にヌルい「秀作」誉めじゃないかと思う。

 さて、この映画が何を語っているか(とりわけ桐島の不在が意味するもの)については、多くのブログの映画評に語られているから割愛する。それはこの映画の好もしさとして評価する。面白い。冒頭に書いたとおり、よくできている。
 同時に、結局これって、真面目に部活やる高校生活っていいよ、という、大いに賛成するにやぶさかでない結論を語っている物語でもある。それも良い。
 あるいは物語的なテクニックとしての多視点描写、とりわけ冒頭しばらくの、同じ日時のできごとを繰り返し、別の視点から語り直す構成は、無論面白い。『バンテージ・ポイント』『戦火の勇気』『閉ざされた森』…、小説でも漫画でも、時間をかけて思い出せば枚挙にいとまないはずだ(小説ではとりあえず上遠野浩平の「ブギーポップは笑わない」を挙げる)。こういうテクニカルな構成は、とにかく楽しい。たとえ「すごい」とか「泣ける」とかいう感想にいたらないとしても。

 そうした好印象を認めた上で不満を書いておく。
 作品評に「ないものねだり」を語るのは御法度であることは承知している。八百屋に行って魚を売っていないと文句を言ってもはじまらない。だが、八百屋の品揃えに不満を言うのは構わないはずだ。

 登場人物の誰もが、どこかにいそうなリアリティを持っている、というのがこの映画を高評価する際の定番の語り口だ。だが同時にそれは典型的な「タイプ」でしかない、ということでもある。「ああ、こういうやつ、いたよなあ」と言うときに、同時にそういう一面を巧妙に切り取って見せてはいるがそれは一面の「キャラ」でしかないというような印象にも地続きであるように思える。
 だからこそ、それぞれの登場人物が「こういうポジション」として紹介できてしまう。松岡茉優の天才も、いかにもありそうなその「キャラ」を現出させることにおいては見事だったが、そうして描かれる人物はつまりその程度でしかない。これは脚本と演出の問題だ。
 それが最もひどい形で現れているのが大後寿々花演ずる吹奏楽部部長「沢島亜矢」だったと思う。亜矢の個人練習の際の演奏や、部活における振る舞い方にどうにもリアリティがないというのは実際に吹奏楽部の娘二人の言だ。せっかく鈴木伸之のバレーボールとか橋本愛のバドミントンとか東出昌大のバスケとか、本当にプレーを見せられるキャスティングをしているのに、野球部員の高橋周平が素人まるだしの素振りを見せてしまうのは仕方がないとしても、亜矢の演奏は吹き替えで良いはずなのにまるで素人の音だし、部活の中での部長としても、あんなにリアリティに欠ける振る舞い方をさせてはならないはずだ。
 前田(神木)との対峙で場所を譲らない場面にしても、不自然を感じさせないだけの理屈はなかった。だから亜矢の振る舞いが単なる我が儘、無茶にしか見えず、まるで学芸会のような感情過多なキャラクターになってしまっていた。あそこは、譲りつつも未練を押し殺した演技をさせるべきなのだ。「セクシーボイスアンドロボ」で天才的な演技を見せた大後にそれができないはずはない。だからあれは完全に脚本・演出の失敗である。
 一方で感心したのは橋本愛の演ずる「東原かすみ」である。いくつもの映画賞で橋本愛が個人賞を受賞しているのは、もちろん演技力の問題でもあるが、それが松岡や大後に勝っているというよりも、脚本と演出の問題だ(いや本当に橋本愛の天才が飛び抜けているのか?)。
 最初は、グループの女子にも安易に同調しない、真面目に部活をやることを厭わない、そして主人公前田の理解者になる立場として描かれているのかと思わせておいて、前田と正反対の立場にいる「チャラ男」寺島とつきあっているという驚愕の展開には、いつも一面的に描かれる他の登場人物とは一線を画すリアリティが生じていた。
 これは物語の展開がかすみに与えたリアリティである。
 だが、前田にとって、また同時に前田に思い入れる観客にとって残酷なこの設定が、だからといって、結局あの娘もそういうやつなんだ、結局ヒエラルキーは強固なのだ、というようなパターンに陥ってしまうことにはならない。
 この展開の後で、やはりかすみは全面的な「グループの女子」として描かれるわけではなく、場合によってはグループの論理を否定もし、友人の実果に対して示す友情も自然だ。実果の自己否定の言葉を反射的に打ち消して、そのまま一息に「いや、なんのことかわからないけど」と言ってみせる台詞(正確な引用ができないのだが)のうまさには感嘆した。あれは脚本にそう書かれているのだろうか? あまりに見事な呼吸だった。かすみの人物造型は、脚本・演出の成功かもしれないが、ああいうのを見ると(あるいは「あまちゃん」のいくつかの場面を見ると)、もしかしたら橋本愛の「天然」が表出した結果としての造型なのかもしれない、とも思わせる。

