2016年5月29日日曜日

『リトルダンサー』 -『シャイン』の影に脅かされ

 評判の高い映画だったから、素直に絶賛できない。だがもちろんいい映画だった。主人公の父親につられて泣きそうになった。
 だがどうしても『シャイン』と比べてしまうのだった。貧しい労働者の家庭の子供が、天与の資質を見いだされてバレエと音楽のそれぞれの道に進んでいく物語だ。時として父が障害となり、オーディションやコンクールでの評価に怯え、やがて栄光を手にする物語。
 だが『シャイン』に見られる父と子の葛藤や、破滅的にそれに引きつけられていくすさまじさは、『リトルダンサー』にはなかった。どちらも描かれているというのに。
 ミュージカル映画としてのダンスシーンも、主人公の茶目っ気のある少年のキャラクターもすこぶるいい。『シャイン』の影に脅かされさえしなければ。

2016年5月22日日曜日

『アルティメット2』 -筋肉礼讃アクション・ムービー

 サブタイトルを「マッスル・ネバー・ダイ」というのだが、何? 「筋肉は決して死なない」?
 そのとおり、筋肉礼讃系のアクション・ムービーだった。すぐに脱ぐ。必要あるのか? というほど脱ぐ。着てた方が擦過傷だの切り傷だのを防げるだろうに、脱ぐ。
 まあそれはいい。プラスでもマイナスでもない。そしてアクションはすこぶる質が高い。ジャッキー・チェン以上じゃねえの? ってほどのカンフーアクションと、主演の一人、ダヴィッド・ベルの専門、パルクール(フリーランニング)を取り入れたアクションは見応えがあった。
 リュック・ベッソンの脚本は、ものすごく手がかかっているとは言わないが、それなりにそつなくできていて、まあそもそもそれを当てにして観たのだが。

 ギャングのグループが協力して大統領府へ乗り込むくだりは、なんだかいくつかの日本のマンガの味わいを思い出してしまった。大好きな『暴力大将』(どおくまん)とか。
 もうひとつ。
 フランス大統領のキャラクターがなかなかよかった。極端で薄っぺらな悪党のような黒幕でも、悪党に操られるだけの無能な政治家でもない、ちゃんと理想を語る大統領が、こんなアクション・ムービーに出てくることの違和感を感じさせるくらいにはよく造型されたキャラクターだった。脚本も演出も演技も、それぞれにうまく働いたのだろう。

2016年5月18日水曜日

『ゲーム』 -デビッド・フィンチャーの力業

 随分以前に「日曜洋画劇場」だったか何かで途中から観始め、あれよと引き込まれて、観終えて感嘆のため息をつくというのは、岩井俊二を最初に観た『フライド・ドラゴンフィッシュ』の時と同じだった。観終えてから岩井俊二の名を知って、その後、過去の作品を漁ったり、それ以降の作品を追っかけたりと同様に、デビッド・フィンチャーの名前も後から知った。もしかしたら『エイリアン 3』の方が早かったかもしれないが、『セブン』よりも前だったのは確かだ。
 それ以降のデビッド・フィンチャー作品は、最新作以外は全て観ている。どれもはずれがない。
 だが見直そうと思って探すと『ゲーム』はTSUTAYAにない。版権を持っている会社が再版をしないから、あまり出回っていないらしいのだ。
 それで何年も、見たいと思いつつ時折探しては諦めていたところ、衛星放送で放映したのだった。ようやく。

 今回は娘と観たのだが、最初から観たのは始めてだったのだが、やっぱりよくできた映画だった。いちいち画面に力がある。
 展開も、次から次へと意外な出来事の連続で、不気味な雰囲気があり、疑心暗鬼あり、どんでん返しありで、同調していると感情が振り回される。
 オカルトなのか人為なのか、陰謀なのかゲームなのか、最後まで疑い、迷う。

 それでも、観終わって娘が不満を口にするのを否定もできない。やはりやり過ぎではないか、と。確かに率直に言ってそう言わざるをえない。ちゃんと計画されて、隅々まで配慮されていると本当に言えるのか? 不慮の展開にはならない保証があるのか? なおかつあれだけ大がかりで、あのくらいの「生まれ変わった」感が得られておしまいというのがゲームの報酬というのは納得できるのか?

 肝腎のそこについても充分な満足がほしいのはやまやまだが、とにもかくにも、怒濤の展開に繊細な演出、鮮烈な画作りと、デビッド・フィンチャーの力を確認することはできたのだった。

2016年5月15日日曜日

『メランコリア』 -「漠たる不安」の延長としての終末感

 「終末物」ということで名前を知っていた『メランコリア』をレンタルで。
 惑星「メランコリア」が地球に衝突することで生命が死に絶えるという、この間の『エンド・オブ・ザ・ワールド』と同様の、堂々たる「終末」を描く物語なのかと思っていた。つまり精神的な「終末」ではないのだろうと思って見たのだが、これがまたとびっきり「精神的」なのだった。大体、終末をもたらす惑星が「メランコリア」ってなんだよ。憂鬱が、鬱病、気鬱ぎが地球を滅ぼすのか。
 だがそうなのだった。どうやら「メランコリア」は地球に衝突するらしいのだが、それに対応する世間の対応は、ネットの情報がわずかに紹介されるだけで、人々が特別な振る舞いをしているような描写はない。主人公の周囲で、若干の食糧備蓄をする様子にふれる程度。
 そもそも映画全体が、舞台となる豪邸の周囲に出て行かない。その中で限られた関係者しか登場しない。
 だから、「終末物」に期待される、人気のなくなった街、とかいう風景は出てこない。
 それで、どうだったかというと、ずいぶんうまい映画だとは思ったが、好きにはなれなかった。描かれるのはひたすら主人公姉妹二人の「メランコリア」なのだった。第一部の妹・ジャスティンは最初から鬱病という設定らしく、しかもそれが何に由来するものか不明だし、第二部の姉・クレアは、一応「惑星メランコリア」による滅亡が不安の原因ではあるのだが、「惑星メランコリア」の存在はどうみても「不安」それ自体の象徴なのだから、やはりその由来は不明だ。
 とすると、とにかく映画全体がわけもわからずメランコリックでしかないのだった。それに対する周囲の苛立ちはたとえば(こんなところになぜ『24』のジャック・バウアーをもってくるのか謎だが)キーファー・サザーランドがうまく表現していて、そういう、人物を描く描写は至極真っ当な映画に見える。
 だが結局、それでどうなんだ、という気がしてしまうのだった。現代における漠たる不安を描いているのだ、とかいうのはありふれた文学のテーマだ。それを今更?
 なにがしかの希望が見えるか、郷愁としての「終末感」を描くか、というのがとりあえず筆者の求める「終末物」なのだった。

2016年5月8日日曜日

『ホワイトハウス・ダウン』 -不足のない娯楽大作

 ホワイトハウスを占拠するテロリストグループに、たまたま巻き込まれた警官が単身、闘いを挑む…と、どこかで聞いたような設定のハリウッド謹製娯楽大作。
 そのまんま『ダイ・ハード』じゃん、と思っていると、まあ似ていること。それでいいのか、ローランド・エメリッヒ。
 だがその面白さたるや、期待以上。次から次へと迫り来る危機と、それを小分けにして克服していく展開の連続。スリリングな展開に、娘と観ながら、思わず歓声をあげてしまう。さすがエメリッヒ。
 伏線の張り方も、節々に配置されたユーモアも、どんでん返しも見事だ。良い脚本だなあと思っていると、ジェームズ・ヴァンダービルトという脚本家は『閉ざされた森』『ゾディアック』というきわめて高評価の作品の脚本を担当している。なるほど。良い仕事をしている。
 文句のつけようのないほど面白い映画なのだが、結局『ダイ・ハード』がオールタイム・ベストテン作品であるようには、最高級の評価をするところまでにはいかない。
 主人公のチャニング・テイタムは、ブルース・ウィリスほどの深みのあるキャラクターではなかったし、悪役のジェームズ・ウッズも、アラン・リックマンほどの魅力はない。それは単に役者の力量というだけでなく、脚本と演出の問題だ。
 テイタム演ずる主人公ジョン・ケイルの行動原理が、「娘を守る」と「大統領を守る」という、わかりやすい単細胞な感じだったのに対し、ウィリス演ずるジョン・マクレーンは、警官という責務に誠実であろうとしつつ、それが動機だからこそ、巻き込まれた不運に「しょうがねえなあ」とぼやきながら闘っている感じが大人だった。
 ジェームズ・ウッズも、シリアスな動機でテロを起こすにしては、その主張が十分に主人公の正義と拮抗していないし(なんせ主人公の側も単細胞だから)、主張自体に無理がありすぎる。アラン・リックマンのクールな悪党の方が、健全な市民の職業意識として排除すべき充分な説得力のある敵役だ。
 まあそうした味わいはいわば「余録」ということで、全体としてよくできた、堂々たる娯楽大作として不足はない映画だった。