 不満を語るはずが橋本愛讃に流れてしまったが、再び不満に戻ると、もうひとつ、クライマックスに至る展開、登場人物たちが屋上に駆け上がって全員集合となるくだりもがっかりだった。そうした切迫感を物語が要請したのだということはわかる。だが一方でそこに感ずる不自然さが、物語を、どこかで見た青春映画のパロディのような不真面目なものに感じさせてしまう。
 物語が観客に期待させるリアリティの水準というものがある。このお話は荒唐無稽なんだとことわっておけば、リアリティなど求めない。寓話なんだとわかれば、物語の要素を象徴として読み取ろうとする。
 だがこの物語のウリは「リアル」じゃなかったのか?
 桐島の不在に苛立って、一刻も早く桐島をつかまえて物申したい者たちが屋上に駆け上がるのはいい。だが例えばバレー部員の中にも温度差があって、そのまま体育館で練習を続ける者がいていいし、風助が屋上へ向かうことはかろうじて許してもいいが、風助を気にする宮部実果が、だからといって屋上へ駆け上がる必然性はない。
 全員を屋上に駆け上がらせるだけの口実(説得的な理由付け)を語らないままで、個々の人物のリアリティを無視して、物語の要請に従って人物を動かしてしまう展開に、やっぱり作り物感が滲み出てしまうのだ。

 もうひとつ。
 物語の重要な要素である、映画部の設定である。もちろん前野朋哉演ずる前田の友人、武文も、その他の映画部員も実に良かった。部活動の映画撮影にあたって、女性役を演じているのがロン毛の男子部員だというのも、実に良い。前田と武文が、いちいち部屋の出入り口でお喋りして、通る人の邪魔になってしまうという演出も良い。
 映画部顧問が「お前らの半径1mのリアルを撮れ、例えば恋愛とか」と言われて、前田が自分のリアルはゾンビ映画を撮りたいということだというのも実に納得できる。こういう顧問の思い込みは、以前NHK杯放送コンクールにからんで、実例を知っている。
 だがそれで自分で脚本を書いてしまうような顧問がロメロの『ゾンビ』を知らないという設定はいけない。上にあげたような、物語の論理が優先してリアリティが損なわれる例である。前田と対比させたいという論理が、『ゾンビ』を「そんなマニアックな」と評する台詞を顧問に言わせているのだろうが、あそこは「『ゾンビ』か、まああれは確かに良い映画だけどな…」とでも言わせておくべきなのだ。
 ところで、恋愛映画よりゾンビ映画の方が「リアル」だと言う前田の言葉に、それこそリアリティを感じてしまうのは確かだが、思えばゾンビに惹かれてしまう心性は「リアル」の否定、要するに現実逃避の欲求である。つまりリアルから脱したいという欲求こそが彼らにとってのリアルであり、かつ前田に代表される部活動部員組こそが高校生活のリアルを等身大に生きている、という奇妙に錯綜した構造が(やはりちょっと)面白い。