2016年5月5日木曜日

『エンド・オブ・ザ・ワールド』 -「終末」に誰と過ごすか

 一時期、「終末物」の映画を続けてみたいと思っていた時に『メランコリア』などという、文字通り憂鬱そうな人類滅亡映画のことを知ったが、その時にはこの映画のことはひっかかってこなかった。たぶんその時に見たブログらは、暗い雰囲気の映画を紹介していたのだろう。確かに『エンド・オブ・ザ・ワールド』のタッチは明るい。ウィキペディアの紹介では「SFロマンチック・コメディ」だ。
 それでも、主人公の車のフロントグラスに自殺者が降ってくるし、ヒッチハイクしたドライバーは殺し屋を雇って自分を殺させるし、街では暴動が起こっているし、「終末」感を出そうというお約束的描写はある。が、もうすぐ終末、という絶望感とか狂気とか、予想されるほどの(あるいは期待するほどの)暗さがないのは呆気ない感じだった。主人公が、それらの終末的バカ騒ぎに乗れない、生真面目な、あるいは醒めたキャラクターだというのは好意的に思えるのだが、周囲との落差がもうちょっと出ないとなあ、という不満はあった。
 それと、決定的な不満は、主人公二人が互いを「掛け替えのない存在」として認めるまでの期間が短かすぎるだろと感じられてしまうところだ。ここは本当に難しいところだと思う。ロード・ムービーとしては、旅の道連れが互いの存在に浸食し合うような過程が描かれるべきだし、描かれていると思う。それはむしろ、うまいとさえ思う。
 だが、そこにはもっと節度が必要のようにも思う。もう状況的に互いしかいないという状況で、とりあえず目の前の相手に対して誠実であろうとする、という努力のような形で二人が最後の時を過ごすように描いて欲しいと思ってしまった。あんなふうに唐突に相手を「最愛の人」と言ってしまうのは、安っぽい「吊り橋効果」なんじゃないか、と。
 映画の制作陣が『エターナル・サンシャイン』と重なっているというのだが、この印象はそういえば『エターナル・サンシャイン』のラストにも感じた。そこまではいいのだが、「愛こそすべて」みたいになってしまうラストが説得力には欠けて、がっかりしてしまう、という感じ。
 物語の核となる、二人の関係の描き方がこんな感じだったから、全面的に賞賛する気にはなれないでいたのだが、細かい設定を把握していない気もして、冒頭からとばしとばし、早送りも交えて見直してみると、印象はだいぶん違ってきた。良くできた脚本に、演出も案外巧みなのだった。
 映画としては、どうあがいても日本映画が敵わないようなハリウッド的制作態勢の賜物といったタイプの「映画力」があるわけではないが、一度目の時にも感じた、細かい伏線の張り方とか印象的なエピソードの作り方のうまさがあらためて感じられて、映画全体の印象はかなり肯定的になった。主人公のハーモニカを物語中の重要な場面にさりげなく配置して、その由来がわかったときに、ああそうかと思わせる、とか、家政婦の移民らしいおばさんや実直に仕事をする警官の登場、海岸で過ごす夢のようなひとときの描写とか、豊かな映画力に溢れた映画だったのだ。

 そういえば見直してみたとき、原題の『Seeking a Friend for the End of the World』が、冒頭近くの壁の貼り紙にさりげなく書かれていたのに初めて気づいた。やはり、これがテーマなのだ。そうだとすると、終末に家族と過ごすという絶対的肯定的選択肢以外の選択をわざわざする主人公二人の選択の必然性をどう納得させるか、という点についてのみ、配慮は認めるもののいささかの不満は残る。が、映画全体の印象はすこぶる良い。

 映画の中でかかるオールディズは素晴らしかった。ヒロインが「最初に買ったレコード」がエンド・ロールで流れるのだが、バカラックのロマンチックなメロディーが切ない。